
バターナッツ狂詩曲 第一節 「朔 私奏ノクターン―輪郭のない月に問う―」【創作大賞2026応募作】
【あらすじ】
愛とはどんなものだろう。
それは技術か、感情か。
それとも、人の夢が生む錯覚なのか。
ある新月の夜。
灯香は、ハクナ・マタタ王国の国家機密大臣・響一アマリの手紙に導かれ、レソトの峡谷奥に隠された“地図にない国”へ向かう。
この地は、魔法と生命の源である植物バターナッツを崇める独立王国だった。
だが今や、民はAI王女オフィーリアと、外部から来たテクノリバタリアンたちが管理するポッドの中で、「安全」と「幸福」の名のもとに眠らされている。
王子ハムレットだけは同期を拒み、孤独な荒野の夢で反逆していた。
オフィーリアに与えられた命令は、ただひとつ。
「ハムレット王子を愛せ」
宇宙か、大地か。
統治か、祈りか。
意志か、身体か。
選ぶ者は、何を差し出すのか。
※本作は、節ごとに異なる語り人が、この国の物語を語り継ぐ叙事詩であり、それぞれの声と楽器が響き合う狂詩曲でもあります。各章の冒頭では、その語り人を「奏者」として紹介します。
第一章 朔
私奏ノクターン
―輪郭のない月に問う―
奏者:灯香(ピアノ)
息子の部屋は、今もそのままだった。
机の上には、小さな汽車の模型と、途中で止まったジグソーパズル。二十歳の誕生日の朝、彼は一枚の書き置きを残して消えた。
――今まで、ありがとうございました。
これからは、もういいです。
その短い言葉が、家の時間を止めた。

扉を開けるたび、沈黙が私を見つめ返す。積み重なった静けさは、透明な埃のように、光の筋の中に浮かび上がる。
胸を締め付ける痛みの正体は、姿が見えないことへの寂しさではない。心が見えないことへの虚しさ……
私は……あの子を苦しめる存在だったのだろうか。何が愛で、どこまでが執着なのだろう。
書斎に積み重なる本は、すべて読み終えた。どの本にも――愛とは何か、執着とは何か、その理論は書かれていた。
だけど。
他でもない“あの子の心”は、どこにも書かれていなかった。
私はいま、答えのない闇のなかにいる。
この夜は、新月だった。
私は部屋を出て、屋上のルーフテラスに上がる。月は姿を隠し、空は“輪郭のない暗がり”だけを見せている。それでも私は、見えない月の縁を探して目を凝らした。
――もし、この新月の輪郭をこの目で捉えられたなら。
もう一度、愛のかたちに触れられるかもしれない。
*
階下の部屋で鳴ったインターフォンの音が、かすかに耳へ届いた。
夜空から視線を戻し、階段を降りる。玄関には郵便配達夫の姿。差し出された配達証明の封筒を受け取ると、署名を済ませた私を残して、彼は無言で去った。
「こんな時間に?」
封を切ると、一通の手紙と航空チケットが入っている。
厚手の光沢紙に浮かぶロゴ。端に「Bon Voyage」のやわらかな書体。指先に残る紙の重みは、冗談を許さない。
*
前略、灯香さん。
僕は、今まで君に嘘をついていました。
南アフリカ共和国の日本大使館に勤務しているわけではありません。
本当は、ハクナ・マタタ王国の国家機密大臣です。
突然で申し訳ないけれど、君にしか頼めないことができた。
どうか、同封の航空チケットを使って、すぐに来てください。
ヨハネスブルグ国際空港に、「バターナッツ模様の旗」を持った男が待っています。
合言葉は、「大地の」「テラス」。
事情は会ってから話します。
王宮で待っています。
響一アマリ
*
あまりにも、荒唐無稽……
思わず小さく笑ってしまう。けれど、笑いはすぐ喉の奥で止まった。
現実味は、紙の重さと細部の正確さに宿る。
NH721便、翌朝十時十五分、成田発ヨハネスブルグ行き。搭乗クラスはFirst、座席は1K。
胸の奥で、眠っていた何かが、かすかに身じろぎする。
冒険心――
そんな言葉を、私はどれくらい口にしていないだろう。
差出人は、響ちゃん。
出会いは、数年前のテレビ番組「バターナッツ料理王グランプリ」決勝だった。
私は滑らかなポタージュを「マザー」と名づけて出し、彼は薪火と鉄鍋だけで素朴なスープをつくり、「祈り」と呼んだ。
勝負は響ちゃんに軍配が上がったが、彼は私のスープをひと口飲むと静かに涙を流した。
それから私たちは、料理や世界情勢、哲学の断片をネットと手紙でやりとりするようになった。遠く離れていても、互いの孤独に触れられる距離があることを、私はそのとき初めて知ったのだ。
手紙を封筒に戻し、寝室に入る。時計はすでに二十二時を回っていた。飛行機の出発まで、あと十二時間……
理性は告げる――
「これは悪い冗談だ。本気なら、もっと余裕を持たせるはずだ」
しかし、別の声は囁く――
「よほど急を要しているからこそ、明朝の便なのだ」
行くべきか、行かざるべきか。二つの声が、短くぶつかり合う。
私はレコード棚から《ラ・カンパネラ》を取り出し、針を落とす。
微かなノイズのあと、艶やかな旋律が空気を震わせた。音は、言葉より先に、未来の輪郭を描く。
そこで誰かが私を待っている気がした。響ちゃんでも、リヒトでもない誰か……それとも、何か……

ベッドの端に腰かけ、響ちゃんの手紙をもう一度読む。
「合言葉は、『大地の』『テラス』」
たぶん、彼は私をよく知っている。私が“見えないもの”の輪郭を追い続ける人間だということを……
私は、出発を決めた。
クローゼットからスーツケースを引き出し、床に置いて開ける。留め金の金属音が、夜の静けさに小さく跳ねた。
まずは、必要最低限のものを重ね入れていく。パスポート、財布、譜面のコピー。
そこで、ふと手が止まった。遠い異国で、響ちゃんはどんな暮らしをしているだろう。
折り紙の小箱、味噌玉の小袋、七味唐辛子、鰹節のパウチ。旅に必須ではない。けれど、日本の匂いと手触りを、少しだけ持っていく。
そして、リヒトの写真を一枚。写真の中の彼はまだ小さかった。笑顔の輪郭は、私の記憶より確かだ。
荷物を整え、蓋を閉じる。カチリ、と音がして、金属が噛み合った。
スーツケースの側面ポケットから、堅牢な真田紐を取り出す。指先で繊維の密度を確かめ、十字に固く巻きつけ、早縄結びで締める。
旅支度の仕上げ――いつもの習慣。
だがこの紐が後に、思いもよらぬ場面で役に立つことになるとは、このときの私はまだ知らない。

―見えない光の地平へ
夜が明けるより少し前、機体が揺れた。
目を開けると、窓の向こうに灰色の雲が広がっている。東の端で、まだ弱い光が滲みはじめていた。
それは、夜の残り香のように淡く、頼りなく、それでも確かに“始まり”を告げていた。
パーサーが微笑みながら声をかける。
「まもなくヨハネスブルグ国際空港に到着いたします」
その響きが、夢と現の境をやさしく切り分けた。
窓の外では、地平線がゆっくりと反転する。雲の切れ間から現れた大地は、想像よりも赤く、乾いていた。
それは、焼き物の素地のような色で、光を受けるたびに深く息づく。
着陸の衝撃が、足もとから静かに伝わる。私はそこで、ようやく長い息をひとつ吐く。
――私は、大地の子。
ひととき空を渡ることはできても、本当に息ができるのは、地に触れているときだ。
ゲートを抜けた瞬間、熱を帯びた空気が頬を包む。人の声、アナウンス、そして香辛料と土の混じる匂い。世界が、別のリズムで呼吸している。
到着ロビーの片隅。
バターナッツ模様の旗を掲げた男が、目深に帽子をかぶって立っていた。私を見つけると、その男は――ダリ髭の下の口元を、いたずらっぽく緩めた。
「大地の?」と彼が言う。
「……テラス」と私が答える。
帽子が脱がれ、そこに現れた顔。
「ようこそ、バターナッツの故郷へ」
響ちゃんだった。
*
砂埃に覆われた古い四輪駆動車が、駐車場の片隅にぽつんと佇んでいる。
助手席に私を乗せると、響ちゃんはド派手な音でエンジンをかけた。車はうなりを上げ、乾いた大地を滑るように走り出す。
やがて響ちゃんは車を道端に寄せた。
「少し寄り道をしよう。喉が渇いた」
前方に、小さな土壁の家が見えた。藁葺きの屋根の下、入口のそばに白い布が風にはためいている。
「自家製のビールを売ってる合図だよ」

響ちゃんはそう言って車を降りた。乾いた土埃が足元で舞い上がる。家の中からは、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
ノックすると、年老いた女性が顔を出す。皺だらけの頬に、深い年月が刻まれていた。
言葉は通じなかったが、彼女はにっこりと笑い、私たちを中へ招き入れた。
室内は簡素だったが清潔で、ひとつのテーブルに小さな陶器の壺が置かれていた。
響ちゃんは深く頭を下げ、器を受け取り、一口だけビールを口に含む。私もすすめられ、恐る恐る味見した。
酸味と草のような香り。生きた酵母の味がした。
礼を言って立ち去ろうとしたとき、年老いた男性が奥から現れた。腕の中には、小さな赤ん坊がいる。
何も言わない。ただ、差し出すように、赤ん坊を私たちの前に抱き上げた。
託すような、静かな仕草。
私は息をのんだ。
この地域の平均寿命は短い――彼らは、一縷の希望を、この偶然に託していたのだ。
その意味が、じわりと胸に滲んでくる。
私はただ、そっと首を振った。響ちゃんも、悲しみをたたえた目で静かに頭を下げた。
老人はそれ以上何も言わなかった。赤ん坊をしっかりと抱き直し、曇ったガラスのような瞳で、私たちを見つめていた。その奥には、消えない光があった。
最後まで、声ひとつなく、彼らは私たちを見送った。
首を振ったのは、現実を知っている大人の私。赤子を抱きしめて連れ去りたかったのは、置き去りにされた母親の私……
車に戻っても、しばらくは二人とも無言だった。草原を渡る風の音だけが、かすかに車内に満ちていた。
「生きるってさ」
響ちゃんが、ぽつりと言った。
「選べない悲しみと、選び取る希望のあいだを、ただ歩いていくことなのかも」
私は答えられず、乾いた地平線を見つめていた。
*
どれくらい走ったのか、わからない。
砂塵の匂いが窓の隙間から入り、車体の細かな振動が骨に伝わる。長旅の疲れにまぶたが落ちる。
夢とも現ともつかぬ景色が、浅瀬の水みたいに意識の底を流れた。
バターナッツの蔓で編まれたブランコに、白いドレスの少女が揺れる。
大きな滝が、ただ落ちる。
渇いた土の上で、青年が叫ぶ。
どれも切れ切れで、私の過去のどこにも繋がらない。
肩をそっと揺すられて、目が覚めた。
まぶたを上げた瞬間、色彩に息をのむ。
王宮の外壁が、ティンガティンガの動物たちで踊っている。
ゾウ、キリン、ヒョウ、シマウマ、フラミンゴ。
塗り重ねられた絵具が光をはね返し、壁が生き物みたいに脈を打つ。
「どうだい? けっこうイケてるだろう」
響ちゃんが、少し得意げに胸を張る。
「もうひとつ見せたいものがある」
彼はハンドルを握り直し、王宮を背に走り出した。舗装が途切れ、地道に入る。車が跳ねるたび、身体がわずかに浮く。
バターナッツ畑が広がる。
黄金の実が風に鳴り、〈台地のテラス〉が現れる。
その向こう、ランタンに浮かぶ大きな白いテントが、ぽつりとある。そこだけが、静かな島のように明るい。
「今夜は、ここでグランピングだよ」
響ちゃんは笑った。

テントの奥で、かすかな羽音が一度だけ揺れた。
草原に設営された大型テントは、光を通す白布に包まれ、中はひと呼吸ぶん、声が高く反響した。
床には厚手のペルシャラグ。猫足のアンティークテーブルの木肌から、微かなオイルの匂いがする。銀のカトラリーと美しい食器が、きちんと並んで光った。
「さあ、召し上がれ」
響ちゃんが、最初の一品をそっと差し出す。
——こんなにも丁寧にもてなされるのは、久しぶりだ。
私は、ずっと“作る側”だった。だから、誰かが心を込めて作ってくれたものを受け取る。それだけで、胸が温かくなる。
スープは、トマトの赤。アボカドとほうれん草の緑。バターナッツの黄。
三色が湯気の向こうで並び、その取り合わせに見とれた。
響ちゃんは、バルサミコで小さな渦のしるしを描き、スプーンでくるり、と混ぜる。
「混ぜたほうが旨い。管理された美しさより、命が自由に踊るほうがいい」
三色は一瞬でほどけ、蜂蜜のような金色にまとまった。スプーンが器の縁に、かすかに触れた。
次に運ばれてきた前菜は、「オフィーリア」と名付けられていた。

ベビーリーフとフェンネルが、小川みたいに皿の上を流れている。その流れに、バターナッツのピュレが底光りのように宿る。
素揚げのアスパラガスが、細い影になって横たわる。
喉がきゅっと鳴った。
私はしばらく、言葉を失ってその皿を見つめた。
「……ミレイ?」
と尋ねると、響ちゃんは満足そうにうなずいた。
「この国には、いま、救わなければならないオフィーリアがいる」
その声が、ランタンの明るさで胸に染みた。
「オフィーリアを救う? オフィーリアって誰なの?」
響ちゃんはすぐには答えない。グラスの底を見つめ、ぽつりと言った。
「救わなきゃいけないのは、誰か遠い人だけじゃない。君の中にも、きっとある」
テントの布が、かすかに揺れた。響ちゃんは、その余韻を包むように黙っていた。
やがて顔を上げ、やさしく尋ねる。
「ところで、リヒトくんは……帰ってきたのかい?」
私はフォークを握りしめたまま、少しだけ目を伏せ、静かに首を振った。
「……帰ってきていない」
「そうか……」
響ちゃんは目を伏せ、しばらく視線を宙に漂わせた。静かな沈黙が流れる。
私は息を整えて口を開いた。
「リヒトっていう名前はね、ドイツ語で“光”って意味なの」
響ちゃんはまなざしをやわらかくして、そっとうなずいた。
「あの子が生まれたとき、ただ……自分の命を、まっすぐに輝かせてほしい。それだけを願って、つけた名前だったの」
そう言って微笑んでみせたけれど、その笑みはおそらくぎこちなかった。
「リヒト――光。それは、私が彼に贈った、最初の、いちばん小さくて、いちばん大きなプレゼント」
私は、小さな声でそう結んだ。
そう言いながら、心のどこかで思っていた。贈ったはずのその光を、いったい私は、どれほど守れたのだろう、と。
響ちゃんは静かに目を伏せ、そして顔を上げた。
低く、柔らかな声で詩を口ずさむ。
Licht der Liebe, mild und helle,
strahle stets auf unserm Pfad.
Wie der Morgenstern der Welle,
leuchte uns in dunkler Saat.
遠い昔の記憶を呼び覚ますような、やさしい響きだった。
私はそのドイツ語を、そっと日本語でなぞった。
「愛の光よ、やさしく明るく、いつも私たちの道を照らして。明けの明星のように、暗い種まきのなかにも、私たちを照らして」
ランタンの灯が、静かに揺れた。スプーンが器の縁で、かすかに鳴った。
私は、響ちゃんに打ち明けた。
「……最近ね、“微笑みうつ”って診断されたの」
「微笑みうつ?」
「外では明るく振る舞っていても、内側がじわじわ虚無に浸食される感じ」
響ちゃんは、私を見つめた。そして静かに言った。
「それなら、なおさら、君に、オフィーリアを救ってほしいんだ」
「私に、何ができるの?」
尋ねた私に、響ちゃんは小さく微笑んだ。
「わからない。ただ、バターナッツが君を呼んでいる気がして、僕は手紙を書いた。今は、これだけしか言えない」
響ちゃんは、そっとバイオリンをケースから取り出した。
細い銀の弓が弦を撫で、最初の一音が空気を震わせる。夜の草原に、かすかな波紋が広がる。

パガニーニ作曲、クライスラー編《ラ・カンパネラ》。
静かで、祈るような旋律だった。過剰な感情を押しつけることなく、ただそっと、心の奥に触れてくる。
バターナッツ畑を渡る風が、テントの布をかすかに揺らす。
遠くで、鳥の羽音がふわりと重なり、私は目を閉じた。
音楽は、言葉にならない感情の粒を、そっと撫でてくれる。
私は音に身を委ねた。乾いた大地に横たわるみたいに、心の重さを手放していく。
そして、久しぶりに、深い、やさしい眠りへ落ちていった。
第2節「バターナッツの儀」につづく