
恋愛小説 『君とこの秋見た月は』2
第2話:身代わりの約束
大広間に漂う香木の匂いと、
微かに耳をくすぐる庭園のししおどしの音。
出汁の効いたお椀の湯気が細く立ち上り、
竹細工の行灯が畳の上に柔らかい陰影を落としている。
「えらい豪華なお料理ですね……。
……こんなに贅沢させてもらって、なんだかすみません」
俺が恐縮しながら塗りの盃を置くと、
ユキは「お口に合って良かったです」と柔らかく目を細めた。
上品な藤色の着物、綺麗にまとめられた黒髪、
そして無駄のない洗練された所作。
しかし、こうして対面して話していると、時折覗く瞳の深くに、
昼間の混乱とはまた違う、どこか遠くを見つめるような
静かな陰りが混じっていることに気づく。
二杯目の日本酒を注いでくれたユキの手が、ふと立ち止まった。
「神谷さん」
「はい?」
「……大変勝手なお願いだということは、
重々承知していますが、実はお願いがあります。
昼間、あんな風にお礼がしたいと言ってお呼び立てしたのも、
本当は……
ただお食事をご馳走したかったからだけじゃないんです」
部屋の空気が、すっと張り詰めた。
庭の濡れ縁を叩く風が、すすきの穂を揺らす。
ユキは徳利をそっと畳の上に置くと、
膝の上で着物の帯締めをギュッと小さく握りしめた。
その白い指先が微かに震えている。
「実は……神谷さんを見た時、心臓が止まるかと思いました。
昼間のロープウェイ乗り場で、
人混みを分けて私の前に立ってくれたその瞬間……
私、息が止まりそうでした」
「息が……?」
「はい。神谷さんは、私の兄に……、慎一兄さんに、
あまりにもそっくりなのです」
修二は思わず言葉を失った。
ユキの瞳が真っ直ぐに俺を捉えている。
そこにあるのは、単なる感謝や好奇心ではない。
もっと切実で、胸を締め付けるような切望の光だった。
「お兄さん……ですか」
「はい。
慎一兄さんは、私と母違いの異母兄弟です。
私より八歳年上で……この旅館の長男として生まれました」
ユキは視線を濡れ縁の向こう、闇に浮かぶ庭園へと向けた。
静かなトーンで語られる言葉は、
老舗旅館『月白』の歴史と、
そこに秘められた哀しい過去を紐解いていく。
「慎一兄さんは、本当に繊細で優しい人で。
私が小さい頃、転んで泣いているといつも抱き起こしてくれて、
元町の坂道から見える海の綺麗さをポツポツと、
教えてくれるような人です。
優しすぎたのがいけなかったのか……
この老舗旅館の跡取りという重圧と、複雑な家庭環境の狭間で、
兄の心は少しずつ擦り切れてしまっていたようです」
老舗としての誇り、伝統を継承させるための厳しい躾、
そして父の後妻の娘であるユキへの複雑な感情。
兄である慎一は、誰にも本音を吐き出せないまま、
自分の居場所を見失っていったのだという。
「八年前の秋……ちょうど今みたいな。
満月が綺麗に輝く夜でした。
兄さんは突然、置紙ひとつを残してこの街から姿を消しました。
えぇ。……失踪したんです」
「八年前……」
「ええ。去る直前の夜、兄さんは私にこう言いました。
『ユキ、俺はしばらく遠くへ行く。だけど、いつか、
また秋の満月の夜に函館山の一番高い場所で、
お前と一緒に月を見る。
だから、それまで待っていてくれ』って」
ユキの声が、微かに掠れた。
庭の池に映る月影が、風によって細かく砕け散る。
「それから毎年、秋の満月の夜になると、私は函館山に
登り待っていました。
ロープウェイで山頂へ上がり、寒い風に吹かれながら、
来るはずもない兄を待ち続けました。
バカみたいですよね。
一年目も、三年目も、五年目も……
そしていつの間にか八年も経ってしまって……。
周りからは『もう諦めなさい』『慎一は戻ってこない』と
言われてはいるのですが……。
そして、自分でも、今年の秋を最後に、
もう待つのはやめようと、自分の心に区切りをつけようと
していたんです」
だからこそ、昼間の出会いはユキにとって奇跡であり、
同時に残酷な衝動だったのだ。
ロープウェイ乗り場の雑踏の中、
自分を救うために割って入ってきた男の顔が、声が、背格好が、
ずっと待ち続けた兄の面影と完璧に重なって見えたのだから。
「自分でも最低だと思います。
まったくの赤の他人の神谷さんに、
兄さんの影を重ねるなんて……
失礼極まりないことです。分かっています。でも……」
ユキは三つ指を立て、畳に深く額を擦り付けた。
藤色の着物の背中が、小さな呼吸と共に大きく上下している。
「神谷さん。
この週末……ちょうど今週の土曜日が、今年の秋の満月です。
どうか、その満月の日まで……
あと五日間だけ、私と一緒にいていただけませんか?
兄さんの代わりだなんて言いません。
ただ、私のそばで、この秋の函館を一緒に歩いてほしいんです。
満月の夜、函館山で月を見届けるまで……」
大広間に静寂が落ちた。
行灯の火がゆらゆらと揺れ、壁に二人の影を大きく映し出している。
修二は自分の胸に手を当てた。
内定が決まり、人生のレールが敷き詰められて退屈していた自分。
何者でもない空白の時間を埋めるために、
逃げるようにやってきたこの函館。
そんな自分を、
こんなにも切実な瞳で求めている女性が目の前にいる。
“……身代わり、か”
それが誰かの身代わりだと分かっていても、
ユキの瞳に宿る孤独と哀しみを見捨てることができない。
いや、それ以上に、一目見た時から俺自身が、
たぶん、この可憐で頑なな女性に強く惹かれていた。
修二は静かに息を吐き出し、膝の上の手に力を込めた。
「ユキさん、顔を上げてください」
ゆっくりと顔を上げたユキの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「俺は……その……慎一さんにはなれへんです。
彼の代わりに君の傷を埋めることも、たぶん……
いや、たった一週間じゃ無理やと思う。……でも」
修二はユキの目を真っ直ぐに見つめ返し、小さく微笑んだ。
「一週間やったら、俺の時間を全部ユキさんに差し上げます。
土曜日の満月の日まで、一緒に函館の街を巡りましょう。
そんで、一緒に函館山で月を見ましょう」
ユキの瞳から、ポロリと一粒の涙が頬を伝って落ちた。
「神谷さん……! ありがとうございます
……本当に、ありがとうございます……!」
何度も頭を下げるユキ。
その姿を見つめながら、修二は胸の奥に灯る小さな熱を感じていた。
身代わりとして始まった、たった一週間限りの関係。
秋の風が運ぶこの約束が、二人の運命をどれほど激しく、
そして切なく揺さぶることになるのか。
庭園の夜空を見上げると、まだ満月には満たない、
少し欠けた月が、雲の合間から澄んだ光を投げかけていた。
つづ