
恋愛小説 『君とこの秋見た月は』3
第3話:月を待つ街
満月までのカウントダウンが始まると同時に、
俺たちのどこか浮世離れした「五日間」が動き出した。
就職前のモラトリアムを持て余していた俺と、
老舗旅館の若女将としての重責と過去の影を背負ったユキ。
本来なら交わるはずのなかった二人の線が、
函館の秋の風の中で重なっていく。
日中、ユキのアルバイトや、旅館の女将修行の隙間を使って
俺たちは街へ連れ立った。
翌日の午後、訪れたのは元町エリアの異国情緒溢れる街並みだった。
旧函館区公会堂の鮮やかなブルーとイエローの木造建築が、
秋の澄み切った青空に高く映えている。
木造のテラスからは、穏やかに揺れる函館港が一望できた。
港を行き交う船が残す白い航跡と、
遠くに見える駒ヶ岳のシルエット。
冷たさを帯び始めた風がユキの結い上げた髪を乱し、
彼女は小さく笑いながらそれを耳にかけた。
「修二さん、歩くの早いですよー」
「あ、ごめんごめん。癖で」
「こちらこそごめんなさい。つい……。
大丈夫です。
……慎一兄さんは、いつも歩くのが遅かったんです。
道端の野花とか、古い建物の装飾とか、
そういうのをいちいち立ち止まって眺める人だったから」
ふとした瞬間にこぼれ落ちる「慎一兄さん」の名前。
そのたびに、
俺の胸の奥で小さな針がチクリと刺さるような痛みが走った。
“俺を見てるようで、
彼女が見てんのは背後に立つ兄の影なんやな……”
そして自分に言い聞かせる。俺はあくまで身代わりだ。
彼女が8年間の孤独に終止符を打つための、
一時的な「つなぎ」に過ぎないのだと。
そういう“約束”。
だが、金森赤レンガ倉庫を巡る頃には、
その割り切ったはずの感情に少しずつ亀裂が入り始めていた。
運河沿いに並ぶ重厚な赤レンガの壁。
かつて海運の拠点として栄えた倉庫群は、今では洒落たショップや
カフェが立ち並ぶ観光スポットになっている。
港から吹き付ける潮風を避けるように、
俺たちは運河にかかる七財橋の袂に立ち寄った。
「あ、修二さん、早く!
あそこのオルゴール堂、今、素敵な曲が流れてるんです!」
赤レンガの壁に反射する柔らかい午後の光の中で、
ユキは子供のように目を輝かせてガラス細工のショップを
覗き込んでいた。
昼間見せるその表情は、老舗旅館の完璧な仲居姿とも、
哀しげに過去を語る妹の顔とも違っていた。
どこにでもいる、等身大の二十代の少女の素顔だった。
「ユキさん、甘いもん好き?」
「え? ええ、まあ……好きですけど」
俺は近くのショップで温かい焼き立てのチーズタルトと、
湯気が立つホットコーヒーを二人分買い求めた。
ベンチに腰掛け、
ハフハフと息を吹きかけながらタルトを頬張るユキを
思わずじっと見つめていた。
「やっぱり、美味しい……!
地元だから、逆になかなか食べられないんですよね。
これ、こんなに濃厚だったなんて。
もっと早く食べればよかった……」
そう言って、じっとタルトを見るユキが愛おしく……。
「口の端、クリームついてるで」
「えっ! どこですか!?」
慌てて袖で拭おうとする彼女に、
俺は思わず吹き出してハンカチを差し出した。
照れたように頬を染め、
小刻みに肩を揺らして笑うユキのその笑顔は、
間違いなく「今、目の前にいる修二」に向けられたものだった。
「修二さんって、意外とお茶目ですよね。
最初はすっごくクールな都会の人だと思ってたのに」
「え、最初どんな風に見えてたんか……不安やなぁ。
一応聞くけど、それって褒めてるんよね?」
「褒めてます! 一緒にいて、すごく……心地いいです」
無邪気な言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねる。
身代わりだと分かっているのに、
彼女の小さな変化や愛らしい仕草の一つひとつに、
俺の心が大きく揺さぶられていくのを感じていた。
三日目の夜、俺たちは大森浜へ。
観光地の喧騒から離れた大森浜は、津軽海峡に面した広大な海岸だ。
夜の海岸線は暗闇に包まれ、遠く沖合に浮かぶ漁火の光が、
まるで漆黒の海に散りばめられた
宝石のようにチラチラと揺れていた。
ザザーン、ザザーンと、
重低音の波音が途切れることなく響く。
冷え込みは前日よりも厳しく、吐く息が白く染まり始めていた。
「寒いですね」
「上着、貸そうか?」
「いえ、大丈夫です。こうしていれば……」
そう言って、ユキはそっと俺のジャケットの袖口を掴んだ。
薄い生地越しに伝わるユキの手の温もり。
俺は小さく息をのんだが、
その手を振り払うことはできなかった。
それどころか、指を滑らせて、
彼女の華奢な手を包み込むように握りしめた。
ユキの身体がびくっと震えたが、
彼女は手を引こうとはしなかった。
ただ、じっと繋いだ手を見つめ、それから俺の顔を見上げた。
波打ち際を、二人で静かに歩く。
黒い海の上には、日に日に丸みを帯びていく月が浮かんでいた。
あと二日で、完全な満月になる。
「……修二さん」
「ん?」
「私……。よく考えたら、ひどいことをしていますよね。
怒ってますよね。ごめんなさい。
最初は、修二さんが慎一兄さんに似ていたから声をかけた。
兄さんの面影を追いかけたくて、
勝手な理由で引き止めたのに……」
ユキの歩みが止まった。繋いだ手にキュッと力がこもる。
「ここ何日かは、街を歩いている時も、
美味しいものを食べている時も……
私、兄さんのことを忘れてる瞬間があるんです」
「……え?」
「『修二さんはどんな本が好きなのだろう』とか、
『修二さんは神戸に帰ってどんな仕事をするんだろうか』
って……気がつくと、修二さん自身のことばかり考えていて。
兄さんの身代わりとして側にいてもらっているはずなのに、
私……修二さんのことばかり見ているんです」
夜風がユキの髪を吹き上げる。
漁火の仄かな光と月明かりに照らされた彼女の瞳は、
潤んで揺れていた。
そこにはもう、「生き別れた兄」の影はなく、まっすぐに、
目の前に立つ「神谷修二」という一人の男だけが映っていた。
胸の奥が痛いほど熱くなる。
自分の中で渦巻いていた「身代わりへの葛藤」が、
彼女のその一言で一気に崩れ去っていくのを感じた。
「ユキさん……」
俺は繋いだ手に力を込め、彼女を引き寄せるように一歩踏み出した。
「俺も……同じです。
最初はユキさんの悲しそうな顔見て、
放っておかれへんと思っただけやった。
でも、この数日で俺が見てきたんは、
旅館の若女将としてのユキさんでも、兄を待つ妹でもない。
……ユキさん、君自身やから」
波音が二人の会話を包み込む。
ユキは瞳を大きく見開き、
それから愛おしそうに俺の手を両手で包み直した。
「満月の日が来たら……この旅が終わっちゃったら、
修二さんは神戸に帰っちゃうんですよね」
「……ああ。うん。そうやね。
春からは仕事始まるし、
やっぱり、そういう約束やったもんね……」
「う、ん。そうです……よね」
消え入るようなユキの呟きが、夜の潮風に溶けていく。
「もっと早く出会えていたら良かった。
兄さんとの約束じゃなく……
もっと普通の形で、修二さんと出会いたかった」
ユキの絞り出した言葉に、
その切ない言葉に、俺は何も答えることができなかった。
二人を照らす月光は、
容赦なく「約束の満月」が近づいていることを告げていた。
この甘く切ない時間が、
あとわずかで終わりを迎えてしまうという現実を突きつけながら。
俺たちはそのまま、どちらからともなく寄り添い、
暗い海と月を見つめ続けた。
身代わりから始まった歪な関係は、函館の街の情景と共に、
確かな「初恋」のような熱を帯びて深まっていた。
そして
——「満月の土曜日」が近づいていた。
続く