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恋愛小説    『君とこの秋見た月は』4


    第4話:秋の残像


    土曜日。
    ついに、その日がやってきた。
    昼間の函館は、昨夜までの穏やかな秋晴れが嘘のように、
    冷たい北風が街を吹き抜けていた。
    元町の坂道に立ち並ぶナナカマドの赤い実が風に揺れ、
    津軽海峡の波頭が白く泡立っている。

    空はどこまでも澄み渡り、夕刻が近づくにつれて、
    雲ひとつない茜色のグラデーションが西の空を染め上げていった。


     「修二さん、今夜……十七時にロープウェイの山麓駅で
      待ち合わせましょう」


    朝、旅館の玄関で見送りに出てくれたユキは、
    いつも通りの上品な藤色の着物姿だった。
    しかし、その表情には緊張と、
    どこか決意を秘めたような硬さがあった。


      「分かった。山頂で待ってる」

      「……はい。
       ……あの、修二さん」

    立ち去ろうとした俺の手袖を、ユキが指先で軽く掴んだ。


     「今夜、満月を見たら……話したいことがあります。
      私……の今の気持ちを正直にお話ししたいです」

     「……はい」


    俺は努めて穏やかに微笑み、彼女の手を優しく握り返した。
    その言葉が、何を意味しているのか。
    この五日間で深まった二人の思いが、ただの「身代わり」を
    超えたものであると、ユキも確信しているのだと信じたかった。



    十七時過ぎ。
    夕闇が急速に街を包み込む中、
    俺は一足先に函館山頂の展望台に到着していた。

    「世界三大夜景」と称される函館山の山頂展望台は、
    押し寄せた観光客の群れで、
    足の踏み場もないほどの熱気に満ちていた。
    冷え込む夜風を遮るものもない標高三百三十四メートルの山頂。


    しかし、眼下に広がる景色は、息をのむほど美しかった。
    くびれた地形の両側に広がる津軽海峡と函館湾。
    漆黒の海に挟まれた街の灯りが、
    まるで宝石箱をひっくり返したように輝いている。

    宝石の海の上、東の夜空には、
    黄金色に輝く巨大な満月が静かに姿を現していた。
    完璧な真円を描く、澄み切った秋の月だ。

      「よかった……」


    俺はひとまず、満月が綺麗に見えていたことに安堵した。
    人混みの隙間に身を置き、
    俺は防寒着のポケットに両手を突っ込んで、
    息を白く吐き出しながらユキを待っていた。

    二十分、三十分……時間が過ぎていく。

    待ち合わせの場所には、
    ロープウェイが到着するたびに大勢の人々が吐き出されてくるが、
    ユキの姿はなかなか見当たらない。


     “遅いなぁ……仕事長引いてんのかな”


    携帯電話を取り出そうとした、その時だった。
    展望台の少し開けた一角、
    夜景と満月が最も美しく見える手すりの前に、
    見覚えのある藤色の着物姿が立っているのが見えた。


     「ユキさん……」


    声をかけようとして、俺の足がピタリと動かなくなった。
    息が止まり、
    胸の奥が冷たい刃物で突かれたような痛みに襲われる。
    ユキの隣に、一人の男が立っていた。

    黒いシンプルなコートを着た、痩せ型の男。
    その男がふっと振り返り、ユキに向かって微笑みかけた。
    風に揺れる前髪、鼻筋の通った横顔、少し下がり気味の眉——。


     “……俺だ”


    一瞬、自分の鏡像を見ているのかと錯覚するほどの既視感。
    いや、違う。俺じゃない。
    男の醸し出す繊細でどこか儚げな空気、
    ユキを見つめる愛おしそうな眼差し。
    慎一さんだ。
    八年間失踪していた、ユキの兄・慎一が、そこに立っていた。

     「……あ……」

    声にならぬ声が漏れた。
    同時にユキの表情が、俺の目にはっきりと映った。
    彼女は驚きに目を見開き、
    そして……ポロポロと涙を溢れさせながら、
    心底愛おしそうな、安心しきった満面の笑みを咲かせていた。


    八年間、ずっと待ち続けていた最愛の義兄との再会。
    その笑顔は、
    この五日間、俺の隣で見せてくれたどんな笑顔よりも、
    深くて、温かくて、眩しかった。


    慎一がそっと手を伸ばし、ユキの肩を抱き寄せる。
    ユキはその胸に顔を埋め、涙を拭っていた。
    二人の頭上には、燦然と輝く満月。
    そのあまりにも完璧な「家族の愛ある再会」の絵の中に、
    俺の入る隙間なんてどこにもなかった。


     “……そうか”


    すーっと、頭の中が冷えていく感覚があった。
    胸を刺す猛烈な切なさと共に、恐ろしいほどの納得が俺を支配した。
    ユキがこの五日間、俺に見せてくれた優しさも、
    大森浜で「修二さんのことばかり考えている」と
    言ってくれた言葉も、すべては、奇跡のように目の前に現れた
    「兄の面影」に対する愛おしさの延長だったのだ。


    彼女が本当に求めていたのは、俺という人間ではなく、
    この満月の夜に兄と再会するという物語そのものだったのだ。


     「俺の役目は……終わりやな」


    ポツリと溢れた独り言は、寒風にかき消された。
    俺は二人に背を向け、引き返そうとした。
    これ以上、あの美しい光景を見ていたら、
    自分が惨めで壊れてしまいそうだったからだ。


    ポケットを探ると、
    昼間買ったお土産のメモ帳とボールペンが入っていた。
    俺は震える手で、手すりの陰に身を隠しながら、
    短く言葉を書き走らせた。


     『慎一さん、やっと約束守ってくれましたね。
      約束の満月を見届けることができたので、
      僕はもう役目を終えたと思います。
      勝手ですが、これで失礼します。僕は神戸に帰ります。
      短い間でしたが、楽しかった。ありがとう。
      本当に楽しかった。      
                           神谷修二』



    書き終えたメモを折りたたみ、
    俺はふと近くにいた七歳くらいの男の子に目を留めた。
    親を探してウロウロしている小さな男の子だ。

     「ボク、ちょっとお願いあんねんけど」


    俺はしゃがみ込み、男の子にメモを手渡した。


     「あそこの着物着た綺麗な女の人に、この紙渡してくれる?
       『お兄さんとお幸せに』って言ってたで、って」

    男の子は不思議そうな顔をしながらも、
    メモを受け取って「うん」と頷いた。
    俺はポケットから千円札を取り出し、
    「これでジュースでも買ってね」と男の子の手に握らせると、
    二人のいる方へ男の子が歩き出すのを確認した。

    そして、一度も振り返ることなく、
    人混みを押し分けてロープウェイ乗り場へと走った。
    視界が、なぜか激しく滲んでいた。



    展望台を降りるロープウェイの窓から見えた函館の夜景は、
    涙でぐにゃりと歪み、山頂に浮かぶ満月だけが、
    俺の惨めな背中を冷たく照らし続けていた。



    そのまま山麓駅に着いた俺は、
    預けていた手荷物をコインロッカーから引き出すと、
    タクシーを拾って函館空港へと向かった。


    神戸へ戻る最終便の機内に乗り込み、
    滑走路を飛び立つ窓から見下ろした函館の街の灯りは、
    まるで最初から幻だったかのように、
    遠く、小さく消えていった。

    つづく



     
     
    お元気ですか。とらヴェるそssです。 noteで小説書いてます。(音、声の作品多め) オールジャンル、更新日時決めてません。 “優しさを根底に”を心がけています。 時々無駄話。エッセイ。 TALESは、色々応募用です。 よろしくお願いします。

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