
暗黙の了解が煩わしい
人間関係における、暗黙の了解が苦手だ。
子どもの頃は常に疑問だった。
どうして、他のグループの子と仲良くしちゃいけないのか。
どうして、仲間外れにするのか。
どうして、その子と話しちゃいけないのか。
どうして、ひとりでいちゃいけないのか。
子どもにすら存在する暗黙の了解を、私はわかっているようでわからなかった。
故に私は、友人がかなり少なかったし、
誤解を生みやすいタイプだった。
そのとき仲良くしたい人といたいし、
嫌なものは嫌だ。
そういった、私の中では理屈が通っていることでも、周りからしたらおかしなことだったらしい。
大人になっても、人間関係のそういった見えない壁や囲いは存在し続けているし、より複雑になった。
『この人と仲良くなりたい』
それだけの純粋な感情を押し通すのは、
難しいことになった。
『自分の気持ちを大切に!』と言いながら、本来あるはずのないルールに、私たちは囚われ続けている。
この暗黙の了解とは、配慮なのか、
自分以外の世界を円滑に保つためのルールなのか。
未だにわからずにいる。
例えば相手の立場を思って連絡を控えれば、
ドライだと言われるし、
近づきすぎれば、相手の背景を考えて行動してと言われる。
配慮・遠慮しているのは、一体誰の為なのだろうか。
本当に私たちは、自分の意思で選択できているのだろうか?
違和感を置き去りにして、
なんとなくうっすら居心地の悪さを感じながら、
自分達とは違うと決めたものを排除しながら、
気づかれないくらいの嫌らしい否定をしながら、
すぐに切れてしまう薄っぺらい仲間意識で、ギリギリ繋がりながら、私たちは生きている。
『価値観が同じ』と勘違いしたままの集まりの中で生きることが、本当に幸せなのだろうか。
私自身が、この暗黙の了解を本当に理解できる日はこないと思うし、理解できなくていいと思っている。
くだらないルールに縛られる、それで振るわれるくらいの人間関係なんて、いずれ簡単に壊れてしまうものだ。