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大歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大歌(おおうた)は、古代日本の宮廷において、節会などの公儀に用いられた歌謡である。舞を伴うものもあり、大嘗祭・新嘗祭後の豊明節会や五節舞、大歌所、古代歌謡資料である『琴歌譜』、および『古今和歌集』巻20の「大歌所御歌」と関係する。『国史大辞典』では、記紀に曲名または場面を示して載せられた歌謡の大部分を第一次の大歌とし、『琴歌譜』を第二次の大歌の大要を示す資料と位置づけている[1]。

大歌は、時代によって意味や用法に変化があった。古代宮廷の儀礼・饗宴において奏された歌謡である一方、後世には、五節舞に関わる歌や、五節舞そのものを指して「大歌」と称する例も生じた。

名称と定義

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「大歌」は、宮廷の公的儀礼に用いられる歌謡を指す語である。大歌所では、催馬楽・神楽歌などを含む大歌が扱われ、歌唱や和琴などの教習も行われた[1]。

大歌と対になる語として、小歌がある。『国史大辞典』は、『琴歌譜』の「短埴安ぶり」が11月の五節の小歌であったことを述べたうえで、『西宮記』以後には、男性歌手である大歌人の歌笛に、女官の小歌が相和するという形へ、大歌・小歌の意味が転じているようであると説明している[1]。

古代宮廷儀礼における大歌

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古代日本において、大歌は宮廷の儀礼・饗宴において奏された歌謡である。『続日本紀』天応元年(781年)11月己巳条には、大嘗の宴において雅楽寮の楽と大歌が奏されたことが見える[1]。このように大歌は、宮廷儀礼における音楽・歌舞の一部として用いられた。

また、仁寿元年(851年)の大嘗祭について、『日本文徳天皇実録』10月甲午条には、大歌・五節舞が旧儀のように奏されたことが見える[1]。この記録は、大歌が五節舞とともに大嘗祭関係の儀礼に用いられていたことを示すものとして重要である。

『琴歌譜』との関係

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『琴歌譜』は、日本固有の「こと」の伴奏による歌の詞章と簡単な記譜を載せる最古の資料である。編者は未詳で、全1巻からなる。現存本は、天元4年(981年)10月21日に多安家が大歌師前丹波掾多安樹から借りて書写した旨の奥書をもつ近衛家伝来本であり、陽明文庫に所蔵され、重要文化財に指定されている[2]。

『琴歌譜』の原本の成立年代は明らかでないが、仮名の用法などから貞観年間(859年 - 877年)以前の成立と考えられている[2]。同書は、同曲異歌・異曲同歌を含めて22首、曲数としては19曲を収める。曲名には「歌」または「扶理・振」の語を含むものが多い[2]。

『国史大辞典』では、『琴歌譜』を第二次の大歌の大要を見るべき資料としている[1]。また、『琴歌譜』に収められた歌謡のうち、記紀歌謡・神楽歌・催馬楽などと共通する9首を除けば、他書に見られない独自の古代歌謡を収録しているとされる[2]。そのため、『琴歌譜』は、大歌の古態や古代宮廷歌謡の性格を知るうえで重要な資料である。

大歌所との関係

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大歌所は令外官の一つで、大歌すなわち催馬楽・神楽歌などを掌った官司である。長官は別当と称され、その下に十生、案主、琴師、和琴師、笛師、歌師などが置かれ、大歌の教授にあたった。また、大歌の曲調を作ることも大歌所の職掌であったらしい[1]。

大歌所の成立時期は明らかでないが、『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)11月己卯条には、興世書主が和琴をよくしたため、弘仁7年(816年)に大歌所別当に任じられたとある。このことから、平安時代初めには大歌所が置かれていたとみられ、さらに『万葉集』巻6に見える歌倶所がその前身ともみられる[1]。

『西宮記』によれば、大歌所は平安京の大内裏において、図書寮の東、上西門の内にあったとされる[1]。10世紀以後には、長官である別当に納言以上の者が補されるようになった。

大歌所御歌

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「大歌所御歌」は、『古今和歌集』巻20の部立の名称であり、同巻に収められた大歌の類を指す[1]。

『国史大辞典』では、大歌所御歌について、貞観初めに撰定された姿を示すものと推定されると説明している。その内容は「神あそびの歌」を中心とし、大嘗の祭儀歌謡が多く、一時代前の倭舞の歌や東歌も含まれる。また、東遊の歌、神楽歌、催馬楽、風俗の四譜が分かれようとする過程がうかがわれるとされる[1]。

このように、大歌所御歌は、大歌から後の国風歌舞・神楽歌・催馬楽・風俗歌謡などへ分化していく過程を考えるうえで重要な資料である。

演奏形態

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『雅楽事典』では、大歌を五節舞を伴って大嘗会に奏される歌舞曲と説明している。同書によれば、大歌は参音声、音取、歌からなり、音取は横笛と篳篥の合奏による[3]。

歌方は、拍子、和琴、横笛、篳篥、付歌若干名から構成される。歌では、句頭を拍子が独唱し、付所から斉唱となり、横笛と篳篥が付奏するとされる[3]。

『雅楽事典』の概説では、雅楽の歌曲のうち舞を伴うものを「歌舞曲」として説明しており、大歌項でも大歌は五節舞を伴う歌舞曲と位置づけられている[4][3]。

五節舞・豊明節会との関係

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大正天皇の大礼に際して披露された五節舞

大歌は、五節舞とも深く関係した。『雅楽事典』では、大歌を五節舞を伴い大嘗会に奏される歌舞曲と説明している[3]。近現代の公演例でも、五節舞は男声斉唱による大歌の歌詞に合わせ、舞姫が檜扇を掲げるなどして舞う国風歌舞として説明されている[5]。

『琴歌譜』に見える「短埴安ぶり」は、11月の五節の小歌であったとされる[1]。『国史大辞典』では、『西宮記』以後、男性歌手である大歌人の歌笛に女官の小歌が相和する形へ、大歌・小歌の意味が転じているようであると説明している[1]。このことから、大歌と五節舞の関係は、単に舞の伴奏歌にとどまらず、古代歌謡資料としての『琴歌譜』や、宮廷儀礼における歌舞の変遷とも結びついている。

豊明節会は、大嘗祭のあとに行われる節会の饗宴であり、大正以降は大饗の儀として行われている[6]。平成の大饗の儀では、食後に五節舞・久米舞などが披露され、2018年3月には国立劇場の雅楽公演「国風歌舞」で、五節舞・久米舞が舞台用演出により一般公開された[5]。大歌は、こうした宮廷の饗宴儀礼・歌舞の中で用いられた歌謡であった。

伝承と語義の変化

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古代より大歌は、宮廷儀礼の歌謡として始まり、大歌所の制度や『琴歌譜』に見える琴歌、大歌所御歌などを通じて伝えられた。しかし、時代が下るにつれて、その意味は変化した。

『国史大辞典』は、『琴歌譜』の「短埴安ぶり」が11月の五節の小歌であったのに対し、『西宮記』以下では、男性歌手である大歌人の歌笛に小歌の女官が相和するように、大歌・小歌の意味が転じているようであると説明している[1]。

近世以降の五節舞や大歌の呼称・伝承については、古代宮廷歌謡としての大歌、大歌所に関わる用法、五節舞に伴う歌舞曲としての用法を区別して説明する必要がある。

研究上の位置づけ

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大歌は、古代宮廷儀礼の音楽・歌舞を考えるうえで重要な語である。記紀歌謡、『琴歌譜』、『古今和歌集』巻20の大歌所御歌、大歌所、五節舞、豊明節会などの資料・制度にまたがるため、文学史・音楽史・儀礼史の複数の観点から扱われる。

『国史大辞典』では、記紀歌謡の大部分を第一次の大歌とみなし、『琴歌譜』を第二次の大歌の大要を見る資料と位置づけている[1]。また、大歌所御歌は、東遊の歌、神楽歌、催馬楽、風俗の四譜が分かれようとする過程を示すものとされる[1]。このため、大歌は、古代の宮廷歌謡が後の国風歌舞・神楽歌・催馬楽などへ分化していく過程を検討するうえで重要な項目である。

脚注

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参考文献

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  • 『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1980年。ISBN 978-4-642-00502-9。 
  • 『国史大辞典 第4巻』吉川弘文館、1984年。ISBN 978-4-642-00504-3。 
  • 『雅楽事典』音楽之友社、1989年。ISBN 4-276-00080-7。 
  • 鎌田, 純一『即位禮・大嘗祭 平成大禮要話』錦正社、2003年。ISBN 4-7646-0262-8。 

関連項目

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