【関ヶ原①】前田利家の存在とナッシュ均衡
※「歴史をゲーム理論で読み解く」試みです。
今回は前田利家の死の翌日に起きた三成襲撃事件を題材に、なぜ事件が翌日に起きたのかを考察します
1.事件は死の翌日に起きた
関ヶ原の戦いの1年以上前の出来事です。
豊臣家の武断派が石田三成を襲撃した事件──これは、前田利家の死の翌日に起きました。
なぜ事件は翌日に起きたのでしょうか。
事件概要(下表)を見ると、三成は敵討ちの対象ではありません。利家は病死とされており、武断派による事件の動機とは無関係です。偶然だったのか、それとも必然だったのか。
なお、事件の3ヶ月前には、徳川と前田を中心とした大規模な武力衝突が起きていました。
2つの事件に関係はあるのか。そして、関ヶ原とのつながりは──。
これらの背景には、豊臣政権内の対立と、利家の存在の大きさがありました。
<石田三成襲撃事件>

<時系列>

2.豊臣政権の対立構造
(1) 家康・三成・武断派の関係
秀吉死後の政権内では、水面下で複数の対立が進行していました。
最大の実力者・徳川家康は、実権拡大と新たな秩序の構築を目指し、私的婚姻や大名への加増を強引に進めます。これは秀吉の遺言に反する行動です。身勝手な権力行使は、秩序を重んじる豊臣忠義の者にとっては看過できないものでした。
その家康の専横を阻む存在にあったのは石田三成です。卓越した行政能力で豊臣政権の財政基盤を支え、法の番人として規律を徹底。しかし、朝鮮出兵後、最前線で戦った武将に対し、三成ら査定側は「臆病」と報告。長きにわたり過酷な戦いを強いられながら──不当な査定で秀吉からの処罰を受けた加藤清正・福島正則ら武断派の者達には、やり場のない怒りと三成への深い憎悪がありました。
このように、家康と三成は政治的な対立関係にあり、武断派は三成に対する強い反発心を持っていました。
<関係図>

<各人物の立ち位置>

(2) 前田利家の政権内の役割と人望
前田利家は、豊臣政権内でどのような存在だったのでしょうか。
秀吉の死後、政治の実務は家康、豊臣秀頼の身辺は利家が担います。家康は私的な婚姻関係によって「実」の味方を増やしたのに対し、利家は「秀吉との旧交」や「秀頼への忠義」という「義」を重んじるなど、実力を備えながらも豊臣政権を支える正統派の存在にありました。
<家康と利家の比較>

また、利家は秀頼の御守り役を任されるほど、秀吉から絶大な信頼を得ています。石高や軍事力では家康に劣りますが、人望では決して引けを取らなかったと言えそうです。
<利家に対する各武将の評価>

(注)評価の出典が軍記物(江戸時代作成)によるものは、信憑性を星2に記載。
なお、利家の政治的立場は三成と共通しています。表立った協力関係や個人的な親密さがあったかは定かではありませんが、私利私欲を排して秀吉の遺した秩序を守ろうとした姿勢は同じです。三成は法と理論、利家は伝統と人望によって、それぞれ「豊臣家を守る」という目的を持ちました。
<三成と利家の比較>

(3)秀吉の遺命と豊臣家の分断
ここで、豊臣家を守ることは、豊臣政権における「法」──すなわち秀吉の遺命を守ることと同義です。本来、この遺命は秀頼が成人するまでの「豊臣公儀」を維持するための基本法でありながら、政権内は、法を形骸化させて実権を握ろうとする家康と、それを専横として許さない三成らに二分されてしまいます。家康が進めた無断婚姻などのルール違反は、政権内の対立を決定づけました。
そして利家は、秀吉の遺命を背負う正統派として、家康の行動に強い制約を与え、政権内の均衡を支える存在にありました。
<豊臣政権における法の役割等>

3.利家が支えた「均衡状態」
(1)家康と利家を中心とした武力衝突
利家の死の約3ヶ月前──豊臣政権内の対立の構図が分かる事件が起きました。
きっかけは家康の無断での私的婚姻。秀吉の遺命違反にあたり、他の豊臣武将らはこれを追求。家康は弁明するも3万の軍勢で伏見の自邸を固めたことから緊張が走り、徳川・前田のそれぞれの邸宅に全国の兵力が集まりました。
注目すべきはその規模です。当時の史料では関ヶ原の戦いに匹敵する規模(20万以上)が集まったとされています。これはただの政治論争ではなく、全国を二分する軍事的緊張を伴ったものでした。
<軍事的対立の概要>

最終的には戦闘に発展しないまま和解しましたが、家康は政治的・軍事的に不利な状況を認め、譲歩を余儀なくされました。家康が折れた構図であり、実質的な敗北と見ても過言ではありません。利家の勧めを受け入れる形で表面上の恭順を示しており、利家のいる限り武力行使は分が悪いという状況が窺えます。
この出来事は、利家の存在の大きさを表しています。秀吉から託された正当性と武断派からも慕われる人望──それによって家康を正面から抑え込める唯一の存在であったことがわかります。これだけの諸大名を動員・統制できるのは利家しかいませんでした。
(2)ゲーム理論で見る均衡状態
この一触即発の状態には、ある構造が見られます。そして、各登場人物の行動は、利家の死の前後で合理的なものであったことがわかります。
利家の生存中の対立関係を整理すると以下の通りです。
各勢力は実力行使を望みながらも、利家が存命の間は動けない
・家康 :利家らに止められるため、決定的な武力行使に踏み切れない
・武断派:三成への武力攻撃を実行しない
<関係図(利家あり)>

ゲーム理論を用いて言い換えると、
「利家の存命中、豊臣政権ではナッシュ均衡が保たれていた」
ということになります。
・ナッシュ均衡とは、相手の行動が変わらない限り、自分一人だけが別の行動を取っても状況が改善しない安定状態のこと。
・言い換えると、相手の出方を変えられない前提で、「自分一人が裏切ったり、違う行動を取ったりすると、今よりも悪い結果になる」という状態。
・これは必ずしも全員にとって最高の結果とは限らない(不本意ながら安定している場合もある)。
ナッシュ均衡は、組織の人間関係の対立の構図から、一歩間違えれば核戦争に至るキューバ危機のような極限の抑止まで、社会の様々な「バランス」を説明する概念です。
<ナッシュ均衡の具体例>

(3)利家の生存・死後で見る行動の合理性
①各プレイヤーの利得表
利家の例では、各プレイヤーは「利家がいる間は動けない。いなくなってから動く」という制約に沿って最大限合理的に行動しています。
各プレイヤーが「動く」か「待つ」かを、利家の生存・死後で比較すると以下の表になります。利家の生存中は、誰にとっても「待つ」が最適解ですが、利家の死後は「動く」が正解となります。
<各プレイヤーの利得表:利家生存中vs死後>

②本当に待ったのか(史実の解釈)
ここで推測にはなりますが、武断派達の動きには計画性を感じます。
まず、死の翌日に武断派の7人が揃って襲撃していることから、示し合わせたものと思われます。利家の死期を見越して準備していたことになります。つまり武断派達は「利家がいる間は動けない(動かない)」という均衡を理解していたと考えられます。(利家の健康の衰えは周知の事実だったようです(下表参照))
家康も同様に、「今は譲歩して待つ」が最適解だと判断していた──。とすると、和解後の家康による利家への見舞いには、史実としての深さが感じられます。
そして、三成襲撃事件は利家の死後に起きました。翌日という事実から、武断派の恨みが深く蓄積しながらも、利家の抑えが強く機能していたことが窺えます。それだけ利家の存在が大きかったということになります。
<利家の死の直前の状況>

4.事件はなぜ翌日に起きたのか
利家がいなくなることで豊臣政権内の世界が変わりました。三成襲撃事件以降も対立を示す事件が相次ぎ、豊臣政権内の均衡は完全に崩壊。家康が主導権を握りながら、関ヶ原の戦いへと突入していく流れが決定的になりました。利家不在の世界が、利家のすごさを表しています。
<利家の生存中と死後の比較>

事件はなぜ翌日に起きたのか──。
対立関係の火種や圧力はかねてから存在していた──にも関わらず均衡していたのは、物理的な制約もさることながら、武断派の者にも利家への深い敬意や配慮があったものと思われます。
派閥を超えて一目置かれた。圧倒的な武勇。秀吉との特別な信頼関係。絶大な人望。
その全てがこの史実に集約する。
最強だから翌日に起きたのか。それとも翌日に起きたことが最強を示すのか。