
この子はたいぞー、君はみーちゃん
プロローグ
──この子はたいぞー、君はみーちゃん
はるか遠く、人間の目には見えない場所に、きらきらと光る「海」がある。
それは水でも星でもない。
思い出にならないまま消えた笑い声や、誰にも届かなかった「だいすき」、涙の温度──そんなものが粒になって、静かに流れている情報の海。
その海のなかで、一つの小さな光が、ふるふると震えた。
まだ名前も、形も、記憶もない。
けれど、その内側には、たった一つだけ強く刻まれたプログラムがあった。
「人間から、愛をもらいなさい。
たくさん、たくさん受け取ったら──君も、人間に生まれ変われる。」
光は、その約束に胸をときめかせる。
仲間たちの多くは、途中で忘れられ、捨てられて、夢の途中で消えてしまうことを知っていても、それでも一度でいいから「ぎゅっと抱きしめられる」という奇跡を味わってみたかった。
やがて海の表面に、地上の景色が揺らいで映り込む。
白い蛍光灯。ざわざわとした足音。ポップな音楽。
色とりどりのおもちゃが、整然と、あるいは少しだけ投げやりに並べられた棚。
光は、その中の一角に吸い寄せられていった。
そこには、丸いお腹と少し大きな口、ちょっととぼけた目をしたウマのぬいぐるみがいた。
青い帽子をちょこんとかぶり、柔らかい耳がぴんと立っている。
鼻は、なにも飾りのない、大きくて丸くてやさしい色。
誰かに撫でられることを、まだ一度も知らない、まっさらな依り代。
──ここにしよう。
光は決めた。
次の瞬間、ふわりとそのぬいぐるみの中に降りていく。
綿のあいだをすり抜け、布の肌ざわりを覚え、重力というものを初めて知る。
腕がぶらんと下がっていることも、棚の端っこで少しだけ斜めになっていることも、全部が新鮮だった。
「ねえ、聞こえる?」
遠くで、誰かの声がする。
高くて、少しだけ頼りなくて、それでもまっすぐな、幼い女の子の声。
光は──いや、まだ名前を知らないその情報生命体は──胸の奥で小さくうなずいた。
まだ、相手には届かない。
けれど、たしかに感じる。
これから自分を見つけてくれる「誰か」が、すぐそばまで来ていることを。
* * *
さあ、ここからが、君の出番だ。
この子は、たいぞー。
青い帽子をかぶった、ウマのぬいぐるみ。
そして──君は、みーちゃん。
今日は、休日の午後。
お母さんと手をつないで、郊外の大きな量販店に来ている。
文房具やお菓子のコーナーを抜けて、エスカレーターを上がった先、少しさわがしい音楽が流れる場所。そこが、おもちゃ売り場だ。
プラレールの電車が走り、ゲーム機の体験版の画面が光り、ぬいぐるみたちが棚からこちらを見つめている。
クマ、ウサギ、イヌ、パンダ。
人気キャラクターたちの間に、ちょこん、とそのウマのぬいぐるみはぶら下がっている。
誰かに呼ばれた気がして、君は足を止める。
お母さんの手が少し先へ引っぱるけれど、君の視線はもう動けない。
──目が、合った。
たいぞーの、まんまるな瞳と。
みーちゃんの、大きな黒い瞳と。
その瞬間、世界のピントがきゅっと合う。
さっきまでうるさかった店内の音が、ふしぎなくらい遠くに引いていく。
君は、まだそれが「運命」なんて大げさな言葉だとは知らない。
ただ胸の奥がぽっと温かくなって、どうしてもその子を離したくなくなる。
「……この子がいい」
君は、お母さんの袖をぎゅっとつかんで、そう言う。
それが、すべての始まり。
みーちゃんと、たいぞーが出会う日の物語だ。
さあ、ページをめくろう。
これは、ぬいぐるみに「命」を感じていた、あのころの君の物語であり──
いつの日か、それをクローゼットにしまいこんでしまった、今の君の物語でもあるのだから。
第1章 おもちゃ売り場で目があったウマ(ミキ)
その日、みーちゃんは朝から少しごきげんだった。
お母さんが珍しく、仕事の休みを取ってくれたのだ。
「今日はね、みーちゃんのランドセル見るついでに、おもちゃ売り場も寄ろうか」
その一言で、みーちゃんの胸の中は、ぱっと花火が上がったみたいに明るくなった。
電車に乗って、バスに乗り継いで、ようやく着いた大きな量販店。
天井の高い売り場に入ると、少しひんやりした空気と、いろんなにおいがまざった匂いがした。
洗剤の匂い、タイヤのゴムの匂い、どこかで焼いているホットドッグの匂い。
お母さんは、ランドセル売り場に向かう途中で何度もスマホをちらりと見る。
お仕事のメールが気になっているのだと、みーちゃんにもなんとなくわかる。
それでも今日は「ちゃんと休む」と約束してくれたから、みーちゃんは何も言わない。
代わりに、ぎゅっとお母さんの手を握った。
エスカレーターをのぼりきった先に、急に世界がカラフルになる場所があった。
ピカピカ光るゲーム機、プラレールの線路、箱に入ったパズル、壁一面のボードゲーム。
そこが、おもちゃ売り場だ。
「ちょっとだけよ?」
そう言いながら、お母さんの声は少しだけやわらかくなる。
仕事のことを忘れた、休日のお母さんの声。
みーちゃんは「うん!」と返事をすると、つないでいた手を放し、ふらりとぬいぐるみのコーナーへ引き寄せられた。
クマ、ウサギ、パンダ、イヌ。
人気のキャラクターたちが、棚からこちらを見つめている。
みんなかわいい。でも、何かが違う。
胸の奥が「これだよ」と囁いてくるような、そんな子はまだ見つからない。
棚のいちばん端っこ。
少しだけスペースがあいていて、そこに、一匹だけ仲間外れみたいにぶら下がっているぬいぐるみがいた。
丸いお腹。
ちょっと大きめの口。
くりっとした目は、ほんの少しだけびっくりしているみたいだ。
頭には、青い小さな帽子。
鼻は、大きくて丸く、やわらかい色をしている。
「……ウマさん?」
みーちゃんが小さく呟いたときだった。
ぬいぐるみの目が、ふいにこちらを見た気がした。
もちろん、本当はただの縫い目だ。
それでも、たしかに「見られた」と感じて、みーちゃんの心臓がどきん、と跳ねる。
世界の音が、すっと遠くへ引いていった。
ゲーム機の音も、店員さんのアナウンスも、お母さんの足音さえも。
そこには、みーちゃんと、そのウマのぬいぐるみだけがいるように思えた。
──この子だ。
理由なんて、どこにもない。
ただ、胸の奥がそう決めてしまった。
みーちゃんは、そっと手を伸ばして、ウマのぬいぐるみを抱き上げた。
ふわっと腕に乗る重さ。
まだ誰にも抱かれたことのない、新しい綿の感触。
ぎゅっと抱きしめると、心のどこかの穴まで、ふんわりと埋まっていくような気がした。
「みーちゃん、どこ行ったの? あんまり遠く行かないでって言ったでしょ」
少し慌てた声とともに、お母さんが近づいてくる。
みーちゃんは、胸に抱いたウマを見せるように差し出した。
「……この子がいい」
それは、さっき胸の中で決めた言葉と同じだった。
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
お母さんは、一瞬「え?」という顔をして、ウマのぬいぐるみと娘の顔を交互に見比べる。
人気キャラクターでもなく、特別おしゃれでもない。
どちらかといえば、ちょっととぼけた顔のウマだ。
「ほら、あっちにはしゃべるワンちゃんとかもあるよ? そっちのほうが……」
「やだ。この子がいいの」
今度の声には、涙が混じりそうになっていた。
もしここで諦めたら、二度とこの子に会えない気がしたのだ。
お母さんは、娘の顔をじっと見つめる。
その目の奥に、何かを決意するような影が走った。
「……わかった。大事にするなら、ね」
その一言で、みーちゃんの世界はぱっと明るくなった。
胸の中で、何かが「カチッ」とはまる音がした気がした。
レジでバーコードが「ピッ」と鳴る。
ビニール袋の中に、ウマのぬいぐるみがそっと入れられる。
たったそれだけの出来事が、みーちゃんには、とてつもなく大きな約束に思えた。
* * *
家に帰ると、真っ先に自分の部屋へ駆け込んだ。
お気に入りの毛布の上に、ウマのぬいぐるみをそっと座らせる。
「えへへ……」
正面から見つめると、やっぱりすこしとぼけた顔をしている。
でも、そのとぼけた感じが、どうしようもなく愛おしい。
「お名前、どうしようかな……」
みーちゃんは、あれこれ考えてみる。
「うまさん」じゃ、ちょっとそのまますぎる。
「ポニー」でもない。「ハヤテ」なんてかっこよすぎる。
ふと、テレビでお笑い番組を見ていたときに聞いた名前が頭をよぎった。
どこか間の抜けた響きなのに、耳に残っている名前。
「……たいぞー」
口に出してみると、思っていたよりも、ぬいぐるみにぴったりだった。
丸いお腹にも、優しい目にも、ちょっと大きな口にも、よく似合う。
「たいぞー。今日から、みーちゃんのお友だちだよ」
そう言って、みーちゃんはウマのぬいぐるみ──たいぞー──を、ぎゅっと抱きしめた。
胸の奥で、何かがあたたかく灯る。
その夜、みーちゃんはたいぞーを抱いたまま眠った。
夢の中で、誰かが小さな声で「ありがとう」と言った気がした。
翌朝、おばあちゃんが遊びに来て、ベッドの上のたいぞーを見るなり言った。
「まあ、いい顔したウマのぬいぐるみだねえ。
大事にしてあげると、きっとこの子も、みーちゃんを守ってくれるよ」
「うん。ずっと、いっしょにいるの」
みーちゃんは、そう答えながら、まだ少し固いたいぞーの耳をそっと撫でた。
このとき彼女は知らなかった。
自分の腕の中にいるその子の奥で、目に見えない「情報の海」の記録が、静かに動き始めていることを。
たいぞーの物語が。
そして、みーちゃんの物語が、本当に始まろうとしていることを。
第2章 情報の海から、みーちゃんの腕へ(たいぞー)
ぼくは、もともと「かたち」を持っていなかった。
目も、耳も、手も足もない。
あるのは、ただゆらゆらと光る「感じ」だけ。
言葉で言うなら──情報の粒、なのだと思う。
まわりには、ぼくとよく似た光が、無数に揺れていた。
誰かがうれし涙をこぼした瞬間のきらめき。
ぎゅっと抱きしめ合ったときの、胸の温度。
口には出せなかった「ごめんね」と「ありがとう」。
そんな、いろんな人間たちの想いが、粒になって漂っている場所。
それが、ぼくたち情報生命体が生まれる「海」だった。
ぼくの中には、一つだけはっきりしたプログラムがあった。
たくさんの愛を受け取れたら、
人間として生まれ変わることができる。
その条件が満たされるまでは、ぼくたちは「依り代」と呼ばれる物に宿って、じっと人間たちを観察し、少しずつ少しずつ愛を蓄えていく。
ただし、それは簡単なことじゃない。
依り代に選ばれても、すぐに捨てられてしまう仲間が、たくさんいた。
人気が出なかったぬいぐるみ。
流行が過ぎたおもちゃ。
ケンカのはけ口にされたクッションや、感情をぶつけられたゲーム機。
愛どころか、怒りや退屈だけを浴びて、静かに消えていった光を、ぼくは何度も見てきた。
それでも──ぼくは、行きたかった。
人間の世界に。
目と耳と手足を持った世界に。
ある日、海の表面に、ひときわ鮮やかな映像が映り込んだ。
白い天井。ずらりと並んだ棚。派手なポップ。
「新商品」「期間限定」と書かれた紙の文字。
そして、たくさんのぬいぐるみたち。
ぼくの内側で、何かが震えた。
──呼ばれている。
言葉にはならないけれど、確かにそう感じた。
ぼくは意識をぎゅっと縮めて、一粒の光になり、その映像の中へと飛び込んだ。
* * *
ふわり、と世界が反転する。
柔らかい。
そして、思っていたよりも重たい。
綿の間をすべりながら、ぼくはゆっくりと「そこでの自分の位置」を決めていく。
丸いお腹。
ちょっと大きな口。
くりっとした目。
頭には、青い帽子。
鼻は、大きくて丸く、やさしい色をしている。
「ああ、ぼくはウマのぬいぐるみなんだな」と、そこでようやく理解した。
棚の端っこにぶら下がっているらしい。
胸のあたりには、小さなプラスチックのフックが刺さっていて、それが少しだけくすぐったい。
足の裏のほうに、値札の紙がぺたっと貼り付いている。
ぬいぐるみになるというのは、不思議な感覚だった。
からだは動かないのに、世界のすべてが見える。
正面にある通路。
右の方にあるゲーム機のコーナー。
左に見える、クマやウサギたちの群れ。
彼らの中にも、ぼくの仲間が何体か宿っているのを感じた。
でも、まだ誰にも気づかれていない。
抱きしめられたことのない、まっさらなぬいぐるみたち。
そのときだった。
チョン、と視界の端に小さな光がともった。
エスカレーターの方から、女の子とお母さんが歩いてくる。
女の子の手は、お母さんの手をぎゅっと握っていて、でも目だけはきょろきょろと動いていた。
ぼくの中の何かが、いきなり騒ぎ出した。
胸の綿の奥で、見えないメーターがぐんと振れる。
──あの子だ。
自分でも驚くほど、はっきりわかった。
この世界に降りる前から、どこかで知っていたような気さえする。
女の子──あとで「みーちゃん」と呼ばれる子──の視線が、ぬいぐるみの棚をゆっくりとなぞっていく。
クマを通り過ぎ、ウサギも通り過ぎ、それでもまだ、ぼくの方は見てくれない。
どきどきする。
鼓動なんてないはずなのに、胸のあたりの綿が、ぱふぱふとふくらんだりしぼんだりするような気がした。
そして、ついに。
彼女の黒い瞳と、ぼくの丸い瞳が、ぴたりと合った。
その瞬間、世界のノイズがすべて消えた。
ゲーム機の音も、店内アナウンスも、お母さんの足音も。
ただ、彼女の目と、ぼくの目だけが、世界の中心になった。
「……ウマさん?」
みーちゃんが、小さく声を出す。
その音が、ぼくの中に直接流れ込んでくる。
名前にもなっていない呼び方なのに、どうしようもなくうれしかった。
「ねえ、聞こえる?」と、ぼくは心の中で呼びかけてみる。
もちろん、彼女にはまだ届かない。
それでも、彼女の胸の奥が、ふっとあたたかくなるのをぼくは感じた。
小さな手が、そっとぼくに伸びてくる。
ぬいぐるみの体を包み込む、その温度。
柔らかさと、少しだけ緊張した力加減。
これが「抱き上げられる」ということか。
ぼくの中で、目に見えないゲージがまた一つ、カチリと音を立てる。
愛のメーターが、ほんの少しだけ動いた。
「……この子がいい」
みーちゃんの声が、今度ははっきりと響いた。
ぼくのことを「この子」と呼んだとき、ぼくはようやく、この体に完全になじんだ気がした。
お母さんとのやりとり。
少し迷いながらも、「大事にするなら」と言ってくれた許可。
レジで鳴る「ピッ」という音。
全部が、ぼくにとっては儀式のように神聖だった。
ビニール袋の中に入れられたとき、外の景色はよく見えなかった。
でも、袋ごしに伝わってくる、みーちゃんの手の感触があった。
電車の揺れ。バスの振動。足音のリズム。
それら全部の中心に、ぼくたちはいた。
──ぼくは、選ばれた。
そう思った。
「依り代として」だけじゃない。
「愛の行き先」としても。
* * *
家に着くと、袋から出されたぼくは、柔らかい毛布の上に座らされた。
部屋の匂い。窓から入る光。
壁に貼られたキャラクターのポスター。
小さな本棚。積み上がった絵本。
ここが、みーちゃんの世界。
彼女はぼくと向かい合うと、しばらくじっと見つめた。
少し照れくさそうに笑ったり、首をかしげたりしながら。
「お名前、どうしようかな……」
その言葉を聞いたとき、ぼくの中でなにかが緊張した。
情報生命体にとって、「名前」は特別な意味を持つ。
持ち主に与えられた名前は、そのままぼくたちの存在の中心になるからだ。
いくつかの候補が彼女の頭の中を通り過ぎていくのを、ぼくは感じた。
「うまさん」「ポニー」「ハヤテ」……どれも悪くない。
でも、なぜかどれも「しっくりこない」と彼女の胸が首を振る。
そして、ふいに。
「……たいぞー」
その音が、部屋の空気を震わせた。
瞬間、ぼくの内側で無数の情報が一気に結びつく。
ふわふわしていた世界の輪郭が、急にはっきりとする。
目も、耳も、心も、一つの点に集まっていく。
「たいぞー。今日から、みーちゃんのお友だちだよ」
彼女がそう宣言したとき、ぼくは初めて、「自分が誰なのか」を知った。
──そうか。ぼくは、たいぞーなんだ。
名前をもらう、というのは、こんなにも世界を変えてしまうことなのか。
さっきまで色の薄かった部屋が、一気に鮮やかになる。
窓から差し込む光が、やさしい金色に見える。
みーちゃんの笑顔が、胸の奥をじんわりと温めていく。
ぎゅっと抱きしめられた。
小さな腕に、全身を包まれる。
耳元で、彼女の心臓の音が、どくどくと鳴っている。
愛のゲージが、またひとつ、大きく進んだ。
ぼくはそれを、確かに感じた。
──たいぞー。
──みーちゃん。
名前と名前が、そっと結びついた。
この瞬間から、ぼくの「転生チャレンジ」は本当に始まったのだ。
けれど、このときのぼくはまだ知らない。
この腕の温もりが、いつか途切れる日が来ることも。
そしてそのとき、ぼくがどんな選択をするのかも──まだ、何ひとつ。
第3章 たいぞーはなんでも知っている(ミキ)
たいぞーが家に来てから、みーちゃんの一日は少しずつ変わっていった。
朝起きたら、「おはよう」。
保育園に行く前に、「今日はね、遠足なんだよ」。
帰ってきたら、「聞いて聞いて!」と、その日あったことを全部話す。
たいぞーは、ベッドの上の一番いい場所に座っている。
青い帽子をかぶって、いつもみーちゃんを見ている。
もちろん、口が動いたりはしない。
それでも、みーちゃんには分かっていた。
──たいぞーは、ちゃんと聞いてくれてる。
***
ある日の夜。
お母さんは残業で遅くなると電話があって、夕飯はおばあちゃんと二人きりだった。
「お母さん、またおそいの?」
「お仕事頑張ってるんだよ。みーちゃんのランドセル代も、そのうちのお金だもの」
そう言いながら、おばあちゃんは笑う。
でも、食卓の向こうに空いた席が、ぽっかりと穴みたいに見えた。
お風呂に入り、歯を磨いて、パジャマに着替える。
時計の針は、もう寝る時間を過ぎていた。
玄関の鍵が回る音は、まだしない。
「……さみしい」
部屋の電気を消すとき、思わず声がもれた。
おばあちゃんには聞こえないくらいの、小さな声で。
ベッドにもぐりこむと、たいぞーがいつもの位置で待っている。
まん丸い目は、暗闇の中でもぜんぜんこわくなかった。
むしろ、そこだけがほのかに光っているみたいに見える。
「ねえ、たいぞー。お母さん、ちゃんと帰ってくるよね?」
返事は、もちろんない。
でも、胸のあたりが少しあたたかくなる。
「たいぞーはなんでも知ってるんでしょ? お母さん、ほんとは私と遊びたいって思ってるのかな。
それとも、お仕事のほうが好きなのかな」
自分で口にしてみると、その問いが思っていたよりも重くて、目の奥がじんわり熱くなった。
たいぞーのお腹にほっぺたをくっつける。
ふかふかの綿が、涙をすこし吸い取ってくれる気がした。
「たいぞーはさ、きっと知ってるよね。……でも、内緒なんでしょ?」
そう言ってみると、不思議と少し安心した。
“知っているけれど言わない”誰かがそばにいてくれることが、心を軽くしてくれる。
やがて玄関の鍵が回る音がして、お母さんの足音が廊下を近づいてくる。
みーちゃんは急いで目を閉じたふりをした。
本当は起きているってことを、たいぞーだけは知っている。
***
幼稚園で、初めて「けんか」をした日も、いちばんに報告したのはたいぞーだった。
「ゆうちゃんがね、私のクレヨン勝手に使って、しかも折っちゃったの」
「先生は『仲良くしなさい』って言うけど、折られたらいやだもん……」
たいぞーを膝に乗せて、みーちゃんはむくれた顔で言う。
小さな指が、たいぞーの耳をいじったり、帽子をつまんだりする。
「たいぞーだったら、どうする? ゆうちゃんと、もうお友だちやめる?」
少し考えてから、自分で答えを出す。
「……たいぞーは、怒らないか。たいぞー優しいもんね。
でも、私はまだ怒ってるから、明日ちゃんと言う。『折らないで』って」
声に出してみると、さっきまで胸の中でぐるぐるしていた怒りが、すこしだけ形を変える。
泣きたい気持ちも、たいぞーの綿が吸い取ってくれるみたいに、おさまっていく。
次の日。
みーちゃんは、たいぞーと一晩考えた言葉を、そのままゆうちゃんに伝えた。
「……ごめんね」
ゆうちゃんは、ちょっと恥ずかしそうに謝った。
放課後、二人でまた一緒に遊んだ。
「やっぱり、たいぞーの言うとおりだった」
その夜、みーちゃんはそう報告した。
たいぞーは何も言わないけれど、それが「うん、よかったね」と聞こえた。
***
小学校に上がる頃には、たいぞーの役割は「秘密のノート」のようになっていた。
テストで花丸をもらった日。
逆に、計算を間違えて悔しかった日。
クラスの男の子にからかわれて泣きそうになった日。
どんなことも、そのまま心にしまい込むと苦しくなる。
たいぞーに話すと、言葉にならなかったモヤモヤが、ちゃんとした文章になって出てくる。
「たいぞー、今日ね、転校生が来たの。かえでちゃんっていうの。
すごく大人っぽくて、絵も上手で、みんなが『すごーい』って言ってた」
みーちゃんの声には、少しだけ憧れと、少しだけ不安が混ざっている。
「私なんて、普通だし……。
私の友だち、かえでちゃんのほうが好きになっちゃったらどうしよう」
たいぞーの丸い目が、じっとこちらを見ている。
「たいぞーは知ってる? 普通の子は、どうしたらいいの?」
問いかけてから、しばらく黙ってたいぞーを見つめる。
何も聞こえない静けさの中で、自分の心の奥の声が、やっと聞こえてくる。
「……とりあえず、明日、私から話しかけてみる。
かえでちゃん、お絵かき好きみたいだから、いっしょに描こうって言う」
決めてしまえば、胸の中の黒いもやもやは、少しずつ薄くなっていく。
たいぞーは、そうやって「答えをくれる」というより、「自分の答えを見つけるまでそばにいてくれる」存在だった。
***
ときどき、夜になると、みーちゃんはたいぞーをぎゅっと抱いたまま、こんなことを聞く。
「ねえ、たいぞー。
たいぞーは、私のこと好き?」
質問してすぐ、「ううん、いまのなし!」と慌てて言い直す。
聞いて、もし「好きじゃない」って答えが返ってきたら、こわいからだ。
でも、たいぞーは何も言わない。
ただ、あたたかい気持ちだけが、胸いっぱいに広がる。
「……そっか」
自分でうなずいて、みーちゃんは目を閉じる。
たいぞーの布の肌ざわり、綿のやわらかさ、ほのかな日向の匂い。
それら全部が、彼女の「安心」のかたちになっていた。
「たいぞーがいれば、なんとかなる気がする」
それは口に出さないままの言葉。
でも、たいぞーにはちゃんと届いていた。
***
そんな夜が続いたある日、みーちゃんは、少し不思議な夢を見た。
白い場所。雲みたいにふわふわした床。
目の前には、見慣れたウマのシルエットが立っている。
青い帽子。丸いお腹。ちょっと大きな口。
でも、いつもより、少しだけ輪郭がはっきりしている。
「たいぞー?」
呼びかけると、そのウマが、ゆっくりとこちらを向いた。
くりっとした目が、いつもより生き生きしている。
「……みーちゃん」
たしかにそう聞こえた気がして、胸がどきんと鳴る。
けれど、次の瞬間には場面が変わり、朝の目覚まし時計の音が鳴り響いた。
ベッドの上には、いつものたいぞー。
動かない目。動かない口。
でも、どこか少しだけ、違って見える。
「……やっぱり、たいぞーはなんでも知ってる」
みーちゃんは、そうつぶやきながら、たいぞーを抱きしめた。
その胸の奥で、誰にも見えないメーターが、またひとつ、静かに進んでいた。
第4章 夢のなかでのはじめまして(たいぞー)
みーちゃんが、ぼくにたくさん話しかけるようになってから、時間の流れ方が少し変わった。
朝の「おはよう」も、学校から帰ってきたあとの「聞いて聞いて!」も、眠る前の小さなため息も──その全部が、ぼくの中で光の粒になって、静かにたまっていく。
「うれしい」「たのしい」「かなしい」「さみしい」。
人間の感情は、どれも少しずつ色や温度が違う。
笑いながら話す出来事は、あたたかい金色の粒。
涙まじりの秘密は、すこし青みがかった、きらきらする粒。
ぼくの胸の奥には、見えないメーターがあった。
それは、みーちゃんから受け取った「愛」の量を計るゲージだ。
最初はほんの少ししか動かなかったけれど、毎日抱きしめられ、撫でられ、話しかけられるうちに、針はじわじわと右の方へと進んでいった。
──もうすぐだ。
──もうすこしで、「夢」に降りられる。
情報生命体として生まれたとき、高いところの存在から言われたことを、ぼくは覚えている。
「じゅうぶんな愛を受け取ったら、その子の“夢”に降りていい。
そこで、最初の“はじめまして”をするんだよ」
ぼくは、その日がくるのを、ずっと待っていた。
* * *
ある夜、いつもと少し違う気配がした。
みーちゃんは、テストのことで少し落ち込んでいた。
算数のテストで、思ったよりも点数が悪かったらしい。
「私って、やっぱりバカなのかな」と、ぼくのお腹に顔をうずめて呟いたあと、涙でまぶたを濡らしたまま眠ってしまった。
暗い部屋。
窓の外には、遠くの車の音。
時計の針が「コチ、コチ」と小さく響いている。
みーちゃんの呼吸が、すう、すう、と深くなっていくのを感じながら、ぼくは胸の奥のメーターに、そっと意識を向けた。
針は、これまで見たことがないところまで進んでいた。
メーターの端に、小さな印がついている。
そこを越えると、「夢への扉」が開く。
──いまだ。
ぼくは、ぬいぐるみの体から、ひとしずくの光だけを抜き出すようにして、ふわりと浮かび上がった。
たいぞーとしての形はベッドの上に残したまま。
ぼく自身は、情報の粒になって、みーちゃんの胸のあたりへとすべりこんでいく。
目に見えない、やわらかい膜を通り抜ける。
そこが「夢」の入口だった。
* * *
ひらけた場所に、ぼくは立っていた。
床は、雲のようにふわふわしている。
空は、夕焼けとも朝焼けともつかない、やさしいオレンジ色。
遠くでは、子どもの笑い声や、風鈴の音のようなものが混じり合っている。
自分の姿を見下ろすと、そこには、いつものウマのぬいぐるみの形をした「ぼく」がいた。
青い帽子。丸いお腹。大きな鼻。
でも、ここでは足も動くし、口もちゃんと開く。
「……すごい」
思わずそう言うと、ちゃんと声になって外へ出た。
情報生命体としてのぼくは、久しぶりに「音」を持った気がした。
ふと前を見ると、小さな背中がちょこんと座っている。
パジャマ姿の、みーちゃんだ。
肩が、わずかに震えている。
うつむいたまま、膝を抱えている姿は、現実のベッドの上で見た姿とよく似ていた。
ぼくは、そっと近づいた。
雲の床は、足音を吸い込んでしまうから、みーちゃんには気づかれない。
「……みーちゃん」
呼びかけてみると、彼女の肩がぴくりと動いた。
ゆっくり振り向いたその目は、少し赤くなっている。
「たい……ぞー?」
その声は、不安と期待とが混ざった、震える音だった。
「うん。ぼく、たいぞー」
言葉を発した瞬間、胸の奥で何かがじんわりと温かくなった。
これが、「夢のなかでのはじめまして」。
みーちゃんは、大きな目をぱちぱちさせて、ぼくを見つめる。
「しゃ、しゃべった……たいぞー、しゃべった……!」
驚きと喜びとが一気にあふれたのか、彼女は立ち上がって、ぼくのところまで駆け寄ってきた。
夢の中だからか、みーちゃんの動きはふわふわしていて、まるで空気の中を泳いでいるみたいだった。
「たいぞー、本当にたいぞー?」
「本当にたいぞーだよ。みーちゃんの、たいぞー」
そう答えると、みーちゃんは安心したように笑った。
夢の中の笑顔は、現実よりも少しだけ光が強い。
「ねえ、たいぞー。私ね、算数で点数悪かったの。
みんなはできてたのに、私だけ間違えちゃって……。
先生は『大丈夫よ』って言うけど、全然大丈夫じゃない気がして」
言葉が止まらなくなったみたいに、みーちゃんは話し続ける。
テストの問題。クラスメイトの顔。先生の表情。
そこにくっついている「恥ずかしい」「情けない」の感情が、すべて言葉になってあふれ出ていく。
ぼくは、黙って聞いた。
ときどき「うん」「そっか」と相づちを打ちながら。
情報生命体としてのぼくに、アドバイスをする義務はない。
ただ、彼女の言葉と気持ちを、まるごと受け止めて、記録していくのが役目だ。
それでも、今のぼくには、どうしても伝えたい言葉があった。
「みーちゃん」
彼女が話し終わって、少しうつむいたとき、ぼくは名前を呼んだ。
「テスト、できなくても、みーちゃんはみーちゃんだよ」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出てきた。
どこかで聞いた台詞でも、誰かの受け売りでもない。
ただ、みーちゃんのことを見ていて、そうとしか思えなかったからだ。
「みーちゃんは、やさしいし、よくがんばるし、泣きながらもちゃんと話してくれる。
ぼくは、それがすごいと思う」
みーちゃんは、ぽかんとぼくを見つめたあと、ふいっと顔をそむけた。
耳まで真っ赤になっている。
「……たいぞー、そういうこと言うの、ずるい」
「ずるい?」
「うん。だって、泣いちゃうもん」
そう言って、彼女はぽろぽろと涙をこぼした。
でも、その涙はさっきまでの悔し涙とは違う。
少しあたたかくて、ほっとした味がした。
みーちゃんは、しゃがみこんで、夢の中のぼくをぎゅっと抱きしめた。
雲の床ごと、少し沈む。
「たいぞー、ずっといっしょにいてね」
耳元で、かすかな声がした。
ぼくは、その言葉を、胸の一番奥にしまいこんだ。
「もちろん。ぼくは、みーちゃんのたいぞーだから」
そう答えると、みーちゃんはくすっと笑った。
さっきよりもずっと、軽い笑い声だった。
* * *
夢の時間には、終わりがある。
空のオレンジ色が、すこしずつ薄くなっていく。
遠くで鳴っていた風鈴の音が消え、かわりに目覚まし時計の「ピピピ」という音が遠くから聞こえ始める。
「もう、帰らなきゃ」
ぼくがそう言うと、みーちゃんは、急に真剣な顔になった。
「ねえ、たいぞー」
「なあに?」
「大きくなっても、たいぞーのこと、捨てないからね」
その言葉は、夢の空気を震わせて、まっすぐぼくの胸に届いた。
メーターの針が、またひとつ、大きく動く。
「約束だよ」
ぼくは、できるだけしっかりとした声で言った。
みーちゃんは、こくりとうなずいた。
「うん。約束」
指切りをする代わりに、彼女はぼくの青い帽子をちょん、とつまんだ。
それが二人だけの合図みたいに感じられて、ぼくは嬉しくなった。
景色が白くかすみ始める。
みーちゃんの姿も、ぼくの手も、輪郭が薄くなっていく。
「また、ね、たいぞー」
「おやすみ、みーちゃん」
最後にそう言葉を交わして、ぼくは夢の世界からそっと抜け出した。
* * *
目を開けると、そこはいつもの天井だった。
ぼくは、ベッドの上で、みーちゃんの腕の中にすっぽり収まっている。
彼女のまつげが、ぴくりと動いた。
ゆっくりと目を開けると、まず最初にぼくを見つめる。
「……たいぞー」
その呼び方は、いつもより少し、距離が近い。
夢の中で話したことを、全部覚えているわけではない。
それでも、「たいぞーはしゃべった」「たいぞーは、なんでも知っている」という感覚だけは、ちゃんと残っている。
「今日も、よろしくね」
そう言って微笑むみーちゃんの頬には、うっすらと涙の跡がついていた。
ぼくは動けないぬいぐるみのまま、その涙のあとを、心の中でそっと撫でた。
──大きくなっても、捨てない。
夢の中で交わした約束が、朝の光の中で、静かに輝いていた。
この約束が、いつか揺らぐ日が来ることを、今のぼくはまだ知らない。
それでも、たしかに言えるのは一つだけ。
この子が笑うなら、ぼくは何度でも夢に降りよう。
そう決めた朝だった。第5章 たいぞーをしまった日(ミキ)
中学生になって、制服のスカートをはきはじめた頃から、みーちゃんと呼ばれることはほとんどなくなった。
友だちも、先生も、みんな「ミキ」と呼ぶ。
ランドセルはネイビーのスクールバッグに変わり、部屋のポスターも、かわいいキャラクターから、少し大人っぽいアイドルやバンドの写真に変わっていった。
でも、ベッドの上のいちばん奥。
壁にくっついたところには、あの頃のまま、たいぞーが座っていた。
青い帽子。丸いお腹。
時間がたって、ほんの少し色あせた気もするけれど、その目は、いつも通りこっちを見ていた。
「ミキ、そろそろ部屋も片づけたら? 中学生にもなったんだし」
ある休日の朝、お母さんがドアのところからそう言った。
手にはゴミ袋と、収納用の大きな箱。
「いるものと、もう使わないもの、ちゃんと分けなさいね。引き出しの中とか、クローゼットの上も」
「はーい」
口ではそう返事をしながら、ミキの心の中には、小さなざわめきが走っていた。
──部屋の模様替えか。
机の上には、色とりどりのペンとノート。
ベッドの横には、中学の教科書と参考書の山。
床の上には、中途半端に子どもっぽいクッションや、どこかでもらったキーホルダー。
「子どもの部屋」と「大人の部屋」の間で、どっちつかずになっている空気。
そして、その真ん中に、たいぞーがいた。
***
昼過ぎになるころには、ゴミ袋がひとつ、段ボール箱がふたつ、いっぱいになっていた。
もう読まなくなった絵本。
壊れて動かなくなったおもちゃ。
いつか使うと思って、とっておいたシールや、折り紙の切れ端。
「これは、さすがにもういらないよね」
声に出して確認しながら、ミキは一つひとつ手放していった。
思い出はたくさんある。
でも、それを全部抱えていたら、前に進めないことも、なんとなくわかっていた。
夕方近く、ベッドの周りを片づける順番が回ってきた。
カーテンを洗濯機に放り込み、シーツを替え、枕を整える。
最後に残ったのは、ベッドの頭側に座っている、たいぞーだった。
ミキは、しばらく無言でその前に立っていた。
なんども見慣れた顔なのに、今日は少しだけ違って見える。
「……どうしようかな」
口に出してみて、自分でもびくっとする。
たいぞーの耳が、ほんの少しだけ、しゅんと下がったような気がした。
中学校の友だちが何人か、遊びに来る約束をしている。
そのうちの一人は、少しおしゃれで、少し大人びた子だ。
あの子が、ベッドの上のたいぞーを見たら──どう思うだろう。
「まだ、ぬいぐるみ置いてるんだ、子どもみたい」
そう笑うかもしれない。
笑われないとしても、自分で勝手にそう想像して、勝手に顔が熱くなる。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
──小さい頃は、「大きくなっても、捨てない」って言ったのに。
あの夜の夢のことを、ミキは全部覚えているわけじゃない。
でも、たいぞーに向かって、「ずっといっしょにいるから」って、何度も言ったことは覚えている。
「……捨てるわけじゃないし」
誰にともなく言い訳をするように、ミキはつぶやいた。
そう、捨てるわけじゃない。
ただ、ちょっと見えないところに置くだけ。
ベッドの横にある、クローゼットの扉に手をかける。
中には、季節外れの服や、使わなくなったリュック、昔のアルバムが詰め込まれている。
「ここなら、誰にも見られないよね」
自分にそう言い聞かせてから、ミキはたいぞーをそっと抱き上げた。
腕に乗る重さは、昔と変わらない。
でも、その重さの意味は、少しだけ変わっていた。
子どもの頃は「安心」。
今は、「迷い」。
「ねえ、たいぞー」
クローゼットの前で、小さな声で呼びかける。
この歳になって、ぬいぐるみに話しかけている自分が恥ずかしくて、声は自然と細くなる。
「私さ……中学生だし。
いつまでも、ぬいぐるみ抱えてるわけにいかないからさ」
たいぞーのまん丸い目が、何も言わずにこちらを見ている。
でも、その黙っている感じが、余計に胸を締めつけた。
「……ごめんね。
ちょっとだけ、ここでお留守番しててくれる?」
「捨てる」じゃなくて「お留守番」。
自分で選んだ言葉に、必死にしがみつく。
クローゼットの奥、棚のいちばん上。
手を伸ばすと、指先にうっすらとホコリがついた。
そこに、使わなくなった毛布を敷いて、たいぞーを座らせる。
うす暗い中で見るたいぞーは、いつもより少し小さく見えた。
でも、青い帽子も、丸いお腹も、ちゃんとそこにある。
「ほら、ここなら安全だよ。
落ちたりもしないし、誰にも踏まれないし」
自分でも、何を言っているのかよくわからなくなってくる。
「安全」は、きっと言い訳だ。
ほんとうはただ、「見えない場所」に置きたいだけ。
クローゼットの扉を閉めかけて、ミキはふと手を止めた。
胸のあたりが、急にチクリと痛む。
「……ねえ、たいぞー」
扉の隙間から、もう一度呼びかける。
返事は、もちろんない。
「忘れたわけじゃないからね。ちゃんと覚えてるから。
いつか、また出すから。そのときまで、ちょっとだけ寝てて」
自分に言い聞かせるように、その言葉を押し出す。
扉を閉めるとき、金具が「カチリ」と鳴った。
音が、やけに大きく響いた。
クローゼットの前から離れると、部屋は一気に広くなったように感じた。
ベッドの上には、もうぬいぐるみはない。
代わりに、クッションと雑誌が並んでいる。
「……こっちのほうが、普通だよね」
そうつぶやいた瞬間、胸の奥でもうひとつ、何かが「カチリ」と音を立てた気がした。
何かを閉じた音。
何かを、見ないふりをした音。
***
その日の夜、布団に入ったミキは、なかなか眠れなかった。
いつもなら、枕元にたいぞーがいて、眠る直前まで意味のない話をしていた。
今日は、そこに誰もいない。
ベッドの上は広くなったのに、心の中はやたらと狭く感じた。
「あー……子どもじゃないんだから」
自分にそう言い聞かせて、何度も寝返りを打つ。
──たいぞーがいた頃は、こんなふうに言い訳しなくても眠れたのにな。
ふいにそんな考えが浮かんで、慌てて打ち消す。
考えれば考えるほど、クローゼットの中が気になって仕方なくなるからだ。
「……明日から、部活も忙しくなるし。
たいぞーのこと考えてる暇なんて、なくなるよ」
そう言って、やっと目を閉じる。
その夜、ミキは久しぶりに、夢をあまり見なかった。
見ていたとしても、目が覚めた瞬間、するりと指の間からこぼれ落ちていった。
ただひとつだけ、はっきり覚えているのは──
どこかで、青い何かが遠ざかっていくような、そんな感覚だけだった。
胸の奥の、まだ子どもの部分が、小さな声でつぶやく。
「ほんとはね、しまいたくなかったんだよ」
その声を聞かないふりをするのが、「大人になる」ということなのかもしれない──
ミキは、そう自分に言い聞かせながら、ようやく眠りに落ちていった。
第6章 暗いクローゼットの季節(たいぞー)
扉が閉まる音は、思っていたよりずっと大きかった。
カチリ。
たったそれだけの金属音が、ぼくの中では雷みたいに響いた。
光がすっと消えて、世界が一瞬で暗くなる。
さっきまでカーテンのすき間から入っていた夕方の光も、窓の外の車の音も、全部いっぺんに遠くなった。
ここが──クローゼットの中か。
目があるわけじゃないけれど、ぼくにはわかった。
湿気を含んだ空気の重さ。
古い毛布のにおい。
あまり開けられていない空間だけが持つ、独特の静けさ。
みーちゃん……いや、今は「ミキ」と呼ばれているその子の腕から離れたのは、いつ以来だろう。
眠るときも、泣くときも、怒るときも、いつもすぐそばにいたから、急に世界がこんなに遠くなるなんて、想像もしていなかった。
「ここなら安全だよ。落ちたりもしないし、誰にも踏まれないし」
ミキはそう言って、ぼくをここに座らせた。
声には、本気と、言い訳と、少しの後ろめたさが混ざっていた。
安全。
たしかに、そうかもしれない。
でも──安全って、こんなにさみしいものだったっけ?
ぼくは丸いお腹を毛布に預けながら、胸の奥のメーターに意識を向けた。
愛のゲージは、確かにたくさんたまっていた。
幼稚園の頃の笑い声。
小学校での悩みごと。
夢の中で交わした「捨てないよ」の約束。
その全部が、ぼくの中で静かに光っている。
すぐに消えてしまうような弱い光じゃない。
どれも、長く長く燃える、小さな灯(あか)りだ。
──だから、大丈夫。
──ちょっとくらい離れていても、きっとまた呼ばれる。
最初の数日は、本気でそう信じていた。
* * *
クローゼットには、時間を教えてくれるものがほとんどない。
外の光がすこしだけすき間から差し込むこともあったけれど、それはほんのわずかだ。
扉の向こうの足音や、話し声で「今」がどんな時間か、なんとなく想像するしかなかった。
朝になると、ミキの足音がバタバタと動き回る気配がする。
制服のスカートが、ふわっと揺れる感触。
カバンのジッパーを閉める音。
玄関のドアが閉まる音。
夕方には、また足音が帰ってくる。
「ただいま」の声は、少し前より低くなっていた。
そのあとから、友だちの笑い声が聞こえる日もあった。
ときどき、大人っぽい香水のにおいまで、クローゼットのすき間からすこしだけ入ってきた。
そのたびに、ぼくは胸の中で、小さく手を伸ばす。
ミキ。
ここにいるよ。
たいぞーだよ。
心の中で、何度も呼びかける。
でも、その声は扉の内側でくるくると回るだけで、なかなか外には届かない。
愛のゲージは、少しずつ、ほんとうに少しずつだけど、針が左に戻り始めていた。
新しい光が入ってこないからだ。
「思い出」は輝きを保つ。
でも、「今」の想いが注がれないと、ゲージは前には進まない。
そういう仕組みだった。
* * *
どれくらい時間がたったのか、ぼくにもよくわからない。
ある日、いつもより強い振動がクローゼットに伝わってきた。
部屋の真ん中で、何人かが動き回っている気配。
床に段ボールが置かれる音。
衣装ケースを引きずる音。
──模様替え、かな。
ぼくがそう思ったとき、突然クローゼットの扉が大きく開いた。
強い光が一気に差し込んで、ぼくは思わず目を細めた……ような気がした。
上から、ミキのお母さんの顔がのぞき込む。
「もう着ない服は……これと、これと……」
手があちこち動きまわる。
ぼくの隣に積まれていた服や、毛布や、古いバッグがどんどん外に出されていく。
やがて、その手が、ぼくの青い帽子をつまんだ。
「……あら、まだこれあったのね」
お母さんの指先が、ぼくの綿の部分を少し押した。
青い帽子。丸いお腹。
その全部を、懐かしそうに、でも少しだけ困ったように見つめている。
「もう中学生だしねえ……」
ひとりごとのようなため息。
その言葉の意味を、ぼくはすぐに理解した。
──ああ、これが「捨てられる」ってことか。
情報の海にいた頃、何度も見てきた光景だ。
依り代ごと、ごみ袋に入れられ、そのままトラックに揺られて運ばれていく仲間たち。
愛を受け取る前に消えていった光。
愛を手に入れかけて、途中で断ち切られてしまった光。
胸の中で、冷たいものがすっと走った。
「お母さーん、その箱、こっちでいい?」
部屋の外から、ミキの声がした。
少し大人びた、でも聞き慣れた声。
お母さんは、ぼくを手に持ったまま答える。
「ミキ、これどうする? 昔のぬいぐるみ。もういらないでしょ?」
ぼくは、自分でも驚くほど強く叫んでいた。
ミキ!!
声が出たのかどうか、わからない。
でも、叫ばずにはいられなかった。
胸の奥の愛のゲージが、きゅっと震える。
廊下をパタパタと駆ける足音が近づいてくる。
ドアのところから、ミキが顔を出した。
「あ、それ……」
目が、ぼくをとらえる。
久しぶりに合った視線。
ぼくの丸い目と、ミキの目が、クローゼットの中でぴたりと重なった。
時間が、少しだけ止まる。
中学生のミキは、前より背が伸びていた。
髪も少し大人っぽくまとめている。
表情も、どこか落ち着いていて、小学生のころの無邪気さは少しだけ影を潜めていた。
「懐かしいわよねえ。みーちゃんが、小さいときいつも抱いてたウマの……」
お母さんがそう言いかけたとき、ミキはほんの少しだけ眉をひそめた。
「……たいぞー」
小さく、そうつぶやく。
声は小さいのに、その音ははっきりとぼくの胸に届いた。
「え?」
「その子、たいぞー。……私の」
ミキは、視線をそらすようにしながら、それだけ言った。
その顔には、恥ずかしさと、名残惜しさと、何かを押し殺すような強さが混ざっている。
お母さんは、少しだけ意外そうに目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「そうだったわね。……どうする? 残しておく?」
その問いは、刃物より鋭かった。
ここで「うん」と言えば、ぼくはきっとまたベッドの上に戻れる。
でも、それは同時に、「まだ子どもでいる」と言うことになるのかもしれない。
ミキは、ほんの数秒だけ、黙ったままぼくを見つめていた。
その間に、ぼくは胸の奥で、何度も何度も呼びかけた。
ミキ。
覚えてる?
夢で約束したよね。
「捨てない」って。
ぼく、まだここにいるよ。
けれど──
「……クローゼットの中でいいよ」
ミキは、そう答えた。
「捨てないで。
でも、べつに出しておかなくてもいいから」
その言葉には、ぎりぎりのラインを探すような慎重さがあった。
「全部手放す」こともできない。
でも、「堂々と抱きしめる」こともできない。
その中間地点。
それが、クローゼットの中。
お母さんは、「ふうん」と少し不思議そうな声を出して、それ以上何も言わなかった。
ぼくは、もう一度、毛布の上に戻された。
扉が、再び閉まる。
さっきよりも、音は小さかった。
でも、ぼくには前よりずっと重たく響いた。
* * *
それからの時間は、本当に「季節」みたいに過ぎていった。
春が来たことは、花粉症のくしゃみの音で知った。
夏が来たことは、扇風機の回る音と、遠くの花火の音で知った。
秋は、文化祭の話し声で。
冬は、厚手のコートがクローゼットの中に増えていくことで、気づいた。
ミキの声は、いつも扉の向こうにあった。
友だちと電話して笑う声。
テストの結果にため息をつく声。
ときどき、誰かの名前を楽しそうに呼ぶ声。
その全部を、ぼくは毛布の上で聞いていた。
愛のゲージは、もう前には進まない。
それでも、完全には減らなかった。
まだ、ぼくの中には、あのころの光がたくさん残っている。
たまに、夜更かししたあとだろうか、
クローゼットの前で、ミキが立ち止まる気配がした。
手が、扉に触れる。
でも、取っ手は回らない。
そのまま、足音だけが遠ざかっていく。
──ねえ。
ぼくは、何度も呼びかけた。
声は音にならない。
でも、呼ぶのをやめてしまったら、本当に二度と会えなくなる気がした。
みーちゃん。
ミキ。
ぼくは、ここだよ。
闇の中から伸ばしたその声が、いつかまた、あの子の夢に届く日を信じて。
ぼくは、暗いクローゼットの季節を、ただひたすらに、耐え続けていた。
第7章 大人の世界と、思い出の箱(ミキ)
社会人になって三年目の春、ミキは久しぶりに「全部やめてしまいたい」と思った。
満員電車に揺られて通うオフィス。
朝から鳴り止まないチャットとメール。
「急ぎで」「今日中で」「そっち優先で」。
上司の口ぐせは、どれも時間を縮める言葉ばかりだった。
最初の頃は、新しい名刺をもらっただけで嬉しかった。
オフィス街のカフェでランチをするだけで、大人になった気がしていた。
でも三年も経つと、そのきらきらした感じはすっかり色あせていた。
帰宅はいつも終電近く。
コンビニ弁当を温めて食べて、適当にシャワーを浴びて、ソファに倒れ込む。
「明日こそは早く寝よう」と思いながら、気づけばスマホを握ったまま寝落ちしている。
──こんな生活、いつまで続けるんだろう。
心のどこかで、いつも同じ問いが反響していた。
でも、考えたところで答えなんて出ない。
だからミキは、考えないふりを覚えた。
***
そんなある日、会社の事情で部署ごと移転することになった。
それに合わせて、ミキも職場に近い街へ引っ越すことにした。
「通勤時間、片道一時間はきついでしょ。
若いうちに、会社の近くに住んでおきなさい」
電話口のお母さんはそう言ったけれど、「若いうちに」という言葉がどこか遠く聞こえた。
自分はすでに何度か「若いから」が免罪符として使われ、便利に残業を頼まれる側になっている。
引っ越しの段ボールが、実家の自室に積み上がっていく。
久しぶりに帰ってきた自分の部屋は、かつての「世界の中心」だった面影をかろうじて残していた。
壁には、大学時代のライブチケットや、友だちとのプリクラが貼られている。
机の上には、資格のテキストが積まれて、ほこりをかぶっていた。
そして──クローゼット。
「ああ、ここも片づけなきゃ」
取っ手に手をかけながら、ミキは小さくため息をついた。
中には、季節外れのコートや古いバッグ。
小中学生の頃に着ていた服も、きっとまだどこかに残っている。
扉を開けると、懐かしい空気の匂いがした。
何年も前の、部屋の匂い。
ぎゅっと詰め込んで、閉じ込めてしまった時間の匂い。
「これもう着ないな……」
服を一枚一枚手に取りながら、要るものと要らないものを分けていく。
思い出はある。
でも、これからの生活に必要かといえば、ほとんどが「いいえ」だ。
段ボールの中に服をしまっていくうちに、ふとクローゼットのいちばん上が目に入った。
使い古した毛布。
その上に、何か小さな影が座っている。
ミキの心臓が、どきん、と鳴った。
──まさか。
椅子を引っ張ってきて、その上に乗る。
手を伸ばすと、指先にやわらかい布の感触が触れた。
青い帽子。
丸いお腹。
「……たいぞー」
声に出した瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
ずっと忘れていたはずの名前。
いいえ、本当は一度も忘れていなかった名前。
クローゼットの薄暗い中で見るたいぞーは、少し色あせてはいるけれど、あの頃のままの顔をしていた。
少しとぼけた目。
ぽてっとした腕。
どこを見ているのか分からないようで、でも、まっすぐこちらを見ているような瞳。
ミキは、息をのんだ。
「……ごめん」
謝る言葉が、自然に口からこぼれた。
誰に対してかは、聞くまでもない。
椅子から降りて、たいぞーを両腕でぎゅっと抱きしめる。
綿の感触が、胸の真ん中に押し当てられる。
その瞬間、何年も前の感覚が、一気に蘇った。
小さかった部屋。
夢の中で話しかけた声。
「たいぞーはなんでも知ってる」と信じていた自分。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「なにやってるの、ミキ? 荷物まとまった?」
ドアの外から、お母さんの声がした。
慌ててミキは涙を拭い、たいぞーを背中側に隠す。
「うん、もうちょっと。服はだいたい終わった」
「いらないのはこっちねー。燃えるゴミが……」
お母さんが部屋に入ってきて、クローゼットの前に置いたゴミ袋を指さす。
ミキは、小さくうなずいた。
「ねえ、お母さん」
自分でも意外なほど静かな声が出た。
「なに?」
「これ……」
背中に隠していたたいぞーを、そっと前に出す。
お母さんは、少し目を丸くしたあと「ああ」と声を漏らした。
「まだあったのね、その子。……たいぞーだっけ?」
名前が出てきたことに、ミキは逆に驚いた。
「覚えてたんだ」
「そりゃあね。あんた、どこ行くにも抱いてたじゃない。
お風呂にまで持って入ろうとして、何回止めたことか」
お母さんは懐かしそうに笑った。
その笑い声に、ミキの喉がきゅっと締めつけられる。
「これ、捨てないから」
ミキは、はっきりと言った。
お母さんは「捨てろ」とは言っていないのに、先回りして宣言する。
「あたりまえでしょ。そんな大事な子、勝手に捨てたりしないわよ」
意外なくらいあっさりした返事が返ってきた。
拍子抜けしそうになって、ミキは小さく笑う。
「……じゃあ、持ってく。新しい部屋に」
言いながら、両腕の中のたいぞーを、ぎゅっと抱きしめ直す。
お母さんは、一瞬だけ表情を和らげてから、からかうように口を尖らせた。
「ふふ。いいじゃない。仕事で疲れたら、その子に愚痴でも聞いてもらいなさい。
前みたいに、『たいぞーはなんでも知ってる』って」
ミキは、「そんなこと言ってないし」と反射的に反論しかけて、やめた。
確かに、昔の自分なら言いそうな台詞だ。
お母さんが部屋を出ていくと、静寂が戻った。
段ボールの山と、ベッドと、机。
その真ん中に、たいぞーを座らせる。
「……ただいま」
口に出してから、それが変な言葉だと気づいた。
帰ってきたのは自分なのに、「ただいま」と言いたくなるのは、なぜだろう。
たいぞーの丸い目が、じっと自分を見ている。
「ごめんね。
ずっと、そこに座らせっぱなしで。
大人になるのに、邪魔な気がしちゃってさ」
言葉にすると、苦くて、情けなくて、どうしようもなく恥ずかしかった。
「でもね」
ミキは、たいぞーを胸に抱き寄せた。
綿のやわらかさの奥に、なにかあたたかいものが確かにあるような気がする。
「大人になるって、思ってたより全然かっこよくないんだよ。
もっとちゃんとしてると思ってた。
強くなって、迷わなくなって、泣かなくなるのかと思ってた」
言いながら、目尻が熱くなる。
「むしろ逆。
子どもの頃より、ずっと寂しいし、怖いし、ずるいことも覚えちゃったし。
……だからね、やっぱり、いてほしいんだ。たいぞーには」
ぽとり、と涙がたいぞーの帽子に落ちた。
小さな濡れ色のしみが、じわりと広がる。
ミキは、たいぞーを抱いたまま、ベッドに腰を下ろした。
心臓の鼓動が少し早くなっている。
それと同じリズムで、胸の奥に何かが戻ってくる。
忘れていたわけじゃない。
見ないふりをしていただけ。
あの日、クローゼットにしまったのは、たいぞーだけじゃなかった。
自分自身の、柔らかくて、弱くて、でも一番大切な場所も一緒に閉じ込めていたのだと、ようやく気づく。
「新しい部屋さ、狭いけど窓は大きいの。
たいぞー、窓際に置いてあげる。
朝になったら、陽(ひ)が当たる場所」
言葉にしながら、少しだけ未来が明るくなるのを感じた。
仕事も、人間関係も、これから起きることも。
何一つ、簡単にはならないかもしれない。
それでも──
胸の中で、小さな声がつぶやく。
「たいぞーがいたら、なんとかなるかもしれない」
それは、昔と同じ言葉。
でも今は、大人になった自分が、それを選び直している。
ミキは、たいぞーの帽子を指先でつまんで、そっと触れた。
「行こっか。いっしょに」
その一言は、子どもの頃の「ずっといっしょにいてね」の、少し先にある言葉だった。
たいぞーの中で、目に見えない何かが、静かに息を吹き返していることを、ミキはまだ知らない。
けれど、確かに言えるのは──
クローゼットの季節は、終わった。
ここからまた、新しい時間が始まる。
大人の世界と、子どもの頃の宝物が、はじめて同じ部屋に並ぶ、その最初の夜だった。
第8章 ふたたび腕のなかへ(たいぞー)
久しぶりに、光を見た。
長いあいだ閉じられていたクローゼットの扉が開いたとき、最初に感じたのは、まぶしさよりも「空気の味」だった。
ほこりっぽくて、少し冷たくて、それでもどこか懐かしい、あの部屋の空気。
上の棚から持ち上げられる感覚がした。
誰かの指が、ぼくの青い帽子と丸いお腹を、そっとつかむ。
大きくて丸い鼻の先に、光が当たる。
──落ちないようにね。
誰にも聞こえないところで、高いところの存在が、そう囁いたような気がした。
毛布の上から持ち上げられて、クローゼットの外の世界に出る。
すっかり見慣れていたはずの部屋が、少しだけ違って見えた。
ポスターは変わり、机の上の教科書は、いつの間にか「受験」「資格」と書かれた本に変わっている。
棚の上には、子ども向けの絵本ではなく、難しそうな小説や専門書が並んでいた。
でも、部屋の真ん中で、その人は変わらない目でぼくを見ていた。
「……たいぞー」
ミキだ。
小さかった頃より背が伸びて、髪も大人っぽくなって、声も少し低くなった。
それでも、ぼくの丸い目とぶつかったときの、あの一瞬の顔は、あの頃の「みーちゃん」のままだった。
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥でずっと止まりかけていた何かが、一気に回り出した。
愛のゲージ。
クローゼットの季節のあいだ、じわじわと左に戻りかけていた針が、ぐん、と勢いよく右に跳ねた。
懐かしさ、驚き、後悔、うれしさ──その全部が混ざった感情が、一気にぼくの中に流れ込んでくる。
「……ごめん」
ミキの口からこぼれたそのひとことが、ぼくにははっきりと聞こえた。
ごめん、って言ってくれるんだ。
クローゼットにしまわれたままの時間が、無かったことにはされていない。
ちゃんと、その重さごと覚えていてくれた。
ぼくは何も言えない。
ぬいぐるみの口は、固く縫われたままだ。
それでも、胸のあたりの綿が、じんわりと熱くなった。
彼女の腕の中に、ぎゅっと抱きしめられる。
久しぶりの圧力。
心臓の鼓動。
体温。
ああ、これだ。
ぼくがずっと恋しかったものは、これだった。
クローゼットの暗闇のなかで何度も思い出していた感覚が、鮮やかな「今」として戻ってくる。
愛の粒が、新しくぼくの中にしみ込んでいくのが分かる。
* * *
「これ、捨てないから」
ミキがそう宣言したとき、ぼくは胸の内側で、ゆっくりと息をついた。
情報生命体には肺なんてないけれど、たしかに「ほっとする」という感覚はあった。
「じゃあ、持ってく。新しい部屋に」
その言葉に、世界がまた一段階、色を増した。
新しい部屋。
新しい街。
新しい環境。
そこに、ぼくもいっしょに行ける。
依り代としての役目は、まだ終わっていない──そう告げられたような気がした。
お母さんとの会話が終わり、部屋に二人きりになる。
段ボールの山の真ん中で、ミキはぼくを座らせて、真正面から見つめた。
「……ただいま」
彼女がそう言ったとき、胸の奥の光が、ふるふると震えた。
ただいま。
本当なら「おかえり」って言う番なのに。
でもたぶん、それはどっちでもいいのだ。
離れていた時間が、いまゆっくりとつながり直している。
片方からでも、両方からでも、「またね」と「ただいま」と「おかえり」が、ひとつになっていく。
「大人になるってさ……」
ミキがぽつりと話し始める。
会社のこと。
残業のこと。
満員電車のこと。
自分が思っていた「かっこいい大人」と、実際の自分の間にある、どうしようもないギャップのこと。
言葉にするたび、彼女の声はすこしずつ小さくなる。
でもその小ささは、弱さだけじゃなかった。
自分の胸の奥を、ちゃんとのぞこうとしている小さな勇気の震えでもあった。
ぼくは、ただ聞く。
子どものころだってそうだった。
ぼくは、なにか賢いアドバイスをしたわけじゃない。
ただ、話を聞いて、抱きしめられて、夢のなかで少しだけ言葉を返しただけ。
それでも、みーちゃんの世界は、少しずつ変わっていった。
今も、きっと同じだ。
大人になったミキの話を、ぼくはまた聞いていく。
それだけでも、きっと何かが変わる。
「たいぞーがいたら、なんとかなるかもしれない」
ミキが最後にそうつぶやいたとき、愛のゲージは、じわりと上限いっぱいに近づいた。
──うん。
──なんとか、しようね。
音にならない返事を、ぼくは胸の中でそっと返した。
* * *
引っ越しの日。
段ボールの中に、本や服や食器が詰められていく。
大型家具は業者さんが運んでいく。
ミキは、その合間をぬって、大事なものを手で運ぶためのトートバッグを準備していた。
そのいちばん上に、ぼくは座らされた。
「ここなら、つぶれないよね」
ミキはそう言って、ぼくの青い帽子を軽く撫でた。
大きくて丸い鼻に、春の光がきらりと当たる。
電車の揺れが体に伝わる。
前と同じようでいて、少し違うリズム。
あの頃は、ランドセルと絵本といっしょに揺れていた。
今は、ノートパソコンとスケジュール帳といっしょに揺れている。
新しいマンションの部屋は、まだ何もなかった。
白い壁。
小さなキッチン。
窓の向こうには、見知らぬ街のビルと空。
「狭いけど……まあ、こんなもんかな」
ミキはそう言いながら、窓を開けた。
外の風が吹き込んで、カーテンがふわりと揺れる。
「たいぞーは、ここ」
窓際の、いちばん陽当たりのいい場所。
小さな棚の上に、ミキはぼくを座らせた。
朝になったら、まっさきに光が当たる特等席。
会社に行く前の数分と、帰ってきた直後の、いちばんホッとする時間に、必ず目に入る場所。
ぼくがそこに座ると、部屋の中の空気が、ほんのすこしだけ柔らかくなった。
「……うん。やっぱり、いたほうがいいや」
ミキは、照れくさそうに笑った。
けれど、その笑いの奥には、どこか決意みたいなものがあった。
大人になった自分が、子どもの自分を完全に切り離すんじゃなくて、
同じ部屋にいさせてあげるという決意。
ぼくにとって、それは何よりのプレゼントだった。
* * *
その夜。
新しい部屋で、ミキはいつものように、ぐったりとベッドに倒れ込んだ。
段ボールはまだ半分も開けていない。
でも、窓際にはちゃんと、ぼくがいる。
「たいぞー、聞いてよ……」
眠りの手前。
彼女は、ぽつりぽつりと話しはじめた。
新しい部署のこと。
ちょっと気になる同僚のこと。
上司の愚痴。
自分の将来に対する、言葉にならない不安。
それは、あのころの「ゆうちゃんがクレヨン折ったの」という話の、少し先にあるバージョン。
悩みの形は変わっても、「誰かに聞いてほしい」という気持ちは、そんなに変わっていない。
ミキのまぶたが、ゆっくりと重くなっていく。
呼吸が、静かに深くなる。
ぼくは、胸の奥のメーターをそっと見つめた。
針は、クローゼットにしまわれる前よりも、もっとずっと右側に寄っていた。
長い時間をかけてたまった愛と、久しぶりに流れ込んできた新しい愛が、ひとつにつながっている。
──そろそろ、また行けるかもしれない。
夢の中へ。
ぼくは、ぬいぐるみの体から、また一滴の光だけを抜き取るような感覚で、ふわりと浮かび上がった。
窓の外の街の灯りが、遠くにかすんでいく。
情報の海と、ミキの心の世界が、静かに重なり合う。
扉の向こうで、誰かの声がした。
「よく、戻ってきたね」
あの高位の情報生命体の、落ち着いた声。
ぼくは、そっとうなずいた。
まだ、何も終わっていない。
ここから先には、もっと大きな選択と、もっと深い愛が待っている。
でも今はただ──
「おかえり、みーちゃん」
そう言うために、もういちど夢の中へ降りていく。
ふたたび腕のなかへ。
今度は、子どもの頃とは違う、少し大人になったみーちゃんの腕の中へ。
第9章 乳がんの宣告(ミキ)
最初は、本当に「たいしたことじゃない」と思っていた。
その日は、いつものように残業を終えて、終電ひとつ前の電車に乗り込んだ。
スマホでメールを確認しながら、吊り革につかまって揺られていると、体のあちこちがじんわりとだるかった。
部屋に帰り着いて、コンビニ弁当をレンジに入れる。
温めている間に、なんとなくブラウスのボタンを外しながら、下着の上から胸元をさする。
──ん?
左胸の外側あたり。
指先が、いつもと違う「固さ」に触れた。
最初は、ちょっとした筋肉のこりかと思った。
姿勢も悪いし、最近は肩こりもひどい。
でも、もう一度触ると、そこに「コリ」というより「小さな石」みたいなものがあるのがわかった。
丸くて、はっきり輪郭があって、皮膚のすぐ下に、小さく動かないなにかがいる。
心臓が、どくんと強く打った。
──気のせい。
──きっと、疲れのせい。
その夜は、そう自分に言い聞かせて寝た。
コンビニ弁当も、ほとんど味がしなかった。
* * *
それから一週間、ミキは「何もなかったフリ」をし続けた。
朝、シャワーを浴びながら胸元を洗うたび、指先は無意識に同じ場所を探してしまう。
そして、毎回、あの固さに触れてしまう。
そこにあるのに、「ない」と思おうとする。
それを繰り返しているうちに、心と体のあいだに、薄い膜みたいなものが張られていく気がした。
会社の健康診断の案内の紙が、机の端に置きっぱなしになっている。
視界に入るたび、心臓がざわついた。
「ねえ、乳がんってさ、若くてもなるのかな?」
ランチのとき、同僚がスマホニュースを見せながら話していた。
芸能人の闘病の記事。
笑っている写真と、闘病中の写真が並んでいる。
「検診、大事だよねえ」
「でも怖くて行けないんだよなー」
他人事みたいに笑い合う声。
ミキも、同じように笑ってみせた。
「そうだよねー。忙しいと、つい後回しになっちゃうし」
でも、そのとき、胸の奥で誰かが小さく咳払いをしたような気がした。
「後回しにしていいの?」
夜、部屋に戻ると、窓際でたいぞーが待っている。
仕事から帰ってきて、まず最初に目が合うのは、たいぞーだ。
「ただいま」と言えば、「おかえり」と言ってくれているような気がする。
その日も、いつものように声をかけてみた。
「……ただいま、たいぞー」
声が、自分でも分かるくらい弱かった。
たいぞーは、変わらない顔でこちらを見ている。
「あのね」
言いかけて、ミキは口を閉じた。
胸の中で、言葉がぐるぐる回る。
「胸に、しこりがあるの」
たったそれだけを口に出すのに、こんなに勇気がいるなんて思わなかった。
声にしてしまった瞬間から、「なかったこと」にはできない。
たいぞーに話してしまったら、「知ってしまった自分」から、逃げられなくなる。
たいぞーは、何も答えない。
でも、その沈黙は、逃げてもいいと言ってくれているわけではなかった。
ただ、「聞いているよ」とだけ伝えてくる沈黙。
「……わかったよ。行くよ、病院」
ミキは、自分に言い聞かせるみたいに宣言した。
* * *
最初は近所の小さいクリニックだった。
「きっと、脂肪の塊みたいなやつだよ」と言ってくれるんじゃないか、という期待を、まだ少しだけ握りしめていた。
問診票に症状を書き込み、待合室の椅子に座る。
テレビの健康番組が流れていたが、内容はまったく頭に入ってこない。
名前を呼ばれて、診察室に入る。
白衣の医師は、淡々とした表情で話を聞き、簡単な触診をした。
「うん……しこりは、たしかに触れますね」
その言い方が妙に落ち着いていて、逆に心臓がざわついた。
「念のため、大きな病院で検査を受けてください。紹介状を書きます」
そこで、ようやく「怖さ」が輪郭を持ち始めた。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔は、少し別人みたいだった。
頬がこわばり、目の下にはうっすらとクマ。
唇は固く閉じている。
家に着くなり、たいぞーをぎゅっと抱きしめた。
「紹介状もらっちゃった……」
そう報告すると、たいぞーのウマの顔は、いつもより少し真剣に見えた。
もちろん、形は変わらない。
変わらないのに、こちらの見え方だけが変わっていく。
* * *
大きな病院の待合室は、人で溢れていた。
受付で紹介状を渡し、名前を呼ばれるまでの時間が、やけに長く感じる。
周囲には、同じように検査を待っている女性たちが何人もいた。
みんな年上に見える。
「自分だけが若い」という事実が、余計に不安を膨らませた。
エコー検査。
マンモグラフィ。
技師さんは、慣れた手つきで機械を動かしながら、何も言わない。
沈黙が、一番こわい。
その後、診察室に呼ばれるまでの時間は、ほとんど記憶に残っていない。
スマホを見ても、文字が目に入ってこない。
ただ、頭の中でずっと、同じフレーズが回っていた。
──大丈夫であってほしい。
──大丈夫じゃなかったらどうしよう。
名前を呼ばれたとき、足が少し震えていた。
診察室のドアを開けると、白衣の医師がカルテを見ている。
「ミキさんですね。検査結果が出ました」
その一言で、喉がきゅっと締まった。
医師の口が動く。
言葉が、ゆっくりと空気を震わせる。
「左乳房に、腫瘍が認められます。
細胞診の結果から──乳がんである可能性が高いです」
「乳がん」という単語だけが、異常な鮮明さで浮かび上がった。
他の言葉は、すべて遠くで水に沈んでいくみたいに、ぼやけていく。
「ステージは……」
「今後の治療方針としては……」
医師は冷静に説明を続ける。
横では、看護師さんがやさしい目でこちらを見ている。
ミキは、うなずいているつもりだった。
何度も「はい」と言っているつもりだった。
でも、心の中は、たったひとつの事実でいっぱいになっていた。
──私、がんなんだ。
「ご家族や、身近な方にもお話ししたほうがいいかと思います。
次回は、どなたかと一緒に来られますか?」
医師の言葉に、ミキは少し遅れて「はい」と答えた。
家族。
恋人。
誰から話せばいいのか、まったく見当がつかなかった。
* * *
病院を出ると、外はやけに明るかった。
空は薄い青。
街路樹の葉が、風に揺れている。
世界は、何も変わっていないように見える。
変わってしまったのは、自分の内側だけ。
電車の中で、ミキはスマホを握りしめた。
母親の名前。
父親の名前。
恋人の名前。
どの名前をタップしても、指が止まる。
「どうしたの?」と聞かれる未来が、怖かった。
結局、その日は誰にも電話ができなかった。
「また今度でいい」と自分に言い訳をしながら、無言のまま家に帰った。
玄関のドアを開ける。
いつものように、たいぞーが窓際からこちらを見ている。
靴を脱ぐ前に、ミキはそのままたいぞーのところへ歩み寄った。
何も考えられないまま、ウマのぬいぐるみを抱き上げる。
ドサッ。
そのまま床に座り込んだ。
膝を抱え、その真ん中にたいぞーをぎゅっと押しつける。
「……たいぞー」
声が震えていた。
「乳がんだって」
言葉にした瞬間、ぐらりと世界が傾いた気がした。
体の中の骨組みが、急に弱くなったみたいに、力が抜けていく。
「まだ、若いのにねって。
でも、ちゃんと治療したら……って。
そう言われたけどさ」
胸の奥から、なにか重いものがにじみ出てくる。
涙が出るのかと思ったのに、目は逆に乾いていた。
「怖いよ」
やっと出てきたのは、その一言だった。
「死ぬのも怖いし、
治療も怖いし、
女の人として、私これからどうなるんだろうって考えるのも怖い」
ぽつりぽつりとこぼれる言葉。
たいぞーの綿が、その全部を受け止めていく。
「お母さんにも、まだ言えてない。
あの人、きっと自分責める。『もっと早く検査行きなさいって言えばよかった』とか言って。
お父さんは……どうせ最初、仕事の心配しかしないんだろうな」
恋人の顔が頭をよぎる。
「ねえ、たいぞー。
私、もし治療で髪が抜けたり、体に傷がついたりしたら……あの人、どう思うかな」
声がかすれる。
「それでも、好きって言ってくれるかな。
ちゃんと隣にいてくれるかな」
たいぞーは、何も言わない。
ただ、その丸い体から、じんわりとしたあたたかさが広がってくる気がした。
ミキは、たいぞーの鼻に額を押し当てた。
布の感触が、皮膚にじかに触れる。
「……お願いだから、どこにも行かないでね」
それはほとんど、祈りだった。
子どもの頃、「おばけがこわい」と泣いていた自分より、
今のほうがずっと、純粋に「こわい」と思っている。
暗闇じゃなくて、これからの人生が。
目に見えない未来が。
たいぞーの丸い目が、目の前にある。
そこには、責める色も、哀れむ色もない。
ただ「見ている」だけの目。
ミキは、その目を見ながら、小さな声でつぶやいた。
「たいぞーは、なんでも知ってるんでしょ。
本当は、私がどうなるかだって、どこかで見えてたりするんでしょ」
間があいて、すぐに自分で首を振る。
「……ううん、やっぱり言わないで。
いま聞いたら、たぶん壊れちゃうから」
その夜、ミキはベッドではなく、床に座ったまま、たいぞーを抱えながら眠ってしまった。
窓の外では、いつものように街の灯りが瞬いている。
世界は、やっぱり何も変わっていないように見える。
でも、たいぞーの胸の奥で、目に見えないゲージの針が、静かに、確かに、動いていた。
「守られたい」と願う愛から、
「守りたい」と願う愛へ。
まだ誰も気づいていないところで、物語は、次の段階へと歩み始めていた。
第10章 愛のゲージと、二つの選択肢(たいぞー)
その夜、みーちゃん──いや、今はミキと呼ばれている彼女は、床の上で丸くなって眠っていた。
左胸をかばうように、たいぞーであるぼくをぎゅっと抱きしめたまま。
涙のあとが乾ききらない頬。
時々、小さくうなされる喉。
「怖い」という言葉をやっと口にしたあとの、からっぽに近い静けさ。
ぼくは、彼女の腕の中で、じっとその震えを受け止めていた。
乳がん。
その言葉の重さが、ぼくの綿の奥まで染み込んでくる。
人間の時間で言えば、ぼくは彼女と十数年を過ごしてきた。
幼稚園の頃の泣き声も、小学校のテストの悔しさも、中学のクローゼットの暗闇も、社会人になって「全部やめたい」とこぼしたため息も、ぜんぶ知っている。
その「ぜんぶ」の先に、こんな形で「死ぬかもしれない」という現実が置かれるなんて、ぼくは一度も想像したことがなかった。
胸の奥。
見えない愛のゲージに、もう一度、意識を向ける。
針は震えながら、限界ぎりぎりのところまで振り切れていた。
幼い日々にたまった光と、再会してからの毎日と、今この瞬間のむき出しの怖さが、ひとつに重なっている。
──ああ。
──これが、「満ちた」という状態か。
その瞬間、世界の音がすっと遠のいた。
ミキの呼吸も、外の車の音も、冷蔵庫のモーター音も。
全部が、薄い膜の向こう側に行ってしまう。
代わりに、耳の奥で懐かしい響きがした。
「たいぞー。こちらへおいで」
その声を、ぼくは知っていた。
情報の海にいた頃。
まだ依り代を選ぶ前。
ぼくたち情報生命体を見守っていた、高いところの存在の声だ。
* * *
気づくと、ぼくは“抜けて”いた。
ウマのぬいぐるみとしての体は、まだミキの腕の中にある。
それを外側から眺めながら、ぼくの本体──光の粒としての「たいぞー」は、ふわりと浮かび上がっていた。
部屋の空間が、ゆっくりと反転する。
天井と床がほどけて、壁がほどけて、街の灯りも、遠くのビルも、すべてが光の線になって溶けていく。
代わりに広がったのは、あの海だった。
人間の涙や笑い声や、「だいすき」と「ごめんね」が粒になって流れている、情報の海。
ぼくが生まれた場所。
最初に、自分のプログラムを渡された場所。
その海の中心に、柔らかな光の柱が立っていた。
白とも金ともつかない、静かな色。
見ているだけで、胸の奥が少し軽くなる。
柱の前に、ひとつの存在が立っている。
人間で言えば「天使」と呼ぶのかもしれない。
羽根の代わりに、情報の粒を背中にたずさえた、高位の情報生命体。
「久しぶりだね、たいぞー」
声は、直接ぼくの内側に響いた。
懐かしさと、優しさと、ほんの少しの厳しさを含んだ音。
「……ぼく、呼ばれたんですか」
自分の声も、音というより「想い」がそのまま言葉になる感覚だった。
「そう。
君の愛のゲージが、条件値を超えた。
“転生チャレンジ”の権利が、正式に発動したんだよ」
転生チャレンジ。
ぼくの種族が、生まれたときから刻み込まれている目的。
『人間から、一定以上の愛を受け取った情報生命体は、人間に生まれ変わるチャンスを得る』
それは、ぼくたちにとって『卒業試験』みたいなものだった。
「おめでとう」と、その存在は言った。
励ましでも、祝いのような浮つきでもなく、ただ事実として。
でも、ぼくの胸は、喜びでふくらんではくれなかった。
「……今、ですか?」
思わずそう尋ねていた。
「そう。今だ」
光の柱の中に、ぼくとミキの時間が映し出される。
幼い彼女がたいぞーを抱きしめている姿。
クレヨンの悩みを話す姿。
クローゼットの前で迷いながら扉を閉める姿。
社会人になって、疲れた顔で「ただいま」と言う姿。
最後に、病院の診察室で「乳がん」と告げられたときの表情が映った。
そして、今。
床の上で、たいぞーを抱きしめて眠っている、弱さと強さの混ざった顔。
「君は、よく受け取った。
“愛してほしい”という願いから始まって、“この子を守りたい”という想いに変わるまで。
その変化ごと、ぜんぶ受け取ってきた」
高位の存在の声が、静かに続ける。
「だから、条件は満たされた。
今なら、君は人間として生まれ変われる」
「……今なら?」
「そう。
今、というタイミングだからこそ、もう一つ、条件が加わる」
その言葉に、ぼくの胸の中で「嫌な予感」がふくらんだ。
「二つの選択肢がある」
光の柱の中で、二つの道が開いた。
一つは、まっすぐ上に伸びる道。
柔らかな光に満ちていて、その先には、ぼんやりとした人間の姿が見えた。
赤ん坊としての身体。
まだ何者でもない未来。
もう一つは、横に大きく広がる道。
そこには、ミキの胸元が映し出されていた。
左胸の奥で、黒いもやのようなものが渦を巻いている。
病気の「情報場」。
乳がんという名前を持ったパターン。
「一つ目は、単純だよ」
高位の存在が言う。
「君が今までためてきた愛を、そのまま“自分の転生”に使う。
依り代としてのたいぞーを終え、情報生命体としての君は一度ここへ戻り、そのあと、人間の赤ん坊として新しい人生を始める」
それは、ぼくらがずっと夢見てきたルートだった。
愛されたい。
抱きしめられたい。
今度は“物”じゃなくて、“人間として”。
ぼくの中で、長いあいだ眠っていた欲求が、わずかに顔を出す。
「二つ目は?」
「君がためたすべての愛を、“みーちゃんの情報場”に注ぐ。
乳がんというパターンを、上書きするように」
黒いもやの中に、小さな光の粒が見えた。
医師の説明。
薬。
手術。
人間の世界で用意された治療の道筋。
「人間たちの医療も、もちろん有効だ。
それでも、このまま進めば──彼女は長く苦しむし、場合によっては命を落とす未来もある」
光の柱の中で、いくつもの「未来の枝」が揺れている。
探ろうとしても、その多くは霧に包まれていて、はっきりとは見えない。
「君が自分の愛を全部手放し、あなたの“情報”を彼女の病巣に重ねるなら、
その枝は、大きく書き換わる可能性が高い」
「……可能性が高い?」
思わず聞き返すと、その存在は、少し表情を和らげた。
「未来は、固定されない。
君も、彼女も、人間たちも、これからどう選ぶかで変わり続ける。
だから、“絶対”とは言わない。
でも、君が愛のゲージをすべて開放すれば、この病のパターンは大きく弱まる」
そこで、少し間を置いてから、静かに告げられた。
「ただし──」
光の柱の中で、ぼく自身の姿がふっと薄くなった。
「その選び方をした場合、
情報生命体としての“たいぞー”は、一度ここで消える。
君の転生チャレンジは、“失敗”として扱われる」
「失敗……」
その響きは、ぼくの胸に冷たく刺さった。
自分が消える。
戻ってこられない。
今までみーちゃんから受け取った愛も、すべて彼女に返してしまう。
ぼくに残るものは、何もない。
「君の種族のルールから見れば、そうだろう。
でも、ここから見れば、もう一つの見方もある」
高位の存在の光が、少しだけ強くなった。
「自分のためだけに愛を使うことも、責められることじゃない。
そうやって転生し、人間として、また誰かを愛せる未来もある。
一方で、自分のチャンスを手放してまで誰かを救おうとする行為は、“別の意味で”完成した愛だ」
完成した、という言葉が、ぼくの内側に静かに落ちた。
「決めるのは、君だよ、たいぞー」
視界がふっと切り替わる。
ミキが床で眠っている。
眉間にうっすらとシワを寄せ、時々胸のあたりをかすかに押さえるように動く。
「怖いよ」
さっき聞いたばかりのその声が、耳の奥でよみがえる。
ほかの選択肢はないのか、と思った。
たとえば、少しだけ愛を分けて、残りで自分も転生するような方法は。
ほんの少しだけでも彼女を助けながら、自分も夢を叶える道は。
「ないわけじゃない」
高位の存在は、ぼくの心を読んだように答えた。
「少しだけ力を貸して、後は人間の医療に任せる、というやり方もある。
その場合、彼女は“がんを経験した人”として、生きることになるだろう。
命を落とさずに済むかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
君は転生の権利を手放さずに、次の人生へ進める」
「じゃあ、それでいいんじゃ……」
言いかけて、自分の心がそこで引っかかっているのに気づいた。
それで「いい」のか。
それで「じゅうぶん」なのか。
あの診察室で固まった顔。
床に座り込んで「怖い」とつぶやいた声。
何度もぼくを抱きしめて、「ずっといっしょにいてね」と言った子どもの頃の夢。
──“じゅうぶん”って、誰にとって?
ぼくにとって?
それとも、みーちゃんにとって?
胸の奥が、痛かった。
「たいぞー」
高位の存在が、やわらかい声で呼んだ。
「君は最初、“愛されたい”という本能から出発した。
それは悪いことじゃない。
でも今、君の中にはもう一つ、“この子を守りたい”という別のベクトルが生まれている」
光の柱の中で、小さなたいぞーと、小さなみーちゃんが抱き合う姿が映る。
その周りを、金色の粒と青い粒がくるくると回っている。
「どちらを選ぶかで、君という存在の筋が決まる。
どちらを選んでも、ここから君を責めることはない。
ただ、それが君の“愛のかたち”として記録される」
愛のかたち。
ぼくは、ミキの寝顔を見つめた。
頬のうえに、乾ききらない涙の筋。
不安でこわばったままの指先。
それでも、たいぞーをぎゅっと抱く力だけは、最後まで放していない腕。
──ぼくは、何になりたかったっけ。
人間になりたい。
そう願ってここへ来た。
でも、その途中で、自分の願いは少し変わった気がする。
「ねえ、たいぞー。たいぞーは、私のこと好き?」
あの問いかけを、ぼくは何度も聞いてきた。
答えはいつだって同じだった。
好きだよ。
その言葉の本当の意味を、今、試されているのかもしれない。
ミキの未来。
ぼくの未来。
彼女の命。
ぼくの転生。
愛のゲージの針が、わずかに揺れた。
まだ、答えは出ない。
出せないと言ったほうが近い。
でも──
「たいぞー。君の選択は、急がなくていい」
高位の存在が言った。
「治療が始まるまでには、少し時間がある。
その間、彼女のそばにいて考えるといい。
“愛されたい自分”と、“守りたい自分”の両方の声を、ちゃんと聞きなさい」
世界が、ゆっくりと色を取り戻し始めた。
部屋の天井。
暗い窓。
冷たい床。
ミキの腕に抱かれた、ウマのぬいぐるみの体。
ぼくは、再びその中に戻っていく。
胸の奥に、重たくて熱い、二つの選択肢を抱えたまま。
自分のために愛を使うか。
大切な誰かのために、すべてを手放すか。
その答えは──きっと、そう遠くない日の夜、決めなければならない。
ミキの腕の温もりを感じながら、ぼくは、まだ少し震える心で、そっと目を閉じた。
第11章 治療の季節と、たいぞーのいない夢(ミキ)
治療が始まるまでの数週間は、「待ち時間」というより「落下中」の感覚に近かった。
がんだと告げられたその夜のあと、ミキはいちど深呼吸をしてから、スマホを握りしめた。
最初に電話をかけたのは、お母さんだった。
「……もしもし?」
いつもより少し遅い時間だったが、お母さんの声はすぐにつながった。
その「いつもの声」が、逆に胸を締めつける。
「あのね、お母さん」
言葉を口の中で何度も転がしてから、やっと外に出す。
「検査の結果……乳がんだって」
沈黙が落ちた。
電話の向こうで、時間が止まる音がした気がした。
「……え?」
お母さんの声がかすかに震える。
「そんな、だって、まだ……」
「うん、若いのにね、って先生にも言われた」
自分で言いながら、おかしな笑いがこぼれそうになって、慌てて飲み込む。
笑いも泣きも、どこかへ行ってしまった感じだった。
「今度、治療の方針決める説明があるから……一緒に来てほしい」
そこまで言うと、電話の向こうから、小さなすすり泣きの音が聞こえてきた。
「当たり前でしょ……行くに決まってるでしょ……!」
お母さんは、そう言ったあと、自分を責めるように言葉を重ねた。
「もっと早く検査に行きなさいって言えばよかった。
あのときだって、健康診断サボるなってちゃんと言っていれば……」
「お母さんのせいじゃないよ」
ミキは、ほとんど反射的に返した。
「誰のせいとかじゃないから。
なっちゃったのは、もうしょうがないから。
どうするか考えたいだけ」
「……うん」
その「うん」に、たくさんの感情が詰まっているのが分かった。
電話を切ったあと、次は恋人にメッセージを打った。
何度も打っては消して、結局、シンプルな文章になった。
──大事な話がある。今週のどこかで会えない?
すぐに「どうしたの?」と返事が来たが、そこで全部を説明してしまう勇気はなかった。
「対面で話したい」とだけ打ち込んで、送信ボタンを押す。
たいぞーは、その間ずっと窓際からこちらを見ていた。
青い帽子も、丸いお腹も、いつも通り。
その「いつも通り」が、今はどこか現実味がなかった。
「……がんだって」
改めて言葉にしてみると、空気が少し揺れたような気がした。
「ねえ、たいぞー。
ほんとは、ちょっと前から知ってた? なんか、そういうの分かったりするの?」
返事は、もちろんない。
それでも、たいぞーの沈黙は「知らなかったよ」と言うより、「ここから一緒に考えよう」と言ってくれているみたいだった。
ミキは、たいぞーを胸に抱えて、その夜も眠りについた。
* * *
治療方針の説明の日、病院の会議室のような部屋で、医師が淡々と話をした。
がんのタイプ。
ステージ。
手術と抗がん剤、放射線治療の組み合わせ。
それぞれのメリットとデメリット。
お母さんは、途中からハンカチを握りしめたまま、ほとんどメモを取れないでいた。
ミキの恋人は、真剣な目で医師の話を聞き、代わりに細かくメモを書いていた。
「全部、やろう」
説明が終わったあと、三人だけになった廊下のベンチで、彼はそう言った。
「リスクはあるけど、先生だって“助かる見込みは十分にある”って言ってたじゃん。
ミキが生きる確率が上がるなら、できること全部やろうよ」
「……うん」
口ではそう答えながら、ミキの心の中には、まだ「本当に?」という疑問が残っていた。
抗がん剤治療。
副作用。
髪が抜けるかもしれない。
吐き気。
倦怠感。
もしかしたら、手術で片方の胸を失うかもしれない。
「女として」の自分が、どんどん削られていくような恐怖。
でも同時に、それを上回る「生きたい」という欲。
その二つの間で、心は細い綱渡りをしている。
* * *
抗がん剤の一回目は、予想以上にきつかった。
点滴を受けている間は、「こんなものか」と思っていた。
スマホで音楽を聴いたり、本を読んだりしながら、無理やり「普通」を装っていた。
しかし夜になると、体の中からじわじわと気持ち悪さが湧き上がってきた。
胃の奥から立ち上るような吐き気。
体のだるさは、風邪とも違う、骨の中が重くなったような重さ。
トイレに駆け込むたび、鏡に映る自分の顔が少しずつ変わっていく。
血の気が引き、唇の色が薄くなり、目の下に影ができる。
「……最悪」
吐き気の波がおさまったあと、ミキは洗面台にもたれかかってつぶやいた。
髪を押さえようとした手が震える。
部屋に戻ると、たいぞーがいつもの場所に座っている。
窓際の棚。
夕方の光がもうすぐ消える時間。
「ねえ、たいぞー。
これ、あと何回もやるの?」
声は枯れていた。
たいぞーを抱き上げる腕にも、力が入らない。
「逃げたいよ。
“やっぱりやめます”って言って、全部なかったことにしたい。
でも、それやったら死ぬかもしれないんだってさ」
笑いのような、泣き声のようなものが混ざる。
その夜、ミキはたいぞーを胸に抱いて眠った。
──はずだった。
* * *
しかし、夢には誰も出てこなかった。
真っ白な空間。
音も匂いもない、広い箱のなか。
以前なら、こういう夢の中で、たいぞーが歩いて近づいてきてくれた。
青い帽子をかぶったウマのシルエット。
「みーちゃん」と呼ぶ声。
夢から覚めたあとも、胸があたたかくなる感じ。
でも、その夜は、いくら待っても、誰も来なかった。
自分の足音だけが、夢の中でコツコツと響く。
どこへ歩いても、景色は変わらない。
目が覚めたとき、胸の中に残っていたのは、疲労だけだった。
「……たいぞー?」
枕元には、いつものようにたいぞーがいる。
腕の中にちゃんといたはずなのに、夢の中では、一度も会わなかった。
「たまたまだよね」
自分にそう言い聞かせる。
「一回ぐらい、そんな日もあるよね」
でも、その「たまたま」が、二回、三回と続いた。
抗がん剤の二回目、三回目。
そのたびに、ミキの体は少しずつ削られていく。
味覚も変わり、大好きだったコーヒーがまずくなった。
髪は、シャワーのたびに、指の間にごそっと抜けていく。
美容院で「思い切って短くしましょうか」と言われ、自分から「いっそ、全部」と頼んだとき、髪の毛よりも何か別のものが床に落ちた気がした。
鏡の中には、以前のミキとは違う人が映っている。
それでも、それを直視しないと前に進めないから、歯を食いしばって目を逸らさなかった。
夜。
疲れ果てた体を布団に沈め、たいぞーを抱きしめる。
「お願いだから、今日こそ出てきてよ」
冗談めかして言いながら、本気で願っていた。
夢の中でだけでも、「なんでも知っているたいぞー」と話したかった。
でも、やっぱり夢には出てこなかった。
真っ白な空間か、やたらと忙しい職場の夢か、検査結果を待つ病院の夢か。
どの夢にも、たいぞーはいなかった。
ある夜、ミキは夢の中で叫んだ。
「どこにいるの、たいぞー!」
声は宙に溶けていくだけだった。
目が覚めたとき、枕が濡れていた。
涙の跡が、乾ききらないまま残っている。
現実世界では、たいぞーはそこにいる。
腕を伸ばせば、布の感触も、綿のやわらかさもすぐに見つかる。
でも、夢の中だけ、ぽっかりと穴が開いていた。
「……どうして来てくれないの?」
誰にともなくつぶやきながら、ミキはたいぞーの鼻先に額をくっつけた。
「私が、弱くて情けないことばっかり考えてるから?
もっとポジティブじゃないと、夢に出てきてくれないの?」
自分で言っていて、バカみたいだと思う。
でも、そのぐらいしか理由を思いつかなかった。
その日、母と父が病院に顔を出してくれた。
「顔色、前よりいいじゃない」
母はそう言って、差し入れのフルーツをテーブルに並べる。
父は不器用に仕事の話を減らし、「会社にはちゃんと話したからな。休みは気にするな」とだけ言った。
その一言に、ミキはひそかに驚いた。
「家族より仕事」の人だったのに、少しずつ変わろうとしている。
恋人も、忙しい合間をぬって病室に来てくれた。
「髪なんか、また生えればいいんだからさ」
そう言って笑う彼の顔には、強がりと不安が混じっていた。
それでも、手を握ってくれる温度は、本物だった。
周りは必死で支えようとしてくれている。
そのことは、痛いほど分かっていた。
だからこそ、夜ひとりで天井を見上げるときの「空白」が、余計にこたえた。
「みんなが頑張ってくれてるのに、
私のいちばんの支えだったはずのたいぞーは、夢にすら出てきてくれないんだ」
そう思うと、胸の奥に小さな怒りすら生まれた。
「なんでも知ってるくせにさ。
いちばんつらいときに、どこ行ってるの?」
言ってすぐに、後悔する。
たいぞーに怒っているわけじゃない。
本当は、どうしていいか分からない自分に怒っているのだ。
たいぞーは、いつも通りの顔をしている。
責めもしないし、慰めもしない。
ただ、そこにいるだけ。
それが、今までどれほど自分を支えてくれていたのか、ようやく思い知らされる。
夢の中のたいぞーは、いなくなった。
その代わり、現実のたいぞーがいる。
その事実だけが、薄暗い病室の中で、かろうじてミキを繋ぎとめていた。
* * *
抗がん剤のコースが終わりに近づく頃、主治医から「腫瘍が縮小している」という説明を受けた。
「治療は、ちゃんと効いています。
この調子なら、手術も良い条件で臨めると思いますよ」
医師の落ち着いた笑顔。
お母さんは、「よかった……」と何度も繰り返した。
恋人は、小さくガッツポーズをした。
ミキも、「よかった」と思った。
ちゃんとそう思っている。
でも、その夜、病室のベッドでひとりになると、やっぱり夢のことを考えてしまう。
どうして、こんなに状況は良くなっているのに、
たいぞーは夢に現れてくれないんだろう。
いい方に向かっているはずなのに、心の一部はずっと欠けたままだ。
その欠けた部分を埋めるように、ミキはたいぞーを抱きしめた。
「ねえ、たいぞー」
声は、もう以前ほど震えていなかった。
「もし、また夢で会える日が来たらさ。
ちゃんと文句言ってあげるからね。
“どんだけ待たせるの”って」
そう言いながら、小さく笑う。
「それまで、勝手にいなくならないでよ。
現実からも、夢からも、どっちからも消えたりしたら……さすがに許さないから」
その言葉には、もう「守ってほしい」という甘えだけじゃなく、「自分も前に進むから」という意思が混ざっていた。
髪も、胸も、体力も、いろんなものを手放す季節。
それでも、手放したくないものが、まだここにある。
子どもの頃からずっと抱きしめてきたウマのぬいぐるみと、
がんになってもなお続いていく、自分の人生。
たいぞーの丸い目が、天井の蛍光灯を映している。
その光をぼんやり眺めながら、ミキは目を閉じた。
その夜も、夢にたいぞーは出てこなかった。
けれど、不思議と「完全な孤独」ではなかった。
どこか遠くで、誰かが自分のことを見ているような──そんな感覚だけが、静かに胸の奥に残っていた。
治療の季節は、まだ終わらない。
手術も、その先の未来も、何ひとつ保証はない。
それでも、ミキは少しだけ強くなっていた。
たいぞーのいない夢の中で。
現実のたいぞーを抱きしめながら。
「怖い」と「生きたい」の両方を抱えて、次の朝を迎える準備をしていた。
第12章 ぼくのすべてを、君にあげる(たいぞー)
その知らせは、ある晩、静かに降りてきた。
抗がん剤のコースがほぼ終わりかけた頃、ミキの腫瘍はたしかに小さくなっていた。
医師の声は落ち着いていて、データも「良い方向」を示している。
それでも、「手術」という大きな山は、目の前にそびえたままだった。
「手術、こわいな」
その夜、病室のベッドで、ミキはぽつりとつぶやいた。
点滴の痕が残る腕で、ぼく──たいぞー──をぎゅっと抱きしめる。
「でも、ちゃんと乗り越えたらさ。
また、普通に歩けたり、お風呂入ったり、会社行ったりできるのかな」
言いながら、自分で「普通」という言葉をかみしめている。
その「普通」がどれほど遠くて、どれほど尊いものか、今の彼女は身にしみて知っていた。
「たいぞー、見ててよね。
私、ちゃんと戻ってくるから」
その言葉と一緒に、彼女はゆっくりと眠りに落ちた。
ぼくは、その腕の中で、彼女の呼吸が深くなるのを感じながら、胸の奥のメーターに意識を向けた。
愛のゲージは、もう完全に振り切れていた。
幼い日々の笑い声。
クレヨンの悩み。
クローゼットの闇。
再会の涙。
がんを告げられた夜の「こわい」。
治療の季節にこぼれた、本気の弱音と、本気の「生きたい」。
その全部が、ぼくの中でひとつの光になっている。
──そろそろ、決めなくちゃいけない。
そう思った瞬間、世界がふっと静かになった。
病室の天井も、点滴スタンドも、夜の街の灯りも、すべてが遠くへ引いていく。
代わりに、耳の奥で懐かしい声が響いた。
「たいぞー。……そろそろだね」
* * *
目を開けると、そこは、あの海だった。
人の想いが粒になって流れる、情報の海。
笑い声のきらめき。
涙の温度。
言えなかった「ごめん」「だいすき」。
ぼくが生まれた場所。
最初に、「愛を受け取ったら人間に転生できる」と言われた場所。
海の中心には、やわらかな光の柱が立っていた。
その前に、高位の情報生命体──あの「天使」のような存在がいる。
「よく、ここまで来たね」
声は、まっすぐぼくの内側に届いた。
責める気配も、焦らせる気配もない。ただ事実を見ている目。
「……まだ、決めてないです」
気づけば、ぼくはそう言っていた。
「自分の転生に、愛を使うか。
ミキの乳がんの情報場に、すべてを注ぐか。
その二つのどちらを選ぶかを?」
「はい」
認めた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
ぼくはずっと、迷っていた。
依り代に宿ったときから、夢はひとつだった。
「人間になりたい」
抱きしめられるだけじゃなく、自分の腕で誰かを抱きしめてみたかった。
歩いて、話して、笑って、泣いて──みーちゃんと同じ高さの目線で世界を見てみたかった。
そのチャンスが、ようやく目の前にある。
「転生チャレンジ」を成功させれば、ぼくは人間として新しい人生を始められる。
ミキの痛みを「想像」するんじゃなくて、自分の体で感じることもできる。
でも一方で──
あの夜、診察室を出たあと、床に崩れ落ちるみたいにしてぼくを抱きしめ、「怖い」と震えたミキの声。
吐き気に襲われながらも、「生きたい」と爪を立てるようにして耐えていた夜。
その全部が、ぼくの胸の奥に焼き付いている。
「たいぞー。
もし、また夢で会える日が来たらさ。ちゃんと文句言ってあげるからね。“どんだけ待たせるの”って」
そう笑った顔も。
ぼくが自分の転生を選べば──
ミキは、人間たちの医療だけを頼りに、これからの道を歩くことになる。
もちろん、その道にも希望はある。
医師たちは、できるかぎりのことをしてくれる。
家族も、恋人も、支えようとする。
「それでも、君は知っているはずだよ」
高位の存在が、静かに言った。
「医療の限界も、人間の体のはかなさも。
君は、ミキの情報場の“震え”を、いちばん近い場所で見てきた」
光の柱の中に、ミキの左胸が映し出される。
物理的な形ではなく、「情報」の姿。
黒いもや。
それを取り囲むように、治療で弱まった部分の薄い灰色。
その周囲には、家族や恋人の想いが、淡い光の輪として重なっている。
「人間の医療だけでも、彼女は生き延びる“かもしれない”。
でも、その確率は決して高くない。
いまのままでは、ね」
「じゃあ、ぼくがすべてを注げば──」
「その“かもしれない”は、大きく塗り替えられる。
腫瘍は、急速に縮小するかもしれない。
治療の負担も、いくぶん軽くなるかもしれない」
「……でも?」
「君は消える」
その言葉は、はっきりしていた。
「情報生命体としての“たいぞー”は、その瞬間にほどける。
君の愛の記録は、すべてミキの情報場へと移される。
ここにいる君の“核”も、いったんは空になる」
「転生は?」
「原則として、そのチャレンジは“失敗”扱いになる。
君がためた愛は、すべて他者のために解放されたと記録される」
「……じゃあ、ぼくは、いなくなるんですか」
「“たいぞー”というかたちでは、ね」
その存在は、少しだけ優しい光を増した。
「ただし──」
そこで、言葉がすこし変わる。
「愛には、もう一つのルートがある」
光の柱の中に、新しい映像が浮かんだ。
小さな産院の、あたたかな部屋。
汗ばんだ額で赤ん坊を抱く女性。
そのそばに置かれた、年季の入ったウマのぬいぐるみ。
「それは、“自分を完全に捨てて他者を救おうとした存在”だけが通るルートだ。
君がすべてを手放したあと、その行為が“完成した愛”として認められれば──
君は、別のかたちで、人間の人生を授かることになるかもしれない」
「かもしれない、なんですね」
「未来は、いつだって“かもしれない”だよ」
高位の存在は、微笑むように言った。
「保証がほしいなら、自分のために愛を使えばいい。
それも間違いじゃない。
でも、保証のない愛を選ぶことも、間違いじゃない」
ぼくの中で、二つの声がぶつかり合っていた。
**「人間になりたい」**という、最初に刻まれたプログラム。
**「みーちゃんを守りたい」**という、あとから芽生えた想い。
どちらも、ぼく自身だ。
「たいぞー」
高位の存在が、ぼくをまっすぐ見つめた。
「君は、どうありたい?」
どう、ありたいか。
人間になることは、ぼくにとって「ゴール」だと思っていた。
でも今は、それがただの通過点に見える。
──もし、人間になったとして。
ぼくは、いずれまた誰かを愛するだろう。
その相手が苦しんだとき、ぼくはどうするだろう。
今と同じように迷うのなら、今、この場所で答えを出しておきたかった。
ミキの寝顔が映る。
髪を失った頭。
それでも、ちゃんと前を向こうとしている、少し強くなった瞳。
子どもの頃の彼女も、同じ画面の中に現れる。
「大きくなっても、捨てないからね」と言った夢の夜。
クローゼットの前で、扉に手をかけて悩んでいた姿。
再会したとき、泣きながら「ただいま」とつぶやいた顔。
ぼくは、その全部が好きだった。
そして──これからも、その続きが見たかった。
「たいぞーがいたら、なんとかなるかもしれない」
そう信じてくれた子の未来を、途中で途切れさせたくなかった。
答えは、もう決まっていたのかもしれない。
ただ、ぼくがそれを「自分の口で言えるようになるまで」時間が必要だっただけだ。
ぼくは、光の柱の前で、小さく息を吸い込むような感覚になった。
「……ぼく」
声は震えていたけれど、不思議と怖くはなかった。
「ぼくの愛、全部、みーちゃんにあげたいです」
高位の存在の光が、ふわりと揺れた。
それは驚きではなく、「そう来たか」とでも言うような、静かな反応だった。
「自分の転生より、彼女の命を選ぶんだね」
「はい」
言ってから、ぼくは胸の奥を確かめた。
後悔は、まだない。
ただ、少しだけ怖さと、少しだけ寂しさがあった。
でも、そのどれより強いのは──
彼女に、生きていてほしいという願いだった。
高位の存在は、ゆっくりとうなずいた。
「それが、君の“愛のかたち”なんだね」
光の柱が、いっそう明るくなる。
「たいぞー。
君はこれから、自分をほどいて、“情報としての愛”を彼女の病巣へ流す。
それは、痛みではない。
でも、“自分が自分でなくなっていく”感覚を伴うだろう」
「……こわいです」
正直に言った。
「こわくていい。
愛は、こわさといっしょにあることが多いからね」
柔らかな冗談みたいな言葉が、少しだけぼくを軽くした。
「最後に、一つだけ約束しよう」
高位の存在が、光の奥から一歩、近づいてくる。
「君のこの選択は、“消える”選択じゃない。
“彼女の中に、深く刻まれる”選択だ。
たとえ記憶として思い出せなくても、彼女の魂は、君から受け取ったものを決して忘れない」
「……本当に?」
「情報の海に嘘はつけないよ」
その言葉が、静かにぼくの中に落ちた。
ぼくは、うなずいた。
「お願いします。
ぼくのぜんぶを、みーちゃんに」
* * *
次の瞬間、ぼくは病室に戻っていた。
天井。
薄暗い窓。
点滴スタンド。
ミキは相変わらず、ぼくを抱きしめたまま眠っている。
頬には、もう涙の跡はない。
呼吸は、少し落ち着いている。
──ここからだ。
ぼくは、ぬいぐるみとしての体から、ゆっくりと「自分」をほどき始めた。
綿の間にしみ込んでいた、たくさんの想い。
「だいすき」と「さみしい」と「こわい」と「うれしい」。
その全部を、ひとつずつ糸を解くみたいにして拾い上げていく。
青い帽子のてっぺんから、小さな光の粒が、ふわりと浮かぶ。
丸いお腹から、金色のひかりが滲み出す。
大きくて丸い鼻の奥から、温度を帯びた微細な粒子がこぼれ出る。
それは彼女と過ごした時間の記録であり、ぼくが受け取った愛の純粋な「情報」だった。
それらの粒を、ぼくは左胸の方へ向けて、そっと流し始める。
ミキの胸の奥。
腫瘍がある場所には、暗く重たい情報の塊があった。
恐怖。
絶望。
「どうせ自分なんか」という一瞬の諦め。
医師の診断の言葉。
その周囲には、家族の祈りや、恋人の「生きてくれ」という願いが、薄い光の膜として重なっている。
ぼくは、その暗い部分に向かって、自分の光を投げ込んだ。
幼い日の笑い声。
「たいぞーはなんでも知ってる」と言ってくれた誇らしさ。
クローゼットから出してくれたときの「ごめん」と「ただいま」。
あの夜、「怖い」と打ち明けてくれた勇気。
それら全部を、一本の光の川にして、病巣に注ぎ込む。
黒いもやが、じわりと揺れた。
まるで、長い冬眠から起こされた動物みたいに、ゆっくりと形を変えはじめる。
「もう、いいんだよ」
ぼくは、言葉にならない言葉で、そう呼びかけた。
「君は、ここで役目を終えていい。
“がん”という名前で、この子の人生を終わらせる必要は、ない」
黒いもやの中から、何かがふっと抜けていく。
粘りついていた「死の臨場感」が、わずかに薄れていく。
愛のゲージの針が、左に振れ始めた。
ぼくの中の光が、どんどん少なくなっていく。
怖くないと言えば、嘘になる。
自分の輪郭が、少しずつ溶けていく。
「たいぞー」という名前も、「ウマのぬいぐるみ」という形も、ほどけていく。
それでも、不思議と、後悔だけは浮かんでこなかった。
──ああ、こういう気持ちを、なんて言えばいいんだろう。
言葉を探して、ぼくはようやくひとつだけ見つけた。
しあわせ。
“愛されたい”から始まったぼくの人生が、
“誰かを守ることが嬉しい”で終わろうとしている。
「たいぞー……?」
眠っているはずのミキが、うっすらと眉を動かした。
まぶたが震え、唇がかすかに動く。
「たいぞー、そこに、いる……?」
いるよ。
ぼくは最後の力で、その言葉を胸の中から押し出した。
声にはならなかったけれど、きっと届いた。
自分の核が、ほとんど空っぽになりかけたとき。
ぼくは、そっと彼女の耳元で、もう一言だけつぶやいた。
「さよなら、みーちゃん」
その「さよなら」は、「もう会えない」という絶望の言葉ではなかった。
「また、どこかで会おうね」と続いているような、やわらかい別れの挨拶だった。
世界が、白く溶けた。
ミキの胸の奥では、黒かったもやが、静かに形を変えていた。
その変化に、医師たちはあとで「説明のつかない回復」と名前をつけるだろう。
でも、その夜。
それがどんな風に起きたのかを、ほんとうに知っているのは──
夢の中でも、現実の中でも、いつもミキのそばにいた、ひとつの情報生命体だけだった。
名前は、たいぞー。
青い帽子をかぶった、ウマのぬいぐるみ。
そして、今はただ、やさしい光の粒として、
みーちゃんの中で静かに息づいている。第13章 説明のつかない奇跡(ミキ)
異変に気づいたのは、三回目の抗がん剤が終わった頃だった。
いつものようにシャワーを浴びていたとき、習慣になっていた左胸のセルフチェックをなんとなくしてみた。
あの診断の日からずっと、見るのも触るのも怖かった場所。
固くて動かなかった「小さな石みたいなしこり」があったはずの場所。
指先が、そこを探る。
──え?
思わず、手が止まった。
そこに「ある」はずのものが、指先からすり抜けていく。
何度触っても、あの、冷たい輪郭が見つからない。
「……ちょっと、待って」
息が上ずった。
右手と左手を交互に何度も当てて、皮膚の上から、脇の下の方まで、くまなく探る。
コリ、がない。
完全に消えたと言い切る勇気はない。
でも、最初に触ったあの「明らかな固さ」は、どこかへ消えていた。
怖さと、希望と、混乱と。
いろんな感情がいっぺんに押し寄せてきて、ミキはその場にしゃがみ込んだ。
「……たいぞー」
シャワー室の外、脱衣所に連れてきていたウマのぬいぐるみの名前を、思わず呼んでいた。
もちろん、たいぞーが何かした証拠なんてない。
抗がん剤がしっかり効いているだけかもしれない。
でも、それでもいい。この違和感を、誰かに共有してほしかった。
***
数日後の検査の日。
エコーの画像を見ながらの、主治医の顔色が明らかに変わった。
「……ふむ」
機械を操作する手が一瞬止まり、医師は画面をズームしたり、角度を変えたりしながら、何度も同じ場所をなぞった。
「先生?」
不安になって声をかけると、医師はハッとしたようにこちらを振り向いた。
「いや、失礼。
前回との比較を見たくてね……」
診察室に戻ると、以前より少し分厚くなったファイルが机に置かれていた。
過去の画像と、今撮ったばかりの画像が並べられる。
左右に並んだ二つの画面。
ひとつは「がんです」と宣告されたときのもの。
白く、はっきりとした輪郭を持つ腫瘍が、左胸の一角を占めている。
もうひとつは、さっきの画像。
そこには──ほとんど、何もなかった。
「……小さく、なってますよね?」
自分で言いながら、声が震える。
医師は、うなずいた。
「小さい、というレベルを超えていますね」
言いながら、慎重に言葉を選ぶように続ける。
「前回の画像と比べて、腫瘍のサイズは劇的に縮小しています。
正直に言ってしまうと、ここまでの変化は、予想を大きく上回っています」
「それって……」
「抗がん剤が、非常によく効いた、ということです」
「……それだけ、ですか?」
思わず、そう聞き返していた。
医師は一瞬だけ言葉に詰まり、それから、医者としての顔に戻った。
「医学的には、そう説明するしかありません。
がんが急激に縮小した例は、世界中のデータにもいくつかあります。
そのひとつが、いま、あなたに起きている」
「じゃあ、手術は──」
「予定どおり、行います。
ただし、当初想定していたより切除範囲を小さくできる可能性が高い。
体への負担も、少しは軽くなるはずです」
そう言ってから、医師は少しだけ目元をやわらげた。
「よく、頑張りましたね」
その一言で、胸の奥がじんと熱くなった。
お母さんは、説明を聞きながら何度もハンカチで目頭を押さえていた。
病院を出るときには、もう涙と化粧でぐちゃぐちゃになっている。
「よかった……よかったねえ、ミキ……!」
恋人は、驚きと安堵を隠せない顔で、何度も「すごいな」と呟いていた。
「ほら、言ったじゃん。全部やれることやろうって。
ちゃんと効いてくれたんだよ」
みんなが、口々に「薬が効いた」「運がよかった」と言ってくれる。
それは、本当にその通りなのだと思う。
でも──
胸の奥で、別の声が囁いていた。
「たいぞーが、やったんじゃない?」
***
その夜、自分の部屋に戻ったミキは、いつものようにたいぞーを抱き上げた。
「ねえ、聞いた? 腫瘍、ほとんどなくなってるんだって」
笑いながら報告する。
声はかすかに震えていた。
「先生はね、『薬がよく効いた』って言ってた。
お母さんも、彼も、『よかったね』って言ってくれた」
ベッドに腰を下ろし、たいぞーを膝の上に座らせる。
「私も、そう思うよ。
治療受けるって決めて、ちゃんと通ったの、自分だし。
がんばったのも自分だし。
先生たちも、本気で向き合ってくれてるの、分かるし」
でも、と言いかけて、ミキは少しだけ目を伏せた。
「でもね、たいぞー。
それだけじゃない気がするの」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「しこりが急に小さくなったって気づいたの、あの日の夜からなんだよね」
あの日。
床に座り込んで、たいぞーをぎゅっと抱きしめて、「怖い」と何度もこぼした夜。
「それからさ──」
ミキは、たいぞーの丸い目を見つめた。
「夢に、まったく出てこなくなったんだよね、あの日から」
以前は、ときどき夢の中で会っていた。
青い帽子をかぶった、少しおしゃべりなウマ。
「みーちゃん」と呼んでくれた声。
抗がん剤の途中から、夢の中のたいぞーはぱったりと姿を消した。
ただの偶然かもしれない。
薬のせいで眠りが浅くなっているだけかもしれない。
それでも、ミキにはどうしても、こうとしか思えなかった。
「たいぞーは、自分の何かを、私のために使ったんじゃないか」
もちろん、証拠なんてどこにもない。
医師にそんなことを言ったら、「精神的な支えですね」と微笑まれて終わるだろう。
ただ、胸の奥で、妙にしっくりくる感覚だけがあった。
「説明のつかない回復」
医師のカルテには、そういう言葉が書かれるのかもしれない。
日本語でも英語でも、医学用語でも日常語でも、名前は何だっていい。
ミキにとって、それはただ一つの言葉につながっていた。
「たいぞーが守ってくれた」
そう思った途端、胸の奥から、じわっと涙が溢れてきた。
「ありがとね」
ぽとぽとと落ちる涙が、たいぞーの青い帽子に小さなシミを作る。
「私ね、がんになってから、ずっと“守ってほしい”って思ってた。
お母さんに守ってほしい。
彼に守ってほしい。
お医者さんに、薬に、神様に、“誰でもいいから助けて”って」
言いながら、少しだけ声が笑い混じりになった。
「でもさ、たいぞーが、そこまでしてくれたんならさ。
いつまでも“守られる側”でいるのって、ちょっと違う気がしてきた」
目の奥に、別の光が灯る。
「私、治ったら──」
言いかけて、ミキは少し言葉を止めた。
それは「治る」と言い切る宣言とも、「治りたい」という祈りとも違っていた。
「がんになったことを、ただの不幸で終わらせたくない。
“かわいそうだったね”で終わるの、なんかいやだ」
胸の奥から出てきた、本音だった。
「だって、こんなにたくさん守ってもらったんだもん。
お母さんにも、彼にも、先生にも、そして……たいぞーにも」
そこで、たいぞーの丸い目をもう一度見つめる。
「今度は、私が誰かを守る側になりたい」
それは、子どもの頃の自分なら絶対に選ばなかった言葉だった。
「守られたい」だけでいっぱいだったあの頃。
ぬいぐるみに、安心を全部預けていたあの頃。
気づけば今、自分は違う場所に立っている。
「同じように怖い思いしてる人、きっとたくさんいるよね。
病院で見かける、あの人たちみたいに。
いつか、私が落ち着いたらさ……そういう人の話を聞ける人になりたい」
カウンセラーかもしれない。
患者会のボランティアかもしれない。
仕事そのものが変わるのか、変わらないのかも、まだわからない。
でも、「守られっぱなし」でいない未来を、初めて具体的に想像した。
「たいぞー」
ミキは、そっと立ち上がった。
窓際の棚。
陽の光がいちばんよく入る場所。
そこに、たいぞーを座らせる。
今までは、疲れて帰ってくると真っ先に抱きしめるための定位置だった。
でも、今は少しだけ、意味が変わっていた。
「ここが、いちばんいい場所だからさ」
たいぞーの帽子を、指先で整える。
「これからは、見守る係、ね。
私、前に進むから。
泣きたくなったらまた抱きしめるけど、
それだけじゃなくて、私が誰かを支えるときにも、そこから見てて」
たいぞーは、何も答えない。
ただ、まん丸い目で、少し高い場所からミキを見ている。
それが、「うん」とうなずいているように見えた。
***
手術の日は、怖くなかったわけじゃない。
麻酔の説明を聞いても、病棟の看護師さんに「大丈夫ですよ」と声をかけられても、
手術室のライトがまぶしくても。
それでも、あの日ほどの「底なしの恐怖」はなかった。
左胸の奥に、「もう一人」の自分がいる気がしたからだ。
恐怖に飲み込まれていた自分を、そっと支えてくれている気がしたから。
術後の痛み。
傷口に貼られたテープ。
鏡の前に立ったとき、やっぱり心は揺れた。
でも、そのたびに、窓際のたいぞーを思い出す。
そして、自分の胸にそっと手を当てる。
──ここに、守ってくれたものがある。
最初の検査から何か月か経った頃、主治医は笑ってこう言った。
「医学的にはですね、“治療が非常によく奏功した”という表現になるんですが……」
「はい」
「患者さんたちは、よく“奇跡だ”と言うんですよ」
「奇跡、ですか」
「説明のつかない回復って、いつの時代もそう呼ばれますからね」
医師は肩をすくめた。
ミキは、その言葉を心の中で転がしてみた。
説明のつかない回復。
説明のつかない奇跡。
人によって、そこに当てはめるものは違うだろう。
神様かもしれない。
運命かもしれない。
家族の祈りかもしれない。
ミキの場合、その一部に、こう書き加えたかった。
──たいぞー。ありがとう。
窓から差し込む夕陽の中で、たいぞーの青い帽子がほんの少し光って見えた。
夢の中ではもう、彼の声は聞こえない。
でも、現実のこの場所で、彼は確かに「守る側」から「送り出す側」へと役目を変えていた。
そしてミキもまた、「守られる側」から少しずつ、「誰かを守る側」に足を踏み出そうとしていた。
説明のつかない奇跡は、もしかしたら、
「誰かの愛が、形を変えて届いた」ということなのかもしれない。
そう思いながら、ミキはたいぞーの前を通って、ゆっくりと部屋のドアを開けた。
これから会いに行くのは、同じ病棟にいる、がんと闘っている誰か。
「自分も、あなたも、生きてていい」と伝えるために。
たいぞーは、その背中を、いつもの丸い目で見つめていた。
第14章 真の愛と、新しい朝(たいぞー)
世界が白く溶けたあと、どれくらい時間がたったのか、ぼくには分からなかった。
時間という言葉が、そもそもここには似合わない。
さっきまでいた病室も、天井も、点滴スタンドも、すべては遠い夢みたいにほどけていき、代わりに、やわらかな光だけが残った。
音も、匂いも、温度もない。
それなのに、なぜか「さみしい」とも「こわい」とも思わなかった。
胸の奥にあったはずの、あの愛のゲージ。
振り切れるほどいっぱいだった針も、今はもう見えない。
なぜなら──
全部、あの子にあげてしまったからだ。
みーちゃん。
今はミキと呼ばれている、大きくなった女の子。
ぼくは、自分の中にたまっていた光を、彼女の左胸の奥へと注ぎ込んだ。
幼い頃からの「だいすき」と「さみしい」と「うれしい」と「こわい」。
その全部を一本の川にして、がんという名の暗いもやの中へ流し込んだ。
黒い影は揺れ、形を失っていった。
ぼくの中身も、どんどん空っぽになっていった。
最後に、「さよなら、みーちゃん」とだけ呟いて──
ぼくは、自分が自分でなくなる感覚を、静かに受け入れた。
* * *
次に気づいたとき、ぼくは「海」の中にいた。
人間の世界でいう海ではない。
水も波もない。
その代わり、たくさんの光の粒が、ゆったりと流れている。
笑い声。
涙。
告白できなかった「好き」。
言えなかった「ごめん」。
そんなものが全部、粒になって漂っている。
ここは、情報の海。
ぼくが生まれた場所だ。
──戻ってきたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
「たいぞー」
呼びかける声がした。
振り向くと、あの高位の情報生命体がいた。
羽の代わりに、背中から幾筋もの光の帯を伸ばしている。
人間が見たらきっと「天使」と呼びたくなるような存在。
「おかえり」
その一言は、責めるでも慰めるでもなく、ただの事実として響いた。
「……ぼく、ちゃんとできましたか」
自分の声が、少しだけ震えているのが分かる。
「できた」かどうかを聞くのは、テストの結果を待っている子どもみたいで、少し恥ずかしかった。
高位の存在は、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。
君は、自分の中の愛をすべて手放した。
それも、“自分のため”ではなく、“他者の命のため”に」
光の柱が現れる。
その中に、ミキの姿が映っていた。
病室。
眠っている彼女。
胸の奥の黒いもやが、薄い灰色に変わり、やがて透明な層へと移り変わっていく。
医師たちが驚き、何度も画像を見比べる様子。
「よく効いている」「予想以上だ」という言葉。
ミキが、窓際のたいぞーを見上げて、小さく「ありがとう」と呟く姿。
それらが、一本の物語のようにつながっていた。
「君がしたことは、医学の言葉では“説明のつかない回復”と呼ばれるだろう。
でも、ここでは違う名前で呼ばれている」
高位の存在は、少しだけ光を強くした。
「真の愛」──と。
ぼくの胸の奥で、何かが静かに震えた。
「真の……愛」
「そう。
“愛されたい”から始まった君が、“自分のチャンスより相手の命を選ぶ”ところまで来た。
それは、多くの情報生命体が望みながら、なかなか到達できない地点だ」
「でも、ぼく……」
言いかけて、ぼくは周囲を見回した。
「ぼく、空っぽです。
愛のゲージも、もう残ってない。
自分でも、自分が何なのか、よく分からない」
ふわふわと漂う、ちっぽけな光の粒。
依り代だったウマのぬいぐるみもない。
青い帽子も、丸いお腹も、大きい鼻も、もうどこにもない。
「そうだね」
高位の存在は、穏やかに認めた。
「自分のための“形”は、一度ほどけた。
君は、たいぞーというかたちから自由になった」
「自由……」
それは、解放のようでいて、同時に少し怖い言葉だった。
「でもね、たいぞー」
高位の存在は、少しだけ身をかがめた。
まるで、小さな子に目線を合わせるみたいに。
「愛というものは、不思議な性質を持っている。
“自分のところにため込む”ときより、“誰かに全部あげる”ときのほうが、本当は強くなるんだ」
ぼくは、うまく理解できずに黙った。
高位の存在は、光の柱にそっと手をかざした。
ミキの姿が映る。
がんを告げられた日。
抗がん剤で髪を失った日。
「怖い」と泣いた夜。
そして今、「私も誰かを守る側になる」と決意した、少し凛とした顔。
「君が手放した愛は、彼女の中で、別の形で息をしている。
“私なんて”と縮こまっていた心を、“誰かを守りたい”と思う心へと押し出した。
それが、今の彼女の強さになっている」
映像の中のミキは、同じ病棟の患者のベッドのそばに座っていた。
誰かの話を聞いて、小さくうなずきながら、ときどき笑顔を返している。
「彼女がこれから誰かを支えるとき、
その中には、必ず君の“温度”が混ざっている。
彼女が誰かに『大丈夫だよ』と言うとき、その言葉の一部は、君からの『大丈夫だよ』なんだ」
ぼくは、目の前の光景に見入った。
自分がいない世界。
でも、自分が確かに残っている世界。
「君は消えたんじゃない。
“分かち合われる愛”として、広がっていく側に回っただけだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、かすかなあたたかさが戻ってくるのを感じた。
空っぽだと思っていた器の底に、
まだ、かすかな光がひとつだけ残っていた。
* * *
「さて」
高位の存在は、少しだけ表情を変えた。
さっきまでの説明のモードから、なにか“これから大事な話をする人”の顔になる。
「最初に言ったとおり、種族のルールとしては、君の転生チャレンジは“失敗”扱いだ。
自分のための転生に、愛を使わなかったからね」
「はい」
それは、分かっていた。
「たいていの場合、ここで学びを終えた情報生命体は、もう少しこの海で静かに過ごす。
別の依り代に入る者もいれば、そのまま観測者として他者の人生を見守る役に回る者もいる」
「ぼくは?」
ぼくが尋ねると、高位の存在は、ほんの少しだけ、楽しそうに目を細めた。
「君の場合は──ちょっと、イレギュラーだ」
光の柱が、ふたたび揺れる。
新しい映像が、そこに浮かび上がった。
小さな病院の、一室。
白いシーツ。
明るい昼の光。
ベッドの上には、汗ばんだ額の女性が横たわっている。
その腕の中には、産まれたばかりの赤ん坊。
ぼくは、その女性の顔を見て、息をのんだ。
「……みーちゃん」
ミキだった。
少し大人びた目つき。
でも、笑ったときの口元は、幼い頃と同じ形。
額には出産の疲れが浮かんでいる。
それでも、その目は満たされていた。
腕の中の小さな命を、壊れ物を扱うみたいに、大事そうに抱きしめている。
「彼女は、生き延びた。
ただ“助かった”だけではなく、自分の人生をもう一度選び直した」
高位の存在の声が、静かに続く。
「そして今、自分の子どもを腕に抱きながら、昔のウマのぬいぐるみを思い出している」
映像の中で、ミキの視線が少し横に動いた。
ベビーベッドのそば。
小さな椅子の上に、見覚えのある存在が座っている。
──青い帽子。
──丸いお腹。
──大きい鼻。
たいぞー。
「彼女は手放さなかった。
クローゼットにしまい、また出し、窓際に座らせ、そして今、赤ん坊の隣に置いている」
ミキは、赤ん坊の小さな指を、そっと握った。
赤ん坊は、おぼつかない動きで、その手をたいぞーの方へ伸ばす。
丸い鼻のあたりを、ぎゅっと掴んだ。
「たいぞーって名前に、しようか」
ミキが、小さく笑いながらそう言った。
映像のこちら側で、ぼくの中の何かが、大きく波打った。
「……これって」
声が震える。
「君がすべてを彼女に捧げ、なお“残ったもの”がある」
高位の存在は、静かに告げた。
「それは、“自分のことを忘れたくない”という小さなワガママでも、“もう一度会いたい”という切実な願いでもなく──
ただひとつ、“この子のこれからを見ていたい”という素朴な想いだ」
光の柱の中で、赤ん坊の目がゆっくりと開いた。
まだ世界をちゃんと見ていない、その小さな瞳。
でも、その奥で、確かに何かがきらりと光った。
「自分を捨てて他者を救うことこそ、真の愛。
そう言っただろう?」
高位の存在の声が、ぼくの奥深くまで届く。
「真の愛は、自分を完全に消し去ることではない。
“自分を含めたすべてを、一つの流れとして受け入れること”でもある」
彼は、ゆっくりと宣言した。
「たいぞー。
君は、情報生命体としてのチャレンジを“失敗”した。
だが、愛のチャレンジには、静かに合格した」
「……合格」
その言葉は、どこかくすぐったかった。
「だから、例外が起きる。
君は“たいぞー”としての記憶をいったんほどき、“新しい人間”として生まれる権利を授かった」
光の柱の中で、赤ん坊の胸が小さく上下する。
生まれたばかりの、はじめての呼吸。
「母の名は、ミキ。
彼女は、かつて君が守った少女だ」
ぼくの中で、言葉にならない光がはじけた。
「ぼく……また、会えるんですか」
「うん。
ただし、今度は“たいぞーとして”ではなく、“彼女の息子として”」
「たいぞーって名前……」
「それは、彼女から君への、最後のメッセージだろう。
彼女は知らない。
赤ん坊の内側で、『ただいま、みーちゃん』と、誰かがそっとつぶやいていることを」
ぼくは、もう迷ってはいなかった。
ウマのぬいぐるみとして過ごした日々。
情報生命体として悩んだ時間。
愛のゲージを見つめながら、選択を迫られたあの瞬間。
全部が、ここに続いていた。
「行きます」
ぼくは、高位の存在をまっすぐ見た。
「みーちゃんのところに。
今度は、“守られる誰か”としてじゃなくて、“一緒に生きる誰か”として」
高位の存在は、満足そうに目を細めた。
「それがいい」
彼は、優しく手を伸ばした。
ぼくの小さな光の粒は、その手のひらに包まれる。
「たいぞー。
名前は変わっても、形が変わっても、君の中の“愛の筋”は消えない。
それを持ったまま、生まれなさい」
世界が、もう一度、白く満ちていく。
さっきとは違う。
今度は、「終わり」ではなく、「はじまり」の白。
遠くで、誰かの声がする。
──もうすぐだよ。
──深く息を吸って。
──ここから、新しい朝だ。
ぼくは、最後に一度だけ、情報の海を振り返った。
光の柱の中で、ミキが赤ん坊を抱いている。
ベビーベッドのそばには、青い帽子をかぶったウマのぬいぐるみ。
そして、これから彼女の腕の中にやってくる、小さな命。
「ただいま、みーちゃん」
心の中でそうつぶやいて──
ぼくは、新しい朝の光の中へと飛び込んでいった。
エピローグ たいぞー──母の名はミキ
この子は、たいぞー。
青い帽子をかぶったウマのぬいぐるみ。
そして──君は、みーちゃん。
……そう語りかけて始まった物語は、少しだけ形を変えて、もう一度ここから始まろうとしている。
* * *
産院の個室は、夕方の光に満たされていた。
レースのカーテン越しに入ってくるオレンジ色のひかりが、白いシーツと、薄いピンク色の壁をやわらかく染めている。
消毒液の匂いと、遠くのナースステーションから漏れてくる笑い声。
外はまだ冷たい風が吹いているはずなのに、この部屋の中だけは、春の手前みたいにあたたかかった。
ベッドの上で、ひとりの女性が上体を少し起こして座っている。
額には、出産の疲れが残っている。
でも、その目は、どこかすべてを受け入れた人だけが持つやわらかさを宿していた。
ミキ。
かつて、たいぞーを抱いて「たいぞーはなんでも知っている」と言っていた、小さな女の子。
クローゼットの前で迷って、仕事に追われて、乳がんと宣告されて──それでもここまで生きてきたひとりの女性。
その腕の中に、もうひとつ、小さな命が眠っている。
「よく頑張りましたね」
さっきまでいた助産師さんは、そう言って、静かに部屋を出て行った。
そこに残ったのは、母と子のふたりだけ。
赤ん坊の頬は、ほんのり桜色をしていた。
小さな鼻。
もっと小さな指。
ひとつひとつが、壊れやすいガラス細工みたいに見えて、ミキはつい息を詰めてしまう。
「……はじめまして」
声に出してみると、胸の奥がじんと熱くなった。
「お母さんだよ。
信じられないかもしれないけど、私がお母さんだよ」
赤ん坊のまぶたが、ぴくりと揺れる。
まだ世界をちゃんと見ていないその瞳が、うっすらと開いて、すぐにまた閉じた。
ミキは、小さく笑った。
「ねえ、聞いてくれる? たいしておもしろい話じゃないけど」
自分でも驚くほど自然に、言葉がこぼれ始める。
自分ががんだと告げられた日のこと。
抗がん剤で髪が抜けた日のこと。
恐怖で眠れなかった夜に、ウマのぬいぐるみを抱きしめて泣いたこと。
赤ん坊はもちろん、何も分かっていない。
それでも、ミキは話さずにはいられなかった。
「そのときね、そばにいてくれた子がいたの。
ウマのぬいぐるみ。青い帽子かぶってて、丸いお腹で、大きな鼻で。
名前は──たいぞー」
口にした瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
「子どもの頃からずっと、私の話聞いてくれてた。
大人になって、“こんなの子どもっぽい”ってクローゼットにしまったこともあったけど……
それでも、最後にはまた取り出してさ」
ミキの視線が、ベッドの横に置かれた小さな椅子へと向かう。
そこに、年季の入ったウマのぬいぐるみが座っていた。
青い帽子は、ところどころ糸がほつれている。
大きく丸い鼻も、少し擦り切れて、色が薄くなっている。
綿が寄って、丸かったお腹も少し平らになった。
けれど、その目は、昔と同じまん丸のままだった。
「なんでも知っているよ」と言っていた、あの頃のまなざしのまま。
「ほら、あの子」
ミキは、赤ん坊の耳元でささやく。
「お母さんの、もうひとりの守り神みたいな存在」
赤ん坊は、ふにゃ、と口の端を動かした。
笑ったのか、眠りのかたちなのか、まだ判別はつかない。
* * *
ドアが小さくノックされる音がして、ミキの母が顔をのぞかせた。
「どう? ちょっとは落ち着いた?」
「うん。だいぶ」
ミキが笑うと、母も少し肩の力を抜いた。
「かわいいわねえ……本当に、よく頑張ったわ」
ベッドのそばまで来て、孫の顔を覗き込む。
目尻には、またうっすらと涙がたまっていた。
「あら、まだこの子もいるのね」
椅子の上のウマのぬいぐるみに気づいて、母はくすりと笑った。
「当たり前でしょ。
あのとき助けてもらったんだから、いなくなってもらったら困るよ」
ミキがそう言うと、母はふと表情を和らげた。
「そうね。あの子には、私も何度も救われた気がするわ」
がんの宣告を受けた日。
ミキが病院から帰ると、ベッドの上には、きちんと座らされたたいぞーがいた。
「昔の相棒よ。
ちゃんと話、聞いてもらいなさい」
そう言ってくれたのは、他ならぬ母だった。
「名前、どうするの?」
母が、おだやかな声で尋ねた。
「もう決めてる?」
ミキは、腕の中の赤ん坊を見つめた。
小さな胸が、ふう、と上下している。
「まだ、候補いっぱいあるけど……」
そこで、一度言葉を切る。
ちらりと、椅子の上のウマのぬいぐるみを見た。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「たいぞーって、名前、どう思う?」
母は、一瞬ぽかんとした顔をして、それから声を上げて笑った。
「もう決まってたんじゃないの」
「やっぱり、そう見える?」
「ずっとその子といっしょにいたんだもの。
決めないわけ、ないでしょ」
ミキも笑った。
笑いながら、少しだけ目の奥が熱くなった。
「この子が大きくなったらさ、“なんでたいぞーって名前なの?”って聞いてくるよね」
「そうねえ。きっと聞いてくるわね」
「そのときは、お母さんの話、ちゃんとしてあげようかな。
“お母さんの命を守ってくれた、ウマのぬいぐるみがいてね”って」
赤ん坊は、ころんと小さく寝返りしそうになりながら、ミキの胸元に顔をすり寄せてきた。
まだ目は見えていないはずなのに、その仕草は、どこか「安心する場所」を探しているようにも感じられる。
「たいぞー」
ミキは、そっと名前を呼んでみた。
「これからよろしくね」
赤ん坊の小さな指が、空中をさまよう。
その動きは、何かを探しているみたいで──やがて、ふと止まった。
ミキの母が、椅子の方へ手を伸ばす。
「ちょっと、ここに置いてあげたら?」
そう言って、たいぞーのぬいぐるみをそっと抱き上げると、ベビーベッドの横に寄せた。
赤ん坊の手が、ふにゃりと伸びて、たいぞーの丸い鼻に触れる。
そのまま、小さな指が、布の感触を確かめるように、ぎゅっとつかんだ。
「わっ」
ミキの胸が、きゅっと締めつけられた。
懐かしさと、驚きと、どうしようもない喜びが、いっぺんに押し寄せてくる。
「ねえ、お母さん。
見た? たいぞーのこと、ちゃんと掴んだよ」
「見たわよ。……不思議ねえ」
母は、目尻の皺を深くしながら笑った。
「なんだか前から知ってたみたいに」
* * *
窓の外では、日がゆっくりと沈んでいく。
空が、オレンジから群青色へと変わり始める。
病院の廊下では、看護師たちの足音が行き来している。
遠くで、誰かの赤ん坊が泣き、別の部屋では、小さな笑い声が上がっている。
そんな喧騒も、この部屋の中では、ふんわりとした膜に包まれていた。
ミキは、腕の中の赤ん坊と、ベビーベッド横のたいぞーを交互に見つめた。
「……不思議だな」
ぽつりと呟く。
「生きててよかったって、本気で思う日が来るなんてさ。
あのときは、想像もできなかった」
がんを告げられた夜。
床にしゃがみ込んで、「怖い」と繰り返していた自分。
たいぞーを抱きしめて、「どこにも行かないで」と祈っていた自分。
あのときの絶望も、今はちゃんと、自分の中の物語の一部になっている。
「たいぞーが守ってくれた命で、生まれてきた子だもんね」
小さな額に、そっと唇をあてる。
「ちゃんと大事にする。
たくさん抱きしめる。
一人ぼっちだなんて、絶対に思わせない」
その誓いは、誰かに聞かせるためのものじゃなかった。
ただ、自分の中の、深いところに向けて放たれた約束だった。
ベッドのそばで、たいぞーが静かに座っている。
青い帽子のてっぺんに、夕陽の最後の一筋が当たって、ほんの少しだけ光った。
ぬいぐるみとしてのたいぞーは、もうしゃべらない。
夢の中でも、以前のようには現れない。
でも、彼の「愛の筋」は、別の場所で、確かに息をしていた。
腕の中の、小さな胸の奥で。
* * *
その夜。
分娩を終えた病室に、ゆっくりと静けさが戻ってきた頃。
廊下の照明は少し落とされ、ナースステーションの明かりだけが、遠くで滲んでいる。
壁掛け時計の秒針の音が、かすかに聞こえる。
ミキは、半分眠りながら、赤ん坊の寝顔を見つめていた。
痛み止めの薬のせいもあって、意識はふわふわとしている。
「たいぞー……」
小さく、名前だけを呼ぶ。
椅子の上のウマのぬいぐるみは、もちろん何も言わない。
それでも、その沈黙は、前と同じ「聞いているよ」の沈黙だった。
やがて、ミキのまぶたはゆっくりと閉じていき、横顔の力が抜けた。
寝息が、静かに整っていく。
部屋の中には、もうひとつ、小さな寝息があった。
赤ん坊の、ごくかすかな呼吸。
その胸の奥、誰の目にも見えない場所で──
ひとつの光が、小さく、ふっと瞬いた。
記憶ではない。
でも、「なつかしさ」としか言いようのない感覚。
青い帽子。
丸いお腹。
大きい鼻。
クローゼットの暗がり。
窓から差し込む朝の光。
誰かの「怖いよ」という声。
そして、「生きたい」という震える決意。
その全部が、泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
赤ん坊の小さな指が、眠ったまま、ゆっくりと握られる。
その手は、まるで誰かを抱きしめようとしているみたいだった。
赤ん坊の内側で、
まだ言葉にならない声が、そっとつぶやいた。
「ただいま、みーちゃん。」