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週末ダヨッ! 全員哲学!【#大人になるってどういうこと】

    さあ今回も始まりました。哲学対話書簡。
    性懲りもなく参加させていただこうと思います。

    お題は
    『大人になるってどういうこと』

    うーん。
    深い。
    そして相変わらず答えがない(笑)

    また、私なりに定義を考えてみまそうず。

    まず、自分が大人かといわれると、手放しで大人といえるかどうかは怪しいところだと思うんです。
    日本の法律では、一応18歳で成人として扱われますが、身体的に、能力的、感情的に急に大人になれるわけではありません。

    私も幼少期から青年期を経て、モラトリアムの時期を得て、ようやく社会人になったかと思うと、仕事に忙殺される日々。
    正直、身体的に一番いい時期は簡単に過ぎ去ってしまい、今は筋肉の衰えと、自律神経の乱れに日々怯えてすごす毎日です。
    (最近は台風の発生を天気予報よりも早く察知する能力を得ました)

    じゃあ、精神的に大人になれているかといわれるとそんなこともない。
    健全な精神は健全な肉体に宿るという言葉がありますが、もはやニワトリたまごな話で、どちらも健全のピークを見ることなく、足を引っ張るように精神も肉体もなし崩し的にどっちも伴わなくなっている気すらいたします。

    周りを見てもどうでしょう。
    子どもの時は、教師は全員、人間的に成熟した、身近な大人のロールモデルなんだろうと勝手に納得していました。

    ただ、この年になって、知人の教職員と飲みに行くと
    あ、先生といっても、(良くも悪くも)こんなもんなんだなと思うこともしばしば。

    結局、大人に見えていた“あの先生”も、にっくき生徒指導の“あの先生”も、人生のどこかの点にいて、ままならないなりに幼い私たちに必死で何かを教えようとしていただけではないのかと思うようになりました。

    ここまで考えてみても、肉体や精神の成熟だけでは、大人をうまく定義できそうにありません。
    では、私が実際に「大人になった」と感じたのは、いつだったのか。

    私が大人になったと感じた時は、自分が大人だと思っていた人たちが老いた姿を見た時です。
    例えば、両親、親戚、恩師、祖父母。
    自分から見れば、圧倒的に大人だった人たちが大人を通り越して、次第に小さくなっていくのを見ると、大人になったというか、大人として見られるひとりの人間としてのふるまいを考えなくてはいけないなと意識するようになったような気がします。

    では、その大人としてのふるまいはなんなのかと振り返ってみる、やはり、『正解がないことを言い訳にしない人』かなと。
    これは子育てをしていて顕著なのですが、正しいことでは人(子)は動かないんですよ。かといって、それをすべていいです、好きにしてくださいというわけではない。

    正解がないながらも、合っている合ってない、善いか、悪いか、それをある程度根拠らしきものを考えてから伝えないといけない。
    そして、その判断の責任を引き受ける覚悟が大人になることなのかなと思ったり。思わなかったり。ラジバンダリ。

    逆に言うと、大人というのは、ある種のジャンルみたいなもので、大人といっても多種多様。信用できるできない、かっこいいださい、面白い、面白くない。いろいろあります。

    自分がどこに属しているのか、それは見ている人によって変わるでしょう。
    ただ、その大人像の存在を意識するようになったのは、自分なりに大人を定義し、それに近づこうとしている証拠なのかなと思います。


    あ、普段はワインエッセイストやってます。
    よかったらお越しください↓↓↓



     
     
    J.S.A.ワインエキスパート ワインエッセイストを自称していたら、気づけば童話も作っていた。 大人の飲み物を嗜みながら、子どもの読み物を書いている人🍷 ワイン、食、暮らし、哲学のエッセイとコラム。 ときどき童話と小説。 なんでも面白がって文章にしています。 瀬戸内で何か企み中。

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