
あの夜のシャンパーニュを、私はまだ超えられない【フードエッセイ】
自分で言うのはおこがましいが、私とワインの出会いはそれなりにドラマチックだ。
それまではお世辞にも、お洒落な生活をしていたとは言えない。
一般的な家庭に生まれ、食卓では姉と兄と一緒に、大皿の唐揚げを奪い合うようにして育った。
私が生まれ育ったのは地方都市の田舎町だ。
野山を駆けずり回り、公園でベンチでデュエルをし、時に部活をさぼり、友人宅でゲームをしながら少年時代を過ごした。
そのおかげで、対戦ゲームなら地元で敵なしのつわものだ。
しかし、私たちの世代は、なぜか世間から常に後ろ指を指されながら生きてきた。
土曜日が少しずつ休みになっていくたびに狂喜乱舞していたら『ゆとり世代』などと言われ、鎌倉幕府はイイクニ(1192年)作ろうと覚えたのに、実は違ったと言われ、大学を卒業する時には、アメリカの住宅バブルの崩壊により就職市場が冷え込んだせいで、勝手に『リーマンショック世代』などと呼ばれていた。
何も考えず義務教育課程を終え、高校では内申点のためだけに部活動を続け、大学では必要最小限の単位だけとったツケが回ったのだろうか。
ただ、私は少しだけ器用だった。
友人たちが「何社面接受けた」「また駄目だった」と話しているのを横目に、あれよあれよという間に内定まで漕ぎつけ、彼女までできて、それはもう順風満帆だった。
しかし、あの時は若かった…
苦労せずに決めた進路だったが、考えていたというより、内定が取れたから入ったといった感覚に近い。
当時は新卒というブランドが今よりももっともっと強く、在学中に内定が決まらないとヤバいみたいな空気だった。その圧に負けたのだ。
私が入社することになったのは服飾の小売、よく言えばアパレル業だ。
中学生まで母親に選んでもらった服を着ていたような男が社会人になってアパレル業をするなど、今考えるとなかなかウィットに富んだ冗談だ。
よし、将来のことも決まったし、とりあえず地元で働けることになりそうだ、と一息ついたのもつかの間、最初の赴任地は地元から遠く離れた四国だった。正直、死ぬほどへこんだ。不安ももちろんだが、彼女と遠距離恋愛になるのが嫌で仕方なかった。アルバイトを休んでしまったのも今となっては良い思い出だ。
そうして、私は卒業旅行にも、卒業記念パーティーにも参加できないまま、単身で瀬戸大橋をバスで渡ることになった。
あの時の景色は忘れない。地平線まで続くような瀬戸内の島々、波一つたっていない潮の穏やかな凪、本当に雲一つない青空だった。それをあそこまで悲しい気持ちで見た人間もそういないだろう。
しかも新天地では、寮生活だった。
今まで、実家の子供部屋でぬくぬくと育ち、一人暮らしもしたことのない私にとってそれは、まるで試練のようだった。お天道さまはちゃんと見ているんだな、なんてことを思ったものだ。
実際かなりつらかった。仕事は立ち仕事だし、激務で、何より服に興味がない。人間関係も特段好きにはなれないうえに、帰っても同僚がいるのはなかなかストレスフルだったと思う。
4月1日に当時の彼女(=現妻)が職場まで来てくれたという優しい嘘《エイプリルフール》には、嗚咽を漏らして泣いた。
この日の出来事は生涯忘れることはないだろう。
だが、生活には意外とすぐ慣れた。
趣味に恵まれたのが幸運だったのかもしれない。
その部屋には使われていない共有のシステムキッチンがあり、冷蔵庫も置かれていた。だが、この仕事は一日中立ちっぱなしでクタクタになる。帰りの時間も遅いのに、普通は料理なんてしない。ただ、私は仕事のストレスを吐き出すかのように、料理を作った。
というのも、私は一人暮らしはしていないが、実家でなぜか自炊をしていた時期がある。
今思えば、こうなることを見越した、母の愛だったのかもしれない。
思春期の息子に文句を言われながら洋服をチョイスしてくれる母のことだ。ありえなくはない。
アパレル店員としての能力はいっこうに開花しなかったが、料理の腕だけはめきめきと上達し、調理器具やスパイス類はストレスに比例するように増えていった。
そんな、四国での料理研究家生活も長くは持たない。会社に対する不満と将来の不安がメンタルを削っていき、最終的には、両親と彼女に連れ帰られるようにして地元に逃げてきた。
これは後から聞いたのだが、私が寮から去る日、持って帰ってきたものは、パソコンと少量の衣類、折り畳み式の机、そしてスパイス類だったそうだ。
たしか「必要なものだけ持って帰っておいで」といわれたので、重要なものだけ選りすぐって持って帰った気がする。
今考えると、私の食に対するこだわりは、このころからすでに、しっかりと顔を出していたのである。
帰郷してからはしばらく鬱々とした日々を過ごした。せっかく四国から逃げ帰ってきたスパイスたちも、行き場を失って母のオリジナル料理のアクセントになってしまった。
コーンスープにクローブをいれると、まるでチャイのような雰囲気になるらしい。
そんな、かわいそうなスパイスたちを見るに見かねて、私は料理を始めた。これははっきりいってすごく良いリハビリになった。次第に体調も安定してきて職業訓練校にも通えるようになった。
そこでは、自分が歩んできた人生の棚卸しをする機会を得ることができたが、いかに自分が成り行き任せで生きてきたのかを反省させられるできごとでもあった。
なるほど、彼女が四国に一緒についてきてくれない訳だ。
そんな思いを知ってか知らずか、彼女は体調を気遣ってくれながら私を外の世界へ連れ出そうとしてくれた。
街を歩く通行人も、厚手のコートが増えてきたころ、私はいつものように職業訓練校に向かっていた。
乗り換えがスムーズにいったので少し早く着いてしまった私は、なんとなく遠回りをしたい気分になったので、いつもとは違う道を通ることにした。
それが私の運命を変える出会いになる。
近くには公園があり、その向かいにはいかにも高級そうなレストランがあった。まだ20代の若造だったが、すごく、すごく気になった。店は閉まっていたが、ガラスケースにクリスマスディナーの案内が書いてある。
私は、その時までクリスマスディナーというものの存在をあまり意識せずに育ってきた。クリスマスと言えば大皿に盛られた唐揚げとポテトサラダか、よくてもカーネルサンタのバーレルに入った骨付きチキンだった。
当時の私からすると値段も法外に高い。ましてや給付金をもらって実家で飯を食っている若者の食べるものではないなと思いながらも、やっぱり気になってしょうがない。
結果的にクリスマス兼快気祝いという体のいい言い訳を見つけ予約することにした。それに彼女への面と向かって言えない感謝の気持ちを表すのにちょうどいい機会だと思えたのだ。
電話口はすごく緊張した。なんせ、この電話で3万円の出費が決まるのである。ただ、対応いただいた店員さんがすごく感じが良かったのが救いだった。こうして、私の高級フレンチデビューが決まった。
そしてこのクリスマスディナーは料理に合わせて、ワインが出てくる。いわゆるペアリングディナーだ。
ワインはちょくちょくは飲んでいたが、料理に合わせてワインが毎回提供されるなんて考えたこともない。
当日、私は、磨き込んだローファーを履き、できる限りのおしゃれをして店に向かった。
アパレルでの経験がこんな形で役に立つとは思ってもみなかった。
電話に出てくれたのは、おそらくシェフの奥様だったのだろう。若いカップルをみて、何か察したように丁寧に接してくれた。
最初に出てきたのは温かいラベンダーの香りがほのかにするおしぼり。
がちがちに緊張していた指先を暖かさと香りが少し解きほぐしてくれる。
しばらくして、大きな飾り皿の上に、円柱状のカクテルグラスのような器に、蕪のムースが置かれた。天井からスポットライトに照らされ、オリーブオイルの鮮やかな黄緑色が映える。
一口食べると、それが今まで食べた料理とは別次元のものだと分かった。風味は蕪以外の何物でもない。ただ、あまりに滑らかで、自然な甘さと、オリーブオイルの香り、それと生クリームだろうか。それが何層にも重なって溶け合い、舌の上でほどけていく。
そして、運命を変える瞬間。
本当に、教科書のようなシャンパーニュだった。
透き通った黄金色の液体の底から一寸の狂いもなく、一筋の泡が表面まで伸びている。液面に広がる泡はまるで星屑のようにきらきらと煌めく。
香りは、嗅いだことがない匂いだ。ただ、今まで飲んだワインと違うことだけははっきりと分かる。どこか香ばしいような、それでいて柑橘のようなハツラツとした匂い。
口に入れた瞬間、先ほどの感動を上回る液体が舌先ではじける。そして余韻だけ残して喉へと降りていった。蕪の風味と甘味、オリーブオイルやクリームのまろやかさ、それがワインの酸味と複雑な香りと合わさって、言葉を失ってしまった。
私は目を見開き、彼女に視線を送ると、季節外れのひまわりのような笑顔が咲いていた。
手元のお品書きには一言だけ言葉が添えてある。
『新しいごちそうの発見は人類にとって天体の発見以上の価値がある』
この時、ワインに恋をしたのだ。
それからも、素晴らしいワインに幾度となく出会った。それでも、あのシャンパーニュの感動を超えるワインには、まだ出会っていない。
きっとこれからも、私はあの瞬間を超える感動を探し続けるのだろう。