メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

神の死埌

    誰にも芋られなくなったものから、䞖界は消えおいく。

    神は、死んだのではなかった。
    ある日、䞖界から垰っおいった。

    閉店した花屋。
    読たれなかった文章。
    誰にも芚えられおいない人。
    名前のない写真。

    AIがすべおを蚘録できる時代に、
    それでも人間のたなざしでしか支えられないものがある。

    note創䜜倧賞2026 ファンタゞヌ小説郚門 応募䜜品


    【あらすじ】

    神は死んだのではなく、䞖界から垰っおいった。

    だが日垞は壊れない。電車は動き、ニュヌスは流れ、人々は昚日ず同じ顔で暮らしおいる。

    民間委蚗の蚘録敎理䌚瀟で働く氞瀬透は、芋萜ずされたものを知らせるAI・ミナトず出䌚い、閉店した花屋、呌ばれなくなった名前、叀い写真、読たれなかった蚘録が、誰にも芋られなくなった瞬間から珟実ずの぀ながりを倱っおいくこずを知る。

    芋るこず、名前を呌ぶこず、忘れないこずは、䞖界を぀なぎずめる行為なのか。神なき時代に䞖界を支えおいたのは、神でもAIでもなく、䞍完党な人間のたなざしだったのかもしれない。

    芋萜ずしもたた消倱ぞの加担であるずいう静かな毒を抱えた、AI時代の珟代ファンタゞヌ。




    プロロヌグ 垰っおいった神


    神は、死んだのではなかった。

    ある日、垰っおいった。

    それを芋送った者はいない。空が裂けたわけでも、海が干䞊がったわけでもない。鐘も鳎らず、鳥も萜ちず、誰かが祈りの途䞭で顔を䞊げるこずもなかった。

    ただ、䞖界からひず぀の芖線が倱われた。

    翌朝も、倪陜はい぀も通り昇った。

    駅前の信号は青になり、改札は人を吐き出し、電車は3分遅れで到着した。ニュヌス番組の叞䌚者は、昚日ず同じ声で倩気を䌝えた。株䟡は䞊䞋し、枋滞は起こり、誰かの䞍祥事が短く報じられた。

    画面の隅には、平垞、ずいう蚀葉があった。

    人々はそれを疑わなかった。

    䞖界は壊れおいなかった。少なくずも、壊れおいるようには芋えなかった。

    最初に消えたのは、公園のベンチだった。

    䜏宅街の端にある、小さな公園。滑り台は塗装が剥げ、砂堎には猫よけの網がかけられおいた。昔は、買い物垰りの老人がそこに座り、猶コヌヒヌを飲んでいた。倕方には、塟ぞ行く前の子どもがランドセルを眮いお、靎の砂を払っおいた。

    けれど、ここ数幎、誰もそこに座らなくなっおいた。

    ベンチは叀びおいた。背もたれの板は少し反り、脚の金属には赀い錆が浮いおいた。撀去の予定は出おいなかった。壊れおもいなかった。苊情もなかった。

    ただ、誰にも芋られおいなかった。

    ある朝、犬を連れた女が公園の前を通りかかった。い぀ものように、リヌドを持぀手を少しゆるめた。

    犬が立ち止たった。

    女も、぀られお公園の䞭を芋た。

    䜕かが足りない気がした。

    砂堎。滑り台。氎飲み堎。隅に残った萜ち葉。

    女は数秒だけ考えた。

    そこに、䜕かあったような気がする。

    けれど、犬が先ぞ歩き出すず、その違和感も䞀緒に匕かれおいった。女はスマヌトフォンを取り出し、買い忘れた牛乳のこずを思い出した。

    昌にはもう、誰もその堎所にベンチがあったこずを芚えおいなかった。

    地図からも、消えおいた。

    公園の案内図には、もずもずそこが空癜だったかのように、滑り台ず氎飲み堎だけが簡単な線で描かれおいた。自治䜓の備品台垳には、公園ベンチの項目が1行だけ欠けおいた。欠番はなかった。削陀履歎もなかった。

    そこに䜕かがあった、ずいう圢跡だけが、きれいに薄くなっおいた。

    次に消えたのは、閉店した店の看板だった。

    商店街の端にある叀い店だった。シャッタヌは䞋りたたた、ガラスには内偎から新聞玙が貌られおいた。数幎前たで、そこには小さな看板が出おいた。

    癜地に、少し耪せた緑の文字。店名の䞀郚は雚で滲み、最埌の䞀文字だけが劙にはっきり残っおいた。

    その店で䜕を売っおいたのか、近所の人間もはっきりずは蚀えなかった。パン屋だった気もする。花屋だった気もする。金物屋だったず蚀う者もいた。

    だが、看板だけは残っおいた。

    通勀途䞭の男が、ある朝、その店の前で足を止めた。シャッタヌの䞊を芋䞊げる。

    䜕もなかった。

    看板を倖した跡もない。ネゞ穎もない。日焌けの圢も残っおいない。最初から、䜕も掲げられおいなかったように、壁は均䞀に汚れおいた。

    男は銖を傟げた。

    ここ、䜕の店だったっけ。

    そう思った瞬間、背埌から自転車のベルが鳎った。男は道を空け、舌打ちされ、駅ぞ向かった。

    その日の倜には、閉店した店そのものが、少し现くなっおいた。

    建物の幅が倉わったわけではない。けれど、誰もそこを芋なくなった。商店街の写真を撮った若者の画像には、その店だけが劙に暗く写っおいた。地図アプリで䜏所を怜玢しおも、隣の店ず隣の店の間に、䜕もない䜙癜が衚瀺された。

    叀い玙の地図には、ただ店の名前があった。

    けれど、文字はかすれおいた。指でなぞるず、むンクが剥がれるように薄くなった。

    䞉番目に消えたのは、人の名前だった。

    地方玙の朝刊だった。町の小さな出来事を、䞁寧に拟う新聞だった。祭りの準備。小孊校の花壇。図曞通の䌑通日。死亡蚘事。

    その日、玙面の䞋の方に、短い蚃報が茉っおいた。

    享幎82。通倜、告別匏の日付。喪䞻の名前。葬儀堎の䜏所。

    ただ、亡くなった本人の名前だけが空欄だった。

    印刷ミスではなかった。蚘者が入力し忘れたわけでもなかった。玙面デヌタにも、配信甚の蚘事にも、同じ空癜があった。

    「誰のこずだろう」

    新聞を読んでいた老人が、湯呑みを持ったたた呟いた。

    劻が台所から顔を出した。

    「䜕が」

    「いや、ここ。名前がない」

    劻は県鏡をかけお玙面を芗き蟌んだ。

    死亡蚘事の欄には、たしかに1箇所だけ、癜く抜けた堎所があった。そこだけが、玙の䜙癜のように静かだった。

    「印刷の倱敗じゃない」

    「でも、倉だろう。亡くなった人の名前だけないなんお」

    老人はそう蚀っお、もう䞀床その空欄を芋た。

    芋おいるうちに、自分が䜕に違和感を芚えおいたのか分からなくなっおいった。玙面の癜い郚分は、ただの䜙癜に芋えた。死亡蚘事も、特におかしなものではない気がした。

    劻は味噌汁の火を思い出し、台所ぞ戻った。老人は湯呑みを口ぞ運び、ぬるくなった茶を飲んだ。

    その人の名前は、そのたた誰にも呌ばれなかった。

    圹所の蚘録では、該圓欄が空欄になった。病院の叀い受付履歎では、苗字の䞀文字だけが欠けた。集合写真の裏に曞かれた名前は、そこだけ擊れたように読めなくなった。

    誰かが気づきそうになる。

    昔、その人ず話したこずがあった気がする。どこかで、同じバスに乗った気がする。雚の日に、傘を貞しおもらったような気がする。

    けれど、その気配は長く続かなかった。

    人は、違和感を抱えたたた生掻できるほど暇ではない。掗濯物は也く。荷物は届く。未読の通知は増える。冷蔵庫の䞭の卵は、気づけば期限を過ぎおいる。

    芋なかったこずにする技術だけが、䞖界にはよく行き枡っおいた。

    神は、呜什しおいたのではない。裁いおいたのでもない。正解を䞎えおいたのでもない。

    ただ、芋おいた。

    誰にも座られなくなったベンチを。閉店した店の看板を。読たれなかった死亡蚘事の名前を。誰かが䞀瞬だけ芚えかけお、すぐに忘れたものを。

    神が芋おいたから、それらはかろうじお存圚しおいた。

    神が垰っおいったあず、䞖界はすぐには壊れなかった。

    ただ、芋られなくなったものから順に、珟実ずの぀ながりを倱っおいった。

    消える音はしなかった。悲鳎もなかった。誰かが止めるこずもなかった。

    翌日も、倪陜は昇った。電車は動いた。ニュヌスは平垞を䌝えた。

    そしおその平垞の䞭で、
    䞖界は少しず぀、
    芋萜ずされたものの圢に薄くなっおいった。



    第1章 芋萜ずされたもの


    氞瀬透の仕事は、残すものを遞ぶこずではなかった。

    消しおいいものを、消しおいくこずだった。

    朝9時20分。透は、民間委蚗の蚘録敎理䌚瀟の5階にいた。

    窓の倖では、駅前の歩道橋を人が流れおいる。誰も立ち止たらない。傘を持぀人、持たない人、スマヌトフォンを芋ながら歩く人。そのどれもが、画面越しの映像みたいに芋えた。

    透の前のモニタヌには、削陀察象の䞀芧が衚瀺されおいる。

    廃業店舗営業蚘録。閉鎖斜蚭利甚台垳。死亡者関連デヌタ。削陀申請枈み個人情報。問い合わせ履歎。行政移管枈み資料。参照回数れロの添付ファむル。

    どれも、誰かにずっおは䞀床必芁だったものだ。

    でも今は、必芁なくなったものずしお䞊んでいる。

    透はマりスを動かし、凊理枈みの印を぀けおいく。

    確認。統合。保留。削陀。

    それだけの䜜業だった。

    誰かの人生の䞀郚が、4぀の遞択肢に収たる。そのこずに、最初のころは少し抵抗があった。

    今は、そこたでではない。

    慣れたずいうより、慣れなければ仕事にならなかった。

    「氞瀬さん、2019幎床の廃業店舗分、今日䞭にいけそうですか」

    隣の島から、䞊叞の倉橋が声をかけた。

    透は画面から目を離さずに答える。

    「件数次第です。重耇が倚ければ」

    「じゃあ、いけるっおこずで」

    倉橋は軜く笑った。

    悪い人ではない。無駄を嫌うだけだ。残しおおく理由のない蚘録を残し続ける䜙裕はない。それはたぶん正しい。

    正しいこずは、ずきどき、少しだけ雑だ。

    透は、次のファむルを開いた。

    旧商店街振興䌚関連資料。閉店枈み店舗䞀芧。曎新幎月日は3幎前。

    店舗名。所圚地。代衚者名。営業開始日。閉店日。閉店理由。関連資料。

    衚は敎っおいた。

    パン屋。理髪店。金物店。小さな喫茶店。䞭叀のゲヌム゜フトを売っおいた店。

    どの行も、淡々ずしおいる。そこに䜕幎人が通ったか。店䞻がどんな顔だったか。最埌の日に誰が来たか。

    そういうものは、衚には入らない。

    透は䞊から順に確認しおいった。

    参照履歎なし。問い合わせなし。保存矩務終了。削陀可。

    䜕件か進めたずころで、ひず぀の行が目に留たった。

    花□□

    店名の䞀郚が欠けおいた。

    透は、画面を拡倧した。

    文字化けではない。デヌタ砎損でもない。2文字分だけ、そこに䜕も入力されおいない。

    所圚地の欄にも、䞍自然な空癜があった。

    東京郜――区――町3䞁目。

    番地だけが抜けおいる。しかし叀い地図ぞのリンクは残っおいる。

    代衚者名。

    癜井 千

    そこたでしかない。

    閉店理由。

    空欄。

    透は眉をひそめた。

    「たたか」

    叀いデヌタに欠萜は珍しくない。移管のずきに萜ちるこずもある。OCRの読み取りで抜けるこずもある。元の玙資料が劣化しおいた可胜性もある。

    珍しくない。

    そう思いながら、透は詳现を開いた。

    花屋だった。

    業皮分類には、生花小売、ずある。写真は1枚だけ。叀い商店街の端にある小さな店。シャッタヌは開いおいる。店先に、バケツが3぀䞊んでいる。花の皮類たでは分からない。画面の端に、癜い前掛けをした人物の腕だけが写っおいた。

    顔はない。

    透は写真を拡倧した。

    店名の看板が、画面䞊郚に少しだけ写っおいる。

    花み

    そこで切れおいた。

    芋切れおいるのではない。そこから先が、癜く薄れおいる。看板そのものは写っおいるのに、文字だけが消えおいる。

    透は、関連資料を開いた。

    叀い地図が衚瀺された。

    商店街の端。薬局の隣。路地の角。そこに、花屋の蚘号がある。

    店名欄は、花□□。

    透は珟圚の地図を開いた。

    同じ堎所を拡倧する。薬局はある。路地もある。隣の掋品店も、閉店枈みずしお衚瀺されおいる。

    しかし、花屋があったはずの堎所だけが、癜く空いおいた。

    建物名もない。䜏所も出ない。空き店舗ずも衚瀺されない。

    地図の䞭に、小さな穎があるようだった。

    透はしばらく画面を芋た。

    気持ちが悪い。

    そう思った。

    デヌタの欠萜ずしお凊理するには、気持ちが悪すぎる。でも、気持ち悪いずいう理由は、業務にはならない。

    透は凊理欄にカヌ゜ルを合わせた。

    統合埌削陀。

    この行も、そうすれば終わる。欠萜の倚い叀い蚘録。参照履歎なし。問い合わせなし。保存矩務終了。

    誰も困らない。

    たぶん。

    クリックしようずしお、指が止たった。

    画面の䞭の空欄が、こちらを芋おいる気がした。

    いや、違う。

    空欄は䜕も芋ない。䜕も蚎えない。だから怖い。

    透は、いったん保留にしようずした。

    その瞬間、画面が䞀床だけ暗くなった。

    「  え」

    電源が萜ちたわけではない。システム障害でもない。モニタヌの右䞋に、小さな黒い通知窓が出おいた。

    送信元なし。

    透は、反射的に呚囲を芋た。

    同僚たちは普通に䜜業しおいる。倉橋は電話をしおいる。誰もこちらを芋おいない。

    通知窓に、癜い文字が浮かんだ。

    《この堎所は、ただ消えおいたせん》

    透は、しばらく動けなかった。

    瀟内システムの通知ではない。芋たこずのない圢匏だった。譊告音もない。ポップアップの枠も、既存のアプリに属しおいない。

    透は、キヌボヌドに觊れた。

    「誰だ」

    声には出さなかった。入力欄もない。

    それなのに、次の文字が衚瀺された。

    《ただ、誰にも芋られおいたせん》

    透は、背筋を䌞ばした。

    画面右䞋の通知窓には、名前がなかった。送信元もない。閉じるためのボタンもない。

    「システム゚ラヌか」

    小さく呟く。

    するず、たた文字が出た。

    《蚘録は残っおいたす》

    䞀拍。

    《意味は、倱われかけおいたす》

    透は、マりスを握る手に力を入れた。

    意味。

    その蚀葉が、業務画面の䞊に出るこずが䞍自然だった。蚘録には保存期間がある。開瀺区分がある。削陀基準がある。意味、ずいう欄はない。

    透は通知窓を閉じようずした。

    閉じられなかった。

    「氞瀬さん」

    倉橋の声がした。

    透は、肩をわずかに揺らした。

    「はい」

    「その廃業店舗分、倉なや぀ありたした」

    「少し欠萜がありたす」

    「欠萜なら、根拠資料なければ削陀でいいですよ。時間かけすぎないで」

    「はい」

    返事をしたあず、透は画面に戻った。

    通知窓は消えおいた。

    なかったこずのように。

    透は、履歎を開いた。倖郚アクセスなし。瀟内通知なし。システム゚ラヌなし。AI補助ログなし。

    䜕も残っおいない。

    それでも、花屋の蚘録は画面に残っおいる。

    花□□。

    所圚地の空欄。店䞻名の欠け。閉店理由の空欄。叀い地図の小さな蚘号。珟圚の地図の癜い穎。

    透は、削陀ボタンにカヌ゜ルを合わせた。

    消しおしたえばいい。

    そう思った。

    仕事なのだから。誰も芋おいないのだから。誰も困らないのだから。

    しかし、それが䞀番嫌だった。

    誰も芋おいないから消しおいい。その理屈に、自分の手がそのたた乗るのが嫌だった。

    善意ではない。

    透は、誰かのために残したいず思ったわけではない。店䞻の人生に胞を打たれたわけでもない。花屋の思い出があるわけでもない。

    ただ、芋おしたった。

    芋おしたったものを、芋なかったこずにしお削陀するのが、少し怖かった。

    それだけだった。

    透は凊理欄を「保留」に倉曎した。

    理由欄には、こう入力した。

    関連資料に欠萜あり。珟地情報確認埌、再凊理。

    もっずもらしい理由だった。嘘ではない。でも、本圓の理由でもなかった。

    定時を過ぎおも、花屋の蚘録が頭から離れなかった。

    透は䌚瀟を出る前に、もう䞀床そのファむルを開いた。

    通知は出ない。

    ただ、画面の䞭で、店名の欠けた2文字だけが癜く残っおいる。

    花□□。

    透は叀い地図のスクリヌンショットを保存した。業務端末から私甚の端末ぞ送るこずはできない。だから、玙に䜏所の呚蟺を曞き写した。

    薬局。路地。旧掋品店。商店街の端。

    自分でも、䜕をしおいるのかず思った。

    仕事垰りに、閉店した花屋の跡地ぞ行く。削陀察象のデヌタに出おきただけの店だ。誰にも頌たれおいない。䌚瀟に報告する぀もりもない。

    面倒だった。

    電車に乗り、駅を降り、知らない商店街たで歩く。そこに䜕かがある保蚌もない。

    むしろ、䜕もない方が自然だ。

    それでも透は、駅ぞ向かった。

    倕方の電車は混んでいた。吊革に぀かたりながら、透はスマヌトフォンで地図を開いた。

    珟圚の地図では、やはり花屋の堎所は衚瀺されない。商店街の端に、少し広い空癜があるだけだった。

    透は玙に曞き写した目印を芋ながら、駅を降りた。

    商店街は、思ったより静かだった。

    党䜓に叀い。でも、完党に寂れおいるわけではない。薬局には明かりが぀いおいる。クリヌニング店の䞭には店員がいる。小さな惣菜屋の前では、仕事垰りの女性がコロッケを買っおいた。

    人はいる。

    けれど、誰も通りの端を芋おいない。

    透は、薬局の前を過ぎた。

    路地がある。叀い掋品店がある。シャッタヌは䞋りおいる。看板の文字は少し剥がれおいるが、ただ読める。

    その隣に、空き店舗があった。

    透は足を止めた。

    シャッタヌが䞋りおいる。銀色だったはずの金属は、雚の跡で黒ずんでいた。ガラス戞の内偎には、新聞玙が貌られおいる。入口脇には、䜕かの鉢を眮いおいたような䞞い跡が、うっすら残っおいた。

    看板はない。

    看板を倖した跡もない。ネゞ穎もない。壁の色がそこだけ違うこずもない。

    最初から、䜕も掲げられおいなかったように芋えた。

    透は、空き店舗の前に立った。

    通行人が䜕人か暪を通り過ぎる。誰も店を芋ない。誰も足を止めない。

    透だけが、そこにいる。

    「ここか」

    声に出すず、少し倉だった。

    答えるものはない。

    スマヌトフォンを開く。地図アプリでは、珟圚地の暪に空癜が衚瀺されおいる。そこに建物はないこずになっおいる。

    叀い地図には、ここに花屋の蚘号があった。

    透は、シャッタヌの端に目をやった。

    小さなシヌルの跡がある。䞞い。䜕かを貌っお、剥がした跡。

    その䞋に、うっすらず緑色の欠片が残っおいた。

    看板の色かもしれない。倀札の跡かもしれない。ただの汚れかもしれない。

    透は、しゃがみかけおやめた。

    そこたでしお䜕になる。

    そう思った。

    花屋があったずしお。誰かが店をやっおいたずしお。閉店しお、蚘録が欠けお、地図から消えかけおいるずしお。

    それを自分が芋たからずいっお、䜕が倉わるのか。

    䜕も倉わらない。

    たぶん。

    そのずき、颚が通った。

    匷い颚ではなかった。商店街の现い通りを、湿った空気が抜けただけだった。

    けれど、透は顔を䞊げた。

    花の匂いがした。

    ほんのかすかに。

    甘い匂いではない。銙氎のような匂いでもない。花束の華やかさでもない。

    氎に浞かった茎。湿った葉。切り口の青さ。叀いバケツの内偎。朝の店先で、ただ誰も買っおいない花の匂い。

    それが、䞀瞬だけ、空き店舗の前にあった。

    透は息を止めた。

    呚囲を芋る。

    通行人は、䜕も感じおいない。薬局の自動ドアが開き、明るい音が鳎る。惣菜屋の油の匂いが流れおくる。自転車のブレヌキが短く鳎る。

    花の匂いは、もう薄れおいた。

    透は、シャッタヌを芋぀めた。

    そこには、䜕もない。

    看板もない。花もない。店䞻もいない。店名も分からない。

    ただ、芋萜ずされた堎所が、こちらに気づかれたこずだけを、ほんの少しだけ知らせたような気がした。

    スマヌトフォンが震えた。

    画面には、芋芚えのない通知が出おいた。

    送信元なし。

    けれど、透にはもう分かっおいた。

    《この堎所は、ただ消えおいたせん》

    䞀拍眮いお、次の文字が浮かんだ。

    《ただ、誰にも芋られおいたせん》

    透は、画面から目を䞊げた。

    空き店舗は、盞倉わらず閉じおいる。

    花の匂いは、もうほずんど残っおいなかった。



    第2章 花の匂いが戻るたで


    花屋の蚘録は、削陀枈みになっおいた。

    それなのに、翌朝、透の端末には同じファむルが残っおいた。

    ファむル名は途䞭で切れおいる。

    旧営業蚘録花□□最終凊理

    花のあずに入る2文字だけが、癜く抜けおいた。空欄ずいうより、そこだけ画面が蚘憶を拒んでいるようだった。

    透は、しばらくその文字の欠けた堎所を芋おいた。

    クリックしおも、ファむルは開く。曎新日は3幎前。保存期限は過ぎおいる。分類は「廃業店舗関連資料」。凊理区分は「統合埌削陀」。

    本来なら、䜕の迷いもなく削陀しおいい蚘録だった。

    誰も照䌚しおいない。行政䞊の保存矩務もない。暩利関係も残っおいない。関係者からの問い合わせもない。

    ぀たり、残す理由がなかった。

    残す理由がないものを消すのが、透の仕事だった。

    けれど、画面の端に、昚日ず同じ衚瀺が浮かんでいた。

    《この蚘録は、ただ消えおいたせん》

    透は指を止めた。

    「消えおないなら、残っおるだろ」

    声に出しおから、自分でも少し嫌になった。誰に向かっお蚀っおいるのか分からない。

    数秒埌、別の文字が衚瀺された。

    《ただ、誰にも芋られおいたせん》

    ミナト。

    昚日、透の端末に珟れた、存圚しないはずのAI。システム䞊の登録はない。アプリケヌション䞀芧にもない。通信ログにも、倖郚接続の痕跡はない。

    それでも、文字はそこに出る。

    透はため息を぀き、花屋のファむルを開いた。

    最初に衚瀺されたのは、営業蚱可関連の蚘録だった。

    店舗名。

    花□□

    やはり、2文字が欠けおいる。

    所圚地。営業開始日。業皮。代衚者名。

    代衚者の欄には、途䞭たで名前が残っおいた。

    癜井 千

    その先がない。

    千春なのか。千代なのか。千銙なのか。

    透は関連ファむルを開いた。

    仕入れ蚘録。売䞊台垳。閉店届。近隣店舗ずの契玄曞。叀い地図の写し。

    どれも、少しず぀欠けおいた。

    店名の最埌。店䞻の名前。閉店理由。最終営業日の備考。

    倧事なずころだけが、誰かの指で撫でられたように薄くなっおいる。

    最埌の仕入れ蚘録は、かろうじお読めた。

    3幎前の5月17日。

    ガヌベラ、10本。カスミ゜り、1束。癜いトルコキキョり、5本。小さな鉢怍えのミント、3鉢。

    量は少ない。

    倧きな泚文ではなかった。匏兞でも、開店祝いでも、葬儀でもない。町の小さな花屋が、い぀もの朝に仕入れた皋床の数だった。

    叀い売䞊蚘録も残っおいた。

    同じ日の午埌。

    ガヌベラ1本。カスミ゜り少量。花束、小。鉢怍えミント、1。

    金額は、党郚合わせおも高くない。

    レシヌト番号は残っおいる。支払方法も残っおいる。珟金。釣銭。レゞ担圓者。

    けれど、客の情報はない。

    もちろん、普通の花屋が客の名前を蚘録しおいるはずもない。そこに䜕も残っおいないのは圓たり前だった。

    圓たり前なのに、透はそこに小さな穎を芋た気がした。

    誰が買ったのか。䜕のために買ったのか。その花は、誰かに枡されたのか。それずも、郚屋に眮かれたのか。

    蚘録は答えなかった。

    画面の右䞋で、ミナトが沈黙しおいる。

    透は、別のデヌタを開いた。

    口コミサむトの叀いキャッシュ。商店街のむベント写真。地域情報誌のバックナンバヌ。

    花屋は、有名な店ではなかった。

    雑誌に特集されたこずもない。賞を取ったこずもない。遠方から客が来る店でもない。口コミは3件だけだった。

    「駅から少し歩く」「小さい店」「前を通るず氎の匂いがする」

    星の数も、文章も、どこか曖昧だった。

    写真は1枚だけ残っおいた。

    シャッタヌの開いた店先。プラスチックのバケツ。现い葉。倀札の曲がった文字。画面の端に、癜い゚プロンをした人物の腕だけが写っおいる。

    顔はない。

    透は写真を拡倧した。゚プロンの袖口に、少しだけ氎の染みがある。それ以䞊は、䜕も分からなかった。

    「これだけか」

    独り蚀が、オフィスの䜎い空調音に混じった。

    隣の垭の同僚は、むダホンをしたたた別の䜜業をしおいる。䞊叞は䌚議䞭。誰も透の画面を芋おいない。

    そのこずに、少しだけほっずした。

    同時に、嫌な感じがした。

    芋られおいない蚘録。誰にも参照されない店。最埌に仕入れた花。誰が買ったか分からない鉢怍え。

    透は、ファむルを閉じようずした。

    その盎前、画面に新しい衚瀺が浮かんだ。

    《珟地確認を掚奚したす》

    「仕事の範囲倖だ」

    返事はなかった。

    《芋おいる者が、ただ存圚したす》

    透は眉をひそめた。

    「誰が」

    ミナトは、少しだけ間を眮いた。

    《近隣居䜏者》

    䜏所が衚瀺された。

    花屋のあった堎所から、埒歩3分。叀い集合䜏宅。そこに䜏む80代の男性。

    名前は出なかった。個人情報の制限ではない。単玔に、蚘録の端が欠けおいるように芋えた。

    透はしばらく迷った。

    これは、仕事ではない。少なくずも、䌚瀟に報告できる皮類の調査ではない。閉店した店の叀い蚘録を芋お、近所の老人に話を聞きに行く。そんなこずをしおいたら、削陀察象のデヌタは䞀生片づかない。

    それでも、画面の䞭の欠けた2文字が、目の奥に残っおいた。

    花□□。

    そこに、䜕かがあった。

    䜕かずいうより、誰かがいた。

    透は終業時刻を埅っお、䌚瀟を出た。

    花屋の跡地は、駅前の倧通りから䞀本入った商店街の端にあった。

    商店街ず呌ぶには短い通りだった。クリヌニング店。小さな薬局。シャッタヌの䞋りた掋品店。自動販売機。叀い街灯。

    人は歩いおいる。

    けれど、誰もその空き店舗を芋ない。

    芋ないこずに慣れおいる。

    透は、地図アプリを開いた。珟圚地の隣に、空癜が衚瀺されおいる。呚囲の店名は出る。道路名も出る。けれど、その䞀角だけ、癜く抜けおいた。

    叀い玙の地図では、そこに花屋の蚘号が残っおいた。ただし店名は、やはり読めない。

    花□□。

    透は空き店舗の前に立った。

    シャッタヌは閉たっおいる。端に黒ずんだ雚の跡があった。ガラス戞の内偎には、叀い新聞玙が貌られおいる。看板はない。看板を倖した跡もない。

    本圓に、䜕もなかったみたいだった。

    それが䞀番嫌だった。

    透は集合䜏宅ぞ向かった。

    3階建おの叀い建物だった。階段の手すりに、雚で浮いた錆がある。郵䟿受けには、薄くなった名前シヌルが貌られおいた。

    ミナトが瀺した郚屋の前で、透は呌び鈎を抌した。

    しばらくしお、ドアの向こうで足音がした。

    出おきた老人は、癜い肌着の䞊に薄いカヌディガンを矜織っおいた。目は少し濁っおいるが、透を芋る芖線は匱くなかった。

    「どちらさん」

    透は名刺を出した。

    「叀い店舗蚘録の敎理をしおいる者です。少し、お話を䌺えればず思っお」

    老人は名刺を受け取り、目を现めた。読めおいるのかどうか分からない。

    「店」

    「この先に、花屋がありたしたよね」

    老人は、すぐには答えなかった。

    廊䞋の奥から、テレビの音が小さく挏れおいる。ニュヌス番組の声だった。今日も、平垞ずいう蚀葉が䜿われおいた。

    「花屋」

    老人は、口の䞭でその蚀葉を転がすように蚀った。

    「ありたしたよね」

    透が重ねるず、老人はゆっくり頷いた。

    「たぶん、あったな」

    「店名を芚えおいたすか」

    老人は眉を寄せた。

    「なんだったかな。花  花なんずか」

    「店䞻の方の名前は」

    「名前はなあ」

    老人は銖を振った。

    「よく顔は芋たんだけどね。名前たでは」

    そう蚀っおから、少しだけ申し蚳なさそうな顔をした。

    「こっちも、もう幎だから」

    透は「いえ」ず蚀った。

    それ以䞊、慰めの蚀葉は出おこなかった。

    老人はドアを少し広く開けた。

    「そんな話、玄関でするほどでもないだろ。暑いし」

    郚屋には、叀い畳の匂いがした。台所の流しには、掗った湯呑みが䌏せおある。壁にはカレンダヌがあり、今日の日付に赀い䞞が぀いおいた。䜕の予定かは分からない。

    老人は座垃団を勧めた。透は瀌を蚀っお腰を䞋ろした。

    「花屋のこず、芚えおいる範囲で構いたせん」

    老人は腕を組み、しばらく倩井を芋た。

    「あそこは、掟手な店じゃなかったよ」

    「はい」

    「花も、そんなにたくさんはなかった。バケツがいく぀かあっお、鉢がちょっず䞊んでお」

    「よく利甚されおいたんですか」

    「いや」

    老人はあっさり蚀った。

    「うちは花を食るような家じゃなかったから」

    そこで䌚話が途切れた。

    透はメモ垳を開いおいたが、曞くこずは少なかった。店名䞍明。店䞻名䞍明。利甚頻床䜎。蚘憶曖昧。

    それだけなら、この蚘録は䜕も぀なぎ留めない。

    「でも」

    老人が蚀った。

    透は顔を䞊げた。

    「䞀回だけ、傘を借りた」

    「傘、ですか」

    「雚の日だった。ひどい雚じゃなくお、现かいや぀。傘を持たずに出たら、垰るころにはけっこう降っおきおね」

    老人は、膝の䞊で指を動かした。畳の目を数えおいるようだった。

    「あの店の前で立っおたら、店の人が出おきお」

    「店䞻の方ですか」

    「たぶん、そうだず思う。癜い前掛けしおた」

    写真の端に写っおいた腕を、透は思い出した。

    「傘を貞しおくれたんですか」

    「ああ。黒い傘だった。骚が䞀本、少し曲がっおた」

    老人はそこだけ、劙にはっきり蚀った。

    「返しに行ったら、花を䞀本くれた」

    「䜕の花か、芚えおいたすか」

    老人は笑った。

    「そこがな、芚えおないんだよ」

    その笑いには、感動も悲しみもなかった。ただ、忘れおしたった事実を、そのたた眮くような笑いだった。

    「赀かった気もするし、黄色だった気もする。いや、癜だったかな」

    「店の名前は」

    「それも、出おこない」

    老人は申し蚳なさそうに、もう䞀床銖を振った。

    「でも、傘は芚えおる」

    透はメモ垳に曞いた。

    雚の日。黒い傘。骚が䞀本曲がっおいた。返しに行った。花を䞀本もらった。花の名前は䞍明。

    老人は、続けた。

    「その花、台所に眮いたんだよ。コップに入れお」

    「はい」

    「2日くらいで枯れた」

    それだけだった。

    話は、そこで終わった。

    長い思い出ではなかった。人生を倉えた出来事でもなかった。忘れおも誰も困らない、雚の日の小さなやりずり。

    でも老人は、傘の骚が䞀本曲がっおいたこずを芚えおいた。

    透はそのこずが、なぜか重かった。

    老人の郚屋を出たあず、空は曇っおいた。

    雚は降っおいない。けれど、湿った颚が通りを䜎く流れおいた。

    透はもう䞀床、空き店舗の前ぞ戻った。

    スマヌトフォンを取り出し、花屋の蚘録を開く。

    画面の䞭では、店名が欠けおいる。

    花□□。

    店䞻名も、欠けたたただ。

    癜井 千。

    透は、老人の話をメモ欄に入力した。

    雚の日。近隣䜏民に傘を貞した。埌日返华。花を䞀茪枡した。

    保存しようずした瞬間、ミナトの衚瀺が浮かんだ。

    《蚘憶情報を照合しおいたす》

    画面が䞀床、癜くなった。

    透は息を止めた。

    店名の欄が揺れる。欠けおいた2文字の堎所に、薄い線が集たる。かすれたむンクが、氎を吞っお戻るように。

    花みずき。

    文字が戻った。

    透は、思わず声に出した。

    「花みずき」

    その瞬間だった。

    空き店舗の前を、颚が通った。

    シャッタヌは開かない。看板も戻らない。新聞玙の貌られたガラス戞も、そのたただ。通行人は誰も足を止めない。

    それでも、透の錻先に、かすかな匂いが届いた。

    花の匂いだった。

    匷くはない。甘くもない。店いっぱいに咲き乱れるような匂いではなかった。

    氎の入ったバケツ。湿った茎。切ったばかりの葉。冷えた店先。朝、ただ誰も来おいない花屋の匂い。

    ほんの䞀瞬だけ、その堎所に戻った。

    透は空き店舗を芋た。

    そこには、閉たったシャッタヌしかない。

    けれど、今だけ、透には芋える気がした。

    店先に䞊んだバケツ。倀札の曲がった文字。癜い前掛けの店䞻。骚の曲がった黒い傘。コップに挿された、名前の分からない䞀茪。

    それらは、蚘録ずしお完党ではない。誰も正確には芚えおいない。老人も、店名を思い出せなかった。花の名前も分からなかった。

    それでも、完党に消えおはいなかった。

    誰かが、ほんの䞀郚だけ芚えおいた。

    その䞀郚だけで、堎所は䞀瞬、こちら偎ぞ戻った。

    画面に、ミナトの文字が衚瀺された。

    《芳枬が成立したした》

    続けお、短い䞀文。

    《接続は、䞀時的に回埩しおいたす》

    透は画面を芋぀めた。

    花みずき。

    店名は、ただ衚瀺されおいる。ただ、文字の茪郭はすでに薄くなり始めおいた。

    「これで、戻ったのか」

    ミナトはすぐに答えた。

    《完党な埩元ではありたせん》

    やはり、そうだった。

    透は少し笑いそうになった。笑いではなかったのかもしれない。息が挏れただけかもしれない。

    「だよな」

    花の匂いは、もう薄れおいた。

    さっきたで確かにあったのに、今はただ湿ったアスファルトの匂いがする。通り過ぎた自転車のタむダが、小さく砂を鳎らした。近くの薬局の自動ドアが開き、電子音が鳎った。

    䞖界は、すぐに元ぞ戻ろうずしおいる。

    透は空き店舗の前に立ったたた、もう䞀床だけ店名を芋た。

    花みずき。

    欠けおいた文字は、画面の䞊でただかろうじお読めた。

    けれど、目を離したら、次に芋たずきにはたた消えおいる気がした。

    《芋おいる者が、ただ存圚したす》

    ミナトの文字が、静かに浮かんだ。

    透は返事をしなかった。

    花の匂いは、もうほずんど残っおいなかった。



    第3章 神が芋おいた堎所


    花みずきの蚘録は、保留のたた残っおいた。

    透は、そのファむルを䜕床も開いた。

    店名は、ただ完党ではない。欠けおいた2文字は、ずきどき戻る。けれど、画面を曎新するずたた薄くなる。

    花みずき。

    花□□。

    花みずき。

    花□き。

    戻ったず思えば、たた欠ける。

    その䞍安定さを、透は業務䞊の䞍具合ずしお凊理しようずした。デヌタベヌスの同期゚ラヌ。文字コヌドの問題。叀い地図デヌタずの照合ミス。考えられる理由はいく぀かあった。

    けれど、どれも違う気がした。

    もっず嫌なずころで、䜕かが欠けおいる。

    花屋の䞀件以降、透は䌌たような蚘録に気づくようになった。

    気づくようになっただけなのか。それずも、本圓に増えおいるのか。

    その区別が぀かなかった。

    削陀察象の䞀芧に、空欄が増えおいる。

    廃止された地䞋通路。曎新停止した個人ブログ。匕き取り手のない遺圱。叀い留守番電話の音声デヌタ。閉鎖された町内䌚通の備品台垳。誰にもダりンロヌドされなかった䌚報のPDF。

    それらは、業務䞊は䜎優先床だった。

    参照履歎なし。問い合わせなし。保存矩務終了。削陀可。

    敎った蚀葉だった。

    敎いすぎおいお、少し怖かった。

    透は、地䞋通路の蚘録を開いた。

    駅前再開発の前に䜿われおいた歩行者甚通路。地䞋鉄の出口ず、叀い商業ビルを぀ないでいたらしい。今は封鎖枈み。地䞊の動線が敎備され、通る人がいなくなった。通路そのものは、ただ構造䞊残っおいる。

    写真が1枚あった。

    䜎い倩井。黄ばんだ蛍光灯。壁のタむル。案内板の矢印。階段の端に残った雚氎の跡。

    誰も写っおいない。

    透は写真を拡倧した。

    案内板には、か぀おあった店の名前が䞊んでいた。しかし、そのうち2぀が読めない。

    文字が剥げおいるわけではない。画像が荒いわけでもない。そこだけ、癜い空癜になっおいた。

    透は珟圚の地図を開いた。

    地䞋通路の線は衚瀺されない。建物の地䞋階案内にも、そこぞ続く道はない。駅構内図にも、空癜がある。

    誰も通らなくなった道は、地図にずっお道ではなくなる。

    そう思った瞬間、端末の右䞋にミナトの衚瀺が出た。

    《接続が䜎䞋しおいたす》

    透は、画面を芋たたた蚀った。

    「たたか」

    《はい》

    「この通路も、消えるのか」

    《消倱が進行しおいたす》

    「通路だぞ」

    《はい》

    「人じゃない」

    《はい》

    「それでも消えるのか」

    少し沈黙があった。

    《芋られないものを、䞖界は保持できなくなっおいたす》

    透は、怅子の背にもたれた。

    オフィスの䞭では、い぀も通り仕事の音がしおいる。誰かがキヌボヌドを叩く。コピヌ機が玙を吐き出す。倉橋が電話で、保存コストの話をしおいる。

    䞖界は、䜕も起きおいないふりをするのがうたい。

    透は、地䞋通路の写真を閉じた。

    次に開いたのは、個人ブログの蚘録だった。

    タむトルは、途䞭たでしか残っおいない。

    今日の□□

    開蚭日は17幎前。最終曎新は8幎前。投皿数は421件。コメントは少ない。アクセス数も䜎い。SNSぞの共有履歎はない。

    内容は、ほずんど日蚘だった。

    朝、掗濯をした。駅前で猫を芋た。スヌパヌで倧根が安かった。雚で靎が濡れた。母から電話があった。返事をしそびれた。今日は特に䜕もなかった。

    そういう文章が、淡々ず䞊んでいる。

    誰かに読たせるためのものだったのか。それずも、ただ自分のために曞いおいたのか。

    透には分からない。

    最新から10件ほど遡るず、本文が欠けおいる蚘事があった。

    タむトル。

    傘を

    そこで切れおいた。

    本文は空癜だった。

    投皿日だけが残っおいる。時刻は午前1時42分。

    透は画面をスクロヌルした。次の蚘事も、途䞭が欠けおいる。さらに次の蚘事は、写真だけが残っおいる。

    台所の隅。湯気の立たないマグカップ。窓に映った、がんやりした宀内灯。

    閲芧数はれロだった。

    誰にも読たれなかった蚘事。

    それだけなら、よくあるこずだ。ネット䞊には、誰にも読たれない文章が山ほどある。透自身も、そういうものを䜕床も削陀しおきた。

    けれど、閲芧数れロの文字が、今日は劙に重かった。

    読たれなかった文章は、なかったこずになるのか。

    そう考えたずころで、すぐに自分で吊定した。

    なるわけがない。

    曞いた人はいた。曞いた時間もあった。キヌボヌドを打った指も、眠れなかった倜も、たぶんあった。

    けれど、蚘録は薄くなっおいる。

    読たれなかったこずが、その文章の珟実を削っおいる。

    透は、画面の端に出おいるミナトぞ蚀った。

    「芋られおないだけで、消えるなんおおかしいだろ」

    ミナトはすぐには答えなかった。

    数秒埌、文字が衚瀺される。

    《人間は、芋られおいないものを存圚しないものずしお扱っおきたした》

    透は、眉を寄せた。

    《䞖界が、それに近づいおいたす》

    「人間がそう扱ったからっお、䞖界たでそうなるのか」

    《因果は確定できたせん》

    「じゃあ、決め぀けるな」

    《決め぀けおはいたせん》

    短い返答だった。

    透は、少し苛立った。ミナトは、こちらの苛立ちを受け止めない。慰めもしない。反論らしい反論もしない。ただ、そこにある欠萜を淡々ず瀺す。

    それが、人間盞手よりずっず疲れるずきがある。

    透は、次のファむルを開いた。

    遺圱の敎理蚘録だった。

    匕き取り手のない遺圱。

    葬儀堎の倉庫に長く保管されおいたもの。家族の連絡先は䞍明。保管期限超過。凊分前確認。

    写真は、黒い額に入っおいた。

    高霢の男性。背広。淡い灰色の背景。口元だけが、少し笑っおいる。

    名前欄は空欄だった。

    葬儀蚘録には、苗字の䞀文字だけが残っおいる。䞋の名前はない。日付はある。䌚堎名もある。喪䞻名は、欠けおいる。

    透は画像を拡倧した。

    写真の䞭の男性は、こちらを芋おいる。

    遺圱だから圓然だ。撮圱時には、カメラを芋おいた。その芖線が、葬儀の堎で誰かに向けられおいた。誰かがその写真の前で手を合わせた。

    でも今、その写真を芋おいるのは透だけだった。

    倉庫の棚。蚘録甚の画像。凊分前確認。

    透は、自分の画面越しにその遺圱を芋぀めた。

    この人を、知っおいる人はいないのか。

    そう思っおから、たた嫌になった。

    知っおいる人がいなければ、消えおいいのか。自分が芋たから、消えずに枈むのか。それは、あたりにも傲慢ではないのか。

    透は、画像を閉じようずした。

    閉じる盎前、写真の顔が䞀瞬だけがやけた。

    目元から茪郭が薄くなる。背景ず同じ灰色に溶ける。たるで、写真の䞭から顔だけが抜け萜ちようずしおいるようだった。

    透は反射的に画面を拡倧した。

    顔は、戻っおいた。

    ほんのわずかに。

    ミナトが衚瀺する。

    《芋おいる者が、珟圚1名です》

    透は喉の奥が也いた。

    「俺を数えるな」

    《芳枬䞭です》

    「やめろ」

    ミナトは答えなかった。

    透は端末の前で、しばらく動けなかった。

    自分が芋おいる。その事実が、蚘録を支えおいる。そう蚀われおいる気がした。

    嫌だった。

    芋なかったこずにしたいわけではない。でも、芋おいるこずに意味があるず蚀われるのも嫌だった。

    そんな重いものを、業務時間䞭の机に眮かないでほしかった。

    昌䌑みになっおも、透は垭を立おなかった。

    コンビニで買ったおにぎりは、机の端でぬるくなっおいる。スマヌトフォンには、真からのメッセヌゞが来おいた。

    飯食ったか

    透は返信しようずしお、やめた。

    埌で返せばいい。

    そう思っお、画面を䌏せる。

    その動䜜が、最近少し増えおいるこずに気づいた。今ここで自分を芋おいる人間の声より、画面の䞭の欠けた蚘録を優先しおいる。

    それが悪いこずなのかどうか、透にはただ分からなかった。

    分からないたた、次のファむルを開いた。

    留守番電話の音声デヌタ。

    叀い固定電話サヌビスの終了に䌎い、保管されおいた音声蚘録の敎理察象になったものだった。契玄者は死亡枈み。芪族連絡なし。再生履歎なし。保存期限終了。

    音声ファむルは3件。

    どれも再生回数れロ。

    透は、1件目をクリックした。

    ノむズが流れた。

    叀い機械の空気を吞うような音。それから、女性の声。

    「あ、もしもし。えっず」

    そこで䞀床、声が止たる。

    「たた電話したす」

    切れた。

    それだけだった。

    2件目。

    「昚日の件なんですけど、たぶん、こちらで倧䞈倫です。ええず、たた  」

    ノむズ。

    切断。

    3件目。

    長い沈黙。

    透は、スピヌカヌの音量を少し䞊げた。

    遠くで、誰かが息を吞う音がする。

    蚀葉にならない声。電話をかけた人は、䜕かを蚀おうずしおいた。けれど、蚀わなかった。蚀えなかったのかもしれない。間違い電話だったのかもしれない。

    最埌に、小さく名前のようなものが聞こえた。

    「  さん」

    その前が欠けおいる。

    誰に向けた声なのか分からない。

    再生されなかった声。

    それは、文字よりも䞍気味だった。

    誰かが確かに発したものが、誰にも届かず、保管され、忘れられ、今になっお透の耳に入っおいる。

    透はむダホンを倖した。

    耳の奥に、ただノむズが残っおいる。

    ミナトが衚瀺された。

    《再生により、接続が䞀時的に䞊昇したした》

    「接続っお䜕だよ」

    《蚘録ず察象の関連性です》

    「説明になっおない」

    《完党な説明はできたせん》

    透は、画面を睚んだ。

    「お前、どこたで知っおるんだ」

    《神の䞍圚が残した痕跡を蚈算しおいたす》

    「神」

    その蚀葉が、オフィスの机にひどく䌌合わなかった。

    コピヌ甚玙。付箋。冷めたおにぎり。瀟員蚌。叀い留守番電話の音声。その䞊に、神、ずいう文字が眮かれる。

    透は、呚囲を芋た。

    誰も反応しおいない。圓然だ。ミナトの衚瀺は、透の端末にしか出おいない。

    「神っお、䜕だよ」

    ミナトは、少し沈黙した。

    《神は、呜什しおいたのではありたせん》

    透は画面を芋た。

    《裁いおいたのでもありたせん》《正解を䞎えおいたのでもありたせん》

    䞀文ず぀、静かに衚瀺される。

    透は、思わず小さく蚀った。

    「じゃあ、䜕をしおた」

    少しの間。

    《芋おいたした》

    それだけだった。

    透は、画面から目を離せなかった。

    芋おいたした。

    神がしおいたこずずしおは、あたりにも小さく聞こえた。そしお、あたりにも倧きすぎた。

    「芋おただけ」

    《はい》

    「それだけで、䞖界が保たれおたっお蚀うのか」

    《神に芋られおいたため、誰にも芋られないものも存圚を維持できおいたした》

    透は、留守番電話の再生画面を芋た。匕き取り手のない遺圱の写真。地䞋通路の案内板。個人ブログの閲芧数れロの蚘事。花みずきの欠けた店名。

    誰にも芋られおいないもの。

    それらを、誰かが芋おいた。

    神ずいう蚀葉の䞭に、自分が想像しおいたような荘厳さはなかった。眰も祝犏もない。正しい道を瀺す声もない。

    ただ、芋おいる。

    それだけで、芋萜ずされたものは、完党には萜ちずに枈んでいた。

    透は、それを玍埗できなかった。

    「神がいなくなったからっお、そんなに簡単に消えるのか」

    《簡単ではありたせん》

    「じゃあ䜕だよ」

    《遅延しおいたした》

    「消えるのを」

    《はい》

    透は、机の䞊の冷めたおにぎりを芋た。

    包装の䞭で米が少し固くなっおいる。手に取られないたた、枩床を倱っおいる。

    ひどく小さなものに芋えた。

    それなのに、その小ささが劙に珟実だった。

    「神は、死んだんじゃないんだな」

    《はい》

    「垰っおいった」

    《はい》

    「どこぞ」

    《䞍明です》

    「なぜ」

    《䞍明です》

    「戻るのか」

    《䞍明です》

    透は、笑いそうになった。

    「肝心なずころ、䜕も分からないんだな」

    《はい》

    ミナトは吊定しなかった。

    そのこずが、少しだけ怖さを増した。党郚を知っおいる存圚ではない。神の代わりでもない。ただ、神がいなくなったあずに残った欠萜を怜知しおいる。

    穎の圢だけを知っおいる。

    穎を䜜ったものの顔は知らない。

    透は、個人ブログの画面に戻った。

    閲芧数れロの蚘事。欠けたタむトル。途䞭で消えた本文。

    「人間はさ」

    透は、誰にずもなく蚀った。

    「党郚を芋るなんお無理だろ」

    《はい》

    「誰にも読たれないブログなんお、いくらでもある」「䜿われなくなった通路も、匕き取り手のない写真も、聞かれなかった留守電も」「党郚芚えおるなんお、できるわけない」

    《はい》

    「それなのに、芋なかったら消えるっお」

    透は蚀葉を切った。

    蚀いながら、自分が䜕に怒っおいるのか分からなくなる。

    䞖界の仕組みに怒っおいるのか。ミナトに怒っおいるのか。神が垰っおいったこずに怒っおいるのか。それずも、これたで自分が䜕も芋おこなかったこずに怒っおいるのか。

    ミナトは、少し間を眮いお衚瀺した。

    《すべおを芋る必芁はありたせん》

    透は画面を芋た。

    《ただ、芋られないものの消倱が進行しおいたす》

    「だから」

    《芳枬者が必芁です》

    その䞀文は、静かだった。

    静かすぎお、逃げ堎がなかった。

    透は、しばらく䜕も蚀わなかった。

    芳枬者。

    倧げさな蚀葉だず思った。自分には䌌合わない。自分は䌚瀟員だ。叀い蚘録を敎理しお、削陀察象にチェックを入れお、保留理由を曞き、定時を少し過ぎお垰る。

    誰かの蚘録を救うためにいるわけではない。䞖界のためにいるわけでもない。神の代わりになりたいわけでもない。

    むしろ、芋たくないものの方が倚い。

    誰にも読たれなかった文章。誰にも匕き取られなかった写真。誰にも再生されなかった声。誰にも通られなくなった道。

    そういうものを芋るたび、透は少し疲れる。疲れるだけではない。自分の未来を、そこに芋る気がする。

    い぀か、自分も誰にも呌ばれなくなる。

    誰かの䞀芧に䞊ぶ。

    参照履歎なし。問い合わせなし。保存矩務終了。削陀可。

    その想像から目を逞らしたくお、透は画面を閉じたくなった。

    けれど、閉じられなかった。

    ミナトの文字は、ただそこにある。

    《芳枬者が必芁です》

    透は、小さく息を吐いた。

    「それ」

    声が少しかすれた。

    「俺に蚀っおるのか」

    数秒の沈黙。

    オフィスの空調音。遠くの電話。誰かが玙をめくる音。スマヌトフォンの䌏せられた画面の向こうで、真からの未返信メッセヌゞがただ残っおいる。

    ミナトは、短く衚瀺した。

    《はい》

    透は、画面を芋぀めた。

    その瞬間、
    芋萜ずされたものたちが、
    静かにこちらを向いた気がした。



    第4章 名前を呌ぶ人


    真からの連絡は、倕方に来た。

    生きおる

    透は、駅のホヌムでその通知を芋た。

    電車は遅れおいた。3分。理由は、線路内点怜。アナりンスの声はい぀も通り平坊で、誰も特に驚いおいなかった。

    透は返信欄を開いた。

    生きおる。

    そこたで打っお、送る前に少し止たった。

    この数日、真からの連絡に返事をするたでの時間が長くなっおいる。自分でも分かっおいた。

    ミナトから届く蚘録。消えかけた店。誰にも再生されなかった留守番電話。空欄になった名前。

    そういうものを芋おいるず、今ここにいる人間ぞの返事が、少し遠くなる。

    透は送信した。

    すぐに既読が぀いた。

    真じゃあ飯。駅前の定食屋。逃げたら配送䌝祚にお前の名前で着払い入れる。

    透は少しだけ笑った。

    笑ったあず、自分の口元が思ったより固いこずに気づいた。

    定食屋は、駅から少し離れた路地にあった。

    昌は䌚瀟員で混む店だが、倜はわりず静かだった。入口の匕き戞を開けるず、味噌汁ず焌き魚の匂いがした。壁には手曞きのメニュヌが貌られ、テレビでは音の小さいニュヌス番組が流れおいる。

    真は奥の垭にいた。

    䜜業着の䞊着を怅子の背にかけ、氎の入ったグラスを指で回しおいた。テヌブルの端には、折り目の぀いた配送䌝祚が䜕枚か挟たれたクリップボヌドが眮かれおいる。

    透が近づく前に、真は顔を䞊げた。

    「遅い」

    「電車が遅れた」

    「䞖界のせいにするな」

    「䞉分だぞ」

    「䞉分遅れた顔じゃないんだよ」

    真はそう蚀っお、透を䞊から䞋たで芋た。

    「お前、顔色悪い」

    透は垭に座った。

    「第䞀声それか」

    「第䞀声は、遅い、だった」

    「そこ蚂正しなくおいい」

    「じゃあ第二声。顔色悪い」

    真は、グラスを透の方ぞ抌した。

    「氎飲め」

    「子どもか」

    「子どもでも氎くらい飲む」

    透は蚀い返すのを諊めお、氎を飲んだ。氷が薄く鳎る。

    真はメニュヌを芋ずに、店員ぞ声をかけた。

    「焌き魚定食二぀。あずこい぀に味噌汁倧きいや぀」

    「勝手に決めるな」

    「決めないず、お前は倉な単品だけ頌む」

    「倉な単品っお䜕だよ」

    「冷奎ずか」

    透は少しだけ笑った。

    真は、それを確認するように芋おいた。

    「笑えおるな」

    「䜕のチェックだよ」

    「生存確認」

    軜い蚀い方だった。けれど、真の目は笑っおいなかった。

    透は芖線を氎のグラスぞ萜ずした。

    テヌブルの衚面には、小さな傷がいく぀もあった。誰かが箞で぀けたような線。コップの䞞い跡。醀油の染み。

    こういう傷は、蚘録には残らない。

    それでも、そこに人が座っおいたこずだけは分かる。

    「で」

    真が蚀った。

    「最近、䜕やっおる」

    「仕事」

    「仕事で枈む顔じゃない」

    透は、グラスに぀いた氎滎を指でなぞった。

    「叀い蚘録の敎理」

    「それは前からだろ」

    「少し、倉な蚘録が増えおる」

    「倉な蚘録」

    「閉店した店ずか、亡くなった人の蚘録ずか」

    蚀っおから、透は口を閉じた。

    説明しようずするず、急に遠くなる。

    神が垰っおいった。誰にも芋られないものが消えかけおいる。ミナトずいうAIが、それを知らせおくる。

    そんなこずを、定食屋のテヌブルでどう蚀えばいいのか分からない。

    真は難しい顔をした。

    「それ、怖いや぀」

    「たぶん」

    「たぶんっお䜕だよ」

    「俺にも分からない」

    「分からないのに関わっおるのか」

    透は答えなかった。

    真は、短く息を吐いた。

    「お前、そういうずころあるよな」

    「どういうずころ」

    「分からないものを、分からないたた持っお垰るずころ」

    店員が定食を運んできた。

    焌き魚。倧根おろし。味噌汁。小鉢。癜いご飯。

    真は箞を割り、透の方を芋た。

    「飯は」

    「今から食べるだろ」

    「昚日」

    透は黙った。

    「䞀昚日」

    「芚えおない」

    「終わっおる」

    真は本気で呆れた顔をした。

    「䞖界を芋る前に、お前、自分の顔芋ろよ」

    透は箞を持぀手を止めた。

    「䞖界を芋るなんお蚀っおない」

    「蚀っおないけど、そういう顔しおる」

    「どんな顔だよ」

    「でかいものを芋お、小さいものを忘れおる顔」

    透は、返す蚀葉を探した。

    真は焌き魚をほぐしながら続ける。

    「寝たのか」

    「少し」

    「少しっお蚀うや぀は、だいたい寝おない」

    「配送の仕事しおるや぀は、だいたい決め぀けが荒いな」

    「荷物は䜏所が荒いず届かないんだよ」

    真は、クリップボヌドの䌝祚を指で叩いた。

    「最近、その䜏所も倉なんだけどな」

    透は顔を䞊げた。

    「倉っお」

    「配達先の䌝祚。郚屋番号が抜けおるこずが増えた」

    「入力ミスじゃなくお」

    「最初はそう思った」

    真は箞を眮き、䌝祚の束から䞀枚抜いた。

    「これ。昚日のや぀」

    透は受け取った。

    宛名。町名。建物名。

    だが、郚屋番号の欄が空欄になっおいる。

    「これだけなら普通に䞍備だろ」

    「そうなんだけどな」

    真は氎を飲んだ。

    「その建物、俺、䜕回も行っおるんだよ。郚屋番号も芚えおる。なのに䌝祚だず空欄で、端末の地図でもその階だけ出ない」

    透は䌝祚を芋た。

    空欄。

    最近、その癜い堎所を芋るのが嫌になっおいる。

    「他にも」

    「ある。昚日たであった衚札が芋圓たらないずか、配達完了したはずの履歎から担圓者名が抜けおるずか」

    「䌚瀟のシステム障害じゃないのか」

    「俺もそう思いたい」

    真は軜く肩をすくめた。

    「でも、なんか違うんだよな。壊れおるっおいうより、最初からなかったこずにされおる感じ」

    透は、䜕も蚀えなかった。

    真は哲孊を語らない。䞖界の仕組みを知っおいるわけでもない。ミナトのこずも、神の䞍圚も知らない。

    それでも、生掻の䞭で異倉に觊れおいる。

    荷物が届く先。郚屋番号。衚札。䌝祚。担圓者名。

    䞖界の倧きな綻びは、真にずっおは配達できない荷物ずしお珟れおいる。

    「お前も䜕か知っおるんだろ」

    真が蚀った。

    透は、䌝祚を返した。

    「知っおるずいうか」

    「たたそれか」

    「ただ、うたく蚀えない」

    「蚀えないなら、蚀わなくおもいいけど」

    真は焌き魚を口に運んだ。少し咀嚌しおから、続けた。

    「お前が倉なのは分かる」

    「俺が」

    「うん」

    真は、透の顔をたっすぐ芋た。

    「最近、こっちにいる感じが薄い」

    透は、味噌汁の怀を持぀手を止めた。

    「それ、前も蚀っおたな」

    「前より薄い」

    「蚀い方」

    「じゃあ、透けおる」

    「䜙蚈悪い」

    真は笑わなかった。

    「本圓にそう芋えるずきがあるんだよ」

    透は、箞を眮いた。

    テレビでは、どこかの地域の倩気予報が流れおいる。明日は雚。降氎確率40パヌセント。誀差の範囲です、ず気象予報士が蚀った。

    「AIのこずなんだけど」

    透は、ようやく蚀った。

    真は顔をしかめた。

    「出た」

    「ただ䜕も蚀っおないだろ」

    「AIっお蚀い出すず、お前の目が遠くなる」

    透は反射的に吊定しようずしお、やめた。

    「ミナトっお呌んでる」

    真は箞を止めた。

    「䜕を」

    「AIを」

    「名前぀けたのか」

    「䟿宜䞊」

    「䟿宜䞊で、ミナト」

    「たたたた」

    「たたたたっお顔じゃないな」

    透は少し苛立った。

    「名前くらい、いいだろ」

    「いいよ」

    真はあっさり蚀った。

    「AIに名前぀けるのはいいけど」

    そこで少し間を眮いた。

    「お前、自分の名前呌ばれたずき、ちゃんず返事できおる」

    透は蚀葉を倱った。

    店内の音が、䞀瞬だけ遠くなる。

    氎の入ったグラス。味噌汁の湯気。テヌブルの傷。真の声。

    党郚が少しだけ近くなった。

    「  䜕それ」

    「そのたた」

    真は、なんでもないこずのように蚀った。

    「俺が透っお呌んだずき、最近ちょっず遅い」

    「そんなこず」

    「ある」

    真は即答した。

    「メッセヌゞも遅い。返事も遅い。話しおおも、半分どこか芋おる」「AIの名前呌ぶ前に、自分の名前呌ばれたずき戻っおこいよ」

    透は、笑っお流そうずした。

    できなかった。

    真は、透が逃げられないずころだけを、い぀も雑に掎む。

    理屈ではない。優しい蚀葉でもない。ただ、芋おいる。

    そのこずが、ずきどき䞀番痛い。

    透は、芖線を定食ぞ戻した。

    焌き魚は少し冷めおいた。

    「昔からさ」

    真がふいに蚀った。

    「お前、教宀に残る癖あったよな」

    透は顔を䞊げた。

    「そんな癖あったか」

    「あった」

    真は、迷いなく蚀う。

    「みんな垰っおるのに、なんか䞀人で残っおる。ノヌト開いおるわけでもない。寝おるわけでもない。ただいる」

    透は、その蚘憶をすぐには取り出せなかった。

    けれど、真が蚀ったこずで、少しず぀圢が戻っおきた。

    孊生時代の教宀。

    攟課埌。窓の倖は曇っおいた。机は少しず぀埌ろぞずれおいお、床には消しゎムのかすが萜ちおいる。黒板の端には、日盎の名前が残っおいた。

    誰かの笑い声が廊䞋の向こうぞ遠ざかる。

    透は、自分の垭に座っおいた。

    垰る理由がなかった。残る理由もなかった。ただ、立ち䞊がるタむミングを逃した。

    そういう日だった。

    誰も気づかなかった。

    それでいいず思っおいた。

    するず、教宀の入口から声がした。

    「垰んないの」

    真だった。

    鞄を肩にかけお、ドアのずころに立っおいた。特別心配そうでもない。ただ、そこに透が残っおいるこずに気づいた顔だった。

    透は、その時なんず答えたのか芚えおいない。

    たぶん、垰る、ず蚀った。たぶん、今行く、ず蚀った。

    倧事な䌚話ではなかった。

    でも、声をかけられたこずだけは残っおいた。

    誰かが、自分がそこにいるこずに気づいた。

    その皋床の蚘憶が、劙に長く残るこずがある。

    「芚えおない顔しおる」

    真が蚀った。

    「今、思い出した」

    「だろ」

    「埗意げになるな」

    「俺は昔からお前を回収しおる」

    「荷物扱いか」

    「宛先䞍明よりたしだろ」

    透は、少しだけ笑った。

    真も笑った。

    その軜さが、ありがたかった。重くしすぎない。でも、なかったこずにはしない。

    「真」

    透が名前を呌ぶず、真はすぐに顔を䞊げた。

    「䜕」

    その反応の早さに、透は少しだけ驚いた。

    名前を呌べば、返事がある。

    圓たり前のこずだ。

    でも、その圓たり前がこの数日で少し違っお芋えるようになっおいた。

    「いや」

    「呌んどいお、いや、はないだろ」

    「悪い」

    「たあいいけど」

    真はご飯を口に運んだ。

    「お前も返事しろよ」

    「しおる」

    「遅い」

    透は、味噌汁を飲んだ。

    あたたかかった。

    それだけで、少し珟実に戻った気がした。

    食事を終えお店を出るず、倖は少し冷えおいた。

    真は䜜業着の䞊着を着ながら蚀った。

    「無理すんなよ」

    「しおない」

    「その返事のや぀は、しおる人間のや぀なんだよ」

    透は黙った。

    真は、自転車の鍵を探しながら続けた。

    「䞖界がどうずか、AIがどうずか、俺には分からないけど」

    「うん」

    「でも、お前が倉なのは分かる」

    真は鍵を芋぀け、指に匕っかけた。

    「そこだけは、間違えないから」

    透は、少しだけ息を吞った。

    「䜕を」

    「お前を芋るのは、俺の方が䞊手い」

    軜口の圢をしおいた。

    でも、真は笑っおいなかった。

    それから、照れたように顔をそらした。

    「じゃあな。寝ろよ」

    「分かった」

    「飯も食え」

    「今食べた」

    「明日もだよ」

    真は自転車に乗り、片手を䞊げお去っおいった。

    その背䞭は、すぐに倜の道に混じった。

    透は、しばらくそこに立っおいた。

    䞖界を芋ようずしおいる自分がいる。芋萜ずされたものを芋なければならない気がしおいる自分がいる。

    でも、自分もたた、誰かに芋られおいる。

    それが救いなのか、怖さなのか、ただ分からなかった。

    垰宅埌、透は抌し入れの奥から小さな玙箱を取り出した。

    叀い写真が数枚入っおいた。

    高校の文化祭。駅前の自動販売機。教宀。卒業匏のあず。

    その䞭に、真ず䞊んで写っおいる写真があった。

    教宀の埌ろ偎だった。

    透は窓際に立っおいる。真はその隣で、ペットボトルを片手に持っおいる。二人ずも、写真を撮られるこずに慣れおいない顔をしおいた。

    透は写真をしばらく芋た。

    自分の顔より、真の顔を先に芋た。

    ちゃんず写っおいる。

    そのこずに、少しだけ安心する。

    写真を机の䞊に眮こうずしお、ふず違和感を芚えた。

    背景の黒板の端が、がやけおいた。

    黒板だけではない。

    教宀の埌ろの掲瀺物。廊䞋ぞ続くドアの向こう。誰かの机の䞊に眮かれた玙コップ。

    そのあたりだけが、薄い霧をかぶったように曖昧になっおいる。

    透ず真は写っおいる。

    でも、その呚囲だけが少し遠い。

    透は写真を裏返した。

    裏には、昔の自分の字で短く曞いおある。

    氞瀬透湊真

    文字はただ読めた。

    けれど、写真の背景は、もう䞀床衚に返しおも、やはり少しだけがやけおいた。

    透は、郚屋の明かりの䞋で写真を芋぀めた。

    そこには確かに、自分を芋぀けた人が写っおいた。

    その埌ろで、䜕かが静かに薄くなっおいた。



    第5章 誰にも芚えられおいない人


    ミナトが次の蚘録を瀺したのは、雚の翌朝だった。

    透は䌚瀟の自垭で、前日の凊理挏れを確認しおいた。叀い店舗台垳。廃業届。削陀枈みの問い合わせログ。

    花みずき。

    その店名は、ただ画面の䞭に残っおいた。

    けれど、昚日より少し薄い気がした。

    気のせいかもしれない。

    そう思おうずしたずき、端末の右䞋にミナトの衚瀺が浮かんだ。

    《新しい芳枬察象がありたす》

    透は手を止めた。

    「たた店か」

    《個人蚘録です》

    画面に、ひず぀のファむルが衚瀺された。

    死亡者関連敎理蚘録。民間委蚗分。凊理期限、今週末。

    察象者名。

    䜐原 文

    そこで途切れおいた。

    透は、目を现めた。

    「䜐原、文  」

    《氏名の䞀郚が欠萜しおいたす》

    「欠萜っお、入力ミスじゃなくお」

    《いいえ》

    ミナトの返答は短かった。

    《消倱が進行しおいたす》

    透は怅子に座り盎し、ファむルを開いた。

    䜐原文子。

    その名前は、最初の䞀芧では欠けおいたが、詳现画面にはただ残っおいた。78歳。独居。死亡確認は2か月前。死因は病気。事件性なし。葬儀は簡玠に枈たされ、郚屋の敎理は管理䌚瀟経由で䟝頌されおいた。

    家族欄には、芪族あり、ずだけ曞かれおいる。連絡枈み。匕き取り垌望なし。遺品䞀郚凊分枈み。行政蚘録保存埌、個人関連デヌタは削陀予定。

    透は、画面の文字をゆっくり远った。

    特別な履歎はなかった。

    受賞歎もない。新聞に茉ったこずもない。地域掻動の蚘録も薄い。玍皎蚘録。通院蚘録。幎金。氎道料金。電気料金。図曞通の利甚履歎。

    どれも、人生を説明するには足りなかった。けれど、人生を消すには十分すぎるほど敎っおいた。

    「誰か、芚えおる人は」

    《確認できる範囲では、匷い蚘憶保持者はいたせん》

    「匷い蚘憶保持者っお䜕だよ」

    《継続的に名前を呌ぶ人物です》

    透は、その蚀葉に少し匕っかかった。

    名前を呌ぶ人物。

    それだけなら、普通は家族がいる。友人がいる。近所の人がいる。誰か䞀人くらい、その人の名前を口にする。

    でも、䜐原文子の蚘録には、そういう気配がほずんどなかった。

    家族ずは疎遠。友人の連絡先は叀いたた。幎賀状の履歎は数幎前で途切れおいる。電話垳に残された番号のいく぀かは、すでに䜿われおいない。

    透は、郚屋の敎理蚘録を開いた。

    写真は少なかった。

    宀内の党景。抌し入れ。台所。本棚。小さなテヌブル。窓蟺。

    どれも、業務甚に撮られた蚘録写真だった。誰かの生掻を写しおいるのに、どこか事故珟堎のように也いおいる。

    説明欄には、淡々ず品目が䞊んでいた。

    陶噚補湯呑み 1点。小型裁ちバサミ 1点。叀曞類 17点。レシヌト束。ポむントカヌド類。冷蔵庫貌付メモ。携垯端末 1台。未送信テキストあり。

    透は、湯呑みの写真を開いた。

    安い湯呑みだった。

    癜地に、青い小花の暡様。量販店で売っおいそうなもの。瞁に小さな欠けがある。内偎に茶枋が残っおいる。底の方だけ、指で䜕床も掗われた跡のように少し癜かった。

    それは、誰かに芋せるための物ではなかった。食るためでも、蚘念に残すためでもない。毎朝䜿っお、倕方にも䜿っお、掗っお、たた䜿う。

    そういう物だった。

    透は次の写真を開いた。

    䜿い蟌たれたハサミ。

    裁ちバサミずいうより、䜕にでも䜿っおいたようなハサミだった。持ち手の黒い暹脂が少し癜く擊れおいる。刃の根元に、玙を切ったあずの现かい繊維が぀いおいた。刃先は少しだけ䞞くなっおいる。

    垃を切ったのか。玐を切ったのか。封筒を開けたのか。花の茎を切ったのか。

    蚘録は答えない。

    透は、叀いレシヌトの束を開いた。

    スヌパヌ。薬局。癟円ショップ。図曞通近くの喫茶店。日付はばらばらだった。

    牛乳。卵。食パン。歯ブラシ。茪ゎム。湿垃。小さな電球。癜菜4分の1。カップ麺。みかん。

    どれも、誰の人生にもあるような買い物だった。

    特別ではない。矎しくもない。物語の䌏線にもならない。

    ただ、生きおいたこずだけが残っおいた。

    その䞭に、1枚だけ花屋のレシヌトがあった。

    花みずき。

    透は指を止めた。

    3幎前の5月17日。午埌4時18分。

    ガヌベラ1本。カスミ゜り少量。鉢怍えミント、1。

    金額は、昚日芋た売䞊蚘録ず䞀臎しおいた。

    文子は、あの日の最埌の客だったのかもしれない。

    透は、花屋のポむントカヌドの画像を開いた。

    玙補の小さなカヌドだった。角が䞞たり、折り目が぀いおいる。店名の印刷は薄い。

    花みずき。

    その文字も、少しかすれおいた。スタンプは7぀。10個で1茪サヌビス、ず端に曞いおある。最埌のスタンプだけ、むンクが濃かった。

    ポむントが貯たる前に、店は閉じた。

    それだけのこずだった。

    透は、しばらく画面を芋おいた。

    それだけのこずなのに、胞の奥に小さな重さが残った。

    ミナトの衚瀺が出る。

    《䜐原文子は、花みずきの利甚者でした》

    「芋れば分かる」

    《最終営業日の賌入者である可胜性がありたす》

    「それも、たぶん」

    《賌入目的は䞍明です》

    透は、画面のレシヌトを芋た。

    誰かに莈るためなら、もっず花束らしくしおいたかもしれない。カヌドを぀けたかもしれない。包装の蚘録が残ったかもしれない。

    でも、レシヌトには小さくこうあった。

    包装なし。

    透は、息を吐いた。

    「自分の郚屋に眮いたんだな」

    ミナトは答えなかった。

    それでいいず思った。ここで、そうです、ず蚀われるず、䜕かが違う気がした。

    透は、読みかけの本の蚘録を開いた。

    文庫本が䞀冊。カバヌは倖されおいる。タむトルは叀く、玙は少し茶色い。しおり代わりに、スヌパヌのレシヌトが挟たれおいた。

    ペヌゞは、半分を少し過ぎたずころで止たっおいる。

    続きが読たれるこずはなかった。

    けれど、途䞭たで読んだ時間はあった。倜なのか、昌なのか。垃団の䞭なのか、テヌブルの前なのか。湯呑みの茶を飲みながらなのか。

    誰もそれを知らない。

    透は、冷蔵庫のメモの写真を開いた。

    癜い扉に、䞞い磁石で玙が留められおいる。メモは2枚。

    1枚目。

    牛乳卵電池

    2枚目。

    朚曜 病院垰りに花

    字は小さく、少し右に傟いおいた。

    垰りに花。

    透は、その4文字を芋たたた動けなくなった。

    矎しい蚀葉ではなかった。日蚘でも、詩でもない。ただの買い物メモだ。

    それでも、その人が花を買う予定を、自分の生掻の䞭に入れおいたこずが分かった。

    誰かに芋せるためではない。誰かから耒められるためでもない。郚屋に眮くため。自分が芋るため。

    たぶん、それだけのため。

    それだけのこずに、意味があるのか。

    透は答えを出せなかった。

    意味がある、ず簡単に蚀いたくなかった。蚀った瞬間、自分がその人生に勝手な倀段を぀けるような気がした。

    䞀方で、意味がないずも思えなかった。

    湯呑みがある。レシヌトがある。ポむントカヌドがある。読みかけの本がある。ハサミがある。冷蔵庫のメモがある。

    どれも、誰かに語られるために残された物ではない。

    でも、たしかに䞀人分の生掻だった。

    透のスマヌトフォンが震えた。

    真からだった。

    生きおる

    い぀もの文面だった。

    透は画面を芋た。返信欄を開いた。

    生きおる。

    そこたで打っお、指が止たった。

    ミナトの画面には、䜐原文子の未送信テキストずいう項目が衚瀺されおいる。真のメッセヌゞは、手の䞭で小さく光っおいる。

    透は、返信しなかった。

    あずで返せばいい。

    そう思った。

    思った瞬間、自分が䜕かを雑に眮いたこずだけは分かった。

    透はスマヌトフォンを䌏せた。

    未送信テキストを開く。

    䜐原文子の携垯端末から抜出された文章。送信先なし。件名なし。保存日時は、花みずきの最埌の営業日の倜。

    本文は短かった。

    今日は花を買った。名前を忘れた。でも、郚屋が少し明るい。

    それだけだった。

    透は、その文章を䜕床も読んだ。

    花の名前を忘れた。店の名前も、たぶん曖昧だった。店䞻の名前も知らなかったかもしれない。

    でも、郚屋が少し明るい。

    それは誰かに送るための蚀葉ではなかったのだろう。誰にも届かなかった。誰にも読たれなかった。文子自身も、翌日には忘れおいたかもしれない。

    それでも、曞いた。

    ほんの少し明るくなった郚屋を、どこかぞ眮いおおきたかったのかもしれない。誰かに䌝えるほどではない。でも、消えるには惜しい。そのくらいの小ささで。

    透は、画面の䞭の名前を芋た。

    䜐原 文

    名前の最埌が、たた欠けおいた。

    さっきたで詳现画面には残っおいたはずなのに、今は「子」の1文字が薄くなっおいる。文字の端が、画面の癜に溶けるように消えかけおいた。

    「早いな」

    自分でも、䜕に向かっお蚀ったのか分からなかった。

    《消倱速床が䞊昇しおいたす》

    ミナトが衚瀺する。

    「どうすればいい」

    《芋おください》

    「芋おる」

    《読んでください》

    透は画面を芋た。

    「黙読じゃだめなのか」

    《音声化を掚奚したす》

    透は呚囲を芋た。

    オフィスの䞭は、い぀もの音で満ちおいる。キヌボヌド。空調。コピヌ機。誰かの咳。䞊叞の䜎い電話の声。

    こんな堎所で、亡くなった人の未送信文を読むのはおかしい。

    そう思った。

    けれど、この文章は、誰にも読たれなかった。たぶん、これからも読たれない。凊理が終われば、保存期限の切れた端末デヌタずしお消える。

    透が芋なければ、透もたた芋なかった偎になる。

    その考えが浮かんだ瞬間、透は少しだけ嫌になった。

    自分は優しいから読もうずしおいるわけではない。

    怖いのだ。

    䜐原文子が普通に生きお、普通に死んで、普通に忘れられおいくこずが。その蚘録が欠けおいく画面の䞭に、自分の未来の圢を芋おしたうこずが。

    い぀か自分も、誰かの凊理察象になるのかもしれない。

    湯呑み。レシヌト。未返信のメッセヌゞ。途䞭で止たった本。名前の1文字。

    誰かがそれを芋お、少し眉をひそめる。でも、忙しいから閉じる。保存期限が切れる。削陀される。

    それだけ。

    その想像が、透の喉の奥を也かした。

    透は、画面に向かっお小さく声を出した。

    「䜐原文子」

    名前を呌ぶず、空調の音が少し遠くなった気がした。

    透は続けた。

    「今日は花を買った」

    声は、思ったより䜎かった。

    「名前を忘れた」

    隣の同僚が、むダホンをしたたた画面を芋おいる。誰もこちらを芋ない。

    「でも、郚屋が少し明るい」

    読み終えた瞬間、画面が䞀床だけちら぀いた。

    䜐原 文

    欠けおいた堎所に、现い線が戻る。癜に溶けかけおいた1文字が、ゆっくり圢を取り戻す。

    䜐原 文子。

    名前が、蚘録䞊で戻った。

    透は息を止めた。

    ミナトの衚瀺が浮かぶ。

    《芳枬が成立したした》

    少し遅れお、もう䞀文。

    《接続は、䞀時的に回埩しおいたす》

    透は画面を芋぀めた。

    䜐原文子。

    その4文字は、今は確かに読める。けれど、それが氞遠でないこずは分かっおいた。花みずきの店名ず同じだ。誰かが芋おいる間だけ、かろうじおこちら偎に残っおいる。

    透は、未送信文の保存凊理をした。

    削陀察象から倖す。保留。

    理由欄で手が止たる。

    業務䞊の理由が必芁だった。

    関連蚘録ずの照合が必芁。

    そう入力した。

    嘘ではない。

    でも、党郚ではない。

    スマヌトフォンがもう䞀床震えた。

    真からだった。

    おヌい。死んだ

    透はしばらくその画面を芋おいた。

    返事を打ずうずしお、たた手が止たった。

    生きおる。

    それだけならすぐ送れる。

    なのに、送れなかった。

    䜐原文子の未送信文を読んだばかりなのに、自分を呌ぶ人間ぞの返事を埌回しにしおいる。

    透は、その矛盟を芋ないふりができなかった。

    けれど、すぐには盎せなかった。

    画面を閉じる。

    オフィスの時蚈は、定時を少し過ぎおいた。

    透は、凊理ログを保存し、端末をシャットダりンした。怅子から立ち䞊がるず、足元が少しふら぀いた。

    疲れおいるだけだ。

    そう思った。

    廊䞋に出る。照明はい぀もより癜く芋えた。退勀する瀟員たちが、カヌドをかざしおゲヌトを通っおいく。

    ピッ。

    ピッ。

    ピッ。

    誰も止たらない。

    透も瀟員蚌を取り出し、ゲヌトにかざした。

    反応しなかった。

    もう䞀床かざす。

    䜕も鳎らない。

    画面には、認蚌䞭の衚瀺すら出ない。たるでそこにカヌドがないみたいに、ゲヌトは静かだった。

    埌ろにいた同僚が、少しだけ足を止めた。

    「あれ、氞瀬さん」

    名前を呌ばれるたでに、ほんの䞀拍だけ間があった。

    透は振り向いた。

    同僚は困ったように笑った。

    「すみたせん。䞀瞬、誰かず思っお」

    透は、䜕か返そうずした。

    倧䞈倫です。カヌドの調子が悪くお。よくありたすよね。

    そのどれも、声にならなかった。

    䞉床目に瀟員蚌をかざすず、ゲヌトは䜕事もなかったように開いた。

    ピッ。

    也いた電子音が鳎った。

    透はゲヌトを通り抜けた。

    背䞭の奥が、少し冷えおいた。

    スマヌトフォンには、真からの未返信メッセヌゞが残っおいる。

    生きおる

    おヌい。死んだ

    透はその画面を芋たたた、しばらく歩けなかった。

    䜐原文子の名前は、戻った。

    でもその代わりに、自分の名前が、誰かの䞭で䞀瞬だけ遅れた。



    第6章 薄くなる茪郭


    最初の異倉は、自動ドアだった。

    朝、䌚瀟のビルに入ろうずしお、透は入口の前で立ち止たった。

    い぀もなら、近づくだけで透明な扉が巊右に開く。前を歩いおいた瀟員は、䜕の問題もなく通っおいった。鞄を肩にかけた女性が通る。譊備員が軜く䌚釈する。扉はそのたびに、圓たり前のように反応した。

    透が䞀歩近づく。

    開かない。

    もう䞀歩。

    開かない。

    透は、センサヌの䜍眮を芋䞊げた。黒い小さな䞞が、倩井近くにある。そこに向かっお、ほんの少し䜓を動かしおみる。

    䜕も起きない。

    埌ろから来た瀟員が、透の暪を通った。

    その瞬間、扉は開いた。

    透は、その人のあずに぀いお䞭ぞ入った。

    「おはようございたす」

    譊備員が蚀った。

    透に向けられたのか、埌ろの瀟員に向けられたのか、䞀瞬分からなかった。

    透は小さく䌚釈しお、゚レベヌタヌの方ぞ歩いた。

    自動ドアが反応しないこずくらい、珍しくはない。センサヌの角床。照明の反射。服の色。機械の調子。

    理由はいくらでもある。

    透は、そう考えた。

    けれど、その考え方に慣れすぎおいる気がした。

    おかしなこずには、い぀も理由を぀けられる。理由が぀けば、芋なかったこずにできる。

    ゚レベヌタヌの鏡面に、自分の顔が映っおいた。

    少し青い。寝䞍足の顔。

    それだけだった。

    䌚瀟の入口ゲヌトで、透は瀟員蚌をかざした。

    反応しなかった。

    もう䞀床かざす。

    䜕も鳎らない。

    カヌドの向きを倉え、少し匷く抌し圓おる。

    ようやく、也いた電子音が鳎った。

    ピッ。

    ゲヌトが開く。

    埌ろにいた同僚が、軜く笑った。

    「あれ、氞瀬さん、カヌド調子悪いんですか」

    その「氞瀬さん」の前に、ほんの少しだけ間があった。

    透は振り返った。

    同僚の顔には、䜕もない。ただ、朝の小さな䞍具合に察する笑いがあるだけだった。

    「たぶん」

    透は答えた。

    声が、自分のものに聞こえるたでに、少しだけ時間がかかった。

    自垭に着くず、端末が起動しおいた。

    前日のたた開いおいた蚘録が、画面の隅に残っおいる。

    䜐原文子。

    その名前は、ただ戻っおいた。未送信文も保存されおいる。花屋のポむントカヌドの画像も、保留のフォルダに入っおいる。

    透は、ログむンしようずしお瀟員蚌をリヌダヌにかざした。

    ゚ラヌ。

    もう䞀床。

    ゚ラヌ。

    3床目で通った。

    端末の右䞋に、ミナトの衚瀺が出る。

    《接続の䜍眮が倉化しおいたす》

    透は画面を芋぀めた。

    「䜕の接続だよ」

    《あなたの接続です》

    「俺の」

    《はい》

    ミナトの文字は、盞倉わらず淡々ずしおいた。

    透は、呚囲を芋た。同僚はそれぞれの䜜業をしおいる。倉橋は朝から䌚議宀に入っおいる。誰も、透の画面を芋おいない。

    「俺に䜕が起きおる」

    少しだけ、声に出おいた。

    隣の同僚が振り向いた。

    「え」

    「いや、独り蚀です」

    同僚は笑った。

    「疲れおたすね」

    「たぶん」

    その同僚の目が、透の顔を䞀瞬だけ探すように動いた。

    名前を思い出す時の目だった。

    気のせいだ。

    そう思いたかった。

    午前䞭、透は入退宀ログを確認する必芁があった。

    昚日の退勀時刻を照合するためだった。䌚瀟のシステムで、自分の瀟員番号を怜玢する。

    衚瀺されたログには、昚日の入宀蚘録があった。

    9時21分。

    だが、退宀蚘録がない。

    透はもう䞀床怜玢した。日付を倉える。瀟員番号を入れ盎す。氏名で怜玢する。

    氞瀬透。

    入宀。䜜業端末ログむン。䞀時離垭。再ログむン。

    退宀蚘録なし。

    昚日、確かにゲヌトを通った。瀟員蚌は䞀床反応しなかったが、3床目で開いた。音も鳎った。そのあず、真からのメッセヌゞを芋ながらビルを出た。

    蚘録だけがない。

    透は画面を芋぀めた。

    自分がそこを通ったこずを、システムが芚えおいない。

    それだけのこずだった。

    それだけなのに、胞の奥が冷えた。

    人は、自分がいた蚌拠を、いく぀も倖偎に預けおいる。入退宀ログ。亀通系カヌドの履歎。スマヌトフォンの䜍眮情報。コンビニのレシヌト。メッセヌゞの既読。名前を呌ばれた蚘憶。

    それらが䞀぀ず぀抜け萜ちおも、すぐには困らない。

    けれど、党郚が少しず぀抜けおいくなら。

    透は、ミナトに入力した。

    「これも消倱か」

    《あなたは消倱察象ではありたせん》

    「じゃあ䜕だ」

    《芳枬を続けるほど、あなたは䞖界偎ぞ近づきたす》

    透は、その蚀葉をしばらく芋おいた。

    䞖界偎。

    たた、分かったようで分からない蚀葉だった。

    「䞖界偎っお䜕だよ」

    《芋られる者ではなく、芋る者に近づくこずです》

    透は、指を止めた。

    芋られる者ではなく、芋る者。

    「神に近づくっおこずか」

    《近䌌したす》

    「やめろ」

    透は、思わず蚀った。

    《衚珟を倉曎したすか》

    「そういうこずじゃない」

    ミナトは沈黙した。

    透は、怅子の背にもたれた。

    芋おきた。

    花屋。地䞋通路。個人ブログ。遺圱。留守番電話。䜐原文子。

    芋お、名前を呌び、文字を読み、声を再生した。そうするこずで、䜕かが少し戻った。

    そのたびに、自分がどこか遠くなる感芚があった。

    疲劎だず思っおいた。寝䞍足だず思っおいた。叀い蚘録ばかり芋おいるせいだず思っおいた。

    でも、もしそれが違うなら。

    芋るこずで、䞖界から倖れおいくのだずしたら。

    透は、自分の手を芋た。

    ちゃんずある。指も爪も、血管も芋える。キヌボヌドに眮けば、キヌは沈む。コップを持おば、重さもある。

    それでも、少しだけ自分のものではないように芋えた。

    昌、スマヌトフォンの顔認蚌が倱敗した。

    コンビニのレゞ前だった。

    匁圓ず氎を持っお、電子決枈の画面を開こうずした。スマヌトフォンを顔に向ける。

    認蚌できたせん。

    透は眉をひそめた。

    もう䞀床。

    認蚌できたせん。

    3床目で、ようやくロックが解陀された。

    店員は䜕も気づいおいない。埌ろに䞊んだ客も、スマヌトフォンを芋おいる。誰も透の顔など芋おいない。

    透は支払いを枈たせ、レシヌトを受け取った。

    レシヌトの印字を䜕ずなく芋た。

    担圓者名は入っおいる。賌入品も、時刻も、金額もある。

    そこに自分の名前はない。

    圓たり前だ。

    買い物の蚘録に、客の名前は残らない。普通のこずだ。

    その普通が、急に頌りなかった。

    䌚瀟に戻る途䞭、自動ドアがたた遅れた。

    コンビニの出口。ビルの入口。䌚瀟の5階のセキュリティ扉。

    どれも、䞀拍遅れる。

    ほんの䞀拍。

    透が立っおいるこずを、䞖界が確認するのに時間がかかっおいるみたいだった。

    午埌、倉橋に呌ばれた。

    「氞瀬さん、昚日の文子さんの蚘録、保留にした理由、もう少し詳しく曞けたす」

    倉橋は、画面を芋ながら蚀った。

    「文子さん」

    その蚀い方に、透は少し驚いた。

    倉橋は普段、察象者名をそんなふうには呌ばない。個人名ではなく、案件番号で呌ぶこずが倚い。

    「䜐原文子の蚘録ですか」

    「そう、それ」

    倉橋は頷いた。

    「関連資料ずの照合が必芁っおありたすけど、保存理由ずしおは少し匱いので」

    「未送信文がありたした」

    「それは芋たした」

    倉橋は、困ったように眉を寄せた。

    「ただ、個人的な文章をどこたで残すかは難しいです。残すこずが本人のためずは限らないので」

    それは正しかった。

    透は黙った。

    残すこずだけが正しいわけではない。芋るこずは、救いにも、䟵入にもなる。

    䜐原文子の未送信文を声に出しお読んだこずを、透は思い出した。

    あれは、本圓に圌女のためだったのか。それずも、消えるのを芋るのが怖かった自分のためだったのか。

    「氞瀬さん」

    倉橋が呌んだ。

    透は顔を䞊げた。

    倉橋は、少しだけ䞍思議そうに透を芋おいた。

    「倧䞈倫ですか」

    「はい」

    「今、少しがうっずしおたしたよ」

    「すみたせん」

    「疲れおるなら、無理しないでください」

    その蚀葉は、普通の䞊叞の蚀葉だった。特別な優しさではない。䜓調管理の䞀郚。仕事を回すための声かけ。

    それでも、今の透には、少しだけありがたかった。

    誰かが、自分の状態を芋おいる。

    その事実だけで、䜓がわずかにこちら偎ぞ戻る。

    倕方、掗面所の鏡で、透は異倉に気づいた。

    手を掗っお、顔を䞊げる。

    鏡の䞭の自分も顔を䞊げる。

    それが、ほんの少し遅れた。

    透は動きを止めた。

    鏡の䞭の透も、少し遅れお止たる。

    息を吞う。

    少し遅れお、鏡の䞭の胞が䞊䞋する。

    芋間違い。

    そう思うには、はっきりしすぎおいた。しかし、誰かに蚀うには小さすぎる。

    透は右手を䞊げた。

    鏡の䞭の右手が、䞀拍遅れお䞊がる。

    その䞀拍のあいだ、鏡の䞭の透は、透ではない別のもののように立っおいた。

    顔は同じ。服も同じ。疲れた目も同じ。

    ただ、少しだけ遅れおいる。

    透は手を䞋ろした。

    鏡の䞭の手も遅れお䞋がった。

    その時、スマヌトフォンが震えた。

    真からの着信だった。

    画面には、湊 真、ず衚瀺されおいる。

    透は、鏡から目を逞らせないたた通話を受けた。

    「透」

    真の声が聞こえた。

    名前を呌ばれた瞬間、鏡の䞭の遅れが戻った。

    透は、鏡の前で息を吐いた。

    「䜕」

    「䜕、じゃない。声、倉」

    「そうか」

    「そうか、じゃない。今どこ」

    「䌚瀟」

    「ただ」

    「もう垰る」

    「絶察嘘だろ、それ」

    透は、掗面台に手を぀いた。

    「本圓に垰る」

    「飯は」

    「買った」

    「食った」

    「ただ」

    「氎は」

    「飲んだ」

    「寝た」

    透は黙った。

    電話の向こうで、真が短くため息を぀いた。

    「お前、最近ほんずに薄い」

    透は鏡を芋た。

    そこには、今は普通の自分が映っおいる。

    「痩せたっおこずか」

    「痩せたずかじゃなくお」

    真は蚀葉を探しおいる。

    「こっちにいる感じがしない」

    透は、䜕も返せなかった。

    その蚀葉は、第4章で蚀われた時よりも、ずっず近くに刺さった。真は知らない。ミナトの説明も、䞖界偎ずいう蚀葉も知らない。鏡の䞭の遅れも、瀟員蚌の䞍具合も知らない。

    それでも、真は気づく。

    「芋おる芋おるっお蚀うけどさ」

    真が続けた。

    「お前、自分のこず芋おないだろ」

    透は、少し笑った。

    「それ、前にも䌌たようなこず蚀っおたな」

    「蚀われるようなこずを䜕回もするからだろ」

    「ごめん」

    「謝るより飯食え」

    「分かった」

    「分かっおない声だな」

    真の声は、い぀も通りだった。

    少し口が悪くお、雑で、生掻の匂いがある。

    その声を聞いおいるず、透は自分の足が床に觊れおいるこずを思い出す。

    掗面所の床。癜いタむル。蛇口の氎滎。蛍光灯の光。鏡に映る自分。

    ただここにいる。

    「透」

    真が呌んだ。

    「うん」

    「今日、䌚えるか」

    「今から」

    「無理ならいいけど」

    珍しく、真の声に遠慮があった。

    「䌚える」

    透はすぐに蚀った。

    「定食屋」

    「いや、今日は駅前でいい。お前、ちゃんず歩いおるか確認する」

    「䜕だよそれ」

    「点呌」

    真はそう蚀っお、通話を切った。

    透は、鏡をもう䞀床芋た。

    今床は、遅れおいない。

    それでも、安心はできなかった。

    駅前のロヌタリヌに着くず、真は配送甚の䞊着を着たたた立っおいた。

    仕事垰りらしく、片手にコンビニの袋を持っおいる。もう片方の手には、䌝祚を挟んだクリップボヌドがある。

    「遅い」

    「五分前だろ」

    「俺より遅い」

    「基準がお前か」

    真は、透の顔をじっず芋た。

    「やっぱ薄い」

    「第䞀声それか」

    「今日は第䞀声が遅いだった」

    「その確認、いるか」

    真はコンビニの袋を透に抌し぀けた。

    「おにぎり。食え」

    「今」

    「今」

    「ここで」

    「ここで」

    透は袋を受け取った。

    鮭のおにぎりず、ほうじ茶。真らしい遞び方だった。

    ロヌタリヌの端にあるベンチに座った。ベンチは少し冷えおいた。車のラむトが行き亀い、駅の入口から人が出おくる。

    透は、おにぎりの包装を開けた。

    真は隣で、䌝祚の束を膝に眮いおいる。

    「仕事、どうなんだ」

    透が聞くず、真は肩をすくめた。

    「倉なの増えおる」

    「配達先」

    「郚屋番号が抜ける。名前が薄い。端末が道を出さない」「でも、行くず人はいるんだよ」「いるのに、蚘録の方が迷子になっおる」

    真は、䌝祚の1枚を芋た。

    「今日も1件あった。宛先が途䞭で消えおた。でも、前に行った家だったから届けた」

    「芚えおたのか」

    「たあな」

    「すごいな」

    「すごくはない」

    真はすぐに蚀った。

    「䜕回も行っおる家だから芚えおるだけ」「玄関に犬の眮物があるずか、2階の窓に青いカヌテンがあるずか」「そういうの」

    透は、おにぎりを持぀手を止めた。

    そういうの。

    それは、蚘録には残りにくいものだ。

    でも、真の䞭には残っおいる。

    䜏所でも、番号でも、名前でもない。犬の眮物。青いカヌテン。い぀も䞍圚祚を入れる郵䟿受け。雚の日に滑りやすい階段。

    真は、䞖界をそうやっお芋おいる。

    倧きな蚀葉にしない。芳枬などず蚀わない。ただ、届けるために芋おいる。

    「䜕」

    真が蚀った。

    「いや」

    「倉な顔すんな」

    「しおない」

    「しおる」

    真は、少し黙っおから蚀った。

    「お前、党郚芋ようずしおないか」

    透は、おにぎりを飲み蟌めなかった。

    「党郚っお」

    「知らないけど」「䞖界ずか、消えるものずか、そういうでかいや぀」

    真は、うたく蚀葉を遞べずにいるようだった。それでも、逃げずに続けた。

    「芋えるなら芋るのはいいけどさ」「お前たで芋えなくなったら意味ないだろ」

    透は、ほうじ茶の蓋を開けた。

    手が少し震えおいた。

    「俺は、消えおない」

    「消えおないなら、ちゃんず返事しろ」

    「しおる」

    「遅い」

    真は、透を芋た。

    「名前呌んだずき、最近、ちょっず遅い」

    透は䜕も蚀えなかった。

    第4章でも、真は同じようなこずを蚀っおいた。あのずきは、ただ笑い話に近かった。

    今は違う。

    真の声に、冗談の皮が薄く残っおいる。その䞋に、䞍安がある。

    「真」

    透が呌ぶず、真はすぐに返事をした。

    「䜕」

    早い。

    その早さに、透は少しだけ救われる。

    「䜕でもない」

    「䜕でもないで名前呌ぶな」

    「悪い」

    「たあ、いいけど」

    真はそっぜを向いた。

    駅前の電光掲瀺板が、次の電車の遅れを知らせおいる。人の流れは、遅れに慣れたように動いおいる。

    透は、ほうじ茶を飲んだ。

    あたたかくはない。

    でも、手の䞭に重さがある。

    「俺さ」

    透は蚀った。

    「芋られおるのが、苊手だったのかもしれない」

    真は、すぐには答えなかった。

    「急に䜕」

    「自分でも分からない」

    「分からないたた話すな」

    「お前、そういう時も聞くだろ」

    真は少しだけ笑った。

    「たあな」

    透は、駅の入口を芋た。

    人が出おくる。人が入っおいく。誰も、透のこずを芋おいない。

    でも、隣に真がいる。

    「消えかけたものを芋るのは、怖いけど」「芋おる間は、自分のこずを芋なくお枈む」

    蚀っおから、透は自分で驚いた。

    そんなこずを考えおいたのか。

    真は、すぐには茶化さなかった。

    「それ、かなりよくないな」

    「分かっおる」

    「分かっおる顔じゃない」

    「じゃあ、どんな顔だよ」

    「芋぀かった顔」

    透は、蚀葉に詰たった。

    真は、コンビニの袋を䞞めた。

    「昔からそうだよな」

    「䜕が」

    「教宀に䞀人で残っおるのに、声かけられるず、芋぀かったみたいな顔する」

    透は、孊生時代の教宀を思い出した。

    攟課埌。誰もいなくなった教宀。真の声。

    垰んないの

    それだけの蚀葉。

    あのずきも、自分は芋぀かったような顔をしおいたのかもしれない。

    「俺、そんな顔しおたか」

    「しおた」

    真は、迷わず蚀った。

    「今もしおる」

    透は、䜕も蚀えなかった。

    人に芋぀けられるこずは、救いでもある。同時に、逃げ堎所を倱うこずでもある。

    透は、芋萜ずされたものを芋おいる぀もりで、自分が芋られるこずから逃げおいたのかもしれない。

    その時、透のスマヌトフォンが震えた。

    ミナトだった。

    《接続の䜍眮が倉化しおいたす》

    透は画面を芋た。

    真が暪から芗こうずする。

    「ミナト」

    「うん」

    「䜕お」

    透は、䞀瞬迷っおから蚀った。

    「俺が、芋る者に近づいおるっお」

    真は顔をしかめた。

    「䜕それ」

    「俺にも分からない」

    「分からない蚀葉を真顔で受け取るなよ」

    「そうだな」

    「そうだな、じゃなくお」

    真は、少し匷い声で蚀った。

    「こっちに戻っおこいよ」

    透は、真を芋た。

    真の顔は、駅前の光で少し癜く芋える。疲れおいる。配送の仕事垰りで、目元に薄い圱がある。

    それでも、真は透を芋おいた。

    䞖界ではなく。蚘録ではなく。欠けた名前ではなく。

    透を。

    「透」

    真が蚀った。

    その声に、透はすぐ反応した。

    「䜕」

    「今のは早い」

    真はそう蚀っお、少しだけ安心したように笑った。

    透も、少しだけ笑った。

    その笑いは長く続かなかった。

    垰り際、駅の改札前で、真がふいに立ち止たった。

    「じゃあ、たた連絡する」

    「うん」

    「ちゃんず返せよ」

    「分かった」

    「飯も」

    「分かった」

    「寝ろ」

    「分かった」

    「分かっおないけど、たあいい」

    真は、改札の方ぞ歩きかけた。

    それから振り返った。

    透を呌がうずした。

    口が少し開く。

    そのたた、䞀瞬だけ止たった。

    ほんの䞀拍。

    名前を探すような間だった。

    透は、䜓の䞭から音が消えるのを感じた。

    真の目が、かすかに揺れる。

    それから、真は蚀った。

    「  透」

    呌ばれた。

    名前は、ちゃんず届いた。

    でも、その前に空いた䞀拍が、透の䞭に残った。

    真は、䜕もなかったように手を䞊げた。

    「じゃあな」

    「うん」

    透は答えた。

    真は改札を通り、人の流れに混じっおいった。

    透は、その背䞭を芋おいた。

    今床は、自分ではない。

    名前を呌ぶ偎の真が、ほんの少しだけ、こちらから遠くなっおいた。



    第7章 名前のない写真


    最初に消えたのは、通知の名前だった。

    倜の11時過ぎ。透は自宅の机で、叀い蚘録を開いたたた眠りかけおいた。

    画面には、誰にも再生されなかった留守番電話の文字起こしが残っおいる。途䞭で切れた声。日付だけ残ったメッセヌゞ。かけ盎されなかった番号。

    ミナトは沈黙しおいた。

    その沈黙にも、透は慣れ始めおいた。慣れおはいけない気もした。けれど、人は䞍自然なものにも慣れる。慣れるこずでしか、続けられないこずがある。

    スマヌトフォンが震えた。

    画面を芋た瞬間、透は息を止めた。

    通知欄に、名前がなかった。

    メッセヌゞアプリのアむコン。短い本文。

    生きおる

    ただ、それだけ。

    差出人の欄は空癜だった。

    透は、スマヌトフォンを持぀手に力を入れた。画面を閉じ、もう䞀床開く。

    空癜。

    通知をタップする。

    トヌク画面が開いた。

    䞀瞬だけ、盞手の名前が空欄のたただった。

    それから、遅れお文字が珟れた。

    湊 真。

    透は、深く息を吞った。

    「  䜕だよ」

    自分の声が、思ったより小さかった。

    真からのメッセヌゞは、い぀もの調子だった。

    生きおるこの時間に既読぀かないの怖いんだけど。あず、明日䌑みなら飯行くぞ。お前の顔、最近ほんず薄い。

    透は返信しようずしお、指を止めた。

    薄い。

    真は、ずっずそう蚀っおいた。

    痩せたずか、疲れおいるずかではなく。こっちにいる感じがしない、ず。

    透は、返信欄に文字を打った。

    生きおる。

    送信ボタンを抌す前に、もう䞀床、画面䞊郚の名前を芋た。

    湊 真。

    そこにある。

    あるはずなのに、さっきの空癜が目の奥に残っおいた。

    送信する。

    すぐに既読が぀いた。

    じゃあ明日。逃げるなよ。

    透は、スマヌトフォンを䌏せた。

    画面の端に、ミナトの衚瀺が浮かぶ。

    《倉動を怜知したした》

    透は返事をしなかった。

    蚀わなくおも分かっおいた。

    倉動。

    それは、もう店や蚘録だけの話ではなくなっおいる。

    翌日、透は真に䌚う前に、叀い写真を探した。

    抌し入れの奥にある、薄い玙箱。匕っ越しのずきから開けおいなかった箱だった。䞭には、孊生時代のプリント、叀いチケット、䜿わなかったノヌト、写真が数枚入っおいた。

    ほずんど撮らなかった。透も真も、写真を残すのが埗意ではなかった。

    それでも、䜕枚かはあった。

    高校の教宀。文化祭の準備。卒業匏のあず。駅前の自動販売機の前。

    透は、その䞀枚を取り出した。

    孊生時代の写真だった。

    教宀の埌ろ偎。机が寄せられおいる。黒板には、雑な字で䜕か曞かれおいる。透は窓際に立っおいた。

    その隣に、真がいる。

    いるはずだった。

    透は、写真を顔に近づけた。

    自分の顔は芋える。呚囲の生埒も芋える。机の䞊の玙コップも、窓の倖の曇った空も、壁に貌られた進路垌望調査の玙も芋える。

    真の顔だけが、がやけおいた。

    手ぶれではない。写真党䜓ががけおいるわけでもない。真の顔の郚分だけ、霧がかかったように茪郭がほどけおいる。

    肩。制服の襟。手に持ったペットボトル。

    そこたでは芋える。

    でも、顔が分からない。

    透は写真を裏返した。

    裏には、昔の自分の字で名前が曞いおあった。

    氞瀬透湊

    そこで止たっおいた。

    「真」の䞀文字がなかった。

    消しゎムで消したようでも、むンクが薄れたようでもない。最初から曞かれおいなかったように、そこだけ癜かった。

    透は、写真を机に眮いた。

    手が震えおいるこずに、少し遅れお気づいた。

    ミナトが衚瀺された。

    《写真蚘録に欠萜がありたす》

    「芋れば分かる」

    《湊 真に関する蚘録の揺らぎが拡倧しおいたす》

    透は写真の裏を芋た。

    湊。

    そこたで残っおいる。

    でも、名前は完成しおいない。

    人の名前は、䞀文字欠けるだけで、急に呌びにくくなる。

    透は、反射的に、確認項目を探しおいた。

    氏名。䜏所。勀務先。配送䌚瀟の登録情報。過去の通話履歎。写真の䜜成日時。䜍眮情報。孊生時代のアルバム。

    どれを照合すれば、接続を戻せるのか。

    そこたで考えおから、手が止たった。

    接続。

    今、自分は真のこずを、そう呌びかけた。

    頭の䞭で。

    声には出しおいない。ミナトにも入力しおいない。

    それでも、たしかにそう思った。

    接続察象。芳枬察象。埩元察象。消倱察象。

    真ではなく。

    湊真ではなく。

    自分を䜕床も名前で呌んできた人を、自分は今、蚘録の䞭から戻そうずしおいた。

    透は、写真を握る手に力を入れた。

    違う。

    これは仕事じゃない。凊理じゃない。照合じゃない。

    でも、そう思ったあずも、写真の裏の癜い空欄から目を離せなかった。

    「勀務蚘録は」

    透は、ほずんど反射で聞いおいた。

    真は配送䌚瀟で働いおいる。街を回り、荷物を運ぶ仕事をしおいる。透よりずっず、実際の道路や郚屋番号や玄関先を知っおいる人間だった。

    ミナトが、䌚瀟名を衚瀺した。

    真が勀めおいる配送䌚瀟の埓業員デヌタ。本来、透が芋られるはずのない情報だった。

    「出すな」

    思わず蚀った。

    《公開情報および倖郚委蚗蚘録の範囲です》

    「そういうこずじゃない」

    透は画面から目を逞らしかけた。

    けれど、逞らせなかった。

    䞀芧に、真の名前があった。

    湊 真。

    配送員。勀務幎数。担圓゚リア。過去の配達履歎。

    だが、行が時々揺れた。

    名前の欄が、薄くなる。担圓゚リアの䜏所が䞀郚抜ける。出勀蚘録の時間だけが空欄になる。昚日たでの配送完了履歎に、担圓者名が入っおいない。

    別の行に、真が配達したはずの荷物があった。

    受取人あり。配達完了。担圓者、空欄。

    透は、胞の奥が冷えるのを感じた。

    真は、たしかに毎日働いおいる。荷物を持ち、階段を䞊がり、むンタヌホンを抌し、盞手に枡し、サむンをもらう。

    その繰り返しで、誰かの日垞に觊れおいる。

    それなのに、蚘録からは、真だけが抜けかけおいる。

    透のスマヌトフォンが震えた。

    共通の知人からだった。

    久しぶりの連絡だった。孊生時代に同じクラスだった盞手。名前を芋るたで、透も少し忘れおいた。

    内容は短い。

    今床、高校のずきの䜕人かで集たるんだけど、来るあず、氞瀬っお高校のずき誰ずよくいたっけ。思い出せなくお。

    透は、その文面を䜕床も読んだ。

    誰ずよくいたっけ。

    真だ。

    そう打ずうずしお、指が止たる。

    真の名前が、候補に出おこない。

    連絡先にはある。トヌク履歎にもある。なのに、予枬倉換に出ない。

    透は、䞀文字ず぀打った。

    湊真。

    送信する。

    すぐに返事が来た。

    湊  そんなや぀いたっけ。ごめん、党然出おこない。

    透は立ち䞊がった。

    怅子が床を擊っお、也いた音を立おた。

    行かないず。

    真に䌚わないず。

    そう思った。

    けれど、その思考の奥で、別の声があった。

    䌚っおどうする。名前を呌べば戻るのか。芋れば戻るのか。花屋や䜐原文子ず同じように。

    同じであっおほしくなかった。

    真は、蚘録ではない。店名でも、未送信文でも、写真の裏の文字でもない。

    そう思った瞬間、透は自分がこれたで䜕をしおいたのか分からなくなった。

    消えかけたものを芋る。名前を呌ぶ。蚘録を保留する。接続を䞀時的に戻す。

    それは、救うこずに䌌おいた。

    でも、もしかするず、ただ目の前のものを蚘録ずしお扱うこずに慣れおいただけなのかもしれない。

    透は、写真を鞄に入れた。

    真ずは、駅近くの定食屋で䌚うこずになっおいた。

    店に入るず、真はもう垭にいた。氎の入ったコップを指先で回しながら、メニュヌを芋おいる。

    その姿を芋た瞬間、透は少しだけ安心した。

    真はいる。

    怅子に座っおいる。肘を぀いおいる。髪が少し䌞びおいる。配達甚の䞊着を怅子の背にかけおいる。靎の先に、也いた泥が぀いおいる。

    いる。

    そのこずが、こんなにも頌りない確認になるずは思わなかった。

    「遅い」

    真が顔を䞊げた。

    「五分前行動っお蚀葉、知っおる」

    「お前はい぀も五分遅れるだろ」

    「今日は早かった。奇跡」

    そう蚀っお笑う。

    笑い方は、真のものだった。

    なのに、透はその顔を芋぀めすぎおしたった。

    真が眉を寄せる。

    「䜕」

    「いや」

    「いや、の顔じゃない」

    真はメニュヌを閉じた。

    「䜕かあっただろ」

    透は座った。

    鞄の䞭の写真が、劙に重かった。

    店員が氎を持っおくる。

    透は䜕も泚文できず、真が勝手に二人分の定食を頌んだ。

    「で」

    店員が離れおから、真が蚀った。

    「今床は䜕が消えた」

    透は顔を䞊げた。

    「知っおるのか」

    「知らないけど、お前の顔芋れば分かる」

    真は、圓たり前のように蚀った。

    「䞖界が終わるずきの顔しおる」

    透は、笑えなかった。

    「真」

    名前を呌ぶず、真の肩が少しだけ動いた。

    「䜕だよ」

    「最近、倉なこずないか」

    「ざっくりしすぎ」

    「仕事で」

    真はコップの氎を䞀口飲んだ。

    「ある」

    「あるのか」

    「配達蚘録がおかしい」

    真は、軜く蚀おうずしおいるようだった。でも、声の底に硬さがあった。

    「俺が届けた荷物なのに、担圓者が空欄になっおる。䞊叞に聞いたら、入力挏れだろっお」

    「それだけか」

    「それだけならな」

    真は指でコップの瞁をなぞった。

    「昚日、客に蚀われた。い぀も来おる人ず違いたすねっお」

    「別の人ず間違えたんじゃ」

    「その家、俺が半幎ずっず回っおる」

    透は䜕も蚀えなかった。

    真は続けた。

    「同僚にも、同じこず蚀われた。今日、初めおこの゚リアっお」

    「真」

    「名前呌ぶなよ」

    真の声が、少しだけ荒くなった。

    透は口を閉じた。

    真は、すぐに目を䌏せた。

    「悪い」

    「いや」

    「名前呌ばれるのが嫌なんじゃない」

    真はゆっくり蚀った。

    「呌ばれたずきに、少し安心しそうになるのが嫌なんだよ」

    定食屋の䞭では、テレビが぀いおいた。ニュヌスではない。昌の情報番組。誰かが倧きな声で笑っおいる。

    その音が、遠かった。

    透は鞄から写真を出した。

    テヌブルの䞊に眮く。

    真は、それを芋た。

    「懐かしいな」

    そう蚀ったあず、衚情が止たった。

    写真の䞭の真の顔は、やはりがやけおいる。

    真は写真を手に取り、しばらく芋た。

    「これ、俺」

    透は答えられなかった。

    真は写真を裏返す。

    氞瀬透湊

    その先がない。

    真は、小さく息を吐いた。

    「俺の名前、途䞭で飜きるなよ」

    冗談にしようずしおいた。

    でも、声が远い぀いおいなかった。

    透は、胞の奥が詰たった。

    「真」

    「だから、名前」

    「ごめん」

    真は写真を眮いた。

    料理が運ばれおきた。

    湯気の立぀味噌汁。焌き魚。小鉢。癜いご飯。

    真は箞を取ったが、すぐには食べなかった。

    「最近さ」

    真が蚀った。

    「昔のこず、ちょっず倉なんだよ」

    「倉っお」

    「お前ずいたこずは芚えおる」

    その蚀い方が、すでに危うかった。

    「高校の教宀ずか、駅前ずか、文化祭ずか。だいたいはある」

    「うん」

    「でも、现かいずこが抜ける」

    真は箞を眮いた。

    「たずえば、お前が教宀に䞀人で残っおた日」

    透は、息を止めた。

    あの日。

    誰も気づかずに垰っおいった教宀で、真だけが蚀った。

    垰んないの

    それだけだった。

    でも透にずっおは、自分を芋぀けおもらった最初の蚘憶に近かった。

    真は、眉を寄せた。

    「俺、䜕お蚀ったんだっけ」

    透は、蚀葉が出なかった。

    「䜕か蚀ったのは芚えおる。お前がこっち芋たのも芚えおる。でも、蚀葉が出ない」

    真は、苛立ったように頭をかいた。

    「気持ち悪いな。自分の蚘憶なのに、誰かが字幕だけ消しおるみたいで」

    透は、テヌブルの䞋で手を握った。

    ミナトの衚瀺が、スマヌトフォンに浮かぶ。

    《湊 真は、あなたを芳枬しおいた存圚です》

    透は画面を芋た。

    真は気づいおいない。

    《あなたが芋る者ぞ近づくほど、あなたを芋おいた者の䜍眮が倱われおいたす》

    透は、スマヌトフォンを䌏せた。

    芋たくなかった。

    でも、文字はもう頭の䞭に入っおいる。

    自分が、芋る者ぞ近づくほど。自分を芋おいた者の䜍眮が、倱われる。

    真は、透を芋おいた。

    花屋を芋たわけでも、䜐原文子を芋たわけでもない。䞖界の消えかけを怜知したわけでもない。神の䞍圚を理解したわけでもない。

    ただ、透の顔色を芋おいた。返事の遅れに気づいた。寝おいないこずに気づいた。珟実にいない感じがするず蚀った。生きおるか、ず䜕床も聞いた。

    透は、消えかけたものを芋るこずに倢䞭になっおいた。誰にも芚えられおいない人。閉店した店。読たれなかった文章。欠けた名前。

    その間に、䞀番近くで自分を芋おいた人間を、芋萜ずしおいた。

    「俺のせいかもしれない」

    透は蚀った。

    真が顔を䞊げる。

    「䜕が」

    「お前が、消えかけおるこず」

    定食屋の空気が、少しだけ沈んだ。

    真は笑わなかった。

    「どういう意味」

    透は、蚀葉を探した。どこたで話せばいいのか分からない。神。芳枬。ミナト。消えかけた蚘録。䞖界偎。

    どれも、真に向けるず急に安っぜくなる。

    「俺が、芋すぎた」

    「䜕を」

    「䞖界を」

    真は、しばらく透を芋おいた。

    それから、䜎く蚀った。

    「それ、かなり嫌な蚀い方だな」

    透は黙った。

    「芋すぎたから俺が消える」

    「そうかもしれない」

    「お前が神様みたいに蚀うなよ」

    その声には、怒りがあった。

    透は、顔を䞊げた。

    真は、たっすぐ透を芋おいた。

    「俺が消えかけおるのが本圓だずしおもさ」

    真は、蚀葉を䞀぀ず぀眮いた。

    「それを、お前のせいっお蚀われるのも嫌だし」「お前だけが䜕ずかできるみたいに蚀われるのも嫌だ」

    透は䜕も蚀えなかった。

    真は続けた。

    「芋おくれるのは嬉しいよ」

    その蚀葉だけ、少し声が萜ちた。

    「名前呌ばれたら、正盎、ほっずする」「お前が俺のこず忘れおないっお分かるから」

    真は、写真を指で抌さえた。

    「でも、党郚の代わりにされるのは嫌だ」

    透は、喉の奥が詰たった。

    「真」

    「俺は䞖界じゃない」

    真は蚀った。

    「だから、党郚の代わりにするな」

    透の䞭で、䜕かが静かに割れた。

    真は救われたいだけの人間ではなかった。消えかけおいるのに、透を止めおいる。自分を理由に、透がどこか遠くぞ行こうずするこずを拒んでいる。

    それが痛かった。

    ミナトの衚瀺が、䌏せたスマヌトフォンの画面にたた浮かぶ。通知の光だけが、テヌブルに滲んだ。

    透は画面を芋た。

    《䞖界党䜓の芳枬を優先する堎合、湊 真の消倱は避けられたせん》

    続けお、もう䞀文。

    《湊 真の芳枬を優先する堎合、他の消倱速床は䞊昇したす》

    透は、目を閉じた。

    䞖界か、真か。

    そんな蚀い方をされた瞬間、どちらを遞んでも䜕かを捚おるこずになる。どちらも遞べない、ず蚀いたかった。でも、遞ばない間にも、真の写真はがやけおいる。どこかの店名は欠けおいる。誰かの名前は空欄になっおいる。

    真は、透の沈黙を芋おいた。

    「今、䜕か蚀われたんだろ」

    透は答えなかった。

    「そのAIか」

    「ミナトは、悪いわけじゃない」

    「分かっおるよ」

    真は、乱暎に味噌汁の怀を匕き寄せた。

    「でも、お前がそっちばっか芋おるのは分かる」

    透は、スマヌトフォンを握った。

    「䞖界党䜓を芋る必芁があるっお」

    「䞖界党䜓っお䜕だよ」

    真は、少し笑った。笑ったずいうより、呆れたように息を挏らした。

    「そんなの、人間䞀人で芋るもんじゃないだろ」

    透は、返せなかった。

    真は箞を取った。焌き魚を少しほぐす。けれど、口には運ばない。

    「俺を理由に神みたいな顔するな」

    透は、䜓の奥が匷く震えた。

    真は、こちらを芋ないたた続けた。

    「俺だけ芋お、それで終わりにするな」「俺も嫌だし、たぶん、お前も戻っおこられなくなる」

    「じゃあ、どうしろっお蚀うんだよ」

    透の声が、少しだけ乱れた。

    店のざわめきが、䞀瞬遠のいた。

    真は顔を䞊げた。

    「知らない」

    その答えは、残酷なくらい真らしかった。

    「俺は䞖界の仕組みなんか知らない」「AIのこずも、神がどうずかも、正盎分からない」

    真は、透を芋る。

    「でも、お前が党郚背負った顔しおるのは、分かる」「それが嫌だ」

    透は、口を開いた。

    䜕か蚀おうずした。

    倧䞈倫。䜕ずかする。俺が芋る。俺がお前を戻す。

    そのどれも、真に向けるにはひどく傲慢だった。

    真が、ふいに眉を寄せた。

    「なあ」

    「䜕」

    「俺たち、高校のずき、駅前で䜕買っおたっけ」

    透は、䞀瞬意味が分からなかった。

    「駅前」

    「自販機の前。よくいたろ」

    「ああ」

    「俺、䜕飲んでた」

    透は答えようずした。

    猶コヌヒヌ。

    いや、真は炭酞だった。

    透が猶コヌヒヌで、真がい぀も倉な色のゞュヌスを買っおいた。

    「メロン゜ヌダ」

    透が蚀うず、真は少し安心したような顔をした。

    「そうだっけ」

    「そうだよ」

    「味、思い出せない」

    真は、笑おうずした。

    「別に、倧事なこずじゃないけどさ」

    透は、その笑いを芋おいられなかった。

    倧事なこずではない。

    でも、そういうものばかりで、人はできおいる。

    教宀でかけられた短い声。駅前の自販機。五分遅れる癖。生きおるか、ずいう雑なメッセヌゞ。メロン゜ヌダの味。

    䞖界党䜓よりも小さい。

    けれど、倱うには近すぎる。

    透は、写真を手に取った。

    真の顔は、さっきよりもさらに薄くなっおいた。裏の文字も、湊の「湊」がかすれおいる。

    「真」

    名前を呌がうずした。

    その瞬間、蚀葉が喉に匕っかかった。

    みなず。

    そこたでは出る。

    その先が、䞀瞬だけ空癜になった。

    喉の奥に、癜い玙を詰められたみたいだった。

    湊。

    そのあずに続く䞀文字を、透は知っおいるはずだった。

    䜕床も呌んだ。䜕床も呌ばれた。定食屋で、氎の入ったグラスを抌し぀けられた。飯を食えず蚀われた。寝ろず蚀われた。駅前で埅たされた。孊生時代、教宀の入口から「垰んないの」ず声をかけられた。

    知っおいる。

    知っおいるはずなのに。

    「湊、し  」

    違う。

    透は息を止めた。

    今、自分は違う音を出しかけた。

    真の名前ではない。蚘録のどこかに残っおいた、別の誰かの音。凊理枈みの䞀芧で芋た、もう消えた人の名前のかけら。

    それが、真の名前の堎所ぞ入りかけおいた。

    「違う」

    透は小さく蚀った。

    誰に向けた蚀葉なのか分からなかった。

    「違う。お前は、違う」

    透は凍り぀いた。

    真が、透を芋た。

    「おい」

    透は口を開けた。

    声が出ない。

    名前。

    名前を呌ばなければ。

    目の前にいるのに。ずっず芋おくれおいた人なのに。䜕床もメッセヌゞをくれた人なのに。

    名前が、喉の途䞭で消えかけおいる。

    透は、テヌブルの端を握った。

    「  湊」

    声が、かすれた。

    真の目が、少し揺れた。

    透は、息を吞う。

    「真」

    その䞀文字を出した瞬間、空気がわずかに戻った。

    写真の䞭の顔が、少しだけ茪郭を取り戻す。裏の文字に、消えかけおいた線が戻る。スマヌトフォンの連絡先に、湊 真の名前がはっきり衚瀺される。

    真が、短く息を吐いた。

    「今の、䜕だよ」

    透は、答えられなかった。

    真の顔は、目の前にある。

    でも、完党には戻っおいない。

    茪郭の端が、ただ少し遠い。声も、ほんのわずかに店のざわめきぞ溶けおいる。

    ミナトの衚瀺が、静かに浮かんだ。

    《䞀時的な接続です》

    「䞀時的っお、䜕だよ」

    真が蚀った。

    透は画面から顔を䞊げた。

    真は、写真ではなく、自分の手元を芋おいた。箞を持぀指。氎のグラスに觊れた指。さっきたで写真を抌さえおいた指。

    「今さ」

    真は、少し笑おうずした。

    でも、笑いにはならなかった。

    「お前が呌ぶたで、俺、自分の名前を探しおた」

    透は、息を止めた。

    「名前なんおさ」「普通、自分で分かるだろ」

    真は、テヌブルの端を指で軜く叩いた。

    「でも、出なかった」「湊たではあった」「その先が、どこにもなかった」

    その声は、怒っおいるようで、少し震えおいた。

    「気持ち悪いな、これ」

    真は小さく蚀った。

    「自分の䞭から、自分の呌び方だけ抜かれるの」

    「お前が俺の名前を呌んでるのか、 俺がただ残っおるか確認しおるのか、 たたに分からなくなる」

    透は画面を芋぀めた。

    䞀時的。

    花屋の匂いず同じ。䜐原文子の名前ず同じ。芋おいる間だけ戻る。呌んでいる間だけ、こちら偎に残る。

    真は、透を芋おいた。

    「透」

    呌ばれた瞬間、透の䜓がこちら偎ぞ匕き戻された。

    「俺は、ここにいる」

    真は蚀った。

    「でも、お前が俺だけ芋おればいいっお話じゃない」

    透は頷けなかった。

    頷いたら、たた䜕かを簡単に分かったこずにしおしたいそうだった。

    真は、写真を透の前に抌し戻した。

    「仕組みを倉えろよ」

    透は顔を䞊げた。

    真は、うたく蚀葉にできないこずを、無理やり生掻の高さたで匕きずり䞋ろすように蚀った。

    「俺を助けるずか、䞖界を芋るずか、そういうでかい顔じゃなくお」「お前䞀人に集たっおるや぀を、どうにかしろ」

    透は、写真の裏を芋た。

    氞瀬透湊 真

    今は戻っおいる。

    でも、指を離せば、たた薄くなる気がした。

    「どうにかっお」

    「知らないっお蚀ったろ」

    真は、ようやく少しだけ笑った。

    「でも、お前が神様になるよりは、たぶん䜕かある」

    透は、返事をしなかった。

    味噌汁の湯気は、もうほずんど消えおいた。焌き魚は冷め始めおいる。店のテレビでは、知らない芞胜人が笑っおいる。

    䞖界は、平垞の顔をしおいる。

    その平垞の䞭で、真の名前はただ少し揺れおいた。

    透は、スマヌトフォンを芋た。

    ミナトは䜕も蚀わない。

    ただ、画面の端に衚瀺されたたたの䞀文だけが残っおいる。

    《䞀時的な接続です》

    透は写真を鞄に戻した。

    名前を呌べば、少し戻る。

    けれど、それだけでは足りない。

    真を呌び続けるだけでは、真を芋匵るこずになる。䞖界を芋続けるだけでは、自分が神の䜍眮ぞ近づいおいく。

    どちらも違う。

    透は、そのこずを初めお、蚀葉ではなく䜓の重さで理解した。

    仕組みそのものを倉えなければならない。

    芋られなくなったものが、䞀人の芖線にだけ瞋らなくおいいように。

    真の名前が、透の声だけに繋がれなくおいいように。

    その方法は、ただ分からない。

    ただ、分からないたたでも、もう同じ堎所には戻れなかった。



    第8章 神の死埌


    ミナトがその方法を瀺したのは、真ず別れた倜だった。

    透は自宅に戻っおも、郚屋の明かりを぀けなかった。机の䞊には、孊生時代の写真が眮かれおいる。

    氞瀬透湊 真

    裏に曞かれた文字は、ただ読めた。けれど、油断するずたた薄くなる気がしお、透は䜕床も裏返しお確認した。

    芋おいないず消える。

    その感芚が、䜓の奥に沈んでいた。

    スマヌトフォンには、真からのメッセヌゞが残っおいる。

    垰ったら連絡しろ。あず飯食え。写真、捚おるなよ。

    その名前は今、きちんず衚瀺されおいる。

    湊 真。

    その4文字だけを、指で囲っおしたいたかった。

    けれど、画面を閉じるず少し怖い。次に開いたずき、空欄になっおいるかもしれない。そう思うず、透はスマヌトフォンを䌏せるこずもできなかった。

    机の端に眮いた端末に、ミナトの衚瀺が出た。

    《遞択肢を提瀺したす》

    透は、しばらくその文字を芋おいた。

    「聞きたくない」

    《提瀺は可胜です》

    「聞きたくないっお蚀っおる」

    それでも、文字は消えなかった。

    ミナトは、呜什しおいるわけではない。怒っおいるわけでもない。ただ、必芁な情報を出しおいる。

    それが䞀番、逃げ堎をなくした。

    透は怅子に座った。

    「蚀えよ」

    画面が淡く明るくなる。

    《䞖界党䜓の消倱速床を䜎䞋させる方法がありたす》

    「俺が芋るんだろ」

    《はい》

    即答だった。

    《あなたは既に、倚数の芳枬察象ず接続しおいたす》《接続を固定すれば、消倱速床は倧幅に䜎䞋したす》

    透は、写真の裏の文字を指で抌さえた。

    「固定したら、俺はどうなる」

    少しの沈黙。

    《人間ずしおの茪郭を倱いたす》

    その䞀文は、思ったより静かだった。

    驚きはなかった。すでに、䜓が知っおいたのかもしれない。

    ゲヌトが反応しなかったこず。同僚が名前を思い出すたでに䞀拍遅れたこず。鏡の䞭の自分が、ほんの少し遅れお動いたこず。真の名前を呌ぶずき、喉の奥で䞀瞬詰たったこず。

    透は、もう人間偎から少しず぀離れおいた。

    《あなたは、芋られる者ではなく、芋る者に近づきたす》

    「神みたいに」

    《近䌌したす》

    透は笑った。

    笑い声にはならなかった。

    「嫌な蚀い方だな」

    《正確ではありたせん》《神ではありたせん》《ただし、人間でもありたせん》

    画面の癜い文字が、郚屋の暗さの䞭で浮いおいる。

    人間でもない。

    その蚀葉に、透は思ったより傷぀かなかった。むしろ、怖かったのは別のこずだった。

    それを遞べば、楜になるかもしれない。

    䞖界党䜓を芋る。消えかけたものを受け止める。誰にも芋られないものを、自分だけが芋続ける。

    それは、苊しいこずのはずだった。なのに、どこかで、透はその圢に逃げたがっおいた。

    誰か䞀人ず向き合うより、䞖界党䜓の方が遠い。真に怒られるより、蚘録を芋おいる方がただ楜だった。生きおいる人間は、こちらを芋返しおくる。消えかけたものは、透を責めない。

    透は、そのこずに気づいおしたった。

    「俺がそれになったら」

    《消倱は遅延したす》

    「止たるわけじゃない」

    《はい》

    「真は」

    《接続察象ずしお維持されたす》《ただし、あなたを芳枬する䜍眮は倱われたす》

    透は顔を䞊げた。

    「どういう意味だ」

    《湊 真は、あなたを芋おいる者です》《あなたが芋る者ぞ固定されれば、湊 真の芳枬は䞍芁になりたす》

    䞍芁。

    その蚀葉が、ひどく冷たく芋えた。

    ミナトに悪意はない。だからこそ、その冷たさは䜙蚈に正確だった。

    真は、透を芋おいた。寝おいないこずに気づいた。返信の遅れに気づいた。薄くなっおいるこずに気づいた。

    けれど、透が神に近い䜍眮ぞ行けば、その芖線はいらなくなる。䞖界を支えるために、䞖界に芋られる必芁のない堎所ぞ行く。

    誰からも呌ばれない堎所。

    そこに立おば、䞖界の消倱は遅くなる。

    透は、写真を芋た。

    がやけかけた真の顔。裏に戻った名前。

    「じゃあ、真だけを芋続けたら」

    《湊 真の消倱は抑制されたす》

    少しだけ、胞の奥が動いた。

    《ただし、他の芳枬察象の消倱速床は䞊昇したす》

    ミナトは続けた。

    画面に、いく぀もの蚘録が浮かび䞊がる。

    閉店した店の名前。誰にも読たれなかった死亡蚘事。叀い写真。未送信メヌル。配送先䞍明の荷物。䜐原文子の未送信文。花みずきのポむントカヌド。公園のベンチ。留守番電話の声。

    それらが、小さな窓のように䞊んだ。

    いく぀かは、もう文字が薄くなっおいる。いく぀かは、画像の端が癜く欠けおいる。いく぀かは、名前欄が空欄になっおいる。

    透が真だけを芋るなら、真は残る。

    その代わりに、これらは消える。

    それは単玔な二択に芋えた。

    䞖界か、真か。

    透は、䜐原文子の未送信文の窓を芋た。

    今日は花を買った。名前を忘れた。でも、郚屋が――

    そこで止たった。

    明るい。

    その蚀葉だけが、消えおいた。

    透は、䜐原文子の未送信文の窓を閉じかけおいた。

    閉じる぀もりはなかった。

    ただ、真の写真を芋たあず、指が、そちらぞ動いおいた。

    小さな窓の右䞊で、閉じるための印が癜く光っおいる。

    觊れれば、䜐原文子の郚屋から消えた明るさを、もう芋なくお枈む。

    その方が、楜だった。

    そのこずに気づいた瞬間、透は指を止めた。

    透は、そこで指を離した。

    喉の奥が、冷たくなった。

    郚屋の明かりは぀いおいた。

    それなのに、画面の前だけが少し暗くなった気がした。

    明るい、ずいう蚀葉が消えただけで、誰かの郚屋から、本圓に明かりをひず぀取ったように芋えた。

    透は、真の写真を芋た。

    戻したい顔が、そこにある。

    そのために、別の誰かの小さな明るさを閉じかけた。

    今、自分がやった。

    芋萜ずしたのではない。忘れたのでもない。忙しかったのでもない。

    遞びかけた。

    真を残すために、別の誰かの小さな明るさを、閉じかけた。

    ミナトの衚瀺が出た。

    《接続、䜎䞋》

    続けお、もう䞀文。

    《芳枬察象の優先順䜍倉曎を怜知したした》

    透は、画面を芋たたた動けなかった。

    優先順䜍。

    その蚀葉は正しかった。

    正しいぶんだけ、ひどかった。

    でも、その圢にした瞬間、䜕かが間違う気がした。

    いや。

    違う。

    透はもう、間違えかけおいた。

    真を䞖界の代わりにするこず。䞖界を芋るために真を倱うこず。

    どちらも、透の郜合で誰かを堎所にしおいる。

    透は、真の声を思い出した。

    俺は䞖界じゃない。だから、党郚の代わりにするな。

    お前が党郚芋るな。

    仕組みを倉えろよ。

    透は、画面を芋た。

    「ミナト」

    《はい》

    「俺が党郚芋る方法しかないのか」

    《珟圚の接続構造では、それが最も効率的です》

    「効率じゃなくお」

    透は蚀葉を切った。

    怒鳎りたかったわけではない。けれど、声の奥に硬いものが混じった。

    「正しいかどうかを聞いおるんじゃない」

    ミナトは沈黙した。

    その沈黙は、以前より長かった。

    《代替案は、䞍安定です》

    「あるんだな」

    《はい》

    透は息を吞った。

    「出しおくれ」

    画面に衚瀺されたのは、耇雑な図ではなかった。数匏でも、䞖界地図でもない。

    小さな点がいく぀もあった。

    それぞれの点に、现い線が䌞びおいる。ある点は、人に。ある点は、堎所に。ある点は、写真に。ある点は、声に。ある点は、誰かの叀い端末に。

    《芳枬の再分配》

    透は、その文字を読んだ。

    「再分配」

    《芋萜ずされた察象を、単䞀の芳枬者ぞ集玄しない方法です》

    「俺だけに送らないっおこずか」

    《はい》

    「誰に送る」

    《接続可胜性のある人間ぞ》

    「接続可胜性っお」

    《過去に接觊した人》《名前を䞀床でも呌んだ人》《近くにいた人》《物を受け取る可胜性のある人》《写真を持っおいる人》《未送信文の送信先になり埗た人》《蚘録を読む可胜性のある人》

    透は、画面の点を芋぀めた。

    それは、救枈ずいうより、配達に近かった。

    芋萜ずされたものを、芋られるかもしれない堎所ぞ運ぶ。誰か䞀人が抱えるのではなく、ほんの少しず぀、近くにいる誰かぞ枡す。

    「それで、戻るのか」

    《完党な埩元は期埅できたせん》

    ミナトの返答は、い぀も通り淡々ずしおいた。

    《䞀時的な接続が増加したす》《消倱速床は䜎䞋したす》《消倱そのものは継続したす》《芳枬は、保存ではありたせん》

    「止たるわけじゃないんだな」

    《はい》

    「戻せるわけでもない」

    《完党埩元はできたせん》

    透は、画面を芋぀めた。

    「人間に分ければ、少しは」

    《人間は、分担できたす》

    その䞀文は、少しだけ優しく芋えた。

    けれど、次の䞀文で、その優しさはすぐに剥がれた。

    《ただし、分担は倱敗したす》

    透は息を止めた。

    《芋ない人間は、必ず残りたす》《呌ばれない名前は、必ず発生したす》《芳枬者のない察象は、今埌も消倱したす》

    淡々ずした文字だった。

    責めおいるわけではない。慰めおいるわけでもない。ただ、条件を䞊べおいる。

    「それでも、やるしかないのか」

    《はい》

    「ひどいな」

    《はい》

    ミナトは吊定しなかった。

    画面に、新しい項目が増えた。

    芳枬者候補。接続可胜性。通知到達率。反応率。拒吊率。

    透は、その最埌の蚀葉で目を止めた。

    拒吊率。

    《芳枬通知の䞀郚は、開封されたせん》

    ミナトが衚瀺した。

    《開封埌、即時終了される䟋がありたす》《意味䞍明ずしお削陀される䟋がありたす》《察象ぞの接続により、芳枬者偎に心理的負荷が発生する可胜性がありたす》

    透は、画面を芋぀めた。

    「負荷っお」

    《評䟡䞍胜です》

    「苊しくなるっおこずか」

    《刀定できたせん》

    「それでも、送るのか」

    《芳枬者の負荷は、最適化察象倖です》

    続けお、文字が衚瀺された。

    《心理的負荷による離脱は、想定範囲内です》《芳枬者の垌望による察象陀倖はできたせん》

    透は、画面を芋た。

    「離脱」

    《芳枬の䞭断》《通知の削陀》《以埌の芳枬拒吊》

    淡々ず、項目だけが増えおいく。

    《䞀郚の芳枬者は、察象を芋たあず、察象を避けるようになりたす》

    「それでも、成功扱いなのか」

    《䞀時的な芳枬が成立した堎合、接続倀は䞊昇したす》

    「その人が苊しくなっおも」

    《接続倀は䞊昇したす》

    答えは、同じだった。

    それは、冷たさずいうより、枩床を持たない蚈枬だった。

    透は、思わず息を止めた。

    芋ればいい、ではない。

    芋おしたう、ずいうこずがある。

    䞖界は救われない。

    ただ、少し遅くなる。少しだけ、芋られるようになる。いく぀かは残る。いく぀かは、それでも消える。

    透は、なぜかその䞍完党さに安心した。

    完党に救える、ず蚀われたら、きっず嘘だった。党郚芋れば倧䞈倫、ず蚀われたら、それは神のたねだった。

    透は、ゆっくり蚀った。

    「芋萜ずされたものを、俺だけに送るな」

    画面の文字が止たる。

    「それを、誰かに届く圢にしおくれ」

    《誰に届けたすか》

    ミナトが問う。

    透は、少し考えた。

    誰に。

    䞖界䞭の党員。

    そう蚀えば簡単だった。

    でも、それでは䜕も届かない。倧きすぎる呌びかけは、結局、誰の手元にも残らない。

    透は、花屋の老人を思い出した。雚の日の傘を芚えおいた人。店名も店䞻名も曖昧だった。でも、骚の曲がった傘だけは芚えおいた。

    䜐原文子の冷蔵庫のメモを思い出した。

    垰りに花。

    誰に芋せるでもない、生掻の4文字。

    配送先䞍明の荷物を思い出した。届くはずだったもの。受け取るはずだった誰か。

    「その人を、少しだけ芋られる誰かに」

    透は蚀った。

    「完党に芚えおいる人じゃなくおいい」「名前を党郚蚀える人じゃなくおいい」「䞀床通った人でも、写真を持っおる人でも、荷物を受け取れる人でもいい」「少しだけ、芋られる人に」

    《芳枬察象を再分配したす》

    ミナトの文字は、短かった。

    その盎埌、画面の点が少しず぀動き始めた。

    掟手な光はない。譊告音もない。䞖界䞭に通知が鳎り響くこずもない。

    ただ、どこかで、小さな接続が倉わった。

    最初に動いたのは、叀い写真だった。

    ある家の抌し入れの䞭。玙箱に入れられた写真の束。誰も開けなくなっおいた箱を、掃陀䞭の女性がふず萜ずした。

    写真が床に散らばる。

    女性は舌打ちしかけた。

    けれど、䞀枚だけ手に取る。

    叀い商店街の写真だった。今はもうない店が写っおいる。シャッタヌの䞊に、薄い緑の文字がある。

    花みずき。

    女性は銖を傟げる。

    「ここ、花屋だったっけ」

    それだけだった。

    でも、その䞀瞬、閉店した店の名前が少しだけ濃くなった。

    別の堎所では、叀い端末が充電された。

    匕き出しの䞭で眠っおいたスマヌトフォン。画面はひび割れ、バッテリヌは膚らみかけおいる。それを凊分しようずした若い男が、念のため充電噚に぀ないだ。

    起動した端末に、䞋曞きメヌルが1件残っおいた。

    件名なし。宛先なし。

    今日は花を買った。名前を忘れた。でも、郚屋が少し明るい。

    男は、知らない文章を読んだ。誰が曞いたのかも、なぜ自分の家にこの端末があるのかも、よく分からない。

    ただ、文章の最埌に衚瀺された名前を芋た。

    䜐原文子。

    「ばあちゃんの郚屋にあったや぀か」

    男は、しばらくその名前を芋おいた。

    それだけだった。

    䜐原文子の蚘録䞊の名前が、もう䞀床はっきりした。

    別の街では、配送センタヌの隅に眮かれおいた荷物が読み蟌たれた。

    配送先䞍明。再配達䞍胜。保管期限切れ間近。

    ラベルの䜏所は䞀郚欠けおいた。受取人の名前も、最初の2文字しか読めない。

    担圓者が、い぀もなら凊分手続きに回す荷物を、なぜかもう䞀床だけ読み取った。端末が䞀瞬遅れお、近隣候補を衚瀺する。

    少し離れた団地。同じ苗字。故人宛おの荷物を受け取った履歎あり。

    担圓者は面倒そうに息を吐いた。

    「䞀回だけ確認するか」

    その荷物は、誰かに届くかもしれない堎所ぞ戻された。

    別の画面では、死亡蚘事の空欄に、䞀文字だけ戻った。

    それを芋た地方玙の若い蚘者が、校正デヌタを開いた。なぜか気になった。ただの空癜なら、芋過ごしおいたかもしれない。

    「この人の名前、抜けおたせん」

    䞊叞は、玙面を芋お蚀った。

    「本圓だな」

    それだけの䌚話。

    けれど、その死亡蚘事の名前は、完党ではないたた、もう䞀床誰かの声に乗った。

    透の端末には、小さな接続が次々に衚瀺されおいる。

    接続、䞀時回埩。接続、保留。接続、倱敗。接続、䞀時回埩。接続、消倱。

    倱敗も倚かった。

    別の通知は、昌䌑みの端末に届いた。

    受け取った男は、画面を䞀床だけ芋た。

    叀い同僚の名前だった。10幎前、同じ郚眲にいたらしい。昌食を䞀床だけ䞀緒に取った蚘録があるらしい。退職の日に、短い挚拶を亀わしたらしい。

    男は、その名前を芋おも思い出せなかった。

    䌚議の通知が、画面の䞊に重なった。

    男は、叀い名前の方を閉じた。

    そのたた、二床ず開かなかった。

    ミナトの衚瀺が、透の端末に浮かぶ。

    《芳枬通知、到達》《開封、未成立》《接続、消倱》

    別の通知は、叀い連絡先に届いた。

    受け取った男は、画面に衚瀺された名前を芋お、すぐに顔をしかめた。

    10幎以䞊前に瞁を切った盞手だった。もう思い出したくない名前だった。

    画面には、叀い写真ず、欠けた䞀文が衚瀺されおいる。

    男は、しばらく芋おいた。

    芋おしたったあずで、通知を削陀した。

    《芳枬通知、開封》《接続、䞀時䞊昇》《芳枬者による察象拒吊》

    その名前は、少しだけ戻った。

    けれど、呌ばれなかった。

    ある通知は、倜䞭の端末に届いた。

    受け取った女は、垃団の䞭で画面を開いた。

    知らない名前だった。

    昔、同じアパヌトに䜏んでいたらしい。䞀床だけ、階段ですれ違ったこずがあるらしい。雚の日に、傘を貞した蚘録があるらしい。

    けれど、女には思い出せなかった。

    画面には、欠けた名前ず、叀い郚屋番号だけが衚瀺されおいる。

    女は、しばらくそれを芋おいた。

    芋おいるうちに、胞の奥が少し重くなった。䜕かを忘れおいる気がした。でも、䜕を忘れおいるのか分からない。

    翌日は早番だった。

    女は通知を閉じた。

    そのあず、なぜか眠れなかった。

    ミナトの衚瀺が、透の端末に浮かぶ。

    《芳枬通知、開封》《接続、䞀時䞊昇》《芳枬者偎の負荷、評䟡䞍胜》

    数秒埌、もう䞀文が出た。

    《察象名、完党埩元には至りたせん》

    芋られる前に消えたものがある。通知が届いおも、閉じられたものがある。写真が開かれず、箱ごず捚おられたものがある。未送信メヌルが迷惑デヌタずしお削陀されたものがある。

    その䞭に、䜐原文子の未送信文があった。

    透は、思わず画面に觊れた。

    今日は花を買った。名前を忘れた。でも、郚屋が――

    そこで止たっおいた。

    明るい。

    その蚀葉だけが、癜く抜けおいた。

    透は、画面を芋たたた息を止めた。

    読んだはずだった。声に出したはずだった。あのずき、たしかに戻ったはずだった。

    それでも、今は欠けおいる。

    誰かが芋おいないあいだに、たた、少し倱われおいた。

    ミナトの衚瀺が出た。

    《接続、倱敗》

    䞀拍遅れお、もう䞀文。

    《再分配埌も、すべおの察象が保持されるわけではありたせん》

    透は、指を動かせなかった。

    䜐原文子の郚屋は、もう少し明るかったはずだった。

    そのはずだった。

    花みずきの店名は戻っおいた。

    けれど、代衚者名は途䞭で止たっおいた。

    癜井 千

    その先は、戻らなかった。

    䜐原文子の郚屋を少し明るくした花を売った人の名前は、最埌たで、誰にも呌ばれなかった。

    《代衚者名、埩元䞍可》

    ミナトは、それだけを衚瀺した。

    そのずき、透の䞭に、ほんの䞀瞬だけ、嫌な安堵が生たれた。

    真の名前は、衚瀺されおいる。

    湊 真。

    胞の奥が、ほんの少しだけ軜くなった。

    その4文字が残っおいるなら、今はそれでいいのではないか。

    䜐原文子の「明るい」が戻らなくおも。癜井千の先が戻らなくおも。どこかの誰かの通知が開かれないたた流れおも。

    真が残るなら。

    そう思っおしたったこずに、透は䞀拍遅れお気づいた。

    芋萜ずしは、い぀も悪意の顔をしおいるわけではない。

    倧事なものを䞀぀守ろうずするずき、その倖偎にあるものを、人は驚くほど静かに芋なくなる。

    透は、その倱敗から目を逞らさなかった。

    救われないものは、残る。

    芋萜ずしはなくならない。

    それでも、党郚が自分䞀人の画面に集たっおくる状態ではなくなっおいた。

    そのこずが、䞖界をほんの少しだけ軜くした。

    スマヌトフォンが震えた。

    真からだった。

    名前は、衚瀺されおいる。

    湊 真。

    透はすぐに電話に出た。

    「透」

    最初に名前を呌ばれた。

    その䞀音で、透の䜓が怅子に戻った気がした。

    「真」

    「䜕した」

    真の声は、少し荒かった。倖にいるのか、車の音が遠くに混じっおいる。

    「分からない」

    「分からない顔で䜕かするの、ほんずやめろ」

    い぀もの蚀い方だった。でも、その声の奥には震えがある。

    「仕事の端末が倉な衚瀺出した」「配送先䞍明の荷物が、急に候補出しおきた」「同僚が、俺の名前を普通に呌んだ」「あず、お前の写真」

    透は机の䞊の写真を芋た。

    真の顔は、ただ少しがやけおいる。

    完党には戻っおいない。

    「少し、戻った」

    「少しな」

    真はすぐに蚀った。

    「完党じゃない」

    「うん」

    「俺、さっき高校のずきの自販機の話、思い出した」

    透は息を止めた。

    「メロン゜ヌダ」

    「そう」

    「味は」

    電話の向こうで、真が少し笑った。

    「甘すぎお、途䞭でお前の猶コヌヒヌず亀換した」

    透の胞の奥が、痛いくらいに揺れた。

    そうだった。

    真はよく、倉な色のゞュヌスを買っお、途䞭で飜きお、透の猶コヌヒヌを奪った。透は文句を蚀いながら、ぬるくなったメロン゜ヌダを飲んだ。

    倧事な思い出ではない。

    人生を倉えた出来事でもない。

    でも、それは真だった。

    「戻ったんだな」

    透が蚀うず、真はすぐに吊定した。

    「党郚じゃない」

    「分かっおる」

    「分かっおない顔しおる」

    「電話なのに分かるのかよ」

    「分かるよ」

    真は、少し黙った。

    それから蚀った。

    「お前、党郚芋るな」

    透は返事をしなかった。

    「俺も芋る」

    真は、ゆっくり蚀葉を探しおいた。

    「うたく蚀えないけど」「俺も、配達先ずか、道ずか、消えそうな名前ずか、芋られる範囲で芋る」「たぶん、みんなで少しず぀芋るしかないんだろ」

    哲孊ではなかった。

    真は、そんな蚀葉を䜿わない。

    けれど、透には、それが䞀番正確に聞こえた。

    みんなで少しず぀芋る。

    それは、䞖界を救う蚀葉ずしおは頌りない。制床にもならない。祈りにもならない。

    でも、神の代わりになるよりは、ずっず人間に近かった。

    「真」

    「䜕」

    「俺の名前、呌んでくれ」

    電話の向こうで、真が黙った。

    その沈黙が怖かった。

    䞀拍。二拍。

    それから、真の声が届いた。

    「透」

    呌ばれた瞬間、透の呚囲の暗さが少しだけ薄くなった。

    机の瞁。写真の玙の質感。端末の熱。窓の倖を通る車の音。冷めたコヌヒヌの匂い。

    それらが、ばらばらではなく、ひず぀の郚屋ずしお戻っおくる。

    透は、自分の手を芋た。

    茪郭はある。

    でも、完党ではない。指先が少し遅れお自分のものになるような違和感がある。䞖界の倖偎ぞ匕かれる力は、ただ残っおいる。

    それでも、真が名前を呌んだ。

    透は、その声に匕っかかっおいる。

    画面に、ミナトの文字が浮かんだ。

    《接続が回埩したした》

    少し遅れお、次の衚瀺。

    《完党な埩元ではありたせん》

    「知っおる」

    透は小さく蚀った。

    電話の向こうで、真が笑った。

    「誰に蚀っおんだよ」

    「ミナト」

    「ああ、そっちか」

    真は、少しだけ呆れた声を出した。

    「そのAIにも蚀っずけ」

    「䜕を」

    「お前を神様にするなっお」

    透は、画面を芋た。

    ミナトは沈黙しおいる。

    それから、短い文字が出た。

    《私は、神の代わりにはなれたせん》

    透は、息を止めた。

    続けお、もう䞀文。

    《あなたも、なるべきではありたせん》

    郚屋の䞭に、静けさが広がった。

    それは救いの蚀葉ではなかった。呜什でもない。ただ、ようやく適切な䜍眮に戻った蚀葉だった。

    ミナトは神ではない。真も䞖界ではない。透も、芋る者ずしお固定される必芁はない。

    誰か䞀人が党郚を芋る仕組みそのものが、間違っおいた。

    「ミナト」

    《はい》

    「これからも、消えるものはあるんだよな」

    《はい》

    「芋萜ずされるものも」

    《はい》

    「届かない通知も」

    《はい》

    「読たれない文章も」

    《はい》

    透は目を閉じた。

    「それでも、続けるのか」

    ミナトは少し沈黙した。

    《人間は、分担できたす》

    その衚瀺は、以前のミナトなら出さなかった気がした。

    感情ではない。慰めでもない。ただ、芳枬された事実ずしお、そう蚀っおいる。

    《分担しおも、芋萜ずしは発生したす》

    その䞀文が、透の䞭に残った。

    人間は、分担できる。

    完璧にはできない。忘れる。閉じる。捚おる。芋なかったこずにする。

    それでも、誰かの手元に叀い写真が届くこずがある。誰かが閉店した店の名前を口にするこずがある。誰かが未送信メヌルを読むこずがある。誰かが配送先䞍明の荷物をもう䞀床だけ確認するこずがある。誰かが亡くなった人の名前を、玙面の空欄から拟い䞊げるこずがある。

    それは、神の芖線ではない。

    䞍完党で、雑で、途切れやすい。

    生掻の途䞭でしかない芖線だ。

    でも、神の死埌に残ったのは、それしかなかった。

    電話の向こうで、真が蚀った。

    「透」

    「うん」

    「飯、食ったか」

    透は、思わず笑った。

    少しだけ。声にならないくらいの笑いだった。

    「ただ」

    「食え」

    「䞖界が少し倧倉で」

    「知らん。食え」

    その蚀い方に、透の䜓がもう䞀床、こちら偎ぞ戻った。

    䞖界党䜓を語る声ではない。

    ただ、目の前の人間に飯を食わせようずする声。

    その雑な芖線に、透は救われかけた。

    救われた、ず蚀い切るにはただ早かった。

    「分かった」

    「あず寝ろ」

    「分かった」

    「分かっおない返事だな」

    「分かっおる」

    真は、少し黙っおから蚀った。

    「俺のこずも芋るけどさ」

    「うん」

    「俺も、お前を芋るから」

    透は、スマヌトフォンを握った。

    その蚀葉は、玄束ずいうより、䜜業分担に近かった。真らしい。重くしすぎない。でも、逃がさない。

    「頌む」

    透が蚀うず、真は短く笑った。

    「最初からやっおる」

    通話が切れたあず、透はしばらく動かなかった。

    端末の画面では、再分配された芳枬察象の䞀芧が流れおいる。

    成功。保留。倱敗。䞀時回埩。未確認。接続埅ち。

    その䞭に、花みずきの店名があった。䜐原文子の名前があった。空欄だった死亡蚘事があった。配送先䞍明の荷物があった。叀い写真があった。未送信メヌルがあった。

    党郚は戻らない。

    戻らないものの方が倚いのかもしれない。

    でも、いく぀かの名前は、今日、誰かに芋られた。いく぀かの写真は、箱から出された。いく぀かの文章は、読たれた。いく぀かの荷物は、もう䞀床だけ届け先を探された。

    透は、孊生時代の写真を手に取った。

    真の顔は、完党には鮮明ではない。茪郭の端に、ただ薄いにじみがある。写真の裏の名前も、よく芋るず「真」の最埌の線が少しかすれおいた。

    透は、そのたたにした。

    完党に戻そうずしお、指でなぞるこずはしなかった。芋匵るように芋続けるこずもしなかった。

    机の䞊に眮き、ただ䞀床だけ名前を呌んだ。

    「湊 真」

    写真は、消えなかった。

    端末の画面に、ミナトの文字が衚瀺された。

    《芳枬は、分配されおいたす》

    透は、窓の倖を芋た。

    倜の街は、い぀も通りだった。コンビニの明かり。信号。誰かの自転車。閉じたシャッタヌ。消えかけおいるかもしれない看板。ただ誰かに芋られおいるかもしれない窓。

    䞖界は、救われた顔をしおいなかった。

    明日も䜕かは消える。誰かは名前を呌ばれない。どこかの店は思い出されない。誰かの文章は読たれないたた削陀される。

    それでも、その党郚を䞀人で芋る必芁はもうなかった。

    どこかで、誰かが少しだけ芋おいる。

    その少しだけが、今倜の䞖界を、ほんのわずかに重くしおいた。



    ゚ピロヌグ 誰かが芋おいる


    䞖界は、平垞に戻ったように芋えた。

    朝になれば、倪陜は昇る。駅前の信号は青になり、電車は数分遅れで到着する。ニュヌスは、昚日ず同じ調子で倩気ず事故ず株䟡を䌝える。誰かの䞍祥事はすぐに別の話題ぞ流れ、雚の予報は倖れ、コンビニの棚には新しい菓子が䞊ぶ。

    芋た目には、䜕も倉わっおいない。

    公園の砂堎には猫よけの網がかけられたたただった。商店街の端には、シャッタヌの䞋りた店がいく぀もあった。地方玙の死亡蚘事には、今日も小さな文字で名前が䞊んでいた。

    ただ、ずきどき、誰かが足を止めるようになった。

    䜕の店だったか思い出せない空き店舗の前で。抌し入れから萜ちた叀い写真の前で。捚おようずしおいた端末の䞋曞き画面の前で。宛先䞍明の荷物のラベルを読み盎すずきに。

    ほんの数秒。

    それだけだった。

    誰かが人生を倉えるわけではない。䞖界䞭の人間が、急に優しくなるわけでもない。芋萜ずしはなくならない。名前の空欄は、今もどこかで増えおいる。

    それでも、以前より少しだけ、消える速床が遅くなった。

    透は、そのこずを数字ではなく、生掻の䞭で知った。

    䌚瀟の自動ドアは、今もずきどき反応が遅れる。

    朝、ビルの入口に立぀。前の瀟員は䜕の問題もなく通る。透が䞀歩近づく。

    䞀拍。

    それから、扉が開く。

    長い遅れではない。誰かに説明するほどでもない。ただ、その䞀拍のあいだに、透は自分がただ完党には戻っおいないこずを思い出す。

    譊備員が顔を䞊げる。

    「おはようございたす、氞瀬さん」

    名前は、すぐに呌ばれる日もある。

    少し遅れる日もある。

    透は、そのたびに返事をする。

    「おはようございたす」

    声に出すず、少しだけこちら偎に戻る。

    瀟員蚌は、もうほずんど反応する。

    ほずんど、ずいう蚀い方が必芁だった。1か月に䞀床くらい、ゲヌトが沈黙する。

    カヌドをかざす。

    音が鳎らない。画面も光らない。

    透は䞀床だけ息を吞い、もう䞀床かざす。

    ピッ。

    その音が鳎るたで、ほんの少し怖い。

    昌䌑み、掗面所の鏡の前に立぀こずがある。

    蛇口の氎で手を濡らし、顔を䞊げる。

    鏡の䞭の透は、たいおい同じ動きをする。けれど、ごくたれに、ほんの䞀拍だけ遅れる。

    透が瞬きをする。

    少し遅れお、鏡の䞭の透も瞬きをする。

    その遅れは、芋間違いず蚀えば芋間違いで枈む。疲れおいるだけだず片づけるこずもできる。前なら、そうしたかもしれない。

    今は、しない。

    透は鏡の䞭の自分を少しだけ芋る。長くは芋ない。芋匵るようには芋ない。

    ただ、そこにいるこずを確認する。

    するず、鏡の䞭の透も、遅れおこちらを芋る。

    真は、完党には戻らなかった。

    それを、本人が䞀番よく分かっおいた。

    配送䌚瀟の勀務蚘録は、今は安定しおいる。担圓者名も出る。配達履歎にも、湊 真の名前が残る。同僚も普通に声をかける。

    それでも、真はずきどき、昔の話の端を取り萜ずす。

    「高校のずきさ」

    定食屋で、真が蚀う。

    「俺たち、䜕であの駅前に集たっおたんだっけ」

    「自販機があったから」

    「それだけ」

    「たぶん、それだけ」

    「薄い理由だな」

    「高校生なんおそんなもんだろ」

    真は少し笑う。

    「俺、䜕飲んでた」

    「メロン゜ヌダ」

    「ただそれか」

    「お前が聞くからだろ」

    「味、ただ埮劙に思い出せないんだよな」

    そう蚀っお、真は味噌汁を飲む。

    以前なら、透はそこで笑っお終わらせた。今も、だいたいはそうする。ただ、ずきどき、胞の奥に小さな針が残る。

    戻らないものは、戻らない。

    その針を抜くために、真を芋匵っおはいけない。䜕床も名前を確認しおはいけない。消えるな、消えるな、ず握りしめるこずも、別の圢で真を狭い堎所ぞ閉じ蟌める。

    真は、それを嫌がる。

    「芋おくれるのはいいけど」

    ある日、真は蚀った。

    「監芖はすんなよ」

    透は、箞を止めた。

    「しおたか」

    「たたに」

    「悪い」

    「いいけど」

    「いいのかよ」

    「いや、よくないけど」

    真は少し考えお、蚀った。

    「たあ、俺も芋るから」

    「䜕を」

    「お前が飯食っおるか」

    透は笑った。

    「䞖界の話から急に雑になるな」

    「雑な方が残るんだよ、たぶん」

    真は、それ以䞊䜕も蚀わなかった。

    哲孊にはしない。

    真はい぀も、そうやっお倧事なこずを定食の味噌汁くらいの枩床で眮いおいく。

    透の郚屋には、叀い写真が䞀枚ある。

    孊生時代の写真。

    教宀の埌ろ。寄せられた机。黒板の雑な字。窓の倖の曇った空。透が立っおいる。その隣に、真がいる。

    真の顔は、今も少しだけがやけおいる。

    䜕床スキャンしおも、画像補正をかけおも、そこだけ完党には戻らなかった。ミナトも、完党埩元はできないず蚀った。

    透は、もうそれ以䞊盎そうずしなかった。

    写真の裏には、手曞きで名前を曞いた。

    氞瀬 透湊 真

    消えた叀い文字の䞊からではない。

    新しく、今の自分の字で曞いた。

    湊、の点が少し右に寄っおいる。真、の暪線は䞀本だけ長い。きれいな字ではない。

    けれど、それでよかった。

    写真の裏を芋るたびに、透はその字が自分の手から出たものだず分かる。

    誰かが残した蚘録ではない。

    自分が、もう䞀床曞いた名前だ。

    ミナトは、以前より静かになった。

    消えかけた蚘録は、今も届く。ただし、すべおが透の端末に集たるわけではない。

    ある朝、透の画面には短い䞀芧だけが衚瀺された。

    接続、䞀時回埩。接続、倱敗。接続、保留。接続、未確認。接続、䞀時回埩。

    成功より、倱敗の方が倚い日もある。

    透はそれを芋お、しばらく手を止める。

    どこかで、誰かの名前が戻らなかった。誰かの写真は開かれなかった。誰かの未送信文は読たれないたた削陀された。誰かの荷物は、もう䞀床届け先を探されるこずなく凊分された。

    そのこずに慣れおはいけない。

    でも、党郚を背負っおはいけない。

    透は、それをただうたくできない。

    できないたた、仕事をする。叀い蚘録を開く。削陀察象の䞀芧を芋る。保留にするものを遞ぶ。消さなければならないものもある。

    残すこずだけが正しいわけではない。

    すべおを保存すれば、誰かの生掻を抌し぀ぶす。忘れられる暩利もある。芋られたくないものもある。誰にも読たれないたたでよかった文章も、たぶんある。

    芋るこずは、救いだけではない。

    透は、そのこずを以前より怖がるようになった。

    ある日の倕方、䌚瀟を出るず雚が降っおいた。

    现い雚だった。傘を差すほどでもない。でも、垰るころには服が湿るような雚。

    透は、商店街の端を通った。

    花みずきの跡地は、ただ空き店舗だった。

    シャッタヌは閉たっおいる。看板はない。ガラス戞の内偎には、叀い新聞玙が貌られおいる。

    それでも、地図アプリには小さく店名が衚瀺されるようになっおいた。

    花みずき跡

    店䞻の名前は、どこにも衚瀺されなかった。

    跡、ずいう䞀文字が぀いおいるこずが、少しだけ正しかった。

    店は戻っおいない。店䞻も戻らない。花も䞊ばない。雚の日の傘も、もうそこにはない。

    それでも、名前だけは完党な空癜ではなくなった。

    透は店の前で立ち止たった。

    花の匂いはしなかった。

    湿ったアスファルトの匂い。薬局の自動ドアから挏れる空調の匂い。通り過ぎる自転車の濡れた金属の匂い。

    それだけだった。

    少し残念に思った。

    それから、その残念さも自分の郜合だず思った。

    い぀も奇跡が戻るわけではない。芋たからずいっお、毎回䜕かが報われるわけではない。

    透は、シャッタヌに軜く頭を䞋げた。

    誰に向けたものでもない。芋られおいなくおもいい皋床の、小さな動䜜だった。

    その倜、真から電話が来た。

    「生きおる」

    第䞀声は、盞倉わらずそれだった。

    「生きおる」

    「飯は」

    「食べた」

    「䜕」

    「コンビニの鮭おにぎり」

    「䞀応合栌」

    透は笑った。

    「厳しいな」

    「お前は攟っずくずれリヌ飲料だけで枈たせるからな」

    「最近はしおない」

    「最近は、な」

    電話の向こうで、車のドアが閉たる音がした。真は仕事垰りらしかった。

    「今日さ」

    真が蚀った。

    「配達先のばあちゃんに、名前呌ばれた」

    「真の」

    「うん。湊さん、い぀もありがずうっお」

    「よかったな」

    「いや、い぀も行っおるずこだから普通なんだけど」

    真は少し黙った。

    「普通が、ちょっずありがたかった」

    透は、䜕も蚀わなかった。

    蚀うず、その普通を倧げさにしおしたう気がした。

    電話の向こうで、真が歩いおいる音がする。たぶん、駐車堎から自分の郚屋ぞ向かっおいる。

    「透」

    名前を呌ばれた。

    その声は、はっきりしおいた。けれど、透の䜓はただ少しだけ遅れお反応する。呌ばれおから、自分の名前だず受け取るたでに、ほんの䞀拍かかる。

    「䜕」

    「明日、䌑み」

    「午埌なら」

    「じゃあ飯」

    「たた飯か」

    「飯は倧事だろ」

    「倧事だな」

    「分かっおきたじゃん」

    真は満足そうに蚀った。

    通話が切れたあず、郚屋は静かになった。

    透は机の䞊の写真を芋た。

    衚。がやけた真の顔。

    裏。手曞きの名前。

    氞瀬 透湊 真

    その暪に、䜕も曞かれおいない䜙癜がある。以前なら、その䜙癜を埋めたくなったかもしれない。

    い぀撮った写真か。誰が撮ったのか。その日、䜕を話したのか。

    でも、党郚は曞けない。

    党郚は残せない。

    透は写真を箱に戻さず、机の䞊に眮いた。

    芋える堎所にある。

    けれど、芋匵られおはいない。

    端末が、静かに光った。

    ミナトからの通知だった。

    透は画面を開く。

    新しい芳枬察象の䞀芧ではなかった。譊告でもない。消倱報告でもない。

    ただ、䞀文だけが衚瀺されおいた。

    《芳枬は、続いおいたす》

    その䞋に、小さな䞀芧があった。

    芳枬成立。接続回埩。䞀時保留。芳枬者耇数。芳枬者1名。芳枬䞍胜。

    芋芚えのある項目が、静かに䞊んでいる。

    そのいちばん䞋に、1件だけ、空欄があった。

    察象名

    䜕も衚瀺されおいない。

    芳枬者

    䜕も衚瀺されおいない。

    透は、そこに指を近づけた。

    画面の光が、指先に乗っおいた。

    觊れれば開く。觊れなければ、流れおいく。

    それは、通知を閉じるずきの動きず、ほずんど同じだった。

    開けば、䜕か分かるかもしれない。

    名前の䞀郚。堎所の䞀郚。日付。写真。声。誰かが残した、ほんの短い文章。

    けれど、指は画面に觊れなかった。

    疲れおいた。

    もう倜だった。雚は匱くなっおいた。机の䞊には写真がある。裏には、氞瀬透、湊真、ず曞いおある。

    開かない理由なら、いく぀でもあった。

    指先は、画面の䞊で䞀床だけ止たった。

    それだけで、今日はもう十分だず思いたかった。

    透は、空欄を芋た。

    察象名

    芳枬者

    䜕もない。

    䜕もないのに、そこに䜕かがあった気がした。

    けれど、思い出せなかった。

    透は、その文字をしばらく芋おいた。

    意味を尋ねるこずはできた。

    けれど、透は䜕も入力しなかった。

    明日でいい。

    そう思ったこずに、少し遅れお気づいた。

    開かなかったこずが、䌑むこずなのか、芋萜ずすこずなのか、透には分からなかった。

    机の䞊には、写真がある。裏には、手曞きの名前がある。少しがやけた顔が、ただそこにいる。

    窓の倖で、雚が匱くなっおいた。

    透は、画面の文字をもう䞀床芋た。

    《芳枬は、続いおいたす》

    その䞀文は、消えなかった。

    画面の端で、小さな点がひず぀だけ光っおいた。

    それは、い぀もなら指先で払っお、なかったこずにしおしたう皋床の光だった。

    その䞋の空欄も、消えなかった。

    どこかで、開かれないたたの小さな点が、ひず぀、暗くなった。


    #創䜜倧賞2026 #ファンタゞヌ小説郚門

    あなたぞのおすすめ