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忘れもの食堂䞀口だけ、思い出す

    創䜜倧賞2026 ファンタゞヌ小説郚門 応募䜜品

    【あらすじ】

    祖母の食堂跡に、倜だけ珟れる「忘れもの食堂」。

    そこでは、客が出された料理を䞀口食べるず、忘れおいた誰かの蚘憶が少しだけ戻る。けれど戻るのは、矎しい思い出ばかりではない。

    恥ずかしいず拒んだ卵焌き、枡せなかった唐揚げ匁圓、連絡しなかった息子ずの半額コロッケ、出されないたた残った鯖の味噌煮。それは奇跡ではなく、忘れなければ暮らせなかった痛みだった。

    惣菜チェヌンで働く深町柪は、誰か䞀人のために料理を䜜るこずを避けおいた。だが圌女の前にも、か぀お母に拒たれ、自ら流しに捚おた肉じゃがが出される。

    食べおもらえなかった料理だけが、誰かの愛を芚えおいる。届かなかった想いを䞀口ず぀拟い盎す珟代ファンタゞヌ。




    第1章 忘れもの食堂


    肉じゃがは、冷めるず少しだけ正盎になる。

    できたおの湯気に隠れおいた甘さも、しょうゆの角も、じゃがいもの火の入り方も、冷めた頃にはごたかしがきかなくなる。煮厩れすぎたものは箞を入れる前に分かるし、味が染みおいないものは、芋た目だけでどこかよそよそしい。

    深町柪は、銀色の倧鍋の前で、プラスチックの小皿に肉じゃがをひず口分だけ取った。工堎の照明は癜く、湯気たで均䞀に芋えた。目の前では、いく぀もの鍋が同じ枩床で煮えおいる。

    じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉。ひず぀の鍋に家庭の量では考えられないほどの材料が沈み、機械のようにかき混ぜられおいた。

    惣菜チェヌン「たいにちキッチン」のセントラルキッチン。柪はそこで、商品開発補助ず味の最終調敎を担圓しおいる。倧げさな肩曞きではない。決められたレシピ通りに䜜られた惣菜を、決められた味に戻す仕事だ。

    濃ければ薄める。薄ければ足す。甘ければ締める。足りなければ敎える。それだけだった。

    柪は小皿の肉じゃがを口に入れた。甘さが少し匷い。玉ねぎの溶けた甘みずは別に、砂糖の䞞さが舌の手前に残る。

    甘さを抑えた肉じゃがの方が、柪は苊手だった。正確には、味が苊手なのではない。その味を䜜った倜のこずを、身䜓のどこかがただ芚えおいる気がするからだった。

    売り堎に䞊ぶ頃にはちょうどよくなるのかもしれない。冷蔵ケヌスに入っお、レンゞで枩められお、誰かの倕飯の端に眮かれる頃には。

    「深町さん、どう」

    隣で䞊叞の河野が聞いた。柪は小皿を䜜業台に眮いた。

    「しょうゆ、0.3パヌセント足した方がいいず思いたす。あず、煮蟌み時間はこのたたで」

    「さすが。深町さんの調敎、い぀も正確だね」

    「レシピ通りです」

    柪はそう答えた。河野は笑った。

    「それが難しいんだよ」

    柪は笑い返さなかった。代わりに、次の鍋ぞ向かった。

    レシピ通り。その蚀葉は、柪にずっお耒め蚀葉だった。誰かのために䜜った味ではない。誰かの奜みを思い出しお䜜った味でもない。

    決められた量、決められた時間、決められた手順。そこに個人的な感情が入り蟌む䜙地はなかった。だから安党だった。

    誰か䞀人のために味を決めるこずを、柪はもう信甚しおいなかった。

    奜みに寄せた味ほど、拒たれた時に逃げ堎がない。誰に食べられるのか分からない料理は、誰に拒たれたのかも分からない。

    鍋の湯気が、柪の前髪を少し湿らせた。䜜業台の端で、スマヌトフォンが震えた。画面には、母の名前が衚瀺されおいた。

    深町千䜳。

    柪は䞀床だけ画面を芋お、すぐに着信を切った。着信が消えたあず、柪はなぜか、流しに萜ちたじゃがいもの重さを思い出しそうになった。

    鈍い音。

    氎で薄たっおいく煮汁の匂い。

    あの匂いだけは、どれだけ氎を出しおも、すぐには消えなかった。

    そこたで浮かびかけお、柪は手袋を替えた。河野が䜕か蚀いかけたが、柪は先に蚀った。

    「次、コロッケの方を芋たす」

    「あ、うん。お願い」

    スマヌトフォンは黙った。柪は次のラむンぞ向かった。

    その日の勀務が終わる頃には、倖は雚䞊がりだった。五月の倜は、ただ少し肌寒い。工堎を出るず、アスファルトが黒く濡れおいお、街灯の光を薄く䌞ばしおいた。

    柪は駅ぞ向かう道を歩きながら、コンビニの前を通り過ぎた。揚げ物の油の匂いがした。誰かが買ったフラむドチキンの袋から、癜い湯気が挏れおいた。

    柪は倕飯を食べおいなかった。けれど、腹が枛っおいるずは思わなかった。

    駅ぞ向かう角を曲がるはずだった。けれど、足は別の道を遞んだ。商店街の方だった。

    理由はなかった。少なくずも、蚀葉にできるような理由は。

    商店街は、柪が子どもの頃よりもずっず暗くなっおいた。シャッタヌの降りた店が増え、昔は魚屋だった堎所が敎䜓院になり、その隣の文房具屋は空き店舗になっおいた。叀い軒先から雚氎がぜたりぜたりず萜ちおいる。

    アヌケヌドの端に、小さな食堂の跡があった。

    ふかたち食堂。

    正確には、もうその看板はない。看板を倖した跡だけが、壁に日焌けの圢ずしお残っおいる。

    シャッタヌには、祖母が亡くなったあずに母が貌った玙が、ただ残っおいた。

    長らくありがずうございたした。

    文字は少し滲んでいた。柪は、その玙を芋るたびに、祖母の字ではないず思う。母の字でもない。葬儀のあず、印刷したものをただ貌っただけの、誰の手の枩床も残っおいない蚀葉だった。

    ここは、柪の祖母、深町ハルの店だった。子どもの頃の柪は、孊校垰りによくこの店に寄った。ランドセルをカりンタヌの端に眮き、祖母が客に出す味噌汁の湯気を眺めおいた。

    祖母はい぀も、忙しそうで、でも急いでいるようには芋えなかった。

    お腹空いおぞん人ほど、なんか食べた方がええ時があるんよ。

    祖母はよくそう蚀っおいた。柪はその意味が分からなかった。今も、分かったずは蚀えない。

    シャッタヌは降りおいるはずだった。だが、その倜、店の奥に灯りが芋えた。

    柪は足を止めた。最初は、向かいの街灯が反射しおいるのだず思った。けれど違う。

    シャッタヌは少しだけ䞊がっおいお、その䞋から橙色の光が挏れおいた。換気扇の䜎い音もする。そしお、暖簟が出おいた。

    叀い玺色の暖簟。芋芚えのないものだった。癜い文字で、こう曞いおあった。

    忘れもの食堂

    柪はしばらく、その文字を芋぀めた。

    ふかたち食堂ではない。だが、堎所は祖母の店だった。

    「・・・䜕、これ」

    声に出しおも、答える人はいなかった。柪はシャッタヌの隙間をくぐり、戞に手をかけた。叀い匕き戞は、蚘憶よりも軜く開いた。

    䞭は、祖母の店に䌌おいた。カりンタヌの傷。壁の䞞い時蚈。湯呑みを䌏せた棚。奥の厚房ぞ続く小さな暖簟。どれも柪の蚘憶の䞭にあるものだった。

    けれど、完党には同じではなかった。カりンタヌの怅子は䞀脚倚い。壁にかかったメニュヌ札には、祖母の店にはなかった料理名が混ざっおいる。照明は昔よりも暗く、店の奥の戞は、知らない堎所に぀ながっおいるように黒かった。

    厚房に、ひずりの女が立っおいた。四十代くらいに芋えた。けれど、もっず若くも、もっず幎䞊にも芋えた。髪を埌ろでひず぀にたずめ、癜い割烹着を着おいる。

    顔立ちは穏やかだが、目だけが劙に静かだった。女は柪を芋るず、驚いた様子もなく蚀った。

    「いらっしゃい」

    柪は戞口に立ったたた、聞いた。

    「ここ、䜕なんですか」

    女はすぐには答えなかった。代わりに、カりンタヌの端に湯呑みを眮き、氎を泚いだ。

    「濡れたでしょう」

    「答えおください」

    「氎、飲める」

    「いりたせん」

    灯子は、湯呑みに添えた指を離した。柪は店内を芋回した。

    換気扇の音。ガス台の火。出汁の匂い。どれも本物だった。

    倢にしおは、匂いがはっきりしすぎおいる。

    「ここ、祖母の店だったんです」

    「知っおる」

    柪は息を止めた。

    「知っおるっお、どういう意味ですか」

    「ハルさんの店でしょう」

    祖母の名前が出た瞬間、柪の指先が冷えた。

    「あなた、誰ですか」

    女はたな板の䞊に垃巟を眮いた。

    「雚宮灯子」

    「祖母の知り合いですか」

    「そうずも蚀えるし、そうじゃないずも蚀える」

    「ふざけないでください」

    柪の声が、自分で思ったより硬くなった。灯子は怒らなかった。ただ、氎の入った湯呑みを少しだけ柪の方ぞ抌した。

    「忘れものを取りに来る人が、たたに迷うの」

    「忘れもの」

    「そう」

    「私は䜕も忘れおたせん」

    灯子は柪を芋た。その目が、ほんの少しだけ现くなった。

    「そう蚀える人ほど、よく来る」

    柪が蚀い返そうずした時、戞が開いた。

    ひずりの男が立っおいた。五十代くらいだろうか。スヌツの肩が雚で濡れおいる。髪には癜いものが混じり、顔には疲れが浮いおいた。けれど、酔っおいるわけではなさそうだった。

    男は店内を芋お、困ったように笑った。

    「すみたせん」

    灯子は、男を芋た。

    「いらっしゃい」

    「いや、その・・・腹が枛っおるわけじゃないんですけど」

    柪は男を芋た。食堂に来お、腹が枛っおいない。おかしな客だった。

    男は自分でも戞惑っおいるようだった。

    「垰ろうず思ったんです。でも、なんか、ここに入らないずいけない気がしお」

    「お垭ぞどうぞ」

    灯子は自然に蚀った。男はカりンタヌの真ん䞭あたりに座った。柪はただ戞口に立っおいたが、灯子が振り返っお蚀った。

    「卵、二぀取っお」

    「は」

    「そこ。冷蔵庫の䞊段」

    「なんで私が」

    「手が空いおるから」

    蚀い方が、祖母に䌌おいた。柪は思わず厚房ぞ入っおいた。自分でも、なぜ埓ったのか分からなかった。

    冷蔵庫を開けるず、確かに卵があった。癜い卵が䞊んでいる。柪は二぀取っお、灯子に枡した。

    灯子は卵を割り、小さなボりルに萜ずした。箞で溶き、砂糖を入れる。柪は眉をひそめた。

    「入れすぎです」

    「この人には、このくらい」

    「ただ泚文も聞いおないでしょう」

    「聞かなくおいいの」

    灯子は卵液を四角い玉子焌き噚に流した。油の匂いが立぀。卵がふくらみ、端が少し焊げた。

    「焊げおたす」

    「焊げおるから、いいの」

    柪は黙った。

    料理は、焊げない方がいい。少なくずも、売り物ならそうだ。焊げは倱敗だ。芏栌から倖れた味だ。

    けれど、灯子は焊げた端をそのたた巻き蟌んだ。

    匁圓箱は、叀いアルミ補だった。柪の蚘憶の底にあるような、角の䞞い匁圓箱。灯子はそこに冷めた癜ごはんを詰め、焊げた卵焌きを入れ、たくあんを二切れ添えた。

    小さな梅干しず、煮豆も少し。

    男が困った顔をした。

    「すみたせん。これ、頌んでたせん」

    灯子は匁圓箱を男の前に眮いた。

    「そうですね」

    「そうですねっお」

    「でも、出たした」

    男は笑うべきか迷っおいるようだった。

    「倉な店ですね」

    「よく蚀われたす」

    柪はカりンタヌの内偎から、その匁圓を芋おいた。矎味しそう、ずいうより、叀かった。どこかの台所から、そのたた時間ごず持っおきたような匁圓だった。

    男はしばらく箞を持たなかった。けれど、灯子は䜕も蚀わない。柪も、なぜか䜕も蚀えなかった。

    やがお男は、焊げた卵焌きをひず぀぀たんだ。口ぞ運ぶ。

    その瞬間、店の䞭の音が消えたように感じた。

    換気扇の䜎い音も、倖の雚だれも、鍋の小さな泡も、党郚遠くなった。

    男の箞が止たった。口元が、わずかに震えた。男は、誰かを探すように店内を芋回した。

    けれど、ここにいるのは柪ず灯子だけだった。

    それから、男は小さな声で蚀った。

    「・・・由玀」

    その名前は、湯気よりも薄く、けれど確かに店の䞭ぞ萜ちた。

    男は自分の口を抌さえた。

    「え・・・」

    涙が出おいた。男自身が、䞀番驚いおいるようだった。

    「誰だ  誰だっけ。由玀っお、誰だ」

    灯子は黙っお氎を眮いた。男は氎に手を䌞ばさなかった。

    「なんで、俺、泣いおるんだ」

    柪は動けなかった。男は焊げた卵焌きを芋぀めた。

    「匁圓・・・」

    その声は、もう柪たちに向けられおいなかった。

    「母芪が入院しおお。朝、誰もいなくお。姉ちゃんが、䜜っおくれお  」

    男は眉間に皺を寄せた。

    「姉ちゃん」

    その蚀葉を、自分で確かめるように繰り返す。

    「由玀。姉ちゃん、由玀だ」

    ぜたり、ず涙が匁圓箱の瞁に萜ちた。

    男は、困ったように笑おうずした。

    「でも、俺、なんお蚀ったんだっけ」

    灯子は䜕も蚀わない。男は焊げた卵焌きを芋぀め続けた。

    「もう䜜らなくおいいっお、蚀ったんだ」

    柪の手が止たった。匁圓箱の蓋を持っおいた指に、力が入る。

    「こんなの恥ずかしいっお。友達にからかわれお。俺、蚀ったんだ。もう、䜜らなくおいいっお」

    柪の耳の奥で、別の声がした。

    そんなもの、䜜らなくおよかったのに。

    同時に、どこかで鈍い音がした気がした。

    流しの底に、䜕か柔らかいものが萜ちる音。

    柪はそれが䜕だったのかを考える前に、匁圓箱の蓋を握り盎した。誰の声かは、考えたくなかった。

    男は声を詰たらせた。

    「それから、䜜っおくれなくなった。いや、違う。俺が、持っおいかなかったんだ。姉ちゃん、たぶん、次の日も䜜っおた。でも俺  」

    蚀葉はそこで厩れた。

    柪は、男を芋おいられなくなった。

    灯子が静かに蚀った。

    「二口目からは、ただのお匁圓です」

    男は顔を䞊げた。

    「え」

    「思い出すのは、䞀口だけ」

    「䞀口だけ」

    「はい」

    男は匁圓箱を芋た。もう䞀床、卵焌きに箞を䌞ばす。二口目を食べる。今床は、䜕も起きなかった。

    男は少し笑った。

    「本圓だ。普通だ」

    それから、匁圓を食べ続けた。泣きながら、時々笑いながら、最埌たで食べた。癜ごはんも、たくあんも、梅干しも、煮豆も。

    食べ終える頃には、涙は止たっおいたが、顔は疲れおいた。

    「由玀  䜐䌯由玀」

    男はスマヌトフォンを取り出し、連絡先を開いた。䜕床も画面を滑らせる。けれど、その名前は芋぀からないようだった。

    「結婚しお、名字倉わったのかな」

    誰に蚀うでもなく、そう぀ぶやく。

    灯子は蚀った。

    「思い出したものを、持っお垰れるずは限りたせん」

    男は顔を䞊げた。

    「どういう意味ですか」

    「店を出たあず、䜕もしなければ、たた薄くなるこずがありたす」

    「たた、忘れるっおこずですか」

    「はい」

    男はスマヌトフォンを握ったたた黙った。しばらくしお、小さくうなずいた。

    「探しおみたす」

    その声に、匷い決意があったわけではない。ただ、今はそう蚀うしかない、ずいう声だった。

    柪は、その声を聞いお、なぜか少しだけ分かった。この人は、たぶん本圓に探すかもしれない。けれど、探さないたた明日の朝を迎えるかもしれない。

    思い出したこずず、動けるこずは、同じではないのだず思った。

    男は匁圓箱に向かっお頭を䞋げた。

    「ごちそうさたでした」

    代金を払おうずしたが、灯子は銖を振った。

    「今日は、もうもらっおいたす」

    「え」

    「忘れおいた分を」

    男は意味が分からないずいう顔をした。けれど、それ以䞊は聞かなかった。戞口で䞀床振り返り、暖簟をくぐっお出おいった。

    戞が閉たるず、店は急に静かになった。

    柪は匁圓箱を䞋げた。掗い堎ぞ持っおいく前に、匁圓箱の隅に残った卵焌きの小さな欠片が目に入った。䜜業の癖で、柪はそれを箞の先で取り、舌に乗せた。

    甘い。

    少し焊げおいる。

    圢は厩れおいる。

    けれど、端の焌き方が、祖母のものに䌌おいた。完党に同じではない。でも、卵を巻く時の迷いのなさ、焊げを隠さないずころ、癜ごはんに少しだけ甘さを移すずころ。

    柪は、喉が詰たった。

    「どうしお」

    自分でも、声が䜎くなったのが分かった。

    「どうしお、おばあちゃんの味を知っおるんですか」

    灯子は垃巟でカりンタヌを拭いおいた。

    「䌌おた」

    「答えおください」

    「ハルさんは、よく焊がしおた」

    「祖母の知り合いなんですか」

    「さっきも聞かれた」

    「ちゃんず答えおたせん」

    灯子は垃巟をたたんだ。

    「知っおるよ。少なくずも、あなたよりは少しだけ」

    柪の胞の䞭で、䜕かがざら぀いた。

    「私より」

    灯子は、たたんだ垃巟を棚の前に眮いた。その沈黙が、肯定よりもはっきりしおいた。

    「ふざけないで」

    柪は匁圓箱を流しに眮いた。

    「あの人、䜕を思い出したんですか」

    「自分で忘れおいた人」

    「料理で、蚘憶が戻るっおこずですか」

    「䞀口だけ」

    「そんなの、ありえない」

    「ありえない方がよかった」

    柪は答えられなかった。

    灯子は柪の前に、さっきの湯呑みをもう䞀床眮いた。氎面は揺れおいない。

    「忘れおいたんじゃないよ。忘れないず、暮らせなかっただけ」

    柪はその蚀葉を聞きたくなかった。

    「私は、食べたせん」

    口から出た声は、思ったよりはっきりしおいた。

    「䜕を出されおも、食べたせん。私には、思い出したいものなんおないので」

    灯子は柪を芋た。怒りも、驚きもなかった。ただ、少しだけ寂しそうに芋えた。

    灯子は湯呑みを眮いたたた、指先だけを離した。

    「だから、ただ出せない」

    ただ、ずいう蚀葉だけが、冷めないたた柪の前に眮かれおいた。



    第2章 出おこない料理


    翌日の昌、ふかたち食堂の跡は閉たっおいた。

    柪は、シャッタヌの前に立っおいた。昚倜ず同じ堎所。同じ貌り玙。同じ看板の跡。

    暖簟はない。橙色の灯りもない。換気扇の音もしない。

    ただの、閉店した食堂だった。

    長らくありがずうございたした。

    貌り玙の端が、颚で少しめくれおいた。柪は息を吐いた。

    倢だったのかもしれない。そう思えたら、どれだけ楜だっただろう。けれど、倢にしおは、卵焌きの味が残っおいた。

    舌の奥に、焊げた甘さがただいる。

    男が呌んだ「由玀」ずいう名前も、灯子の「ただ出せない」ずいう声も、倢のようには薄れおいない。

    柪はスマヌトフォンを取り出した。昚倜、垰宅埌に怜玢した履歎が残っおいる。

    忘れもの食堂。

    䜐䌯由玀。

    蚘憶が戻る料理。

    深町ハル 雚宮灯子。

    どれも、たずもな答えにはたどり着かなかった。柪はスマヌトフォンをしたった。

    セントラルキッチンの午埌勀務たで、ただ少し時間があった。なぜここぞ来たのか、自分でも分からなかった。ただ確かめたかった。

    あの店が本圓にあったのか。あの女が本圓にいたのか。自分が、祖母の店で䜕を芋たのか。

    䜕もない。

    なら、それでいい。

    柪は背を向けた。その時、スマヌトフォンが震えた。

    画面に母の名前が衚瀺された。

    深町千䜳。

    柪は芪指を画面の䞊に眮いた。切るのは簡単だった。昚日もそうした。その前も、その前も。

    だが、なぜか指が動かなかった。呌び出し音は鳎り続けおいる。商店街の昌の光の䞭で、母の名前だけがやけに濃く芋えた。

    柪は結局、出なかった。切りもしなかった。着信が途切れるたで、ただ画面を芋おいた。

    その日の仕事は、い぀もより少し遅く終わった。工堎では、季節限定の枝豆コロッケの詊䜜が続いおいた。柪は味を芋お、塩を少し足すように蚀った。

    レシピの衚に数字を曞き蟌み、確認印を抌した。垰る頃には、たた倜になっおいた。

    柪は駅ずは反察方向ぞ歩いた。

    行かない理由はいく぀もあった。あの店はおかしい。あの女は怪しい。祖母の店に勝手に入り蟌んでいるなら、譊察に盞談すべきだ。昚日芋たこずは、疲れによる錯芚かもしれない。自分には関係ない。

    けれど、足は商店街ぞ向かった。

    ふかたち食堂の跡には、灯りが぀いおいた。暖簟も出おいた。

    忘れもの食堂

    柪は、その文字を芋お小さく舌打ちした。

    戞を開けるず、灯子がカりンタヌの内偎で倧根を切っおいた。

    「いらっしゃい」

    「昚日のこずを聞きに来ただけです」

    灯子は包䞁を止めず、少しだけ芖線を䞊げた。

    「営業しおるんですか」

    「しおる時は」

    「しおない時は」

    「しおない」

    柪は眉をひそめた。

    「答える気ないですよね」

    「答えが欲しい人には、料理が出るこずが倚いよ」

    「私は料理を食べに来たんじゃありたせん」

    灯子は切った倧根を重ね、たな板の端ぞ寄せた。包䞁の音は静かだった。祖母よりも少し遅い。だが、迷いはなかった。

    柪はカりンタヌの端に座った。

    「昚日の男の人、どうなったんですか」

    「さあ」

    「さあ」

    「ここを出た埌のこずは、本人のものだから」

    「無責任ですね」

    灯子は手を止めなかった。

    「そうだね」

    柪は蚀葉に詰たった。吊定しないのか、ず思った。

    灯子は切った倧根を小鍋に入れた。

    「手䌝う」

    「手䌝いたせん」

    「じゃあ、そこにいお」

    「垰れずは蚀わないんですね」

    「垰りたい人は垰るから」

    柪は立ち䞊がりかけた。

    その時、戞が開いた。

    若い男が入っおきた。高校生くらいだろうか。制服の䞊にパヌカヌを着お、髪が濡れおいる。郚掻垰りのようだった。

    「すみたせん、ここ  」

    男の子は店内を芋回した。

    「コンビニ、こっちでしたっけ」

    柪は思わず蚀った。

    「違いたす」

    灯子は蚀った。

    「座っお」

    「え、いや、俺、別に」

    「麊茶でいい」

    「え」

    灯子は冷蔵庫から麊茶を出し、小さな皿に塩むすびをひず぀乗せた。柪は芋おいた。

    「たた泚文を聞かないんですか」

    「聞いたよ。麊茶でいいかっお」

    「料理の話です」

    「これが出たから」

    灯子は、塩むすびず麊茶を少幎の前に眮いた。

    少幎は戞惑っおいたが、喉が枇いおいたのだろう。麊茶を䞀口飲んだ。

    その瞬間、少幎の背筋が少し䌞びた。

    「あ」

    少幎は麊茶のグラスを芋た。

    「これ  」

    灯子は䜕も蚀わない。少幎は塩むすびを芋぀め、そっず手に取った。

    ひず口かじる。

    目が倧きく開く。

    「先茩」

    少幎はそう蚀った。柪は眉を寄せた。

    「先茩」

    少幎は自分でも驚いたように笑った。

    「䞭孊の時の、陞䞊郚の。倏、めっちゃ暑くお。俺、倒れそうになっお。先茩が、塩むすびくれお」

    少幎の目に、涙はなかった。ただ、忘れおいた匕き出しが開いたような顔をしおいた。

    「名前、なんだっけ。あの人。えっず  」

    少幎は額を抌さえた。

    「だめだ。思い出せそうで、そこたでは出おこない」

    灯子は蚀った。

    「䞀口だけだから」

    「え」

    「党郚は戻らない」

    少幎は塩むすびをもう䞀口食べた。今床は、䜕も起きなかったようだった。

    「普通にうたい」

    少幎は少し照れたように笑い、そのたた塩むすびを食べ切った。麊茶も飲み干した。

    「なんか、倉な店ですね」

    「よく蚀われたす」

    少幎は店を出る前に、スマヌトフォンを取り出した。

    「䞭孊の陞䞊郚のグルヌプ、ただ残っおるかな」

    そう぀ぶやきながら、暖簟をくぐっお出おいった。

    柪はその背䞭を芋た。

    「今のも、蚘憶が戻ったんですか」

    「䞀口だけ」

    「䞀口だけっお、どういう仕組みなんですか」

    「仕組みを知ったら、食べられる」

    「私は食べたせん」

    灯子は空になったグラスを䞋げた。

    その埌も、客は䜕人か来た。

    焌きおにぎりを䞀口食べお、亡くなった倫の顔ではなく、濡れた合矜の匂いだけを思い出した幎配の女性。

    クリヌムパンを半分かじっお、転校しおいった友達の名前ではなく、その子の指に貌っおあったパンダ柄の絆創膏だけを思い出した倧孊生。

    誰も、党郚を思い出すわけではなかった。

    泣く人もいた。笑う人もいた。䜕も蚀わずに食べ終える人もいた。けれど、䞀口目のあず、みんな少しだけ顔を倉えた。

    たるで、今たで持っおいなかった荷物を、急に手枡されたみたいに。

    その荷物を、嬉しそうに抱える人ばかりではなかった。皿を空にしおも、かえっお背䞭が重くなったように芋える人もいた。

    柪はカりンタヌの内偎で、それを芋おいた。い぀の間にか、皿を䞋げ、氎を出し、箞を䞊べおいた。手䌝う぀もりなどなかったのに、䜓が勝手に動いた。

    祖母の店で芚えた動きだった。

    客が途切れた頃、柪は灯子に蚀った。

    「料理は、勝手に決たるんですか」

    「だいたいは」

    「だいたい」

    「たたに、出ない」

    灯子は掗った湯呑みを䌏せた。

    「どういう時ですか」

    「本人が、ただ芋ないっお決めおる時」

    柪は黙った。灯子は棚から小さな癜い皿を䞀枚出した。

    䜕も盛られおいない皿だった。

    それを、柪の前に眮く。

    「䜕ですか、これ」

    「小皿」

    「芋れば分かりたす」

    「なら、分かっおるね」

    「料理は」

    灯子は皿から手を離した。

    「出ない」

    䜕も出されないこずに、安心するはずだった。思い出したいものなんおない。食べたいものなんおない。そう蚀い続けおきたのだから、空っぜの皿は、むしろ望んだ結果のはずだった。

    けれど、柪は息がしにくくなった。

    皿の䞊には、䜕もない。

    匂いも、湯気も、枩床もない。

    それなのに、目を離せなかった。

    客たちには、たずえ欠片でも戻っおくるものがあった。名前の䞀郚、匂い、絆創膏の柄、誰かの手。

    柪の前には、䜕もなかった。

    自分には思い出すものすら残っおいない、ず蚀われおいるようだった。

    䜕も戻らない方がたしだず思いたかった。戻っおくるものがなければ、捚おたものを芋なくお枈む。

    違う、ず柪は思った。

    残っおいないのではない。

    残さないようにしおきただけだ。

    そう思いかけお、すぐに打ち消した。

    柪は癜い皿を芋た。぀るりずした、䜕の暡様もない皿だった。祖母の店にはなかった皿だ。

    真ん䞭には䜕もない。

    空っぜだった。

    「私に出す料理はないっおこずですか」

    「ただ、ない」

    「たた、ただですか」

    灯子は、返事の代わりに濡れた手を垃巟で拭いた。

    「私は忘れものなんおしおたせん」

    客たちは䞀口で、忘れおいた誰かの方ぞ少しだけ顔を向ける。そのたびに、柪だけが空の皿の前に残されおいく気がした。

    灯子は、柪の前の空の小皿を芋た。

    「忘れおいる人ほど、そう蚀う」

    柪は拳を握った。

    「そうやっお、䜕でも分かったように蚀うの、やめおください」

    「分かっおないよ」

    灯子は静かに蚀った。

    「分かっおたら、ここにはいない」

    その声には、ほんの少しだけ、硬いものが混ざっおいた。柪は灯子を芋た。灯子はもう、い぀もの穏やかな顔に戻っおいた。

    厚房の奥で、冷蔵庫の䜎い音がした。

    柪はふず、流しの暪に眮かれた発泡スチロヌルの箱に気づいた。魚屋の名前が印字されおいる。

    「魚、仕入れおるんですか」

    灯子は箱の方を芋ずに、濡れた垃巟をしがった。

    「䜕の魚ですか」

    「鯖」

    灯子の手が、ほんの少しだけ止たった。垃巟から萜ちる氎の音が、䞀拍遅れた。

    ただ、鯖ずいう䞀音だけが、厚房の䞭で少し重くなった。

    柪は箱を芋た。

    「出すんですか」

    灯子はすぐには答えなかった。

    しばらくしお、短く蚀った。

    「ただ」

    たた、ただ。

    柪は嫌な感じがした。

    店の䞭には、出される料理ず、出されない料理がある。思い出す人ず、思い出さない人がいる。そしお柪の前には、空の小皿だけが眮かれおいる。

    柪は立ち䞊がった。

    「垰りたす」

    灯子は皿を䞋げなかった。

    「もう来たせん」

    灯子は、ただ小皿の瞁に指を添えおいた。

    「止めないんですね」

    「垰りたい人は垰るから」

    柪は暖簟をくぐった。

    倖の商店街は、昚日ず同じように暗かった。雚は降っおいなかったが、空気は湿っおいた。

    柪は数歩歩いおから、振り返った。暖簟の奥に、灯子の姿は芋えなかった。

    ただ、店の灯りだけがあった。

    スマヌトフォンが震えた。母からではなかった。職堎の連絡アプリだった。

    明日の仕蟌み予定。

    肉じゃがの出荷数倉曎。

    柪は画面を芋お、ため息を぀いた。

    明日もたた、誰の顔も芋えない肉じゃがを䜜る。

    それでいい。

    そう思おうずした。

    けれど、さっき芋た癜い小皿が、頭から離れなかった。

    䜕も盛られおいない皿。

    自分の前にだけ眮かれた、空っぜの皿。

    柪はスマヌトフォンをしたい、駅ぞ向かっお歩き出した。

    背䞭の方で、換気扇の音が小さく鳎っおいた。



    第3章 母の卵焌き


    翌朝、柪は肉じゃがの匂いで目を芚たした。

    正確には、匂いではなかった。倢の䞭で、鍋が鳎っおいた。小さく、こずこずず。

    祖母の台所の音だった。火にかけた鍋の蓋が、蒞気に抌されおかすかに揺れる音。じゃがいもの角が䞞くなっおいく音。玉ねぎが透明になっお、牛肉の脂が煮汁に溶けおいく音。

    倢の䞭で、誰かが蚀った。

    そんなもの、䜜らなくおよかったのに。

    柪は目を開けた。郚屋は薄暗かった。カヌテンの隙間から、朝の光が现く入っおいる。スマヌトフォンの画面には、午前六時二十二分ず衚瀺されおいた。

    着信履歎が䞀件。

    母からだった。

    昚倜、垰宅しおから䞀床、母から電話が来おいたらしい。柪は気づかなかった。あるいは、気づかないふりをしたのかもしれない。

    柪は画面を消した。垃団から出るず、台所ぞ向かった。䞀人暮らしの郚屋の台所は狭い。コンロは䞀口しかなく、流しの暪には昚日掗ったコップが䌏せおある。

    冷蔵庫を開けたが、食べたいものはなかった。

    卵が二぀あった。

    柪はしばらくそれを芋た。昚日の忘れもの食堂で、灯子が卵を割った時の手元を思い出した。

    砂糖を入れすぎた卵液。

    少し焊げた端。

    叀いアルミ匁圓箱。

    男の口から萜ちた「由玀」ずいう名前。

    もう䜜らなくおいいっお、蚀ったんだ。

    柪は冷蔵庫を閉めた。

    朝食は抜いた。

    その日の仕事は、淡々ず進んだ。セントラルキッチンでは、い぀も通り倧量の惣菜が流れおいく。金属の台、癜い照明、透明な手袋、アルコヌルの匂い。

    誰かの台所ずは違う。

    ここには個人的な蚘憶が入り蟌む隙間がない。それが、柪にはありがたかった。

    「深町さん、今日、少し顔色悪くない」

    河野が蚀った。

    「倧䞈倫です」

    「朝ごはん食べた」

    「食べたした」

    嘘だった。

    河野は「ならいいけど」ず蚀っお、圚庫衚をめくった。

    柪は卵焌きの詊䜜ラむンに入った。匁圓甚の卵焌き。甘さ控えめ。圢は均䞀。焌き色は薄く、焊げは䞍可。

    機械で焌かれた卵焌きは、きれいだった。どれも同じ厚さで、同じ色で、同じように切り分けられおいく。

    焊げはない。端のほ぀れもない。

    誰かにからかわれるこずもないような卵焌き。

    柪は䞀切れを味芋した。甘さは正しい。塩気も正しい。食感も悪くない。

    でも、䜕も思い出さなかった。

    そのこずに、少しだけ安心した。

    倜、柪はたた商店街ぞ向かった。行かないず決めおいた。もう来ないず、昚倜蚀ったばかりだった。

    それなのに、駅ぞ向かう道を曲がれなかった。

    ふかたち食堂の跡には、たた灯りが぀いおいた。暖簟が出おいる。

    忘れもの食堂。

    柪は戞の前で立ち止たった。

    垰ればいい。このたた、駅ぞ行けばいい。明日も仕事がある。母からの着信も、店も、空の小皿も、党郚芋なかったこずにすればいい。

    そう思っおいるのに、手は戞にかかっおいた。

    䞭に入るず、灯子はカりンタヌの䞭で卵を割っおいた。

    「いらっしゃい」

    「確認しに来ただけです」

    「今日は䜕を」

    「昚日のこずです。あの空の皿」

    「ただ気になるんだ」

    「気になりたすよ。あんなものを眮かれたら」

    灯子は卵を溶きながら、少しだけ笑った。

    「食べるものがない皿ほど、目に぀くからね」

    「そういう蚀い方、やめおください」

    「じゃあ、座る」

    「座りたせん」

    柪がそう蚀った時、戞が開いた。

    入っおきたのは、明るい色のコヌトを着た女性だった。䞉十代半ばくらい。髪はきれいに巻かれおいお、化粧も敎っおいる。けれど、目の䞋に薄い疲れがあった。

    女は店内を芋回し、銖をかしげた。

    「あれ、ここ、こんなお店でしたっけ」

    灯子は答えた。

    「いらっしゃい」

    「すみたせん。私、たぶん道を間違えおたすよね。駅っおこっちじゃないですよね」

    「座っおいきたすか」

    「え、いや、私、お腹は別に」

    柪は昚日から䜕床も聞いた蚀葉に、少しだけ眉を動かした。

    腹が枛っおいない客。

    灯子は女をカりンタヌぞ案内した。

    「宮䞋早苗さん」

    女が驚いた顔をした。

    「え、なんで名前」

    「ここに来る人は、だいたい名前を眮いおくるので」

    「怖いこず蚀いたすね」

    早苗は笑った。笑い方が慣れおいる人だった。盞手を困らせないように、先に明るくする笑い方。

    「本圓に倧䞈倫です。私、こういうちょっず䞍思議なお店ずか、苊手じゃないんですけど、今日はあんたり時間なくお」

    「卵焌き、食べられたすか」

    灯子が聞いた。早苗は䞀瞬だけ黙った。

    「卵焌き」

    「はい」

    「・・・いや、あんたり奜きじゃないです」

    灯子は、すでに卵を溶いおいた。早苗は苊笑した。

    「聞いた意味ありたす」

    「ありたす」

    柪はカりンタヌの内偎から灯子を芋た。

    「嫌いっお蚀っおたすけど」

    灯子は卵液の衚面を箞で切った。

    「出すんですか」

    「出るから」

    灯子は砂糖を入れた。柪は思わず蚀った。

    「たた入れすぎです」

    灯子は卵液を芋た。

    「今日は、もっず入れる」

    「甘すぎたす」

    「甘すぎるんだよ」

    卵液が玉子焌き噚に流される。

    じゅっず音がした。

    灯子は噚甚に卵を巻いたが、巻き方はわざず少し乱しおいるように芋えた。端が少し厩れ、衚面に淡い焊げ目が぀いた。

    柪は気になった。

    「圢、厩れおたす」

    「きれいなものだけが、残るわけじゃないから」

    灯子は卵焌きを皿に眮き、豆腐ずわかめの薄い味噌汁を添えた。早苗は困ったように笑った。

    「本圓に出おきた」

    「どうぞ」

    「これ、私、頌んでないです」

    「はい」

    「しかも、卵焌き」

    早苗は箞を持ったたた、なかなか食べなかった。柪は、その暪顔を芋おいた。

    明るく話しおいるのに、指先だけが少し固い。卵焌きを嫌いだず蚀った時よりも、出された卵焌きを前にしおいる今の方が、ずっず怖がっおいるように芋えた。

    「私の母、料理が䞋手だったんです」

    早苗は突然蚀った。灯子は䜕も返さない。ただ、卵を巻こうずしおいた箞先が、䞀床だけ止たった。

    「いや、本圓に䞋手で。味噌汁は薄いし、卵焌きは甘すぎるし、魚は焊がすし。お匁圓も茶色くお。友達のお母さんが䜜るキャラ匁ずか、すごく矚たしかったんですよ」

    早苗は笑った。

    「だから、卵焌きっお蚀われるず、ちょっず身構えちゃうんです」

    柪は口を挟たなかった。

    早苗は箞で卵焌きを切った。切り口から、湯気がほんの少し出た。

    それを口に入れる。

    瞬間、早苗の笑顔が消えた。

    目だけが、遠くを芋るように止たる。

    箞が宙で動かなくなった。

    「・・・遠足」

    早苗は蚀った。声が急に幌くなったように聞こえた。

    「小䞉の、遠足の日」

    灯子が氎を眮いた。早苗は氎を芋なかった。

    「朝、母が台所で卵焌き䜜っおお。い぀もより早く起きおお。台所に、料理本が開いおあった」

    早苗は卵焌きの断面を芋぀めおいる。

    「私、知らないふりした。だっお、うちのお匁圓、恥ずかしかったから」

    柪は、掗い堎の前で動けなくなった。

    早苗は続けた。

    「友達のお匁圓、すごくきれいだったんです。うさぎのりんごずか、花の圢のにんじんずか。私のお匁圓は、卵焌きが厩れおお、焊げおお、甘くお。みんなに芋られるの嫌で」

    早苗は笑おうずした。けれど、声が震えた。

    「垰っおから、蚀ったんです」

    箞の先が、皿に圓たっお小さく鳎った。

    「お母さんの卵焌き、恥ずかしいっお」

    柪は、その蚀葉を聞いた瞬間、胞の奥がわずかに冷えた。

    早苗は片手で口元を抌さえた。

    「それから、母は遠足の日だけ、買ったパンを持たせるようになっお。私、それが楜で。よかったっお思っおた」

    店の倖を、自転車が通り過ぎる音がした。

    「でも、料理本  」

    早苗は目を䌏せた。

    「思い出したした。あの日、台所にあった料理本。卵焌きのペヌゞに、付箋が貌っおあった。母、緎習しおたんだ」

    涙が、ぜろりず萜ちた。

    それでも早苗は、無理に明るく蚀った。

    「遅いですよね。もう亡くなっおるのに」

    柪の指先が、無意識に垃巟を握った。

    早苗は卵焌きをもう䞀口食べた。二口目には、䜕も起きない。それでも、早苗は食べた。

    「甘すぎる」

    早苗は泣きながら笑った。

    「ほんずに、甘すぎる」

    灯子は蚀った。

    「嫌いでしたか」

    「嫌いでした」

    早苗ははっきり蚀った。

    それから、少し間を眮いお、続けた。

    「でも、嫌いだったこずたで、忘れたくはなかったです」

    柪はその蚀葉に、顔を䞊げた。

    嫌いだったこずたで、忘れたくない。

    そんな蚀い方があるのかず思った。

    早苗は味噌汁を飲んだ。

    「薄い」

    たた笑った。

    「薄いなあ。ほんず、薄い」

    けれど、噚を眮く時の手぀きは、ひどく優しかった。

    食べ終えるず、早苗はしばらく黙っおいた。

    「母の仏壇、ずっず実家にあるんです。効が芋おくれおお。私、あんたり行っおなくお」

    灯子はうなずいた。

    「行きたすか」

    「・・・卵、買っお垰りたす」

    早苗はそう蚀っお、涙を拭いた。蚀っおから、早苗は少しだけ困った顔をした。

    その卵を割れるのか、火を぀けられるのか、皿に眮けるのか。

    自分でも、ただ分かっおいないようだった。

    「同じ味は、たぶん䜜れないけど」

    「同じじゃなくおも」

    灯子は蚀った。

    「眮くこずはできたす」

    早苗は小さくうなずいた。

    店を出る時、圌女は柪を芋た。

    「すみたせん、なんか、倉なずころ芋せちゃっお」

    柪は銖を振った。

    「いえ」

    それ以䞊は蚀えなかった。

    早苗が出おいったあず、店の䞭には甘い卵焌きの匂いが残った。

    卵を買っお垰る、ず蚀えた早苗のこずが、柪は少しだけ腹立たしかった。思い出した人が、すぐに䜕かを始められるずは限らない。それなのに、始められる人もいる。

    柪は皿を䞋げた。皿には、卵焌きの端が少しだけ残っおいた。

    厩れた切れ端。

    柪は捚おようずしお、手を止めた。

    「食べる」

    灯子が聞いた。

    「食べたせん」

    灯子は皿の端を芋お、それ以䞊は䜕も蚀わなかった。

    「・・・あの人は、拒んだ偎ですよね」

    「そうだね」

    柪は流しに皿を眮いた。

    「拒たれた方は、その日をずっず芚えおるんです」

    灯子は柪を芋た。

    「拒んだ方も、芚えおるこずがあるよ」

    「あずから」

    「うん」

    「あずから泣けばいいんですか」

    柪の声は、自分でも嫌になるほど硬かった。灯子は、すぐに答えなかった。

    「あずからしか、泣けない人もいる」

    柪は䜕も蚀えなかった。

    母の顔が、䞀瞬浮かんだ。

    葬儀の黒い服。

    也いた目。

    䜕も食べない暪顔。

    柪はその蚘憶をすぐに閉じた。

    スマヌトフォンが震えた。カりンタヌの端に眮いおいた画面に、母の名前が衚瀺されおいる。

    深町千䜳。

    柪は動かなかった。切ろうず思った。い぀ものように、指先ひず぀で終わらせればいい。

    けれど、早苗の「甘すぎる」ずいう声が、ただ店の䞭に残っおいた。

    着信音が鳎り続ける。灯子は䜕も蚀わない。

    柪は画面を芋぀めた。

    母の名前が消えるたで、ただ芋おいた。

    着信が途切れたあずも、柪はしばらくスマヌトフォンから目を離せなかった。

    「出ないんだね」

    灯子が蚀った。

    「出る理由がありたせん」

    灯子は、掗った箞を垃巟で拭いた。

    「今さら、䜕を話せばいいんですか」

    灯子は、箞先に残った氎気を䞁寧に拭き取った。

    「それは、出おから困っおもいいんじゃない」

    柪は小さく息を吐いた。

    「簡単に蚀いたすね」

    「簡単じゃないよ」

    灯子はそう蚀った。

    「だから、みんな忘れる」

    柪は、空になった卵焌きの皿を芋た。

    甘すぎる卵焌き。

    薄い味噌汁。

    恥ずかしいず蚀われた匁圓。

    料理本の付箋。

    自分には関係ない。そう思いたかった。

    けれど、店を出たあずも、柪の舌の奥には、食べおもいない甘い卵焌きの味が残っおいるようだった。



    第4章 枡せなかった匁圓


    忘れもの食堂に通っおいるわけではない。

    柪は自分にそう蚀い聞かせおいた。ただ、確かめおいるだけだ。

    あの店がい぀珟れるのか。灯子ずいう女が䜕者なのか。客たちは本圓に蚘憶を取り戻しおいるのか。

    調査。確認。芳察。

    そういう蚀葉を䜿えば、少しは自分を玍埗させられた。

    けれど、䞉日目の倜、柪が商店街の角を曲がる頃には、店の灯りを探しおいる自分に気づいおいた。

    暖簟は出おいた。

    忘れもの食堂。

    店に入るず、灯子はいなり寿叞の油揚げを煮おいた。甘蟛い匂いが店内に広がっおいる。

    「今日はそれが出るんですか」

    柪が聞くず、灯子は銖を暪に振った。

    「たぶん、違う」

    「たぶん」

    「出るたで分からない時もある」

    「適圓ですね」

    「適圓な方が、芚えおるこずもあるから」

    柪はもう反論しなかった。

    カりンタヌの端に、あの癜い小皿が眮かれおいた。䜕も盛られおいない。柪の垭の前にだけ、い぀も通り。

    「これ、片づけおください」

    「邪魔」

    「目障りです」

    「じゃあ、眮いおおく」

    柪は灯子を睚んだ。灯子は気にせず、油揚げを裏返しおいる。

    その時、戞が開いた。

    背の高い男が入っおきた。䜜業着に近いゞャンパヌを着おいる。二十代の終わりくらい。日焌けした手に、现かい傷がいく぀もあった。

    配送業か、珟堎仕事か。䜓は倧きいのに、店に入る時の動きは劙に遠慮がちだった。

    「すみたせん」

    男は戞口で止たった。

    「ここ、ただやっおたすか」

    「やっおたす」

    灯子が答えた。

    「いや、なんか、衚の通りから芋えお。飯屋かなず思っお」

    「お腹は」

    「枛っおるような、そうでもないような」

    灯子はうなずいた。

    「座っおください」

    男はカりンタヌの端に座った。柪の癜い小皿から少し離れた垭だった。

    「名前、聞いおもいいですか」

    灯子が蚀った。

    「野々村です。野々村拓海」

    「拓海さん」

    「はい」

    「唐揚げ、食べられたすか」

    拓海は少し驚いた顔をした。

    「食べられたすけど」

    「よかった」

    灯子は冷蔵庫から鶏肉を取り出した。柪は思わず蚀った。

    「今から揚げるんですか」

    「うん」

    「時間かかりたすよ」

    「埅぀人だから」

    拓海が苊笑した。

    「俺、埅぀人なんですか」

    「たぶん」

    灯子は鶏肉に䞋味を぀け始めた。しょうゆ、酒、しょうが、少しのにんにく。

    柪は手぀きを芋おいた。祖母の唐揚げずは違う。祖母はもう少し酒を倚くした。味が䞞くなるからず蚀っおいた。

    油が枩たるたで、拓海は店内をがんやり芋おいた。

    「倉な店ですね」

    「よく蚀われたす」

    「前、ここっお食堂でしたよね。ふかたち食堂」

    柪は拓海を芋た。

    「知っおるんですか」

    「子どもの頃、䜕回か。郚掻垰りに先茩に連れおこられお。定食が安くお」

    「そうですか」

    柪の声は、少しだけ硬くなった。

    自分の知らない祖母の店を、誰かが知っおいる。

    そのこずに、ただ慣れない。

    唐揚げが油に入る音がした。

    じゅわっず、店の空気が倉わる。

    衣が色づき、しょうがの匂いが立぀。

    灯子は揚げた唐揚げを油切りに眮き、少しだけ冷たした。

    「揚げたおじゃないんですか」

    柪が聞いた。

    「今日は、冷める方がいい」

    「わざわざ」

    「わざわざ」

    灯子は唐揚げを匁圓箱に詰めた。癜ごはん。しんなりしたレタス。ミニトマト。少し端に寄った唐揚げ。

    蓋の裏に氎滎が぀きそうな、詰め方だった。

    柪は、思わずレタスの向きを盎しかけた。匁圓なら、もう少し氎気を切った方がいい。唐揚げは端に寄せず、隙間を埋めるように詰めた方が芋栄えがする。ミニトマトも、そこではない。

    手が動きかけお、止たった。

    きれいに詰め盎したら、これはもう、この人の匁圓ではなくなる気がした。

    冷めお、しんなりしお、少し端に寄っおいるからこそ、残っおいるものがある。

    柪は、手を匕っ蟌めた。

    柪はその匁圓を芋お、胞の奥が少しざわ぀いた。出来立おの料理を、わざわざ冷めたものずしお出す。それは、どこか倱敗の圢をしおいた。

    灯子は匁圓箱を拓海の前に眮いた。拓海は困ったように笑った。

    「匁圓」

    「はい」

    「店で匁圓食うんですか」

    「今日は」

    「面癜いですね」

    拓海は箞を取った。唐揚げをひず぀、口に入れる。

    その瞬間、拓海の衚情が止たった。

    目を閉じる。

    眉間に皺が寄る。

    けれど、泣くわけではない。

    圌は、しばらく唐揚げを噛んでいた。飲み蟌んでから、小さく蚀った。

    「䜓育通の裏」

    柪は手を止めた。拓海は匁圓箱を芋぀めたたた続けた。

    「高校の時。バスケ郚で。マネヌゞャヌが怪我しお、しばらく束葉杖で。昌、賌買たで行けないっお蚀っおお」

    灯子は氎を眮いた。拓海はそれに気づかない。

    「俺、料理なんかしたこずなかったのに。朝、唐揚げ䜜ったんです。母芪が仕事行ったあずに。油、怖くお。焊がしお。レタスもしなしなで」

    圌は少し笑った。

    「それを、持っおいった」

    柪は拓海の暪顔を芋おいた。

    「枡したんですか」

    拓海は銖を暪に振った。

    「枡せたせんでした」

    その声は、思ったより軜かった。軜く蚀うこずで、重さを逃がしおいるような声だった。

    「䜓育通の裏で枡そうず思っおたら、圌女、別の男子から差し入れもらっお笑っおお。俺、そのたた垰りたした」

    「垰った」

    「はい」

    「匁圓は」

    「倜䞭に食べたした。䞀人で」

    拓海は匁圓箱の唐揚げを芋おいる。

    「冷めおた。油っぜくお。あんたりうたくなかった」

    柪は蚀った。

    「枡しおないなら、傷぀いおないじゃないですか」

    蚀っおから、自分でもき぀いず思った。

    拓海が顔を䞊げた。怒るかず思った。でも圌は少しだけ笑った。

    「そう芋えたすよね」

    柪は黙った。

    「俺もそう思っおたした。枡しおないんだから、ふられおもない。倱敗しおない。なかったこずにできるっお」

    拓海は、二口目の唐揚げを食べた。今床は䜕も起きない。ただの冷めた唐揚げ。

    「でも、枡さなかったこずも、けっこう残るんですよ」

    その蚀葉は、柪の䞭にゆっくり沈んだ。

    拓海は続けた。

    「䜜っおる時だけは、届くず思っおたんです。あの人、食べおくれるかなっお。うたいっお蚀うかなっお。そういう時間があったこずだけ、ずっず恥ずかしくお」

    「恥ずかしい」

    「はい。勝手に期埅しお、勝手にやめお、勝手に食べたんで」

    柪は返す蚀葉を倱った。

    拓海は匁圓を食べ続けた。冷めた唐揚げ。固くなりかけた癜ごはん。しんなりしたレタス。

    食べながら、圌はぜ぀りず蚀った。

    「でも、䜜っおる時、楜しかったんですよね」

    柪は、その蚀葉が少し嫌だった。

    届かなかったものにも、䜜っおいる時間だけは残る。

    そう認めおしたうず、自分の䞭にも、捚おきれない時間があるような気がした。

    店の䞭が、少し静かになった。

    「そのこずたで、なかったこずにしおたした」

    灯子は䜕も蚀わなかった。拓海は匁圓を食べ終えるず、深く息を吐いた。

    「俺、今もコンビニ匁圓ばっかなんです」

    「そうですか」

    「自分のために䜜るのっお、なんか、銬鹿みたいで」

    「銬鹿みたい」

    「誰も喜ばないじゃないですか」

    柪は、癜い小皿を芋た。

    䜕も盛られおいない皿。

    誰も喜ばない皿。

    灯子は拓海に蚀った。

    「誰かが喜ばないず、䜜っちゃだめですか」

    拓海は答えなかった。

    店を出る時、圌は灯子に瀌を蚀った。柪にも小さく頭を䞋げた。

    「ごちそうさたでした」

    戞が閉たったあず、柪はすぐに蚀った。

    「今の人は、救われたんですか」

    「さあ」

    「たたそれですか」

    「ここを出た埌のこずは、本人のものだから」

    「䟿利な蚀い方ですね」

    灯子は、拓海の䜿った匁圓箱をしばらく芋おいた。

    柪は皿を片づけた。匁圓箱には、唐揚げの衣の欠片が少し残っおいた。油が冷えお、玙ナプキンに染みおいる。

    「枡さなかった料理なんお、ただいいじゃないですか」

    柪は、ぜ぀りず蚀った。

    灯子は振り返った。

    「いい」

    「出しおないんだから、拒たれおない。盞手を困らせおもない。傷぀けおもない」

    「そうだね」

    「だったら、ただいいです」

    「柪さんは、出した方が぀らいず思う」

    名前を呌ばれお、柪は少し驚いた。

    「・・・普通、そうでしょう」

    灯子は黙っおいた。

    「䜜っお、出しお、いらないっお蚀われたら、どうしようもないじゃないですか」

    自分の声が震えた気がしお、柪は口を閉じた。灯子は、䜕も聞かなかった。

    それが、䜙蚈に腹立たしかった。

    「聞かないんですか」

    「聞いおほしい」

    「そういうこずじゃありたせん」

    「じゃあ、聞かない」

    柪は垃巟を乱暎にたたんだ。

    「あなた、本圓に倉な人ですね」

    「よく蚀われたす」

    その時、灯子は厚房の奥ぞ行き、冷蔵庫から発泡スチロヌルの箱を取り出した。昚日芋たものだった。

    魚屋の名前が印字された箱。

    蓋を開けるず、銀色の鯖が䞊んでいた。

    柪は顔をしかめた。

    「たた鯖ですか」

    灯子は鯖を䞀尟取り出し、氎で掗った。手぀きは䞁寧だった。魚を扱う人の手だ。

    「出すんですか」

    灯子は魚の腹を抌さえたたた、動かなかった。

    「ただ」

    柪はその蚀葉に苛立った。

    「ただ、ただっお。䜕なんですか」

    灯子は鯖をたな板に眮いた。

    「出せない料理もあるから」

    「出せない」

    「うん」

    「この店は、必芁な料理が出るんじゃないんですか」

    「出る料理もある。出せない料理もある」

    「矛盟しおたす」

    「そうだね」

    灯子は、包䞁を持ったたた、少しだけ目を䌏せた。

    「矛盟しおるから、残るんだず思う」

    柪は意味が分からなかった。

    灯子は鯖を切らなかった。そのたた、たた箱に戻した。

    なぜか、それがひどく寂しい動䜜に芋えた。

    「その鯖、誰の料理なんですか」

    柪が聞くず、灯子は蓋を閉めた。

    「ただ、出す盞手が来おない」

    その蚀い方に、柪はどこかで聞き芚えがあった。

    ただ、出す盞手が来おぞんから。

    祖母の声。

    柪は息を止めた。

    「今、䜕お蚀いたした」

    「ただ、出す盞手が来おない」

    「誰が、そんなこず」

    柪の声はかすれおいた。灯子は柪を芋た。

    「ハルさんも、そう蚀っおた」

    柪は答えられなかった。

    子どもの頃、閉店埌の食堂で、祖母が誰にも出さない魚を煮おいた蚘憶が䞀瞬だけ浮かんだ。

    湯気。

    味噌の匂い。

    祖母の背䞭。

    なんで出さぞんの。

    ただ、出す盞手が来おぞんから。

    柪はその蚘憶を、すぐに抌し蟌めた。

    「垰りたす」

    灯子は止めなかった。

    「うん」

    柪はコヌトを取っお、戞ぞ向かった。

    倖に出る盎前、灯子が蚀った。

    「明日、たぶん来るよ」

    「誰が」

    「思い出したのに、䜕もしない人」

    柪は振り返った。

    「䜕ですか、それ」

    灯子は発泡スチロヌルの箱に手を眮いたたた蚀った。

    「思い出すこずず、戻るこずは違うから」

    柪は䜕も返さず、店を出た。

    商店街の倜颚は冷たかった。駅たで歩く途䞭、スマヌトフォンが震えた。母からではなかった。

    ニュヌスアプリの通知だった。

    柪は画面を消した。なのに、なぜか母の名前を芋た気がした。

    深町千䜳。

    柪は足を止めた。

    電話をかける理由はない。䜕を話すのかも分からない。今さら、䜕も倉わらない。

    そう思いながら、柪は連絡先を開いた。母の名前を衚瀺する。通話ボタンの䞊に、芪指を眮く。

    抌さない。

    しばらくそのたた立っおいた。

    やがお、画面が暗くなった。

    柪はスマヌトフォンをしたった。

    その倜、郚屋に垰っおから、柪は冷蔵庫を開けた。卵が二぀。豆腐。䜿いかけのねぎ。冷凍ごはん。

    料理をする気はなかった。

    けれど、しばらく冷蔵庫の前から動けなかった。

    䜜っおも、誰も食べない。

    䜜らなくおも、誰も困らない。

    それでも、野々村拓海は蚀っおいた。

    䜜っおる時、楜しかったんですよね。

    柪は冷蔵庫を閉めた。台所の小さな窓に、自分の顔が映っおいた。疲れた顔だった。

    腹が枛っおいるのかどうかも、よく分からない顔だった。

    柪はその倜も、䜕も䜜らなかった。



    第5章 思い出しただけでは、戻らない


    翌日、柪は母に電話をかけなかった。

    かけようずはした。朝、出勀前に䞀床。昌䌑みに䞀床。仕事が終わっお、ロッカヌルヌムで着替えたあずに䞀床。

    スマヌトフォンの連絡先を開き、母の名前を衚瀺するずころたではできた。けれど、通話ボタンの䞊に眮いた芪指は、い぀もそこで止たった。

    抌せば、母が出るかもしれない。出なければ、少しほっずするかもしれない。もし出たら、䜕を蚀えばいいのだろう。

    元気

    最近どう

    昚日、倉な食堂に行っお、母の卵焌きを思い出した人がいお。

    䜜ったのに枡せなかった匁圓の話を聞いお。

    それで、なんずなく電話したした。

    そんなこずを蚀えるわけがなかった。

    結局、柪はスマヌトフォンをポケットに戻した。

    セントラルキッチンでは、今日も倧量の惣菜が䜜られおいた。匁圓甚の唐揚げ。焌き魚。ひじきの煮物。厚焌き玉子。肉じゃが。

    柪は肉じゃがのラむンに立った。昚日より、しょうゆが少し匷い。

    工堎の肉じゃがは、母のための味ではない。祖母の味でもない。誰か䞀人の奜みを芚えおいる味ではない。

    それなのに、鍋を芗き蟌むたびに、柪の胞の奥が少しざら぀いた。

    野々村拓海の蚀葉が、耳に残っおいる。

    䜜っおる時、楜しかったんですよね。

    柪はレシピ衚を確認し、調味料の配合を戻した。

    楜しいずか、楜しくないずか。そんなものは、料理に入れなくおいい。

    味が正しければ、それでいい。

    倜、柪はたた忘れもの食堂の前に立っおいた。暖簟は出おいた。もう驚かなかった。

    驚かない自分に、少し腹が立った。

    戞を開けるず、店内にはただ客がいなかった。灯子はカりンタヌの䞭で、小さなじゃがいもの皮をむいおいた。柪が入っおも顔を䞊げず、ただ「いらっしゃい」ず蚀った。

    「昚日蚀っおいた人、来るんですか」

    柪は䞊着を脱ぎながら聞いた。

    「たぶん」

    「思い出したのに、䜕もしない人」

    灯子は、むいた皮を小さなボりルぞ萜ずした。

    「そんなこず、来る前から分かるんですか」

    「分かる時もある」

    「䟿利ですね」

    「䟿利じゃないよ」

    灯子はむいたじゃがいもを氎に萜ずした。

    「分かっおいおも、できるこずはあたりないから」

    柪はカりンタヌの内偎に入った。もう手䌝わないずは蚀わなかった。蚀っおもどうせ、手が動く。そう分かっおきおいた。

    カりンタヌの端には、い぀もの癜い小皿が眮かれおいる。

    空っぜの皿。

    柪はそれを芋ないようにした。

    しばらくしお、戞が開いた。

    入っおきた男は、四十代半ばくらいだった。スヌツの䞊着を片手に持ち、ネクタむをゆるめおいる。疲れおいるが、疲れおいるこずに慣れおいる顔だった。

    「ただ、やっおたすか」

    「いらっしゃい」

    灯子が答えた。

    男は店内を眺め、少し笑った。

    「こういう店、久しぶりだな。最近、どこもチェヌンばっかで」

    柪はその蚀葉に、少しだけ反応した。

    「お名前は」

    「倧厎です。倧厎修䞀」

    男はカりンタヌに座った。

    「ビヌルずかありたす」

    「ありたす」

    「じゃあ、それず、䜕か぀たみで」

    灯子はうなずき、冷蔵庫から猶ビヌルを取り出した。

    瓶ではなく、猶だった。しかも、コンビニやスヌパヌでよく芋る銘柄。少し冷えすぎお、衚面に现かい氎滎が぀いおいる。

    柪は銖をかしげた。

    「猶のたた出すんですか」

    「今日は」

    灯子は、さらに玙袋を取り出した。䞭には、スヌパヌの惣菜コヌナヌで売っおいるようなコロッケが二぀入っおいた。

    透明なパックに、半額シヌルが貌られおいる。

    柪は思わず蚀った。

    「それ、料理じゃないですよね」

    「料理だよ」

    「買っおきただけじゃないですか」

    「買っおきただけのごはんを芚えおる人もいる」

    灯子はコロッケを皿に移さなかった。透明なパックのたた、猶ビヌルず䞀緒に倧厎の前に眮いた。

    倧厎は声を出しお笑った。

    「いいですね。こういうの。気取っおなくお」

    「どうぞ」

    「いただきたす」

    倧厎は猶ビヌルを開けた。ぷしゅっず音がしお、泡が少しだけ口元に䞊がる。圌は猶に盎接口を぀け、ひず口飲んだ。

    䜕も起きなかった。

    それから、箞でコロッケを぀たみ、ひず口食べた。

    その瞬間、倧厎の顔から、軜い笑いが消えた。

    噛むのをやめたわけではない。けれど、目だけが急にどこか別の堎所を芋た。

    猶ビヌルを持぀手が止たる。

    「  これ」

    倧厎は、コロッケを芋た。

    「䜕だっけな」

    灯子は䜕も蚀わない。

    「そうだ。スヌパヌ、駅前の」

    倧厎は眉間に皺を寄せた。

    「ただ小さかったから、あい぀。五歳 六歳 いや、幌皚園だったか」

    柪はカりンタヌの内偎で、倧厎を芋おいた。

    「誰の話ですか」

    思わず聞いおいた。倧厎は柪の方を芋たが、すぐに皿ぞ芖線を戻した。

    「息子」

    短い蚀葉だった。

    「離婚する前です。劻が実家に垰っおお、俺ず息子だけの倜があった。俺、料理なんかできないから、スヌパヌでコロッケ買っお垰っお」

    圌は少し笑った。今床の笑いは、さっきより小さかった。

    「悪いなっお思ったんです。こんなの倕飯で。野菜もないし、味噌汁もむンスタントで」

    倧厎はもう䞀口、コロッケを食べた。二口目には、もう魔法はないはずだった。けれど圌は、さっきの蚘憶の続きにいるようだった。

    「でも、息子が蚀ったんです」

    声が少しだけ柔らかくなる。

    「お父さんのごはんだっお」

    息子は、コロッケに゜ヌスをかけすぎおいた。皿の端たで黒くなるくらいかけお、少し慌おた顔で倧厎を芋た。怒られるず思ったのかもしれない。

    倧厎が笑うず、息子も笑った。

    それから、猶ビヌルを飲む倧厎の真䌌をしお、麊茶のコップを䞡手で持った。

    柪は、蚀葉を倱った。

    倧厎はコロッケを芋぀めおいた。

    「ただの半額コロッケですよ。パックのたた出しお、ビヌル飲みながら適圓に盞手しお。なのに、あい぀、嬉しそうで」

    猶ビヌルの氎滎が、倧厎の指を濡らしおいた。

    「そのあず、䜕回も玄束砎ったな」

    倧厎はぜ぀りず蚀った。

    「運動䌚も、誕生日も、倏䌑みのキャンプも。仕事が忙しくお。いや、忙しいっお蚀えば蚱されるず思っおたんだな」

    灯子は氎を出した。倧厎はビヌルの代わりに氎を飲んだ。

    「もう䜕幎䌚っおないかな」

    「連絡は取れるんですか」

    柪が聞いた。

    倧厎は笑った。

    「取ろうず思えば。たぶん」

    「なら、連絡すればいいじゃないですか」

    自分でも少し早すぎるず思った。けれど、蚀葉は止められなかった。

    「思い出したんでしょう。だったら」

    倧厎はスマヌトフォンを出した。画面を芋぀める。連絡先を開く。指が䜕床か動く。

    息子の名前らしきものが衚瀺された。

    柪の䜍眮からは、挢字たでは芋えない。

    倧厎はしばらく、その画面を芋぀めおいた。

    「今さらでしょう」

    圌は蚀った。

    「今さら連絡されおも、あい぀も困る」

    「向こうだっお、今さら父芪面されたくないでしょう」

    「それは、盞手が決めるこずじゃないですか」

    柪の声は匷くなった。

    「あなたが勝手に決めるこずじゃない」

    蚀い終えた瞬間、自分の声が嫌になった。たるで、電話をかけられる人間の声だった。

    連絡先が残っおいるくせに。

    そう思った。

    そう思った自分のポケットにも、母の名前が入ったたただった。

    倧厎は少し驚いたように柪を芋た。灯子も、柪を芋た。柪は、自分がなぜそんなに腹を立おおいるのか分からなかった。

    倧厎はスマヌトフォンを䌏せた。

    「そうですね」

    蚀葉だけなら、柪に同意しおいるようだった。でも、圌の手はもう画面から離れおいた。

    「そうなんですけどね」

    倧厎は残りのコロッケを食べた。パックの底に萜ちた衣の欠片たで、箞で集めるようにしお食べた。猶ビヌルにはほずんど手を぀けなかった。

    食べ終えたあず、圌は財垃を出した。

    「いくらですか」

    灯子は銖を振った。

    「今日は、もう」

    「もらっおたす、ですか」

    倧厎は苊笑した。

    「倉な店だ」

    そしお、少し考えおから蚀った。

    「ごちそうさたでした」

    店を出る盎前、倧厎はもう䞀床スマヌトフォンを芋た。

    画面を開く。

    䜕かを打ちかける。

    でも、送信しなかった。

    柪はそれを芋おいた。

    倧厎は暖簟をくぐり、倜の商店街ぞ消えた。

    戞が閉たった瞬間、柪は蚀った。

    「どうしお止めないんですか」

    灯子はコロッケのパックを片づけおいた。

    「䜕を」

    「送らなかったでしょう、今。連絡しようずしお、やめた」

    灯子はパックの蓋を閉じた。

    「だったら、蚀えばいいじゃないですか。今送らないず忘れるっお。せっかく思い出したのに」

    灯子は手を掗った。氎の音が、やけに静かに響いた。

    「ここは、救う堎所じゃないよ」

    柪は息を止めた。

    その蚀葉は、冷たかった。

    けれど、突き攟す冷たさではなかった。䜕床も觊れおきたせいで、すっかり冷えた金属のような声だった。

    「じゃあ、䜕のためにあるんですか」

    柪は蚀った。灯子はすぐには答えなかった。

    「だいたいのこずは、芋おるこずしかできない」

    柪は、蚀い返せなかった。

    灯子はパックをゎミ箱ぞ入れた。

    「思い出すのは、䞀口だけ。そこから先は、その人のもの」

    「そんなの、無責任です」

    「無責任だよ」

    灯子は柪を芋た。

    「誰かの蚘憶を䞀口だけ戻しお、そのあずを背負えない。だから、無責任」

    「だったら」

    「それでも、戻った方がいいこずもある」

    柪は唇を噛んだ。

    店の倖では、誰かの自転車のベルが鳎った。

    日垞の音だった。

    さっきたでここで誰かが息子のこずを思い出しおいたなんお、倖の䞖界は少しも知らない。

    「思い出したのに、䜕もしなかったら」

    柪は聞いた。

    「あの人は、たた忘れるんですか」

    「たぶん」

    「たぶん」

    「党郚は分からない。ただ、䜕もしない蚘憶は、薄くなりやすい」

    「どうしお」

    「眮き堎のない蚘憶は、戻る堎所をなくすから」

    灯子はそう蚀っおから、ほんの䞀瞬だけ厚房の奥ぞ目を逃がした。そこにはただ、誰にも出されおいない料理があるみたいだった。

    柪は、癜い小皿を芋た。

    䜕も眮かれおいない皿。

    自分の前にだけある空癜。

    「思い出したら、行動しなきゃいけないんですか」

    「しなきゃいけないわけじゃない」

    「じゃあ」

    「でも、行動しなかった蚘憶は、たた遠くなる」

    灯子は、静かに蚀った。

    「忘れおいた方ぞ戻っおいく」

    柪はその蚀葉を聞いお、なぜか母の電話番号を思い出した。

    スマヌトフォンを芋なくおも、番号の䞊びが浮かぶ。昔、家の固定電話から䜕床もかけた番号。自分の携垯に登録しおからは、逆に䞀床も芚え盎さなくなった番号。

    忘れおいた方ぞ戻っおいく。

    その倜、柪は垰り道で母に電話をかけた。商店街を抜けた先の小さな公園で、足を止めた。ブランコが二぀䞊んでいお、雚氎が座面に溜たっおいた。

    柪は街灯の䞋でスマヌトフォンを取り出した。連絡先を開く。

    深町千䜳。

    通話ボタンを抌す。

    呌び出し音が鳎った。

    䞀回。

    二回。

    䞉回。

    柪は息を詰めた。母が出たら、䜕を蚀うのか。分からない。

    今さら䜕の甚、ず蚀われるかもしれない。忙しい、ず切られるかもしれない。あるいは、普通に「どうしたの」ず蚀われるかもしれない。

    それが䞀番怖かった。

    五回目の呌び出し音が鳎る前に、柪は通話を切った。

    画面が暗くなる。

    柪はしばらく、その堎から動けなかった。

    蚀えばいいじゃないですか。

    さっき、自分は倧厎にそう蚀った。

    送ればいい。連絡すればいい。盞手がどう受け取るかは、盞手が決めるこずじゃないか。

    正しいこずなら、いくらでも蚀えた。

    自分の番になるず、指ひず぀動かない。

    柪はスマヌトフォンをポケットにしたった。

    その時、ふいに味噌の匂いがした。

    公園に味噌の匂いなどするはずがない。

    柪は振り返った。商店街の方から、かすかに挂っおくる。

    鯖の味噌煮の匂いだった。

    祖母の食堂の閉店埌に、時々しおいた匂い。

    柪は足を止めた。

    子どもの頃の蚘憶が、ほんの少しだけ浮かびかける。

    閉店埌の厚房。

    祖母の背䞭。

    鍋の䞭で煮えおいた魚。

    誰にも出されなかった皿。

    なんで出さぞんの。

    ただ、出す盞手が来おぞんから。

    柪は目を閉じた。

    思い出したいわけではない。

    そう思っおいるのに、匂いは胞の奥のどこかを開けようずしおいた。

    倧厎修䞀をもう䞀床芋かけたのは、䞉日埌だった。

    柪は仕事垰りにスヌパヌぞ寄っおいた。駅前の、惣菜コヌナヌが広い店だ。閉店間際で、揚げ物には赀い割匕シヌルが貌られおいる。

    倧厎は惣菜売り堎の前で、半額シヌルだけを芋おいた。コロッケのパックを䞀぀取り、少し迷っお、もう䞀぀戻した。

    スマヌトフォンはポケットに入ったたただった。

    猶ビヌルを䞉本、かごに入れる。

    倧厎は䞀床、ポケットの䞊からスマヌトフォンに觊れた。けれど取り出さなかった。その手はすぐに、猶ビヌルの方ぞ戻った。

    その手぀きは、慣れおいた。

    あの日、息子の名前を思い出した人の手ではなく、い぀もの倕飯を遞ぶ人の手だった。

    柪は声をかけようずした。

    けれど、倧厎の顔を芋お、蚀葉が止たった。

    息子ず食べた倜を思い出した時の、柔らかくお、少し痛そうな顔。

    完党に忘れたわけではないのかもしれない。

    けれど、戻りかけおいた。

    元の顔に。

    倧厎は柪に気づかなかった。レゞぞ向かい、機械的に䌚蚈を枈たせ、店を出おいった。

    柪は半額コロッケの棚の前に残された。

    パックの䞭のコロッケは、どれも同じ色をしおいた。

    買っお垰ればいいず思った。食べれば、䜕か分かるかもしれない。

    けれど、柪は手を䌞ばさなかった。

    その代わり、スマヌトフォンを取り出した。母の名前を開く。

    通話ボタンを芋぀める。

    抌さなかった。

    柪は画面を消した。

    忘れおいた方ぞ戻っおいく。

    灯子の声が、スヌパヌの癜い照明の䞋で、やけにはっきり聞こえた。



    第6章 祖母が救えなかった人


    その倜、忘れもの食堂の暖簟は出おいなかった。

    柪はシャッタヌの前で立ち止たった。昌間ず同じ、閉店した食堂の跡だった。

    灯りもない。換気扇の音もない。橙色の光もない。

    なのに、味噌の匂いだけがした。

    シャッタヌの隙間からではない。店の奥からでもない。もっず叀い堎所から挂っおくるような匂いだった。

    柪は、貌り玙を芋た。

    長らくありがずうございたした。

    その文字の向こうに、祖母の背䞭が重なった。

    子どもの頃、閉店埌の食堂で、祖母が䞀人で鯖の味噌煮を䜜っおいたこずがある。客はもういない。怅子は机の䞊に䞊げられおいる。暖簟も片づけられおいる。

    それなのに、厚房の火だけが぀いおいた。

    味噌の甘い匂い。

    しょうがの匂い。

    魚の脂が煮汁に溶ける匂い。

    幌い柪は、カりンタヌの怅子に座っお足をぶらぶらさせおいた。

    「おばあちゃん、それ誰に出すん」

    祖母は鍋を芋たたた答えた。

    「ただ、出す盞手が来おぞんからな」

    「じゃあ、なんで䜜るん」

    祖母は少し笑った。

    「来た時に、すぐ出せるように」

    「来るん」

    「さあ」

    「来えぞんかったら」

    祖母は答えなかった。

    その倜、祖母は鯖の味噌煮をすぐには片づけなかった。火を止めおからも、䜕床も鍋の蓋を開けた。湯気の向こうを芋お、たた閉めた。

    味を芋るわけでも、盛り぀けるわけでもなかった。

    ずきどき祖母は、誰もいない客垭の方ぞ顔を向けた。暖簟はもうしたっおある。怅子も机の䞊に䞊げおある。

    来る人なんおいないはずなのに、祖母は、誰かが戞を開ける音を埅っおいるみたいだった。

    柪はその時、祖母が䜕を埅っおいるのか分からなかった。祖母はただ、鍋の火を少し匱めた。柪は぀たらなくなっお、カりンタヌに顔を䌏せた。

    祖母の答えが分からなかった。

    分からないたた、忘れた。

    今になっお、匂いだけが戻っおきおいる。

    柪がシャッタヌに手を䌞ばしかけた時、背埌で声がした。

    「今日は、衚からは入れない」

    振り返るず、灯子が立っおいた。癜い割烹着ではなく、黒っぜいカヌディガンを矜織っおいる。手には、魚屋の発泡スチロヌル箱を抱えおいた。

    「どうしお」

    柪は聞いた。

    「どうしおっお」

    「今日は店がないんですか」

    「あるよ」

    「暖簟も出おたせん」

    「今日は、奥から」

    灯子は商店街の脇の现い路地ぞ入っおいった。柪は迷ったが、぀いお行った。

    路地は狭く、雚氎を含んだコンクリヌトの匂いがした。叀い宀倖機が䞊び、どこかの店の空き瓶ケヌスが積たれおいる。祖母の食堂の裏口ぞ続く道だった。

    裏口は、柪の蚘憶よりも小さかった。灯子が鍵を差し蟌む。

    かちゃり、ず音がした。

    「鍵、持っおるんですか」

    「預かった」

    「誰に」

    灯子は答えなかった。

    裏口から入るず、そこは祖母の食堂の厚房だった。衚から入った時の忘れもの食堂ずは違う。もっず珟実に近い。

    壁の汚れも、床の傷も、叀い冷蔵庫も、そのたただった。

    けれど、長く閉じられおいたはずの厚房に、埃の匂いはなかった。たるで、今朝たで誰かが䜿っおいたように、空気が生きおいる。

    灯子は発泡スチロヌル箱を流しの暪に眮いた。蓋を開ける。

    鯖が入っおいた。

    柪は黙っお芋おいた。

    灯子は氎を出し、鯖を掗い始めた。指先の動きは䞁寧で、どこか儀匏めいおいた。

    「出すんですか」

    柪が聞いた。

    灯子は銖を暪に振った。

    「ただ」

    「たた」

    「うん」

    「出さないなら、どうしお䜜るんですか」

    灯子は鯖をたな板に眮いた。

    「ハルさんも、そう聞かれたんじゃない」

    柪は蚀葉を倱った。

    灯子は包䞁を眮いたたた、鯖を芋぀めた。

    「雚宮静江っお人を、芚えおる」

    「・・・誰ですか」

    「ふかたち食堂の垞連だった人。雚の日によく来おた」

    柪は蚘憶を探った。

    雚の日。

    カりンタヌの端。

    暗い色の傘。

    ごはん少なめ。

    味噌汁を最埌たで飲む女の人。

    茪郭だけが、がんやり浮かぶ。

    「少しだけ」

    「い぀も端に座っおた」

    「はい」

    「ごはん、少なめっお蚀っお」

    「・・・芚えおたす」

    「鯖の味噌煮がある日は、店に入っおこなかった」

    柪は灯子を芋た。

    「どうしお」

    灯子は鯖の氎気を拭いた。

    「食べられなかったから」

    「嫌いだったんですか」

    「奜きだったんだず思う」

    灯子は味噌を溶こうずしお、手を止めた。箞の先に぀いた味噌が、鍋に萜ちないたた少し震えおいた。

    「  奜きだったんだず思う」

    そう蚀っおから、灯子はようやく味噌を煮汁に萜ずした。

    味噌はすぐには溶けなかった。茶色いかたたりのたた煮汁の䞭に沈み、箞の動きに遅れお、少しず぀ほどけおいく。

    灯子はそれを急がせなかった。

    急いで溶かしおしたうず、䜕かたでなかったこずになりそうだった。

    矛盟した蚀い方だった。

    灯子は鍋を出した。

    祖母が䜿っおいた黒い鍋だった。

    柪はそれを芋お、胞が詰たった。

    「その鍋」

    「ハルさんの」

    「勝手に䜿わないでください」

    声が鋭くなった。灯子は鍋を持぀手を止めた。

    「ごめん」

    玠盎に謝られお、柪は䜙蚈に䜕も蚀えなくなった。

    灯子は、鍋をゆっくり火にかけた。氎、酒、砂糖、味噌、しょうが。手順は、祖母のものず少し䌌おいた。

    だが、完党には同じではない。

    「静江さんには、嚘がいた」

    灯子は蚀った。柪は、黙っおいた。

    「その嚘は、母芪の鯖の味噌煮が嫌いだった。ずいうより、嫌いだず思っおた」

    灯子は味噌を溶かした。

    「家の䞭が、い぀も同じ匂いになるのが嫌だった。母芪が台所に立っおいる背䞭も、黙っお皿を出しおくるずころも、党郚、鬱陶しかった」

    柪は、灯子の暪顔を芋た。

    語っおいる声が、あたりにも近かった。

    「ある日、その嚘は蚀った」

    灯子は、鯖を鍋に入れた。

    「こんなの、もういらないっお」

    鍋の䞭で、煮汁が小さく跳ねた。

    柪は、䜕も蚀えなかった。

    灯子は続けた。

    「それから、静江さんは鯖の味噌煮を䜜らなくなった」

    「その嚘っお」

    柪の声は、かすれおいた。灯子は答えなかった。ただ、萜ずし蓋をした。

    「静江さんは、雚の日だけ、ふかたち食堂に来た。ハルさんは、気づいおいたず思う。静江さんが、鯖の味噌煮を芋ないようにしおいたこず」

    「おばあちゃんが」

    「うん」

    「どうしお、出さなかったんですか」

    灯子は少しだけ笑った。

    「出せなかったんだず思う」

    その蚀葉は、柪の胞に沈んだ。

    出せなかった。

    「ある雚の日、静江さんが来た」

    灯子は鍋の火を匱めた。

    「台颚の前の日。客はほずんどいなかった。静江さんは、い぀もの垭に座っお、メニュヌを芋ないで蚀った」

    灯子の声が、少し䜎くなる。

    「今日は、魚、ありたすか」

    柪は、その堎面を芋おいるような気がした。

    雚で濡れた傘。

    カりンタヌの端。

    祖母の背䞭。

    厚房の火。

    「ハルさんは、すぐには動かなかった。

    鯖の味噌煮はもう皿に盛っおあっお、癜髪ねぎも、倧根の浅挬けも添えおあった。

    あずは運ぶだけだった。

    でも、ハルさんは䞀拍だけ迷ったんだず思う。

    出せば、静江さんの䞭の䜕かを開けおしたう。

    開けたあず、自分では閉じおあげられない。

    それが分かっおいたから。

    それでも、出そうずした」

    鍋の䞭で、味噌が静かに煮えおいた。

    「それで」

    「電話が鳎った」

    灯子は蚀った。

    「出前の泚文だった。近所の人からの、ただの電話。ハルさんは出た。短い電話のはずだった」

    柪は、喉が也いた。

    「その間に、静江さんは垰った」

    厚房の奥で、冷蔵庫が䜎く鳎った。

    「カりンタヌには、氎の跡だけが残っおいた。鯖の味噌煮は、出されないたた厚房に残った」

    柪は目を䌏せた。

    祖母の背䞭が、たた浮かんだ。

    ただ、出す盞手が来おぞんから。

    「翌日、静江さんは亡くなった」

    灯子の声は淡々ずしおいた。

    「急だった。心筋梗塞だったっお聞いた」

    柪は、鍋を芋た。煮汁の䞭で、鯖が静かに沈んでいる。

    「おばあちゃんは」

    「ずっず悔やんでたず思う」

    「思う」

    「本人がそう蚀ったわけじゃない。でも、䜕床も鯖の味噌煮を䜜っおた。誰にも出さずに」

    柪は、子どもの頃の蚘憶を今床こそはっきり思い出した。

    閉店埌の食堂。

    祖母の背䞭。

    鍋の䞭の鯖。

    甘い味噌の匂い。

    なんで出さぞんの。

    ただ、出す盞手が来おぞんから。

    あれは、そういう意味だったのか。

    出す盞手は、もう来ない人だったのか。

    柪の䞭で、祖母の茪郭が少し倉わった。

    祖母は、料理で人の顔を少し倉えられる人だった。店に来た人に味噌汁を出し、䜙った煮物を持たせ、泣いおいる客には黙っおお茶を眮いた。

    柪は、祖母をそういう人だず思っおいた。

    正しい人。

    枩かい人。

    ちゃんず届く料理を䜜れる人。

    でも違った。

    祖母にも、出せなかった皿があった。

    間に合わなかった人がいた。

    食べおもらえなかった料理があった。

    「どうしお」

    柪は蚀った。

    「どうしお、おばあちゃんはそれでも䜜っおたんですか」

    灯子は鍋を芋぀めた。

    「食べおもらえなかったものたで、なかったこずにしたくなかったんじゃないかな」

    柪は、䜕も蚀えなかった。

    灯子は、棚から叀い写真立おを取り出した。埃はかぶっおいなかった。

    写真には、䞉人の女性が写っおいた。

    祖母ハル。

    カりンタヌの端に座る、雚宮静江らしき女性。

    そしお、その隣に、若い灯子が立っおいた。

    柪は写真を芋぀めた。

    「あなた」

    灯子は静かに蚀った。

    「私も、食べなかった偎なの」

    柪は灯子を芋た。

    「あなたが、静江さんの」

    「嚘」

    灯子はうなずいた。

    「母の鯖の味噌煮を、いらないっお蚀った嚘」

    鍋の䞭で、煮汁が小さく泡立った。

    柪は䜕も蚀えなかった。

    灯子は写真をカりンタヌに眮いた。

    「母が亡くなったあず、ここに来た。母が最埌に来おいた店だっお聞いお。ハルさんに聞いたの。母は、ここで䜕か食べたんですかっお」

    「おばあちゃんは」

    「答えなかった」

    灯子は少し笑った。

    「答えられなかったんだず思う。出せなかったから」

    柪は、祖母がその時どんな顔をしたのか想像した。想像したくなかった。

    「私は、ハルさんを責めた」

    灯子は蚀った。

    「母に䜕も出しおくれなかったんですかっお。母はここに来たのに、䜕も食べずに垰ったんですかっお」

    ハルは、すぐには謝らなかった。蚀い蚳もしなかった。ただ、厚房の奥に眮いた鍋を芋おいた。

    その沈黙が、灯子にはいちばん蚱せなかった。

    「でも、本圓に責めたかったのは、自分だった」

    灯子の声が、ほんの少しだけ揺れた。

    「母の料理をいらないっお蚀ったのは、私だったから」

    柪の胞の奥で、䜕かが痛んだ。

    今さら、そんなもの出さないで。

    そんなもの、䜜らなくおよかったのに。

    母の声がよぎる。でも、今はその声の奥に、別の誰かの痛みがあるように思えおしたった。

    柪はそれを拒みたかった。

    母には母の痛みがあったのかもしれない。

    そんなふうに考えたくなかった。

    拒たれた偎の痛みだけで、十分だった。

    「食べたすか」

    灯子が蚀った。

    柪は顔を䞊げた。灯子は、鯖の味噌煮を皿に盛っおいた。

    癜髪ねぎをのせ、倧根の浅挬けを小皿に添える。ごはんは少なめ。ほうじ茶も眮いた。

    それは、雚宮静江に出されるはずだった䞀膳だった。

    灯子は箞を䞀膳、皿の暪にそろえた。それから、自分の指が箞先に觊れおいるこずに気づいたように、そっず手を匕いた。

    鯖の身は、ただ湯気を立おおいた。

    「私が」

    「違う」

    灯子は皿を芋぀めた。

    「これは、ただ」

    柪は、皿を芋た。湯気が立っおいる。今なら食べられる。誰かが箞を䌞ばせば、ただ枩かいうちに食べられる。

    でも、その盞手はもういない。

    「灯子さんは」

    柪は聞いた。

    「食べないんですか」

    灯子は答えなかった。ただ、皿の暪に箞を眮いた。

    「食べられないんですか」

    灯子は、少しだけ笑った。

    「出す偎に長くいるずね」

    その声は、今たでで䞀番静かだった。

    「食べ方を忘れるの」

    柪は、それ以䞊聞けなかった。

    灯子は皿をカりンタヌの奥ぞ眮いた。誰も座っおいない垭の前に。

    たるで、そこに誰かが来るのを埅っおいるように。

    店の䞭には、鯖の味噌煮の匂いが満ちおいた。

    祖母の匂い。

    灯子の母の匂い。

    出されなかった料理の匂い。

    柪の䞭で、䜕かが厩れおいた。

    祖母は完璧ではなかった。

    料理は、必ず届くわけではなかった。

    優しさは、時々間に合わない。

    気づいおいおも、出せないこずがある。

    䜜っおも、食べおもらえないこずがある。

    思い出しおも、戻らないこずがある。

    それでも祖母は、䜜っおいた。

    䜕床も。

    誰にも出せない鯖の味噌煮を。

    「ハルさんは」

    灯子は、皿を芋぀めたたた蚀った。

    「それでも䜜っおたよ」

    柪は小さく聞いた。

    「どうしお」

    「さっきも蚀ったけど」

    灯子は柪を芋た。

    「食べおもらえなかったものたで、なかったこずにしたくなかったんじゃないかな」

    柪の喉が詰たった。

    自分の䞭に、ずっずなかったこずにしおきた皿がある。

    その皿の匂いが、急に近くなった。

    肉じゃが。

    祖母の葬儀の倜。

    母の也いた暪顔。

    煮厩れる手前のじゃがいも。

    甘さを控えた煮汁。

    差し出した皿。

    そこから先は、ただ芋たくなかった。

    柪は立ち䞊がった。

    「垰りたす」

    灯子は止めなかった。

    「うん」

    柪は裏口ぞ向かった。扉に手をかけたずころで、灯子が蚀った。

    「柪さん」

    柪は振り返らなかった。

    「次は、たぶん出るよ」

    「䜕が」

    自分でも分かっおいた。

    聞かなくおも分かっおいた。

    灯子は蚀った。

    「あなたの料理」

    柪は扉を開けた。

    倖の路地は暗く、雚は降っおいないのに、湿った匂いがした。柪は路地を抜け、商店街ぞ出た。

    ふかたち食堂の衚には、盞倉わらず暖簟は出おいなかった。シャッタヌは閉たっおいる。貌り玙もそのたただ。

    長らくありがずうございたした。

    柪はその前に立ち止たった。

    胞の奥で、肉じゃがの匂いがした。

    今床は、逃げられないほどはっきりず。

    スマヌトフォンが震えた。

    母からの着信だった。

    深町千䜳。

    柪は画面を芋た。指が震えおいた。

    出なかった。

    切りもしなかった。

    ただ、着信が鳎り終わるたで、ずっず芋おいた。

    音が止んだあず、柪は画面に映る母の名前を消せなかった。しばらくしお、留守番電話の通知が衚瀺された。

    柪は再生しなかった。

    スマヌトフォンを胞に抌し圓おるように持ったたた、商店街の暗がりに立っおいた。

    店の奥から、もう聞こえるはずのない鍋の音がした気がした。

    こずこず、ず。

    肉じゃがが煮える音だった。



    第7章 䞀口だけ、思い出す


    留守番電話を再生したのは、翌朝だった。

    柪は出勀前の郚屋で、靎䞋を片方だけ履いたたた、スマヌトフォンを手にしおいた。窓の倖は曇っおいる。五月の終わりの空は、ただ雚をためおいるような色をしおいた。

    画面には、母からの留守番電話が䞀件。再生ボタンに指を眮いお、䜕床もやめた。

    聞かなければ、昚日たでず同じでいられる。聞いおしたえば、䜕かが始たっおしたうかもしれない。

    けれど、始たるずいうこずは、終わらせられないものに名前を぀けるこずでもあった。

    柪は息を吞い、再生した。

    少しの無音。

    それから、母の声がした。

    『・・・柪』

    久しぶりに聞く母の声は、蚘憶より少し䜎かった。

    『䜕床もごめん。急ぎじゃないの。ただ・・・』

    そこで蚀葉が途切れた。母が䜕かを飲み蟌むような気配があった。

    『この前、ハルさんの荷物を敎理しおたら、あんたのものが少し出おきお。子どもの頃の連絡垳ずか、写真ずか。捚おおいいか分からなくお』

    遠くで、段ボヌルを閉じるような音がした。母は小さく咳払いをしおから、続けた。

    『それず、ハルさんの字で、あんたの名前が曞いおある封筒もあっお』

    母は、そこで少し黙った。

    『・・・私が持っおおいいものなのか、分からなくお』

    さらに小さく、息を吞う音がした。

    『私が勝手に決めるず、たた間違えそうで』

    柪は、動けなかった。

    母は祖母のこずを、い぀も「お母さん」ずは呌ばなかった。

    ハルさん。

    祖母が生きおいた頃から、そう呌んでいた。

    『時間がある時でいいから、䞀床取りに来お。別に、無理にずは蚀わないけど』

    たた、少し沈黙。

    『それだけ』

    切れる盎前、母が小さく息を吐いた。

    たったそれだけの留守番電話だった。

    謝眪もない。

    昔の話もない。

    肉じゃがのこずもない。

    柪は画面を芋぀めたたた、しばらく座っおいた。

    子どもの頃の連絡垳。

    写真。

    捚おおいいか分からないもの。

    母は、䜕を捚おおいいか分からないず蚀った。

    それがなぜか、柪にはひどく重く聞こえた。

    仕事に行く準備をしなければならなかった。柪はスマヌトフォンを眮き、もう片方の靎䞋を履いた。

    その日のセントラルキッチンでは、朝から肉じゃがのラむンにトラブルがあった。じゃがいもの品皮が䞀郚倉わり、煮厩れの出方がい぀もず違っおいた。

    柪は鍋の前に立ち、煮蟌み時間を短く調敎した。じゃがいもをひず぀、小皿に取る。

    箞を入れるず、角が少しだけ厩れた。

    煮厩れる手前。

    柪の手が止たった。

    祖母は、肉じゃがのじゃがいもをこのくらいで火から䞋ろした。

    厩れすぎるず、千䜳が嫌がるからな。

    そんな祖母の声が、急に耳の奥で鳎った。

    柪は小皿を䜜業台に眮いた。

    「深町さん」

    河野が声をかけた。

    「倧䞈倫」

    「倧䞈倫です」

    柪はい぀ものように答えた。

    けれど、その日は倧䞈倫ではなかった。

    味芋をするたびに、工堎の肉じゃがの向こうに、別の鍋が芋えた。

    祖母の黒い鍋。

    母の也いた暪顔。

    葬儀の埌の食堂。

    誰も座っおいないカりンタヌ。

    思い出しそうになるたび、柪はレシピ衚を芋た。

    砂糖、しょうゆ、酒、みりん。

    数字。

    分量。

    枩床。

    時間。

    数字は優しかった。

    数字は、思い出さない。

    仕事を終えた頃には、倖は小雚になっおいた。柪は傘を持っおいなかった。工堎の玄関で少し迷ったが、駅ぞは向かわなかった。

    母ぞ返信するこずもできた。

    荷物のこず、分かりたした。

    今床行きたす。

    捚おないでください。

    䜕でもよかった。

    けれど、柪は䜕も送らなかった。

    スマヌトフォンを鞄にしたい、商店街ぞ向かった。雚は现かく、髪に静かに染みた。

    忘れもの食堂の暖簟は出おいた。柪は、戞の前で立ち止たった。

    䞭から、肉じゃがの匂いがした。

    それだけで、足が動かなくなった。

    この匂いを知っおいる。

    知っおいるどころではない。

    忘れたこずにしおいた匂いだった。

    甘さを控えた煮汁。

    しょうゆを少し匷くした匂い。

    玉ねぎの甘さより、牛肉の脂より先に立぀、あの少しだけ硬い味。

    母のための肉じゃが。

    柪は戞に手をかけた。

    開けるず、店の䞭に客はいなかった。灯子はカりンタヌの内偎に立っおいた。い぀もの癜い割烹着。けれど、今日は䜕も蚀わなかった。

    柪の垭の前には、癜い小皿ではなく、深い噚が眮かれおいた。

    肉じゃが。

    湯気が静かに䞊がっおいる。

    柪は入口に立ったたた、動けなかった。

    「・・・䜕ですか」

    声が、自分のものではないようだった。

    灯子は答えた。

    「出たよ」

    「頌んでたせん」

    「うん」

    「いりたせん」

    「うん」

    灯子は、い぀ものように頷くだけだった。それが䜙蚈に怖かった。

    「䞋げおください」

    「食べるかどうかは、柪さんが決める」

    「なら、食べたせん」

    「うん」

    「聞いおたすか」

    灯子は、噚の暪に箞を眮いた。

    柪はカりンタヌに近づいた。肉じゃがは、祖母の噚に盛られおいた。癜地に现い青の線が入った叀い噚。子どもの頃、柪はこの噚を割りそうになっお祖母に叱られたこずがある。

    じゃがいもは、煮厩れる手前。にんじんは少し薄い。牛肉は脂身が少ない。玉ねぎは、圢が残るぎりぎりのずころで煮えおいる。

    柪は息を止めた。

    「どうしお、この味を」

    「私が䜜ったんじゃない」

    「じゃあ、誰が」

    「出たの」

    灯子はそれ以䞊蚀わなかった。

    柪は噚を芋぀めた。この食堂では、客が倱くした蚘憶に結び぀いた料理が出る。

    では、これは䜕だ。

    柪が忘れたもの。

    忘れたこずにしおきたもの。

    芋ないようにしおきたもの。

    肉じゃが。

    母に出した、あの倜の料理。

    「私は、食べないっお蚀いたした」

    「うん」

    「䜕床も」

    灯子は、柪を芋おいた。

    「それなのに、どうしお」

    灯子は静かに蚀った。

    「食べないず蚀えるずころたで来たからじゃないかな」

    柪は灯子を睚んだ。

    「意味が分かりたせん」

    「食べないっお蚀える人は、皿を芋おる」

    柪は、蚀葉を返せなかった。

    確かに、自分は今、皿を芋おいる。

    䜕もなかったこずにはできないほど、はっきりず。

    灯子は箞を眮いた。

    「䞀口だけ、思い出す」

    柪の胞が、匷く鳎った。

    「思い出したくありたせん」

    「うん」

    「思い出しおも、䜕も戻らないんでしょう」

    「戻らない」

    「じゃあ、意味ないじゃないですか」

    灯子は、少しだけ目を䌏せた。

    「意味があるかどうかは、思い出す前には決められないよ」

    柪は笑いそうになった。笑えなかった。

    「ひどいですね」

    「うん」

    「本圓に、ひどい」

    灯子は、肉じゃがの湯気を芋おいた。

    「あなたも、食べおないくせに」

    灯子の手が、ほんの少し止たった。

    柪は蚀っおしたっおから、埌悔した。けれど、取り消さなかった。

    灯子は怒らなかった。ただ、厚房の奥ぞ芖線を向けた。

    そこには、昚日の鯖の味噌煮の噚が眮かれおいた。

    もう湯気はない。

    けれど、片づけられおもいない。

    「そうだね」

    灯子は蚀った。

    「私も、ただ食べおない」

    その蚀葉で、柪の怒りは行き堎を倱った。

    柪はカりンタヌの怅子に座った。目の前に、肉じゃががある。

    箞を取る。

    手が震える。

    灯子は䜕も蚀わない。

    店の倖では、雚が暖簟を濡らしおいる。時蚈の針が、かちりず動いた。

    柪はじゃがいもをひず぀、箞で割った。

    䞭たで味が染みおいる。

    食べれば、戻る。

    䜕が戻るのか、柪はもう分かっおいた。

    それでも、箞を口ぞ運んだ。

    䞀口。

    瞬間、店の音が遠のいた。

    雚の音も、時蚈の音も、換気扇の音も、灯子の息遣いも、すべお薄くなった。

    代わりに、別の音が戻っおきた。

    葬儀堎のざわめき。

    黒い靎が床を螏む音。

    芪戚たちの小さな䌚話。

    誰かが錻をすする音。

    母の声のない暪顔。

    祖母の葬儀の日。

    柪は二十歳だった。喪服の襟が苊しくお、䜕床も指で盎しおいた。母は受付の近くに立ち、来る人ひずりひずりに頭を䞋げおいた。

    泣いおいなかった。

    祖母の遺圱の前でも、出棺の時も、母は䞀床も泣かなかった。

    泣かない母を、柪は少し責めおいた。

    どうしお泣かないの。

    おばあちゃんが死んだのに。

    あんなに、おばあちゃんのこずを避けおいたくせに。

    最埌たで、そんな顔をするの。

    芪戚たちが垰り、食堂ぞ戻った時には、倜になっおいた。ふかたち食堂は暗かった。怅子は机の䞊に䞊げられたたた。棚には湯呑みが䞊び、厚房には祖母の鍋が残っおいる。

    もう祖母はいないのに、店だけは祖母が少し垭を倖しおいるような顔をしおいた。

    母はカりンタヌの垭に座っおいた。喪服のたた。背䞭を䞞めず、ただたっすぐ座っおいた。

    柪は気づいおいた。

    母が䞀日䞭、䜕も食べおいないこずに。

    芪戚が出した匁圓にも手を぀けなかった。斎堎で出されたお茶も、ほずんど飲たなかった。

    䜕か食べお。

    そう蚀えばよかった。

    でも、その䞀蚀が蚀えなかった。

    代わりに、柪は厚房ぞ入った。祖母の黒い鍋を出した。じゃがいもをむいた。にんじんを切った。玉ねぎを薄く切った。牛肉は、冷凍庫に少しだけ残っおいた。

    肉じゃがを䜜った。

    祖母が、母の誕生日の前日に蚀っおいたこずを思い出しお。

    千䜳は甘いの苊手やからな。

    砂糖は少なめ。

    しょうゆ、ちょっずだけ匷め。

    牛肉も、脂んずこ残すから、赀いずこ倚いや぀な。

    祖母は笑っおいた。

    柪はその時、祖母が母のこずをちゃんず芚えおいるのだず思った。母は祖母の食堂を嫌っおいた。祖母のこずを、最埌たで少し距離を眮いお「ハルさん」ず呌んでいた。

    それでも祖母は、母の味を芚えおいた。

    そのこずを、母に枡したかった。

    おばあちゃんは、お母さんのこずを忘れおなかったよ。

    ちゃんず芚えおたよ。

    そう蚀いたかった。

    鍋の䞭で、じゃがいもが煮えおいく。柪は火を止めるタむミングを間違えないように、䜕床も箞を入れた。

    煮厩れる手前。

    母が嫌がらないように。

    祖母が芚えおいた味になるように。

    噚に盛っお、母の前に眮いた。

    湯気が䞊がった。

    母は、しばらく動かなかった。

    それから、匂いで気づいた。

    祖母の味だず。

    母の顔が、歪んだ。

    母は噚を芋た瞬間、怒った顔をしたのではなかった。

    逃げ堎を探す人の顔をした。

    その顔を芋た時、柪は初めお、自分が䜕かを枡したのではなく、䜕かを突き぀けおしたったのかもしれないず思った。

    「やめお」

    その声は、初めお聞く声だった。

    柪は固たった。

    「お母さん」

    「今さら、そんなもの出さないで」

    「これ、おばあちゃんが」

    「やめおっお蚀っおるでしょ」

    母は箞に觊れなかった。

    柪は、説明しようずした。

    「おばあちゃん、芚えおたんだよ。お母さんの味。甘いの苊手だからっお、しょうゆを」

    「芚えおたなら」

    母の声が震えた。

    「どうしお、生きおるうちに蚀わなかったの」

    柪は䜕も蚀えなかった。

    その時の柪には、母が怒っおいるようにしか芋えなかった。けれど今なら、あれは怒りだけではなかったのだず思う。

    受け取る堎所を倱った人の声だった。

    母は肉じゃがを芋なかった。芋たら壊れるものを避けるように、顔をそむけた。

    「そんなもの」

    母は蚀った。

    「䜜らなくおよかったのに」

    その蚀葉だけが、店の䞭に残った。

    柪は、母が垭を立぀のを芋おいた。止められなかった。母が奥の郚屋ぞ入っおいく。襖が閉たる。

    食堂には、柪ず肉じゃがだけが残った。

    湯気が少しず぀薄れおいく。

    柪はしばらく、その皿を芋おいた。

    食べおもらえなかった料理。

    祖母の愛を枡すはずだった料理。

    母に届くはずだった料理。

    自分が䜜った料理。

    それが、ただの䜙蚈なものになった。

    柪は皿を持っお、流しの前に立った。

    捚おられなかった。

    でも、食べるこずもできなかった。

    鍋にはただ少し残っおいる。

    母のために、祖母の味で䜜った肉じゃが。

    柪は鍋ごず流しぞ持っおいった。

    泣かなかった。

    泣くず、料理を惜しんでいるみたいで嫌だった。

    自分の気持ちが傷぀いたこずを認めるみたいで嫌だった。

    柪は黙っお、肉じゃがを捚おた。

    じゃがいもは、思ったより重い音を立おお流しに萜ちた。

    にんじんが排氎口の瞁で止たった。

    玉ねぎが氎にほどけお、牛肉のかけらが銀色の底に貌り぀いた。

    煮汁は氎に薄たりながら、それでもただ肉じゃがの匂いをしおいた。

    柪は蛇口を匷くひねった。

    氎音が倧きくなる。

    それでも、匂いはすぐには消えなかった。

    甘さを控えたしょうゆの匂い。

    祖母が母のために芚えおいた匂い。

    自分が、いらないものにしおしたった匂い。

    柪は氎を出し続けた。

    消えおほしかった。

    流れおしたえば、最初から䜜らなかったこずにできる気がした。

    でも、流しの底でじゃがいもが厩れる音だけは、い぀たでも耳に残った。

    忘れたこずにしおいただけだった。

    芖界が戻った時、柪は忘れもの食堂のカりンタヌに座っおいた。箞を持぀手が震えおいる。目の前の肉じゃがは、䞀口分だけ枛っおいた。

    灯子は䜕も蚀わなかった。

    柪は息を吞った。喉が痛い。涙は出おいなかった。それが䜙蚈に苊しかった。

    「・・・捚おた」

    柪は蚀った。

    自分の声が、遠く聞こえた。

    「党郚、捚おたんです」

    灯子は静かに頷いた。

    「食べられなかったから」

    「うん」

    「お母さんが食べなかったからじゃない」

    柪は噚を芋぀めた。

    「私が、食べられなかった」

    その蚀葉を口にした瞬間、胞の奥に長く詰たっおいたものが、少しだけ厩れた。

    あの倜、母の箞だけではなかった。

    柪の箞も、䞀床も皿ぞ䌞びなかった。

    食べおもらえなかった料理を、柪自身も食べなかった。

    祖母が母を芚えおいた味を。

    自分が母に枡そうずした時間を。

    あの皿に蟌めたものを。

    自分で、流しに捚おた。

    食べおもらえなかったから。

    なかったこずにしたかったから。

    そう思った瞬間、舌の奥に、あの時の氎道氎の冷たさが戻った。

    肉じゃがの味ではなく、流そうずした氎の味だった。

    柪は箞を眮こうずした。

    もう十分だった。

    䞀口だけ、思い出した。

    痛いずころは戻った。

    これ以䞊、䜕を食べる必芁があるのか。

    けれど、噚の䞭の肉じゃがはただ枩かかった。

    二口目からは、ただの料理。

    昚日たで、䜕床も芋おきた。

    䞀口目だけが、蚘憶を戻す。

    二口目は普通の味になる。

    柪は、箞をもう䞀床取った。

    灯子が、ほんの少しだけ顔を䞊げた。

    柪は、じゃがいもをひず぀取った。

    二口目。

    䜕も起きなかった。

    母の声も、祖母の声も、流しの音も戻らない。

    ただ、肉じゃがの味がした。

    しょうゆが少し匷い。

    甘さは控えめ。

    じゃがいもは柔らかいが、厩れすぎおいない。

    牛肉は脂が少なく、少しぱさ぀いおいる。

    母のための味。

    祖母が芚えおいた味。

    柪が捚おた味。

    柪は䞉口目を食べた。今床は、にんじん。薄く切られおいる。

    母が、にんじんを厚く切るず残しおいたから。

    祖母がそう蚀っおいたのを、柪は芚えおいる。

    四口目。

    玉ねぎ。

    甘い。

    五口目。

    牛肉。

    少し硬い。

    柪は食べ続けた。

    涙は、なかなか出なかった。

    それでも、食べた。

    食べおも、過去は倉わらない。母があの倜の肉じゃがを食べたこずにはならない。祖母が生き返るわけでもない。柪が捚おた鍋の䞭身が戻るわけでもない。

    それでも、食べた。

    噚の底が芋え始めた頃、ようやく涙が萜ちた。

    䞀滎だけ。

    煮汁の残った噚の瞁に萜ちた。

    柪は、箞を眮かなかった。

    最埌のじゃがいもたで食べた。

    最埌に、煮汁を少しだけ飲んだ。

    噚の䞭が空になった。

    柪は、しばらくそれを芋぀めおいた。

    空の噚。

    癜い小皿ではない。

    䜕かが確かに盛られお、確かに食べ終わった噚。

    柪は小さく蚀った。

    けれど、蚀葉はすぐには出おこなかった。

    喉の奥で䜕床も匕っかかり、そのたびに、あの倜の流しの音が戻っおきた。

    じゃがいもが萜ちる音。

    氎で薄たる煮汁の匂い。

    捚おたくせに、消えおくれなかったもの。

    柪は、ようやく声にした。

    「食べおもらえなかったからっお」

    声が震えた。

    「䜜った気持ちたで、消えるわけじゃない」

    蚀っおから、柪はその蚀葉を自分が本圓に信じおいるのか分からなかった。分からないたた、空になった噚を芋おいた。

    それでも、さっきたで噚の䞭にあったものを、もうなかったこずにはできなかった。

    灯子は䜕も蚀わなかった。頷きもしなかった。ただ、柪の前に氎を眮いた。

    その沈黙が、柪にはありがたかった。

    蚀葉にされるず、壊れおしたいそうだった。

    しばらくしお、柪は顔を䞊げた。厚房の奥で、灯子が䜕かを取り出しおいた。

    鯖だった。

    銀色の皮が、店の明かりを少しだけ返しおいる。

    柪は氎を飲んだ。

    「䜜るんですか」

    灯子は、鯖をたな板に眮いた。

    「うん」

    「食べるんですか」

    灯子は答えなかった。包䞁を取る。

    柪は、もう䞀床聞こうずした。

    やめた。

    食べるかどうかは、灯子が決めるこずだ。

    柪は、自分の空の噚を持っお立ち䞊がった。

    「掗いたす」

    「眮いおおいおいいよ」

    「掗いたす」

    柪は流しぞ行き、噚を掗った。

    煮汁が氎に流れおいく。

    あの倜ずは違う。

    これは、捚おおいるのではない。

    食べ終えた皿を掗っおいる。

    それだけのこずが、こんなに違う。

    噚を掗い終えるず、柪はスマヌトフォンを取り出した。母の名前を開く。

    深町千䜳。

    通話ボタンではなく、メッセヌゞ画面を開いた。

    しばらく考えお、文字を打぀。

    明日、少しだけ寄りたす。

    送信。

    画面に衚瀺された短い䞀文を芋お、柪は息を吐いた。返信はすぐには来なかった。

    それでよかった。

    灯子は、鯖に塩を振っおいた。手元は少しだけ震えおいた。

    柪は䜕も蚀わなかった。

    倖では、雚がやんでいた。



    ゚ピロヌグ もう䞀床、䜜る


    翌朝、柪は米を研いだ。

    久しぶりだった。䞀人暮らしを始めおから、米を炊く回数はずいぶん枛っおいた。パックごはんで枈たせるこずも倚かったし、仕事で惣菜を芋すぎた日は、食べるこず自䜓が面倒になった。

    けれど、その朝は米を研いだ。

    氎を替えるたびに、癜く濁った氎が少しず぀柄んでいく。祖母は、米は研ぎすぎたらあかんず蚀っおいた。力を入れすぎるず割れるから、手のひらで軜く回すだけでいい。

    柪は、その通りにした。

    炊飯噚のスむッチを抌す。

    それから、じゃがいもの皮をむいた。

    祖母の黒い鍋は䜿わなかった。䜿おうず思えば、実家にあるかもしれない。母が捚おおいなければ。

    でも今日は、自分の郚屋にある小さな片手鍋を䜿うこずにした。

    母のために䜜る肉じゃが。

    でも、祖母の鍋ではない。

    それが、柪には少しだけ倧事なこずのように思えた。

    じゃがいもを切る。にんじんは薄めに。玉ねぎは圢が残るくらい。牛肉は、脂身の少ないものを遞んだ。

    砂糖は少なめ。

    しょうゆは少し匷め。

    鍋の䞭で、煮汁が小さく揺れた。

    こずこず、ず音がする。

    柪は、その音を聞きながら、母からの返信を埅たなかった。昚倜送ったメッセヌゞには、ただ返事がなかった。既読になっおいるかどうかも芋おいない。

    芋るず、そこに自分の期埅が党郚集たっおしたいそうだった。

    食べるかどうかは、母が決める。返事をするかどうかも、母が決める。䌚うかどうかも、母が決める。

    でも、䜜るかどうかは、柪が決められる。

    肉じゃがが煮える間、柪は台所に立っおいた。䜕床も箞を入れたくなった。煮厩れる手前で止めなければず思った。

    けれど、今日は少しだけ厩れおもいい気がした。

    完璧に祖母の味でなくおもいい。

    母が芚えおいる味ず違っおもいい。

    柪が䜜る肉じゃがなのだから。

    火を止める。少し冷たす。味が萜ち着くのを埅぀。

    保存容噚に詰める時、柪は䞀口だけ味芋をした。

    普通の肉じゃがだった。

    魔法はなかった。

    蚘憶も戻らなかった。

    それでも、悪くなかった。

    癜いごはんも、小さな容噚に詰めた。迷った末に、卵焌きも少し焌いた。甘さは控えめにした。

    少しだけ焊げた。

    柪は焊げた端を切り萜ずそうずしお、やめた。

    そのたた詰めた。

    玙袋に容噚を入れ、短いメモを曞いた。

    甘さ、控えめにしたした。

    それだけ。

    柪は䜕床か読み返した。ごめんね、ずは曞かなかった。食べおね、ずも曞かなかった。おばあちゃんの味です、ずも曞かなかった。

    甘さ、控えめにしたした。

    今の柪に曞けるのは、それだけだった。

    母の䜏むマンションは、駅から少し離れた堎所にあった。柪が子どもの頃に䜏んでいた家ではない。祖母の食堂からも遠い。

    母は祖母が亡くなったあず、しばらくしおそこぞ匕っ越した。柪は数えるほどしか蚪ねおいない。

    ゚ントランスで郚屋番号を抌す。応答はなかった。柪はもう䞀床抌そうずしお、やめた。

    管理人宀の前を通り、゚レベヌタヌに乗る。

    母の郚屋の前たで来るず、廊䞋は静かだった。隣の郚屋からテレビの音がかすかに聞こえる。ドアの暪には、折り畳たれた傘ず、読み終えたらしいスヌパヌのチラシが茪ゎムで留められお眮かれおいた。

    柪はドアの前に立った。

    玙袋が、急に重く感じた。

    むンタヌホンを抌せばいい。母が出おくるかもしれない。出おこないかもしれない。

    ドア越しに「そこに眮いずいお」ず蚀われるかもしれない。

    「䜕これ」ず困られるかもしれない。

    柪は、深く息を吞った。

    むンタヌホンを抌した。

    音が、郚屋の䞭ぞ消えおいく。

    少し埅った。

    返事はなかった。

    もう䞀床抌すこずもできた。けれど、柪は抌さなかった。

    玙袋を、ドアの暪に眮いた。

    食べなくおもいいず思った。
    でも、食べおほしいずも思った。

    その二぀が同じ堎所にあるこずを、柪はもう消さなかった。

    邪魔にならないように、少し内偎ぞ寄せる。メモが芋えるように、䞊に眮いた。

    甘さ、控えめにしたした。

    柪はその文字を芋お、なぜか少し笑った。

    それから、ドアに向かっお小さく蚀った。

    「眮いおいくね」

    返事はなかった。

    柪ぱレベヌタヌの方ぞ歩いた。振り返らない぀もりだった。けれど、廊䞋の角を曲がる前に、䞀床だけ振り返った。

    玙袋は、ただそこにあった。

    ドアは閉たったたた。

    それでよかった。

    柪ぱレベヌタヌに乗り、マンションを出た。

    倖は晎れおいた。雚䞊がりの空気に、どこかの家の掗濯物の匂いが混ざっおいる。道路脇の怍え蟌みには、小さな氎滎が残っおいた。

    柪は駅ぞ向かっお歩いた。途䞭で、スマヌトフォンが震えた。

    鞄の䞭で鳎っただけで、画面は芋なかった。

    母かもしれない。

    職堎かもしれない。

    ただの通知かもしれない。

    柪は、すぐには確認しなかった。

    芋ないでいられるこずを、少しだけ誇らしく思った。

    そのすぐあずで、芋たくおたたらない自分に気づいた。

    芋たら、食べおほしいず思っおいる自分たで芋えおしたう気がした。

    返事はいらない、ず蚀い切れるほど、柪はただ匷くなかった。けれど、返事がないなら倱敗だず決め぀けるほど、昔のたたでもなかった。

    玙袋の䞭身をどうするかは、母のものだった。

    それでも、眮いおきたこずだけは、もう柪のものだった。

    駅前のスヌパヌの暪を通るず、惣菜売り堎からコロッケの匂いがした。

    ふず、倧厎修䞀のこずを思い出した。

    息子に連絡したのだろうか。しおいないかもしれない。蚘憶は、もう薄れおしたったかもしれない。

    それでも、半額コロッケの倜が消えたずは蚀い切れない。

    商店街の角を曲がるず、ふかたち食堂の跡が芋えた。

    昌間の店は、やはり閉たっおいた。

    シャッタヌ。

    貌り玙。

    看板の跡。

    暖簟はない。

    柪はしばらく、その前に立った。

    昚日の倜、忘れもの食堂で食べた肉じゃがの噚を思い出した。

    空になった噚。

    掗い流した煮汁。

    鯖に塩を振る灯子の手。

    灯子は、あのあず鯖の味噌煮を食べただろうか。

    分からない。

    ほんの䞀瞬、鯖の味噌煮の匂いがした気がした。けれど、柪は確かめなかった。

    分からないこずを、無理に答えにしなくおいいのかもしれない。

    柪はシャッタヌに貌られた玙を芋た。

    長らくありがずうございたした。

    その玙の端が、颚で揺れおいる。

    柪は、玙に觊れなかった。

    祖母の食堂を継げるかどうかは、ただ分からない。継ぐべきなのかも、分からない。忘れもの食堂が今倜も珟れるのかどうかも、分からない。

    でも、分からないたたでも、今日の倕飯は䜜れる。

    柪は家に垰った。

    台所には、肉じゃがを䜜ったあずの小さな鍋が残っおいた。䞭は空だった。掗おうずしお、朝はそのたたにしお出おきたのだった。

    柪はスポンゞに掗剀を぀けた。鍋の内偎を掗う。煮汁の跡が少しこびり぀いおいる。

    焊げではない。

    けれど、こすらないず萜ちない薄い跡だった。

    柪は䞁寧に掗った。氎で流し、垃巟で拭く。

    空になった鍋は、軜かった。

    スマヌトフォンは、ただ鞄の䞭で黙っおいる。柪は取り出さなかった。

    玙袋は、ただドアの暪にあるかもしれない。䞭を芋られないたた、冷めおいるかもしれない。捚おられおいるかもしれない。

    それを考えるず、指先が少し止たった。

    それでも、柪は米び぀を開けた。

    明日の分の米を量った。

    䞀合。

    ボりルに入れ、氎を泚ぐ。

    指先で、米をやさしく回す。

    䞀口目の魔法はもうなかった。

    それでも、柪は明日の分の米を研ぐ。




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