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「薄っぺらい」とはどういうことか。

     こんにちは、ゼロサンです。
     「薄っぺらい」という言葉について、考えたことを整理したいと思い、筆を執っています。
     一般的なnoteユーザーには読みづらい、段落ごとの改行となっておりますが、これが私のスタイルなので、ご容赦ください。

    ※ 希死念慮、自殺についての話が出てきます。苦手な方はブラウザバック。精神がやられている人も、閲覧は非推奨です。

     皆さんは、他人の言葉を「薄っぺらい」「浅い」と感じたことはあるでしょうか。私はあります。
     例えば、「死にたい」と漏らした時に、「死ぬな」と言われた時。「生きていれば良いことあるよ」と言われた時。「こっちはずっとこの希死念慮について考えていて、人生観や死生観と向き合っているのに、そんな薄っぺらい、浅い言葉で慰められるなんて、舐めてるだろ」と感じるかもしれません。

     しかし、私はこう思うのです。
     他人に対して「薄っぺらい」と感じる自分自身こそが、その人の人生への理解が「薄っぺらい」のではないか、と。

     私がこう考えるのは、十数年前の、ある方との出会いがきっかけでした。
     その方は、「人は自殺をするべきではない、死ぬな」という持論を持つ方でした。まだ若かった私は、希死念慮があり、「そんな表面的な浅い考えなんて、聞きたくもないよ」と呆れながら、その方の話を聞いていました。しかし、話を聞けば聞くほど、その方の「死ぬな」の重みを思い知ることになります。
     その方は、親友が自殺をされた方でした。公的にはそれしか情報のないことで、その方のプライバシーに関わるので、これ以上のことはお話ができませんが、私はいつの間にか、その方のお話にのめり込んでいました。失った後悔、残された側の末路、親友が話してくれた気持ち、それでも生きていてほしかったと願わずにはいられない、自身の持つ身勝手とも言える祈りの正体、それら全てを、包み隠さず話してくれました。
     その方が、何を失ってきたのか。何を背負っているか。それでもなお、言葉を紡ぐとしたら、「死ぬな」になるという結論。

     私は、今でも「死ぬな」という言葉は苦手です。安易に言われるように感じるそれは、「死にたい」という気持ちを踏み躙られたかのように感じるからです。しかし、その方がもし、先に述べたような価値観を共有してくれた後に、「死ぬな」と言ってくれたなら。それはどんなに幸せなことだろうと思ってしまうほどに、厚みのある言葉だと感じました。それくらい、人ひとりの生きてきた軌跡が、重いものだと感じる語りでした。

     世の中の励ましや慰めには、使い古された言い回しがあるでしょう。陳腐で、価値もないと切り捨てたくなる言葉があるでしょう。でも、その言葉を言った人が、大切なものを失って、ずっと何年もその重みに耐えてきた人だったら。あるいは、何度も自分を傷付けて、やっと手にした言葉だとしたら。または、その人の人生の、か細いたったひとつの支えだったとしたら。同じ言葉でも、まるで意味の違うものになるのではないでしょうか。
     他者の背景や経験は、外側から覗き見ることは出来ません。安易に見えるその言葉の裏に、その人の人生があって、薄っぺらく浅いと感じる表現の底に、見たこともない闇が広がっているかもしれない。
     他者に対して、「薄っぺらい」「浅い」と感じるほどに、「自分の、その人に対する理解の方が、よほど『薄っぺらい』し『浅い』のではないか」と、私は自問自答します。私はその人の、何を知っているのだろう。

     もちろん、時と場合によっては、言われるとつらい「死ぬな」「生きていれば良いことがある」も有り得ますよね。それは関係性だったり、タイミングだったり、バックグラウンドだったりによる部分で、言う人が悪い場合もあれば、誰も悪くない場合もある。最適解って1つじゃなくて、お互いに目の前の人を見るところから始まるんだなと、常々思っています。
     そして、本当に薄っぺらい、浅い言葉だって、存在します。粗雑なそれらは、見聞きすることすら暴力となり得るでしょう。ここは慎重な見極めが必要で、見極める気力や体力の残されていない、本当に助けが必要な人たちこそが、傷付く場面も見てきました。無理に考え直す必要はありません。これはただの書き散らしですから、ここまで読まれた方は、どうかごゆっくり、ご静養なさってください。

     ご高覧、ありがとうございました。

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