
曇らせる用のメガネ
メガネをかけている。
そこまで視力が悪いわけではなくて、裸眼でも日常生活には困らないくらいの悪さだ。ただ、仕事で1日中モニターの小さな文字を見るには、幾分か心許ない。片目だけ乱視が強いので、それを補正したいのもありメガネを愛用している。
付け外しがめんどくさいという理由で常時かけているのだけど、暖かいお茶やコーヒーや、ラーメンなんかを食べるとき、メガネが曇る。
勝手に曇るし、もはや積極的に曇らせている。
なぜだかは分からないのだが、メガネを曇らせると周囲の人がやたら面白がる。
だからこれはもう「曇らせる用のメガネ」なのだ。
曇らせる用のメガネは「Zoff」で売っている。
たぶん「jins」にもあるだろう。
お店に行って、店員さんに「すみません、曇らせる用のメガネありますか?」と聞けば、曇らせる用のメガネの棚に案内してもらえる。
だいたいサングラスコーナーの隣にあることが多い。
曇らせる用のメガネをいくつか試着していると、店員さんが「よろしければ、こちらお試しください」と、熱々のコーヒーが入ったカップを差し出してくるので、私は「ありがとうございます」と受け取る。
このコーヒーは飲むためのものではない。メガネを曇らせるためのものだ。
つまり、曇らせる用のメガネを曇らせる用のコーヒー、ということである。
私は、おもむろにカップを口元に近づけ、フーフーする。
水面に反射した息によって立ち上る芳醇な香りと湯気がメガネを曇らせる。私は鏡の方へ向き直り、曇り具合を確認する。
なんも見えねえ。
最高だ、これにしよう。メガネを持って受付へ向かう。
どうやら、オプションでレンズに「曇り止め」の加工が出来るらしい。
なんて野暮な。そんな加工をするはずがない。曇らせる用のメガネは、曇りやすければやすいほどいいのだから。
店員さんに「こんなオプション付ける人いませんよね」と問うと、「そうですね、みなさんそうされますね」と答えてくれた店員さんのメガネは、曇ひとつない快晴のような透明さだった。
会計を終え、新しいメガネをかけて店を後にする。
今日は梅雨の合間の曇り空で、雨こそ降っていないが湿度が高くジメジメしている。冷房の効いた店内から外へ出ると、むわっとした空気に出迎えられて、少しだけメガネが曇る。
霞がかった視界で遠くの空を見上げると、雲の切れ間から日の光が差し込んでいる。
これといった予定はない。
ひとまずは、あそこへ向かって歩いてみよう。