
宝物を手放した日
クローゼットの奥には、かつての私が大切に集めた宝物たちが静かに眠っていた。
10代の頃、世の中はギャルブーム全盛期だった。
皆、マルキューブランドの服に身を包み、ブランドバッグをステータスのように持っていた。
当時の私も、なけなしのお金を握りしめては、LVの財布やCHANELのバッグなど、
流行っていたものを片っ端から買い集めていた。
今思えば、流行という渦に飲まれながら、
背伸びをした自分像に必死で近づこうとしていたのだろう。
でもある日、鏡に映った自分を見て、ふと虚しさを覚えた。
全身ブランドに包まれているのに、
そこにいたのは、
自信のない自分を必死に飾っているだけの人形のように見えた。
「これが本当の私なのだろうか」と。
そう思った日から「30代になるまでブランドバッグは買わない」と決めた。
私は昔から、三度の飯よりファッションが好きだった。
社会人になり、気づけばファッションを仕事にしていた。
ファッションの世界を知れば知るほど、
私はラグジュアリーブランドの奥にある思想や、クリエーションの魅力に惹かれていった。
デザイナーが何を表現しようとしているのか。
職人たちがどれほどの技術と時間をかけて形にしているのか。
ブランドが積み重ねてきた歴史や、ブランド哲学。
私は、そういう“背景”ごとファッションを愛していた。
だからこそ、世の中でブランドが「価値の記号」として消費されていく空気に、
どこか戸惑いを覚えるようになった。
本来は純粋な表現や、モノづくりであるはずのものが、
いつしか「いくらするか」や「どれだけ希少か」を競う道具のように見えてしまったのだ。
もちろん、それを持つ人たちが悪いわけではない。
ただ、作る側も、持つ側も、作品そのものより、
“価値の高さ”が先に語られていくような空気感に、
少しだけ息苦しさを感じていた。
30代に入り、自分に課していたルールを解禁した私は、
コレクションブランドのバッグを買い漁るようになった。
そしてブランドものを手にした自分は、確実に10代の頃とは違っていた。
以前のようにブランドに“着られる”感覚はなくなり、
自分のスタイルや価値観の延長線上として、自然に楽しめるようになっていた。
それでもどこかで、言葉にできない違和感のようなものが、
ずっと心に残っていた。
40代に入り、私は仕事を辞めた。
住む場所も都内から離れ、
出かける場所といえば、近所を散歩するくらいになった。
当然、ブランドバッグを持つ機会もなくなった。
気づけば、大切に集めたバッグたちはクローゼットの奥で静かに眠ったままになっていた。
あれほど惹かれて集めていたはずなのに、
いつの間にか、どのバッグにも手が伸びなくなっている自分に気がついた。
そして私は決断した。
ずっと手放せずにいた宝物たちを、自分の手で送り出そうと。
お金が欲しかったわけじゃない。
手放したかったのは、バッグそのものではなく、
“持つこと”に価値を重ねていた自分自身だったのかもしれない。
長年かけて集めた宝物を、自分の意思で手放せる日が来るなんて、
昔の私はきっと想像もしなかった。
でもそれは、ブランドへの愛情が消えたからではない。
自分の中の“豊かさ”や“美しさ”の定義が、少しずつ変わっていったのだと思う。
私にとってそれは、単なる持ち物の整理ではなく、
自分の感覚そのものが変化していくような出来事だった。
今の私は、高価なバッグを大切にしまい込むより、
気兼ねなく使えるバッグを使い倒すほうが楽しいと思える。
汚れたら手放す。
時にはリメイクして、自分だけのスペシャルアイテムにする。
その循環は、今の自分にはずっと自然で、
さらに新しい境地を生み出してくれるようにも思う。
昔の自分からしたら、絶対に考えられなかった価値観だ。
だからこそ、それは私にとって革命的な感覚のアップデートだった。
誰かに「すごい」と思われるためじゃなく、自分が心地よく生きるために物を選ぶ。
一点高価主義も悪くない。
でも、安価なものを自由に楽しむ豊かさもある。
重要なのは、何を持っているかではなく、自分がどうありたいか。
ブランドバッグという宝物を手放した日、
それはきっと、
自分の価値観が静かにアップデートされていった、最初の1ページなのかもしれない。