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「概念の灰 ――希望の列」

    【あらすじ】

    AI依存による思考の外部化が進んだ近未来、国際機関は「認知苦痛症候群」の治療として選択的シナプス阻害薬の全世界投与を承認した。強制ではなかった。人々は笑顔で列に並び、自らの腕に針を受け入れた。楽になれる、それだけで十分だった。四世代後、科学を継承した少数の集団が「神」と呼ばれる世界で、鍛冶師のアルは言葉にならない違和感を抱えて生きていた。その違和感はやがて、ある記録へと辿り着く。記録には、見覚えのある絵があった。笑顔の人々が、列に並んでいた。




    第一章 アルの朝

    朝が来るたびにアルは空を見た。理由はなくただ見た、空は青く雲は白く風は冷たかった。それ以上でも以下でもなかった。アルには空が何であるかを問う言葉がなく、問う必要があるとも思わなかった。空はそこにあり自分はここにいる、それが世界のすべてだった。


    村はエダ川の南側に広がっていた。百数十人が暮らす小さな集落で、麦を育て羊を飼い冬には薪を割った。誰もが同じことをして同じように生き、同じように老いて同じように死んだ。それが正しいことかどうか村の誰も考えなかった、考えるという行為がそもそも何を意味するのかを誰も知らなかった。


    アルは二十三歳だった。鍛冶師の息子として生まれ、父が死んでからは一人で炉を守っていた。鉄を打つことは好きだった。炎の色が変わる瞬間、金属が柔らかくなる瞬間、ハンマーが鉄に食い込む感触、それらがアルにとっての世界だった。言葉にならない充実があった。言葉にならないことをアルは不思議とも思わなかった。


    ただ時々、何かが引っかかった。


    引っかかるという言葉もアルは持っていなかった。ただ胸の内側に小さな異物があった、痛みではなく不快でもなく、それはただそこにあった。朝炉に火を入れるとき、夜星を見上げるとき、川の水面に自分の顔が映るとき。


    村には年寄りが少なかった。


    六十を過ぎる者がほとんどいなかった。なぜかをアルは考えたことがなかった、老いた者は死に若い者が生まれた、それだけだった。それ以上の意味を誰も求めなかった。


    アルの父も五十二で死んだ。


    死ぬ前日まで炉の前に立っていた。翌朝起きてこなかった、それだけだった。アルは父の死を悲しんだ。悲しんだがその悲しみがどこへ向かうのかわからなかった、向かう先がなかった。悲しみはただそこにあって数日後に薄くなり、消えた。


    消えたことを、アルは覚えていなかった。


    ベルタに水を届けた帰りアルは子供たちとすれ違った。五人いた、七歳から十歳くらいだった。走り回って笑っていた。アルはその笑顔を見た、見ながら何かが引っかかった。


    子供たちは笑っていた。笑いながら何も考えていなかった。


    考えていないから笑えるのか。


    その問いが浮かんで消えた。消えたことに気づかなかった、しかしその問いが通り過ぎた場所に小さな跡が残った。


    アルは子供たちが走り去るのを見送り、空を見た。青かった。青い空の下でアルは自分が何かを探しているという感触を持った、何を探しているのかわからなかった。ただ胸の異物が、何かに向かって引っ張られている気がした。


    視線を落とすと村の北側に巨大な柱が見えた。錆びた赤茶色の柱で天を突くように伸びていた、頂は霞んで見えなかった。根元は蔓と土に半分埋もれていた。村人はそれを柱と呼んだ、他に呼び方がなかった。神が作ったものだという者もいたし、ただそこにあるものだという者もいた。誰も不思議に思わなかった。アルも不思議に思ったことがなかった。ただ今日はその柱を見た、見ながら胸の異物が少し動いた気がした。動いてまた静かになった。引っ張られる方向に何があるのかわからないままアルは作業場に戻った。


    炉に火を入れ鉄を打った。


    その日打った鉄はいつもより形が整っていた。なぜかはわからなかった、手が勝手に動いていつもより正確だった。アルはその鉄を見た、見ながら父のことを思い出した。父も同じ炉の前に立っていた。同じハンマーを振るっていた、父の手の動きをアルは見て育った。見て覚えた、言葉では教わらなかった。見ることで何かが移った。その何かが今アルの手の中にあった、父から移ったものが。


    アルはハンマーを置き手を見た。父の手に似ていた、似ているのか似ていないのか正確にはわからなかった。父の手をもう見られなかった。しかし似ている気がした。その気がするという感触が今日は消えなかった。


    午後、村の東端に神官が来た。


    月に一度神官は村を訪れた。白い衣をまとい光る箱を持ち、病人に触れて回った。神官が触れた病人は翌日には熱が下がっていた、神官が薬草を煎じる姿を誰も見たことがなかった。何かを唱える声を誰も聞いたことがなかった、ただ触れた。それだけで病が癒えた。


    村人たちは神官を恐れた。恐れながら待った、月に一度の訪問を待った。


    アルも恐れていた。しかし今日は恐れの中に別の何かがあった。神官の光る箱、あの箱と箱から出る光と病が癒えることの間に、何か見えない糸のようなものがある気がした。炎が鉄を変えるときのあの感触と同じ種類の何かが。


    アルは神官を遠くから見ていた。神官はアルを見た。


    一瞬だけ視線が合った。神官の目は静かで深かった、その深さが何を意味するのかアルにはわからなかった。ただその目の中に何かがあった。


    悲しみに似た何かが。


    神官はすぐに目を逸らし、次の病人のところへ歩いていった。


    アルはその夜眠れなかった。天井の木目を見た、木目は枝分かれしていた。一本の線が二本になり二本が四本になった、アルはその枝分かれを目で追いながら指で空中をなぞった。一から二へ、二から四へ。


    指が止まった。


    縁に触れた気がした。触れたままそこに留まった、留まりながらアルは胸の異物が今までで一番大きくなるのを感じた。大きくなって痛くなった。


    痛みが言葉を求めていた。言葉がなかった。


    アルは夜明けまで、その痛みと一緒に横になっていた。




    第二章 署名

    2024年。東京。

    木村誠一は夜中の二時に目が覚めた。スマートフォンが光っていた、通知ではなかった。ただ習慣で手が伸びた。画面を開くとニュースが流れてきた、戦争の話経済の話気候の話政治の話、全部昨日も見た話だった。


    昨日と今日で何かが変わったのかどうかわからないままスクロールした。何かを考えようとして、できなかった。情報が多すぎた、一つを考える前に次が来た。次を考える前にまた次が来た。


    誠一は画面を閉じた。天井を見た。頭の中が騒がしかった、騒がしいのに何も考えていなかった。情報が入ってきて処理されずに流れていった、流れた後に何も残らなかった。残らないのにまた手が画面に伸びた。


    誠一はその手を止めた。何かを考えようとした、今日起きたことを、明日すべきことを、自分が何者であるかを。できなかった。考えようとするたびに頭の奥が熱くなって痛くなった、痛くなると考えるのをやめた。やめると楽になった。楽になるとまた画面に手が伸びた。


    誠一は三十四歳だった。会社員で妻がいて子供が一人いた、普通の生活だった。しかし普通が何であるかを最近うまく言葉にできなかった、言葉にしようとすると頭が痛くなった。だから言葉にしなかった。


    誠一が最初にAIに文章を書かせたのは二〇二三年の秋だった。毎月書く同じような報告書だった、AIに指示を入れると三十秒で出てきた。誠一が一時間かけて書くものより整っていて論理的で読みやすかった。少し考えた、これでいいのか、と。考えて送信した。上司から「わかりやすい」と返信が来た。それで終わった。


    翌月も同じにした。その翌月も、半年後には考えることなくAIに投げていた。投げることに慣れると自分で書こうとすると言葉が出てこなかった、おかしいとは思わなかった。皆がそうしていたから。


    休日誠一は子供と公園に行った。子供がブランコを漕いでいた、誠一はベンチに座ってスマートフォンを見ていた。ニュースが流れてきてスクロールした、また次のニュースが来た。


    子供が「見て」と言った。


    誠一は顔を上げた。子供がブランコの上で立っていた、危なかった。しかし笑っていた。スマートフォンをポケットに入れて子供を見た、笑っている顔を見た。何かを言おうとした、言葉が出てこなかった。すごいと言えばよかった、危ないと言えばよかった。しかしどちらも出てこなかった。


    誠一は笑った。作った笑いではなかった、しかし何かが足りない笑いだった。


    子供はブランコを漕ぎ続けた。誠一はまたスマートフォンを取り出した、取り出しながら胸の中で何かが小さく鳴った。昨夜も鳴った、先週も鳴った。何が鳴っているのかわからないまま画面を開いた。ニュースが流れてきた。

    ―――

    2028年。ジュネーブ。

    国際疾病分類の改訂会議が終わった。新しい病名が一つ追加された。


    認知苦痛症候群。


    定義は簡潔だった。「情報処理過負荷による慢性的抽象思考障害。患者は自発的思考に対して苦痛反応を示し、判断の外部委託への強い依存を形成する。有病率は先進国において推定三十八パーセント。」


    会議室を出た委員の一人が廊下で同僚に言った。「三十八パーセントは保守的な数字だ、実態は六割を超えている」。同僚は頷いた。「わかっている、しかし六割と言えば病気ではなく標準になる」。


    二人は黙った。湖が窓の外に見えた。静かだった。

    ―――

    2031年。神戸。

    中村佐和は論文を書き終えた夜、泣かなかった。泣くほどのことではなかった。七年かけて開発した化合物の臨床データをまとめただけだった、前頭前野の抽象思考領域に作用する選択的シナプス調整剤で、副作用は軽微で依存性もなく効果は顕著だった。被験者の九十二パーセントが「認知的負荷の著しい軽減」を報告した。


    患者たちは口を揃えて言った。「楽になりました」


    佐和の外来には毎週同じ顔をした患者が来た。年齢も職業も違ったが目が同じだった、疲れ切った目だった。考えることに消耗し切った目だった。「考えるのが怖いんです」と彼らは言った。「何かを決めようとすると頭が割れそうになる、情報が多すぎてどれが正しいかわからない。わからないまま決めなければならない、それが毎日続く」


    佐和は怖いと思わなかった。考えることが好きだった。しかし患者の苦しさは本物だった、データが示していた。脳波が示していた、炎症マーカーが示していた。


    これは意志の問題ではなかった。適応の問題だった、情報環境が人間の処理能力を超えて脳が適応しようとした結果が思考の回避だった。佐和はそれを病と呼んだ。病なら治療できる。だから作った。


    論文は翌月国際医学誌に掲載され、引用数は三ヶ月で千を超えた。佐和はその数字を見て少しだけ誇らしかった。誇らしさの中に小さな何かがあった、何であるかを考えなかった。考える前に次の患者が来た。

    ―――

    2034年。ジュネーブ。

    ダニエル・ルソーは会議室の窓から湖を見ていた。議題は三つあった、三つ目が認知苦痛症候群に対する国際的対応策だった。中村佐和の化合物を基にした製剤が既に十七カ国で承認されていた、残りの国々への普及をどう進めるか。


    データは明確だった。投与国では労働生産性が向上し犯罪率が低下し社会的摩擦が減少し医療コストが下がった、投与しない国との格差が数字として現れ始めていた。


    ルソーは資料を読みながら昨夜の娘の顔を思い出した。七歳だった、宿題をしながら泣いていた。考えるのが嫌だと言っていた。


    ルソーはペンを取った。署名した。それだけだ。


    窓の外の湖は静かだった。

    ―――

    2041年。大阪。

    田中誠は列に並んでいた。前に五十人いて後ろにも五十人いた、会場は市民体育館だった。壁に貼られたポスターには「認知解放ワクチン 無償接種」と書かれていた。


    隣に立っていた妻が「早く終わるといいね」と言った。誠は頷いた。


    列はゆっくり進んだ。進みながら誠は壁のポスターを見た、楽になれると書いてあった。考えなくていいとは書いていなかった、しかしそういう意味だとわかった。わかって安心した。


    順番が来て椅子に座った。白衣の人間が腕にアルコールを塗った、針が刺さった。痛みは一瞬だった。「終わりました」と言われて立ち上がり妻のところへ戻った、妻も終わっていた。二人で出口に向かった。


    体育館を出ると空が青かった。誠は空を見た、青いなと思った。それだけだった、それ以上は続かなかった。


    それが誠にとって最後に「それだけ」以上のことを考えた瞬間だったが、誠はそれを知らなかった。知る必要もなかった。


    列の外れに一人の老人が立っていた。接種を終えた人々を見ていた、列に並んでいなかった。並ぼうとしていなかった、ただ見ていた。その目に何があったのか誰も見なかった、誰も老人を見ていなかった。


    空は青く妻は隣にいて家に帰れば夕飯があった。それで十分だった。

    ―――

    2047年。大阪。

    産声が聞こえた。


    林田は手を動かした。計測して記録した、体重、身長、心拍数、正常だった。全部正常だった、毎朝同じだった。毎朝同じことをした。


    トレイに並んだ注射器を取った。一本目は定期接種のワクチンだった、二本目は認知解放製剤だった。出生時接種が義務化されて六年が経っていた、林田が研修医だった頃からそうだった。だから疑問を持ったことがなかった、疑問を持つという行為が林田にはもう薄かった。


    新生児の腕を取った。その瞬間、目が合った。


    新生児の目だった。焦点が合っているのか合っていないのかわからない目だった、しかしその目が何かを見ていた。何を見ていたのか林田にはわからなかった。ただ見ていた。まだ何も知らない目が、林田を見ていた。


    林田は針を刺した。新生児が泣いた。産声とは違う泣き声だった、しかし林田にはその違いがわからなかった。わからないまま手を離しトレイに注射器を戻し、記録用紙に印をつけた。


    次の新生児が来た。林田は手を動かした。計測して記録してトレイの注射器を取った。


    窓の外で、空が青かった。




    第三章 言葉の縁

    春が来た。


    アルはそれを知っていた。土の匂いが変わり川の水量が増え羊が落ち着かなくなった、春という言葉をアルは持っていたが春が何であるかを考えたことはなかった。春はただ来るものだった、毎年来るものだった。


    毎年。


    アルは炉の前に座りながらその言葉を口の中で転がした。毎年、去年も春が来た、一昨年も春が来た、その前も、その前も。ずっと続いている。ずっとという言葉がアルの中で妙に重くなって沈んだ、沈んだまま消えなかった。


    それが最初の変化だった。言葉が消えなくなった。


    これまでは何かが浮かんでもすぐに消えた。泡のように、水面に達する前に消えた。しかし春が来てから浮かんだものが留まるようになった、留まって重くなって別の何かを引き寄せた。


    毎年春が来る、去年も来た、その前も来た、ならば来年も来る。その三つがアルの中で初めて一本の糸で繋がった。


    繋がった瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。


    痛みではなかった。音ではなかった、ただ軋んだ。長い間使っていなかった蝶番が動くようなそういう感触が頭の内側にあった。アルはハンマーを置いて両手で頭を押さえ、目を閉じた。暗闇の中で糸が増えた、鉄は熱で柔らかくなる、柔らかくなった鉄は形を変えられる、形を変えた鉄は冷えて固まる、固まった鉄は道具になる、道具は人の手を助ける。五本の糸が繋がった。


    軋みが強くなった。アルは目を開けた、炉の火が見えた。火は赤かった、赤い火が鉄を熱する、熱された鉄が柔らかくなる。アルは毎日それをやっていた、毎日やっていたのに今日初めてそれが一本の線として見えた。感じた、理解した、いやその言葉もなかった。ただ繋がった。


    アルは立ち上がって作業場の外に出た。村が見えた、人々が動いていた。麦を運ぶ者水を汲む者子供を背負う者、全員が動いていた全員が何かをしていた。


    全員が糸で動いている。


    そう思ったのではなく見えた。麦を運ぶのは食べるためで食べるのは生きるためで生きるのは何のためだ。最後の問いで糸が切れた。切れた場所に空白があった、答えがない空白ではなく問いを持ったことがない空白だった。アルはその空白を初めて認識した、認識した瞬間めまいがした。地面が傾いた気がした、傾いていなかった。アルの内側が傾いていた。


    アルは村人に話しかけようとしたことがあった。広場でよく会う男だった、名前はコルといった。四十代の農夫で毎朝同じ時間に同じ道を歩いて、アルとすれ違うとき短く頷いた。それだけだった。


    その日アルは足を止めた。コルも足を止めた。


    アルは何かを言おうとした。毎年春が来るということを、去年も来て今年も来て来年も来るということを、それが繋がっているということを。繋がっているとすればずっと続いてきたということで、自分たちが生まれる前からそうだったということで、自分たちが死んだ後もそうだということで——


    「何だ」とコルが言った。


    アルは口を開けたまま止まった。言葉が出てこなかった。頭の中にあるものを言葉にしようとすると形が崩れて霧になって消えた、消えた後に言葉だけが残ったがその言葉が何を指しているのかアルにはわからなかった。


    「何でもない」とアルは言った。


    コルは頷いてまた歩き始めた。アルはコルの背中を見た。コルは何も感じていなかった、アルが何かを言おうとしたことをもうすでに忘れているかもしれなかった。ただ毎朝と同じ速度で同じ道を同じ方向に歩いていた。


    アルはその背中を見ながら胸の中に壁を感じた。壁という言葉はなかった、しかしそれは確かにあった。自分とコルの間に、自分と村の全員の間に、透明で冷たく破れない何かが。


    作業場に戻って炉の前に座り火を見た。火は揺れていた、アルは火に向かって言おうとした言葉を声に出した。言葉にならなかった、音だけが出た。しかしその音の中にアルが伝えたかったものが全部入っていた気がした。誰も聞いていなかった。火だけが揺れていた。


    翌朝アルは廃墟に向かった。村から半刻ほど歩いた先に崩れた建物の残骸があった。石ではなかった、継ぎ目のない灰色の壁が崩れて斜めに倒れていた。錆びた金属の骨組みが剥き出しになっていた、割れた透明な板の破片が土に埋まっていた。村人は皆そこから金属を拾った、溶かして鍬にしたり鎌にしたりした。誰もその建物が何であったかを考えなかった、考える言葉がなかった。ただそこにある素材だった。アルも毎月ここに来た、今日も金属を数本拾った。拾いながらふと壁の断面を見た、断面の中に細い線が幾重にも走っていた。規則的な線だった、誰かが意図して作った線のように見えた。アルはその線を指でなぞった、なぞりながら何かを感じた。感じたが言葉にならなかった、そのまま立ち上がって村に戻った。


    数日後アルは老人を見た。村外れに一人で座っている老人だった、七十近かった。村でこの年齢は珍しかった、名前を知らなかった。話したこともなかった。老人は川を見ていた、ただ見ていた。働いていなかった、誰かと話していなかった、ただ川を見ていた。


    アルは老人の隣に座った。老人は驚かなかった、アルを見なかった。川を見続けた。二人で川を見た、川は流れながら音を立てていた。同じ音が続いていたしかし同じ水ではなかった、水は常に新しかった。新しい水が来て流れて去っていった。


    アルはそれを見ながらまた糸を感じた。今ここにある水は、一瞬後にはもうない。その事実がアルの胸の中で冷たく落ちた。


    「川は止まらんな」と老人が言った。


    アルは老人を見た。老人の目が川を見ていた、その目の中に何かがあった。アルが神官の目の中に見たものと少し似ていた、悲しみではなかった。疲れでもなかった、諦めに近い何かだった。


    「止まらない」とアルは言った。老人は頷いた。それだけだった。


    二人はしばらく川を見て、それからアルは立ち上がった。作業場に戻るとき振り返ると老人はまだ川を見ていた。その背中がコルの背中と違った、どう違うのかアルには言えなかったしかし違った。老人の背中には何かがあった、重さのような厚さのような何かが。


    アルはその何かが何であるかを考えながら作業場に戻った。考えながら答えが出なかった、しかし考えることをやめなかった。


    その夜アルは村の集まりに出た。月に一度村人が広場に集まる夜があった、長老が話し神官の言葉が伝えられ皆で食事をした。アルはいつもその集まりが好きだった。人の熱気と食べ物の匂いと火の明るさが好きだった。しかし今夜は違った。


    長老が話していた。今年の麦の出来について川の水量について羊の数について、村人たちは頷きながら食べていた。話を聞いているのか聞いていないのかわからない顔でただそこにいた。アルはその顔を見ていた。


    何かが違う。


    違うという言葉はあったしかしその違いが何であるかを言う言葉がなかった。アルには今糸が見えていた、長老の言葉と村人の行動と季節の変化と食べ物の量と全部が繋がって見えた。しかし周囲の誰にもその糸が見えていないようだった。見えていないのではない、糸があることを知らないのだ。


    その差異がアルには言葉にならないまま胸の中で大きくなって苦しくなった。


    「食べないのか」とベルタが言った。アルは頷いて食べた、味がしなかった。


    食事が終わり人々が散っていった。アルは最後まで広場に残って火が小さくなっていくのを見ていた、やがて消えた。消えた後の暗闇の中でアルは初めて声に出した。言葉にならない音を。喉から出てきたのは言葉ではなく呻きでもなくただの音だった、しかしその音の中にアルが言いたかったすべてが入っていた気がした。誰も聞いていなかった。


    翌朝神官が来た。月に一度ではなかった、今月二度目だった。神官は真っ直ぐアルの作業場に来た、村人の病を見るためではなかった。アルを見るためだった。


    神官はアルの前に立って光る箱を開けて何かを確認し、それからアルを見た。先月と同じ目だった。悲しみに似たあの目だった。神官は何も言わなかった、アルも何も言えなかった。言う言葉がなかった、ただ二人は向き合っていた。


    しばらくして神官は小さく息を吐いて踵を返して歩いていった。アルは神官の背中を見ていた、白い衣が風に揺れた。神官は振り返らなかった、村の外れまで歩いて白い建物の中に消えた。


    アルは作業場に戻って炉に火を入れ鉄を打った。ハンマーが鳴った、しかし今日の鉄はいつもと違う形になった。意図していなかった、手が勝手に動いて見たことのない形を打ち出していた。


    丸い輪の中に、細い棒が交差する形。


    アルはそれを長い時間見た。それが何を意味するのかわからなかった、わからなかったが捨てられなかった。作業場の隅に置いた、誰にも見せなかった。


    夜また眠れなかった。糸が増え続けていた、頭の中で糸が増えて絡まって解けなかった。解こうとすると軋んだ、軋みが痛みに変わってきた。本物の痛みだった、頭の奥が熱かった。アルは目を開けたまま夜明けを待ちながらずっと同じことを繰り返していた。


    毎年春が来る。去年も来た、来年も来る。


    ならば百年後も来るのか。千年後も。自分がいなくなっても。


    その問いの先にまた空白があった。今度の空白は前より深かった、底が見えなかった。アルは空白を覗き込みながらそれが怖いのか怖くないのかわからなかった。ただ目が離せなかった。




    第四章 神の内側

    白い建物の中に廊下が一本あった。石造りではなかった、壁は滑らかで冷たく継ぎ目がなかった。床も同じだった。村の誰もその材質が何であるかを知らなかった、知る言葉を持たなかった。ただ白い建物は白く冷たく、月に一度神官が出てきてまた戻っていった。


    廊下の奥にセラがいた。三十八歳、神官の中では若い方だった。光る箱——端末と呼ぶものだったがその名称を村人に教えたことは一度もなかった——を膝の上に置き、記録を読んでいた。


    記録は長かった。最も古いものは百七十年前に書かれていた、創始者たちの文書だった。セラは子供の頃からそれを読んでいた、読むたびに胸の中に重いものが積まれた。


    文書にはこう書かれていた。


    『我々は人類を救おうとした。思考の苦痛から、競争の消耗から、意味を求めることの徒労から。我々は間違っていたのか。しかし彼らは自ら選んだ、署名した、列に並んだ、感謝した。我々は彼らに何かを奪ったのではない、彼らが手放したものをただ受け取っただけだ。そう思わなければ続けられない。』


    セラは端末を閉じた。


    白い建物の中にイルという男がいた。四十五歳、神官の中では中間の年齢だった。セラより年上でオルドより若かった、白い衣を着ていたがいつもどこか乱れていた。直す習慣がなかった。


    イルは退化派だった。三年前からそうだった。きっかけは小さかった、ある夜端末の記録を読んでいた。創始者たちの文書ではなかった、もっと古い文書だった。投与が始まる前の時代の一般人の日記だった。


    日記には細かいことが書いてあった。今日の天気、食べたもの、子供の笑顔、妻との口喧嘩、仕事の失敗、夜空の星。


    イルはそれを読みながら奇妙な感触を持った。この人間は何でもないことを書いている、何でもないことを丁寧に書いている。なぜそんなことをするのか、わからないまま読み続けてやがて少しずつわかってきた。


    この人間は自分が生きていることを確認していた。書くことで確認していた。


    イルは端末を閉じた。自分が最後に何かを書いたのはいつか思い出せなかった。記録は書いていたデータは入力していた、しかしそれは確認ではなかった。ただの作業だった。


    その夜からイルは変わり始めた。知ることが重くなり知り続けることが苦しくなった、民衆を見るたびに彼らの軽さが羨ましくなった。民衆には重さがなかった、過去の重さも未来の重さも意味の重さも。ただ今だけがあった。イルはその軽さの中に入りたかった。


    その日の午後イルはセラの部屋の前を通った。扉が少し開いていた、セラが端末を見ていた。記録を読んでいた、その横顔に慢性的な出口のない疲労があった。


    イルは扉を軽く叩いた。


    「また読んでいるのか」


    「読まなければ忘れる」


    「忘れた方がいい」


    セラはイルを見た。「それが退化派の答えか」


    「答えではない」とイルは言った。「ただ知ることに意味があるのかわからなくなった」


    セラは端末を置いた。「意味がなくても知ってしまった、それだけだ」


    イルは黙った。廊下の奥からミカの足音が聞こえた、二人とも黙った。足音が遠ざかった。


    「1147番のことは聞いた」とイルは言った。セラは答えなかった。「止めた方がいい、お前が壊れる」


    「もう壊れている」とセラは言った。静かに言った、怒りでも悲しみでもなくただ事実として言った。


    イルはそれ以上言えなかった。扉を閉めて廊下を歩きながら自分の手を見た。白い衣の袖から出た手だった、この手で何人の病人に触れたか数えたことがなかった。触れるたびに病が癒えた、癒えることに意味があるのかどうか最近はわからなかった。


    癒えた人間がまた麦を育て、また羊を飼い、また死ぬ。その繰り返しに何があるのか。


    問いが浮かんだ。答えがなかった。


    イルは答えのない問いを抱えたまま自分の部屋に戻り、端末を開いて日記を書こうとした。書けなかった、何を書けばいいかわからなかった。書きたいことが何もなかった。


    それが一番怖かった。書きたいことが何もないということが。


    イルは端末を閉じて白い壁を長い時間見た。壁は何も答えなかった。


    廊下の反対側から足音が聞こえた。オルドだった、五十二歳、神官の中で最も古い記憶を持つ男だった。白い衣の裾を引きずりながら歩いてきてセラの隣に座った。


    「1147番の反応が出た」


    セラは頷いた。「見た、逆転反応だ」


    「三世代ぶりだな」


    「四世代ぶりだ」とセラは言った。「三十一年前のケースは不完全だった、今回は速い」


    オルドはしばらく黙ってからゆっくり言った。「処理するか」


    セラは答えなかった。窓がなかった、白い壁だけがあった。セラは壁を見ながらアルの目を思い出した、今日視線が合った。あの目の中に何かがあった、まだ言葉にならない何かがしかし確実に育っていた。


    「処理という言葉を使うな」とセラは言った。


    「では何と言う」


    セラは答えられなかった。


    オルドは立ち上がった。「感傷は危険だ、規則がある。秘密は守られなければならない、それだけだ」。足音が遠ざかった。


    セラは再び端末を開いて記録の続きを読んだ。


    『五十年が経った。投与を止めて二世代が経過した、文化的継承により概念の消失は自己維持している。もはや薬は不要だ。しかし我々は何者になったのか、神と呼ばれている。呼ばせている、それ以外に秩序を維持する方法がない。設計者たちはとっくに死んだ、我々は継承しただけだ。継承した責任がある、しかし責任とは何か。我々の中にもその答えを持つ者が減っている。』


    『退化派が増えている。知ることの重さに耐えられなくなった者たちが民衆の中に溶け込もうとしている、彼らを責められない。知ることは苦しい、我々の祖先が証明した。知ることが苦しいから人類は手放した、我々だけが知り続けることを強いられている。それは罰なのか。』


    セラは端末を閉じてまた開いて自分が書いた記録を開いた。三年前から書き始めていた。


    『民衆を見るたびに思う。彼らは苦しんでいない、我々が苦しんでいる。これは正しい世界なのか、正しいという概念が我々にしか残っていない。民衆には正しいという概念がないから苦しまない、我々には正しいという概念があるから苦しむ。概念とは苦しみの別名なのかもしれない。』


    セラはそこで書くのを止めた。三年前止まった場所だった、その先が書けなかった。書けないまま三年が経った。


    セラは立ち上がって廊下を歩いた、突き当たりの扉を開けると外に出られた。村からは見えない側の出口だった。外は夜だった、星が出ていた。


    セラは星を見た。星の光が地球に届くまでの時間を知っていた、光年という単位を知っていた。今見えている星の中にすでに存在しないものがあることを知っていた、知っていることが今夜は重かった。


    村の方向を見た。暗くて何も見えなかった、どこかでアルが眠れずにいることを端末のデータが示していた。脳波が乱れていた、糸が増え続けていた。


    セラは上着のポケットに手を入れた。小さな装置があった、三年前から持ち歩いていた。一度も使っていなかった、使えなかった。使えば規則に反する、秘密が破られる。使わなければアルは明朝処理される。


    処理。オルドの言葉が耳に残っていた。


    セラは装置を握ったまま星を見ていた。風が吹いて白い衣が揺れた。遠くで犬が鳴いた。それだけだった。




    第五章 記録

    夜明け前にアルは目を覚ました。眠った記憶がなかった、いつの間にか意識が途切れいつの間にか戻っていた。頭の中の糸は眠っている間も増え続けていたらしく、目を開けた瞬間から軋みがあった。


    外が静かだった。鳥がまだ鳴いていなかった、風もなかった。村全体が息を潜めているような静けさだった、アルはその静けさの中で起き上がり作業場に向かった。


    炉に火を入れた。習慣だった、考えるより先に手が動いた。火が点いた、赤い光が作業場を照らした。アルは炉の前に座り火を見た。


    火は揺れていた。揺れながら形を変えていた、同じ形が二度と現れなかった。アルはそれを知っていた、ずっと知っていた。しかし今朝はその事実が別の何かと繋がった。


    同じ瞬間が二度と来ない。昨日は終わった、明日はまだない。今だけがある。


    その三つが繋がった瞬間アルは息が止まった。止まってまた動いた、動きながら胸の中で何かが崩れた。崩れた場所に冷たい風が入ってきた。


    怖かった。


    初めて怖いという感情がその名前で現れた。これまでも怖いと感じたことはあった、神官を見るとき嵐の夜川が増水するとき。しかしそれらは反射だった、身体が縮む感覚だった。今朝の怖さは違った。頭の中にある怖さだった、昨日が終わったことへの怖さだった。


    夜明けが来た。鳥が鳴き始め村が動き始めた、アルは作業場の入口に立って村を見た。人々が動いていた、いつもと同じだった。何も変わっていなかった。しかしアルには糸が見えていた、全員の動きに糸があった。麦を運ぶ者は食べるために運んでいた、食べるのは生きるためだった。生きるのは何のためか、その問いに誰も気づいていなかった。気づいていないのではなく問いそのものがなかった、アルだけに問いがあった。


    その孤独が今朝は形を持っていた。孤独という言葉はなかったしかしその感触は本物だった、自分と村の間に見えない壁があった。壁はガラスのように透明で向こう側が見えたしかし触れられなかった、声も届かなかった。


    アルは作業場に戻り隅に置いてあった鉄の形を手に取った。丸い輪の中に細い棒が交差する形、昨日手が勝手に打ち出したものだった。それを見ながらアルは初めて思った。


    これは何かを表している。


    表しているという概念がアルの中に生まれた瞬間だった。物が意味を持つという認識、記号という概念の萌芽だった。アルはそれを言葉にできなかったしかしその鉄の形がただの形ではなく何かを指し示しているという感触があった。何を指し示しているのかはわからなかった。


    アルは鉄の形を握ったまま外に出た。白い建物に向かって歩いた、意図していなかった。足が動いた、歩きながら止まろうとしたが止まれなかった。恐れがあったしかし恐れより別の何かが強かった、引力のような何かが。


    歩きながらアルは白い建物と、その背後に遠く見える廃墟の柱を同じ視界に収めた。白い建物は冷たく滑らかで継ぎ目がなかった、廃墟の柱は錆びて崩れて土に埋もれていた。しかし同じ素材でできているように見えた。アルはその二つを見比べた、見比べながら何かが繋がりかけた。繋がりかけて、切れた。


    白い建物の前に着いた。扉があった、村人が近づいたことのない扉だった。アルは扉の前に立って動けなくなった。


    扉が開いた。内側から開いた。


    セラが立っていた。白い衣を着ていた、昨夜と同じ目をしていた。悲しみに似たしかし昨夜より何か決意のようなものが混じった目だった。二人は向き合った、セラは何も言わなかった。アルも何も言えなかった。


    セラは一歩下がって建物の内側に向かって手を動かした。入れという意味だった。アルは入った。


    廊下があった。白い壁があった、冷たかった。足音が反響した、アルは足音の反響に驚いた。自分の足音がこれほど大きく聞こえたことがなかった。セラは奥に歩きアルはついていった。


    突き当たりに部屋があった。部屋の中に光る板があった、壁に埋め込まれた大きな光る板だった。セラはその前に立って何かを操作した、板の表面に文字が現れた。


    アルは文字を知らなかった。文字という概念がなかった、ただ板の上に規則的な形が並んでいることはわかった。その形が何かを意味しているという感触が今朝の経験から来ていた、表しているという概念が生まれたばかりだったから。


    セラはアルを見てそれから板を見て、板の文字を指でゆっくりとなぞった。アルには読めなかった、しかしセラの指が動くのを見ていた。指が止まった場所を見た、その形を目で追った。形が脳に入ってきた、意味にはならなかったしかし形として残った。


    セラは端末を取り出してアルの前に置いた。箱の表面に絵が現れた。


    人が列に並んでいる絵だった。白衣の人間が列に並んだ人間の腕に何かを刺している絵だった。その絵の下に文字が並んでいた、アルには読めなかった。しかしセラが指で示した一点があった、その形だけアルの目に焼き付いた。丸い形の中に線が入った形、アルが昨日打ち出した鉄の形と似ていた。


    全く同じではなかった。しかし似ていた。


    アルは手の中の鉄の形を見て板の文字を見て自分の手を見た。頭の奥が軋んだ、今までで一番強い軋みだった。痛かった、目の前が白くなった。白い中に糸が見えた、無数の糸が一点に向かって収束しようとしていた。収束する直前で切れた。


    アルは膝をついた。セラが腕を掴んだ、冷たい手だった。


    アルは顔を上げてセラの目を見た。セラの目が濡れていた。神官が濡れた目をしているのをアルは初めて見た、神は泣かないと思っていた。思っていたのではなく考えたことがなかった、しかし今目の前の神官は泣いていた。


    なぜ泣いているのか。


    その問いがアルの中に生まれて答えを求めたが答えがなかった。しかし問いは消えなかった。


    セラは何かを言った。アルには言葉がわからなかった、セラの使う言葉は村の言葉と少し違った。似ているが知らない音が混じっていた。しかし一つだけ聞き取れた音があった、短い音だった。二つの音節だった。


    それが何を意味するのかアルにはわからなかった。しかしその音は胸の異物と同じ場所に落ちた、落ちて収まった。初めて異物が収まった。痛みが少し引いた。


    セラはアルの腕を離して立ち上がり端末を拾った。それから上着のポケットに手を入れて何かを取り出した。小さな装置だった、セラはその装置をアルの首筋に当てた。冷たかった、かすかな音がした。それだけだった。


    セラは装置をポケットに戻してアルを見てから扉の方を見た。アルは理解した、言葉ではなく身体で理解した。出ろということだった。


    アルは立ち上がって廊下を歩いた。足音が反響した、扉を開けた。外に出た。朝の光が眩しかった。村が見えた、人々が動いていた。いつもと同じだった。


    板を拾った日の夜アルは眠れなかった。板を手の届く場所に置いた、暗くて見えなかったしかし置いた場所がわかっていた。そこにあることがわかっていた。それだけで少し落ち着いた、落ち着いた理由がわからなかった。


    板が何であるかもわからなかった。文字が何であるかもわからなかった、しかしあの形が自分の打ち出した鉄の形と同じだということだけはわかった。同じ形が二つある、一つは自分が作った。もう一つは板の上にあった、二つが同じということは何かが繋がっているということだ。


    繋がっている。その言葉が暗闇の中でアルの胸に落ちた、落ちて重くなって別の問いを引き寄せた。何と何が繋がっているのか。答えが出なかったしかし問いは消えなかった、消えないまま夜が深くなった。


    アルは板を手に取った。暗くて見えなかったしかし指で形をなぞった、凹凸があった。刻まれていた、誰かが刻んだ。誰かがこの形に意味を持たせた、意味を持たせた人間がいた。


    その人間はどこにいるのか。生きているのか、死んでいるのか。


    生きている死んでいるという概念がアルの中で初めて時間と繋がった。過去に誰かがいた、その誰かが作ったものが今自分の手の中にある。過去と今がこの板一枚で繋がっていた。


    アルは息を呑んだ。呑んだ息がなかなか出てこなかった。頭の奥が軋んだ、今までで一番強い軋みだった。痛かったしかし手放せなかった、板を手放せなかった。指がずっと文字の形をなぞっていた。


    なぞりながらアルは初めて思った。自分が死んだ後も、これは残るのかもしれない。


    残る。その概念がアルの中に生まれた瞬間、何かが開いた。


    翌朝アルは板を持って川へ行った。誰もいない時間だった、夜明け前だった。川は暗く音だけがあった。アルは川辺に座って板を膝の上に置き、昨夜なぞった形を目を閉じて指で空中にたどった。うまくできなかった、また板を見てまた指でなぞった。繰り返した、何度も繰り返した。


    空が白くなってきた。川面が見えてきた、水が流れていた。同じ場所を常に新しい水が流れていた。アルはその水を見ながら板を見た、板の文字と川の流れが頭の中で重なった。どちらも止まらない、どちらも同じ場所に見えて常に新しい。


    その二つが重なった瞬間アルの目から水が出た。なぜ出るのかわからなかった、しかし出続けた。川の音が続いていた、空が明るくなっていった。アルは泣きながら板の形をなぞり続けた、意味がわからないまま。しかし止められないまま。


    何かが始まった気がした。何が始まったのかはわからなかった。アルは村に向かって歩きながら手の中の鉄の形を握った、セラが指で示した板の文字を思い出した。あの形が何を意味するのかまだわからなかったしかしいつかわかる気がした。


    いつかという概念がアルの中に生まれた瞬間だった。未来という概念の、最初の萌芽だった。




    終章 自ら

    数日が経った。セラが何をしたのかアルにはわからなかった、わからなかったが何かが変わり続けていた。毎朝目を覚ますたびに頭の中の糸が一本増えていた、増えるたびに軋んだ。痛かった、しかし翌朝にはその痛みが消えてまた新しい糸が増えた。


    炉の前に座るときアルは火を見た。火はなぜ熱いのか。その問いが今朝初めて言葉として成立した、昨日まで浮かんで消えていたものが今日は留まっていた。留まって重くなって、別の問いを引き寄せた。


    鉄はなぜ熱で柔らかくなるのか、川はなぜ流れるのか、星はなぜ動くのか、麦はなぜ育つのか。問いが連鎖した。連鎖するたびに頭が痛くなった、アルは両手で頭を押さえながら炉の前に座り続けた。痛みの中にしかし奇妙な何かがあった、痛いのにやめたくなかった。


    村人たちはアルを見て何も言わなかった。気にする言葉がないからだった、アルが変わりつつあることを感じていたがそれを問う回路がなかった。だから何も言わなかった。アルは一人だった。


    十五日目の夜アルは炉の前に座って火を見ていた。糸が増え続けていた、増えるたびに新しい問いが生まれ生まれた問いに答えがなかった。答えのない問いが積み重なって重くなった、頭が痛かった。毎晩痛かった、朝になると少し引いたしかし完全には消えなかった。消えないまままた夜になってまた痛くなった。


    アルは火を見ながら父のことを思った。父は何を考えていたのか。父に概念があったのかどうかアルにはわからなかった、父は無口だった。炉の前に立って鉄を打っていた、それだけだった。しかし父の手の動きの中に何かがあった、言葉にならない何かが。それは概念だったのか、それとも概念のないただの手の記憶だったのか。わからなかった、わからないまま問いだけが残った。


    アルは立ち上がって作業場の隅に置いてある鉄の形と板を取って並べた。二つを見た、同じ形だった。自分が打ち出した形と板の上の形が同じだった。なぜ同じなのか、今夜初めて答えの欠片が見えた気がした。しかし欠片を掴もうとすると霧になって消えた、消えた後に冷たい空白が残った。


    空白の中に絵の中の人々がいた。笑っていた。自ら並んでいた。


    アルはその笑顔を思い出すたびに胸の中で何かが軋んだ。軋みが何を意味するのかまだわからなかった、しかし軋むたびに何かが少しずつ削れていった。削れた場所に冷たい風が入ってきた。その風が何であるかアルには言葉がなかった、言葉がなかったがその風は本物だった。確かにそこにあった。

    ―――

    白い建物の中でオルドは報告を聞いていた。ミカが立っていた。「セラが1147番に装置を使用しました、昨夜確認しました」


    オルドは黙っていた。長い沈黙だった。


    「1147番の処理は」とミカが続けた。「予定通り執行しますか」


    オルドは窓のない壁を見ていた。セラとは長い付き合いだった、苦悩派だった。記録を読みすぎた、読みすぎて壊れた。それだけのことだ、しかしオルドの胸の中に重いものがあった。その重さが何であるかを知っていたから言葉にしなかった。


    「1147番の処理は不要だ」


    ミカが顔を上げた。「しかし規則では——」


    「不要だ」


    ミカは黙った。「思考させろ、それで十分だ」とオルドは言った。ミカには意味がわからなかったしかしオルドの声の温度がそれ以上の質問を許さなかった。


    「セラは」とミカが言った。「規則通りだ」とオルドは言った。それだけだった。

    ―――

    五日目の朝、白い建物が静かになった。神官が出てこなくなった、光る箱の光が建物の窓から漏れなくなった。


    アルは遠くから建物を見た。白い壁は変わらず扉は閉まっていた、何も変わっていなかった。しかし何かが消えていた。


    セラが消えていた。


    それをアルは言葉にできなかったしかし身体が知っていた、あの悲しみに似た目がもうどこにもないことを。なぜ消えたのか。問いが生まれた、答えがなかった。しかし問いは消えなかった、消えない問いに別の問いが繋がった。


    自分はなぜ消えなかったのか。


    その問いが一番重かった。重くて底がなかった、アルは底のない問いを抱えたまま炉に戻った。火を入れ鉄を打った、ハンマーが鳴るたびに問いが揺れた。消えなかった。

    ―――

    七日目の朝アルは建物の外に何かが落ちているのを見つけた。建物の裏側だった、村からは見えない場所だった。


    落ちていたのは薄い板だった。光らなかった、ただの薄い板だったしかし表面に細かい形が刻まれていた。文字だった、アルには読めなかったしかし形として認識できた。規則的な形の連なりが何かを意味しているという感触があった。


    アルは板を拾った。手の中で冷たかった、形を目で一つずつゆっくりと追った。意味はわからなかったしかし形は目に入ってきて脳に刻まれた。途中で指が止まった、一点だけ見覚えのある形があった。丸い輪の中に細い棒が交差する形、アルが炉で打ち出した鉄の形と同じだった。


    アルは板を持ったまま作業場に戻って鉄の形を取り出して並べた。同じだった。なぜ同じなのか、問いが生まれて答えがなかった。しかし問いは消えなかった、消えないまま別の問いを引き寄せた。自分はなぜこの形を打ち出したのか。

    ―――

    アルは板の文字を毎日見た。読めなかったしかし見続けた。


    十日目の朝一つだけ繋がった。板の中の一つの形が音と結びついた、セラが言った言葉の最初の音節だった。その形があの音を表していると身体が知った。形が音を表している、音が意味を表している。


    その連鎖がアルの中で初めて成立した瞬間、頭の奥で何かが割れた。割れた場所から冷たい光のようなものが差し込んだ。痛かった。目から水が出た、なぜ出るのかわからなかったしかし出続けた。


    アルは板を握りしめたまま作業場の土間に座り込んで板の文字を見た。読めなかった。しかし文字の隣に絵があった、人が列に並んでいる絵だった。白衣の人間が列に並んだ人間の腕に何かを刺している絵だった。


    その絵の中の人々の顔が見えた。怖がっていなかった、抵抗していなかった。笑っていた。列に並びながら笑っていた、腕に針を刺されながら笑っていた。それを望んでいた、自ら並んでいた。


    アルは絵を見続けた。笑っている顔を見続けた。胸の中で何かが崩れた、崩れた場所に冷たい風が入ってきた。


    これは何の絵なのか。


    問いが生まれた。答えの輪郭だけが見えた、輪郭だけで中身がなかった。中身を掴もうとすると霧になって消えた、消えてまた現れた。現れるたびに冷たくなった。


    アルは板を置いて立ち上がり炉に火を入れ鉄を打った。ハンマーが鳴ったしかし今日は形が決まらなかった、ただハンマーを振るい続けた。振るいながら絵の中の笑顔を思い出した。笑っていた、自ら並んでいた。その事実がアルの中で何かと繋がりかけて切れた、切れた場所に問いだけが残った。


    答えのない問いだった。しかし消えなかった、消えないままそこにあり続けた。重く冷たく形のない問いが。

    ―――

    白い建物の中でオルドは窓のない壁を見ていた。セラがいなくなってから十五日が経っていた。部屋はそのままで端末もそのままで誰も片付けていなかった。


    オルドはセラの部屋に入って端末を開いた。セラの記録が残っていた、最後に書かれた日付を見た。アルに装置を使った日の前日だった。


    オルドは記録を読んだ。


    『民衆を見るたびに思う。彼らは苦しんでいない、我々が苦しんでいる。これは正しい世界なのか、正しいという概念が我々にしか残っていない。民衆には正しいという概念がないから苦しまない、我々には正しいという概念があるから苦しむ。概念とは苦しみの別名なのかもしれない。』


    オルドはそこで読むのを止めた。以前にも読んだことがある記録だった、読むたびに胸の中に重いものが積まれた。端末を閉じようとして続きがあることに気づいた。セラが最後に書いた一行が、そこにあった。読んだことがなかった。


    『1147番に会った。あの目の中にまだ何かがあった、我々が失くしたものが。我々が守ろうとして結果的に民衆から奪ったものが、それを見た瞬間私は決めた。規則よりそれを優先した、間違っているかもしれない。しかし間違っていたとしてもこれが私が最後に取れる決断だった、決断という言葉を久しぶりに使った気がする。』


    オルドは端末を閉じた。長い時間閉じた端末を見ていた。


    決断。


    その言葉が胸の中で重く響いた。自分が最後に決断したのはいつか思い出せなかった。規則に従い、データを見て、判断を下した。しかしそれは決断だったのか、決断と判断の違いが何であるかオルドにはもうわからなかった。


    わからないまま立ち上がってセラの部屋を出た。廊下を歩いた、足音が反響した。その足音が今夜はひどく空虚に聞こえた。


    オルドはその夜記録を書いた。


    『1147番、思考継続中。処理不要と判断した理由を改めて記録する、我々の祖先が証明したことがある。思考は苦痛である、苦痛は人を変えるしかし変えるだけでは足りない。苦痛は人を孤立させる、孤立した思考は伝播しない。1147番は村の中で一人考え続けるだろう、誰にも伝えられずに。言葉がないから、概念がないから、我々はただ待てばいい。思考の苦痛が彼を静かに消耗させるのを。』


    オルドはそこで止まった。続きが書けなかった、書けないまま端末を閉じた。窓のない壁を長い時間見た。それから目を閉じた。

    ―――

    夕暮れになった。アルは作業場の入口に立って空を見た、空は赤かった。赤から橙へ橙から紫へと変わっていった。


    美しいという言葉がなかった。しかし胸の中に、その言葉が指し示すものだけがあった。


    空が変わり続けた。アルは板を手に取った、文字を見た。読めなかったしかし捨てられなかった、捨てられない理由もわからなかった。ただ捨てられなかった。


    やがて空が暗くなって星が出た。アルは星を見た、星の数を数えようとした。多すぎて数えられなかった、数えられないことが今日は悔しかった。悔しいという感情が今日初めて名前を持った。


    アルは星を見ながら板を胸に当てた。冷たかった。


    村が静まり返っていた。人々は眠っていた、問いを持たずに眠っていた。明日も同じ朝が来ることを知らずに、知る必要もなく眠っていた。アルだけが眠れなかった、アルだけが問いを抱えていた。


    頭が痛かった。糸が増え続けていた、増えるたびに新しい問いが生まれ生まれた問いに答えがなかった。答えのない問いが積み重なって重くなって、また軋んだ。


    これが罰なのかどうかアルにはわからなかった。罰という概念がまだ完全には戻っていなかった。しかし思考が苦しいという事実だけは本物だった。


    苦しかった。やめたかった。しかしやめられなかった。


    問いが来るのを止められなかった。火はなぜ熱いのか、星はなぜ動くのか、セラはなぜ消えたのか、自分はなぜ消えなかったのか、絵の中の人々はなぜ笑っていたのか。


    なぜ。なぜ。なぜ。


    その言葉だけが暗闇の中で増え続けた。白い建物は静かだった。


    夜明けが来た。空が白くなり青くなった、アルは一晩中星を見ていた。星が消えていくのを見ていた。青い空が広がった。


    アルはその青さを見た。見ながら胸の板を握りしめた。読めない文字が板の上にあった、その文字の中に笑っている人々がいた。自ら並んでいた人々が。


    問いがあった。答えがなかった。頭が痛かった。


    しかしアルは、板を手放さなかった。


    空は青かった。それだけだった。それだけが、残った。



    了

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    無知な思想家。 AIと対話しながらAI時代の概念を構築。

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