
あの時、解り合えたはずの熱
彼と別れて、まだ二日しか経っていない。
世界から急に色彩が奪われ、視界は澱んでいる。胸の奥には、冷たく重いコンクリートの塊が居座る。呼吸をするたびに塊が胸を圧迫する。
とゆうより、呼吸が苦しい。肩こりなのか、自律神経が乱れているのか。重く。圧迫されている。
街を歩いていると、ふと視界に蕎麦屋の暖簾が飛び込んでくる。
意識は強制的に、彼と付き合い始めたばかりの京都での記憶へと引き戻された。
あの頃の私たちは、これから続く長い未来を信じ、共に同じ景色を見ることに夢中だった。大雪予報が出ていた京都の街。足止めを食らうリスクを冒してでも私が「行きたい」と願った旅を、彼は嫌な顔ひとつせず、電車の時刻やルートを細かく調べ上げ、万全の配慮をして叶えてくれた。
「うわー、さむいー!」
「本当。寒すぎるよね。でも雪きれい!」
凍えるような寒さの中で、舞い落ちる雪を見上げながら笑っていた。
そんな他愛のない会話を交わし、ふと彼がポケットから温かいカイロを取り出した。驚いた。私も同じものを持っている。
「あ、同じこと考えてたんだね」
そう言って顔を見合わせ、笑い合ったあの温もり。その瞬間を、自分たちの「幸福の原風景」 だと確信していた。
それなのに。すれ違いは突然起きた。
家で未来のことを話しているとき。楽しい未来の話をしていたはずだった。
「挨拶とか、形式的なことなんて後回しでいいよ。僕たちは二人が幸せでいればいいんだから」
彼はいつもそう言った。日本のしきたりや、私の家族を大切にしたいと願う思いに対して。彼は「二人だけの世界」 を何よりも優先しようとした。彼にとってはそれが愛の証明だったのかもしれない。けれど、その言葉を聞くたび、自分の根っこが否定されるような、鋭い孤独を感じていた。もちろん二人の生活を一番に考えたい。二人の考え方を作りたい。だけど、真っ向否定。と受け取ってしまったのが私なのだ。
私は、私の家族のこと、そして彼と共に築いていく家族、その両方を同じ温度で大切にしたかった。抱える事情も、日本の古き良き形も、すべてをひっくるめて尊重してほしい。それが私自身なのにね。苦しいよ。
「ただ彼との二人だけの幸せ」 が、本当に私の望む未来なのか。彼の色に染まり、自分の大切にしたいものを捨ててまで「守られること」 に安らぐ自分。その姿を想像するたび、胸の奥にポッカリと穴が開くような、言いようのない空虚さを覚えてしまう。
気づいてしまったのだ。好きなのに。大切な人なのに。
蕎麦屋を横目に、逃げるようにピラティスのスタジオへと向かった。
心身の疲労はピークだったが、ここで立ち止まれば、暗い思考の渦に飲み込まれてしまう気がした。マシンに向かい、硬くなった筋肉を引き伸ばす。呼吸を整え、身体の痛みに集中するその時間だけが、唯一の避難所だった。
レッスン後、インストラクターの先生がふと声をかけてくれた。
「ゆうかさん本当に努力家ですよね。体がそんなに疲れてるのに来られてて。昨日聴いた言葉が私ずっと残っていて……。クリスティアーノ・ロナウドの言葉を見かけたんです。『自分が自分を信じられることが幸せな人生だ』 って」
スーーーーーー。と。心が潤うのを感じた。乾ききった心の最深部へ。確かな弾道で突き刺さった。
なんとゆうか。脳天を殴られたような衝撃だったのかもしれない。これまで抱えてきた「違和感」 の正体が、一瞬にして弾けて消えた。
ただ大切にされるだけの存在としてそこにいることに、幸福を感じられる人間ではなかったのだ。どれほど穏やかな環境を与えられたとしても、私という人間が抱える事情。乗り越えようとする意志を共感してもらいたい。彼のことが大切だからこそ私のことを解ってほしい。
「守られること」 に依存するのではない。大切にしたい家族や背景を共に抱え、葛藤の先にある景色を一緒に目指していきたい。
スタジオを出ると、頭の中を支配していた「彼への未練」 の音が小さくなっていた。
「好きだった」
過去形が、心の中に静かに浮かんだ。
彼という個人を失って悲しんでいたのではない。自分で道を切り拓こうとしていた「自分らしさ」 を見失いかけていたから、息苦しかったのだ。
私は、大丈夫だ。好きだった。だったんだ。もう過去。
これからは、相手の価値観の中に押し込めて与えられる「安心」 に寄りかからないようする。抱える事情や価値観を理解しようと努めてくれる人と共に歩んでいく。自分を信じ、相手を信じるための努力の果てに、幸せはある。確信を掴み取れるような関係を。自分の決めた道を。自分の意志で歩み続ける。
衝突や困難を分かち合い、その先に見える景色を共に愛せるパートナーとなら、本当の幸福を掴めるはずだよね。
「今日は、蕎麦でも食べて帰ろうか」
全力で労うために蕎麦を食べたくなった。
運ばれてきた蕎麦をすする。あの頃二人で分けたあの熱さはない。けれど、身体に染み渡るその温もりは、真っ直ぐに支えてくれる確かな味だった。
これまでは、彼という盾の裏で守られることに安らぎを求めていた。でも、今の私には、自分で選んだものを味わい、その結果としての痛みも歓喜も、すべて自分で引き受ける覚悟がある。誰かに与えられる「正解」を探すのはもうやめよう。たとえ険しい道だとしても、自分の中に確かな基準を持ち、迷いながらも自らの足で選んだ景色こそが、私にとっての真の安らぎになるはず。
幸福にする物語。つくってやる。
見とけよ。元彼よ。幸せを証明してやる。