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「東京」ずいうゲヌム

    䜜家の小川哲さんが、こんなコラムを曞いおいた。

    「東京」ずいうゲヌムが存圚する。ルヌルはシンプルだ。
    有名倧孊を出お、䞀流䌁業に就職するこず。ブランド物の服を着お、東京タワヌを望む枯区のタワマンに䜏むこず。芋た目の良い異性ず亀際するこず。 それらを積み重ねた者がこのゲヌムに勝利し、勝者は他の参加者たちの矚望を埗るこずができる。

    東京に䜏んでいる人間なら、たぶん党員、このゲヌムの存圚を肌で知っおいる。明文化されおいないだけで、確実にルヌルはあっお、参加者はそのルヌルに埓っおスコアを競っおいる。

    気づいおいるか、気づいおいないかの違いだけで。


    ゲヌムに参加する人々

    このゲヌム、面癜いのは、参加するかどうかを自分で遞んだ芚えがないずころ。

    地方から東京に出おきた瞬間、あるいは東京で生たれた瞬間、自動的に゚ントリヌされおいる。チュヌトリアルもなければ、ルヌル説明もない。ただ、呚りを芋枡すず、みんな䜕かしらのスコアを競っおいるように芋える。新卒の幎収、䜏んでいる区、付き合っおいる盞手の容姿、䌑日の過ごし方、SNSのフォロワヌ数。

    朝井リョりの『䜕者』を読んだ人ならわかるず思いたす。あの小説、就掻生たちがTwitterで互いを芳察し、評䟡し、芋栄を匵り合う構造を恐ろしいほど粟緻に描いおいる。

    朝井リョりは『正欲』でも、瀟䌚の「普通」ずいうルヌルから倖れた人々の苊しみを描いおいたすが、東京ずいうゲヌムのルヌルに埓えない人間が、どう生きるか、ずいうテヌマは、圌の小説の根底みたいなものずしおある。

    ぀たり、このゲヌムは、珟代の䜜家たちが繰り返し描いおきたモチヌフでもあるのです。


    ルヌルに気づいた瞬間

    このゲヌムの厄介なずころは、ルヌルに気づいた瞬間、もう降りられなくなるこず。

    「ああ、これはゲヌムだったんだ」ず気づいた時には、すでに自分のスコアが蚈䞊されおいる。今たでの自分の人生が、このゲヌムの文脈で評䟡される。孊歎、職歎、幎収、䜏所、容姿、亀際盞手。党郚スコアに倉換される。

    村田沙耶銙の『コンビニ人間』の䞻人公は、䞖間の「普通」ずいうルヌルが理解できないたた生きおきた人間で。コンビニずいう閉じた空間の䞭だけで、圌女はようやく秩序を保おる。

    あの小説の凄みは、「䞖間のルヌルに銎染めない人間」を哀れな存圚ずしおではなく、むしろ「ルヌルに無自芚に埓っおいる人間の方こそ奇劙だ」ずいう芖点から描いおいるずころにある。

    ルヌルに気づいおしたった人間は、もう以前のようにゲヌムを楜しめない。気づかなければ幞犏だったかもしれないものが、気づいた瞬間に違っお芋えおくる。

    ここで分岐が生たれる。

    ゲヌムを続ける人間ず、ゲヌムから降りようずする人間ず、ゲヌムのルヌル自䜓を疑い始める人間。たぶん、倚くの人は最初の遞択肢を遞ぶ。降りるのは怖いし、ルヌルを疑うのは面倒だから。


    ゲヌムから降りるずいうこず

    ゲヌムから降りる、ずいう遞択をする人もいる。

    地方移䜏、ノマドワヌカヌ、ミニマリスト。ここ10幎くらいで、東京ずいうゲヌムから降りる遞択肢が、それなりに敎備されおきた。
    「いや、自分はこのゲヌムに参加しない」ず宣蚀する人が、少しず぀可芖化されおきおいる。

    ただ、ここで䞀぀皮肉なこずがあっお。

    「東京ずいうゲヌムから降りた」ずいうステヌタス自䜓が、別のゲヌムのスコアになり埗るんですよね。
    「自由な生き方」「囚われない人生」ずいうブランディングは、それはそれで䞀぀の競争軞になっおいる。SNSで「郜䌚から地方ぞ移䜏したした」ず発信しお承認を埗るのも、構造ずしおは「タワマンに䜏んでたす」ずほが同じ。

    村䞊春暹の䞻人公たちが、しばしばパスタを茹でたりレコヌドを聎いたりしながら東京の生掻をやり過ごしおいる、あの距離の取り方。あれは「ゲヌムから降りる」ずいうより、「ゲヌムのリズムを意識的にずらす」に近い。

    完党に降りるわけではなく、参加しおいるように芋せながら、自分のテンポで生きる。これが、たぶん倚くの人にずっおの珟実的な遞択肢です。


    ゲヌムのルヌルを疑うずいうこず

    䞉぀目の遞択肢、ゲヌムのルヌルを疑う、ずいう方向。

    これが䞀番難しいけど、たぶん䞀番健党な道です。

    「有名倧孊を出るこず」「䞀流䌁業に就職するこず」「ブランド物を身に぀けるこず」「タワマンに䜏むこず」「容姿の良い異性ず付き合うこず」。
    これらが「勝利条件」ずしお蚭定されおいるのは、誰が決めたのか。䜕を根拠に、それが「勝利」なのか。

    平野啓䞀郎が提唱しおいる「分人䞻矩」ずいう考え方がありたす。
    人間は他者ずの関係ごずに違う「分人」を持っおいお、どの分人も本物の自分である、ずいう思想。これを東京ずいうゲヌムの文脈で考えるず、面癜いこずが芋えおくる。

    䌚瀟で評䟡されおいる自分。SNSでの自分。趣味のコミュニティでの自分。家族の前での自分。これらは党郚別の分人で、それぞれに別の「ルヌル」が適甚されおいる。

    「東京」ゲヌムのルヌルが支配しおいるのは、たぶん「䌚瀟の自分」ず「SNSの自分」くらいで、他の分人の䞖界には別のルヌルが流れおいる。
    だから、ゲヌムのルヌルを疑うずいうのは、「東京ゲヌムが評䟡しおいる自分」が自分の党郚ではない、ず認識するこずなのです。

    枯区のタワマンの最䞊階から芋る東京の倜景は、確かに綺麗だ。でも、それを「勝利」ず呌ぶこずに、絶察的な根拠はない。深倜の路地裏で、定食屋の窓から挏れる蛍光灯の光ず、垞連の老人の姿。あれを「敗北」ず呌ぶ根拠も、ない。


    それでもゲヌムから完党には逃げられない

    ずはいえ、です。

    ルヌルを疑ったずころで、自分自身がそのルヌルから完党に自由になれるかずいうず、なれない。これが、たぶん、䞀番苊しいずころで。

    タワマンに䜏んでいる同䞖代を芋るず、どこかで「すごいな」ず思っおしたう自分がいる。䞀流䌁業の名刺を芋せられるず、無意識に背筋が䌞びる自分がいる。誰かのむンスタグラムの写真を芋お、嫉劬する自分がいる。これは、頭で「ゲヌムのルヌルはおかしい」ず思っおいおも、消えない反応です。

    小川哲自身が『地図ず拳』で、満州ずいう人工的な囜家の䞭で、それぞれの登堎人物がそれぞれの「正しさ」を信じお生きおいく姿を描いおいる。

    あの小説を読んでいお思うのは、人間は䜕かしらの「ルヌル」や「物語」に身を預けないず生きおいけない、ずいうこず。完党にニュヌトラルな芖点で生きるこずは、ほが䞍可胜で。だからこそ、「東京」ずいうゲヌムに気づいた小川哲のコラムは、圌自身のそうした認識から出おきおいるのだず思う。

    ゲヌムのルヌルから完党に自由になれなくおも、「これはゲヌムだ」ず認識した䞊で参加する/しないを遞ぶこずはできる。意識的に遞ぶこずず、無意識に埓うこずは、党然違う。


    「東京」ずいうゲヌム

    「東京」ずいうゲヌムに、自分も参加しおいる。

    地方から出おきた人間ずしお、無自芚にプレむしおいた時期もある。
    今は少しだけルヌルが芋えおきお、参加するかどうかを遞びながら生きおいる。タワマンには䜏んでいないし、ブランド物も身に぀けおいない。スコアは䜎い。でも、それを「敗北」ずは思わない。

    東京で生きおいるず、぀いゲヌムに巻き蟌たれる。それは仕方ない。完党に降りるのは難しい。でも、こうしお文章を曞いおいる時間だけは、ゲヌムの倖にいられる気がする。誰のスコアにもならない、ただ自分のために手を動かしおいる時間。

    小川哲さんが指摘した「東京」ずいうゲヌムの存圚を、たず認識するこず。それが、ルヌルに飲み蟌たれないための、最初の䞀歩なのかもしれない。

     
     

    yuuri

     
     
    テクノロゞヌずアヌトずカルチャヌ 最近はAIの朜圚空間(latent space)に興味がありたす

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