
短編小説|松尾、46歳。
夜遅く、部屋の蛍光灯がチカついた。
俺は気にせず、カップ麺のふたを半分だけ開ける。
3分待たずに箸を入れた。
麺は少し硬い。
でも、まあ、こんなもんだ。
テレビでは誰かが大げさに笑っている。
音量を一段下げる。
腰が痛い。
昼からずっとだ。
座っていても、立っていても、どこかが痛い。
松尾、46歳。
家族はいない。
カップ麺を食べ終えると、
俺は割り箸を輪ゴムでまとめて、ゴミ箱に放り込んだ。
明日も、朝早くからの仕事だ。
更衣室の扉を開けると、空気が変わる。
外では、場内アナウンスが流れている。
子どもたちの声が、朝の音として壁越しに聞こえてくる。
ロッカーを開ける。
中には、いつもの衣装が入っている。
順番通りに身につけていく。
大きな靴。次に、胴の部分。分厚い手袋。
最後に、頭。
被った瞬間、世界が狭くなる。
視界は丸く切り取られ、
自分の息が内側で反響する。
俺は、今、松尾じゃなくなった。
外に出て、仕事の始まりだ。
まずは来園者と写真撮影。
写真の列が途切れない。
気づくと、同じポーズを何百回も繰り返している。
小さな子どもを抱き上げることは、許されていない。
だから、腰を落とす。
同じ高さで、同じ目線になる。
そのときだった。
すぐ前で、
子どもがつまずいた。
大げさな転び方じゃない。
ただ、足がもつれて、
膝を打って、
そのまま座り込んだ。
すぐに、泣き声。
周りの大人が、戸惑って動けなくなる。
誰が先に手を出すべきか、
一瞬、空気が固まる。
俺は、立ち位置を確認する。
少し離れたところで、
列を整えるスタッフの背中が見える。
勝手に動くな。
触れるな。
しゃべるな。
それが、この仕事の約束だ。
それを破ったら、
仕事がなくなるわけじゃない。
ただ、
「次はないかもしれない」
その可能性が、
いま、背中に重くのしかかっている。
それでも、
泣いているのは、
目の前だ。
俺は、動いた。
一歩近づく。
腰に、きしみが走る。
しゃがむ。
俺は喋れない。
だから、
大きな手袋で、
そっと、子どもの膝に手をかざす。
そして、
もう一方の手で、
ふわりと、空を払う。
いたみを追い払うように。
そういう動き。
子どもは、まだ泣いている。
だから、俺は自分の胸を軽く叩く。
音が、内側で鈍く響く。
ここにいる。
やがて、
母親が駆け寄ってきた。
「ありがとうございます……」
その言葉を、受け取る名前が、今の俺にはない。
俺は、立ち上がる。
そのあとも、仕事は続いた。
やがて日が落ちて、園内の照明が一斉に点くころ、
空気が変わる。
控室で出番を待つ。
スピーカーのチェック音が、遠くで短く鳴る。
無線が、急に忙しくなる。
「準備、お願いします!」
背中の内側に、朝から溜まっていた重さが、
まとめて戻ってくる。
呼ばれる。名前で呼ばれるのは、ここまでだ。
夜の出番だ。
指定された位置に立つ。
足元の台が、ゆっくりと動き出す。
視界の端に、光が差し込む。
光が増える。
音が重なる。
頭の上の輪郭が、光の中で強調される。
自分では見えない。
でも、歓声で分かる。
俺は、決められた動きをする。
手を振る。
体を傾ける。
歓声が、波のように返ってくる。
誰も、中の俺を見ていない。
それでも、この世界は回っている。
昼に泣いていた子は、
この歓声のどこかで、
きっと、もう笑っている。
それだけで、いい。
けれど、腰の痛みだけが、まだ残っていた。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。他の作品はこちら👇