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蒼い罪

    序章
     
    「夕陽が掛かると、空は溶けて無に変わっていく」

     そう言ったのは彼女だっただろうか。

     二匹の金魚が数センチの距離を保ったまま、水草の奥に入っていった。ポンプから出てくる泡が、ガラスをなぞるように上がっていく。
    思えば、くだらない文章ばかり綴ってきた。何を書いても印象に残る作品など生み出せなかった。自分が手掛けた舞台に観客が沸き立っていても、遠い場所からガラス越しに眺めているようなのだ。 
    何がいいのかもわからず、何に喜ぶ価値があるのかわからない。自分が脚本を書くことで表現したかった芸術は、数十年前にとうに掴み損ねてしまっているのだ。芸術は人が脳に記憶できる数秒しか留まることはできないにも関わらず、若い頃の自分は思い上がっていて、そのことに気づいていなかった。
    文章に齧りつき、世間から認められるようになった今になっても、心に色を塗るような感覚は見つからなかった。この先数十年地上を彷徨ったとしても、見つかることはないだろう。きっと、私の精神はあのときに一度死んでいるのだ。

    潰れたセブンスターの箱から煙草を取り出す。パソコンの横に灰皿を寄せて、ライターを付けた。低い天井の木の木目に、煙が溜まっていくのが見える。トラックのエンジン音が聞こえると、窓枠が震えた。 
     濁った息を吐く。とても長い時間、のらりくらりと生き延びてしまった。ご飯を食べ、脚本を書き、就寝していると一日を生きてしまう。特に意識しなくても心臓が鼓動を続けてしまうのだ。生きようとしなくても、死のうとしない限り、生きてしまうのだ。人の恨みを背負うようなことがあっても、殺されることはなかった。ただ、モノトーンで覆われた毎日を生きていくことが、必ずしも死ぬことよりも幸福というわけではないのだろう。
    六十年間生きてきた私にとっては、あの頃の時間は一瞬だった。鏡に映る皺の増えた顔を見ると、誰が映っているのかわからなくなる。数十年間誰かの人生を生きてしまったのではないかとさえ思えた。滑稽だろうが、白髪が増えて小さな字が見づらくなっても、歳を取っている気がしないのだ。目を瞑れば、今でも鮮明に彼女の顔が思い浮かぶ。自分が老いていくにも関わらず、彼女は少女のような表情と、猫のように研いだ爪を煌めかせたまま、記憶の中で止まっていた。

     これから私が綴ろうとしているのは、ぼんやりとした男の記憶だ。気が狂ってしまうか、棺桶に入ってしまう前に、書き記しておこうと思う。万が一、これを見つけてしまった者は、どうかこの文章を土に埋めて、二度と掘り起こさないでほしい。

    そして、最後まで読んでくれるのなら、見下げ果てた男だと存分に笑ってくれ。

    第一章
    開演
     
     パンフレットを開いて、瑞穂の名前を確認する。
    「瑞穂、顔写真入りで載ってるね。写り方のせいか、ちょっと地味に見えるよな」
    「あ、父さん」
     弟の当真が荷物をずらしていた。父さん脱いだがジャケットを丸めていた。
    「あれ? 母さんは?」
    「お茶買いに行った。あ、ほら、今戻ってきた」
     開演のブザーが鳴り響く。母さんが小走りでこちらに向かってくるのが見えた。
    「兄ちゃん、ちょっと悔しいんじゃない? 瑞穂に先を越されて」
    「別にいいさ」
    「本当にすごいよな。劇団Tの主役だよ? もう女優になったようなもんでしょ?」
     顔を上げると、ほとんどの客席が埋まっていた。
    「たまたまじゃない?」
     当真がにやにやしていた。逸らすようにして、パンフレットのストーリー欄を眺める。
     
    「本日は劇団T公演ギリシャ神話『アフロディーテ』にお越しくださり、真に有難うございます。本公演のマリア役の蓮見瑞穂さんが休演のため、代役は・・・」
    「・・・?」
     家族が無言のまま顔を見合わせた。
    「・・・言い間違いじゃない?」
     場内が暗くなり、重々しく幕が開いていった。舞台のほうに顔を向ける。照明が舞台の真ん中を照らして、一人の女の子がこちらにお辞儀していた。
    『みなさん、マリアという女性を知っていますか? 貴族に生まれた、美しくて可憐な十七歳の女の子。彼女はこの町ではアフロディーテと呼ばれているの。なぜって? それは彼女が海からやってきたから・・・』
    『もう、舞踏会始まっちゃうわよ。早く行きましょう』
    当真が耳元で何かを話してきたが、首を振って舞台を眺めていた。
    『あら、大変。すぐに・・・』
    舞台裏にいる団員の小さな叫び声が聞こえた。
    「止めろ、止めろ」
    『・・・・・・・・・』
    「早く」
     壇上の女の子たちがきょろきょろと周りを見渡していた。客席がどよめき始めた。
    「何? どうしたの?」
     母さんが首を伸ばしながら呟く。
    「演出じゃない?」
    「開演早々、粋な演出だね」
     腕を組みながら座り直した。
    「え・・・あれ、何?」
     当真が前の席の背凭れに手を掛けて、身を乗り出していた。前列に座っていた女性が悲鳴を上げた瞬間・・・。

    「・・・瑞穂・・・」

    舞台中央に首にロープを巻きつけた妹がぶらさがっていた。

    二か月前

     大学に入って二年目の夏休みは、気怠さが部屋中を覆っていた。扇風機が首を回して、ルーズリーフを捲り上げている。バイトと部活動に通って、脚本を書いていてもまだ時間が余るほどだった。
    「隆司、いつまでもごろごろしてないでどこか行って来たら?」
     母さんが襖の前に立っていた。二つに折った座布団を抑えて、頭の位置をずらす。
    「明日、バイトだからいいや」
    「暇なら家の掃除くらい手伝ってよね」
    「掃除ってどこを?」
    「お風呂とか」
     図書館で借りた伊坂幸太郎の『重力ピエロ』を腹の上に載せて、目だけ動かした。
    「これ読み終わったら、部活の脚本のプロット書かなきゃいけないんだよね。来週時間あったらやっとくよ」
    「・・・っとにもう・・・そんなんばっかりじゃない。いつまでも脚本何て書いてないで、ちゃんと手に職を付けるような勉強しなさい」
    「別に・・・・・・」
     畳から足音が聞こえてくる。
    「ねぇ、お母さん聞いて」
    「どうしたの? そんなに走ると・・・」
    「劇団Tのヒロイン役のオーディションに受かったの。劇団員でもないのにいきなり主役よ」
     瑞穂が興奮しながら母さんにはがきを見せていた。ゆっくりと身体を起こして、本に指を挟んだまま座布団に手を付く。
    「もうさっきから手が震えて・・・まだ入って数カ月しか経ってないのに」
    「えぇ・・・」
    「何かの手違いじゃねぇの?」
    「違うわよ」
    「そういった夢見る女の子をターゲットにした新手の詐欺とか」
     意地悪く言った。
    「ちゃんと、K劇場で審査して監督と脚本家の人が決めてくれたもん」
     目を吊り上げて、ふんと鼻を鳴らしていた。
    「ねぇ、すごいでしょう? あのK劇場の大きな舞台を独り占めにするのよ」
    「あら・・・そう・・・。でも、本当なの?」
     エプロンで手を拭って、はがきを抓んでいた。
    「ほら、このはがきちゃんと見て。主役として迎え入れたいって書いてあるでしょう? 劇団の中でも優秀な人が受けてて、他からも受けに来たりして物凄く倍率高かったんだから」
     母さんが小さな目を何度も瞬きしていた。
    「でも・・・何で・・・」
    「二次審査のバレエが評価されたみたい。コッペリアのスワルニダのヴァリエーションの一部を踊ったの」
    「ん? 別にソロで踊ったこと無かったじゃん」
    「いちいち煩いな。隆兄は黙ってて」
     高く縛った髪が大きく揺れた。
    「何役なの?」
    「ギリシャ神話のアフロディーテに当たるマリアっていう女性。この劇団の脚本を担当している先生がギリシャ神話を元に、脚本家がアレンジした作品なんだって。あぁ、あたし本当に女優になれるのね」
    「ふうん。ま、いいけど」
    たった一つの劇団のオーディションに受かったというだけで女優になれるのは甘い気がした。ただ、全身で喜びを表現する妹を見ると、母さんも何も言えないのだと思う。反射的に開いた口を噤んで、畳の目に本の角を当てた。
    「父さんにも教えなきゃね」
    「お父さん今日何時に帰ってくるの?」
    「そうね・・・今日は会議が長引きそうだって・・・」
    「えぇ、待てない。メールしとこ。絶対びっくりするよ。お父さん舞台の仕事に戻っちゃうかも」
     網戸に止まっていた小虫が遠くのほうへ飛んでいくのが見えた。扇風機の風がこちらに向くと、額の汗が少し引いていく。座布団の横に置いた団扇で仰ぎながら、甲高く響く瑞穂の声を聞いていた。

     瑞穂は三歳年下の妹だった。頬と唇のあたりは母さんに似ていたが、涼しげな目つきと融通の利かないところは父さんにそっくりだと思う。物心ついた頃から、女優になりたいと口にしていた。バレエを始めたのもその頃だったかもしれない。毎年発表会に駆り出されたが、瑞穂の演技はほとんど目に入らなかった。手足が長くて見栄えはしたが、今一つ突き抜けるものが無かったのだと思う。丁寧に踊ろうとするあまり、個性が欠けてしまったのだろう。でも、隣に座っていた弟の当真は、贔屓目もあるのか瑞穂が一番だと絶賛していた。
    「ただいま」
    「あ、当真兄お帰り。お隣さんから貰ったスイカ美味しいよ」
     当真が団扇をテーブルに置いて席に付いた。切り分けられたスイカに被りつくと、汁が皿に滴り落ちた。
    「瑞穂、母さんから聞いたよ。すごいじゃない」
    「でしょう? この舞台が終わったら、シェイクスピアの作品とかやってみたいの。ロミオとジュリエットのジュリエットがいいな」
     種を抓んで皿に出した。
    「気が早すぎるだろ」
    「ねぇ、当真兄、隆兄ったらずっとこんな感じなの。ひどくない?」
    食卓テーブルに三つのグラスが透明な影を落としていた。ペットボトルを凹ませて、ウーロン茶を注いでいく。
    「兄ちゃんは悔しいんだよ。妹に先を越されてね」
    「なるほどね」
     当真が八重歯を突き出してこちらを向く。すぐに否定はできなかった。
    「兄ちゃんも行って勉強させてもらったら? 瑞穂の後ろにくっついて、劇団にこっそり入れてもらってさ。いい刺激になるんじゃない?」
    「そんなのあたしが嫌よ」
    「ま、そりゃそうだな」
     ティッシュで赤い唇を拭いていた。
    「まぁ、俺がそれなりのもの書けるようになったらね。瑞穂に頭下げて演じてもらうよ」
    「いいものだったら演じてあげる」
    「はいはい。よろしくね」
     ベランダに干した靴下が日差しの間を揺れている。クーラーの風で右肩がひんやりとしてきた。スイカの皮をボールに入れて、ウーロン茶を飲み干す。付けっぱなしにしたテレビの音がカフェのBGMのようだった。
    「来週から、練習なの。っていっても、顔合わせと読み合わせかな。どんな俳役なんだろう、まだ劇団の子がどれくらい入ってるのかも聞いてないのよね」
     絹糸のような髪が肩を流れていった。
    「そうだ。ねぇね、本格的な練習始まったらちょっと見に来ない? 一般開放の日もあるんだよ」
    「俺はパス。当真だって模試あるだろ?」
     窓の外で、母さんがお隣さんと何か話しているのが見えた。
    「いいよ。別に一日くらいサボっても進路には響かないよ」
    「さすが当真兄」
     サッカーで日に焼けた頬を掻いていた。当真は都内で有名な進学校に通っていた。現文と古文しかできなかった自分とは違い、全教科の成績も常に上位をキープしているようだった。年頃なのにも関わらず彼女の気配が無かったが、妹には何か相談していたのかもしれない。スイカの種を吐き出す。優秀な弟を見ていると、だらだらと大学生活を送っていることで、少し肩身が狭かった。

    「蓮見君、棚入れ終わったらレジ入ってもらっていい? あたしちょっと出るから」
     店長のおばさんが声を掛けてきた。
    「はい」
     賞味期限切れのパンを抜いて、新商品の菓子パンや惣菜パンを敷き詰めていく。ファミリーマートのマークの入ったトラックが、駐車場から出て行くのが見えた。自動ドアが開く度に、聞きなれたチャイムが鳴っていた。
    「お疲れ。今、お客さん居ないし手伝う?」
    「あぁ、でもこれでもう終了」
    「あ、じゃ、これ持ちますね」
     コンテナを持って、立ち上がった。東条は大学でアメフトをやっているらしく、同じコンテナを持っていたが、彼の持っているほうが一回り小さく感じた。
    「蓮見さんってもう就職先決まったんですか?」
    「ん、まぁね。舞台関係の裏方」
    「マジで? あぁ、そういや部活もそんな感じでしたよね?」
     コンテナを置いて、こちらを見降ろしていた。スタッフルームのドアを押して、180センチある筋肉質な身体から距離を置く。
    「・・・演劇部」
    「演劇? 何それ。何か演じてるんでしたっけ?」
     腹の立つ言い方だった。
    「いやいや、俺は演じないよ。脚本書いてるんだよ」
    「脚本?」
     蛇口を出しっぱなしにしたまま、手首で洗剤のポンプを押した。
    「そ」
    「へぇ・・・。なんか頭良さそうですね」
    「妹も女優を目指しててね。一昨日、有名な劇団の主役を勝ち取ったみたいで、今家で大騒ぎしてるよ」
    「何てところなんですか?」
    「劇団T」
    「T?」
     声色が変わった。
    「マジで。それって、すごいじゃないですか」
     改めて他人の口から聞くと、瑞穂の態度に納得がいった。近くに居るから実感がないだけで、本当は驚くほど名誉なことなのかもしれない。
    「じゃあ、ずっと劇団に?」
    「いや、最近入ってオーディションに受かったらしくてさ。誰もが、まさか妹が受かると思ってなかっただろうね」
     レジ前に立って、フライドポテトを出している東条の背中を見ていた。
    「そりゃ、周囲の恨みかいますね」
    「え? あぁ、うん・・・・・・」
     雑誌コーナーで立ち読みしていたお客さんが、ドアを引いて出て行った。包装を開けて、レジの10円玉を揃える。
    「恨みねぇ・・・そりゃそうだよな」
    「あぁ・・・ちょっと違うかもしれないけど、はチア部の子で居ましたよ。トライアウトでダンスのセンター選ばれた子とか、壮絶な虐めにあってたみたいでね。表は仲良くしても裏が・・・とか多いらしいっすよ」
    「ふうん・・・」
     精神に霧が掛かってくるようだった。
    「あ、でもその子は気が強くて、そうゆうの全部跳ね返してましたけどね。言いたきゃ言わせとけって、男前になってましたよ」
     フライドポテトを揚げながら、額に汗を滲ませていた。
    「いらっしゃいませ、こちら温めいたします・・・」
    弁当に付いた醤油をレンジに張り付けながら、瑞穂のことを考えていた。嫉妬されることも飲み込んで女優になろうとしているのだから、少しくらい陰口の標的になることは仕方がないことだと思うのだ。

    開いた窓にカーテンが張り付いている。演劇部で使用する次回作の脚本をパソコンに打ち込んでいた。立体的な芸術を想像して、文章を組み立てていくのは心踊るような作業だった。当真に言わせると、自分は変わっているらしい。でも、具現化されていない芸術に自分の感性だけが触れることができるというのは、真新しい雪に足を付けるような心地になれるのだ。きっと、気づかないで生涯を終える人は、人生の八割を損して過ごすことになってしまうのだろうと思っていた。
    「兄ちゃん、ちょっといい?」
    「・・・あぁ」
     文章に漢字変換を掛けて手を止めた。当真が背中でドアを閉めていた。
    「何?」
    「瑞穂が演じるアフロディーテって知ってる?」
    「あぁ、ギリシャの女神だろう?」
     英語ではヴィーナスと読むらしい。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』では海から生まれる愛の女神が表現されているが、愛が故になのか男性遍歴が華やかだった。
    「昨日学校の図書室で調べて来てさ。瑞穂はさ、アフロディーテって感じじゃないよな」
    「当真までそんなこと言ったら、瑞穂に怒られるよ」
    「そうかもね」
     当真が漫画を避けてベッドに座り込んだ。
    「すごいよね。でも、本読んでみたら、正直、高校生でアフロディーテなんて演じられるのかって思ってさ。結婚してるにも関わらず、男をとっかえひっかえ弄ぶんでしょ? そんな役、瑞穂ができるのかって思って」
    「アフロディーテって言うけど、元になってるってだけで、ギリシャ神話をそのまま脚本にしたわけじゃないって言ってただろう? 監督や脚本家の感性だって混ざってるだろうし・・・」
    「わかってるけどさ・・・」
    「心配し過ぎだよ」
    「小さなホールの発表会とかとは訳が違うよ」
     瑞穂が選ばれた理由を考えると、アレクサンドル・カパネルの『ヴィーナスの誕生』をイメージしているのかもしれないと思っていた。瑞穂の空中に重量感のあるバレエでの舞い方は、『ヴィーナスの誕生』に描かれる女性らしさに近いものがある気がしていた。
    「大丈夫なのかなってさ」
     椅子を回す。
    「脚本家はきっとこう考えて、作品を書いたんだ。どろどろとした愛憎劇じゃなく、ヒロインに『ロミオとジュリエット』のジュリエットみたいな無邪気さを出したいってね。確かにアフロディーテの描かれた絵画も、魔女のような女には見えないしね」
    「・・・・・・・・・」
    「だから、きっと監督なりの考えがあるんだよ。お前が心配するようなことじゃない」
     キーボードに手を載せたまま、足を組み直した。
    「なるほどね。兄ちゃんがそうゆうなら、納得だね」
     頬のニキビを摩っていた。
    「心配性なんだよ。そんな心配ばっかしてたら、爺ちゃんみたいに禿げるよ」
    「兄ちゃんってさ、やっぱり脚本の才能あると思う」
    「は? なんだよ急に」
     おでこを出して、口角を持ち上げていた。
    「兄ちゃんが作る脚本に、瑞穂が出ればいいのにね」
    「・・・・・・・・・」
     美術書の並んだ本棚を眺める。
    「・・・当真は何やんの? その時」
    「・・・俺? 俺は何にも才能がないからね」
    「ま、俺だって才能あるって言ってくれるのは当真くらいだよ。演劇部の部員なんて、自分のことばっかだし」
    「そのうちみんなが兄ちゃんの才能に気づくよ」
    「はいはい。どうも」
     適当に相槌を打った。部員は良い脚本を求めているのではなく、各々にスポットライトを浴びるシーンを求めていた。きっと、口には出さないにしても、観劇に来た誰かがスカウトしてくれないかと思っているのだろう。
    「じゃ、俺勉強して来るわ」
    「大変だな。受験生」
    「これから解放されたら、遊びまくるよ。おやすみ」
    「・・・あぁ」
     学生はいい職業だな、とつくづく思う。いつまでも終わらない夢を追い続けることができた。両足を床に降ろして、文章の中に心を沈めていく。僕もいつまで文章の中に身を潜めていられるのだろう。精神が肉体から離れて、白い原稿用紙の上をふよふよ漂っていた。

     瑞穂の雰囲気から創り上げるアフロディーテのマリアを想像していた。監督や脚本家は、舞台上でどんな演出をするつもりなのだろう。
    「蓮見さん、ここの台詞なんかもうちょっと感情的なほうがいいんじゃない?」
     パイプ椅子を離れて、教室の真ん中のほうに向かう。
    「そう? ここは緩やかな怒りを溜めて、短い台詞に含ませてほしいんだけど」
    「ん・・・そう?」
     部活のために書いた脚本は、ほとんどが実験的なものだった。今回は高校のときに童話として書いたものを、脚本に書き直していた。普通に暮らしていた少年が、公園で遊ぶ友達が欲しいと考え、目の前に居る男の子に段々派手になる自分の服と顔を自慢するうちに、ピエロになってしまったという話だ。童話としても気に入っていたが、鼻をオレンジに塗り、目を黒く縁取り、唇を真っ赤にする異常性を表現するには、文章だけでは限界があった。
    「聡も公園に居るにも関わらず、僕は他の友達を求めておかしくなっていくんだよ。怒りや失望の混じった感情を抱いている、けど言えないっていうのを表現してほしいんだ」
    「ねぇ、あたしは? 僕から遠く離れた場所で監視してるって書いてあるけど、台詞とかこんなになくていいの?」
    「そこは、表情で見せてほしいんだよ。僕のことを何か知っているような装いで、あえて近づかないという不気味さを表現してほしいんだ」
    「ふうん」
    「確かに、そうすればこの場面にインパクトが出るかもね」
    「そうね。あたし個人としては、もっと会話を入れたかったんだけど・・・」
    「場面4から雅さんの存在感を出していって。もし足りなかったら、来週までに会話を追加していくから」
    「はぁい」
    A4用紙に書かれた脚本を丸めながら、何て読解力がないのだろうと思っていた。一つ一つに説明を入れなければいけないほど、自分の脚本は完成されてないのだろうか。
    「じゃあ、二時半まで休憩したら、場面2でお願いします」
    「はい」
     溜息が漏れる。瑞穂が劇団Tに入ったことにより、自分の中で焦りが出てきていた。深呼吸をして、大袈裟に演技を始める部員を眺める。
    部員は一、二年生で構成され、真面目に練習に来る人も十人程度だった。顧問の先生も居たが、ほとんど練習を見に来たことはなかった。瑞穂の居る場所とは比べものにならないほど劣っているのだろう。劇団に居るどの人を当てはめても、脚本が望んだ形にはならないのだ。
    「蓮見君、あのさ・・・」
     主役の久保が台本を持って走ってきた。
    「蓮見君の妹さんって劇団Tの主役やるって本当?」
    「あぁ、よく知ってるね」
    「演劇関係に友達が居てね。その子は確か、ギリシャ神話でアドニスにあたる人物のオーディションを受けたけど、落ちたって言ってたよ」
    「ふうん」
     クリップを弄りながら、ペンを回す。
    「主役なんてかなりの倍率だったんじゃないかな」
    「別に、たまたまオーディションに受かっただけでしょ。あぁゆうのって運もあると思うんだよね」
    「そうかな?」
    「そうさ」
     脚本と演じるべき人の縁が繋がることは稀なのだと思う。妹だけが特別なのではなく、運が悪かったがためにエキストラに埋もれてしまった人もいるのだろう。
    「僕もオーディション受けてみようかな」
     そばかすの多い頬を摩っていた。
    「いいんじゃないかな。あ、特技とかあったらいいかもね。妹は演技の他にバレエも踊ったらしいから」
    「バレエ?」
    「そう。舞台の表現力を見たかったんだと思うよ」
    「そうか・・・たとえ演出に踊りが無くても、バレエは身体能力を見るのにいいのかもね。主役級なら特に」
    「あぁ」
     窓際に寄せた机に日差しが降りている。
    「それにしても、すごいよな。K劇場でやるんだもんな」
     瑞穂が劇団Tの主役になると、自分の夢もそんなに遠いものではないように思えてしまう。
    「公演始まったら見に行くよ」
    「ありがとう」
     久保は背が低く、容姿も淡麗というわけではなかったので、主役は難しいかもしれないが、個性派の脇役としてなら伸び白があるような気がしていた。
     狭い教室を見渡す。この空間と、部員を最大限に活かせるような脚本を書けるなら、創造力の幅を広げられるのかもしれない。瑞穂の居る環境とは雲泥の差だが、いつかは自分も舞台という大きなキャンバスに向かって感性を表現できるようになりたいと思っていた。

    「ごちそうさま」
    「あら? 瑞穂、もう食べないの?」
    「うん。もうお腹いっぱい」
     皿に盛られたパスタのミートソースがほとんど残っている。当真が箸と止めて、立ち上がる瑞穂を目で追っていた。
    「体調でも悪いの?」
    「ううん。大丈夫」
     母さんの心配そうな表情に背を向けて、リビングのソファーを横切っていった。しばらくして、階段を上る足音が聞こえた。
    「ん? 何かあったのか?」
    「舞台のプレッシャーかしら。昨日も夜遅くまで台本読んでたみたいだし」
    「・・・そうか」
     父さんがビールを一口飲んだ。
    「最近瑞穂痩せたような気がするんだけど。ちゃんと食べてんの?」
    「やっぱり、当真もそう思う?」
     気づかなかった。少しほっそりしているとは思ったが、私服のせいではないだろうか。
    「舞台は九月だけど、本当に大丈夫なのかしら。夏休みが終わってもぼうっとしてるし。劇団Tの主役なんて、瑞穂には荷が重すぎたのよ」
    「周りも年上が多いらしいしね。窮屈にやってるのは確かだと思うよ」
    「ほら、言ったじゃない。やっぱり、辞退させたほうがよかったか・・・」
    「母さん・・・」
     胸の奥が疼いていた。
    「・・・ちょっと大袈裟じゃないか? 大舞台でのプレッシャーなんて当然のことだろう? 父さんだって・・・」
    「そうだよ。母さんと当真は心配しすぎなんだよ。瑞穂だってもう高校生なんだし、誰に言われようが自分で掴み取ったチャンスを手放したくないだろ」
    父さんの声に被せた。当真が眉間に皺を寄せながら、口をもごもごさせている。
    「それは・・・そうかもしれないけど・・・」
    「ごちそうさま。俺、後でコンビニ行ってくるけど、何か買ってくるもんある?」
     食べ終わった皿を、洗い桶に浸していく。
    「・・・あ、じゃあ牛乳買ってきて。丁度切らしちゃった」
    「いいよ」
    ソファーに置いた携帯を持って、リビングを出て行く。久保から二回着信が入っていた。脚本のことで電話が掛かってくることは無かったので、夏休みの部活の日程か、舞台のチケットのことだろうか。

     パソコンを立ち上げて、携帯を肩に挟む。
    「もしもし、何か電話あったみたいだけど」
    『蓮見君、妹さん大丈夫だった?』
    「ん? 何が?」
     修正途中の脚本を画面に映した。卓上扇風機のコンセントを差し込んで、風向きを固定する。
    『何って・・・劇団Tの練習中に照明が落ちたって』
    「え?」
    『聞いてないの?』
    「・・・・・・いや・・・・・・」
     背中がすっと冷たくなっていった。
    『俺も友達から聞いた話なんだけど・・・・・・』
     久保の話によると、今日の練習中、劇団Tの練習中に舞台前方に吊り下げられたスポットライトが突然落ちてきたそうだ。火事にはならなかったが、レンズの破片が散らばって怪我をした人もいるらしい。アフロディーテが海から生まれて、小さな島に上がる場面だったので、瑞穂と花の妖精役の子たち数名が被害にあったと話していた。
    『そっか。妹さんも怪我したのかと思って・・・』
    「いや、さっきまでご飯食べてたけど何とも・・・」
    『よかった』
    「何が原因なの? それって」
    『俺も詳しいことはわからないんだけど。吊り下げてるハンガーのネジが、緩んでたみたいだよ。意図的なものかもしれないってのはある』
    「意図的?」
     声が上ずった。
    『・・・あくまで可能性だよ。誰を狙ってなのかはわからないけどね。一応はネジの老朽化ってことになってるよ』
    「照明ってワイヤーが付いてるだろう? 何で」
    『それがワイヤーは緩んでた照明の部分だけぷっつりと切られていたんだよ』
    「警察が・・・そう言ったの?」
    『いや、警察には話してないらしい』
    「何で・・・?」
     心臓の音が早くなっていった。瑞穂はどこか怪我をしているのだろうか。なぜ、何も言わないのだろう。家族に心配をかけたくないからだろうか。
    『劇団側は今後の舞台公演を考えて隠したいみたいだよ。あまり大事にしないようにね。特に大きな怪我を負った人もいなかったみたいだし・・・』
    「は? いいのかよ、それ」
    『だって、その話が広まったら舞台の話自体なくなっちゃうんだよ』
     握り締めた手に爪が食い込んだ。
    『妹さんも主役から降りたくないから、黙ってるんじゃないの?』
    「・・・・・・・・・」
     本棚に敷き詰められた脚本や美術書に視線を向ける。
    「そうだな・・・・・・久保、教えてくれてありがとう」
    『うん・・・じゃあ、一応また何かわかったら伝えるわ』
    「あぁ、よろしく・・・」
     携帯を切って、ベッドのほうへ放り投げる。劇団に潜む誰かが、舞台を中止させようと意図的にやったのかもしれない。きちんと警察に調べて貰えば、安心するのだろう。でも、やっと掴みかけた瑞穂の夢を壊してしまう可能性もあった。
     画面のスクロールを下げていく。自分の書いた脚本を見ても、内容が頭に入ってこなかった。両親には隠すにしても、当真に話すべきなのか迷っていた。否、瑞穂が黙っている以上、誰にも言わないほうがいいのだろう。
    「兄ちゃん、今いい?」
     ドア越しに当真の声が聞こえた。腕の筋肉が引き締まった。
    「ん・・・あぁ・・・・・・」
     マウスを動かして、画面を明るくする。
    「この前借りたレオナルドダヴィンチの美術書返すよ」
    「そこの本棚に入れておいて」
    「はいはい」 
     額がひんやりとしていた。
    「ん、感想聞かないの?」
    「あ、うん。今、脚本がクライマックスで手が離せなくて」
    「あ、そ」
     当真から視線を逸らした。瑞穂が危ない目にあったことを言うべきだろうか。
    「瑞穂といい、兄ちゃんといい、才能があるっていいね。俺も何かないかな」
    「・・・・・・・・・」
    「ま、とりあえず、目先の受験に全力注ぐよ」
     細い目を柔らかくして頬を上げていた。ドアが空気を抜いたように、バタンと閉まる。普通の兄ちゃんだったら警察に届け出て、原因が確定するまで舞台に出すことを望まないのだろう。ただ、自分の夢と重ねてしまうと、どうしても言い出せないのだ。

     当真は塾、母さんは買い物、瑞穂は舞台の稽古に行き、家には自分と窓際の金魚しか居なかった。
    空が夕焼けに溶けていく。窓の外を眺めながら、ギリシャ神話の絵画集を捲った。ギリシャ神話の女神の中では、ピュグマリオンの話が好きだった。自分で創作した彫刻に恋をするようになり、彫刻が人間になることを祈り、衰弱していくピュグマリオンを見かねて、アフロディーテが彫刻に生命を与えたという。ピュグマリオンの感覚がよくわかるのだ。いつか舞台にすることができるだろうか。想像を膨らませていくと、脳が張り詰めて脈が熱くなってくるのを感じた。
    「ただいま」
    「・・・おかえり・・・」
    「隆兄しかいないの?」
    「そろそろ、母さん帰ってくるんじゃないかな」
     瑞穂が帰ってくるなり冷蔵庫を開けていた。
    「やだ、昨日買ってきたアイスもう無いじゃん」
    「食べちゃったよ。そんなん」
    「もう」
     絵画集を降ろして、身体を起こす。
    「何? ギリシャ神話読んでるの?」
    「そ」
    「アフロディーテのこと載ってる?」
    「ボッティチェリの作品が載ってるよ。教科書にも載ってただろ?」
     ぺたぺたと音を立てて、フローリングを歩いていた。
    「見せて見せて」
     開いたまま、瑞穂の前に突き出した。あどけない顔を赤くして、絵の横に書かれた解説を読んでいた。内心、ほっとしていた。もしかしたら、照明が落下したことも本当に偶然が重なった出来事なのかもしれない。少し、過敏になり過ぎていたのだろうか。
    「今日は練習どうだったの?」
    「ん・・・求婚してきた蒼を誘う場面・・・とか」
    「マジ? 瑞穂が、誘うの?」
     吹き出しそうになるのを必死に堪えた。僕から見ると、瑞穂は未だに赤白帽子を被っていた小学校の頃の面影を残しているように見えるのだ。
    「笑ってる?」
    「いいや。いいんじゃないかな?」
     心が柔らかくなっていく。
    「・・・なぁ、瑞穂」
    「ん?」
    「そんなに女優になりたいか?」
     透き通るような視線でこちらを見つめる。
    「うん」
    「どうして舞台照明落ちたって言わなかったんだ?」
    「・・・それは・・・」
     瑞穂の表情が青くなっていくのがわかった。
    「危ないじゃないか。誰かが意図的にやったかもしれないんだろう?」
    「どうして・・・誰から聞いたの」
    「部活の友達からね」
    「そう」
     空気にびりびりとした亀裂が入っていく。
    「・・・お父さんには?」
    「話してないよ」
    「そっか。よかった」
    「どうして黙ってんの?」
     長い睫毛を瞬かせていた。
    「だって、せっかく掴んだ主役だもん。たかが照明落ちたくらいで変にごたごたさせたくないんだよね。ぼろい小屋だもん、ただの老朽化なんだから」
    言葉の端に影があるのを感じた。嘘が下手だと思う。でも、きっと気づかないふりをしたほうがいいのだろう。
    「・・・本当に偶然なんだな?」
    「もちろん。監督もそう言ってたから確かよ」
     何度も首を縦に振っていた。
    「・・・あ、そ」
    「だから、事を大袈裟にしないよう絶対に黙ってて」
    「あぁ」
    「当真兄にもだよ」
    「わかってるって。じゃあ、貸しにしとくよ」
     本をソファーの背凭れに置いた。
    「貸し?」
    「俺が脚本家になったら、瑞穂も舞台に出演して」
     約束を埋め込むようにして、猫のような瞳に焦点を合わせた。
    「いい作品だったらね」
    「あぁ」
    花を散らすように微笑んでソファーを離れていった。胸を撫で下ろして本を閉じたが、数日後、気丈に振舞う瑞穂の態度は嘘だったのだと気づく。自分が思っていたよりもずっと女優だったのだ。僕はこのときの選択を一生後悔するだろう。

    家族全員で見に行った初日舞台公演で、瑞穂を見かけたときには、もう女優ではなくなっていたのだから。

    泥

    瑞穂が亡くなった後のことは覚えていない。当真とは違い、僕はすぐに瑞穂だとは認識できなかった。すぐに幕が下り、公演中止のアナウンスが流れていた。父さんが帰る人を掻き分けて舞台へ近寄っていったが、僕と当真は呆然と見ているだけだった。母さんはハンカチも使わずにひたすら涙を流していた。

    連日のように家の前にパトカーが停まり、警察官が朝からずっと居間に入り浸っていた。テレビの報道関係者の車も数台見えたが、父さんがカーテンを閉めてしまったため、外で何が起きているのかわからなかった。
    「何も今日じゃなくていいのにな」
     当真が部屋に入ってきた。
    「そうだよな・・・」
    「・・・会った?」
    「いや」
    「俺も」
     妹は昨日まで司法解剖され、今朝帰宅して畳部屋に横になっていた。二階に上がるとき足だけ視界に入ったが、避けるようにして自分の部屋に閉じ籠っていた。
    「・・・あまりにも非現実的で、実感がないんだよ」
    「・・・・・・」
    「どうしたんだろうな」
     ベッドに並んで座りながら、部屋の角を眺めていた。
    「兄ちゃんはどうする?」
    「どうするって・・・」
     当真が家に帰った後、何度も嘔吐していたのは知っていた。身を切り裂かれるようだった。白い布を被った遺体が帰ってきたにも関わらず、まだ受け止めきれていなかった。目を閉じると、先週に時間が巻き戻って、瑞穂を劇団から引きはがすことができるのではないかと思ってしまう。
    「夢じゃないみたいだね・・・・・・」
    「そうだな」
    司法解剖の結果、瑞穂の死因はロープで首を絞められたことによる窒息死だった。僕たちが見かけたときには、死後三、四時間が経過していたのだ。
    「娘が・・・どうしてこんな・・・」
    「落ち着いて・・・」
    「そんな、どうして・・・あたしには、どうしてなのか」
     母さんが取り乱しながら泣き叫んでいる声が聞こえた。目覚まし時計の秒針が刻々と時を刻んでいる。地獄にも時間が流れるのだろうか。
    「本当に、お前は見たか? あれは本当に瑞穂だったのか?」
    「・・・・・あぁ」
     当真が赤く腫れた目を擦っていた。
    「独りで部屋に居ると発狂しそうになるんだ。もう、気が狂ってしまったほうがいっそのこと楽になれるんじゃないかって思うよ。目を閉じると生気のない瑞穂の顔が・・・」
    「止めろって」
    「ごめん」
     情けない兄ちゃんだと思う。
    「・・・あのとき、舞台のオーディションなんかに受からなければよかったのにね」
    「・・・・・・・・」
    「何言っても、もう取り返しが付かないよね」
     心が空白になっていく。
    「あぁ・・・そうだな」
    立ち上がって、窓のほうに手を伸ばす。カーテンの端を捲るようにして、家の前を覗いた。
    「人が多いな」
    「話題になるんだよ。劇団Tの有名な監督が手掛ける舞台だしさ。それであんな・・・」
     当真が声を詰まらせた。
    「瑞穂は見世物みたいだな」
    「兄ちゃん・・・・」
    「あんな殺され方、普通じゃない」
    「・・・・・・」
    「だって、そう思わないか?」
     壁を蹴った。
    「・・・首を吊って・・・あんな状態で、突然舞台に現れるなんて、見世物みたいじゃないか。何の演出だよ? ありえないだろ」
    「・・・・・・」
    「本当、どうなってるんだ。色んな情報が奇怪で、何が何だかわからないよ」
    奥歯をギリギリと噛んだ。被害者遺族なのだという認識が、輪をかけて精神を痛めつけていく。
    「隆司君、当真君」
     母さんが足元のおぼつかない状態で、警察に両脇を抱えられて部屋の前に歩いてきた。
    「君たちからも、最近の妹さんについて、どんな小さいことでもいいから教えてもらえるかな」
     スーツを着た体格のいい男が片足を部屋に入れてきた。
    「・・・はい、今行きます・・・」
     当真が先にベッドから離れた。
    「当真、先に俺から・・・」
    「いいよ。兄ちゃんも、何か有力な情報が無いか思い出しておいて」
    「・・・・・有力って・・・」
     血走った目でこちらを見降ろす。
    「犯人なんてすぐに捕まる。あれだけの人があの場に居たんだから、誰かが何かを見てるはずだ」
    「・・・・・・」
    「絶対に犯人を炙り出してやる」
    神経に電流が走るのを感じた。背筋が震えている。刃を突き刺すように、艶のないフローリングを踏み付けていた。

     事情聴取にきた芹沢刑事は、真意に僕の話を聞いていた。ウーロン茶の入ったグラスを掌で転がしながら、何を話していたかはあまり覚えていない。二週間前、瑞穂が主役について嬉々として語っていたことや、夜中まで台詞を練習していたことを話していると、悲しみが増して、何をどう伝えればいいのかわからなくなっていった。
    「母さんは?」
    「さぁ。寝室で寝てるんじゃない?」
     当真が瑞穂の亡骸の前に座っていた。電気の紐を避けて、当真と瑞穂の隣に座る。
    「兄ちゃんは? 警察から何聞かれた?」
    「多分同じことだと思うよ。最近の様子とか交友関係とか家族のこととか・・・」
    「全く同じだね」
    警察が出て行ってから、人の声がしなくなっていた。七畳半の部屋に自分と当真の声が響いていた。
    「・・・事件性よりも自殺じゃないか・・・ってこと疑うような聞き方だと思わなかったか?」
    「そんなわけないじゃん」
    「俺だってそう思うよ。でも・・・」
    五百人が劇場で、あの瞬間を見ていたのだ。団員が声を上げるまでは、舞台上に不自然な動きは無かった。
    「・・・・・・・・」
     顔を覆った布が、瑞穂の形のまま沈黙している。
    「・・・でも、瑞穂は絶対自殺なんかしない。理由がないじゃないか。やっと劇団Tの主役に抜擢されて、これからってときなんだから。膨らんできた夢を自ら割るようなことなんてするわけない」
    「・・・・・うん・・・・」
     自分の憶測を口にする。
    「・・・だからさ、俺は舞台関係者の誰かが嘘ついてるんじゃないかって思ってるよ。本当は何か知っているのに、知らないふりをしているとか・・・」
    「・・・どうゆうこと?」
    「瑞穂を殺そうとした人がいる・・・とか」
    「・・・・・・」
    「だって、それしか考えられないだろ」
     畳に手を付いた。
    「聞いたんだよ。練習中、照明が落ちてきたって・・・」
    「何それ?」
     当真の目が大きく見開いた。
    「瑞穂が黙っててほしいって言ったから、家族には言わなかったんだ」
    「どうしてそんな重要なことを・・・」
     当真が声を荒くした。
    「・・・・・・・・・」
    「その時点で行動を起こしていれば瑞穂は助かったかもしれないじゃないか」
     心臓が握りつぶされそうだった。
    「・・・ネジが緩んでて落ちたんだ。ワイヤーはたまたま掛かって無かったらしい。確かに人が意図的に落としたものではないかもしれないって思ったよ」
     思い込もうとしていたのだ。
    「でも・・・じゃあ、警察には行ったの?」
     床を見ながら首を振った。
    「・・・いや・・・・・・」
    「どうして・・・」
    「もし警察が入ってしまったら、せっかくの舞台が無くなってしまうかもしれないだろ? 瑞穂もそれを気にしていたんだよ。俺だってこんなことになるとは・・・」
     声を絞り上げた。
    「でもさ・・・本当、もう、終わってしまったことだけど、もし通報していればこんなことにならずに済んだかもしれないって・・・」
     目を合わせることができなかった。
    「・・・そうだな。俺は兄ちゃん失格だよ」
    「いや・・・ごめん。違うんだ。悪いのは犯人で、兄ちゃんを責めるつもりはないんだ。たださ・・・」
     布から出たほっそりした手に触れていた。
    「兄ちゃんはもし、自分が過って罪を犯してしまったときも、守るべき夢があるなら、罪を償うことよりも夢を守ることを優先させてしまうのかい?」
    「どうしてそんなこと聞くんだよ?」
    「・・・・・・」
     当真の視線がぎろりとこちらを見ている。息が詰まりそうだった。
    「・・・それは・・・俺だって・・・その時になってみないとわからないよ。想像もしたくない」
    「そりゃそうだよね」
     ねっとりとしたものが心の裏側に張り付いた。
    「犯人って・・・どんな奴なんだろう」
    「さぁ、ただ今この時点でも、のうのうと生きていることだけは間違いない」
     畳に爪を立てる。
    「会ったら殺してやりたいくらいだね」
    「あぁ。やっぱりこのままじっとしていられない。俺たちの妹なんだから。当真、絶対に犯人を見つけてやろう」
     自分が背負った罪悪感を拭い去りたくて必死だった。
    「法の下に裁かせてやる」
    「うん」
    「・・・・・・」
     顔に掛かった布を静かに剥がす。瑞穂は穏やかに目を閉じていた。
    「・・・瑞穂、誰がこんな目に合わせたんだ?」
    「・・・・・・」
    「瑞穂・・・・・・」
    窓から月の光が入り込む。壁の縁が霞んでいき、目頭から水滴が伝っていくのがわかった。

    花

     瑞穂の葬式は近親者だけで行われた。母さんの意向もあり、劇団関係者は一切訪問を断っていた。悪い人ばかりではないのはわかっていたが、劇団の一員というだけで虫唾が走った。咳払い一つで、罪の有無に関わらず、掴みかかってしまってもおかしくなかったと思う。肉が燃やされ骨だけになった妹を見ると、悔しさで心が砕けてしまいそうだった。否、思い返してみると、いっそのこと砕けてしまったほうが楽になれたのかもしれない。
    「なんか懐かしいな。こうやって、兄ちゃんと協力するの」
    「そうか?」
    「子供の頃、一度だけ、ちっちゃな瑞穂を連れて父さんの働いてる劇場に遊びに行ったことあったじゃん。裏口から入って、こそこそ隠れながらさ。そういや、いつも一番最初に見つかって怒られるのは兄ちゃんだったよね?」
    「そうだった?」
    「あれ、本当は俺たちを庇ってたの?」
     報道関係者の車を避けながら、ラーメン屋の日陰に入った。
    「さぁ、もう忘れたよ」
    脳の血管がぴんと張り詰めている。緊張と憎しみで胃液が逆流してしまいそうだった。
    「今、お昼なのかな。人通りが少ないね」
    「あぁ」
    下北沢の商店街から50メートルほど離れた位置にあるK劇場は、劇団Tが舞台公演用に所有している劇場だった。桑原財閥の三男だった監督が、父親が亡くなった際に遺産で買い取ったらしい。
    「警察たちちゃんとやってくれてるのかな」
    「だからテープ張って入れないようになってるんだろ」
    劇団には普段役者が出入りする裏口があると聞いていた。正面には報道関係者の車とパトカーが停まっていたので、関係者は裏口から出入りしているのだと思う。
     レストランと劇場の間をすり抜けるようにして、裏口を目指す。小さなドアに近づくと、立ち入り禁止のテープの前で警察官が立っているのが見えた。
    「すみません」
    「なんだい? ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」
     砂利を避けて、警察官の帽子を眺める。
    「先日ここの事故で亡くなった、蓮見瑞穂の兄です」
     当真が俯いていた。
    「あ・・・・・・」
    「妹の様子について気がかりなことを思い出したんです。現場検証に立ち会いたいのですがいいですか? 芹沢刑事には一応許可を頂いているのですが・・・」
     すらすらと嘘を付いていた。
    「・・・いいよ。ただし、邪魔にならないように。角に人がいるから聞いてみるといい。具体的なことをやってるから、無理はしないようにね」
    「はい」
    「でも、君たち入って大丈夫かい? 心理カウンセラーに・・・」
    「僕たちなら大丈夫ですから」
     自分に言い聞かせているようだった。
    「・・・そうか・・・無理しないようにね」
    「はい」
    適当に返事をして、テープを持ち上げて中に入り込む。当真は『遺族』という扱いに、まだ慣れてないようだった。腫れ物にでも触るような周囲の態度に、口を曲げて顔を顰めていた。気持ちはわからないでもなかった。未だに、家に帰ると瑞穂が冷蔵庫の前に立っているのではないかと、どこかで期待してしまうのだ。
    劇場の空気がひんやりと肌を刺激してくる。真っ白に続く廊下の向こうから、警察官らしき人たちの声がしていた。
    「・・・ねぇ、兄ちゃんは瑞穂がこんなふうになった今でも脚本家を目指そうとするの?」
    「あぁ・・・こうなったから、さらになりたいと思うようになったよ」
    「どうして?」
     木材の匂いが鼻を突く。
    「悔しいのかもな。こんな奴のせいで、全てが台無しになってしまうのが」
    「・・そうだね・・・・」
    「当真はまだ高校生だもんな。進路は?」
    「俺、警察官になろうと思う」
    「え?」
     スニーカーがじりっと音を立てる。
    「それって・・・この事件がきっかけで?」
    「いや、ずっと前から考えてたんだけどね。心を固めたのは、この確かに事件があったからだよ」
    「だって前は照明の仕事したいって言ってなかった?」
    「あぁ、父さんの仕事を見て、確かにそう思ったときもあったよ・・・。兄ちゃんと瑞穂が舞台の仕事を目指してるなら、俺もってね」
    父さんは専門学校を卒業して舞台照明に携わっていたが、数年で辞めて、今は精密機械工場に勤めていた。給料が低くて、三人の子供を育てられないからと、飲みの席で聞いたことがあった。
    「でも、今は警察官になって、俺たちのような被害者を作らないようにしていきたいんだ」
    「・・・そうか・・・」
     時折、当真の正義は目が潰れそうなほど眩しく感じるのだ。
    「・・・父さんは?」
    「もう話してる。最初はもっと考えたほうがいいって言われたけど、俺の意思は変わらない」
     木の柱に手を付きながら話を続ける。
    「勉強は受験生と同じように、続けていくけどね」
     湿った空気を吸い込む。
    「そっか。いつか兄弟で舞台作りたいと思ってたんだけどな。俺と当真が脚本兼演出家で、主役は・・・」
     口に出してはっとした。当真が辛辣な表情をこちらに向けていた。
    「・・・・・・・・・」
    「ねぇ、そこで何してるの?」
     クリーム色のワンピースを着た女性が柱の裏から現れた。
    「あ、俺たち、蓮見瑞穂の兄で・・・」
    髪を耳に掛けると、桜貝のような爪が艶めいていた。十代だろうか。瑞穂と同い年くらいに見えた。
    「どうしてこんなところに居るの?」
    「犯人を捕まえるためだよ。この劇団に居る、ね」
    当真がすっと前に出る。
    「・・・そう、でも素人の貴方たちがこんなところに来ても、事件は何にも進展しないと思うわ。却って、警察の捜査の邪魔になるんじゃない?」
     大人びた口調で話す。
    「でも妹があんな姿で落ちてくるところを見せられて・・・。このまま黙って家に居て、犯人が捕まるのを待っているだけじゃ、気が狂ってしまうよ。どうして、あんなに人が見ていたのに、一週間経っても犯人が捕まらないんだってね」
    「・・・だからって、こんなところで何をするの? 人が亡くなった現場をわざわざ物色しにきて」
    「君のような劇団の人たちが信じられないからさ。妹がどんな場所で亡くなったのか・・・否、どんな環境に居て殺されたのか自分の目で確認したかったんだよ」
    「当真、落ち着けって」
     耳を真っ赤にしていた。
    「あの、舞台関係者の人だよね?」
    「・・・そう。あたし、秋葉涼花っていうの。瑞穂ちゃ・・・妹さんとは同じ舞台に立つはずだったのよ」
    「ふうん」
     当真が口を曲げていた。
    「今舞台関係者の人たちはみんな現場検証に立ち会ってるの」
    「君は・・・いいの?」
     子犬のような瞳が潤んでいく。
    「あたしは・・・今は、まだちょっと辛いから・・・」
    「少し話を聞きたいんだけど、いい?」
    「・・・えぇ・・・」
    筋の張った拳を握り締めながら詰め寄っていた。自分の身体が舞台の空気に怯えているのがわかった。当真は何かを知ることが怖くないのだろうか。
    「・・・あ、ちょっとそこのソファーに座ってもいい? 警察の話聞いてたら、疲れちゃって・・・」
    「あぁ・・・はい」
    長い黒髪を後ろにやって、楽屋前のソファーに腰を掛けた。廊下の角に立っていた警察官が振り向いたが、隣の人と何かを話した後、こちらに軽く頭を下げて視線を逸らした。
    「・・・涼花さんは何役だったの?」
    「あたしは花の妖精役。ほとんどエキストラに近いから台詞もそんなに無いの。騒ぎがあった時には裏のほうで衣装チェックしていたから、あんまり妹さんのためになるような情報は提供できないかもしれないわ・・・」
    「・・・そ・・・」
     項垂れる当真の横で顔を出した。
    「踊りって?」
    「ちょっとしたステップを踏むだけよ。監督が瑞穂ちゃんの踊りを気に入ってね、花の妖精役の子たちにも軽くバレエの要素を取り入れたいって」
    「踊れるの?」
    「十五歳までバレエやってたから」
     疲れ切った表情で口角を上げた。
    「何で、あの事件の日に瑞穂が現れないのに公演を続行しようとしたの?」
    「この劇団には主要な役には必ず代役が居るの。誰かが体調不良とか、止むをえない理由で舞台に出れなくなったときには、その子がやるようになってる。今回は・・・」
    「でも、変じゃないか。理由なしに来なかったら、普通家族に連絡しようとするだろ? でも、俺たち家族はそんな連絡誰も受けてない」
    「そう・・・あたしも詳しいことはわからないんだけど・・・。連絡先を書いた名簿が無くなってたって話は聞いたわ」
     誰かが意図的に連絡を取らないようにしていたのだろうか。
    「・・・瑞穂は、劇団員とは仲良くやってたの?」
    「そうね・・・」
    頬に手を当てていた。蛍光灯に雪から生まれたような肌が照らし出される。
    「中には良く思ってなかった人も居たみたいだけど・・・」
    「誰?」
     当真が噛み付くような声を上げた。
    「おい、当真」
    「・・・その人たちが今回の事件に関わってるってわけじゃ・・・」
    「でも、教えてほしい。瑞穂に関するどんなことでもいいんだ。じゃなきゃ俺たちは・・・今現実に起きてることが、数週間前に瑞穂が生きていた頃と繋がっていかないんだよ」
     舞台のほうから、木を打ち付けるような音が聞こえた。
    「・・・三美人を演じてた子たちとペルセポネに当たるリン役の子。この劇団ではね、その一人の子が今回の主役だろうって言われていて、あたしたちはみんなそうだろうって思ってたの。でも、突然監督が外部からもオーディションに参加させて競わせたいって・・・。結局、瑞穂ちゃんの表現力に負けたのよ」
    「それで? その子が虐めてたの?」
     喉が痙攣していた。
    「うん・・・。あたしはずっとエキストラの立場だったから、あんまり詳しいわけじゃないんだけど、役付の子たちからは結構虐められてたみたい。陰口を叩いたり、着替えを八つ裂きにしたり、練習靴をゴミ箱に入れたり・・・裏ではもっとひどいことをされてたのかも・・・」
    「何で、そんなこと」
     勘付いてはいたが、どうすることもできなかった。
    「監督は気づいてなかったの?」
    「気づいてたけど、そのままにしてたわ。あたしもあの監督が何考えてるかわからなかった。彼女がわざと足を引っ掻けて演技中に転ばせても、瑞穂ちゃんの不注意を叱るだけで知らん顔するんだから」
    「・・・・・・」
    「ずっと演技もしにくかったと思う・・・」
    「何だよ。それ」
     当真が床を蹴った。
    「何て名前なの? その主犯格の子」
    「・・・高塚菜々美・・・って子が主犯格よ。この劇団には十二歳のときから所属してるみたい。今年で二十三歳だから、就職も合って今回の舞台は最後のチャンスだって思ってたみたいよ」
    「え・・・十二歳のとき?」
    「あぁ、この劇団って所属人数は老若男女八十人くらいいるのよ。今回は例外で主役級の役を外部からもオーディションで募ったけど、劇団の人がなるって暗黙の了解みたいなものはあったの」
    「じゃあ、今回は・・・」
    「そう。他の役は違ったけど、マリアだけは外部オーディション枠の瑞穂ちゃんが選ばれたの。本当にすごいことなのよ。監督が求める雰囲気にぴったりだし、劇団に入団した後も主役級の役を狙えるって噂になってたの」
    「・・・そんなに・・・」
     死んでしまってから褒められても、無念さしかなかった。
    「瑞穂ちゃんは本当に綺麗だった。あたしも・・・こんなことになるなんて・・・・・・」
    「でも、涼花さんも瑞穂のこと知っててほっておいたんだよね?」
     岩を投げつけるようだった。
    「・・・お前」
    「当真君、そうよ。貴方の言う通りよ」
    「・・・・・・・・・」
    「黙って見ていたの。瑞穂ちゃんが虐められているところを、助けもせず見ていた。あたしだけじゃない。団員全員がそうやって見て見ぬふりをしていた」
    当真は顔を上げなかった。瑞穂は開きかけた花の蕾だったのかもしれない。涼花が目頭にそっとハンカチを当てて息を震わせている。
    「・・・もういいかしら・・・」
    「あぁ、うん・・・」
     鞄を持って立ち上がったが、当真はソファーにへばりついたままだった。
    「当真」
    「だって・・・・・・」
     手帳の切れ端を千切って、メールアドレスと電話番号を書いた。
    「またこの連絡先に連絡してもらえるかな?」
    「・・・えぇ」
    「事件のこと以外にも、劇団の様子が知りたいんだ。瑞穂がどんな演技をしていたか、どんなふうに見えたか・・・。実は僕、脚本家を目指していてこの劇団自体にも興味があるんだ」
     当真が怪訝そうな顔でこちらを見た。
    「そうなの・・・わかったわ。落ち着いたらまた連絡する」
    「当真、今日はもう帰るぞ」
    「・・・・・・」
    舞台へと続く廊下を睨みつけて、重たい腰を浮かせていた。楽屋前の、この廊下を、瑞穂はどんな気持ちで通っていたのだろう。
    「あれ? 芹沢刑事なら向こうに居るけど、もう話した?」
     警察官が突っ切ろうとした廊下に立ちふさがった。
    「すみません。妹のことを聞いてると、具合悪くなってしまって。今度家に来ていただいたときに話します」
     大袈裟に腹を抑えてみせた。
    「お・・・そうか」
    「・・・はい」
    「お大事にな」
    当真はすたすたと自分だけ出口のテープを潜っていた。手負いの獣のように神経を毛羽立たせていた。精神的に不安定な当真を、連れ回すのは良くないことなのだろう。十八歳の瞳に一つしか変わらない妹の死は、自分の感じる怒りとは、また違った感じ方で捉えているのかもしれない。

    雫

    「まだ、マスコミ居るんだな」
     窓から家の前に停められた車を眺める。
    「・・・・・・」
    「これじゃあ、裏口からじゃなきゃコンビニにも行けないよ。まぁ、時間が経てばすぐ飽きるだろうけどね」
     当真の部屋は、ドアが開きっ放しになっていた。机には模試の対策本が並んでいたが、それ以外は物の少ない殺風景な部屋だった。
    「兄ちゃん、どうゆうことだよ?」
     シャーペンを突き立てたまま口を開けた。
    「何が?」
    「あの劇団に興味があるだなんて・・・あんな、妹が・・・」
    「落ち着けって。もちろん俺だってあんな劇団信用していないよ。でも、あからさまに詮索すると、誰も何も情報を提供してくれないかもしれないじゃないか?」
     背中でドアを閉める。
    「・・・そっか・・・ごめん」
    「いや、いいよ。混乱して当然だし・・・」
     ぼさぼさの髪を掻いていた。
    「兄ちゃんはさ、あの劇団に居る人の話って信用できる?」
    「・・・いや」
    「涼花さんも含めて?」
    「あぁ・・・」
    「・・・・・・・・・」
    短い息を吐く。黒雲のような感情に振り回されて、お互い疲れていた。
    「・・・色々考えたんだけどさ、一旦は警察に任せないか?」
    「・・・・・・」
    「だって、俺ら精神的にもボロボロじゃないか。現場検証なんて立ち会う勇気もないし、あの劇団を出入りするだけで足が震えてるし。今は妹の死を受け入れるので精一杯だよ」
    「・・・・・・」
     頭を下げたまま固まっていた。
    「警察に任せよう。犯人はきっとあの劇団の中にいるんだから、すぐ見つかるよ」
     言いながら情けなくて目頭が熱くなった。
    「・・・兄ちゃんは最近泣いてばっかだね」
    「うるせぇよ」
     腕で目を擦る。
    「・・・わかったよ。しばらくそうしよう」
     闇雲に何かを掴もうと足掻いていただけなのかもしれない。涼花の言うとおり、子供の自分たちが何をやっても事件が進展することなどないのだ。怒りの矛先を向ける場所を必死に探していた。
    「無力だな・・・」
    「・・・人は元々そんなに万能にはできてないよ」
     ギリシャ神話の絵画集に視線を向ける。
    「神様でさえ、感情を抑えきれないんだから」
     家の呼び出し音が響いた。
    「すみません。芹沢です」
     部屋を出て、階段の手摺を掴んだ。父さんが覗き窓から確認して、ドアを開けるのが見えた。
    「本日舞台の現場検証を行ったところ、隆司君から気がかりな情報を思い出したと伺ったもので」
    「隆司」
    付いてこようとする当真を止めて、玄関に近づいていった。芹沢刑事の横に居た若い刑事がドアを抑えている。
    「すみません。俺が勘違いしていたみたいで・・・」
    「独りで劇団に行ったのか?」
    「ん・・・まぁ」
     父さんが呆れた顔をしていた。
    「お前はこんなときにいつまで子供みたいなことやってるんだ。全く」
    「ごめん、父さん。本当にすみませんでした。わざわざ来ていただいたのに」
     芹沢刑事が頬を緩めて首を振っていた。
    「いやいや。他にもお話したいことがあってね」
    「・・・といいますと・・・」
    「犯人がわかったんですか?」
     胃の奥が引き締まった。
    「・・・まぁ・・・立ち話も長くなるので、家に上がってもよろしいでしょうか」
    「はい」
    母さんが襖を閉めるのが見えた。思い返してみると、瑞穂が亡くなってから葬式のとき以外、母さんの顔をまともに見ていない気がした。

     警察の調査によると、首を絞める際に使われていたロープは照明用バトンを降ろすために使用していた2センチ幅のものだった。死亡推定時刻は午前八時から九時半頃。劇場のスタッフが午前八時に舞台を確認したときには人影なかったという。
    不可解な点は多い。一つ目はなぜ舞台上を行き来していた劇団員が誰一人として死体を見ていないのか。午前八時半に照明スタッフが機材を確認しにキャットウォークに上がったときにも死体らしきものなど見かけなかったという。二つ目に舞台から離れたのは、裏方が打ち合わせをしていた八時五十分から九時の間の十分だった。たった十分で抵抗する人を殺害し、首をロープに巻いて、バトンに括り付けることなどできるのだろうか。三つ目に、なぜ公演時間に合わせたように死体が落ちてきたのか。ただの偶然で片付くことなのだろうか。
    「我々は、自殺の線もあるかと考えてます。抵抗の跡はなく、キャットウォークには瑞穂さんが使用するはずだった舞台衣装の手袋の繊維が付着していました」
    「待ってください・・・。だって八時半頃死体らしきものを見た人はいないんですよね?」
     足の指を折り曲げた。
    「あくまで一つの可能性です。死亡推定時刻で誰も人が居なかった時間・・・八時五十分から九時の間に自らロープを首に巻き付けて飛び降りたということも考えられます」
     若手の三好刑事が口を挟んだ。
    「そんな・・・・・・」
    「現時点での我々のご報告は以上になります」
    「では・・・自殺ではないかという話でしょうか?」
     父さんが一通りの説明を聞いて、重たい口を開けた。
    「なぜ公演時間に落下したのか・・・まだ不明な点が残っている限りは断言できません。ただ、その可能性も十分考えられると思っています」
     首の後ろを殴られたようだった。
    「・・・瑞穂は自殺なんてしないよな? 父さん」
     父さんは岩のように黙っていた。
    「お兄さん、妹さんの様子で何か心当たりはありませんか?」
    「何もありません。理由が・・・どうして」
     頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
    「隆司、落ち着きなさい」
    「だって・・・」
    瑞穂を殺した犯人の策略に乗ってしまっている気がしてならなかった。
    「瑞穂さんは劇団員から虐めを受けていたらしいですね」
    「・・・・・・・・・」
    「お兄さんは何か御存知でしたか?」
    「いえ・・・」
    「そうですか・・・」
     奥歯を噛んだ。
    「でも、妹が自殺するなんて思えないんです」
    「私も恐れながら息子と同じ意見です。娘は舞台の主役を演じることを楽しみにしていました。前日も夜遅くまで台詞の練習をしていたのは知っています。そんな娘が、自らの命を絶つなんて考えられません」
     眼鏡の奥に静かな怒りが籠っていた。
    「わかりました・・・」
    締め切ったカーテンに車のヘッドライトが流れていく。一瞬、弟がこの会話に突き刺さってくるのではないかとドアのほうを見た。会話は聞こえているのかもしれないが、物音ひとつしなかった。
    「・・・死亡推定時刻に不審な人物が劇場に入った形跡はありませんでした。もし、殺害されたとするなら、犯人は舞台関係者ということになるでしょう。単独犯ではなく二人以上の複数犯・・・」
     三好刑事が諭すように話した。
    「事件が起きたと推定される時刻は、団員たちの集合時間よりも一時間前。だから、劇場スタッフ、裏方の打ち合わせに出ていた人以外ほとんどの人は、アリバイが無いということになります」
    「じゃあ・・・」
    「ただ、聞き取りしたところ、妹さんを殺害するほどの動機を持った人物はいません。確かに一部の団員からは虐められていたようですが、彼女たちは家に居たため事件当時のアリバイは成立しています」
     三好刑事が重々しく話した。
    「・・・・・・・・」
     沈黙が降り落ちて、台所の蛇口から水滴の音が聞こえた。
    「・・・三好が申しあげたとおり、事件だとしても今のところ犯人の目星はありません」
    麦茶の氷が音を立てた。芹沢刑事の浅黒い肌に、グラスの模様が揺らいでいる。
    「でも・・・ご家族がそこまでおっしゃるなら、自殺の可能性は低いのかもしれません。引き続き、事件と自殺の両面を考えて調査したいと思います」
    「お願いします」
    「もちろんです・・・・・・・・」
     テーブルに張り付いていた影がゆっくりと動いた。
    「我々も真相の解明に全力を尽くします・・・でも、現時点では有力な情報が上がってこない限り、難しいかもしれません・・・」
    芹沢刑事の低い声が、頭の裏側まで鐘のように響いていた。なぜ、犯人の手掛かりすら見つからないのだろう。話は理解できたが、真実の裏側に仕込んだ架空のストーリーを聞いているようだった。瑞穂は絶対に自殺なんてしない。何者かに殺害されたのだ。腕に爪を食い込ませて、叫びたい衝動を噛み殺す。犯人が、この先何の裁きも受けずにのうのうと生きていると思うと、腸が煮えくり返りそうになった。
    二人の刑事を交互に見つめると、目を背けるようにテーブルの脚に視線を落としていた。父さんが何かを言いかけて、言葉を飲み込んでいるのがわかった。この席にいる誰もが、犯人の掌に転がされているような違和感に気づいているのかもしれない。

    瑞穂は今の状況をどう思っているのだろう。父さんが「わかりました」と一言だけ口にすると、グラスの表面に付いた水滴が、すっと流れ落ちていくのが見えた。

    衣装

    「母さん見た?」
    「いや、買い物でも行ってるんじゃない?」
     畳部屋には瑞穂が最後に着ていた真っ青なドレスが飾られていた。一昨年、同様の舞台を上演したときにマリアが纏っていたもので、瑞穂がリハーサル中に着ていたものだった。
    「綺麗な衣装だな」
    「うん。兄ちゃん着てみたら? 瑞穂と似てるから、案外大丈夫かもよ?」
    「馬鹿言え。俺が着たら捕まるよ」
    「そうだね」
     くくっと笑いを抑えていた。
    「昨日、遅くまで話してたんでしょ?」
    「あぁ・・・」
     芹沢刑事が帰るまで、ドアの向こうで聞き耳を立てていると思っていたが、実際は部屋で先に寝てしまっていた。枕元には模試の解答用紙が置いてあるのが見えた。
    「刑事さんたちの話どうだった?」
     窓を開けて、網戸に張り付いた小虫を弾く。当真の視線がじっとりと背中を見据えていた。
    「・・・自殺じゃないかって」
    「そ」
     扇風機の横の座布団に腰を下ろす。当真が単行本に栞を挟んで、こちらを見上げていた。
    「だろうと思ったよ」
    「そうか」
     夜風が頭の天辺を通り過ぎていく。
    「兄ちゃんはどうする?」
    「どうするって・・・」
    「決まってるじゃないか、真相の解明だよ。俺は絶対に諦めない。このまま逃げ切るつもりなら、絶対犯人に復讐してやる」
     研がれた精神がぎらぎらとしていた。
    「当真、もう警察に任せようって昨日言ったじゃ・・・」
    「わかってるよ」
    舞台衣装に目を向けながら、当真の声を避けようとしていた。深海のような色をしたワンピースに、水飛沫を表現したスパンコールが煌めいている。白い手袋が瑞穂の写真の下に添えられていた。
    「でも警察に任せた結果がこれじゃないか。何年掛かっても引き摺り出してやる。そうだ、俺が警察官になって犯人を・・・」
    「当真・・・・・・・・・」
    「ねぇ、兄ちゃんも協力するよね?」
     目が奇妙なくらいに落ち着いていた。
    「あ・・・あぁ。もちろんだよ」
    「よかった」
    「ん・・・あぁ」
    当真の精神に触れると、息を呑むような感覚になるのだ。丁度、ハンガーに掛かった衣装のような青く揺らめく感情に・・・。
    「母さん」
     母さんがふらふらとしながら廊下を歩いていた。部屋を飛び出して、近くに駆け寄る。
    「・・・どうしたの?」
     寝ていないのだろうか。目の下に隈ができていた。
    「ん? あぁね。ちょっと体調が悪くて」
    「大丈夫?」
     よろけて壁に凭れかかった。
    「ありがとう・・・大丈夫よ。さっき、病院行ってきて薬飲んだから」
     腕を肩に回す。木の棒を掴むように軽くなっていた。
    「・・・ご飯、食べてないよね?」
     瑞穂が居なくなってから、家族で食卓を囲むことがなかった。各々が部屋に引き籠るか、外出するかして、リビングに集まることが無くなっていた。
    「・・・そうね・・・作らなきゃね」
    「・・・・・・・・・」
     家族がバラバラになっているにも関わらず、お互いが顔を合わせないことに安堵していた部分もあった。一つ席の空いた食卓を囲むことが怖いのだろうか。
    「今日はちゃんと作るわ。二人とも、来週から学校だもんね。しっかりした食事をとらなきゃ」
    「いいよ。買ってくるから」
    「ありがとう」
    寝室の前で腕を離した。目に力はなく、口だけがもごもごと動いていた。
    「・・・でも一休みしたら、降りるわ」
    「ねぇ、父さん知らない?」
    「知らない」
    静かにドアを閉めた。母さんは父さんとも距離を取っているのだろうか。夫婦の会話すら、部屋のどこからも聞こえてこなくなっていた。
    「・・・・・・母さん、本当に大丈夫?」
    「・・・・・・」
     母さんは青白い顔をこちらに向けて、口角を引き攣らせた。
    犯人は満足しただろうか。絵に描いたような家族の形に入り込んだ亀裂は、ぐらぐらと家全体を傾けていた。寝室の前に座り込む。胃の内側から無数の針で刺されている心地がしていた。尻から背骨を這いあがるようにして、影が自分ごと覆い尽くしていく。なぜ、こんなことになっているのだろう。押し殺した慟哭が、腹の奥深くに食い込んでいくのを感じていた。

    第二章
    チャンス 

     小雨が降り続いていた。濡れた段ボールに紐を巻き付けて、ベランダに立て掛ける。窓に手を当てると、京王線の電車が流れていくのが見えた。
    「もしもし、蓮見です」
    『お疲れさま。U株式会社の堺だけど、今、いいかな』
    「はい」
    『今回のイベント向けの広告の文章なんだけど、クライアントからもう少しインパクトのあるものをって言われててさ。明日までに書き直してもらえる?』
     ガムテープを転がす。ビニールの掛かった本棚に当たると、ガムテープの部分だけ凹んだ。
    「わかりました」
    『後で、メール送っておくから。よろしくね』
    「はい」
     段ボールの上にパソコンを置いた。電源コードを伸ばして差し込む。天井が低く、壁にはうっすらと亀裂が走っていたが、独り暮らしの生活を始めるには十分だった。
     大学を卒業して、五年間小さな編集プロダクションに在籍していた。演劇、ドラマ、ラジオ、ゲームのシナリオコンペに何度か応募したが、依頼が来たのは携帯ミニゲームのシナリオだけだった。クリップ留めのA4用紙を捲る。自分の表現したい芸術は、小さな画面ではなく生身の肉体が動かなければいけないのだ。生活していくためには仕事を選べなかったが、脚本家としてデビューしたにも関わらず、夢が削られていくような心地がしていた。

     本棚の上のほうに、擦り切れたギリシャ神話の美術本が置いてある。ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』に栞を挟んだまま、もう、しばらく開いていなかった。
    瑞穂が亡くなってから、八年が経っていた。
    事件は主役の重圧に耐えられなくなったことによる自殺として収束していた。最初はマスコミも事件として取り上げて週刊誌に憶測を書き綴っていたが、世間の話題が芸能人の熱愛報道に向かうと、波が引いていくように僕たちの前から姿を消していった。
    父さんが自殺として認めたことにより、家族の溝が広がっていった。母さんが笑わなくなると、父さんも仕事から帰るのが遅くなり、お互いが顔を合わせることもなくなった。事実上、家庭内別居のような形になっていた。半年間、捜査が続いたが、唯一公演時間に落ちてきたという謎を残して、他殺に結び付けられるような証拠が出てくることはなかった。父さんも認めざるを得なかったのかもしれない。でも、精神的に限界だった家族にとっては、やり切れない感情を其々が処理することで精一杯で、誰かを気遣うという余裕はなかった。

     段ボールに灰皿を置く。独り暮らしを始めたのは、家族から逃げるという意味もあった。ぽっかり空いた瑞穂の部屋に花を飾る母さんや、酒を浴びるように飲んで寝室に入る父さんや、黙々と刑法や犯罪履歴を読み漁る当真を見ていると、背中に圧し掛かる罪の意識から逃れることができなかった。朦朧とした当真の怒りが、いつか瑞穂を止めなかった自分に向けられるような気がして、心休まる場所が見つからなかったのだ。
     携帯を手に取る。当真の名前を表示して、点滅していた。
    「・・・もしもし」
    『あ、兄ちゃん?』
    「ん・・・どうした?」
     画用紙のような雲から落ちた雨が、ベランダの手摺を弾いていた。
    『・・・引っ越しは順調?』
    「まぁね」
    『仕事は?』
    「・・・ぼちぼちだよ」
     順調とは言えないような気がした。
    「そっちは?」
    『M警察署の刑事課に配属が決まったよ』
    「すごいじゃん。よかったね」
    『ありがと。入社当初からずっと希望出してたからね、執念って感じだよ』
    「・・・・・・」
     潰れた箱から煙草を取り出す。
    「・・・で、何かあったの?」
    『昨日の夜、実家に桑原監督から電話があったんだ』
    「え?」
     腕の筋に力が走った。
    「それって・・・あの事件に何かあったのか?」
    『いや・・・そうじゃない』
    「じゃあ何で今更・・・」
    『兄ちゃんの脚本を、使いたいって言ってきたんだ。以前コンペに出した作品が目に留まったらしい』
    「あ・・・・・・」
     手が痺れていく。
    『あの劇団に脚本を提供するかは、兄ちゃんが決めることだから、一応携帯番号は伝えといたよ。携帯に掛かってくると思う』
    「・・・ちょっと待っ・・・・あの劇団の監督から直接連絡が来たのか?」
    『そうだよ』
    「それって・・・何のつもりだよ」
    『否、そうじゃないと思うよ。監督は、何か裏があるわけではなく、兄ちゃんの脚本を使いたいだけだって言ってたし』
     舞台の脚本は、喉から手が出るほど書きたかった。でも・・・・・・。
    「妹が亡くなった劇団なんかに・・・」
    『いいよ。兄ちゃん』
    「何がだよ・・・・・・」
     煙草の先に火を当てる。
    『もしかしたら、兄ちゃんが劇団に入ることで、あの事件を解決する何か手がかりを見いだせるかもしれないって思うんだ』
    「・・・・・・」
    『俺はあの事件から八年経った今も、全く憎しみが薄れていないんだ。それどころが、時間が経過するごとに増してくんだよ。家族をめちゃくちゃにした犯人に復讐してやるって、夜も寝苦しくなるくらいだ。このまま犯人だけ何の罪を償うことも無く生き延びるなんて許せない』
    「・・・それは俺も同じだよ」
    『だからさ、もし俺があの劇団に潜り込めるなら兄ちゃんと代わりたいくらいだよ』
     真っ直ぐな声が脳を貫いた。
    「・・・あぁ・・・でも、監督は俺があの事件の遺族だって知ってるんだろう? 何で今更俺なんだろう。正直、気味が悪いな」
    『でも、どうだろう。もしかしたら、この話は神様がくれたチャンスなのかもしれないよ』
    「神様って・・・」
    喉に息が閊えた。
    『ま、兄ちゃんが決めることだからさ』
    「・・・とりあえず話聞いて考えるよ。また、連絡する」
    『うん。よろしくね』
     携帯を切って、パソコンの横に置く。
    自分の将来にしても、八年前の事件の犯人を捜すにしてもチャンスなのだと思う。でも、神様は居ないのだ。当真は何時まで神様の存在を信じているのだろう。ただ、身に降りかかる不幸を受け入れられず、見えない何かに恐れているだけではないだろうか。
    煙草を銜えながら、前回書いた脚本のフォルダを開く。この文章を劇団Tに渡せば、夢から逸れた道を模索しなくても、脚本家として生きていけるかもしれない。でも、殺人者が居る劇団に脚本を渡してしまったら、文章が穢れてしまうような気がした。
    窓に背中を丸めた自分の姿が映っている。瑞穂が誘い込んでいるのだろうか。こんな時にも自分のことしか考えられなかった。塞がらない傷を抉るのが怖いのだ。息を吸い込むと、張り詰めた神経に、風が吹き込んでくるのがわかった。

     しばらくすると、携帯に桑原監督から連絡が来た。淡々と、「以前君がK賞脚本部門に投稿した『うみひめ』を上演したい」と言ってきた。声を聞いたのは初めてだったかもしれない。想像していた以上に、人の声をしていたことに驚いていた。瑞穂の名前が出ると、逆上しそうになったが、「遺族であることは関係なく、純粋に脚本に惹かれた」と言われると、溜めていた言葉がふっと消えていった。昏々と綴ってきた文章の一部が、芸術に変わっていくのだと思うと、弾けるような動悸に、一瞬だけ家族のことを忘れてしまいそうになってしまった。
     父さんの携帯番号を表示して、ボタンを押す。
    『もしもし』
    「・・・父さん。今大丈夫・・・?」
    『あぁ。今、ちょうど家に帰ってきたとこだよ』
     事件のことをまともに触れられるのは、父さんしか居ないと思っていた。
    『引っ越しはどうだい?』
    「ぼちぼち。まだ全然片付いてないけどね」
    『まぁ、仕事も休みなんだろう? ゆっくりやればいいよ』
    「うん・・・」
     カーテンを引っ張った。雨音が薄れていく。
    『で? どうした?』
    「・・・あのさ、当真から聞いたかもしれないけど、俺、劇団Tの舞台の脚本を手掛けないかって言われてるんだ」
    『そうか・・・』
    「初めて桑原監督と話したよ。劇団の個性を生かすために、じっくりと吟味した結果、芸術性とエンターテイメント性のバランスが取れた俺の作品を選んだって」
    『・・・・・・・・・』
    「一応有名な劇団だから、観客の反応次第で次のオファーもすぐに来るかもしれない。ずっと夢だった脚本家としてやっていけるかもしれないんだよ」
     携帯の向こうでドアの閉まる音が聞こえた。
    「だから、俺はこの仕事を受けたいと思う」
    『・・・・・・・・・そうか』
     電波が途切れたように、一瞬の間があった。
    『用はそれだけか?』
    「うん・・・まぁ」
     鎖がちゃりんと鳴ったようだった。
    『お前もわかっていると思うが・・・』
    「・・・・・・」
    『父さんは反対だ』
     木の根のように太い声だった。
    「どうして?」
    『あの劇団だからだ。何もあの劇団じゃなくてもいいじゃないか』
     呼吸を整える。
    「父さん、もう俺はガキじゃないんだ。自分のことくらい、自分で決めるよ。こんなチャンス二度とないかもしれないんだ」
    『・・・そうか・・・じゃあ、仕方ないな』
     元々決めていたような言い方だった。
    「・・・そうするよ」
    『気を付けろよ』
    「何がだよ」
    『・・・・・・』
    「何が・・・?」
     不協和音のように、父さんと自分がずれているような気がした。
    『・・・いや・・・』
    「・・・・・・・・・」
     父さんもあの劇団の誰かが瑞穂を殺したと思っているのだろう。でも、口に出してしまうと、僕が犯人捜しに執着してしまうから言えないのだろうと思った。
    「・・・ほどほどにやるよ」
    『あぁ。あんま無理しないようにな』
    「わかってるって」
     電話越しのほうが、父さんとの距離が近く感じられた。
    「・・・あと、母さんにもよろしく伝えといて」
    『会ったら伝えとくよ』
     嘘だと思った。
    「あ、そ。じゃあ」
     携帯を耳から離して、腕を下げる。相変わらず別居が続いているのだろう。離婚しないことが不思議なくらいに、何もかも通じ合えなくなっていた。でも、犯人が見つかれば、厚さを増していく壁も少しずつ壊していけるような気がするのだ。

    再会 

     白髪交じりの髪を掻きながら、桑原監督はこじんまりとした劇場の客席の真ん中に座っていた。垂れた目蓋を広げて、役者を目で追っている。舞台に少しの間ができると、擦り切れたノートに何かを書き殴っていた。全体の流れからはみ出す一瞬の違和感を見逃さないようにしているようだった。
     僕は話しかけられることなく、ただ自分の書いた脚本を捲りながら三つ後ろの席に座っていた。本当にここで瑞穂が亡くなったのだろうか。止まったと思っていた舞台は、別の役者を立てて生きていた。僕は人の感情を失ってしまったのかもしれない。憎らしい舞台を見ているのに、ステージに感性を広げることを考え始めていた。
    「そこまで」
     鋭い一言で、舞台が止まった。
    「中橋、全然声が通ってない。前も言っただろう」
    「はい」
     そばかすの男性が顔を強張らせている。
    「あんなので聞こえるわけないだろう。この場面はお前のせいで台無しだ」
    「はい。すみません」
    「あと、立石。声が高すぎて、役のイメージじゃない」
    「はい」
    中央に居た高校生くらいの女の子が顔を出した。監督がノートを持って席を立ち、舞台のほうへ歩いていく。
    「立ち位置はここじゃなく、少し右のほう。そうだな、この辺かな。リカが出てくるときは、謎めいた感じで・・・もっと表現力を付けてくれ。できなかったら、配役を変える」
    「はい」
     持ってきた脚本を読んでいく。『うみひめ』のヒロインは、海から生まれるギリシャ神話のアフロディーテのような容姿をイメージしていた。否、人魚といったほうが正しいだろうか。僕の中に居た神はとうの昔に死んでいるのだから。
    「ねぇ、隆司さん」
     後ろを振り向く。
    「あたしのこと、覚えてる?」
    「あ・・・」
    「涼花よ」
     栗色の長い髪を後ろにやって微笑んだ。化粧のせいか、艶っぽくなっていた。
    「久しぶりね。結局連絡くれなかったから」
    「・・・あぁ」
     黒いワンピースの裾がひらりと揺れる。
    「ずっとここに居ても退屈でしょう? この劇場、案内してあげる」
    「・・・ありがとう」
     鞄と脚本を椅子に置いて、席から離れていく。監督がちらっとこちらを見たが、すぐに逸らした。

     細い指を真っ直ぐ向ける。
    「ここが楽屋。その先に行くと、事務所になるわ。この劇場自体もう劇場として開放していないから、監督の部屋になっているけど」
    「そうなんだ」
    白い廊下に、二つの足音が響く。楽屋の前を通ると、団員たちのはしゃぐ声が聞こえた。
    「次の演目の脚本家として来てるんだってね? あのとき言ってたの本当だったのね」
    「・・・・・・」
     剥げたドアを見つめる。
    「・・・あぁ、驚いた?」
    「ん・・・まぁ」
     拍子抜けしていた。
    「瑞穂ちゃんが亡くなった場所なのにね。この劇場は、何も無かったように生き続けているんだなって・・・」
    当真に見せたらどう思うのだろう。事件が風化するには早過ぎるような気がした。瑞穂がここに居たことさえわからなくなるほど、何も残っていなかった。
    「・・・俺ら家族だけだったのかって思って」
    ロビーの椅子に腰掛ける。破れた皮が掌に当たった。
    「・・・この劇団も、あの事件から半年くらいは全く機能してなかった。マスコミが注目していたのもあるかもしれないけど、見えない何かに怯えていたの。辞めていった人もいるわ。半年が過ぎると、監督が新しい舞台を上演するってことで、忙しくなるうちに、人が亡くなったって事実が薄れていったのよ」
    「たったの半年?」
     奥歯がぎりっと音を鳴らした。
    「そうね・・・警察に自殺だって断定されると、みんなどこかでほっとしてた。犯人がこの劇団に居るって思いたくなかったから」
    「自殺じゃない」
    「・・・わかってる」
    「・・・・・・?」
     星が瞬くように、瞳が潤んでいた。
    「あたしもね、瑞穂ちゃんは自殺じゃないって思うの」
    「え・・・・・・」
    「きっとこの劇団にまだ犯人が居るわ。口には出さないけどね、8年前から残っている団員たちはみんなそんな気がしているの」
     心臓が詰まるようだった。
    「それって・・・」
    「涼花、ここで何してるの? 二幕目の読み合わせやるみたいだよ」
     後ろから三十代くらいの女の人が話しかけてきた。
    「蓮見さんに劇団を案内してたの」
    「・・・蓮見・・・って」
     赤い唇を開けたまま、何ともいえない表情でこちらを見ていた。
    「次回作の脚本家よ」
    「そう・・・ですか。私、櫻井って言います」
     右足を一歩引いていた。
    「・・・よろしく」
    「はい」
     ソファーに座り直す。
    「じゃあ、先行ってるね」
    「うん」
    自分がどんなふうに彼女を見ているか気づいてしまったのだろうか。獣に睨まれた人間が、逃げ出すように見えた。
    「ごめん、そろそろ行かなきゃ。また来たときに案内するね」
    「え、うん」
     掌に汗が滲んでいく。
    「今やってる劇は、あたしはエキストラなんだけどね」
    「あ・・・」
    「隆司さんが書いた脚本はヒロインになるの」
     目を細めて頬を上げていた。
    「楽しみ」
    「あの、さっき言いかけた、瑞穂は自殺じゃないってどうゆう・・・」
     髪が胸元でたおやかに揺れた。
    「・・・そう思うの」
    少しだけこちらとじっと見つめて、櫻井の来た方向へ歩いて行った。

     監督が団員たちの前で自分のことを紹介すると、闇に蠢く木々のようにざわめいていた。集まっていた四十人ほどの中に、瑞穂を殺した犯人はいるのだろうか。舐めまわすように見たが、みんな人の顔をしているため、区別がつかなかった。
    舞台への階段に足を掛ける。事件の記憶が頭を掠めると、途端に胃を圧迫されるような吐き気に襲われた。
    瑞穂が飛び降りたとされているキャットウォークには、警察の言うとおり幅も狭く、抵抗する人にロープを縛り付けることはできないと思った。よろけながら段差に座り込む。確かに、表向きは自殺と言ってしまえば綺麗に纏まってしまうのかもしれない。
    「あの、蓮見さん」
     客席の段差を降りながら、中橋が話しかけてきた。
    「ん・・・?」
    「今日はもうこの劇場閉めるそうです」
     舞台で見るよりも、十歳くらい老けているように見えた。
    「早いね。もうそんな時間なのか」
    「えぇ、あの事故以来、劇場を開けている時間が決まっているんです」
    「あ、そ」
     鞄のファスナーを引いて、ノートと脚本を入れる。
    「あの、8年前の舞台で、アドニス役をやってた男は居ないんですか? 今日は見かけなかったけど」
    「あぁ、相馬さんですね。六年前に退団しましたよ。デザイナーの仕事をするってことで」
    「ふうん」
    「探してたんですか?」
    「・・・別に・・・ちょっと、妹のこととか・・・ね」
    「・・・そうですか」
     事件当初、まだ少年のように見えていた。
    「じゃあ、あの舞台に出演したけどいなくなった人もいるんだ」
    「まぁ・・・そうですね。正直なところ、一部の人を除いて生活するにはきつい部分もありますし・・・。年齢にもよりますが、ほとんどの人は五年くらいで役を貰えなくて辞めていきます」
    「中橋さんは何役で出てましたか?」
    「僕なんかいつでもエキストラですよ」
    ニキビの多い頬が、学生時代に部活をしていた久保と似ている気がしていた。
    「エキストラは重要ですよ。舞台を盛り上げますからね」
    「・・・・・・」
     客席の向こうを眺める。
    「・・・蓮見さん、よくこの仕事引き受けましたね」
    「ん、まぁ」
    「団員の誰もが、そう思ってますよ」
     僕が怖いのだろうか。声の語尾が少し震えていた。
    「そうですか。僕はただ、脚本家になりたいだけなんですけどね」
    「・・・でも、あの事故の起きた場所ですし」
    「そんなに疑いますか?」
     鼻で笑った。
    「きっと、今の僕は瑞穂の兄として正しくない。でも、何をすれば、瑞穂の兄として正しいんだろうって思います」
    「・・・・・・」
    「本当にただ、いい舞台を創りたいだけですよ。それが、人として正しいことなのかは別にして」
    「・・・そうですか」
     鞄を持って立ち上がる。中橋の後に続いて、舞台階段を上がる。
    「あ、監督が事務所によってくれって。話があるとのことでした」
    「はいはい」
    カーテン裏から電気を消すと、非常灯の緑が浮き上がった。鞄の中のペットボトルがたぷんと鳴った。

    ロビー横の黄ばんだドアをノックした。中橋がこちらに軽く一礼して出て行くのが見えた。
    「失礼します」
    事務所は木の机が三つ並んだ小さな部屋だった。戸棚には本や紙切れが乱雑している。コーヒーと煙草の匂いが入り混じって、むせ返りそうになった。
    「お疲れ」
    「どうだい? この劇団気に入った?」
    「・・・ま・・・そうですね」
    「よかった。個性的な役者ばかり集まってるからね。才能の有無はともかく、みんな根は一生懸命ないいやつらだよ」
     灰皿に煙草を押し付けていた。ドアが閉まると、緊張の糸が張っていった。
    「本当に、よく来てくれたと思ってるよ。あんなこともあったからね・・・」
    「・・・・・・」
    「今回の・・・その、君の持っている作品は2時間の上演時間の中でやりたいと思ってる。多分、それをそのまま上演すると、1時間半くらいになるかな。あと一場面くらい追加してほしい」
    「はぁ・・・」
    「できれば、この劇場の復帰作にしたいと思ってる」
    「え?」
     足に力が走った。
    「僕の脚本で・・・ですか? だってこの劇場は瑞・・・妹が・・・」
    「もちろん、君さえ良ければね。どちらにしろ、この劇場は準備も整ったし、今年中に復活させることには変わらない。君が条件を呑まなければ、別の作品を上演させる」
    「・・・・・・」
    雨雲のような髭を突いていた。監督は何を考えているのだろう。ただ劇団の脚本を書いてほしいというだけには、とても思えないのだ。
    「君には才能があるよ。この劇団で存分に発揮するといい。台詞まだ荒削りな部分が目立つけど、生きた劇団を動かしていくうちに自然と無くなっていく。私もたくさんの脚本家と出会ってきたけど、君には独特の表現力が備わってると思う。御世辞じゃなくてね」
    「そうですか」
    鯰のような口で褒められても、騙そうとしているようにしか見えなかった。
    「・・・なぜ、僕なんですか?」
    「なぜって?」
     肺を膨らませる。
    「・・・監督は・・・瑞穂のことで、何か隠してることがあるんですか?」
    「・・・・・・・・・」
    「あの日のことで・・・」
     急に頬の肉が落ちていった。ポケットから煙草を取り出して、火を付ける。
    「・・・誰か何か言ってたのか?」
     垂れた目でこちらを睨む。仮面が剥がれていくように見えた。
    「いえ」
    「そうか」
     ふっと煙を吐く。
    「あれは自殺だって、警察に断定されたはずだ」
    「でも・・・」
    「もし、昔のことを蒸し返すためにこの仕事を引き受けたなら、辞めてもらいたい。妙な詮索をして、劇団の雰囲気を壊さないでくれ。団員たちも、それぞれトラウマになってるからね」
    「・・・・・・すみません」
    沸々と湧き出る怒りを押し殺す。なぜ、死んだ者より生きている人の人権が守られているのだろう。
    「私は、純粋に君の書いた話が気に入っただけだ。誰の兄妹とかは関係ない」
    「・・・・・・」
    「蓮見君」
    「・・・はい」
    「君も脚本家になりたいんだろう?」
     蛍光灯の明かりが台本を照らしている。
    「・・・・そう・・ですね・・・・」
     情けない声になった。
    「私も感性を小まめに表現しなければ、生きていけない人間だ。君もそうだろう? 同じ舞台を創る人間として、お互い良いものを創り上げられたらと思っただけだ」
    「・・・・・はい・・・・」
    「芸術って人の心が現れるんだ。君が何かを疑いながら書いた脚本は、例え表現する人が役者だとしても、意図しているものと違った形で表現されてしまうと思うよ。ま、私としては、良い作品であれば誰を疑おうが、誰を憎もうが、誰を苦しめようが、何でもいいんだけどね」
    「・・・・・・・・」
    「よく考えるといい。あと、これよろしくね」
    机の引き出しから、契約内容の書かれた紙を差し出してきた。頭を真っ白にして、片手で受け取る。
    「・・・監督、その写真は?」
     浮腫んだ手の甲に火傷の痕が見えた。
    「あぁ・・・これか」
     監督の机に、オレンジの着物を着た女性の写真が飾られていた。クリアファイルに契約書を挟みながら、監督の表情を伺う。
    「劇団設立当初に一緒に舞台を創った女性だよ。私も元々俳優でね」
    「そうですか」
    「なかなかの美人だろう? ヒロインだったんだ」
     恋人だろうか。写真立ての縁には英語で文字が書かれている。扇子を指に挟んで、こちらに向かって微笑んでいた。
    「君は僕の若い頃に似ている。あの『うみひめ』って脚本を見たとき、そう思ったんだ」
    「・・・・・・」
     背を向ける。
    「・・・失礼します」
    「・・・あぁ・・・」
     六月のカレンダーを見ながら、ドアのほうへ向かう。煙草の煙が肺に落ちていた。脳の空洞が広がって、ぐらぐらしているのがわかった。欲望と理性が混在していて、何が正しいことなのかわからなくなってしまいそうだった。

     コンビニの袋から冷やしそばと空揚げを並べた。缶ビールの蓋を開けて、簡易テーブルの前に座る。
    「もしもし」
     ビールの泡が唇に当たった。
    『あぁ、兄ちゃん』
    「・・・今日から劇団行っててね。二回電話あったみたいだけど、何かあった?」
     片手で割り箸を割った。
    「見つけたんだよ」
    『ん?』
     興奮しているのか、感情が制御できていないようだった。
    『・・・動機』
    「は? 何のことだよ?」
    『犯人が瑞穂を殺した動機だよ。職場で資料を漁って、見つけたんだ』
     当真の声が二重に聴こえていた。頭の天辺から稲妻が流れるようだった。
    「な・・・何・・・言ってるんだよ。急に・・・」
    『見つけたんだ』
    「・・・・・・・・・」
    『でも、今電話では言えない』
     心臓が小刻みに脈を打っている。段々早くなり、喉元を締め付けていった。
    「・・・・・犯人って・・・」
    『周りの警察官には話してない。今はまだ推測だけどね・・・とりあえず、兄ちゃんに伝えようと思って』
    「・・・そ・・・・・・」
     劇団のために書いた脚本が視界に映る。
    『・・・今日はもう遅いから、兄ちゃんの空いてる時間に家に来て』
    「家?」
    『そう』
     掠れるような声になっていく。
    『家に来て。明日は? 来れる?』
    「・・・わかった。午後一で行くよ」
    『待ってる』
     携帯を置いて、缶ビールに口を付ける。舌が乾いて、味がしなかった。家に事件に関わるような何かがあるとは思えないが、当真が狂ってしまったわけでもないのだろう。足が諤々としていた。真実に迫らなければいけなかったが、知ることを恐れている部分もあった。
     窓に映った道路の明かりを眺める。赤信号に重なるようにして、車のヘッドライトが流れていった。

    刃 

     玄関に飾られた朝顔は、瑞穂が小学生の頃植えたものだった。毎年種を撒いて育てていたため、鉢から水彩画のような朝顔がなくなることはなかった。瑞穂が亡くなってからは、母さんが育ててきたらしい。去年、種を撒きながらハンカチで目を抑えている姿を見かけたことがあった。
    「ただいま」
     日中だからか、父さんと母さんの靴は無かった。棚に傘を立て掛ける。しばらくすると、階段を降りてくる足音が聞こえた。
    「外、雨降ってなかった?」
    「いや、電車乗ってるときぱらぱら降ってたけどね」
    「ごめん。急に」
     当真がジャージの袖を捲っていた。
    「今日仕事ないの?」
    「半休」
    「ふうん。慣れた?」
    「大きな事件は抱えてないから、平和だよ。あ、芹沢刑事と今度飲みに行くことになってさ」
    「二人で?」
    「そ。課は違うんだけど、話す機会があって・・・色々聞きたいからね」
     へへっと、ぎこちなく八重歯を見せていた。
    「兄ちゃんは・・・?」
    「あぁ・・・この前、劇団見てきたよ」
    「・・・そうなんだ」
    足の裏にフローリングが張り付く。
    「・・・様子、聞かないの? 俺に会ったら真っ先に聞いてくると思ってたんだけど」
    「・・・・・・後で聞こうかな・・・とりあえず、俺の部屋に来て」
    「そ・・・・・・」
     波が引いていくような心地がした。
     
    当真の部屋の本棚には照明の参考書に加えて法律の本が増えていた。机には聖書とギリシャ神話が置いてある。
    「聖書なんて読んでるの?」
    「ん? あぁ、最近興味があってね」
     ふっと短い息を漏らした。
    「兄ちゃんは無神論者だもんね」
    「まぁね。ギリシャ神話の神は確かによくできた話だと思うよ。キリスト教はわからないね。キリストが実在していたとしても、キリストが父と呼ぶ神は実在しないと思うよ」
    「そういうと思ったよ」
    当真は宗教に縋らなければいけないほど、弱い者の表情をしていた。
    「・・・それでさ・・・犯人の動機って?」
    「これだよ」
     当真はコピーした新聞記事をこちらに突き出してきた。
    「昭和の記事じゃないか」
    「よく見て」
     昭和六十一年六月二十日、M劇場の照明落下による火災で、二週間後に公演を控えた劇団員複数名が顔や手に火傷負ったと書いてあった。幸い、死者は居なかったが原因は・・・。
    「え、これって・・・」
     紙の端が震えていた。
    「休み時間に許可を貰って資料を集めてみたんだ。これって、父さんが少しの期間、働いてたっていう劇場だよね。ほんの数日間の臨時アルバイトだって言うから、あまり深くは聞いたこと無かったけど」
    「・・・あぁ・・・俺もよくは知らない・・・」
    「この事件の資料に、父さんの名前があったよ」
     後ずさりしながら、ベッドに座り込む。
    「ちょっと待って。じゃあ」
    「あの劇団と全く関係が無いわけじゃないってこと」
    「・・・・・・」
    「桑原監督って、昔、俳優だったんだってね? 関係者の間でも態度がでかいから有名だったらしいよ。ほら、これを見て。T劇場で上演するはずだった『ファウスト』の俳優の中に・・・」
     頭を抱えながら、白黒のチラシを眺める。
    「桑原達也・・・」
    「そう・・・。捜査記録でも確認したから、確かだよ」
    「・・・・・・」
     監督の手の甲にある火傷の痕を思い出していた。
    「きっと監督はこの舞台の上演が白紙になったことへの・・・否、これは俺の推測だけど、監督はこの怪我をした役者の中に想い人が居た。彼女は照明落下によって、顔に火傷を負い、二度と舞台に立つことはできなくなった、とかかな」
    「ちょ・・・・・・」
     事務所で見た写真は彼女だったのだろうか。
    「で・・・でも、父さんにそんな罪があるなんて、聞いたことないじゃないか。家族なんだから、もしそうゆう過去があるなら、何らかの形でわかるだろう? 損害賠償で借金を抱えているとか・・・」
     鳥肌が立っていく。
    「父さんが、もし瑞穂が照明落下したときのような理由で罪に問われていなかったら? もしくは、焼けてしまって確実な証拠が見つからなかったとしたら?」
    「・・・・・・・・・」
     曇り空から差し込む光が、部屋に落ちてくる。
    「監督が恨む気持ち、兄ちゃんなら特にわかるだろう?」
    「でも、殺すほどでは・・・」
    「そうかい?」
     喉が詰まった。 
    「もし、瑞穂に火傷を負わせ、二度と舞台に立てない苦しみを与えた人の娘が、のうのうと女優を目指していたとしたら、兄ちゃんは殺したいほど憎んだと思うよ」
    「・・・・・・」
     当真の髪が茶色く透けていく。
    「じゃあ・・・監督は意図的に、瑞穂と俺を劇団に引き込んでいるってことになるのか」
    「・・・そうなるかもね」
    「復讐のために・・・あんな・・・」
     紙をベッドに落とす。
    「といっても、証拠がない限り想像でしかない。警察だってここから見つけられなかったんだ。でも、監督には動機があるって絞り込めただけでも、俺たちにとっては進歩だと思うよ」
    「・・・・・・そうだな・・・まだ、断定はできないけどね」
    「だから、兄ちゃんにはあの劇団で監督だと裏付ける何かを見つけてほしいんだ。危険なのはわかってるけど・・・」
    「芹沢刑事には聞かないのか?」
    「タイミングを見て聞いておくよ。世間が注目した事件だったから、極秘に調べていたんだな。とにかく、兄ちゃんはせっかく神様からチャンスを貰っているんだから、それを生かしてほしい。警察にはそんなことできないからね」
    聖書に手を置いていた。父さんは、気づいていて黙っていたのだろうか。
    「きっと、監督は俺たちがこの記事を見たってことは知らない。知っていたら、兄ちゃんはこのオファーを受けるとは思えないからね」
    「・・・そうだな・・・」
    「劇団内の裏付けが必要なんだ。もう時間も経ってるし、かなり難しいかもしれないけど、きっと何かあるはず」
    「あぁ」
    真実に近づこうとしているのかもしれないが、思っていたよりも喜びはなかった。
    「・・・なぁ、当真」
    「ん?」
    「どうしてお前はそんなに残酷なことを平然と受け止められるんだ。父さんが原因かもしれないっていうのに」
    父さんと母さんが、瑞穂の事件をきっかけに家庭内別居を始めたのも、母さんだけが家族の中でこのことを知っていたからなのだろうか。
    「何でだろうな・・・」
    「・・・・・・」
    「でも、兄ちゃん。俺と兄ちゃんには決定的に違う点があるんだよ」
    「どんな?」
    黒水晶のような目をしていた。
    「ミケランジェロの『最後の審判』のように、悪しきものは神に裁かれると信じている点だよ。正義は神によって救われるんだ」
    「それじゃあ・・・父さんも・・・・・」
    「・・・だろうね。でも、何らかの罪があるのなら、しょうがないことだよ」
    「・・・・・・・・・」
    でも、当真。正義とは刃よりも残酷に思えるときがあるのだ。一瞬の感情も神に見透かされているとするなら、ただ一片の欲を抱いたというだけでも、刃は自分を貫いてしまうのではないだろうか。当真は、ぶれない正義を維持し、一片の欲も持たないと言い切れるのだろうか。

    涼花 

    劇団では明日の公演を控えた舞台『ファウスト』のリハーサルが行われていた。座席に深く座り直す。桑原監督は、この舞台が初日を過ぎた頃から次回の『うみひめ』の舞台稽古に取り掛かると言っていた。
    「ねぇ、何でそんなに暗い表情をしてるの?」
     切り揃えた前髪をふわっと揺らして、涼花がこちらに歩いてきた。
    「そんなことないよ」
    「そうかしら」
     ペットボトルに口を付ける。
    「この劇団に慣れないの?」
    「そうゆうわけじゃないよ」
     声が掠れた。
    「ねぇ・・・このシーンいつまで続くのかな。もう飽きちゃった。同じシーンばかりやってるんだもの」
    「そうだね」
     前のほうの客席には監督と、出演する劇団員が座っていた。僕は後ろから二つ目の席に居た。クーラーが効いているのもあったが、当真から聞いたことが頭にこびり付いて、監督のそばに近づくことができなかった。
    「じゃあ、ちょっと出ようか」
    「ん?」
    「案内してよ、劇団」
     気乗りはしなかったが、足の裏に力を入れて立ち上がった。
    「いいわよ」
     きゅっと頬を窪ませた。
    「じゃあ、代わりに次の舞台のヒロインってどんな役か教えてね。脚本家さん」
    「あぁ」
     適当な返事をして、舞台のほうを振り返った。ファウストがグレートヒェンを牢獄から連れ出そうとする場面だった。
    「どうしたの? 早く、行きましょう」
    「うん」
     当真の言うように調査したかったが、彼女以外からは事件について聞くことはできないと思っていた。瑞穂を虐めていたという高塚菜々美にもすれ違ったが、顔を見るなり挨拶もせずに逃げ出してしまった。他の劇団員も、何となく自分を遠ざけていた。自分だけが異質の存在のように思えていた。

    「涼花さんはこの劇団に入ってどれくらい?」
    「中学生の頃から在籍はしてたの。でも、本格的に役を貰えたのは高校生だったかな」
    「学校行きながら?」
    「そう。稽古は学校終わってから、公演は先生に行って早退させてもらってた」
    ふわっと、フローラルの香りがした。鉛のようなものを頭に抱えているにも関わらず、なぜか涼花の近くは心地よく感じられた。
    「あ、ここが楽屋」
    「どうゆう割り振り?」
    「特に決まってないの。楽屋と言っても女子更衣室と男子更衣室みたいになってるよ」
    「ふうん」
    「ここは劇場の跡地で、ただの稽古場だからね」
    白い廊下を向い合わせに六つのドアが並んでいた。
    「ここは? 楽屋じゃないの?」
     正面突き当りのドアは、他のドアよりも少し高さがあった。
    「あ、そこは衣装とか入ってるところ」
    「入れるの?」
     ドアに触れようと手を伸ばした。
    「駄目。そこは今、入れないようになってるの」
    「どうして?」
    「『ファウスト』の衣装の最終チェックをしているからよ」
     瑞穂の衣装もこの場所から持ち出したものなのだろうか。
    「・・・・・・そっか」
    「瑞穂ちゃんの衣装って貰ったんでしょう?」
    「あ・・・あぁ、実家にあるよ」
     衣装は瑞穂の遺体を纏っていたにも関わらず、ほとんど綺麗なままだった。
    「へぇ、よく監督がオーケー出したね。あの衣装は代々アフロディーテ役の子が着用してたものだから、絶対手放さないと思ったのに」
    「瑞穂が亡くなったんだから、次の子は着たくないでしょう」
    「・・・ごめんなさい」
     静かに目を伏せていた。
    「別にいいよ」
    「ねぇ・・・瑞穂ちゃんが亡くなった次の週のこと、覚えてる?」
    「あぁ、無理やりここに入ってきたことだろう?」
    「何しに来てたの?」
    「犯人の手掛かり探しだよ兄弟で勝手に突っ走って、案の定帰ってから親父に相当怒られたよ」
    「そう・・・手掛かりは見つかった?」
    「見つかってたらここにはいないよ」
     壁に寄り掛かる。
    「連絡、くれなかったでしょう? 私にできること、何も無かった?」
    「いや・・・」
    「・・・・・・・・・」
    涼花には八年前連絡先を聞いていたが、結局一度も連絡することはなかった。彼女なら事件について何か知っているのかもしれない。でも、口に出すとガラスのような関係に亀裂が入ってしまうような気がしたのだ。
    「それより、涼花さんはどうしてこの劇団に入ったの?」
    「・・・え・・・」
     くるんと上がった睫毛で、こちらを見上げた。
    「・・・やっぱり、みんなと同じ。女優になりたいからよ。この劇団はこうやって劇場も持ってるし、常に公演はあるからチャンスもたくさんある」
    「女優かぁ」
    「そう、舞台だけじゃなく、ドラマや映画にも出演して注目を浴びる女優」
     壁際のソファーに座って、顔を上げる。
    「そんな魅力的な仕事なのか?」
    「もちろんよ」
    「俺にはよくわからないんだ。脚本を書きたいために、舞台に上がるならわかるんだけどさ。注目を浴びたいからとかなの?」
     なぜ瑞穂が女優に拘っているのかも、理解できないままだった。
    「自分が芸術の作品になるからよ」
    「芸術の作品?」
    「そう」
     ペットボトルを掴んだまま手を降ろした。
    「絵画や彫刻は時の止まった芸術でしょう? でも、舞台は時間の流れる芸術なの。だから、女優はね、ほんの一瞬でもその空間の一部になれるのよ」
    「・・・・・・」
    「そんな幸せなことはないでしょう?」
     目の奥まできらきらしていた。
    「・・・なるほどね」
    頭を掻いた。ピュグマリオンの話を思い出していた。監督が『うみひめ』のヒロインに彼女を抜擢した理由が理解できた気がした。
    「君は俺が書いた次の作品のヒロインにぴったりだよ」
     うわごとのように話していた。見惚れているのだろうか。
    「君しかいない」
    「そう?」
    「あぁ」
     感性が吸い込まれていくのを感じていた。ほっそりした指先が頬を伝う。
    「よかった」
    「・・・・・・・・・」
     咲き始めた桜のような頬に笑窪を作る。オレンジに染まった爪が、目の先で艶めいていた。

     アルバイト先の編集プロダクションから電話が来ていたが、『ファウスト』のリハーサルを見ていたため気づかなかった。きっと、先週書いたネット関連広告の文章の確認だろう。
    「失礼します」
    「おぉ、お疲れさん」
    「契約書、持ってきました」
     机に置いた灰皿から煙が上っていく。
    「ありがとう」
     作り笑いの裏側には何が隠されているのだろう。平然としている姿が、妙に胡散臭かった。当真の言うように監督が犯人だとしたら、このまま首を絞めてやりたかった。
    「よろしくお願いします。今日の『ファウスト』素晴らしかったですね。監督と他にも色々話したいと思いまして・・・。この劇団には他にも脚本家は・・・」
    狭い事務所をさり気なく見渡したが、机の上の写真以上のものは見つからない。可能な限り長い時間、監督の近くで情報を収集したかった。
    「今日はこの後用事があるから、帰ってくれないか」
    「・・・・あ・・・・はい」
     ぐっと身を引いた。
    「すまないね」
    「・・・いえ」
     何かに警戒されてしまったのだろうか。
    「では、またの機会に」
    「あぁ、お疲れ」
    「失礼します」
     鞄の持ち手を擦るように握り締めた。時間はまだある。慎重に探っていかなければいけないと思った。監督に背を向けて、事務所のドアを引く。

     肩を落として、身体の力を抜いた。心臓がどくどく鳴っている。事務所を出て、手が震えていることに気付いた。監督は父さんの子である自分に対しても、殺意を持って見ているのかもしれない。でも、もし瑞穂のような状況になったら、刺し違えるくらいの覚悟はあった。ただ、敵を目の前にすると、森に迷い込んだ羊のように全身が委縮してしまうのだ。
     壁を伝って、出口のほうへ歩いていく。団員の声が遠くのほうで聞こえていた。当真に何て言おうか考えていた。ペットボトルをゴミ箱に放り込む。
     ふと、ヒールが床を突くような足音が聞こえた。振り返ると、事務所の前に女性が立っていた。パーカーのフードを深く被って、背中を丸めるようにしてドアの取手に手を置いている。
    「あ・・・」
     女性が暗闇からこちらを振り向いた。彼女の右目は眼帯に隠れて、頬は時間が経った蝋燭のように爛れていた。背筋がぞくっとした。足が貼りついたように動けずにいると、彼女はこちらの視線をかわすように、すぐに事務所の中へ入っていってしまった。

     歪

     喫茶店の窓に雨が流れて、停留所に止まったバスが歪んで見えた。アイスコーヒーの上からシロップを半分垂らす。
    「兄ちゃん」
    「あぁ、当真。こんな遠くまで来てもらって悪いね。今日休み?」
    「午後半休貰ってね。劇場のスケジュール入ってなかったからちょうどよかったよ」
     当真が鞄を降ろして、椅子を引いた。
    「アイスコーヒーお願いします」
    「かしこまりました」
    「すごい雨だな」
    「あぁ。通り雨だから、すぐに止むと思うけどね」
     ハンカチで腕を拭いていた。
    「それで・・・」
     グラスの氷を避けてストローを差す。
    「あぁ、T劇団の話だよ」
    百均で買ったノートを捲る。昨日の夜に、劇団についてわかったことを走り書きしていた。事務所の机には白黒の女性の写真があり、夜遅く女性が監督の部屋に入っていくのを見かけたことを話した。事件についてわかったことはすぐに共有するというのが、兄弟のルールになっていた。
    「・・・その見かけた女性って何歳くらい? 今の恋人とかじゃないの?」
    「顔が爛れていてわからなかった」
     声を潜める。
    「え?」
    「あぁ、右目は眼帯で隠れていた。暗くてよく見えなかったけど、おそらく火傷だと思うよ」
    「じゃあ、やっぱり」
    「当真の推測したとおりじゃないかって思うよ。事故にあったのは監督の恋人なんだろう。堅物の監督が部屋に写真を飾ってるんだよ? しかも、舞台が終わってからこそこそ呼ぶなんて・・・絶対そうに決まってる」
    「・・・とりあえず、整理しよう。兄ちゃん、劇団の中で他にもその女を見かけた人はいるの?」
    「いや・・・わからない」
    闇を這うような容姿に、誰かを待つことなく、その場から逃げ出してしまった。顔は人間の形をしていなかった。冷静に思い返してみると、見間違いだったのではないかとさえ思えた。
    「聞けるような人はいないの?」
    「・・・・・・いないこともない・・・」
    「涼花さん?」
    「あぁ。彼女くらいだな。あとの人は、俺に警戒して中々近づいてこないから」
    「そっか」
     店員が当真の前にアイスコーヒーを置いた。
    「今度行ったときに聞いてみるよ」
    「兄ちゃん、彼女のこと好きなの?」
    「いや・・・俺の脚本を上演するときの主役になるからさ。だから、よく話すだけだよ」
     ストローに口を付ける。
    「ふうん。涼花さんもオーディションで決まったの?」
    「どうなんだろう。聞いてないや」
    「気にならないの?」
    「別に。あの脚本のヒロインは彼女しかいないからさ。どっちでもいいよ」
    「・・・そっか」
    視線を窓のほうに向ける。車が歩道に水飛沫を上げていた。
    「俺は、彼女があんま好きじゃないよ」
    「どうして?」
    「何となく」
     御手拭の袋を抓んだ。
    「あ、そ」
    雨がどんどん激しくなり、外が白くなっていった。タクシーから降りた人が調布駅のほうへ走って行くのが見える。
    「・・・一気に犯人に近づいたよね。あと一歩って感じ」
    「あぁ」
    「不思議だよね。八年間、見えない犯人への憎しみが募るのにどうにもならなくて、ずっともがき苦しんできたのに、今頃になって兄ちゃんが劇団に呼ばれ、俺が刑事課に配属されて情報を入手することができて、トントン拍子に色んなことが見えてきてさ。怖いくらいだよ」
     当真が頬杖を付きながら、自分と同じ方向を眺めていた。
    「きっと、時期なんだよ。滞っていたものが、何かのきっかけで流れ出すのと同じだと思うよ」
    「そうかな」
    「そうさ」
     息を吐くように答えた。
    「今の両親を瑞穂が見たら悲しむだろうな」
     窓越しに話していた。
    「そうだな。でも、父さんに罪があって恨みをかった結果の事件だとしたら、瑞穂も父さんのこと恨んだんじゃない?」
    「そんなことないよ。瑞穂はきっと許してくれる」
     語気を強めていた。
    「何を根拠にそう思うんだ?」
    「瑞穂の肉体は今世での役目を終えて、神様のもとへ行ったんだ。神の国では、弱くても徳の積んだ者ほど大きなものを与えられる。だから、きっと瑞穂は神の愛によって人を許す心も与えられてると思うよ」
     曇りのない目を見ていると、脛を撫でられるようにぞわっとした。
    「それは、お前がそう思いたいだけだろう?」
     瑞穂は自分のことも許すとは思えないのだ。
    「兄ちゃんも聖書を読めばわかるよ」
    「・・・わかった。もういいよ」
    ノートを閉じて、鞄の中に入れた。当真が言いかけた言葉を飲み込むようにして、アイスコーヒーを吸っていた。
    「・・・・・・・・・」
    事件とは異なる話題を探しながら、数年間、当真と事件を省いて話していないことに気づいた。砂鉄が磁石に引っ付くように、どこかで事件の話に結び付いてしまうのだ。
    もし、瑞穂が生きていたのなら、当真との会話も変わっていたのだろうか。否、共通の話題はないように思えた。血を分けた兄弟であるにも関わらず、根柢の絆は希薄で、一点に向けた憎しみのみで繋がっているような気がしてしまうのだ。

     視線
     
    ピアノの音を拾い集めるように、涼花のワンピースがふわっと浮いていた。青い服を着た女の子に、海の女神が命を浮き込んで、真夜中に動き出す場面だった。
    「ギリシャ神話のピュグマリオンの話がベースになってるんだってね」
    「・・・そうですね」
    「秋葉さんから聞いたよ」
    監督の問いかけに、適当な相槌を打っていた。何も耳に入らなかった。舞台の真ん中にぽつりと立つ涼花は、スポットライトを浴びていないのに、凛として美しかった。
    ギリシャ神話と大きく異なる点は、彫刻が動き始めたときから時間が経つごとに、ヒロインの美海が他の男性に目移りすることにあった。彫刻に注ぎ込んだ感性が実際の意思を持って動き出すと、陽太の描いていた女性像から少しずつずれていくのだ。異国の雰囲気を纏った美海は、ひそかに街の人気者になっていった。海沿いを散歩しているときに知り合った一人の男性と恋に落ちて、陽太の隣から離れていくようになった。陽太は他の男の存在を知りながら、彼女を恨むことができず、残された彫刻の台に美海の面影を思い出して空白の日々を埋めていた。美海がふらりと帰ってくると、台を見つめる陽太の姿に愕然として、海の女神に頼んでもう一度彫刻に戻してもらうことにした。陽太は目が覚めると、彫刻に戻った彼女を見て涙するという話だった。
    「瑞穂さん・・・をイメージしたの?」
    「いえ」
    「でも、妹さんがやっても見栄えしたと思うよ。秋葉さんより・・・というとわからないけどね」
    「そうですね」
     嫌な声が鼓膜に纏わりついて、苛々していた。
    「監督は涼花さんのことを認めてるんですね」
    「彼女は派手な容姿ではないし、身長も高いわけじゃないけど、じんわりとした表現力があるんだよ。滅多に主役として輝ける器ではないと思うけど、君が書いた作品にはね、ぴったりあてはまるだろう?」
    「・・・・・・」
    「この脚本の言葉の余韻は、きっと彼女にしか表現できないよ。私としても、劇団に新たな風を吹き込んでくれてありがたいと思ってる。ただ一つ、この作品の中で彼女という人物を活かせない要因があるとするなら・・・・・・・・・」
     涼花が客席のほうへ視線を向けていた。
    「君が彼女の表面的な部分しか知らないことだよ」
    「・・・・・・・・・」
    監督が台本を丸めながら、前のほうへ歩いて行った。涼花のそばに近寄り、立ち位置を指示しているのを眺めていた。
    客席前方のドアが開き、『ファウスト』の出演者が入ってくるのが見えた。中腰で声を潜めながらじゃれ合っている人たちの中に、高塚菜々美もいた。休憩で涼花が舞台からいなくなると、劇場全体が淀んでいくように感じられた。
    現実が降り落ちると、劇団に対する憎しみが込み上げてきた。全員が敵であるように思えた。きっと、誰もが暗黙の了解で、事件のことで知っていることを黙っているのだろう。宗教じみた団結力のようなものも感じられた。

    「蓮見さん」
    「・・・ん?」
     中橋が一人の男性を連れて、自分の横に現れた。
    「朝野さん、こちらが次回の舞台の『うみひめ』の脚本家、蓮見さんです」
    「あぁ、ありがと」
     中橋が頭を軽く下げて、劇団員の中に入っていった
    「若いんだね?何歳?」
    「・・・28歳です・・・」
    薄いピンクのシャツを着て、模様の入ったジーンズを穿いていた。
    「へぇ、十歳も下かぁ」
    「・・・・・・・・・」
    「いやぁ、涼花がね、舞台でこんなイキイキしてるの初めて見たよ」
     一つ挟んで隣の席に座った。鼻を突くような香水の匂いがした。
    「あ、俺ね、舞台『ファウスト』の脚本家の朝野啓介」
    「僕は今回『うみひめ』を書いた蓮見です。よろしくお願いします」
    「いいよ、かしこまらなくて。君のことは良く知ってるしさ。妹さんが出る予定だった舞台は、俺が書いた脚本だったからね」
    「そう・・・ですか」
    「ん・・・でも、アフロディーテの役は涼花のほうが合ってたかもしれないね。海の泡から生まれた女性なんて、涼花しかいないと思うよ」
    「じゃあ、どうして」
     唇の裏側を噛んだ。
    「監督が、そう決めたんだ。この劇団では、団長である監督が絶対だからね。実際に舞台が動き出すところを見ると、確かに瑞穂さんがよかったと思うよ。なんといっても、ダイナミックなのに軽やかで身のこなしが美しかった」
    「・・・・・・・・・」
     この男も女優としての瑞穂に会っていたのだろうか。
    「本当に勿体なかったな」
    「・・・はい」
    少し伸びた髪を触りながら携帯を出していた。監督が手を叩くと、舞台に上がっていた劇団員がはけていった。
    「なんだ。涼花が主役になるっていうから、どんな演技するんだろうって思って見に来たのに、ちょうど昼休憩か」
    「・・・・涼花さんと仲がいいんですか?」
    「あぁ。俺、涼花と婚約してるからね」
    「え?」
    「あ、聞いてなかった?」
     心臓がどくんと鳴っていた。
    「あ・・・・・・・朝野さんは」
    「ごめん。電話だ」
    携帯を耳に当てながら、客席後方のドアに歩いて行った。椅子に『ファウスト』の台本が置かれたままだった。
    顔を上げると、ペットボトルを持った涼花と目が合った。こちらに向かって微笑むと、すぐに客席から舞台に上がっていった。他の役者は台本を見ていたが、涼花は動き方と位置を確認しているようだった。

     照明用のバトンがゆっくりと下がってくる。舞台の真ん中に、すっと一筋の線が生まれた。
    「この辺かな。いい?」
    「うん。そうやって下げるんだ。よく知ってるね?」
    「この劇場のことは大体わかるわ。ずっといるんだから」
    「この劇団の全員?」
    「そうね・・・。在籍が長いと、たまにこうゆうこともやらされるからほとんど知ってるんじゃないかしら」
     ロープを両手で押さえながら、涼花がバトンの位置を確認していた。機材を跨いで、バトンに近づいていく。
     瑞穂の首を繋いだバトンを見たいというと、涼花はすんなり承諾してくれた。否、見たくは無かったが、見なければいけないような気がした。事件を紐解く、何かのきっかけになるかもしれないと思った。
    「もう零時なのね・・・。ちょっと急がなきゃ」
    「終電? 俺、車で来たから送ってくよ」
    「ありがと」
     靴の音を響かせながら、こちらに近づいていた。
    「ごめんね。付き合わせちゃって」
    「全然」
     ロープがくくりつけられていたバトンに触れる。テープを貼ったような跡が残っていた。
    「誰かに殺されたとすると、こうやって二人がかりでバトンを降ろしたのかもしれないわね」
    「・・・あぁ・・・」
    目の高さにあると、バトンから首の位置は近いように思えた。涼花の言うように、片方の人間が首にロープを巻き付けて、もう一方の人がタイミングを合わせてロープを引くなら、犯行が可能なのではないだろうか。でも、警察は瑞穂に目立った抵抗の跡はなかったと言っていた。そうだとしたら・・・。
    「やっぱり、劇団員の誰かなんだろうな」
    「・・・そうね・・・そこは私もそう思うの」
    「あの当時を知ってる人は、この劇団にはもう居ないの?」
    「・・・いえ、居るわ。・・・と・・・」
     朝野を含めて数名の名前を挙げていった。心に書きとめながら、バトンを握り締める。
    「ありがとう」
    「名前と顔、わかる?」
    「ん、大体ね」
     ライトをなぞると、指に埃が付いた。
    「あの事件が起こった日から、ずっとそう思ってきたけどね・・・。この劇団に居ると、俺には団員全員が敵に見えるんだ」
    「・・・・・・」
    「どうしても・・・たとえ犯人がたった二人だとしても、そう見えるんだ。普通通り笑ったりしてると腹立ってくるんだよ。瑞穂が亡くなってるのに、何でって」
     暗くなった客席の後ろには、非常灯の緑の明かりが点々としている。
    「・・・じゃあ、あたしも、そう見える?」
    「さぁ、どうだろう・・・」
     汗で掌が滑った。
    「でも・・・なるべく、そうは思いたくないな・・・」
    「・・・・・・・・・」
     涼花の瞳は、幕の影に隠れてよく見えなかった。
    「ねぇ、あたしの今日の演技どうだった?」
    「あ・・・うん。思った通り、ぴったりだったよ」
    「そう。よかった」
     バトンを挟んで前のほうに歩いていった。華奢な背中を反らしてぐっと背伸びをしていた。床の影が涼花の形に添って、客席のほうへ伸びていく。
    「主役やるの初めてだったんだね。驚いたよ。堂々としていて、あんなに舞台映えするオーラを持ってるのに・・・」
    「そう?」
    「そうさ。水面に落ちた滴が何層もの波紋を広げるように、一つの台詞から感性が広がっていくのを感じたよ」
     正直な言葉だった。
    「きっと、脚本がいいのね」
    「ありがと」
     髪を後ろに流していた。
    「・・・今日、朝野さんに会ったよ」
    「ふうん。そう・・・」
     肩がぴくりと動いた気がした。
    「何か言ってた?」
    「特に」
    「・・・・・・」
     綿雪のような頬をこちらに向けて、何か言おうとしているようだった。
    「婚約してるの?」
     こちらを振り向かずに、こくりと頷く。胸の奥から火花が飛び散るのを感じた。
    「へぇ、そうなんだ」
    「・・・・・・」
    「お似合いだね」
    「・・・そ」
     自分の言葉に苛々していた。照明バトンから離れる。
    「いつ、結婚するとか決まってるの?」
    「ううん。でも、来年くらいになるかな」
    「そうなんだ」
    丸い瞳がバトンに隠れるようにしてこちらを見ていた。
    「・・・ねぇ、お似合いだって本当にそう思う?」
    「ん、あぁ・・・・・」
    「・・・それなら、いいの・・・」
     彼女はどこまで演じているのだろう。
    「あ・・・・・・今日はもう帰ろうか。バトン降ろしてくれてありがとう。事件のことだけじゃなく勉強になったよ」
    「うん」
    ふんわりとした余韻を残して、上手のほうへ入っていく。ぼんやりと彼女の後姿を眺めていた。
    「バトン上げるからちょっと離れてて」
    「あ、うん」
     エレベーターのように上がっていくバトンを目で追っていくと、キャットウォークから誰かがこちらを見ているのに気付いた。
    「・・・う・・・・・」
     真っ黒なコートを羽織って深くフードを被っていた。微かに見える彼女の片目は潰れていて、頬まで覆うマスクを付けていた。脛から毛が逆立っていき、寒気が全身を駆け巡った。足が硬直して動かなかった。
    「どうしたの?」
     ロープを離して、涼花が舞台中央へ戻ってくると、キャットウォークにいた彼女は闇の中に消えていった。
    「ん? 誰か、いた?」
    「・・・あぁ・・・・・・」
     視線を落とす。
    「いや・・・何でもない」
     涼花の声は、早く打つ心臓の音にしばらく掻き消されていた。何をしていたのだろう。能面のような表情でこちらを見降ろしていた。同じ時間の流れの中で生きている人ではなかった。何の根拠も無かったが、事務所前で見かけた女性ではないかと思っていた。

    爜

     缶コーヒーの蓋を開けて、ベンチに座る。公園の遊具で遊んでいる子供たちが、砂場のほうへ駆けていくのが見えた。
    「隆司、久しぶりだな」
     ジャージ姿でコンビニの袋を持っていた。
    「父さん・・・」
     風が耳の裏側を通り過ぎる。透けるような葉がきらきら揺れていた。休日の昼間に父さんを呼び出したのは初めてだったかもしれない。
    「・・・歩いて来たの?」
    「あぁ、ちょうどいい散歩になったよ」
     瑞穂と父さんは目元がそっくりだった。もう、瑞穂の顔は鮮明に思い出せなくて、父さんの顔から辿ってしまっていることに気づく。
    「珍しいな、お前から話があるなんて」
    「そう?」
    「ま、たまには男同士の会話もいいもんだな」
    「・・・・・・・・・」
     聞きたいことがまとまらず、昨日の夜からほとんど寝ていなかった。
    「・・・当真は? 最近どうしてる?」
    「さぁ、家でもあんまり会ってないからな」
    「そう」
     白髪が増えたような気がした。コンビニの袋から、缶チューハイを取り出している。
    「酒?」
    「まぁ、たまにはいいじゃないか」
    「母さんに怒られるよ」
    「・・・・・・」
     こちらにビールを突き出してきた。
    「・・・俺はいいよ」
     真面目だった父さんの面影は薄れて、髭は伸びて髪は跳ねたままになっていた。
    「・・・ねぇ、父さん」
    「ん?」
    「父さんに聞きたいことがあるんだ」
     小さい子供がブランコを取り合っているのを眺めていた。
    「・・・・・・」
    「俺、最近あの劇団によく行くんだけどさ・・・その」
    「桑原のことか」
    「え・・・」
     不意打ちを食らったようだった。目を見開いて、父さんのほうを向く。
    「お前の耳に入ったら、こうやって聞いてくると思ってたよ。誰から聞いたのかは聞かないけどね」
     妙に落ち着いていた。
    「・・・じゃあやっぱり」
    「・・・・・・・・・」
    「何で黙ってたんだよ」
     缶コーヒーの蓋を弾いた。
    「黙ってた・・・か。そんなつもりはなかったんだけどな」
    「・・・・・・・・・」
    「正直、瑞穂が桑原の劇団の主役に抜擢されるって聞いたときは驚いたけど、でもいくら過去に何かあっても、父さんと瑞穂は違うからさ。止める理由はなかったよ」
    「・・・あの劇団が火事にあった事件って本当なの?」
    「あぁ、事実だよ。父さんが設置した照明が落ちて火災の原因になった。でも、本当に不慮の事故だったんだ。たまたま落下防止のワイヤーも切れていたんだ」
    「何で? 父さんは罪に問われなかったの?」
    「桑原は専門学生時代の後輩でね、警察には誰がやったとは伝えなかったんだよ。そのあと、自分から舞台の世界を辞めたんだ」
     喉が渇いていく。
    「母さんもそのことを・・・?」
    「知ってるよ。瑞穂が亡くなった次の日の夜、警察から聞いてるはずだ」
    「警察も知ってるの?」
     足の裏を地面に押し付ける。ベンチ下の影に砂埃が立っていった。
    「あぁ。事件に関する手がかりになりそうなことは、全て話してる」
    「じゃあ、何で俺たちには教えてくれなかったんだよ」
    「お前と当真は、まだ子供だったからだよ」
    「子供って、俺らはどんな想いで・・・」
    何か解決の糸口を見つけようと躍起になっていた、自分と当真の八年間は何だったのだろう。
    「・・・当時火傷を負った人の中に、桑原の恋人も居たんだ。母さんは桑原が犯人で、みんな黙ってるんじゃないかって許せないんだよ。父さんのこともね」
     当真の推測していた通りだった。
    「父さんは?」
    「ん?」
    「父さんは、監督が犯人だと思う?」
    「・・・・・・・・・」
     ベンチの隙間の蜘蛛の巣が煌めいている。
    「違うと思うな」
     意外な答えだった。
    「どうして?」
    「・・・・・・」
    「俺はあの劇団に居て、二回その女性とやらを見た。顔は崩れて、人間の容姿をしていなかったよ。夢を砕かれてあんな姿にされたら、恋人の憎しみは相当なもんさ。それでも、どうして監督が殺していないって言いきれるんだよ」
     声を殺しながら、手の甲を抓っていた。
    「・・・桑原は確かに彼女を愛していた。俺のことも恨んでると思う。でも、それで舞台を汚すようなことはしない」
    「監督とその女性が二人で瑞穂を殺したって思えば、全ての辻褄が合うじゃないか」
    「そうだな。でも、証拠がない」
    「証拠はこれから見つけるよ。俺にはあの劇団を出入りする権利があるんだ。絶対に見つけてやる」
    「否、証拠は出てこないよ。桑原はそうゆう奴じゃない。もし、自分の恨みで誰かを殺すような奴だとしたら、父さんはあのとき捕まるか殺されてるよ」
    「・・・・・・・・・」
    父さんは自分を守るために監督を庇っているのだろうか。大事な娘が死んだ今になっても、まだ自分の身が大事なのだろうか。
    「・・・父さんがそう思うなら、もういいよ」
     力の抜けた足で、立ち上がった。
    「ただ、父さんもあの劇団には犯人が居ると思ってるんだ」
    「・・・・・・」
    「・・・必ず居る」
     酒を降ろして、じっとこちらを見ていた。
    「・・・・・・・・・」
     振り切るように、ベンチから離れていった。公園の柵を跨ぐと、子供の声が霞んでいった。地面を蹴る。沸々と湧き上がる苛立ちが、どこに向けたらいいものなのかわからなくなっていた。

    傷

     涼花は客席に居るときは人に戻っていたが、舞台に上がると水を得た魚のように眩いほどの存在感に満ちていた。胸の奥をじんわりと焦がすような心地がしていた。ピュグマリオンのように、自分の芸術に酔い痴れているのだろうか。涼花に惚れてしまったのだろうか。
    「蓮見さん、隣、いいですか」
    「あぁ」
     中橋が話しかけてきた。この劇団員でまともに話しかけてくるのは、涼花と中橋だけのような気がした。
    「朝野さんと何話しましたか?」
    「特に・・・。この劇団で公演してる『アフロディーテ』と『ファウスト』の脚本家ってことだけ聞きましたよ」
    「そうですか。彼、変わってるんで、何考えてるかわからないんですよ」
    「はぁ・・・」
    「いい話を書くんですけどね」
     台詞を控えた劇団員が、ちらりとこちらを見た。
    「蓮見さんは、この劇団によく来ますね」
    「まぁ・・・」
    「この他に仕事、何かされてるんですか?」
    「あぁ、編集のアルバイトを・・・ね。と言っても、ほとんどフリーライターみたいなもんだから、行くのは週に三、四回ってところかな」
    「へぇ・・・編集ですか・・・意外ですね」
    「脚本で生計を立てられるほどにはなっていないんでね」
    ふと、なぜ自分が編集の雑用をしているのか疑問に思った。舞台に関わりたいのなら、裏方の仕事に回るのが普通なのかもしれない。
    「実は、僕もこの劇団の他に飲食のアルバイトしてるんですよ」
    「飲食って、居酒屋とか?」
    「はい。というか、ここの劇団に居る人はほとんどの人がアルバイトしてます。演じるだけで食べていけるのは、それなりの役を貰えるほんの一部の人だけですよ」
     脚本からペンを離した。
    「中橋さんはどうしてそんなに役者になりたいんですか?」
    「そうですね。俺は今年で三十五歳になるんですけどね、演じることが好きだから辞められないんですよ。いつか有名になれるんじゃないかって、諦められなくてね」
     こめかみのホクロを触りながら、自嘲するように話していた。
    「ここは確かに有名な劇団ですけど、エキストラに将来は無いです。みんな仲がいいんですけどね。内心、役を貰いたくて必死だと思いますよ」
    「ふうん」
    劇団員が距離を置きながらも、自分を拒絶できない理由がわかった気がした。
    「高塚菜々美って子も?」
    「あぁ・・・。あの子はここ数年、目立った役は貰えてないです。見た目が綺麗だからあまり表情の無い役にあたることが多いんだけど、役の幅が狭いと運次第みたいなところがありまして・・・。そろそろ辞め時じゃないかって周囲は話してますよ」
    「・・・・・・」
     いい気味だとは思えなかった。
    「彼女って瑞穂のことを虐めていたんでしょう?」
    「とんでもない。確か仲良かったと思いますよ?」
    「え・・・・・・?」
     喉の奥が乾いた。
    「あ・・・ちょっと記憶が薄くなってるかもしれないです。僕、あの頃はまだ劇団のことよくわかっていなかったので」
    「・・・・・そうですか・・・」
     浅く腹を凹ませた。
    「蓮見さんはいいですね」
    「何が?」
    「確固とした才能があって。監督からは、助監督に任命したいとまで言われているらしいじゃないですか」
     美海の台詞が劇場内に響く。
    「そんなこと聞いてませんよ。誰かと間違ってるんじゃない?」
     監督から称賛を受けるようなことをした覚えが全くなかった。
    「いえ、直接・・・」
     携帯のバイブが鳴っていた。当真の名前が表示されている。
    「失礼」
    鞄を持って、腰を折りながら客席を歩いていく。ドアを開けると、グレーのカーペットに夕陽が差し込んだ。

    「もしもし」
    『兄ちゃん、ごめん。仕事中だった?』
    「あぁ、いいよ。どうした?」
     自動販売機のボタンを押した。ごとんとペットボトルの落ちてくる音がした。
    『昔そこの劇団に居た人のリスト調べてたんだけどさ、アドニス役の三浦琢磨って人いるだろう?』
    「あ・・・あぁ。うん」
    『明後日、会ってくるんだけど、兄貴も行く?』
     小銭をポケットに入れる。
    「何で急に?」
    『芹沢刑事と話して、事件当時のことを聞きに行くことになったんだ。彼もやっぱり、気になっていてさ・・・』
    「・・・警察の仕事で?」
    『いや、単に聞きに行くだけ』
    糸に引っ掛かるような心地がしていた。
    「あぁ・・・都合が付いたら行くよ。話はそれだけ?」
     ロビーの窓に貼り付いた枯葉を眺める。
    『今度、その劇団にも行きたいと思うんだけどいい?』
    「は? 何で?」
    『俺だけだよ。兄ちゃんの創る舞台を見たいんだ』
    「・・・あぁ・・・。聞いてみるよ」
     携帯越しに電車の遮断機が下りる音がした。
    『あれから、何かわかったことあった?』
    「あぁ・・・。大したことじゃないから、会ったときに話すよ」
    『そ、わかった』
    話さなければいけないことはあったが、どこまで話すべきなのか迷っていた。
    『あと、照明バトンも見せてもらえる?』
    「さぁ、別にいいんじゃない?」
     ペットボトルの蓋を回す。きっと、当真は僕の舞台が見たいわけではないのだろう。
    『兄ちゃんは見た?』
    「あぁ・・・。時間が経ってるとはいえ、できることなら見たくなかったけどね」
    『そう・・・』
     涼花が居なければ、近づく勇気も出なかったかもしれない。
    『何かわかった?』
    「いや・・・。俺が見てわかることがあるなら、警察がとっくに突きとめてるよ」
    『それも、そうだね・・・』
    「正直だな」
     子役の子がリュックを背負って走って行くのが見えた。
    『でも、今、警察の仕事をしている俺なら、直観でわかることもあるかもしれないよ』
    「・・・・・・そうか」
    見えない何かに対する当真の自信は、闇を覆っていく雲のようにおぼろげなものだった。突き詰めていくと、何も無いような気がするのだ。
    「お前の、その、奇妙な自信が羨ましいよ。怖くないのか? 過去の傷を抉って、真実を掘り起こそうとすることで、憎しみが精神を焼き尽くしてしまうかもしれない」
    『怖いと思うのは、自己に対する防衛本能だよね。確かに大切なことだと思うよ』
    「・・・・・・」
    『でも、罪を裁くってことは誰に対しても必要なことなんだ。神の愛が注がれてるってことなんだよ。被害者はもちろん、加害者だって神に愛される権利は持ってる』
    「瑞穂が死んだのに、神様が居るって言いきれるお前が・・・理解できないよ」
    『兄ちゃんと俺は、根本的に違うからね』
     背凭れに寄り掛かって、天井を見上げる。
    「なぁ」
    『ん?』
    「当真のいう神様ってやつは、そんなに偉いのか?」
    『うん。そう思うよ』
     ぶれの無い返事だった。
    「・・・そうか・・・・・・」
    肩の力を抜く。時折、当真から感じる距離感は、恐らく瑞穂の生きていた数年前にも感じたことがあったものだった。

    㜈

     当真は兄弟の中で一番成績が優秀だったにも関わらず、演劇界に夢を持つ瑞穂と僕のことを羨ましがっていた。瑞穂も僕も、突き抜けた才能があったわけではない。ただ、他の誰かではできない何かに没頭する姿が、煌々と輝いて見えるのだという。最初は単に謙遜して褒めているだけだと思っていたが、徐々に嫉妬のようなものを感じられるようになっていった。笑いながら、『俺の才能は、瑞穂と兄ちゃんに取られたようなものだから』と言ってきたこともあったが、何も言い返すことなく聞き流していた。でも、僕の微々たる文才に嫉妬してくる当真を見ながら、優越感に浸ることが無かったこともない。
     舞台の構造を見ながら次回の脚本を練っていたら、いつの間にか零時を超えてしまった。事務所の電気は付いていたので、監督はまだ残っているようだったが、顔の爛れた女を見かけることはなかった。劇場に住み着く化け物のような容姿を見ずに済んで、内心ほっとしていた。
    「お疲れ様です」
     花柄のワンピースを着た涼花が、裏口のドアの前に立っていた。
    「お疲れ、どうしたの? もう劇団の人は誰もいないじゃん」
    「気づいたらこんな時間になっちゃった」
     銀色のピアスが揺れている。
    「終電無いじゃん」
    「そうね」
    「どうやって帰るの?」
    「送って?」
     頭を傾けて微笑んだ。
    「・・・別にいいけど・・・。どうしてこんなに遅くまで残ってたの?」
    「踊りの練習してたの」
    「踊りって・・・違う舞台の演技で使うの?」
    「ううん。『うみひめ』のための練習」
     裏口のドアに手を掛ける。
    「踊りのシーンなんて無かったと思うけど・・・」
    「身のこなしが綺麗になるでしょう? 演技として使わなくても」
    「あぁ、そうか」
     夜風を吸い込むと、肺の中の靄が抜けていくようだった。雲が途切れて、ぽうっと月明かりが差し込む。
    「月が綺麗だね。満月だ」
    「そうね」
    「・・・・・・」
     アスファルトに小石が転がっていく。涼花は自分から少しだけ離れて付いてきた。
     シェイクスピアなら、車に乗り込むまでの距離から情緒的な表現を生み出すことができるのだろう。でも、自分の心は岩のように固まってしまい、緊張を和らげるような言葉が思い浮かばなかった。

    「・・・家は吉祥寺のほうだったよね?」
    「うん」
     劇場前の道路を右折すると、遠くのほうで道路工事の明かりが見えた。
    「蓮見さんは、今日はどうして残ってたの?」
    「ずっと次回作の脚本の構想を練っててね。気づいたらこんな時間になってたよ」
    「そう。次はどんな作品になるの?」
    「ん・・・まだ全然決まってない。ただぼんやりと思いついたことを書いてただけ」
    「そうなの。早く台本見てみたいな」
    「まだまだだって。それにこの劇団に受け入れられるかわからないしね」
    「監督、蓮見さんのこと気に入ってるもの。絶対大丈夫」
     音量を低くしたラジオから、洋楽が聞こえてきた。
    「弟さん、『ファウスト』の照明やるんでしょう?」
    「あぁ、よく知ってるね」
    「朝、舞台さんから聞いたの。確か一度だけ会ったことがあったよね? 八年前だったかしら」
    「あぁ・・・そうだったな。来週挨拶しに劇団に来るって。ついでに俺の書いた舞台を見てみたいんだってさ」
    「そう」
     今は、あまり当真のことを考えたくなかった。木に隠れた信号機を見つめながら、すっと息を吸い込む。
    「ねぇ、涼花さんはさ・・・」
    「・・・ん?」
    「どうして朝野さんと婚約してるの?」
     一瞬、会話に空間ができた気がした。
    「・・・そうね。素敵な人だからじゃないかな」
    「そ」
     キンと鳴るような声だった。
    「・・・いつから付き合ってるの?」
    「付き合い始めたのは、六年前だったかな。婚約したのは去年から」
    「そうなんだ。結構長いんだね」
     心の振れ幅が大きくなっていくのを感じた。
    「一緒に暮らしてるの?」
    「ううん。独り暮らし」
    「ふうん」
    「でも、彼のことそんなに好きなわけじゃないの」
     顔を窓のほうに向けていた。
    「・・・じゃあ、何で好きでもない人と付き合ってるの?」
    「もう後に引けないから」
    「それって・・・打算的なもの?」
    「そうね」
     ちらっと彼女の横顔に目をやる。
    「正直、女優になりたいから、彼を利用したいって思いもあるわ。彼は人をへし折ってでも上に行きたい人だから、しばらく舞台の世界にしがみ付いてると思うの。きっと、そうゆう人だから離れられずにいるのよ」
    「・・・・・・」
    「彼はね、監督を引き摺り降ろして、この劇団を自分のものにしたいとも言ってるわ。この劇場も、全部・・・」
    「相当な野心家だね」
    「でしょう? 何でも自分のシナリオ通りに進むと思ってるのよ。不気味なくらいね」
    「ふうん」
     車のバックライトに照らされた。
    「彼の近くに居れば、役が貰えなくなることもないと思うわ。色んな業界に顔が広いから、常に女優としての地位を保てるわ」
    「例え君の望みが叶ってでも・・・代償として好きでもない人と結婚することになっても後悔しないの?」
    「えぇ。演じることはあたしの全てだもの。結婚なんて、その後に付いてくるものよ」
     ふっくらした唇が動いていた。
    「へぇ・・・。初めて会ったときはそうゆう欲深い女性には見えなかったよ。大人しくて、控えめで、清楚な感じで、舞台の世界には周りに押されて入っちゃったみたいな感じに見えた」
    「錯覚ね」
    「そうか?」
     狭い車の中で、涼花の声は鈴の音のように聞こえた。
    「・・・・・・」
    きっと、どこかでネジが外れてしまい、狂ってしまったのだと思う。ぽろぽろと砕けていく彼女の仮面が、不思議と愛おしく感じられていた。
    「・・・じゃあ、俺に近づいてきたのもそうゆうこと?」
    「そうね。悪かったかしら?」
    「いいや」
     監督の言っていた言葉を思い出していた。ふっと短い溜息を付く。
    「むしろ惚れ直したよ」
    「・・・・・・・・」
    「やっぱり君っていう女性は、すごい女性だね」
    「・・・そう?」
    「大女優になるよ」
     当真の言うとおり、涼花が何を考えているのかわからなかった。でも、追い求めようとするほど、渦に巻き込まれるように惹かれてしまう。
    「物好きね」
    「よく言われるよ」
    「でも、よかった」
     車のクーラーを下げた。
    「あたしは多くの脚本家が求めるような、真っ白な女性じゃないの。ううん、きっとほとんどが汚れてる。でも、一部だけでも人の心を揺さぶるような芸術になれたら、人って美しいものだと錯覚してしまうでしょう?」
    「君は考えることが極端すぎるよ」
     笑いがこぼれた。
    「そうかしら」
    「そうだよ」
    「・・・瑞穂ちゃんは・・・違った?」
    「瑞穂はそんなことまで考えてなかったよ」
     やんわりとした髪から甘い香りがした。
    「本当、君と居ると退屈しないな」
    「そう?」
    「自分の欲望のままに表現する獣みたいだよ。でも、悪くない。俺だったら君の素材を活かせるよ」
    「ケモノって失礼ね」
    「そうにしか見えないよ」
     婚約者のことなど、とうに忘れてしまっていた。
    「・・・ねぇ、じゃあ・・・」
     京王線の特急電車が通り過ぎていく。涼花の肉体が、ほんの少し肩に触れる。 
    「あなたがあたしを女にすればいい」
     花びらのような唇を寄せてきた。電車の明かりが真っ直ぐに流れていったが、目が眩んで、視界が白くなっていった。

    過去

    「久しぶりだな」
     藤沢駅の改札を出ると、芹沢刑事と当真がスーツを着て立っていた。当真が急に遠く感じられた。
    「ども」
     ジーンズのポケットに携帯を入れる。
    「何か、警察って感じだな」
    「まぁね」
     芹沢刑事が白い歯を見せて笑っていた。
    「とりあえず、そこの喫茶店で待とうか。四時半になったら来るはずだから、待っている間に色々話すよ」
     腕時計を見ながら背を向ける。八年経った芹沢刑事は皺が多くなり、一目で歳を取っているのがわかったが、緊張が和らぐような安心感があった。

     アイスコーヒーにガムシロップを掛ける。
    「隆司君はあの劇団に脚本書いてるんだってね?」
    「そりゃ、俺だってあんな劇団の脚本なんて書きたくないんですけどね」
     当真がシャツの袖ボタンを外していた。
    「随分思い切ったね」
    「・・・・・・」
    「俺が兄ちゃんに頼んだんですよ」
     芹沢刑事が太い首に手を当てていた。
    「実は僕個人としても、あの事件は他殺じゃないかってずっと思っててね」
    「じゃあ、何てあの時自殺って決めつけたんですか?」
    「兄ちゃん」
    「いいんだ。君の言うとおりだよ」
     手を組む。呼吸が乱れていた。
    「だからって、僕たちも全く動かなかったわけじゃない。団員一人ひとりに聞き回ったし・・・勿論、監督の家も捜索させてもらったけど、驚くほど何も出てこなかったんだ」
    「・・・・・・」
     アイスコーヒーを喉に流す。
    「じゃあ、何で今更?」
    「兄ちゃんに劇場内で探してもらいたいものがあるんだ」
     当真が両肘をついて、前のめりになった。
    「妹さんは、ロープをこんな風にバトンを跨いで掛かった状態から落ちてきたんだ。前が人を吊るしているとすると、後ろは20キログラムの照明機材が取り付けられていてね」
     芹沢刑事が紙ナプキンにボールペンを走らせていた。
    「てこの原理ってことですか?」
    「そう。ここに、恐らく氷とか熱で溶けるものを付けて、重さを調節していたんだろう。そして、溶けたときに一気に落ちてきた。この重りが照明機材に引っ掛かり、宙ぶらりんの状態になったところを観客が目撃することになったんじゃないかと推測している」
    「そんなの自殺でできるわけないじゃないですか。どうしてそこまでわかっていて」
    「当時は飛び降りた時、衣装がキャットウォークのネジに引っ掛かっていたって考えられていたんだ。衣装の繊維がネジに付着していたこともあってね」
    「アドニス役の三浦さんがね、演技中に機材が落ちてきたことを気にして、瑞穂がリハーサルのとき衣装のままキャットウォークに上がったのを見たって言ってたんだ」
    「まぁ、これもあくまで僕個人の推測だからな。裏付ける証拠は見つかってない」
     ごつごつした指で灰皿を寄せていた。
    「煙草いいかな?」
    「あぁ・・・どうぞ」
     こめかみを抑えながら、頭の中を整理する。
    「で・・・俺に探してほしいモノってのは?」
    「それは・・・・・・・・・」
    「三浦さん」
     若い店員が背の高い男の人をこちらに案内していた。
    「こんにちは」
     彫りの深い目を柔らかくする。当真と同い年くらいだろうか。
    「ご注文は?」
    「アイスコーヒーで」
     店員が伝票に書き足して、カウンターのほうへ戻っていった。
    「数か月前以来ですね。あれから何か進展ありましたか?」
    「いえ」
    「そうですか・・・」
     筋の通った鼻に手を当てていた。
    「当真の兄です。初めまして」
    「初めまして。三浦琢磨です。え・・・と、確かお兄さんは今あの劇団の・・・」
    「脚本を書いてます」
     ため息交じりに答えた。
    「三浦さんは、まだ演劇を?」
    「別の劇団に所属していたのですが、去年退団して、今はデザイナーの仕事をしています」
     煙草の煙が芹沢刑事の顔をおぼろげにしていく。
    「三浦君、今日聞きたいのは、あの事件当初のことなんだけど・・・いいかな」
    「・・・勿論です」

    三浦は芹沢刑事と当真が何か質問する前に、自ら八年前に目撃したことを話していた。詰まっていたものを取ったようだった。人目も気にせず話し続けている様子を見ると、彼も罪悪感から逃れたい人のように思えてならなかった。
    「・・・じゃあ、舞台のセリが下がっていたのを見たってこと?」
    「はい・・・遠目ですけど、舞台の真ん中に影が見えました。記憶がおぼろげですが、丁度、犯行可能な十分に当たると思います・・・」
    「人は居た?」
    「わかりません・・・本当に一瞬、客席から見ただけなんで・・・」
     芹沢刑事は突っ込んで聞いていたが、僕も当真も冷ややかな目で見ていた。
    「どうしてその場を離れたんですか?」
    「・・・雰囲気が違ったんで・・・いつもと、本当何となく」
    「・・・・・・」
    「逃げた・・・というほうが正しいかもしれません」
     グラスの水滴がコースターに溜まっていく。
    「まぁ、彼も当時は高校生だったんだ」
    「・・・わかってます」
     当真が静かに堪えていた。
    「奈落で瑞穂を殺した後、セリを使って人を上げれば可能だってことですね?」
    「そうだな。俺の推論も成り立つ」
     手帳の上でペンを回していた・
    「・・・こんなことになるなんて思ってなかった」
    「でも、あの当時このことを証言してくれれば」
    「・・・急に怖くなったんです。もし、このことを証言すれば、もう俳優になる夢は断たれてしまうんじゃないかって思って」
     風が吹けばすぐにでも消えてしまいそうな声だった。
    「それで、俳優の仕事を辞めた今ならってことですね」
    「・・・それは・・・」
    「・・・・・・」
     手の甲に走っていた骨がすっと緩んだ。
    「・・・そう」
    当真は小さく呟くと、獣でも見るような目で彼を見ていた。咄嗟に、芹沢刑事の手帳に視線を落とす。精神が怯えていた。いつの日か、自分に向けられていたものを同じものを感じるのだ。

    煙

     線香を差して、手を合わせる。当真の影が座布団に覆いかぶさってきた。
    「あ、兄ちゃん。来てたんだ」
    「もちろん。あの日なんだから」
     蝋燭の火がゆらゆらしている。
    「当真、母さんは?」
    「家にいないよ。長野の実家に帰ったまま、しばらく帰ってきてないんだって」
    「どうして?」
    「俺らが、あの劇団に関わってることが受け入れられないんだよ。きっと・・・」
     色褪せつつある瑞穂の写真を見つめる。
    「そうか・・・。そりゃ、そうだよな」
    「でも、しょうがないと思うよ。母さんには俺たちとは違った母親としての感情があるんだから」
     瑞穂に問いかけているようだった。
    「あの日から、ちょうど八年か」
    「長かったね」
    「あぁ」
     当真が畳の上に胡坐を掻いた。
    「不思議だよな。俺たちは歳を取ってるのに、瑞穂は歳を取らないんだ。ずっと、十七歳のままだよ」
    「うん・・・」
    隣から線香を蝋燭に付けていた。僕の横に平行線になるように並べて、堅く目を瞑っていた。
    「あの衣装を着ていたのか」
    「ちょっと色褪せたかな」
    「そうか?」
     ハンガーに掛かった青い衣装は、八年間ずっと仏壇の横にあった。ラピスラズリを削って溶かしたような色を保ったまま、舞台に上がることを待っているようにも見えた。
    「瑞穂はどんな気持ちでこの衣装を着てたんだろうな」
    「・・・・・・・・・」
    「なぁ、アフロディーテって、海の泡から生まれたんだろう? 瑞穂は本当にそんな感じだったな。人魚のような衣装を纏って・・・」
    「止めてよ」
     はっとして、想像を遮断した。
    「ごめん。瑞穂が首を吊られた現場のバトンを見ていると、瑞穂にも少しくらいの幸福はあったんじゃないかって、勝手に思いたくなるんだ」
    「・・・わかるよ・・・。あんなところに居たら、俺だって気が狂ってしまう」
     俯いて、座布団に座り直した。
    「兄ちゃんばかりに任せられないよな」
    「そうか」
    あまり当真には来てほしくなかった。正論を貫き通すということは、必ずしも正しいこととは言い切れない気がするのだ。
    「この前父さんと話したんだ」
     背中を丸くした。
    「・・・結局、父さんのことを知らなかったのは俺たちだけだったんだな」
    「そうだね」
    「でも、監督はやってないって言うんだよ」
     畳に手を置いたまま硬直していた。
    「・・・どうして・・・?」
    「監督は舞台を汚すようなことはしないって」
    「・・・・・それを、暴くのが俺の仕事だからね」
     座布団を降りて、壁に寄り掛かる。
    「兄ちゃん、犯人は監督とあの女だよね?」
    「・・・あぁ・・・そう・・・な」
     線香から上がる白い糸のような煙を眺めていた。
    「許せないよ。醜い女を劇団に匿って・・・瑞穂を殺してのうのうと監督をやってるなんて・・・」
    「当真、お前警察官なんだろう? もう少し冷静に・・・」
    「わかってるよ」
    「・・・・・・」
    当真は、本当に監督が殺したとしか思っていないのだろうか。特定の人に絞り込むことで、憎しみの矛先を定めたいだけなのではないだろうか。
    「・・・でも、父さんは監督はやってないって言いきってたよ」
     同じ言葉を繰り返した。
    「・・・そ・・・」
     顔を白くしてこちらを振り向く。
    「・・・父さんは色んなことを抱えすぎて、真実から目を背けたくなってるんだよ」
    「・・・そうかもな・・・・・・」
     自分たち兄弟の会話を、瑞穂はどのように聞いているのだろう。
    「母さんも知ってるって?」
    「あぁ」
    「だから出て行ったんだね。きっと母さんも、監督が犯人だと思ってるよ」
    「そうだな・・・・」
    立ち上がって、部屋を出て行く。フローリングに置き時計の光が反射していた。

     携帯には、涼花からのメールが表示されていた。肉体に染みついた重みを落としてしまいたいと思う。涼花はキャンディを溶かしたような香りが纏って、あの脚本家のところに居るのだろう。想像するだけで頭が割れてしまいそうだった。
     煙草に火を付けて、天井にふっと息を吐いた。涼花が婚約した理由が打算的なものだとしたら、自分にもまだチャンスがあるのではないかと思う。ふんわりと余韻が漂うと、何としてでも掴み取りたくなった。
    「兄ちゃん、煙草吸うようになったの?」
    「いいじゃないか。ここは俺の部屋だったんだから」
     携帯灰皿に灰を落とす。
    「当真、お前は彼女とかいないのか?」
    「俺?」
    「あぁ、ちょうどいい年頃だろう? 飲み歩いたり、合コンしたり・・・何かないの?」
     本棚の横で突っ立っていた。
    「まぁ、いないことも無かったけど・・・すぐに別れたよ」
    「ふうん。ふられたの?」
    「ううん。自然消滅って感じ」
     兄弟でこんな話をするのも久しぶりだなと思っていた。
    「なんだ。じゃあ、次・・・」
    「ごめん、俺これから高校のときの友達と飲みに行くんだ」
     当真の言葉に煙を向ける。
    「そ。わかった」
    「ごめん。鍵、閉めてってもらっていい? 兄ちゃん、家帰るでしょ?」
    「あぁ」
    「よろしく。来週の土曜日、楽しみにしてるよ」
     煙草を押し付けて、携帯灰皿の蓋を閉めた。
    「飲み会、楽しんでこいよ」
    「うん。ありがとう」
     イヤホンを耳に差し込みながら、部屋を出て行った。しばらくして、ドアの閉まる音が聞こえた。
     当真が事件以外のことにも世界があることに、内心ほっとしていた。八年間、混沌とした憎しみを抱いて生きてきたことに、何の意味があるのだろう。当真を見ていると、可愛そうに思えた。瑞穂も、聖書や刑法の本を血眼になって読み漁る姿を望んでいるわけではないと思うのだ。

    顔

     監督は音響室で劇団の様子を眺めていた。たまに、団員からは気づかれないようにしながら、遠くから見下ろしているのだという。素のままの状態で、役にあった素材を探していくのだと言っていた。
    「監督、今次回作を書いてるんですけど・・・」
    「あぁ。どんなの?」
     パイプ椅子に座って、足を組んでいた。
    「女優を目指してるバレリーナの話です。細かい設定はこれからです」
    「いいじゃないか。この劇団には踊れる人もいる。もし、本当にいい作品だったら、次回の上演での使用を考えるよ」
    「ありがとうございます。来月中には見せられると思うので、是非宜しくお願いします」
    「あぁ、楽しみにしてる」
    建前で言っているのだろう。どこか上の空で、言葉が宙に浮いているようだった。
    「監督に聞きたかったんですけど」
    「ん?」
    「いつも監督に会いに来ている女性が居ますよね?」
     くすんだ目をこちらに向ける。
    「女性・・・というかは」
    「女性だよ。とても美しい、ね」
     声がぎらついた。
    「はい・・・」
     パイプ椅子が軋んだ。
    「・・・そうか。美代子に会ったのか」
    「会ったというか、見たと言ったほうが近いかもしれません。彼女はなぜ夜中に劇場内をうろついているんですか? 人が居なくなった時間帯に、見かけるんですけど?」
    「彼女は舞台が好きだからね。頭では分かっていても、未だに女優への夢が捨てきれないんだよ」
     胸が痛んだ。
    「・・・彼女をそうゆうふうにしたのは、うちの父なんですよね?」
    「・・・そうだ・・・」
     扇風機の風が背中に吹き付ける。
    「恨んでますよね?」
    「・・・全く恨んでなかったと言ったら嘘になる。でも、もうどうしようもないことだよ」
    「そんな風に割り切れますか?」
    「歳を取ればね。そりゃ、最初は蓮見君のことを憎んだよ。もし、ちゃんと確認していればこんなことにならなかったのにってね。でも、もし今でも憎んでるとしたら、君たちが劇団に踏み入れるようなことをしない」
     顔の皺を伸ばしながら、低い声を出していた。
    「どんなに誰かを恨んでも、彼女が二度と舞台に立つことはないのだから。昔のように、憎しみに苦しむのは止めたんだよ」
    「本心からそう思ってますか?」
    「そういうと・・・?」
    「僕には考えられないんですよ。きっと、夢に掛けてきた愛する人が、誰かのせいで夢を断たれたとしたら、一生憎しみ続けると思うんです」
    窓ガラスに目をやると、舞台をビー玉のように動き回る団員たちが見えた。
    「だから、監督が嘘を付いているように思えますよ。僕が監督の立場で、その男の息子が目の前に居たとしたら、今の監督のように平静ではいられません」
    「そうか・・・。君はまだ若いから、仕方ないよ」
    「・・・・・・」
     視線を逸らす。
    「確かに君のお父さんのミスで照明が落ちて、美代子は顔に治ることのない火傷の痕を負った。でも、あれは事故だったんだ。誰にも予見できなかった。そんな人を恨み続けても、仕方がないだろう?」
    「でも・・・・・」
     拍子抜けしていた。
    「君は、そんなにお父さんを恨んでいてほしいのかい?」
    「・・いえ・・・・・・」
    真実はどこにあるのだろう。監督は本当に事件に無関係なのだろうか。
    「じゃあ・・・美代子さんは? 監督が割り切れても、美代子さんは加害者である父親の子供なんて、憎くて仕方がないんじゃないですか?」
     長い瞬きをしていた。
    「・・・警察がね、あの事件の後、真っ先に私と美代子を疑ってきたよ。美代子がああやって人前に顔を出さずに、この劇場をうろついていることも棚に上げてね。でも、私と美代子は純粋に舞台を愛しているだけだ。どんなに歳を取ろうと、どんな姿になろうと変わらない」
    「・・・・・・」
    「この劇場は、美代子のために貸し切っているんだよ。人目を気にせず舞台を楽しむことができるようにってね。あの事件以来、この劇場に人を入れることは無くなったけど、それでも十分だ。夜中には、美代子が舞台を貸切にできるのだから」
     細く息を吸い込む。
    「そんな大事な劇場で、殺害なんてするわけないじゃないか」
     テーブルに載せた監督の手に血管が浮き出ていた。
    「どんなに探したって証拠なんて出てこない。私たちはやってないんだから」
    「・・・・・・・・・」
     立ち上がって、鞄を肩に掛けた。
    「わかりました」
     監督に背を向ける。
    「今日、弟が来るんですけど照明を降ろしてもいいですか?」
    「あぁ・・・。照明やってるんだってね。別に構わないよ」
    「ありがとうございます」
     ドアに手を掛けた。
    「・・・弟には、失礼の無いように伝えておきます」
    廊下に出て、携帯を確認する。当真からの着信は入っていなかった。音教室を離れると、張っていた肩をすっと降ろした。手の甲が爪の痕で赤くなっていた。

    涼花は自分の元を離れると、劇団員の中に馴染んでいた。休憩時間、ファッション雑誌を覗き込みながら、劇団の子たちと何か話しているのを見かけた。涼花を追っていくと、計算高さと純粋さが入り混じって、霧を掴むような心地がするのだ。誰に見せている表情が、本物なのだろう。
    「兄ちゃん、隣いい?」
     当真が隣の席を指差した。
    「あぁ・・・」
    「何年ぶりだろう? ここに来るの」
    「多分、事件の後、現場に潜り込んだとき以来だな」
    「二回しか来たことないのに、すごく鮮明に覚えてるよ」
     きめ細やかな頬を掻きながら、舞台の天井を眺めていた。
    「監督に挨拶してきた?」
    「うん。と言っても、先週から仕事してるけどね。一応、宜しくお願いしますとだけ言ってきたよ」
    「そか」
     ぱちんと手を叩く音が響いた。
    「はい。じゃあ、場面3からお願いします」
     監督が後方のパイプ椅子に座っていた。劇団員が舞台に散らばり、彫刻家の陽太と美海が脚本の形になっていく。ビデオの三脚を立てていたBグループ副団長の合図で、時間が動き出した。
    「ちょうど始まる頃だね。間に合ってよかった」
    「・・・ん・・・」
     監督と話したことを、伝えるべきか迷っていた。僕は監督が犯人では無いような気がしていた。でも、当真は何を言っても監督が犯人だと言い切るような気がした。監督に近づくことができたのは、僕たちが神様からの導きを与えられたのだと・・・。
    「当真・・・・・・」
    「・・・・・・・・・」
     当真は呼びかけられたことに気づいていないのか、舞台から目を動かさずに黙っていた。視線の先に居るのは涼花だろうか。美海が陽太を説得する長い台詞を言い終わり、家を飛び出そうとする場面だった。彼女の身のこなしは、踊りの練習をしていたからか、綿毛のように軽やかだった。
     鞄からノートを取り出して、ペンを走らせる。次の作品で使いたい、舞台の構造と、練習中の空気、エキストラの表情を書き綴っていた。涼花が演じると、心が引き上げられて、自分の脚本の価値に自信を持てた。自分には計り知れない才能があるような気がしてくるのだ。粉を散らして湧き出てくる野心が、真新なノートを黒くしていった。

     温くなったペットボトルに口を付ける。当真は劇団員が舞台から降りた後も、何も感想を言ってこなかった。毎日ここに来ているのかとだけ聞いてきたが、すぐに『ファウスト』の脚本を捲り始めていた。
    「照明見に行く?」
     ノートにペンを挟んだ。
    「ん? もう練習終わり?」
    「あぁ。今日は三時までだよ」
     カーテンの奥のほうから微かに団員の声が聞こえた。
    「随分短いんだね」
    「『黒猫』の公演に出る人も多いからね」
    「『黒猫』?」
    「劇団内の同時公演だよ。時間がずれてるから、優秀な人は掛け持ちしてるんだ。だから、こうやって三時間くらいしか練習しないことがあるんだよ」
    「ふうん。どちらにも出れない人は練習しないの?」
    「しようがないよ。監督は演劇に出る人しか、この舞台の使用を認めてないんだから。その他の人は鏡のある部屋を使えってさ」
    「・・・シビアだね」
    当真が大股で客席の通路を下っていく。鞄を置いたまま、反対通路から舞台のほうに向かった。
    「『うみひめ』はいつ上演するの?」
    「再来週から1か月間だよ。見に来る? チケットあげよっか?」
    「・・・うん。後で貰うよ」
     舞台の階段が乾いた音を立てた。
    「涼花さんって演技上手いんだね」
    「あぁ。そうだな」
    「あの脚本、涼花さんのために書いたものなの?」
     当真は舞台に上がると、瑞穂と似ているように見えた。
    「いや。プロットは主演が涼花に決定してから、ほとんど書き直してないよ。台詞の手直しはしたけどね」
    「・・・美海役にぴったりだね。声も、仕草も、動きも、兄ちゃんの脚本が活かされてたと思うよ」
    「涼花の演技が上手いんだよ」
    「そうだね」
    当真が上手のロープがある柵へ入っていった。氷のような隔たりを感じていた。一部でも溶けてしまえば、バランスが崩れて、自分と当真との関係が決壊するような気がしていた。
    「事件があったのは四番バトンだよね? キャットウォーク真下の」
    「多分。涼花もそのバトン降ろしてたような気がする」
    「涼花さん?」
    「俺が見たときは。涼花にバトン降ろしてもらったんだよ」
    「あ、そう・・・」
     顔を上に向ける。キャットウォークの上には数枚の幕があった。
    「バトン降ろすから下がってて」
    「あぁ・・・うん」
     照明がぐんぐんとこちらに近づいてきた。視線の高さまで来ると、ふわっと止まった。
    「目の前にすると、意外と普通のバトンだね」
    「あぁ」
     当真がバトンに触れながら、コードを足で避けていた。
    「でも、今更こんなもの見て何になるんだろうな」
    「兄ちゃんも見たんでしょう?」
    「まぁ、そうだけど・・・」
     当真が見ても、ただ瘡蓋を剥がすだけのような気がするのだ。
    「事件当時、こうやって、誰か一人がバトンを下げていた。もう一人が瑞穂を殺している間にね」
     サスペンションバトンに巻き付いたコードが揺れていた。
    「次にセリを上げた」
     舞台の中心を指差す。
    「どうやって地下に連れていったんだ? それこそ警戒しないか?」
    「携帯が置いてあったみたいだよ。自分で置いたのか、誰かが置いたのかわからないけど、取りに行ったんじゃないかな?」
    「何か、お前は俺の知らないことをたくさん知ってるんだな」
     当真が視線を外した。
    「小さなことじゃん。どうしていちいち兄ちゃんに報告する必要があるんだよ?」
     空気に電流が走るような心地がした。
    「そうか・・・。で? 何かわかったの?」
    「全然。八年も経ってるし、こんな棒見たってそりゃわからないよね」
    「だろうと思ったよ。もう、いいだろう?」
    「ただ、少しだけ収穫はあったよ」
     当真がバトンのテープを摩っていた。
    「・・・何だよ、収穫って・・・」
    「・・・・・・・・・」
     上から金属を歩くような音が聞こえた。
    「あ・・・・・・」
     キャットウォークに続くドアから、髪で顔を隠した女性が見えた。黒いワンピースに羽の付いたボレロを羽織っていた。
    「ちょっ・・・待って」
    腹から声を張り上げた。当真が僕の視線をなぞるようにして上を見上げる。
    「・・・美代子さん・・・」
     背中を向けていた彼女の動きが止まった。片耳からマスクを外している。
    「・・・誰から名前を聞いたの?」
    「監督からですよ」
    「兄ちゃん・・・誰?」
     紫の唇がゆっくりと動いた。
    「・・・あたしを引き止めてどうするつもり?」
     声はしゃがれて聞き取りにくかった。暗闇から浮き出るようにこちらを見降ろす。
    「どうするって・・・話しがした・・・」
    「話すことなんてないわ」
     右目を光らせていた。
    「貴女はうちの父も俺たちのことも憎んでるんでしょう?」
     当真が一歩前に出て口を開いた。
    「俺たちがこうやって兄弟で舞台の仕事に関わってること自体憎いんだよね?」
    「えぇ、憎いわ」
    「・・・・・・」
     沼底から引き抜くような声だった。
    「憎くて、憎くて仕方がないわ。あたしをこんな風にしておいて・・・、見て、この醜い顔を。惨めで凝視できないでしょう? もう、あたしにはどんなに舞台を愛しても、この中心に立つことはできないのだから」
    背筋が凍り付いていく。頭の先から流れてくる感情に、反論する言葉が出てこなかった。
    「だからって・・・瑞穂を・・・?」
     当真がうわごとのように呟いた。
    「瑞穂?」
     鼻で笑っていた。
    「・・・それは、あたしじゃないわ」
    「そんなこと言ったって・・・」
    「本当よ」
     足場に強い音を立てた。
    「この劇団に居る人もみんなそう思ってるでしょうね。あたしがこんなに醜い姿をしてるからかしら? だから、みんなあの日のことを話したがらないのよ」
     言い終わると軽く咳き込んでいた。
    「貴女と監督が協力すれば、犯行は可能だったでしょう。何より、貴女には動機がある」
    「でも、証拠は出てこないじゃない」
    「それは・・・」
     潰れた左目を前髪で隠していた。
    「どうして、こんなに疑われなきゃいけないのかしら」
    「顔を見せずに、劇場内をうろついてるからじゃないですか?」
    「こんな顔で人前に出れるわけないでしょう?」
     当真がくっと前足を下げた。
    「・・・貴方たちの父親も、その子供も、みんな憎いわ。殺したいくらい憎い。でも、舞台が好きなのに・・・この神聖な場所で、殺人なんて恐ろしいことするわけないでしょう?」
    「・・・・・・・・・」
    「それくらいはわかるでしょう?」
     何か言い返したら、声が震えてしまいそうだった。
    「わかりました」
     当真がきりりと上に向かって話した。
    「わかったって何が?」
    「彼女は犯人じゃない」
    「は・・・?」
     覗き込むと、晴れ渡るような表情で彼女を見ていた。
    「・・・・・・」
    「どうしてそう思うんだよ」
     先に口が動いていた。
    「目を見ればわかるよ。彼女はやってない」
    「目って・・・」
     崩れた顔を見て、恐怖に負けてしまったのだろうか。
    「何でそう決めつけられるんだよ。彼女も女優なのだから、俺らを騙そうと可哀そうな女性を演じてるかもしれないだろう?」
     彼女が口を閉ざしたまま、赤い瞳でこちらを睨みつけていた。
    「いや。そうは見えないよ」
     彼女が足を擦るようにして、ドアのほうへ歩いていく。
    「・・・ありがとう。私を信じてくれて。それが本心で言ってるって信じてるわ」
     黒い足元に向かって話していた。
    「ちょ・・・待っ」
    「神様はきっと貴女の苦労を見ています。貴女に神の祝福がありますように」
    彼女の後姿に、脳から突き出るような声を向けていた。上のドアがバタンと閉まり、当真が繋元のほうへ消えていく。
    「・・・当真・・・」
    「・・・・・・・・・」
     息だけの声しか出なかった。当真の考えていることがわからなかった。ただ、全身の毛を逆撫でされるような気味の悪さがあった。
    「兄ちゃん、バトン上げるから下がって」
     後ずさりする。音響机の白熱電球が、チカチカしながら当真の手元を照らしているのが見えた。

    百合

    「貴方は殺されるかもしれない」

    涼花はそう言って、胸元に爪を突き立ててきた。夜がしんしんと濃くなっていく。ホテル街のライトも静まり返って、二人の囁くような声しか聞こえなくなっていた。鏡台に置いた携帯が数回鳴っていたが、涼花の婚約者からだったのろうか。
    「ん・・・」
    唇を押し付けると熱い息が漏れた。指の隙間からさらさらと髪が流れていき、少し明かりを落としたベッドライトに、シルクのような肌が晒されていた。
    「どうして?」
    「そんな気がした」
     身体を起こしてバスローブを羽織る。台本の下の腕時計が夜中の二時を指していた。遮光カーテンから潰れた煙草の箱を引き寄せると、背中に柔らかい感触があった。
    「煙草吸うの?」
    「あぁ、社会人になってね」
    「ふうん」
     灰皿を寄せて、煙草を銜えた。
    「ねぇ、次書くのはどんな脚本なの?」
    「そればっかりだな」
    「教えて?」
    「君は本当にわかりやすい女だよ」
     煙を天井に上げる。
    「君みたいな自分の欲望に忠実な女性を書こうと思ってるよ。愛情なんて言葉を美しく見せるための飾りだって言い切るような女性かな」
    「素敵な女性じゃない」
     ふふっと笑って、頬を背中に当てていた。
    「俺に媚びたってどうにもならないよ? 脚本家として生計が成り立ってるわけでもないんだから」
    「今はね。今度の舞台が終わったらすぐに有名になるわ。素晴らしい脚本家だって、映画のオファーだって来ちゃうかもよ?」
    「あ、そ」
     灰を落とす。
    「当真もそう言ってくれるんだよ」
    「当真って弟さんだった?」
    「そ。俺と違って出来のいい弟」
    「兄弟の仲がいいのね。そういえばこの前劇団に来ていたのよね? どんなこと話したの?」
    「さぁ。大したこと話してないよ」
     声が白く曇っていた。
    「教えてよ」
    「何? 当真にも興味があるの?」
    「うん。だって、蓮見さんの弟だもの」
    バラの花びらのような唇で話していた。鏡越しにバスローブの肌蹴た涼花を眺める。
    「事件のことだよ」
     吐き捨てるように言った。自分にはいつも事件のことが纏わりついているような気がするのだ。
    「そう」
    「俺は犯人が監督とあの女だと思うんだけどさ。当真はあの女に会うと急に態度を変えて、彼女はやってないとか言い出したんだよ」
    「当真君はどうして急にそう思ったの?」
    「さぁ、俺にもさっぱりわからない」
     細い腕が首筋に触れた。
    「ねぇ、アフロディーテって海の泡から生まれて、次々に地上の男に恋をしていくんでしょう」
    「あぁ、そうだね」
    「人魚は地上の男性への片思いが叶わなくて、海に落ちたら泡になったんでしょう?」
     薄い目蓋を下げる。
    「あたしはどっちだと思う?」
     不思議と、少女のような表情をしていた。
    「さぁ・・・」
    「そうよね」
    「・・・ねぇ、涼花は神様っていると思う?」
     煙草を潰した。
    「神様・・・?」
    「そ」
     身体の力を抜いてベッドに倒れ込む。
    「どうして急にそんなこと聞くの?」
    「当真が言うんだよ。神様はずっと、俺たちのことを見ていて、真実に向かって誘導しているって。瑞穂が亡くなってからだったかな・・・。当真が引用する聖書の言葉を聞いていると、腹の一部が抜け落ちていくような心地がするんだよ」
    「ふうん」
     少し熱っぽい肉体が腕に絡みつく。
    「隆司は、神様は居ないって思うの?」
    「わからないな、最近・・・」
    「どうして?」
    「瑞穂が亡くなって、家族がバラバラになって、神様は居ないって思ってたんだ。ニーチェが『神は死んだ』って言葉にもあるように、神様は弱い者同士が傷を舐めあうために創り上げた偶像だろうって。でも、どうなんだろう? 弟を見ていると時々怖くなってくるんだよ」
    「・・・・・・・・・」
     しなやかな手が頬を滑る。
    「弟が怖いって言うのもおかしな話だけどな」
     自嘲するように言った。
    「きっと、貴方は弟が自分に欠けている考えを持っていることが怖いのよ」
    「弟が持っていて、俺が欠けている考え? 勉強くらいかな」
    「そうかしら」
    「・・・・・・」
     上目遣いにこちらを見つめた。咄嗟に逸らしてしまう。
    「あたしはね、神様は居ると思うの?」
    「へぇ・・・君は神様とは縁遠い人だと思ってたよ」
    「でも、弱者を救うためとかそうゆう考えじゃない」
     涼花が動くと、ベッドのバネが音を立てた。
    「汚いものを綺麗にするために神様が居ると思うの」
    「汚いもの?」
    「そう。汚いもの」
    汚れたものは何を指すのだろうと、頭に思い浮かぶものを巡らせていた。涼花がバスローブを布団の上に置くと、太腿からシーツが流れ落ちていった。
    「え・・・それ、どうしたの・・・」
     シーツの下を指差す。
    「ん?」
    「その脚・・・」
     皮膚に数本の赤い線が入っていた。
    「・・・見つかっちゃった?」
     蚯蚓腫れになっていた太腿の一部をすぐに隠していた。
    「大丈夫、もうしばらくやってないから」
    「・・・大丈夫って、どうしてそんなこと・・・」
    「・・・・・・・・・」
     嫌な感情が過った。
    「・・・死にたいの?」
    「ううん・・・。生きたいからするの。生きたくて生きたくて仕方ないからするのよ」
    「でも・・・・どうして、自分で自分を傷つけるなんて」
    「そうね・・・・・・」
    「・・・・・もしかして・・・朝野さんとの・・・」
    「ううん」
     影を忍ばせていた。何があったのか、聞いてはいけないのだろうか。
    「ただ・・・そうゆう気分になるときがあるのよ。深い意味は無いわ」
    「・・・・じゃあ、もう聞かないよ」
    「うん・・・」
     花瓶に凭れた百合の花が愁いを滲みだす瞬間と重なっていた。化粧をしていなくても美しかった。
    「ねぇ、あたし女優になりたいな」
    「・・・・・・」
     瞳が潤んでいるように見えた。
    「・・・あぁ、知ってるよ」
     溜息を付いた。涼花の身体に覆いかぶさる。
    「全身で女優になりたい」
     柔らかな肢体を伝うようにして、ショーツの紐を解いていく。
    「もう、なってるよ」
    「ん・・・」
    「君は女優だよ」
     湿った膣に指を入れると、小さく声を出した。生クリームを齧るように唇を押し付けて、舌を絡める。甘い香りを貪るようにして、心が彼女の中にのめり込んでいくのを感じていた。

    第三章
    進展

     芹沢刑事から探してほしいと言われていたものが見つかったのは、『うみひめ』の上演日の三日前だった。見つけたのは、僕じゃない。 
    バイト先の編集者から連絡があり、原稿を取りに行こうと客席のドアを開けたときだった。芹沢刑事と三好刑事が、劇団のロビーで缶コーヒーを飲んでいた。
    「隆司君、久しぶりだね」
    「あぁ・・・こんにちは」
    「僕、三好だよ。覚えてるかな? 大きくなったな・・・と言っても身長はそんなに変わってないか」
     鞄をずり下げて立ち止まる。最後に三好刑事と会ったのは、自殺だと断定しに家に来たときだっただろうか。
    「今日はリハか?」
    「ん・・・まぁ」
     芹沢刑事が缶コーヒーを下ろした。
    「そうか・・・」
    「・・・どうしたんですか? 急にここに来るなんて、何か進展でも会ったんですか?」
    「鋭いな」
     かさかさの唇を舐めていた。
    「見つかったんだよ。重大な証拠が・・・」
    「何ですか?」
    「芹沢刑事」
    スーツを着た若い警察官らしき人が書類を持って芹沢刑事を呼んでいた。
    「どうだった?」
    「この稽古が終わったら、時間を取れるそうです」
    「二時頃か、わかった」
    時計を見て頷いていた。隣に居た男が、こちらを見ると軽く一礼してきた。
    「こちら、蓮見隆司君。今はこの劇団の脚本家をしている」
    「あぁ、君が」
     針で胸を刺されるような心地がした。
    「僕は橘といいます。当真君とは同期になります」
    「あ、はい・・・。弟がお世話になってます」
     芹沢刑事の言葉が引っ掛かって、彼は視界に入ってこなかった。
    「どうゆう意味ですか? 証拠が見つかったって」
    「あのロープが見つかったんだ」
    「それって・・・」
    「そうだ。君に探してほしいって言ってたものだよ」
    するすると骨が抜けていくようだった。芹沢刑事に探してほしいと言われていたものは、犯行時使ったロープの長さを調節するために切った約二十メートルのロープだった。事件当時の団員の手荷物や廃棄物からは発見されなかったため、捜査しきれなかった劇場のどこかに隠されているのではないかと言われていた。
    「精密検査の結果、間違いなく探していたロープだった。君たちが言っていた通りだね。改めて、すまなかった」
    「そんな・・・八年前のものなんて、どこで見つかったんですか?」
    「そこの事務所だよ」
     廊下に蛍光灯の光が反射している。
    「え・・・・・・」
    「監督が出入りしている部屋らしいじゃないか」
    「部屋のどこで見つかったんですか?」
    「机の中ですよ。事件時からずっと持っていたのかは、調べてみないとわからないんですけどね」
     橘さんが淡々と話してきた。
    「誰が・・・誰が見つけたんですか?」
    「当真君だよ」
     寒気が走った。
    「当真って・・・? だって、あいつは一度しか・・・」
    「いや、彼は結構この劇場を出入りしていたらしいよ? 勿論、警察としての捜査ではなかったけどね。隆司君が脚本を書いてるってことで・・・知らなかったのかい?」
    当真の行動が常軌を逸しているものに思えた。いつから居たのだろう。否、なぜ来ていたことを黙っていたのだろう。
    「聞いてませんでした」
     額に冷たい汗が貼りついていた。
    「そうか。お兄さんには話したようなこと、言ってたんだけどな」
    「・・・当真が机の中を勝手に探して、証拠となるものを見つけたってことですか?」
    「そうだな」
    「それって、当真は何らかの罪にはならないんですか?」
    「まぁ、確かにね。でも、これに関しては周囲の許可もあり、用事が合って事務所に入り、偶然見つけてしまった、ということで誰も何も言ってこないと思うよ」
     橘さんが和やかに笑顔を見せてきた。
    「・・・そうですか・・・」
    「とにかくだ、後は犯人を炙り出して捕まえるだけだ。君たち家族の想いはよくわかってるし、後は警察に任せてくれないか。本当に二人ともよくやってくれたよ」
    「・・・はい」
     鞄を持ち直す。
    「あ、あの・・・」
    「ん? なんだ?」
    「犯人は監督・・・の可能性が高いんですか?」
     缶を自販機横のゴミ箱に投げていた。
    「いや・・・」
    肩をポンと叩いて、事務所へと続く廊下に消えていった。八年間追い続けた犯人に警察の追及が始まると聞いても、頭に靄が掛かって素直に喜べなかった。
    呆然と立ち尽くしていた。自分は当真に利用されていただけなのかもしれない。当真はどこかで脚本家として劇団内で活き活きと振舞う姿を見ていたのだろうか。瑞穂を亡くした劇団の中で、夢を実現させようと躍起になる自分を、冷徹な目で見ていたのかもしれない。

     壁に寄り掛かっていると、団員がざわつきながら劇場内を出て行くのが見えた。夕日がロビーのタイルを赤く照らしている。刑事が行き来しているからか、劇場内にピリッとした空気が流れていた。団員たちは中橋でさえ、自分を見ても軽く頭を下げるだけで、誰も話しかけてくることはなかった。
     携帯のニュース欄を見ながら、涼花が来るのを待っていた。彼女の声を聞くと、困惑した頭の中も少しは整理が付くような気がしていた。
    「あぁ、蓮見君」
     背中から声を掛けられた。
    「今日も見に来てたの? 熱心だね」
    「・・・・・・」
    「君はいつもぼうっとしてるからそうゆう人じゃないと思ってたんだけど、中々野心のある人なんだね」
     朝野さんがグレーのスーツを着て立っていた。
    「珍しいですね。朝野さんが来るなんて、何か用事ですか?」
    「涼花を探してるんだよ。見た?」
     こちらを見ずに、廊下の奥のほうに向かって話していた。頭を揺するような嫉妬心が込み上げていた。
    「さぁ・・・」
    「ふうん」
     携帯の画面に顔を向けながら話していた。
    「君さ、この劇団で監督になりたいんだってね?」
    「え?」
    「他の団員が言ってたよ。監督が君のことを気に入っていて、君を助監督にしようとしているんじゃないかってね。確かにこの劇団には助監督ってポジションは居ないからさ」
     くっきりとした二重瞼が笑っていなかった。
    「勘違いですよ。僕はそんな話、監督から貰っていません」
    「あ、そ。じゃあいいんだけどね」
     薄い唇に指を当てていた。
    「確かに、魅力的だよね。この劇団を引き継げば、この劇場も手に入るんだろう? 有名な役者を排出して、大企業がスポンサーに入れば莫大な富を築けるかもしれない」
    「そんな上手くいかないと思いますけど・・・」
    「君はわかってないな。監督は財産の全てをこの劇団に注ぎ込むって言ってるんだよ。それは、次にこの劇団の監督になるって人が財産も引き継ぐってことになるじゃないか」
    「・・・・・・・・・」
    「ま、君が興味ないならいいけどね」
     舞台のほうを見ながら、薄ら笑みを浮かべていた。
    「あ、涼・・・」
    「涼花、待ってたよ」
    涼花が女性団員と離れて、こちらに向かってきた。蝶の粉を叩いたようなアイシャドウが艶めいている。
    「朝野さん・・・」
     小さな唇を動かす。
    「涼花に話したいことがあってね」
    「えぇ。私も、ちょうど話したいことがあったわ」
    「・・・・・・」
     ワンピースの花柄を目で追う。朝野しか視界に入れておらず、僕の存在は初めから無かったようだった。
    「・・・お疲れ様です・・・」
    「あ・・・蓮見さん。お疲れ」
     一瞬、曇ったような表情をこちらに向けて、朝野の横に並んでいた。
    「じゃあ、また今度ゆっくり話そうか。蓮見君」
    「・・・はい、そうですね」
     陰鬱な余韻を残して、涼花に肩を回していた。奥歯を噛んで、ぐるぐると渦巻く感情を押し殺す。後頭部を壁にくっつけた。朝野のベタベタするような声と重なるようにして、ピンヒールの音が遠ざかっていく。

    朝焼け

     カーテンの隙間から縦に割ったような月が見える。筋を抜かれてしまったように、身体の力が入らなかった。なぜ、今なのだろう。確かに八年前の事件の解決を目的として劇団に入ったが、あと少しで『うみひめ』の上演することができた。もし、監督が逮捕されるようなことになれば、上演の中止は免れないだろう。やっと、夢に手が掛かったところだった。
     床には色の禿げた台本が置いてある。きっと、当真の仕掛けた罠に嵌ってしまったのだろう。上演三日前だということを考慮して、今、警察に提供するのが得策だと考えたのだ。夢を掴みかけたところで崩れていく自分の姿を見たかったのだろうか。

    我ながら、可笑しくて笑うしかなかった。当真が本当に自分の成功を望んだことなどあっただろうか。否、無かった。小さい頃から偽善の皮を被って兄として慕う傍ら、腹の奥では何を考えているかわからなかった。
     携帯で母さんの携帯番号を探す。埃っぽい掛布団を、足で下のほうに押し付けた。
    「あ、もしもし・・・母さん」
    『もしもし、当真?』
    「・・・隆司だよ」
     呆けた声を出していた。
    『隆司・・・どうしたの? 急に電話なんてかけてきて』
     急によそよそしくなった気がした。
    「いや、婆ちゃんちにいるって聞いたから・・・。最近どうしてるかなって。元気でやってるの?」
    『そうね。長野はそっちと違って空気がいいから、大分体調も良くなったわ』
    「じゃあ・・・東京に帰ってくることは無いの?」
    『ん・・・あぁ・・・そういや隆司の脚本が上演されるんだってね』
    「・・・うん、当真から聞いたの?」
    『そう』
    「上演はわからなくなってきたけど・・・見に来れないよね?」
     灰の溜まった灰皿を引き寄せて、ペットボトルの水を灌ぐ。
    『そう、私はいいわ』
    「・・・そっか。父さんはどうかな?」
    『さぁ、知らない』
     足を降ろして、煙草を取り出す。
    「母さんは家にはもう戻ることはないの?」
    『当真と同じことを言うのね。全く戻らないってことはないけど・・・まだ、ちょっと・・・』
    「どうして・・・・・・?」
    『最初は父さんとあの劇団の監督のことで・・・あんたも知ってるんでしょう?』
    「あぁ、父さんから聞いた」
    『もちろん父さんが悪いとは思ってないんだけど、娘のあんな姿を見たら・・・ね』
    「うん・・・」
    『瑞穂のことを引き摺り続けるのは家族にも悪いし、もっとしっかりしなきゃって思ってたんだけどね。でも、なんだか、あんたまであの劇団と関わりを持つなんて・・・。母さんちょっと心の整理が付かなくて』
    「・・・・・・」
     心臓を握られるようだった。
    「・・・違うよ、母さん」
    『いや、いいのよ。あんたの人生だもんね。ごめんね』
    「違・・・」
     何が違うのか自分でもわからなかった。
    『あと、話は・・・特に何もないんでしょう・・・?』
    「・・・・・・うん・・・」
    『じゃあね』
    「ん・・・」
     回線が途切れた。百円ライターで煙草に火を付ける。
    家族を遠ざけるために実家に帰った母さんに、今更何を期待していたのだろう。信用できる人は誰も居ないような気がした。否、信頼していい人は初めから誰も居ないのだ。描いていた理想を求めれば求めるほど、家族が離れていくのを感じていた。
    パソコンの電源を入れて、USBメモリを差し込む。煙草を上向きに置くと、ちょろちょろと煙を出していた。話を書きたくて仕方がなかった。狂っているのだろうか。孤独が身に染みても、まだ、精神を燃やし尽くすような脚本家への夢を諦められないのだ。

     コンビニの袋を持って、アパートの階段を上がっていく。朝日が空を赤紫に染めていた。廊下の蛍光灯に小虫が止まっているのが見える。鍵を回して、ドアを引いた。
     部屋には服と本が散乱していた。スニーカーを脱ぎ捨てて、段差を上がる。急かされるようにして、いつ形になるかもわからない脚本を、朝まで書き続けていた。コンビニの袋を置く。ペットボトルの蓋を開けて、水を喉に流し込んだ。
     携帯の着信音が鳴り響く。涼花の名前が表示されていた。
    「もしもし」
    『蓮見さん?』
    「あぁ、おはよう。早いね」
     ベランダから雀の鳴き声が聞こえてきた。
    『ごめんね。こんな早くに。起きてた?』
    「ん、どうした? 急用?」
     デジタル時計が六時に切り替わる。
    『・・・ちょっと・・・』
     躊躇うように話した。
    『・・・あたし、蓮見さんに話さなきゃいけないことがあるの』
    「何? 舞台のこと?」
    『直接会って話したい』
     袋からおにぎりを取り出して、テーブルの上に置いた。
    「わかった・・・」
    『今日の夜、でもいい? 六時くらい』
    「ん・・・ごめん。明日じゃ駄目? 今日はちょっと色々あって・・・」
    『ううん。今日、話したい。だって、明日は舞台のリハーサルがあるでしょう?』
    「リハーサルって・・・上演できるか、わからないじゃないか」
    『・・・・・・』
     自分の言葉に笑っていた。
    「涼花はどこまで聞いてる? もう、警察の捜査が始まったって、みんな知ってるんだよね?」
    『・・・うん』
    「この脚本も、せっかく舞台化できたのに、もうめちゃくちゃだよな。どうして監督も、ロープをわざわざ取っておくなんて馬鹿なことしたんだろうね。どっかに捨てればよかっただろ?」
    『・・・よかったじゃない。これで事件も明るみになりそうね。舞台は残念だった・・・』
    「そう思ってないだろう?」
    『・・・・・・』
    涼花もきっと舞台に立ちたかっただろうと思う。申し訳なくて、まともに涼花の話を聞けなかった。
    「何で、当真は今、そんなもの発見するんだよ」
     心が黒く染まっていくのを感じていた。
    『でも・・・いいことでしょう? だって、貴方の兄弟はずっと犯人の手がかりを追って、この劇団に潜り込んだのよね?』
    「あぁ、そうだね」
    『じゃあ・・・あと少しね・・・』
     カーテンが朝焼けを溜めこんでいる。
    『きっと・・・当真君の言うように、本当に神様は居るのね』
    「さぁ・・・神様はわからないけどさ」
     台本に手を置く。
    「ただ、瑞穂が俺のことを恨んでるからこんな風になってるんだって思うよ。きっと、そうだ。瑞穂が亡くなった劇団で夢を叶えようとするなんて、やっぱり恨まれて当然のことだけどね。でも、周囲から孤立してまで達成しようとした結果が、こんなのってないよな」
     自分に呆れていた。
    「本当、馬鹿だなって思うよ」
     暗くなったパソコンの画面に埃が貼り付いている。
    『・・・・・・』
    「つくづく汚い奴だなって思い知らされるよ。夢を叶えようとすればするほど、俺は汚い人間になっていくんだ。不思議なことにさ、殺害の可能性がある監督よりも当真のほうが憎いんだ。憎くて、憎くて仕方がないよ」
     涼花は物音ひとつ立てずに聞いていた。
    「涼花は前言ってたよね? 神様は汚いものを排除するって。確かに俺は・・・」
    『ねぇ・・・』
     話を止めた。
    「ん・・・・・・」
    『今日夜八時に劇場に来て・・・』
     今まで聴いたことも無いような、細々とした声だった。
    「劇場って入れるの?」
    『うん・・・きっと、まだ大丈夫よ』
    「・・・あぁ、わかった・・・」
    携帯を切ると、充電が赤く点滅していた。台本を掴んで床に叩きつける。涼花の形に自分の夢を詰め込んでいただけなのだ。息を吸い込む。天井を見上げると、蛍光灯の明かりがぐるぐる回って、胃が鉛のように重くなっていった。

    蛇

     劇場は台風の後のように静まり返っていた。稽古は全て無くなったが、今上演している演劇は引き続きやっているようだった。でも、時間の問題だろう。警察が逮捕状を掲げ、マスコミが駆けつければ、世間の目から逃れるために直ちに中止に追い込まれるのだと思う。
     客席のドアを開けると、涼花が舞台の真ん中に立っていた。音楽は無かったが、軽やかに舞っていた。春風にひらひら踊る桜の花びらのように見えていた。
     席の間を下っていく。涼花がこちらに気が付くと、ふんわりと動きを止めた。
    「ごめんね。来てくれてありがとう」
    「いや・・・それで、話って何?」
     舞台の機材の匂いが鼻を突く。
    「蓮見さんに真実を話そうと思って・・・」
    「真実って・・・?」
     華奢な背中を目で追う。
    「気づいてた? 八年前、『アフロディーテ』の舞台の練習中に照明を落としたのは、あたしなの」
    「え・・・? 何の話・・・」
     涼花はこちらを見ずに続けた。
    「八年前、一人の男と一人の劇団員が主演の女の子に、『上演前に演技の最終調整をしよう』と持ちかけて、彼女は舞台衣装を着てこの場所の地下に立っていた」
    「・・・・・・」
     毛穴からひんやりした汗が染み出てきた。
    「男と女の動機は違っていたけど、利害関係は一致していた。男は劇団で重大な事件を起こすため、女は主演を奪われた恨みを晴らすため・・・」
     台本の入った鞄を床に落とした。
    「女は照明のバトンを降ろして待っていた。三分後に降ろしていたセリを上げた。セリには男と首を絞められてぐったりした女の子が乗っていた」
    「止めてくれ・・・」
     声を絞り出したが、彼女はこちらを見ずに話を続けた。
    「女は男がロープをバトンに掛けて、機材に約二百グラムの氷を載せて安定するのを確認すると、そっとバトンを引き上げた。手袋をはめた男の手をロープがするすると滑っていくと、微かに足をばたつかせた彼女はすぐにキャットウォークの下にいき、しばらくすると動かなくなった」
    「・・・どうして・・・そんな・・・」
    腹を抱えてしゃがみこむ。
    「そして、このナイフでロープを切った」
    涼花は胸元からバタフライナイフを出して、刃先をこちらに向けた。
    「嘘だろ・・・・・・」
     思考が絡まっていく。
    「八年前の事件の犯人は、朝野とあたしよ」
     ナイフの先に舞台照明が反射している。
    「・・・だって、君は・・・・・・」
    「舞台袖で、氷が溶けるのを待ってた。上演中に落ちてくる確証は無かったけど・・・照明の熱が加われば氷が一気に溶けだした。ぽたぽたと水が落ちてきても、あの演劇は水を使用したから、天井から降ったのか舞台上で使用したのか誰もわからなかった」
    「・・・違う・・・そんな・・・」
    「そうやって彼女は舞台の中心から落ちてきたの。首を吊って、人形のように微かに揺れながら」
    「止めろよ・・・」
    「・・・・・・・」
     頭を掻き毟る。
    「君じゃない・・・君が犯人なわけ・・・」
    「そう? 本当は薄々気づいていたんじゃない?」
    「・・・そんなわけ・・・・・・」
    当真が侮蔑するような表情でこちらを見ていたのを思い出していた。
    「あたしは瑞穂ちゃんが息を無くしていく姿を見たの。あっという間だった」
    「どうして瑞穂を殺さなきゃいけなかったんだ」
     焦点が合わなかった。
    「どうして、よりによって俺の妹を・・・まだ17歳だった」
     向日葵のような表情で台詞の練習をしていた姿が過る。
    「・・・あの役、あたしがやる予定だったのよ。急に現れた子に、役を持って行かれるなんて思ってもいなかった。朝野まで・・・裏切ったの。彼女のほうがアフロディーテに適役だって・・・」
    「何て女だ・・・君は」
    「・・・・・・」
    「悪魔のような女だよ。俺がずっと抱えてきたものを見ていながら、何とも思わなかったのか?」
     怒りで目が血走った。
    「・・・何言われても仕方ないわ・・・」
     乾いた唾を飲み込む。
    「・・・あのロープは、証拠品として朝野がずっと隠し持っていて、監督の机に入れたの。貴方の弟がこの劇場に潜り込んで、八年前の証拠を探してうろうろしているのを知ってたのよ」
    「どうして・・・? 自分から捕まるつもりだったのかよ?」
    「監督に罪を擦り付けるつもりなの」
    「・・・・・・・・・」
    「それが無ければ、完全犯罪よ。指紋ひとつ残ってない」
     本当に、今話しているのは殺人者なのだろうか。
    「・・・今、見つかればこの舞台は中止になるでしょう? 貴方の舞台を上演させたくなかった。貴方が成果を残していない限り、今、監督が捕まれば、自分がこの劇団を仕切ることができると思ったのよ」
     糸が切れたように高笑いした。
    「馬鹿じゃないのか。警察だってそこまで間抜けじゃない。きっと、真実に辿り着くよ。君たちが殺したって、突きとめるさ」
    「・・・そうね」
    「・・・・・・」
     光沢のあるピンヒールを見つめる。
    「でも、この犯罪のシナリオは彼が考えたのよ? 中々、才能あるでしょう?」
    「あぁ、人間以下だけどな」
     舌打ちした。
    「だから、今回は彼も賭けに出たのよ」
    「・・・賭け・・・・・?」
    「もし逃げ切ることができたら・・・ってね。だから、あの事件を起こしたときから、あたしと彼は運命共同体なの。別に愛情なんてなくたって一緒に居なきゃいけない人」
    「・・・君は彼から逃げられないのか?」
    「逃げる? 考えたこともなかったわ。ずっと、この真実をばらすって脅されてきたから」
    「・・・・・・」
    「あたしはいつか真実を打ち明けて、捕まるつもりだったの。でも、その前にどうしても女優として名を残しておきたかった」
    「瑞穂の夢を奪っておいて?」
    「そうよ」
    「最低だな・・・」
    「えぇ」
     階段から舞台に上がる。
    「・・・でも、もういい・・・もう疲れちゃった」
    「・・・・・・・・・」
    「彼は貴方も殺そうとしてる。この劇団に居続ける限り、チャンスを狙ってくるわ」
     客席の向こう側を見つめる。
    「・・・・・・・・・」
    「警察には、自分から話すわ。彼のことも・・・」
    「そうか・・・」
    「あぁ、こんな殺人鬼でも舞台こうやって舞台の真ん中に立つと、舞台が恋しいと思うの」
     顔を火照らせて、瞳に照明の明かりを映していた。
    「本当、君が憎いよ」
     三メートルくらい距離を空けて、涼花の正面に向き合う。
    「でも・・・不思議だな。君は、憎らしい殺人鬼なのに、女性らしい表情をするんだな」
    「女だからね・・・」
     頬を力なく持ち上げた。
    「逃げようか?」
    「え?」
     面をくらったような表情をこちらに向けた。
    「・・・逃げないか? 俺と二人で」
    「馬鹿言わないで。そんな、あたしは妹を殺した犯人なのよ。妹のことを愛していなかったの?」
    「いいや、愛していたさ。君のことも憎い。もし、君をこの場で殺せるなら殺してしまいたいくらいだよ」
    「じゃあ・・・」
     すっと視線を外した。
    「でも、俺にはもう何も残っていないんだ。君を無くせば、この先何十年と空っぽの人生を送ってしまうような気がするんだよ」
     言いながら、どこかへ迷い込んでいくのを感じていた。
    「・・・・・・」
    「だから、一緒に逃げないか? 罪は誰かに被せればいい。俺たちだけでも逃げてしまおうよ」
    「何言って・・・そんなことしたら、貴方まで共犯になるのよ」
    「構わないよ」
     ぶらんと下がった彼女の手首を掴む。
    「・・・どうやって? 朝野が捕まれば芋づる式にあたしも捕まるわ。どこにも逃げ場なんてない・・・」
    「そのときは、朝野を殺してしまおう。瑞穂を殺した張本人は朝野なんだ。君だって、本当は朝野の口車に乗って、殺害に加担してしまったんだろう? あの子さえ居なければ、君がヒロインだって。そうだ、君も被害者なんだよ」
    「・・・・・・」
    「そうなんだろう?」
    涼花に言い聞かせるように話した。心の中に歪みを感じたが、ねじ伏せるように唇を噛んだ。
    「・・・・・・」
    「二人でどこか遠いところに行こう。ほとぼりが冷めたら、小さな劇場で舞台を創り上げるんだ」
    開いたままの瞳を見つめる。恨みがじくじくと腐っていき、仄かな愛情が込み上げるのを感じた。
    「貴方は馬鹿ね・・・」
    「あぁ・・・」
    「・・・狂ってるわ・・・」
    ワンピースを一瞬、浮き上がらせると、膝から崩れ落ちていった。顔を両手で隠したまま、声を震わせていた。
    「本当に・・・何て事をしたのかしら・・・」
     床に爪を立てる。
    「・・・・・・」
    「ごめんなさいね・・・ごめんなさい・・・」
     子供のように泣きじゃくりながら謝罪する涼花を、黙って眺めていた。謝ったところで、家族も自分も、未来永劫、朝野と涼花の存在を許すことはできないだろう。でも、気が触れたように彼女のことが愛おしかった。きっと、僕も人間の心を無くしてしまったのだ。本心の涙を流しているのかさえわからない、蛇のような女のことを愛してしまっていた。

    神

     芹沢刑事から数件の着信が入っていたが、無視していた。煙草を持って、網戸を開ける。
     涼花は朝野が賭けに出たと言っていたが、名声に執着する男が危険な橋を渡るだろうか。ロープを持っていたのは、監督に罪を擦り付ける以外に何かあるような気がするのだ。一見見ただけでは気づかないような何かが・・・。涼花はまだ何か隠しているのだろうか。
     煙を遠くにやる。夜風に流れるようにして、月明かりが雲の中に籠っていった。車のライトがぽつぽつと途絶えていく。ベランダの手摺に腕を置くと、錆びた匂いが手首に絡まっていった。
     
     コンビニの前で煙草を吹かしながら、落ち着いてきた涼花に今後どうしていきたいかを聞いた。涼花は最後に舞台に立ちたいと答えた。たった一度だけでも、舞台に立つことができるなら、警察に捕まっても、僕と二人で逃げてもいいと言っていた。
     涼花の言うことが本当なら、監督が捕まることは無いのだろう。ただ、朝野か涼花が捕まる可能性は十分にあるような気がした。死亡推定時刻から逆算して殺害可能な人物の割り出し、さらにロープの付着物を検査すれば、すぐにでも絞り込めるように思えた。
    灰が粉吹雪のように目先を舞っていく。京王線の電車が流れ星のように一直線に走っていた。明日のリハーサルが終われば、明後日は公演初日だった。二日間くらいなら、警察と接触せずにいられるような気がするのだ。
    煙を潰して、部屋の中に戻る。ソファーに置いた台本が、美海が彫刻に戻っていく場面を開いたまま置いてあった。瑞穂が演じた舞台で、涼花が『うみひめ』を演じようとしていた。瑞穂は悔しくて泣くだろうか。兄を恨み続けるだろうか。

     昼ごろ、ドアを激しく叩く音で目が覚めた。
    「兄ちゃん、兄ちゃん、開けてくれ。居るんだろう?」
     携帯のランプが点滅している。薄い板から当真の声が聞こえてきた。ジャージの下を履いて、スニーカーに片足を載せた。砂をじりっと鳴らして、鍵を回す。
    「何だよ」
    「兄ちゃん」
     こめかみに青筋が走っていた。
    「どうゆうことだよ」
    「何が?」
    「あいつを・・・涼花をどこにやったんだよ」
     圧倒されるようにして、壁に手を当てた。
    「落ち着けって、何の話だよ」
    「知ってるんだろう?」
    「・・・・・・」
     玄関に背を向けて、部屋のソファーに腰を下ろした。当真が影を踏むように近づいてくる。
    「あいつが・・・俺たちの妹を殺したって」
     心臓がどくんと鳴った。
    「・・・誰が言ってたの?」
    「警察だよ」
    「どうして急にわかるんだよ」
     首を傾けて笑った。
    「芹沢刑事から聞いただろう? 俺、監督の部屋からロープを擦り切れた見つけたんだよ。警察に持って行ったんだ」
    「それが? 涼花と何の関係があるんだよ」
    「あのロープには、間にピンクのマニキュアが付着した女性の欠けた爪が挟まっていた」
    「・・・え・・・それって・・・」
    「瑞穂ではないそうだ・・・・・」
     氷水を頭から被るような心地がした。
    「・・・でも、だからって・・・まだ涼花のものとは限らないだろう?」
    「そりゃそうさ。だから、彼女を探してるんだよ。あの日犯行可能だった劇団員はみんなDNA鑑定を受けなきゃいけないんだけど、彼女だけはそれを知った途端忽然と姿を消した。電源切ってて連絡も取れない」
    「・・・リハには戻ってくるんじゃないの? 予定では10時頃からって聞いてるから、今ちょうどやってる頃だろ?」
     動揺する心に声を被せて、平常心を保とうとしていた。
    「兄ちゃんは何で自分の脚本の舞台なのに、今、劇団に行かずに部屋で蹲っているのかはわからないけどね。ほんの数分前、連絡したら彼女はリハーサルにも来てないって聞いたよ」
    「ふうん・・そ・・・」
    「兄ちゃん、何か知ってるんでしょう?」
     じりじりと詰め寄ってくる。
    「どうなの?」
    「だから、何も知らないって」
    「彼女は今、どこに居るんだ」
    「そんなの俺より、婚約者に聞けよ」
     窓から差し込んでいた日差しが、当真の背中に遮られている。
    「朝野さんには・・・聞いたよ。彼は知らないの一点張りで、まだ何も答えてないって。芹沢刑事は涼花が犯人だった場合、共犯者は朝野だろうって推測はしてるけど・・・。とりあえず今は彼女を捕まえなきゃ進まないんだ。それに・・・」
    「・・・・・・」
    「兄ちゃんと彼女が親密な関係なのは知ってるよ」
     冷やかな目をこちらに向けていた。
    「俺はお前が俺の名前を使って劇場をうろうろしていたなんて、芹沢刑事から初めて知ったよ。しかも、勝手に事務所に入って、監督の机をあさったって? お前の行動は常軌を逸してるよ」
    「・・・・・・悪いことをしたのはわかってる。でも、捕まったっていいと思った。悪魔のような犯人を追い込むことができるなら、ね」
     シャツの裾を握っていた。
    「それにしても、上手く利用されたよな。こんなこと警察がすることかよ。犯人捜しだけじゃ飽き足らず、こそこそと俺の動きまで監視してたってことか」
    「論点をずらさないで」
    「でも、事実だろう?」
     日差しが茶色い髪を透かしている。
    「・・・・・・そうだよ。俺は兄ちゃんの行動を見ていた。あんな劇団のために、熱心に脚本を書き上げる兄ちゃんを見てきたよ・・・正直、ぞっとした」
    「あぁ・・・そうかよ。でも、この劇団に入ったのは、お前の勧めだけどね」
     やり場のない想いが込み上げていた。
    「・・・・・・・・・」
    ソファーのバネが動く。首筋を這うような視線で睨みつけた。
    「・・・とりあえずは、あと数時間したら舞台リハ見に行かなきゃなんないから、お前の空想に付き合ってる暇はないよ」
    「彼女は来ないよ。リハと本番は代役でやるって監督と芹沢刑事から聞いてる」
    「・・え・・・・?」
     呼吸を止めた。
    「何・・・代役っておかしいだろう、急に。そんなの、彼女が犯人って決まったわけじゃないじゃないか」
    「事実、居ないんだ。逃げたんだ。彼女が事件に関して何か知ってるのは濃厚だよ」
    「たった一日連絡が取れないくらいで殺人鬼扱いかよ。本当、勝手な奴らだな」
     床を蹴る。
    「本当はどこに行ったか知ってるんだろう?」
    「知らないって何度言わせるんだよ」
    「兄ちゃんはどうしてずっとそうなんだよ」
     眉間に皺を寄せた。
    「どうゆう意味だよ」
    「そのままの意味だよ」
     心に棘が生えていく。
    「兄ちゃん、いつだったか聞いただろう? もし兄ちゃんが過って罪を犯してしまったときも、守るべき夢があるなら、罪を償うことよりも夢を守ることを優先させてしまうのかって・・・。確かに、兄ちゃんはそうゆう人間なんだね」
    「あぁ、そうだな」
     一瞬、視線を床に移した。
    「・・・俺はお前とは違うんだ」
    鉛のような首を持ち上げている。当真が振りかざす正義は、自分には胸元を貫くように痛かった。
    「正気なの?」
     両肩にずっしりと重みが走る。
    「あいつは、殺したかもしれないんだ。妹を。兄ちゃんだって、あんなふうに晒された妹の死体を見ただろう?」
    真っ赤な頬に一筋の水滴が流れているのが見えた。咄嗟に、言葉を失いそうになった。
    「・・・・・・」
    「殺人鬼かもしれないんだ。俺たちの妹の。家族を崩壊させた張本人かもしれないんだよ。どうして憎まないんだ。どうしてそうやって平然としてられるんだ」
    「・・・・・・・・・」
    「頼むよ。どうして・・・そうなんだよ。家族を・・・なんとも思わないのかよ」
    当真の手を払い避けて立ち上がり、カーテンの間から振動している電線を眺めた。窓越しにうっすら映る当真と目が合った。
    「・・・なぁ、聖書の中に『神がキリストによって惜しみなく許したように、あなた方も互いに許し合いなさい』という教えがあるだろう?」
    「今はそんな話を・・・・・・・・」
    「当真、自分の姿を見てみろよ」
     冷笑する。
    「やっぱり神様なんて居ないじゃないか」
    「・・・・・・・・・」
     ぎりぎりと歯を食い縛っているのがわかった。
    「残念だったな」
    意地の悪い心地で、困惑する当真を眺めていた。しばらくすると、当真は足音を立てながら、台本から遠ざかっていった。保っていた精神のバランスがぬめりに嵌るように傾くのを感じていた。

    䝣彚

    当真が帰った後、監督から代役の連絡が入った。上演時間の変更や、万が一のときのメディア向けの対応方法などを事務的に伝えて、あえて涼花のことには触れてこなかった。当真が監督の部屋に無断で入り、ロープを探していたことも話さなかった。ただ、淡が絡んだような声で、軽く咳き込みながら話していた。
     煙草にライターを近づける。息を吸い込むと、どこからともなく金木犀の香りがした。涼花とは連絡が取れず、僕自身もどこに消えたのか見当が付かなかった。奇妙な虚脱感に苛まれていた。
    「中ではリハやってるじゃないか」
    「・・・・・・」
    「いいのかい? こんなところに居て」
     朝野がセブンスターの箱を傾けながら、こちらに近づいてきた。
    「・・・別に・・・・・・」
     胃がむかむかした。
    「火、もらっていい?」
    「・・・どうぞ・・・」
     垂れた目が煙で霞んでいく。濁った水の中に灰を落とした。
    「・・・・・・・・・」
     きっと、彼のせいで彼女は殺人者になってしまったのだろう。当時、十代の子供が殺人に加担するとしたら、何者かに騙されたとしか思えなかった。
    「・・・ふう、で、涼花がどこに行ったか知ってる?」
    「知りません」
    「だよね。本当、どこ行ったんだろうね?」
     ライターをポケットに仕舞う。喫煙所の屋根に枯葉が溜まっているのが見えた。
    「・・・他に聞きたいことがあって、僕に近づいてきたんじゃないですか?」
    「と、言うと?」
    「俺、涼花から聞いたんですよ。彼女と貴方が協力して、瑞穂を殺したって」
    「・・・・・・」
    「あのロープを机に入れたのも貴方だろうって。あの劇団を自分のものにしたくて、僕の舞台を中止にするために、机の中に入れたって」
     舌が乾いていくのがわかった。
    「そうか」
    「事実なんですね?」
    「さぁ、どうだろね」
     砂粒が足首にあたった。
    「半分くらいかな」
    視線を煙の先に向けている。ナイフを手にしていたなら、口から首にかけて切り裂いてしまいたかった。
    「貴方がどうであろうと・・・」
    「・・・・・・」
    「警察には言いませんよ。貴方だけが犯人ならすぐに言って、刑務所に入れてもらいますけどね。彼女が絡んでいる可能性が少しでもあるなら、黙ってます」
    「へぇ・・・、涼花に惚れてるんだね?」
    「・・・・・・」
    「許されるなら、今すぐ貴方を殺したいくらいですけどね」
    「その前に、事故に見せかけて、僕が君を殺すかもしれないけど」
    「・・・・・・」
     追い詰めているにもかかわらず、奇妙なくらいに落ち着いていた。
    「まぁ、そこまで涼花のことを良く思ってくれるのは、婚約者の僕としても嬉しいよ」
    「嫌な言い方ですね」
    「脚本家はね、会話中でも言葉を選ぶのさ」
     憎々しい笑みを浮かべた。
    「ただね・・・」
     声を低くする。
    「婚約者から君にアドバイスするとしたら、彼女はいつも化けの皮を被ってるからね。僕だって何を考えているかわからない。君も彼女には用心したほうがいいよ・・・。って言っても、今、彼女がどこに居るかわからないんだけどね」
     手首にロレックスの時計が光っている。
    「そうですか・・・じゃあ、俺は戻るんで」
    折れた煙草を灰皿にいれる。このまま話していたら、脳の血管が全て切れてしまいそうだった。
    「・・・あのロープを入れたのは涼花だよ」
    「・・・・え・・・・・」
    「ずっと持っていたのも涼花。なぜ、どこに、八年間も隠し続けていたのかわからない。僕も聞いていなかったことだった。あれが無ければ、僕の作ったシナリオは完璧だった」
     ゆっくりと振り返る。
    「・・・・・・」
    「あれは、彼女なりに罪悪感があっての行動だったのかもね」
     白いシャツの皺を軽く伸ばした。
    「涼花が見つかれば、残念ながら確実に逮捕されるよ」
    「・・・貴方もじゃないですか」
    「僕には証拠がないから」
     ぱっと両手を広げて見せた。
    「・・・・・」
    身体を引き摺るようにして、喫煙所から離れていく。脱力した手に鞄を握りながら、一瞬、涼花が朝野のことを愛した時期があったような気がした。演じることも、あの男への感情を抑え込むために滲み出たものであるように思えてならなかった。

     涼花の行動が何を意図しているのかも、どこまでが嘘なのかもわからなかった。否、今まで一度も理解できたことは無かったかもしれない。不足した形を想像で補いながら、花の香りに引き寄せられる蜜蜂のように本能的に求めているのだろう。
     客席の扉を開けると、役者たちの突き抜けるような声が響いていた。一番後ろに座っていた監督と目が合った。
    「・・・遅かったね」
    「・・・・・・」
    「もう、最後の場面だよ」
     舞台を見つめる。美海がアフロディーテに彫刻に戻してもらう場面だった。涼花が演じていたときは切ない表情を残したまま固まっていく姿が印象的だった。
    「代役は誰ですか?」
    「高塚菜々美」
    「高塚・・・そうですか」
     監督の目にライトの明かりが映っていた。
    「彼女はずっと涼花の演技を見ていたから、台詞もほとんど間違いなく覚えているよ。代役もすぐに引き受けてくれた」
    「・・・そうですか・・・」
    「・・・彼女の演技を見て、思うことはあるかい?」
    「特に・・・」
     席を一つ開けて座る。
    「ただ、私情を絡めると、僕の作りたかった芸術ではないと思いますけどね」
    「そうか」
    「できれば最後にもう一度、涼花の演技が見たかったって思います。彼女だったら、こう見えるのにって・・・」
    少し背の低い高塚は、精悍な美海のイメージとは異なっていた。台詞を読む声は甲高く、美海という女性で表現したかった影の部分は薄くなっているように思えた。
    「でも、どんなに待っても、もう涼花がこの劇場に戻ってくることはないよ」
    「・・・・・・」
    「二度と女優として、演技をすることはない」
     背凭れに体重を掛ける。
    「監督は・・・知ってたんですか?」
    「・・・そうだね」
     短い髭を抓んだ。
    「美代子がたまたま二人の会話を聞いたことがあったらしくてね。それらしいことは聞いてたよ。最初は信じてはいなかったけどね」
    「そうですか・・・」
     舞台の照明が絞られていく。
    「・・・監督には・・・ずっと疑ってしまって申し訳なかったと思ってます。勿論美代子さんにも」
    「・・・・・・」
    「申し訳ありません」
    「いや、もう済んだことだ」
    アフロディーテが近寄り、美海の足元が硬直していく場面を見ながら、無意識に涼花の演技を重ねていた。
    「・・・僕はね、君になら演出家をやらせてもいいような気がしていたんだよ。なんだか、昔の僕と美代子を見ているようでね。もし、このまま真実が明るみにならないようなら、黙っているつもりだった」
    「本当にそんな理由ですか?」
     善人のように話す監督に気遣う余裕がなかった。
    「今の僕には、監督の言葉が綺麗ごとにしか思えませんよ」
    「・・・・・・」
     監督の口が重々しく開く。
    「・・・確かに、君の言うとおりだ。犯人を捕まえたところで、この劇団の闇を掘り起こすだけだ。だから、君たち家族が苦しんでいるのを見ながら黙っていた、というのが僕の本音だね」
    「・・そうですよね・・・・」
     目を伏せる。
    「・・・美代子さんは?」
    「さっきの言葉はね、美代子がそう言ってたんだよ」
    「美代子さんが・・・・・?」
     暗闇からこちらを見つめる彼女の顔を思い浮かべていた。
    「意外かい? 言ったろう? あの人はね、賢くて清らかな心を持った女性なんだ」
     硬かった表情が少しだけ解けていた。
    「僕としては、まだ君にはこの劇団に居てもらいたいと思ってる。後任が居なくなるからね」
     長い溜息を付いた。
    「・・・でも、君は出て行くだろう?」
    「そうですね」
     もう、この劇団に脚本を書くことはないだろう。否、脚本を書くこと自体無いかもしれない。パソコンの入った鞄が足に触れる。
    「明日の上演初日を観劇して・・・それが最後です」
    「明日は来るのか?」
    「はい」
     前の席の背に手を掛けて、腰を浮かせる。
    「もしかしたら、涼花も来ているのかもしれないので・・・」
    「そうか・・・」
    「今までありがとうございました」
     監督の頬皺にホクロが埋もれていった。
    「あぁ、給料はちゃんと振り込んでおくよ。満員だった場合は上乗せしてね」
    「はい・・・よろしくお願いします」
    鞄を肩に掛ける。監督に向かって軽く一礼した。照明が暗くなっていく中で、監督が物憂げに舞台を見つめている。

    上演

    「本日は劇団T公演、『うみひめ』の上演にご来場くださいまして、ありがとうございます。本日の上演時間は・・・」
     チラシを半分に折りながら、一番後ろの端の席に腰を下ろす。八年前の事件以来の劇場での上演と、亡くなった妹の兄が脚本を手がけたというマスコミの宣伝もあり、客席の入りはほぼ満席だった。
    「ねぇ、この劇場で昔上演中に亡くなった人居るんでしょう?」
    「何それ。怖い」
    「犯人まだ捕まってないんだって」
    「それで上演して大丈夫なの?」
    前に座っていた女の子たちの会話が耳に入ってくる。
    「この舞台の脚本、ここで妹を亡くしたお兄さんが書いたらしいよ」
    「うわ、よくできるね。そんなこと」
    「変な兄貴だよな。気味悪いよ」
    マスコミらしき人や、興味本位で見に来た人がほとんどかもしれないが、特に気にならなかった。涼花が舞台に出ないと聞いてから、この演劇は自分の手元を離れてしまったような気がしていた。夢に見ていた脚本の上演だったが、滾るような熱意は冷めていき、全く無関係の劇団の公演を見に来ているような心地がしていた。
    団員がちらほら僕の横を通り過ぎていった。見えないふりをしているのだろうか。監督は、劇団に残ることを望んでいたが、残っていたとしても上手くやっていけないような気がしていた。

    携帯の電源を切る。涼花はこの劇場のどこかに居るのだろうか。芹沢刑事と当真の姿は無かったが、今頃涼花を見つけようと隠れているのかもしれない。
    上演開始のブザーが鳴ると、客席が静寂に包まれ、場内の明かりが消えていく。

    『琥太郎、まだそこに居るのか。彼女は人形だ。動かない』
     暗闇の中に光が灯り、琥太郎が人形を見つめている。
    『見てくれ、彼女の唇を。この桜の色づいたような唇は今にも美しい言葉を話しそうじゃないか』
    『琥太郎・・・』
     聡介が琥太郎の顔を覗き込む。
    『それは君が自分の作品に酔っているだけだよ。僕にはちっとも動きそうに見えない』
    『・・・・・・』
    『確かにとても美しいとは思うけどね』
     琥太郎は陶酔して視線を逸らさない。
    『最近は寝ていないのか? 随分やつれているじゃないか』
    『あぁ、彼女に生命が宿るように、神様にお祈りしているんだ』
    『馬鹿か』
     聡介が高々に笑う。
    『人形が動くはずないじゃないか』
    『常識的に考えるとそうだけど・・・』
     窓の外を眺める。
    『西洋のギリシャ神話に出てくるピュグマリオンの話を聞いたことがあるかい? 彫刻に心を入れ込んでしまったピュグマリオンを見かねて、アフロディーテという女神が彫刻に命を吹き込むという話だよ』
    『そんな作り話を信じているのか?』
    『あぁ・・・。どこも隙間の無い彼女にある一番の欠点は、命が宿らないことだ。僕の力ではどうすることもできない。だから、見えない存在に祈ることしかできない』
    『君は異常だよ。確か婚約していた恋人にも、この人形のために別れを告げたらしいな。起こりもしないような奇跡を願って、どこに徳があるんだ』
    『起こるような気がするんだよ。ほら、この力強い瞳を見てくれ。彼女には意思があるように見えるんだ』
    『お前、そんな夢物語ばかり語ってると、この村じゃ笑い者になるよ?』
    『・・・構わないさ』
    琥太郎が人形の髪を撫でる。着物の金糸がスポットライトに反射した。
    『・・・僕自身のことだ。理解できないなら、放っておいてくれ』

    照明が暗くなり、背景が水色に変わる。飛沫を散らすような銀色の光が美海の周囲を取り囲んでいた。
    監督の言ったように、高塚菜々美の演技は二日前に役を引き受けたとは思えないほど、涼花の演じ方に似ているような気がした。涼花が出演できない以上仕方がないことだったが、皮肉にも数年前に瑞穂を虐めていたという子が、瑞穂が亡くなった場所で演技をしているのだ。兄としては目を刺すような心地がして、受け入れられるものではなかった。否、まだ自分には瑞穂の兄と名乗る資格があるのだろうか。

    アフロディーテをうっとりと見つめる美海の背中に、十七歳だった瑞穂を思い出していた。体中がざわついて、精神が震えだすのを感じた。苦痛を分かち合える家族は誰一人として自分の近くには居なくなってしまっていた。重りを付けたロープが落ちてくるように、払っても、払っても、死体になって落ちてきた瑞穂の姿が思い浮かぶ。
    舞台から目を逸らして、荒々しく波打つ動悸を手で押さえ付ける。忘れていたのだろうか。瑞穂は志半ばで、たかが舞台に向けた野心のために殺されたのだ。目蓋の裏に、八年前の光景が蘇ってくる。頭を振っても、光景が薄れていくは無かった。身体は真っ白になり、ドレスを着たまま微かに揺れる瑞穂を・・・。
    同時に、劇団に対する憎悪が堰を切ったように込み上げてきた。瑞穂のことを無かったものにしようとしている団員も、話題性で集まってくるマスコミも、何か起こらないかと期待して来る若者も、恐ろしくなるほど腹立たしかった。

    台詞の声が、早くなっていく呼吸に掻き消されていく。発狂しそうだった。こんなところで何をやっているのだろう。台本が進んでいく毎に、罪が積み重なっていくようだった。逃げたくても、身体が張り付けられたように動けない。

    『ねぇ、アフロディーテ』

     はっとして、顔を上げる。

    『その子は偽物よ』

     黒いフードと床まで付くようなマントを羽織った女性が、ヒールの音を立てて舞台の中央に近づいてきた。
    「え・・・貴女・・・」
    『私が誰か? そんなことどうでもいいじゃない』
     アフロディーテ役の新崎が客席に背を向けて後ずさりした。
    「・・・・・・」
     高塚が人形の形を保ったまま、目が眩んだような表情をしていた。
    『その人形に生命を吹き込むのなら、私にも吹き込んで頂戴』
    「貴女は・・・生きてるじゃない」
    『どうかしら』
     フードで目を隠したまま両手を上げた。監督が立ち上がって前の席の背凭れを掴んでいた。
    『ねぇ、知ってる?』
     客席に語りかける。
    『ここは、数年前に人が亡くなった劇場よ。あの天井から首を吊った女性が落ちてきたの。今、客席に居る中で見たことある方はいらっしゃるかしら』
    赤い唇の口角が上がった。劇場内に不穏な空気が流れるのを感じ
    た。
    「こんなの聞いて・・・」
    女性がマントを引き摺ったまま、舞台を歩きだす。
    『私はその日からおかしくなってしまったわ。ねぇ、アフロディーテ、私にも命を吹き込んでくれるかしら』
    「え・・・あ・・・」
    『きっと、私はあの時に人間を捨てたの』
    新崎が困惑したまま、彼女の話に合わせようとしているように見えた。
    『あら、神様の力を持っても難しいの?』
    「・・・・・・」
    『そうよね。神様の力を持っても、そんなことできないわよね』
     彼女の通った床が濡れていた。
    「なんか、変な匂いしない?」
    「確かに」
    「え・・・あれ見て」
     客席が舞台を指差してざわつき始めていた。
    「何これ・・・ちょ・・・」
    高塚が身体の動きを解いて何かを言いかけたが、彼女が言葉を遮るようにマントを脱ぎ捨てた。

    『私は八年前の殺人鬼なのだから』

     涼花は観客に言い放つと、赤いドレスの胸元から何かを取り出していた。劇場の時間がふっと途切れる。誰かが悲鳴を上げた。涼花が一瞬こちらを見たような気がした。幕の裏に居た団員が涼花に駆け寄っていったときに・・・。
    「涼・・・」
     滑らかな手から火の付いたライターが落ちていくのが見えた。ぼうっと波のように火が立ち上っていく。涼花のマントの跡を辿るようにして、燃え広がっていった。観客が一斉に席を立ち、獣のように叫び出した。火災警報ブザーがけたたましく鳴り響き、裏に居た団員たちが雪崩のようにドアのほうへ走って行った。
    「何だ、何の騒ぎ」
     警察が逃げる人に逆らうようにして、こちらを覗き込む。芹沢刑事のような人物も見えた気がした。
     舞台から煙が立ち込めて、劇場内はすぐに真っ白になった。目がチカチカする。ハンカチを顔と口に当てながら、観客を掻き分けて前のほうに向かっていく。波を寄せるように、舞台の小道具から移った火が次々と燃え広がっていく。
    「涼花」
    「・・・・・・」
    「何やってるんだ。君も早く逃げないと・・・」
     何者かに肩を掴まれたが腕を揺さぶって払った。煙を吸い込んで咳き込んだ。あと少し。ワインレッドを纏った彼女が、火の向こうに微かに見えるのだ。
    「・・・涼花、どうしてそこに居たままなんだ」
     監督が団員に両脇を抱えられるようにして、非常口のほうへ向かうのが見える。誰かの泣きわめく声も、煙に巻かれていった。
    「こっちに来てくれ、早く逃げよう」
    「・・・・・・」
     首を振っていた。
    「早く」
     辛うじて声を出しながら、煙の中に手を突き出した。火の海に巻かれていく彼女が少しだけ微笑んだ気がした。小さく唇を動かす。

     ごめんね

    「待っ・・・」
    体中が熱くなっていく。吸い寄せられるように舞台へ上がろうとすると、突然、腕を掴まれた。
    「兄ちゃん」
     当真が咳き込みながら、片目でこちらを睨んでいた。
    「当真、おま・・・」
    「・・・・・・」
    「離せ・・・よ」
     握られた手首が千切れてしまいそうだった。
    「彼女を連れて・・・いかなきゃ駄目なんだ」
     呼吸が苦しかった。
    「・・・・・・・・・」
    「・・・見える・・・だろう・・・? 彼女・・・がそこに居るんだ」
    「・・・・・・・・・」
     無言のまま背を向けて引っ張られていた。抵抗するほど、力が強くなっていく。心は涼花の元に行こうとしていたが、身体が炎の勢いに強張ってしまっていた。客席はいつの間にかほとんど誰も居なくなっていた。足を一歩ずつ動かす度に、煙に巻かれて涼花の面影が遠ざかっていく。
    「涼花・・・」
     地鳴りのような音が響く。炎に包まれた背景が一気に舞台へ倒れた。
    「あ・・・あぁ・・・」
     汗がだらだらと頭から噴出している。
    「当真」
     声の限り叫ぶ。彼女の姿は一瞬で見えなくなった。
    「どうして・・・。お前さえ来なければ・・・彼女は・・・」
    「・・・・・・」
     喉が焼けるようだった。
    「なぁ、今からでも遅くは・・・」
     振り解こうとしたが、手錠のように掴んだまま動かなかった。出口の明かりが見える。

     外に出ると芹沢刑事に抱えられた。担架に載せられる人や、警察に詰め寄る人が見えた。呼吸すると、肺がざらついて、思い出したように何度も咳き込んだ。
    「大丈夫か?」
    「ま・・・だ、中に人が・・・」
     アスファルトに膝を付いて、涎を拭う。
    「どこだい?」
     芹沢刑事のシャツにしがみ付く。
    「舞台のほうです。彼女を・・・彼女を助けてくだ」
    「いえ・・・」
     当真が口を挟んだ。
    「中には誰も居ませんでした」
    「は?」
     緩く掴んでいた手首を振り叩く。
    「僕には何も見えませんでした」
    「お前、こんなときに・・・見たんだろう? いい加減に」
     腕の血管が切れそうだった。掴みかかろうと胸倉を掴んだとき、当真の瞳に涙が溜まっているのに気付いた。
    「何も・・・見えませんでした」 
     腕で炭の被った顔を擦りながら泣いていた。消防車が赤いランプをくるくるさせて駐車場に停車するのが見える。
    「・・・・・・」
     だらんと腕を降ろす。窓からうねるような炎が飛び出ていた。
    「涼花は? 彼女はどこにいるんですか?」
     朝野が目を充血させて、警察の胸倉を掴んでいるのが見えた。劇場が霞んでいく。若い刑事が何か話しかけてきたが、呆けたように口を開けたまま劇場を眺めていた。 

    終章
     
     煙草を銜えながら窓の外を眺める。金魚が水草の中に潜っていった。ベランダの端のほうに溜まった枯葉が静かに振動していた。
     彼女の演じた舞台が、今まで生きてきた中で最高のものだった。思い返してみても、表現したかった芸術が鮮明に舞台に映し出されたのは後にも先にもたった一回だけだった。彼女が亡くなった後、脚本を書く気にはなれず、小説家に転向していた。
    我ながら、よく生きてきたと思う。否、ただ生かされてしまっただけなのだろうか。劇団Kの舞台公演は上演中のものも含めて全て中止になった。劇場を失った監督は、劇団を解散して、現在は北海道に住んでいるという噂を聞いていた。劇団員たちの存続の声もあり、私の名前も挙がっていたが、すぐに辞退した。瑞穂と涼花の消えた舞台に、何の意味があるのか見いだせなかった。
    涼花の死後、彼女の犯した罪について詳細を記載したA4用紙三枚にも渡るメモが発見された。主役を勝ち取った瑞穂に対する嫉妬から犯行に及んでしまったのだと、綴られていた。朝野のことは一文も書いていなかった。殺人鬼でありながら、隠し通すことができるのなら、このまま女優で居られるかもしれないと考えていた、とも書かれていた。
    朝野が逮捕されることはなかった。今でも細々と舞台の脚本を手掛けているらしい。劇場は焼けて証拠は無くなり、二度と事件に結び付く何かが起こることは無かったため、警察も朝野を捕まえることができなかったのだ。
    涼花はあの男にも、少しだけの愛情を残していたのだと思う。劇場が消滅すると、涼花の狂気に満ちた行動が注目を浴び、私も朝野も事件の関係者だと白い目を向けられることは無かった。誰も気づかないかもしれないが、私には涼花が意図的にやったようにしか思えなかった。

     彼女の最後は今でも覚えている。火の海に飲み込まれていく中で、ワインレッドのドレスがカーテンのように揺らぐのを・・・。命を失おうとしているにも関わらず、金魚の尾のような優雅さも感じていた。涼花は自殺したかったのでは無く、本心は逃げたかったのだと思う。雨に打たれた桜のように、艶めいた表情をしていた。彼女は何を考えていたのだろう。どこまでが現実でどこまでが想像か、あやふやになってしまっていた。霧に包まれた記憶を手繰り寄せるようだった。
     
    パソコンの電源を切る。出版された本が、横一列に並んでいた。涼花が亡くなると、マスコミは監督と私の元に殺到した。私は上手く野次馬の波に乗り、小説家として食べていけるほどになることができた。でも、あの日以来、家族とはほとんど連絡を取っていない。父さんは去年亡くなり、母さんは老人ホームに入っていた。当真は、職場で出会った三歳年下の女性と結婚し、今年大学生になる子供がいるらしい。団員とは二度と顔を合わせることはなかった。いつの間にか独りで居るのは自分だけになり、当時の私を知る人間は誰も居なくなっていた。

     皺の多くなった手を摩る。灰が原稿用紙の上に落ちた。感性を満たすような作品が書けないまま、何十年も経っていた。きっと、この先も満たされることは無いのだろう。長いトンネルを突き進むように、行き先が見えなくなっていた。いつまで書いていられるのだろう。否、いつまで書かなければいけないのだろう。

    溜息を付いて、煙草を灰の中に捩じり込んだ。シャーペンの芯が原稿用紙の途中で止まっている。誤った選択ばかりの人生を歩んできているような気がした。
    金魚鉢の水面に餌を落としていく。二匹の金魚がひらひらと尾を揺らめかせて上がってきた。歳を取ったのだろうか。こうやって時折彼女のことを思い出していると、独りで生きていくのも悪くも無いかもしれないなどと思うのだ。

    口をパクパクさせた金魚を見下ろす。原稿用紙にシャーペンを立てた。ガラスが日光を通して、赤い影がペンの先を漂っている。

    否、もう、ずっと昔から漂い続けている。

     
     

    ゆき

     
     
    WEBで小説を書きながら、世界の神仏とか鉱物とかファンタジー溢れるものに惹かれながら生きてる。 本職SE。ミドルウェアが経験が長い。好きな言葉は「小説ブクマしたよ」。嫌いな言葉は「仕様変更」。

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