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専門とは、世界を見るレンズである──AI時代の問いと思考法

    プロローグ

    人間は、自分が見たい世界を見ているわけではない。
    自分が持っている「レンズ」を通してしか、世界を認識できない。
    私は、そのことを病気になって初めて知った。

    病院へ行くと、身体は細かく分けられる。

    脳は神経内科。
    腸は消化器内科。
    皮膚は皮膚科。
    心臓は循環器内科。

    それぞれに専門家がいて、それぞれの臓器を診る。
    もちろん、それは医学を発展させてきた大きな理由の一つだ。
    けれど、患者である私の身体は、一つしかない。

    脳の調子が悪い日は、胃腸まで動かなくなる。
    眠れない夜が続くと、炎症まで悪化する。
    ストレスを受けると、皮膚にも症状が現れる。

    身体はこんなにもつながっている。
    それなのに、私たちはなぜ、それぞれを別々に理解しようとしているのだろう。
    その違和感が、すべての始まりだった。

    私はコロナ後遺症(疑い)をきっかけに、長く原因不明の体調不良を抱えていた。

    病院へ行く。
    検査を受ける。
    異常はないと言われる。

    薬を飲む。
    少し良くなる。
    また悪くなる。
    その繰り返しだった。

    病気そのものも苦しかった。
    でも、それ以上につらかったのは、誰も「なぜ」を説明できなかったことだった。

    私は研究者である。
    だから症状よりも先に、
    「身体の中で何が起きているのか」
    を理解したかった。

    病気を治したい。
    もちろん、その気持ちはあった。
    でも、それ以上に知りたかった。

    生命とは何なのか。
    人はなぜ壊れるのか。
    そして、なぜ回復するのか。

    論文を読み続けた。
    免疫学。神経科学。栄養学。東洋医学。

    知識は増えていく。
    けれど、生命は見えてこない。
    一つひとつの説明は正しい。
    それなのに、それらは一枚の地図にならなかった。

    私が探していたのは知識ではない。
    生命全体を説明できる、一つの見方だった。

    そんなある日、何気なく飲んだサプリメントが、その流れを変えた。
    シチコリン。
    少しだけ頭が軽くなった。

    「なぜだろう。」

    細胞膜について調べ始めた私は、本棚の奥から学生時代の教科書を取り出した。

    『コロイド界面科学』

    博士課程で毎日のように開いていた本だった。
    ページを開いた瞬間、学生時代には材料としてしか見ていなかった図が、まったく違って見えた。

    細胞膜。
    界面。

    その二つの言葉が、頭の中で重なった。
    世界は、その瞬間から別の姿で見え始めた。

    第一章 専門とは、知識ではなく「レンズ」である

    振り返れば、界面生命科学という発想は、あの日突然生まれたわけではなかった。
    その種は、ずっと前から私の中にあった。

    私は博士課程でコロイド界面科学を学んだ。
    当時の私は、界面自由エネルギーや吸着現象、濡れ性や分散安定性を学んでいると思っていた。
    もちろん、それは間違いではない。

    しかし今振り返ると、本当に身につけていたものは、知識ではなかった。「界面で世界を見る」という思考様式だった。

    どこが境界なのか。
    何が内側で、何が外側なのか。
    何が流れを生み、何が変化を止めるのか。
    私は知らないうちに、その分野特有の世界の見方を身につけていた。

    今なら思う。
    専門とは、知識を蓄えることではない。
    その分野だけが持つ「世界を見るレンズ」を、自分の中に育てることなのだ。

    知識は忘れる。
    論文の内容も、数式も、年月が経てば曖昧になる。
    けれど、一度身についた思考様式は残る。

    だから学生時代を終えたあとも、私は無意識のうちに「界面」というレンズで世界を見続けていたのだろう。

    ここで誤解してほしくないことがある。
    私は、界面科学を学ぶべきだと言いたいわけではない。

    もし私が建築を専門にしていたなら、生命を「空間」として見ていたかもしれない。
    数学なら「構造」。
    制御工学なら「フィードバック」。
    歴史なら「連続性」。

    どの専門にも、その分野だけが持つレンズがある。
    重要なのは専門の名前ではない。
    一つの分野を深く掘り下げ、その奥にある「世界の見方」を自分のものにすることである。

    生成AIの時代になり、知識を調べること自体の価値は急速に変わり始めている。

    論文を探すこと。
    要約すること。
    比較すること。

    そうした作業は、これからますますAIが得意になるだろう。

    では、人間に残る価値とは何だろう。
    私は、それは「レンズを育てること」だと思っている。

    知識は共有できる。
    しかし、どんなレンズで世界を見るかは、その人が歩いてきた専門の積み重ねによってしか生まれない。

    そして、そのレンズは、ある出来事をきっかけに大きく揺さぶられることになる。
    それが、私にとっては病気だった。

    第二章 レンズは、違和感によって磨かれる

    病気になる前の私は、自分の専門に何の疑いも持っていなかった。
    界面科学というレンズを使い、材料を考え、研究を進める。
    研究者として、ごく自然な毎日だった。

    もし病気になっていなければ、おそらく私は今も、その延長線上にいたと思う。
    界面科学というレンズを持ちながら、そのレンズを界面科学の中だけで使い続けていただろう。

    人生は、思いがけない形でその流れを変えた。
    病気だった。
    それまでの知識では説明できない現実が、目の前に現れた。

    検査は正常なのに動けない。
    脳と腸が同時に悪くなる。
    眠れない夜が続くと、炎症まで悪化する。
    一つの症状を追いかけると、別の場所で新しい問題が現れる。

    私は医学を学び始めた。
    免疫学。神経科学。分子生物学。栄養学。東洋医学。

    論文を読む。
    また読む。
    さらに読む。

    知識は確実に増えていった。
    それなのに、不思議なことが起きた。

    知識が増えるほど、生命全体は見えなくなっていったのである。
    一つひとつの説明は理解できる。
    論文にも納得できる。
    しかし、それらを並べても、一つの生命にならない。

    そのとき初めて気づいた。
    私が探していたのは、新しい知識ではなかった。

    知識同士をつなぐ、一枚の地図だった。

    振り返ると、探究はいつも違和感から始まっていた。
    違和感とは、自分が持っている世界の見方で説明できなくなった瞬間である。

    だから、違和感は知識から生まれるものではない。
    むしろ、その逆だ。
    自分の中に、一つの見方があるからこそ、「説明できない」という感覚が生まれる。

    私は界面科学というレンズを持っていた。
    だから医学との境界で立ち止まった。
    もし建築家なら、生命を空間として見たかもしれない。
    経済学者なら、循環として見たかもしれない。
    歴史学者なら、時間の積み重ねとして見たかもしれない。

    違う専門なら、違う違和感が生まれていただろう。つまり、新しい問いは、知識の量では決まらない。

    どんなレンズを持って世界を見ているかで決まる。

    だから私は今、生成AIの時代だからこそ、専門を持つ意味が大きくなると考えている。

    AIは知識を集められる。
    比較もできる。
    整理もできる。

    しかし、「何かがおかしい」という違和感は、人間が世界と向き合う中でしか生まれない。

    知識はAIでも扱える。
    でも、問いは違和感からしか生まれない。
    そして違和感は、自分だけのレンズを持つ人にしか訪れない。

    病気は、決して幸運だったとは思わない。
    できることなら、健康なままでいたかった。
    それでも一つだけ確かなことがある。

    病気という未知の世界に出会わなければ、私は自分がどんなレンズで世界を見ていたのか、その存在にさえ気づかなかっただろう。

    専門とは、答えを与えてくれるものではない。
    専門とは、新しい問いを生み出すための出発点なのだ。

    そして、その問いが私を、もう一度学生時代の教科書へと向かわせることになる。

    第三章 世界は、境界でつながっていた

    教科書を開いたあの日のことを、今でもよく覚えている。

    ページをめくる。
    脂質二重膜。親水基。疎水基。界面自由エネルギー。

    学生時代には何百回も見てきた図だった。
    博士課程では、それを材料として理解していた。

    粒子がどう振る舞うか。
    なぜ濡れるのか。
    なぜ吸着するのか。

    界面科学とは、そういう学問だと思っていた。
    でも、その日は違った。

    細胞膜。

    その言葉を見た瞬間、頭の中で別々だった知識が動き始めた。

    神経細胞。血管内皮。腸管。ミトコンドリア。

    それまで独立した存在だと思っていたものが、同じ構造を持つものとして重なり始めた。

    生命は、いたるところに「境界」を持っている。
    その境界で、物質が行き来する。

    情報が伝わる。エネルギーが変換される。

    生命を動かしているのは、細胞そのものではない。
    境界なのではないか。

    私は思わず声に出していた。

    「全部、界面じゃないか。」

    その一言で、世界の景色が変わった。

    もちろん、その瞬間に何かが証明されたわけではない。
    新しい理論が完成したわけでもない。
    手元にあったのは、一つの仮説だけだった。

    それでも、不思議なくらい腑に落ちた。
    これまで別々に覚えてきた知識が、一枚の地図の上へ集まり始めたのである。

    脳と腸。
    炎症と疲労。
    睡眠と免疫。
    神経と代謝。

    それぞれを一本ずつ理解しようとしていたときには見えなかったものが、「界面」という一つのレンズを通した瞬間、一つの構造として見え始めた。

    そこで私は、もう一つのことに気づいた。
    界面とは、単なる境界ではない。
    異なるものが出会い、新しい振る舞いが生まれる場所である。

    水と油が出会う。
    細胞の内側と外側が出会う。
    血液と組織が出会う。

    生命は、そうした無数の境界によって支えられている。
    その構造は、どこか人間の認識にも似ているように思えた。

    私たちは世界そのものを見ているわけではない。
    世界と自分が出会う場所には、必ず自分なりの「見方」がある。

    私はそれをレンズと呼んできた。
    今振り返ると、そのレンズもまた、一つの境界なのかもしれない。

    世界と、自分。現実と、認識。
    その境界で初めて意味が生まれる。

    生命にとって界面が世界との接点であるように、人間にとってレンズは世界との接点なのではないか。

    私は、そのとき初めて気づいた。
    私が見つけたかったのは、「界面生命科学」という新しい言葉ではなかった。

    もっと前から、私は同じものを探していた。
    世界を、一つにつなぐ見方だった。

    第四章 レンズは、重ねることで世界を広げる

    界面というレンズを手に入れてから、私はもう一度、東洋医学の本を開いた。
    病気になって間もない頃、一度読んだ本だった。

    当時は、正直よく分からなかった。
    「気は全身を巡る。」
    そんな一文を読んでも、どこか曖昧な説明に思えた。
    研究者として育ってきた私は、もっと明確な仕組みを求めていた。
    だから、その本は途中で閉じてしまった。

    数年後、同じ本を開いた。
    驚いた。

    書かれている文章は何一つ変わっていない。
    変わったのは、本ではなかった。
    私のレンズだった。

    以前は曖昧にしか思えなかった言葉が、今はまったく違う意味を持って立ち上がってきた。

    西洋医学は、生命を細かく見ていく。

    神経。免疫。循環。消化器。

    それぞれを独立した対象として観察し、その仕組みを明らかにしてきた。
    だからこそ、多くの命を救ってきた。
    その価値は疑いようがない。

    一方で、東洋医学は違う。
    最初から生命全体の流れを見ようとする。
    一つひとつを説明するよりも、全体の調和を見ている。

    私は長い間、この二つは対立する考え方なのだと思っていた。
    でも、違った。
    見ている対象は同じだった。
    違っていたのは、縮尺だったのである。

    山だけを詳しく描いた地図がある。
    道路だけを描いた地図がある。
    鉄道だけを描いた地図がある。

    どれも正しい。
    しかし、一枚だけでは世界を歩けない。
    地図を重ねたとき、初めて世界は立体になる。

    医学も同じだった。
    西洋医学は、高倍率の地図である。
    東洋医学は、広域の地図である。

    どちらか一方が正しいのではない。
    どちらも生命という同じ世界を、異なる縮尺で描いている。

    そう考えた瞬間、私はようやく「統合」という言葉の意味を理解した。

    統合とは、混ぜることではない。
    一方を捨てることでもない。
    異なるレンズを、そのまま重ねることなのだ。

    そこで私は、あることに気づいた。
    これは医学だけの話ではない。

    材料科学も。生命科学も。東洋医学も。西洋医学も。
    それぞれが、一枚の地図なのである。

    そして、その地図を重ねる役割を果たすのが、人間のレンズなのではないか。

    AIは、多くの地図を同時に持つことができる。
    瞬時に検索し、比較し、整理することもできる。

    しかし、「この地図と、この地図は重ねられるのではないか。」
    その最初の違和感は、人間からしか生まれない。

    私は界面科学というレンズを持っていた。
    だから生命を界面として見ることができた。

    東洋医学を学んだから、西洋医学を否定したわけではない。
    西洋医学を学んだから、東洋医学を軽視したわけでもない。

    私は、それぞれのレンズを重ねようとしただけだった。

    振り返ると、私が探していたのは、新しい知識ではない。
    新しいレンズでもない。
    異なるレンズ同士が重なったときに見える、新しい景色だった。

    その景色を見て初めて、私は自分が本当に探していた問いにたどり着いた。

    「生命とは何か。」

    ではない。
    もっと根本的な問いだった。

    「人間は、どのように世界を理解しているのだろう。」

    生命科学を探究していたはずなのに、最後に残ったのは、人間そのものへの問いだった。

    最終章 人間は、レンズを更新する

    界面生命科学という名前を思いついたとき、私は一つの病気を説明したいと思っていた。

    コロナ後遺症。ME/CFS。原因不明と呼ばれる病気。

    その仕組みを理解したかった。
    最初は、それだけだった。
    でも、探究を続けるうちに、問いは少しずつ変わっていった。

    生命とは何か。回復とは何か。

    そして最後に残った問いは、もっと単純だった。

    人間は、どのように世界を理解しているのだろう。

    振り返ると、私が経験したことは特別なことではない。

    病気になることが必要なのではない。
    界面科学を学ぶことが必要なのでもない。

    重要だったのは、一つの専門を深く学び、そのレンズを持ったまま、自分では説明できない世界に出会ったことだった。

    その瞬間、違和感が生まれた。違和感は問いになった。
    問いは、それまで別々だった知識を結び始めた。
    私は、その繰り返しが探究なのだと思う。

    だから専門とは、答えを与えてくれるものではない。
    問いを生み出すためのレンズなのである。

    そして、そのレンズは完成しない。
    未知の世界と出会うたびに揺らぎ、書き換えられ、少しずつ新しい世界の見方へ変わっていく。

    では、そのレンズはどうすれば育つのだろう。
    振り返ると、私自身も同じことを繰り返していた。

    一つ目は、
    専門を深く学び、その分野だけが持つ世界の見方を身につけること。

    二つ目は、
    その専門だけでは説明できない世界へ踏み出すこと。

    三つ目は、
    そこで生まれた違和感を、すぐに答えで埋めず、一つの問いとして持ち続けること。

    四つ目は、
    その問いをもう一度、自分の専門へ持ち帰り、見直してみること。

    専門から未知へ。未知から専門へ。
    その往復運動の中で、レンズは少しずつ更新されていく。

    私にとって、その未知が病気だった。
    誰かにとっては、異動かもしれない。
    海外生活かもしれない。
    子育てかもしれない。
    起業かもしれない。
    形は違っても、本質は同じである。

    生成AIの登場によって、知識の価値は大きく変わり始めた。
    知識を集めること。整理すること。比較すること。

    それらは、これからますますAIが得意になるだろう。
    だからこそ、人間に残る価値は何かを考え続けてきた。

    私は、一つの答えにたどり着いた。
    人間の価値は、知識を持つことではない。
    世界の見方を更新できることである。

    専門を学ぶ意味も、そこにある。
    知識を覚えるためではない。

    その分野だけが持つレンズを、自分の中に育てるためだ。

    生命を見つめ続けてきた私は、最後に少し不思議なことを思うようになった。

    生命は、界面を通して世界とつながっている。
    細胞膜も。血管内皮も。腸も。肺も。
    生命は無数の境界を通して、外の世界と絶えず情報をやり取りしている。

    では、人間はどうだろう。
    私たちは世界を直接見ているのではない。
    自分が持つレンズを通して世界を理解している。

    そう考えると、レンズもまた、世界と自分をつなぐ境界なのかもしれない。
    生命に界面があるように、認識にもまた、界面がある。
    私は、それをレンズと呼んでいる。

    身体が壊れた日、私は人生を失ったと思った。
    でも、本当は違った。

    壊れたのは身体だった。
    その代わりに、一つのレンズを手に入れた。

    世界は、分断されているのではない。
    見方が分断されているだけなのかもしれない。

    世界は、新しい知識によって広がるのではない。
    新しい見方によって広がる。
    医学も。科学も。仕事も。人生も。

    もしあなたにも、自分だけの専門があるなら、その言葉で一度、まったく違う世界を見つめてみてほしい。

    境界で出会ったとき、新しい意味を持ち始める。
    だから私は、これからも境界を探し続けたい。

    新しい答えを見つけるためではない。
    昨日まで見えていた世界を否定するためでもない。

    世界を、昨日より少し深く理解するために。

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    博士(工学)|コロイド界面科学 大手メーカー研究員/元JSPS特別研究員 コロナ後遺症・慢性疲労症候群(ME/CFS)をきっかけに、専門を「世界を見るレンズ」と捉え、生命・AI・仕事をつなぐ思考法を探究中。 「界面生命科学」を通して、回復・生命を独自の視点から考察。

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