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『トーヨコの歯車』


    『トーヨコの歯車』


    揺木凪

    フェイクスター制作スタジオ


    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門



    雨の都会で、凪を探す。



    【あらすじ】

    父が失踪した。手がかりは、新宿歌舞伎町「トー横」。


    水辺野美沙希、26歳。インスタフォロワー5万、働く意味を見失った抜け殻の女。父の痕跡を追い、闇格闘技興行のラウンドガールとして歌舞伎町の底に潜り込む。


    怪しい金の流れ。消える人間。見えない糸に引かれるように、美沙希は組織の深部へと近づいていく。気づいた時には、もう引き返せなかった。


    謎の情報屋・田中、元公安クズ刑事・蓮沼、観察力お化けのジム経営者・寺島心。癖だらけの協力者たちとともに、美沙希は父の真実へと辿り着く。


    その先に何があるのか。


    救いか。無か。


    それは、読んだあなたが決める。




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    プロローグ「出来レース」

    父が好きだった。

    ずっと、父の背中を追いかけていた。

    水辺野灯、元格闘家。50戦無敗。引退後は興行プロモーターとして業界に名を馳せた。大きな背中、静かな声、笑う時だけ子供みたいな顔をする男。その背中を追いかけることが、私の生きがいだった。

    インスタを始めたのも、父がきっかけだった。

    試合の日、父がリングサイドに立っていた。その隣に私がいた。その写真を上げたら、いいねが止まらなかった。格闘技界隈の人間が、父のファンが、私を見つけてくれた。父の娘として、この世界の端っこに立てることが嬉しかった。
    撮影の仕事が入るようになったのは、二年前だった。

    アパレルブランドの案件、格闘技イベントのフライヤー、スポーツ系の広告。父の業界と繋がりのある仕事が多かった。撮影現場に行くと、スタッフが「水辺野灯さんのお嬢さんですか」と言った。そのたびに、誇らしかった。

    カメラの前に立つのは、嫌いじゃなかった。

    でも好きかどうかは、わからなかった。

    ただ、父が試合後に「見たよ、良かったぞ」と言ってくれる瞬間のために、シャッターの前に立っていた気がする。

    街を歩いていると、スナップを頼まれることがあった。歌舞伎町、渋谷、原宿。カメラを向けられるたびに笑った。自然に笑えた。父の娘として、この街に立っていることが嬉しかったから。

    案件をこなすたびに、フォロワーが増えた。

    ブランドのタグをつけて投稿すると、知らない人間がいいねを押してくれた。コメントが来た。DMが来た。「あざっす」と返した。本心から感謝していた。この数字が、父への報告みたいな気がしていたから。
    フォロワーが増えるにつれて、生活が変わった。

    朝起きて、通知を確認する。案件のDMを返す。撮影に行く。投稿する。いいねを確認する。また寝る。それが日常になった。

    忙しかった。充実しているように見えた。

    でも父に「最近どうだ」と聞かれるたびに、うまく答えられなかった。仕事の話はできた。数字の話はできた。でも、自分がどう感じているかは、わからなかった。

    父は笑いながら言った。

    「美沙希、お前は強いな」

    強い、という言葉が、少し怖かった。

    強くなんかなかった。ただ、父の背中が見えている間は、倒れなかっただけだ。その背中が消えた瞬間に、私がどれだけ空っぽだったかを知ることになるとは、その時はまだ思っていなかった。

    気づいたら、5万人が見ていた。

    でも本当は、一人だけに見ていてほしかった。

    父が失踪したのは、半年前だった。
    その日から、何も手につかなくなった。

    撮影の予定をキャンセルした。案件の返信が遅れた。投稿しても、何も感じなかった。空洞は、日を追うごとに広がっていった。
    父がいない世界で、私は初めて気づいた。自分が何者なのか、わからないということに。
    本当に空っぽだったんだ…

    朝、連絡が来なくなった。電話が繋がらなくなった。事務所に確認したら、「突然連絡が取れなくなった」と言われた。警察に相談したら、「成人の失踪は事件性がない限り捜索できない」と言われた。

    死亡の知らせはなかった。でも、生きている証拠もなかった。

    その日から、何も手につかなくなった。

    インスタのストーリーを上げ続けた。いいねが来た。コメントが来た。でも何も感じなかった。父がいなくなって初めて気づいた。私が華やかでいられたのは、父の背中があったからだ。あの大きな背中が見えなくなった瞬間、私の中に空洞ができた。

    ずっとそこにあったのに、気づかなかった空洞が。

    手がかりはトーヨコだと聞いたのは、失踪から三ヶ月後だった。

    父の古い知り合いだという男から、インスタにDMが来た。フォロワー十三人、ピントの甘い自撮り。信用できる相手じゃなかった。でも、他に手がかりがなかった。

    私はその夜、新宿行きの電車に乗った。

    そこは、あまりにも豪華すぎた。
    新宿の高級ホテル、最上階の会議室。扉を開けた瞬間、空気が変わった。
    芸能界のオーディションは何度か経験があった。でもそれとは、格が違った。次元が違った。
    黒服が壁際に並んでいた。全員、整った身なりにインカム。微動だにしない。表情がない。まるで国家の式典の警護だった。
    奥には、審査員と呼ぶには重すぎる顔ぶれが並んでいた。政治家か、官僚か、それとも別の何かか。品のいいスーツ、白髪、重たい沈黙。鎮座していた。
    張り詰めていた。
    足音が出なかった。分厚い絨毯が、すべての音を飲み込んでいた。
    私は立ち尽くした。
    視線が集まった。無数の、値踏みするような視線が。
    私はただ、自分の足を見つめた。
    場違いな、赤い足だった。
    この場所に、赤いレースのニーハイは似合わなかった。でも、それを選んだのは私だった。父の手がかりがここにあると聞いたから。及川に言われた通りに来たから。
    審査員の一人が、静かに口を開いた。
    「水辺野美沙希さん。お父様の娘さんですね」
    父の名前が出た瞬間、私の足が床に縫い付けられた。
    これはオーディションじゃない。
    最初から、そういう場所だった。
    私はとっくに、選ばれていた。

    第1章「父の残像」


    働く意味が、私にはわからない。


    インスタのフォロワーが5万を超えた日も、特に何も感じなかった。通知が鳴るたびに画面を開いて、ハートの数を確認して、また閉じる。それだけだ。父がいなくなってから、私の中の何かが一緒に消えた。欲しいものも、なりたいものも、怖いものも。全部。


    グラスの中で氷が溶けていく。


    トーヨコが、眼下に広がっている。


    新宿歌舞伎町、新宿東宝ビルの東側。シネシティ広場周辺。ネオンと怒号と、誰かの泣き声が混ざった空気が、ここまで届くようで届かない。バーの高い窓から見ると、あの群れは静止画みたいに見える。動いてるのに、動いてない。生きてるのに、生きてない。


    父も、あの中にいたのかもしれない。


    手がかりはここだと言われた。言われたというより、インスタに届いた一通のDMにそう書いてあった。送り主は知らないアカウント。フォロワー十三人、プロフィール写真はピントの甘い自撮り、どこかの居酒屋で撮ったらしい一枚。


    開く気にもなれなかった。


    でも来た。歌舞伎町まで来た。父の痕跡があるなら、どこへでも行く。それだけが、私が今も動いている理由だった。


    スマホを開く。インスタのストーリーに、今夜のグラスを投稿する。キャプションは何も書かない。それでも三分で二百いいねがつく。私の何を見て、いいねを押しているんだろう。


    通知の海の中に、そのDMは埋もれていた。


    アカウント名は「@okw_shinji_1982」。プレビューの文字が目に入った瞬間、グラスを置く手が止まった。


    『水辺野さん、お父さんのこと、少しだけ知ってます』


    氷が、溶けきった。


    「お客様、お代わりはいかがですか」


    「いらない」


    窓の外に視線を戻す。トーヨコの群れが動いている。あの中の誰かが父を知っている。あの中のどこかに父がいる。そう思うと、人混みが怖くなかった。怖いのは、何も見つからないまま帰ることだけだった。


    「水辺野美沙希さん、ですよね」


    隣のスツールに、いつの間にか男が座っていた。


    40代か。スーツは悪くないが、どこか時代がずれている。2000年代の歌舞伎町で止まったような、微妙なシルエット。整髪料をつけすぎた髪が、バーの照明を反射している。


    そして、香水。


    近い。距離が、近い。


    「……どちら様ですか」


    「及川といいます。及川慎司。水辺野さんのお父さんには、大変お世話になりまして」


    男は得意げに微笑んだ。まるで今から父の格言を披露するのを、ずっと待っていたような顔で。


    「お父さんがよくおっしゃってたんですよ。『人間は弱さを認めた瞬間から本物になる』って。あの言葉に、私は何度救われたか」


    口臭がきつい。


    香水もきつい。


    そして、近い。本当に近い。


    私はグラスを置いて、一センチだけ体をずらした。


    「父を、ご存知なんですか」


    「ええ、もちろん。水辺野さんのことも、ずっと見てましたよ。インスタ、いつも拝見してます。フォローしてるんです、ずっと前から」


    @okw_shinji_1982。


    フォロワー十三人の、ピントの甘い自撮り。


    「……あなたが、DMを」


    及川は嬉しそうに頷いた。父の信者というより、父の信者の取り巻きという顔で。


    「水辺野さん、お父さんのこと、知りたくないですか」


    及川の声が、少し低くなった。得意げな表情の下に、何かが透けて見える気がした。


    「……父は死にました」


    「……そう聞かされてますよね」


    私の手が、グラスの上で止まった。


    及川は続けた。まるで長年温めてきた話を、やっと吐き出せるとでも言うように。


    「水辺野さん、お父さんがよく言ってたもう一つの言葉、知ってますか。『消えることと、いなくなることは違う』って」


    氷が、また一欠片溶けた。


    父の言葉だった。間違いなく。私しか知らないはずの、食卓で何度も聞いた、あの声のトーンまで浮かぶ言葉だった。


    「……続きを聞かせてください」


    及川はまた得意げに微笑んだ。香水と口臭がまた近づいてくる。私は吐き気をこらえながら、スマホのボイスメモをそっと起動した。


    トーヨコの群れが、眼下で動いている。


    父は、あの中にいるのかもしれない。
    及川は「場所を変えてもう少し詳しい話を」と言いながら立ち上がった。
    ポケットから取り出したのは、闇金のティッシュに挟んであるチラシだった。その裏に、指定場所が書かれていた。
    及川の見た目には似つかない、綺麗で整った文字で。
    私はそれを受け取りながら、一瞬だけ考えた。
    この文字は、及川の文字じゃない。

    及川が指定した場所は、歌舞伎町から歩いて五分のホテルのロビーカフェだった。
    深夜なのに、妙に明るかった。
    大理石の床、高い天井、間接照明。ビジネスマンらしき男が一人、ノートパソコンを開いている。カウンターの向こうでバリスタが無言でカップを磨いている。
    及川は既に来ていた。
    テーブルの上にコーヒーが二つ。私の分まで頼んでいた。距離感が近い、相変わらず。
    「水辺野さん、座ってください。実は折り入ってお話が」
    私はソファに座りながら、入口の方向を確認した。
    遠巻きに、人の気配がした。
    柱の影、新聞を広げた男。清潔なスーツ、整った姿勢。新聞を読んでいるふりをしているが、一度もページをめくっていない。
    誰かはわからない。でもこの場を監視していることだけは確かだった。
    「どんな話ですか」
    「実はですね」及川は身を乗り出した。また近い。「水辺野さんに、素晴らしいお仕事のご縁がありまして」
    「聞いてます」
    「ラウンドガールのオーディションなんですが、これが普通のオーディションじゃないんです。業界の大物が審査員で、受かれば将来が約束されるというか、そのVIPの方々とのコネクションも」
    及川は得意げだった。
    及川のインスタを開いた。フォロワー十三人。投稿は散発的で、場所がバラバラだった。高級店と安い居酒屋が混在している。金回りが一定じゃない。タグ付けされた人間を辿ると、消費者金融系のアカウントが二つ引っかかった。
    「及川さん」
    「はい!」
    「これ、父に関係ありますか」
    及川の顔が、一瞬固まった。
    「いや、それは……直接は関係ないというか」
    「直接は、ということは間接的には関係ある」
    「あ、いや、そういうわけじゃ」
    及川のスマホが震えた。
    テーブルの上に置いてあった画面が、一瞬だけ光った。送り主の名前は見えなかった。でも及川の顔色が変わった。明らかに変わった。
    及川はスマホを素早くポケットに入れた。
    「失礼しました。えーと、どこまで話しましたっけ」
    「父との関係」
    「そう、そうですね。実はですね、水辺野さんのお父様も、その業界と縁がありまして。だからこそ、水辺野さんにもご縁があるというか」
    及川は汗をかいていた。
    この男は灯に動かされていると思っている。でも本当は違う。灯になりすました誰かに動かされている。その糸を引いているのが誰なのか、この時点では私にはわからなかった。でも柱の影の男が、この場を監視していることだけは確かだった。
    全部、見えていた。
    でも、利害は一致していた。
    父への手がかりが、そのオーディションの先にある。組織の深部へ近づくための入口として、このルートは使える。及川が何者に動かされていても、私には関係なかった。
    「及川さん」
    「は、はい」
    「そのオーディション、参加します」
    及川の顔が、ほころんだ。心底安堵した顔だった。
    「よ、よかった!いやー、水辺野さんならきっとそう言ってくださると思ってましたよ!お父様も喜ばれると思います」
    父は関係ない。
    でも今はそれでいい。
    私はソファから立ち上がった。柱の影を、視線だけで確認した。新聞の男は、まだページをめくっていなかった。
    「及川さん」
    「なんでしょう」
    及川のインスタ、消費者金融系のアカウントとの繋がり。金回りの不安定さ。全部、話しながら洗い終わっていた。
    「借金、大変でしたね」
    及川の顔が、固まった。

    私は微笑んだまま、ロビーカフェを出た。
    「水辺野さん、待ってください!もう少し話が」
    及川が慌てて後を追ってきた。香水と口臭がまた近づいてくる。
    「田中さんという方をご存知ですか。お父様の知り合いで、ぜひご紹介したいと思いまして」
    私は歩きながら答えた。
    「……連れて行ってください」

    第2章「新人類」


    及川に連れられて入った店は、歌舞伎町の裏路地を二回曲がった先にあった。


    看板はない。ドアは鉄製で、塗装が半分剥げている。及川が慣れた手つきでノックすると、チェーンが外れる音がして、隙間から油と出汁の混ざった匂いが漏れてきた。


    深夜二時の食堂。


    カウンター六席。テーブルが二つ。壁に貼られたメニューは手書きで、値段の単位がバラバラだった。円のものと、ドルのものと、読めない文字のものが混在している。


    「ようこそおおきにー、えらい腹ペコな顔してるやん?何でも言ってやすぐ作るしなー!」


    声だけが飛んできた。


    田中はカウンターの奥で鍋を火にかけたまま、こちらを一度も見ていなかった。


    人間か、という疑問が0.5秒浮かんだ。


    五十代か六十代か、それとも全然違う何かか。アジア系の顔立ちだが、どの国とも断言できない。背は低く、腕だけやたらと長い。エプロンの下に着ているのはアロハシャツで、柄が三種類ぶつかり合っていた。


    「……いらっしゃいませでよくないですか。何でもって言いましたよね」


    「あ、バレた?」田中はまったく悪びれずに笑った。「全員にゆうてるわ、それ。でもまぁほんまに何でも作るしな。刺身以外は」


    「何でもって言いましたよね」


    「刺身はちゃうねん。あれは鮮度がいのちやから。ワイのポリシーに反するねん」


    及川が隣で「田中さんはこだわりがあって」と補足しようとした。私は無視した。


    「田中さん」


    「なんや」


    「本名ですか」


    田中は一瞬だけ動きを止めた。それから、何事もなかったように鍋を混ぜながら言った。


    「田中でええわ」


    それ以上聞くなという顔ではなかった。聞いても無駄という顔だった。


    私はスツールに座りながら、この男が人間の範疇に入るのかどうか、まだ判断できずにいた。


    メニューの壁を見上げた。円とドルと読めない文字が混在している。


    「これ、全部作れるんですか」


    「ワイに作られへんもんはないで。刺身以外は」


    「……何か、おすすめを」


    しばらく経って、どんぶりが出てきた。何が入っているのかよくわからない。でも、匂いだけで腹が鳴った。箸を割って一口食べた瞬間、体の力が抜けた。気づいたら半分以上食べていた。


    田中は鍋を混ぜながら、独り言のように言った。


    「嬢ちゃん、腹ペコなんは胃袋だけちゃうやろ。お父さんのこと、探してるんやって?」


    箸が、止まった。


    及川が何か言おうとするのを、田中が目だけで制した。


    「まぁ座り。飯食いながら聞いたるわ。ワイ、その人のこと少し知っとるから」


    「……どこで知り合ったんですか」


    「まず、こっちから聞いてええか?あんたお父さんのこと、どこまで知っとるん?話すんはそれ聞いてから」


    田中は完全に田中ではない顔でこちらを向いた。


    さっきまでの飄々とした色が消えていた。浅黒い顔に、どこか別の国の、別の時代の空気が滲んでいる。マフィアか、組織か、それともそのどちらでもない何かか。


    私は腹を満たしながら、勢いで答えた。


    「絶対田中じゃないでしょ。マフィア?組織?」


    田中は黙った。右手が、カウンターの下で何かを握ろうとして、止まった。


    及川が固まっていた。何杯目かわからない水を持ったまま、動けずにいる。空気を読んだのか、読めなかったのか、震える声で割って入った。


    「このカレー、辛すぎじゃないですか」


    田中の表情が、一瞬で戻った。


    「あんたいつも甘口やったなぁ」


    ブハッハハ、と腹の底から笑った。さっきと同じ大声だった。でも今度は、少しだけ温度が違った。


    「まぁええわ」田中は鍋を火から下ろしながら言った。「おとうちゃんな、人がええっちゅうか……のーとにかく似合わんかった。業界に似つかわしくないっちゅうか。いつもそこ座って、あんたの話、嬉しそうにしおって」


    田中の視線が、私の座っているスツールに落ちた。


    「誰に聞かれとるかわからんで、心配やったんよ。このあたりじゃ名の通る男やったから」


    私はどんぶりを置いた。


    「いつもアイスコーヒー、氷なしでって頼むねん」田中が続けた。「そらノーアイスコーヒーやん?ほんで冷めたもんしか食わんねて。熱いうち食えっちゅーのに」


    笑いながら言っていた。


    でも笑っていなかった。


    湯気の向こうで、田中が鍋を覗き込んだ。その瞬間、首筋が見えた。


    深い切り傷だった。一本ではない。重なるように、何本も。皮膚の色が変わるほど古い傷と、まだ新しい傷が、地図みたいに刻まれている。


    私が視線を外せずにいると、田中が独り言のように言った。


    「これな、事故してついた傷やし、気にしはんなや」


    顔は鍋を向いたままだった。私が見ていたことに、気づいていた。


    それ以上でも、それ以下でもない、という声だった。次の瞬間、田中は顔を上げて、カウンター中に響くような大声で笑った。


    「ハハハッ!さぁ食え食え!冷めたら怒るで!」


    笑い声で、話が終わった。聞くな、という圧ではなかった。これ以上語る気はない、という静かな壁だった。


    「灯台みたいな男やったな」

    田中がぽつりと言った。笑い声の余韻の中に、その一言だけが静かに落ちた。


    「最初に来たんは、五年くらい前やったかな。格闘技の話ばっかりしとった。ワイも好きやから、話が合うてな。あのカウンターで何時間でも話せた」
    田中は鍋を火からおろした。
    「でもな、三年前くらいから、顔が変わってきた」
    「……どんな風に」
    「怒りと悲しみが滲み出るような顔や。試合の話をしても、上の空になることが増えた。ワイはな、客の顔を見ながら飯を作るんや。だからすぐ気づいた」
    田中は首筋の傷を、無意識に触った。
    「ある夜な、おとうちゃんが吐露したんよ。業界の裏側を知ってしまったって。金で勝敗が決まる、人が消える、夢を売り物にして搾り取る構造があるって。真っ直ぐな人間が一番傷つく類の話や」
    「田中さんは、どうしたんですか」
    「どないしたと思う?」
    田中はブハッハハ、と笑った。でも今度は大声じゃなかった。
    「飯作ったんや。熱いうちに食えって言うて。それだけや,冷めるまで食わんかったけどな」
    嘘だ、と思った。
    それだけじゃない。この男は灯の話を聞いて、裏社会の情報を集め始めた。格闘技好きの食堂のおじさんが、情報屋になった理由がそこにある。
    「田中さん」
    「なんや」
    「灯台みたいな男に、照らされたんですね」
    田中は黙った。
    鍋を磨き始めた。
    「うるさいわ、早よ食え」

    「自分は燃え続けて、周りを照らしてばかりで……自分がどこにおるかは、誰にも言わんかった」

    私は二杯目のどんぶりを受け取りながら、田中の首筋をもう一度だけ見た。あの傷は、事故じゃない。でも今夜はそれでいい。

    うざい。本当にうざい。美味いし…

    頼んでもいない言葉が、頼んでもいないタイミングで刺さってくる。私が一番求めていた光が、歌舞伎町の裏路地の、看板もない食堂の、絶対に田中じゃない田中の口から出てくる。

    眩しすぎて、痛かった。

    及川は三杯目の水を飲み干していた。

    この男より、田中の方が使える。確信した。



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    第3章「格闘技コンプレックス」


    リングの上は、思ったより狭かった。


    ROUND 2のボードを掲げながら、私は客席を流し見た。熱気と怒号が渦を巻いている。隣のファイターの汗が飛んでくる。インカムの向こうで、知らない男の声が刺さる。


    『3時の方向、スーツの男。顔を覚えろ』


    「見えてます」


    『声に出すな』


    うざい。


    ボードを下ろしながら、視線だけで3時の方向を捉えた。スーツの男、50代、腕時計が光っている。金の流れを持ってそうな顔だ。あの席に座れる人間が、この興行で何をしているのか。田中に教わった金の動き方と、目の前の光景が、少しずつ重なり始めていた。


    インカムがまたノイズを吐いた。


    『客席左、田中がうろついてる。接触するな』


    見なくてもわかる。田中の関西弁が、怒号の中でも妙に通る。心の声まで聞こえてきそうだった。何でも作るしな、刺身以外は。


    その時、視界の端に引っかかるものがあった。


    客席の中央やや右。


    浮いていた。


    怒号の中で一人だけ、妙に解像度が高かった。180センチはあるか、肩幅が異常に広い。でも顔が穏やかで、目が丸い。ノートに何かを書きながら、リングを食い入るように見ている。髪型だけが、周囲から十年くらいずれていた。


    何か知ってそうだった。


    何か使い勝手良さそうだった。


    そして、なぜか和んだ。


    インカムの声がまた入ってきた。『集中しろ』うざい。でも今だけは、あの髪型のおかげで少し冷静になれた気がした。


    ボードを掲げながら、私はもう一度だけ彼を見た。


    お守りにしては、筋肉がつきすぎている。


    ラウンドが終わった。


    観客の熱狂がピークに達して、また引いていく。

    控室は、明るかった。
    蛍光灯が白く、鏡が広く、ドレッサーの上にはコスメが並んでいる。ラウンドガールたちが思い思いにメイクを直しながら、笑い声を上げていた。

    普通の楽屋だった。
    「勝敗なんてさ」
    隣のドレッサーで鏡を見ながら、先輩ラウンドガールが言った。口紅を塗りながら、笑っていた。
    「金で買われてるって事も知らずにファイターは必死に戦って、実力で勝ったって思ってるんだから。なんだか悲しいよね」

    笑い声が上がった。
    私は鏡の中の自分を見ながら、耳だけを向けた。
    「連勝中の新人ファイターも全部裏から金とゆすりで勝ってるって話じゃん。まーね、勝敗で莫大なお金が動くとなれば、端金よね」
    「そうそう。あの子もVIPの奥様と枕で金動かして、対戦カード操作してもらったって噂あるし」
    「え、マジで?でもまぁ、そういうもんじゃない?」
    そういうもんじゃない?
    私はファンデーションを手に取ったまま、止まった。
    誰も声を潜めていなかった。笑顔だった。コーヒーを飲みながら、ネイルを確認しながら、普通の雑談として話していた。

    違法賭博、八百長、枕営業、脅迫による勝敗操作。

    全部が、この控室では天気の話と同じ温度だった。
    業界に麻痺している、というより、これが業界の常識なのだ。

    私だけが、異物だった。
    「新人ちゃんはまだ知らないことも多いよね」
    鏡越しに、目が合った。先輩ラウンドガールが、にっこりと微笑んでいた。
    「長くいれば慣れるよ。ここはそういう場所だから」
    私は笑い返した。
    笑いながら、スマホのボイスメモをそっと起動した。

    田中が言っていた。金の流れ方が普通じゃない、と。
    普通じゃないどころじゃなかった。
    この興行は、最初から全部が嘘だった…


    私はリングを降りた瞬間、我に返った。


    この衣装だ。普段着ない。体の輪郭が全部出る。楽屋の鏡で見た時から気持ちが悪かった。早くベンチコートを羽織りたい。パイプ椅子にかけておいたそれを急いで取ろうとした。


    バリンッ。


    椅子が倒れた。金属音が、怒号の隙間に響いた。


    「あら大変!怪我は無い?緊張してましたものね、はいこれ」


    声が来た。柔らかくて、高くて、どこか懐かしい。20年前から止まってるみたいな声だった。


    見上げると、肩幅が異常に広い男が屈み込んでいた。客席で見たあの髪型だ。近くで見ると、顔が思ったより穏やかだった。大きな手が、一枚の紙を差し出している。


    受け取った。


    びっしりだった。


    ラウンド中の私のポージング。重心の位置。筋肉の状態の観察メモ。そして、そこから導き出されたトレーニングメニューまで。短時間でここまで書けるのか、という密度だった。


    「心で良いよ!ちゃんと鍛えてあげる。本気なら連絡して」


    名刺が出てきた。


    派手だった。


    【寺島心 パーソナルトレーナー/ジム代表】


    厚かましいにも程がある。


    でも、気づいたら恥ずかしさが消えていた。張り詰めていた何かも、どこかへ行っていた。リングの上で温度ゼロのまま維持していた何かが、この男の声一つで緩んだ。


    「心さん……あざっす」


    なぜこの男に感謝しているのか。


    不思議な男だ。お守りにしては、筋肉がつきすぎている。

    待ち合わせ場所を聞いた時、一瞬だけ聞き間違えたと思った。

    大きなお寺と病院が並ぶ路地。歌舞伎町から歩いて十五分、別の街みたいに静かだった。
    心はすでにそこにいた。
    「びっくりしました?」心が丸い目をさらに丸くして笑った。「父は住職で、兄は病院長をしてましてね。笑」

    笑えなかった。

    「さぁ行きましょう」
    病院の中に入った。受付を素通りして、廊下を奥へ奥へと進む。白い壁が続く。案内板に載っていない扉の前で、心が立ち止まった。
    中に入った瞬間、息が詰まった。
    最新の機材らしきものが壁一面に並んでいた。無機質な防音室。でも空気が違った。重かった。肺に入ってくる量が、少ない気がした。
    「似てませんか?」
    心が言った。笑顔のままだった。
    「熱気で充満した、酸素の薄い四角い場所に」
    リングだ。
    「酸素レベルを下げているから、勝手に血液に負荷がかかっているんです。さぁ、歩いてみてください」
    「……ちょっと待って」
    全身黒いコードだらけの重いスーツを着せられた。肩に、腕に、脚に、腹に。コードが皮膚に触れる感触が気持ち悪かった。
    「さぁどうぞー♪本番をイメージして歩く、それだけだよ」
    一歩踏み出した。
    声を上げて悶えそうな電気刺激が、全身を走った。
    でも、声は出なかった。
    心は私を見ていた。データを確認するように、数値を読み取るように。「肉の塊」として捉えている目だった。下心どころか感情がなかった。あの穏やかな顔で、完全に無感情だった。
    なぜか、腹が立った。
    指示通りにウォーキングを数セットこなした。電気刺激は慣れなかった。でも慣れようとする自分がいた。
    「オッケー!これでこっちは終わりだよ」

    「……こっちは?」

    私は水浸しの床を見つめた。
    「この後はメンタルトレーニングに移るよ」
    心は笑顔のまま言った。

    場所が変わった。
    お寺だった。病院の隣、大きな門をくぐると、広い空間が広がっていた。一筋の線香の煙が、風もないのに真っ直ぐに伸びていた。
    静かだった。
    心が小さな機材を取り出した。
    「集中して、音の中にある手がかりを探るように音を分解するイメージで聴いてみて」
    笑顔で言った。
    次の瞬間、静寂が爆発した。
    リング上の熱気と怒号に似た爆音の音声が、寺の空間に流れ出した。歓声、ヤジ、拳と肉がぶつかる音、審判の声、すべてが混ざって壁にぶつかって跳ね返ってくる。
    目を閉じた。
    音を分解する。一つずつ、剥がしていく。歓声の層、怒号の層、足音の層、息遣いの層。
    パシュッ。
    「……銃声?」
    目を開けた。スパイ映画で聞いたことがある、サイレンサー付きの銃声だった。音の層の奥に、確かに混じっていた。
    心が丸い目をさらに丸くして、音声を止めた。
    しばらく、黙っていた。
    「美沙希さん」
    「……なんですか」
    「君は育ちが良いから、耳も良いのかしら?」
    煙が、真っ直ぐに伸び続けていた。

    第4章「嫌いな奴」

    インカムの声に、顔があった。


    翌日の夕方、蓮沼から連絡が来た。場所の指定だけで、理由はなかった。歌舞伎町の外れ、人通りの少ない路地の角。私は五分前に着いて、壁に背をつけて待った。


    想像よりずっと普通だった。いや、普通すぎた。清潔なスーツ、整った顔立ち、無駄のない立ち姿。でも近づくと、全部が磨かれすぎていて、どこか人間の範疇から外れている。潔癖という言葉が服を着て歩いているみたいな男だった。


    「実際に見ると、想像以上に地味なんですね」


    先制してきた。


    私は何も言えなかった。言葉が出なかったんじゃない。この男に何を言っても無駄だという確信が、瞬時に来た。


    振り絞った。


    「汚いから、近づかない方が良いかと」


    「そのようですね」


    蓮沼は微塵も動じなかった。


    「先程は一方的に指示しましたが、理解が早いようでしたので泳がせました。リングから、貴方には何が見えましたか?」


    答える前に続けた。


    「あの場所は歓声にヤジ、怒号、フラッシュに暗転。隠して動かすには都合が良い場所だと思いませんか。一人消えていても、誰も気づかないでしょう。VIPでない存在なら」


    静かだった。声量は普通だった。でも、周囲の怒号が遠くなった。


    私はこの男が嫌いだった。初めて顔を見た瞬間から、インカムで声だけ聞いていた時よりもずっと、嫌いだった。


    「……あの興行、金の動き方がおかしい」


    「続けてください」


    「客席のVIPゾーン。試合が始まる前と終わった後で、人数が変わってる。でも誰も気にしてない。歓声の中で、人が消えてる」


    蓮沼は何も言わなかった。それが答えだった。


    「……正解ですか」


    「貴方は理解が早い」


    褒めていなかった。ただ確認していた。私が使えるかどうかを、この男はずっと測っていた。


    蓮沼は視線をリングの方へ向けたまま、続けた。


    「興行のプロモーターというのは面白い立場です。表の顔と裏の顔が、同じ場所に存在できる。観客は熱狂しているから、何も見えない」


    それだけ言って、黙った。


    断片だった。でも、繋がった。


    プロモーター。表と裏。同じ場所。熱狂の中で何も見えない。


    田中の声が蘇った。


    『このあたりじゃ名の通る男やったから』


    及川の声が重なった。


    『水辺野さんのお父さんには、大変お世話になりまして』


    私は蓮沼の横顔に向かって言った。


    「父は、この興行に関わっていた」


    蓮沼は振り向かなかった。


    「貴方は理解が早い」


    答えでも否定でもなかった。でも、それが答えだった。


    蓮沼はどこか私を試していた。


    でも同時に、フィルター越しに染み出す父の残像を、少しずつ渡してもいた。そのどちらも本当だった。


    子供扱いですか。


    全部聞いてしまったら、どうなるかわからない。その気持ちまで、この男は汲み取っている気がした。


    腹が立った。


    「……あざっす」


    蓮沼は答えなかった。ただ、背を向けて歩き始めた。三歩目で振り返らずに言った。


    「次は自分から連絡してきなさい」


    消えた。


    煙たい。本当に煙たい。


    でも、父の灯火がまた少し近づいた気がした。




    画像

    蓮沼に連絡したのは、深夜だった。
    『自分から来るとは思いませんでした』
    『VIPルームに入れる機会がある。使うかどうかは貴方が決めなさい』

    それだけだった。
    私は画面を閉じて、天井を見た。
    父の名刺が、財布の奥に入っていた。使ったことはなかった。父が残した人脈、政財界に張り巡らされたパイプ。父が生きていた証明でもあった。
    これを使えば、VIPに近づける。
    でも、使った瞬間に何かが終わる気がした。
    表の人間として生きてきた軌跡が、父が作ってくれた道が、全部こっち側に染まる。引き返せなくなる。
    翌日、私は父の名刺を一枚だけ財布から取り出した。

    VIPルームは、あの時と同じ空気だった。

    黒服、インカム、足音を飲み込む絨毯。でも今夜は審査される側じゃない。私から近づく側だ。
    白髪の男が、グラスを傾けながらこちらを見た。
    70代か。スーツの仕立てが違った。腕時計が光った。この男一人で、どれだけの金が動くのか想像もできなかった。
    「水辺野灯さんのお嬢さんですね」
    また、父の名前だった。
    「ええ」私は微笑んだ。「父がお世話になっております」
    嘘だった。
    父は死んだと聞かされている。でも今夜だけは、父が生きている体で話す。父のパイプを使って、この男に近づく。
    男はグラスを置いて、値踏みするような目で私を見た。
    「灯さんは今どちらに?」
    「少し遠いところに」
    「そうですか」男は静かに笑った。「あの人は面白い人でしたよ。この業界には似合わない、真っ直ぐな人だった」
    田中と同じ言葉だった。
    でも、温度が違った。田中は哀愁で語った。この男は、品定めするように語った。
    「灯さんの娘さんなら、いろいろご存知でしょう」
    「……少しだけ」
    「少しだけ」男は繰り返した。「そうですね。今夜は、その少しだけを聞かせてもらえますか」
    グラスが差し出された。
    私は受け取った。
    笑顔を作りながら、スマホのボイスメモをコートのポケットでそっと起動した。
    父のパイプで扉を開けた。
    もう、表の人間じゃない。でも、これでよかった。父を探すためなら、生きてきた軌跡ごと染めてしまっても構わなかった。
    「……いろいろ、聞かせてください」
    私は微笑んだまま、グラスに口をつけた。

    第5章「トーヨコの爪痕」


    気づいたのは、三日前だった。


    ストーリーを上げるたびに、一番乗りで見てくるアカウントがある。フォロワーリストにない。プロフィールは空白。アイコンは真っ黒。


    @the_director_


    最初は気にしなかった。歌舞伎町界隈には変なアカウントが無数にいる。でも五回、十回、十五回と続くと、さすがに気持ち悪くなった。


    ブロックしようとした夜、DMが届いた。


    テキストはない。添付ファイルだけだった。


    開いた。


    映像だった。


    編集が、異常に精密だった。闇格闘技興行の会場、客席に並ぶ顔、VIPブースで交わされる現金、そして帳簿には絶対に載らない金の流れ。三分にも満たない映像の中に、私が三週間かけて断片的に集めた情報の、十倍以上の密度があった。


    これを作れる人間がいる。


    そしてその人間が、私を見ている。


    二通目が来た。今度も添付だけ。映像の最後の一コマに、テキストが一行だけ入っていた。


    『もっと深く潜れ。君には見える。消耗品として。』


    消耗品。


    蓮沼とは違う。蓮沼は私を守ろうとしている、そう感じる瞬間がある。でもこの言葉には、そういう温度が一切なかった。私はこの人間にとって、使い捨てられる道具だった。


    それでも、映像の精度が本物すぎた。


    切れなかった。


    金の流れを追い始めて、二週間が経った。


    蓮沼のインカム指示、田中の断片情報、@the_director_の映像データ。三つの糸を手繰り寄せると、輪郭が見えてきた。この興行は表向きの格闘技イベントではない。資金の一部が、別の場所へ流れている。どこへ。誰のために。


    あと一歩だった。


    あと一歩のところで、確信に辿り着けなかった。


    もっと深く潜る必要があった。


    蓮沼は止めた。『今夜は動くな』インカム越しに言った。田中も止めた。「嬢ちゃん、ええとこまで来とるけどな、焦ったらあかん」心からも連絡が来た。「美沙希さん、一人で行かないでください、お願いします」


    全員を無視した。


    会場の裏口から入り込んだ。関係者通路、事務所フロア、帳簿が保管されているはずの部屋。@the_director_の映像データに映っていた場所だ。


    扉の前まで来た瞬間、足音が聞こえた。


    一つじゃない。


    引き返した。非常口へ走った。鉄扉を背にして、息を殺した。


    会場裏。関係者以外立入禁止の看板が、雨に濡れて傾いている。追ってくる足音が二つ、三つ。インカムは繋がらない。蓮沼にも、田中にも、心にも届かない。


    雨の音がうるさかった。


    アスファルトを叩く音、排水溝を流れる音、どこかのトタン屋根を鳴らす音。全部がノイズになって、足音がどこから来るかわからなくなる。


    路地の奥が、暗かった。


    その暗がりが、動いた。


    人間の規格を外れた影が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。190センチはあるか。肩幅が、路地の幅を埋めそうだった。


    終わった、と思った。


    その瞬間。


    モゾモゾ。


    「ニャー」


    大男の胸元で、茶トラの猫が一声鳴いた。


    男は追手の方向を睨んだ。それだけで足音が止まった。


    「なぁお前」


    低い声だった。でも怒鳴っていない。


    「今『こんなつもりじゃなかったけど』とか思ってないか?おせーよ、もうお前完全こっち側だからなぁ……」


    猫がまた鳴いた。


    男は美沙希をチャトラ越しに見下ろし、追手の来た方向へ歩き出した。


    「行け。ここは俺が潰す」


    煙の中へ、消えた。


    名前も聞かなかった。


    でも胸元で眠っていた茶トラが、なぜかずっと頭から離れなかった。


    路地を抜けて、大通りに出た。


    雨が降っていた。


    スマホが震えた。蓮沼からだった。


    『無事ですか』


    三文字だけだった。蓮沼にしては、珍しく短かった。


    『……あざっす』


    送った。既読がついた。返信はなかった。


    トーヨコの群れが、雨の中で動いていた。


    私はずぶ濡れのまま、しばらくそこに立っていた。


    こんなつもりじゃなかった、なんて思っていない。


    でも、あの男の言う通りだった。


    もう完全に、こっち側だった。

    格闘技を始めたのは、十二歳の時だった。
    強くなりたかった。誰かを守りたかった。リングの上は正直だった。強い方が勝つ。努力した方が輝く。そう信じていた。
    50戦、全部勝った。
    引退して、興行の世界に入った。あの頃の私は、まだ何も知らなかった。
    最初に気づいたのは、金の動き方だった。
    試合の前日に、数字が変わる。オッズが動く。VIPルームで静かに笑っている男たちがいる。ファイターたちは知らない。必死に練習して、リングに上がって、勝ったと思っている。
    でも、勝敗は別の場所で決まっていた。
    怒りは、静かに積み上がった。
    爆発しなかったのは、美沙希がいたからだ。
    あの子に、この世界の裏側を見せたくなかった。明るい世界で生きてほしかった。でも明るい世界は、暗い世界が下支えしているという現実から、いつまでも目を逸らすことはできなかった。
    田中に話したのは、三年前だった。
    あいつは笑わなかった。関西弁で、ただ一言言った。
    「そら、ワイも知っとるわ。どないするん?」
    蓮沼と繋がったのは、その半年後だった。
    あの男は感情を見せなかった。でも、私の話を最後まで聞いた。それだけで信用できると思った。
    三人で、時間をかけて準備した。
    美沙希には知らせなかった。あの子を巻き込むつもりはなかった。でも蓮沼が言った。『令嬢は貴方が思うより強い』と。
    信じることにした。
    今夜、全部終わらせる。
    会場の裏口から入った。黒服が二人いた。制した。音は出なかった。廊下を進んだ。事務所のドアを開けた。
    男たちがいた。
    私を見て、立ち上がった。
    「水辺野灯」
    「久しぶりだ」
    私は笑った。リングに上がる前と同じ顔で。
    長かった。この怒りを、ここまで運んでくるのに。でも今夜、全部照らす。この暗がりに、最後の光を当てる。
    それだけでいい。
    最初の男が動いた。
    私も動いた。
    50戦無敗の体は、まだ覚えていた。

    炎が上がったのは、三十分後だった。
    証拠書類に火をつけた。燃え広がるのが、思ったより早かった。逃げ道を塞がれた。熱が来た。
    美沙希。
    炎の中で、その名前だけを思った。
    あの子が岬なら、私は灯台でいい。燃え尽きても、光が届けばいい。
    出口を探した。
    あった。
    体で扉を破った。
    外に出た瞬間、地面が来た。
    遠くで、蓮沼の声がした。


    画像

    病院の廊下は、静かだった。
    私は壁に背をつけて、立っていた。ナースステーションの向こうで、看護師が何かを話している。消毒の匂いが鼻をつく。
    美沙希が病室に入った気配がした。
    私は動かなかった。
    あの夜のことを、思い出していた。

    灯から連絡が来たのは、午前二時だった。
    場所の指定だけ。理由はなかった。私は五分前に着いて、壁に背をつけて待った。灯は約束の時間ちょうどに現れた。
    「蓮沼」
    「はい」
    「美沙希を頼む」
    それだけだった。
    私は頷いた。頷きながら、この男が今夜どこへ向かうのかを理解していた。止める方法は、いくらでも思いついた。実行できた。準備もしていた。
    でも、できなかった。
    あの夜の灯を前にして、私は全てを委ねると決めた。
    灯の姿があった。覚悟があった。50戦無敗の男が、最後の一戦に向かう顔をしていた。それを前にして、私の中の全ての計算が止まった。
    感情という魔物が、動き始めていた。
    「灯さん、もうこれで最後にする気ですか」
    「……」
    「ご令嬢は、灯さんを待っているはずです。生きて帰って来てくださらないと困る」
    困る。
    自分でも驚いた。そんな言葉が出るとは思っていなかった。元公安のエリートが、感情で言葉を選ぶなんて。左遷されてから何年も、感情を殺して生きてきた。情報を武器に、組織を泳がせ、誰も信用しなかった。
    でも、この男だけは違った。
    灯は珍しく笑った。
    「50戦無敗の俺に敗北は無いっしょ?」
    灯らしくない口調だった。背中を向けた。大きすぎる背中だった。
    私は信じると決めた。
    感情という魔物が私を食い殺そうとしていた。でも今夜だけは、その魔物に操られてもいいと思った。灯を信じること、無事を祈ること、それだけに全てを委ねた。
    「お待ちしております……お気をつけて」
    声が、わずかに震えた。
    灯は振り返らなかった。闇の中へ、消えた。

    三時間後、私は現場にいた。
    会場の裏手、煙が上がっていた。
    火だるまだった。
    人間の形をしたものが、炎の中から出てきた。倒れる寸前だった。私は走った。50戦無敗の体が、地面に崩れ落ちる前に支えた。
    重かった。
    こんなに重い人間を支えたのは、生まれて初めてだった。
    「灯さん」
    返事はなかった。
    呼吸はあった。それだけで、十分だった。
    「貴方が燃えなくても、しっかり灯ってましたよ。眩しかった」
    蓮沼は震える声を必死に抑えた。目から出るものは、煙のせいにした。
    魔物は私が思った以上に、制御に力を使う。

    救急車は呼ばなかった。マスコミに嗅ぎつかれるわけにはいかない。私が用意していたルートで、信頼できる医療チームへ直接繋いだ。元公安の情報網は、こういう時のためにある。
    病院への搬送中、私は三本の電話をかけた。
    一本目は医療チームへの追加指示。二本目は組織の残党を押さえるための手配。三本目はマスコミ各社の担当者へ、別の事件をリークした。今夜の格闘技興行の話が表に出る前に、別のニュースで埋める。
    全て、五分以内に終わらせた。
    感情という魔物は、まだそこにいた。
    でも今夜だけは、その魔物を手懐けた。灯を信じた結果がこれなら、感情を持つことも悪くないと思った。

    現在。病院の廊下。
    モニターの電子音が、遠くから聞こえてきた。
    規則正しく、鳴り続けている。
    灯台は、まだ燃えていた。それだけで十分だった。
    廊下の奥で、気配がした。
    美沙希が病室に入った。
    私は壁に背をつけたまま、動かなかった。煙たい、と美沙希は言う。そうだ。煙たくて結構だ。
    感情を見せるのは、あの夜だけでいい。
    スマホが震えた。
    『……あざっす』
    美沙希からだった。
    私は画面を閉じた。
    令嬢は、ちゃんとそこにいる。
    それだけで、十分だった。
    第6章「欲望のその先…自由の重圧」

    タクシーの窓に、雨が叩きつけていた。
    ワイパーが忙しなく動いている。運転手は無言で、カーラジオだけが車内に流れていた。

    雨のせいか、ノイズが混じっていた。アナウンサーの声が途切れ途切れになる。運転手が音量を少し上げた。
    私には、鮮明に聞き取れた。
    『先程入った速報です。都内某所の格闘技興行会場で暴動が発生。主犯と見られる男を違法賭博の容疑で現行犯逮捕しました。会場は大男が制圧したのちに姿を消しています。事件との関係を捜査中です。関係者も多くが逃走しており、周辺道路を封鎖し検問、包囲網を張って捜査を継続しております。情報提供は——』

    リクエスト曲が流れ始めた。
    運転手が鼻歌を歌い始めた。
    私はシートに背を預けたまま、窓の外を見ていた。雨が流れていく。組織が叩かれた。大男が、制圧して消えた。
    茶トラが、頭をよぎった。
    「……あざっす」
    誰にともなく、呟いた。


    病院の自動ドアの前で、私は三分間動けなかった。


    タクシーを降りた時から、足が言うことを聞かない。白い建物、消毒の匂い、面会時間を告げる看板。全部が現実だった。全部が、父がそこにいることの証明だった。


    蓮沼から住所を受け取った夜、私は泣かなかった。


    田中に電話した時も、泣かなかった。


    心から「一人で行くな」と五回言われても、泣かなかった。


    でも今、自動ドアの前に立って、足が止まった。


    生きていてほしかった。ずっとそう思ってた。でも実際に会いに行く瞬間が来たら、怖かった。


    何が怖いのか、わからなかった。


    父が変わってしまっていることか。父が変わっていないことか。それとも、全部知ってしまうことか。


    自動ドアが開いた。


    私が動いたわけじゃない。センサーが反応しただけだ。


    でも、ドアは開いた。


    私は歩いた。


    廊下が長かった。


    白い壁、白い床、白い天井。消毒の匂いが濃くなる。ナースステーションを過ぎて、突き当たりを左に曲がって、病室番号を確認して、また歩く。


    スマホが震えた。


    蓮沼からだった。


    『灯さんの件、全て片付きました。お気をつけて』


    それだけだった。


    全て片付いた。組織が叩かれた。父が命を賭けて向かっていった場所で、何かが終わった。でも私はまだ、この廊下を歩いている。


    扉の前に立った。ノックしようとして、手が止まった。そのまま、静かに開けた。


    病室は、静かだった。


    モニターの電子音だけが、規則正しく鳴っていた。


    ベッドに横たわる人間を見た瞬間、私は息が出来なくなった。


    顔がわからなかった。全身に包帯が巻かれていた。露出している皮膚は、熱で変色していた。でも、わかった。


    体の大きさで、わかった。


    あの広い肩幅。あの大きな手。私が子供の頃、世界で一番安心できた場所だった背中。


    「…………お父さん」


    声が出たのか、出なかったのか、わからなかった。


    モニターが、規則正しく鳴り続けた。


    廊下で蓮沼の声がした。看護師と話している。火だるまで脱出したところを救出した、と聞いた時、私の手が震えた。


    50戦無敗の男が、全身熱傷で生きていた。


    灯台は、まだ燃えていた。


    ベッドの脇まで歩み寄った。


    私はゆっくりと、包帯に包まれた灯の手を、両手で持ち上げた。


    大きかった。子供の頃から変わらない、大きな拳だった。熱傷の包帯越しでも、その大きさだけは変わらなかった。


    その拳が、握られていた。


    親指だけが、立っていた。


    私の喉が、詰まった。


    幼い頃の記憶が、音もなく溢れてきた。試合に勝った日、テストで満点を取った日、初めて自転車に乗れた日。灯はいつも言葉より先に、このサインを出した。私も同じサインを返して、二人で笑った。何度も、何度も。


    意識があるのか、わからなかった。


    偶然なのか、わからなかった。


    でも、繋がっていた。確実に、繋がっていた。


    「お父さん」


    声が崩れた。


    パパ、と呼んでいた。いつぶりかわからない言葉が、勝手に出てきた。


    モニターが、規則正しく鳴り続けた。


    欲しいものは、全部は手に入らなかった。


    父が生きていた。でも、失った時間は戻らない。真実を知った。でも、知る前には戻れない。組織を叩いた。でも、その先には何もなかった。


    私は今、何者なのか。


    わからなかった。


    でも、この大きな拳が、親指を立てて握られていた。それだけが、本物だった。


    これでよかったんだよな。


    「……あざっす」


    モニターが、規則正しく鳴り続けた。


    トーヨコの群れが、今夜も動いている。


    灯台は、まだ燃えていた。

    スマホが震えた。

    絶対田中じゃない田中からだった。

    『嬢ちゃん、腹減ってへんか。冷めたもん作っといたるわ。刺身以外な』

    次に今日もきっとださい髪型の心からだった。

    『美沙希さん、お父様のご容体は。何かあれば連絡してください。すぐ行きます』

    最後に、絶対どこかでこっちを見て居る蓮沼からだった。

    『令嬢、今夜はゆっくり休みなさい。明日からまた煙たくします』

    私はスマホを握ったまま、病室の椅子に座った。

    窓の外に、夜の新宿が広がっていた。

    一人だと思っていた。父がいなくなってから、ずっと一人だと思っていた。インスタのフォロワーが5万いても、誰も私の本当の重さを知らないと思っていた。いいねが増えるたびに、逆に遠くなっていく気がしていた。画面の向こうに人がいるのに、誰もいない気がしていた。

    でも今は違って見えた。

    田中がいた。

    絶対に田中じゃない田中が、歌舞伎町の裏路地の看板もない食堂で、顔も見ずに「えらい腹ペコな顔してるやん」と言った。頼んでもいない言葉を、頼んでもいないタイミングで刺してきた。鍋を磨きながら、灯台の話をした。うるさかった。本当にうるさかった。でも、あの食堂の匂いを思い出すと、胃の奥が温かくなる気がした。

    心がいた。

    髪型だけダサい心が、リングの上で倒れそうになっていた私のお守りになっていた。パイプ椅子がバリンッと倒れた時も、びっしり書かれたメモを差し出してきた。名刺まで持っていた。厚かましかった。でも、あの声が聞こえると、張り詰めていた何かが緩んだ。視界に入るだけで冷静になれる人間が、世の中にいるんだと初めて知った。

    蓮沼がいた。

    煙たくて仕方ない蓮沼が、ずっとそこにいた。インカムで指示を出して、断片を渡して、「次は自分から連絡してきなさい」と言った。嫌いだった。今も少し嫌いだ。でも、あの男が父を守ろうとしていたことを、私は知っている。父の灯火を、誰より近くで見ていた男だということを。

    孤独の底から引っ張り上げられるのは、いつだって関わった人間だけだ。

    引き上げようとしなくていい。ただそこにいてくれるだけでいい。うるさくても、厚かましくても、煙たくても。その重さが、底に沈みかけた人間の綱になる。

    私はそれを、知らなかった。

    歌舞伎町の底で、初めて知った。

    手を伸ばさなくても、そこにいてくれる人間が。

    「……あざっす」

    誰にともなく、呟いた。

    揺らいでいた何かが、静かに凪いでいった。



    ―了―



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