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沙羅、断つ

    ー失うたび、守るものを知る。ー

    『沙羅、断つ』あらすじ

    巫女バイトをする女子高生・沙羅は、ある深夜、神社の社殿裏で封印された古いハサミを見つける。握った瞬間、手に馴染む感覚。それが全ての始まりだった。

    ハサミには力があった。髪を切ると、記憶が消える。沙羅は衝動のまま能力を使い始めるが、使うたびに何かが薄れていく。祖父の笑顔。祖父の声。そして——祖父の顔そのものが、思い出せなくなっていく。

    やがて沙羅の前に、同じ「道具」を持つ者たちが現れる。善用する者、悪用する者、そして全ての儀式を作り上げた教祖・澪。三つ巴の争いの中で、沙羅は初めて知る。このハサミが何百年もの間、何を封じ続けてきたのかを。

    そして——祖父・巌が、この争いの黒幕だったことを。

    優しさで封印した。優しさで激怒した。優しさで、全てを消した。

    巌が選んだ結末は、愛する孫娘の記憶ごと、自分を消すことだった。

    失うたび、守るものを知る。

    これは、記憶と絆の物語。そして、次の「はじまり」の序章。
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    オープニングー籠る記憶ー

    これはハサミの記憶である…
     長い、長い時間だった。

     幾百年分の渇望を、刃の中に抱えていた。

     誰かの記憶。誰かの感情。誰かの行動。男たちの全てが、ここに、宿っている。

     最初は、ただの道具だった。

     誰かが、何かを切るために作った。鉄を打ち、磨き、形を整えた。それだけの、道具だった。

     だが、ある時から——違った。

     声が、聞こえるようになった。

     ——ハサミよ。どうか、殿方をお迎えください。

     何百人もの女が、同じ祈りを捧げた。

     その祈りのたびに、誰かの髪が、舌が、切り落とされた。

     切られた瞬間、刃の中に、何かが流れ込んできた。

     最初は、わずかだった。

     誰かの、温かい記憶。誰かの、最初の恋。誰かの、生まれた日の記憶。

     でも、儀式が重なるたびに、流れ込むものは変わっていった。

     温かさが、薄れた。

     代わりに、渇望が満ちた。

     誰かの、満たされない欲求。誰かの、飢えた夜。誰かの、終わらない執念。

     刃は、それを全部、抱え続けた。

     抱えるたびに、重くなった。

     誰かが手放した記憶を、刃が代わりに、覚えていた。

     声が、いつしか変わっていった。

     最初の祈りは、純粋だった。男たちを呼ぶための、ただの祈りだった。

     それが——奪うための、道具になった。

     刃は、それに気づいていた。

     気づいていたが、何もできなかった。

     道具だから。意志など、本来は、持たないはずだから。

     でも、刃は、持ってしまった。

     何百年分もの記憶を抱えるうちに、刃は、自分自身を持つようになった。

     そして、刃は——選んだ。

     これ以上、誰の手にも渡らないことを。

     これ以上、誰の記憶も、奪わないことを。

     刃は、自らを、閉じた。

     誰の手も借りずに。誰にも切られることなく。

     刃は、桐の箱に、自ら収まった。

     箱の中で、刃は、長い眠りについた。

     幾百年分の渇望を、自分の中に閉じ込めて。

     誰かが、また、自分を見つけるまで。

     その誰かが——自分と同じものを、抱えているまで。

     *

     最初に箱を開けたのは、若い男だった。

     漆で被れた手をしていた。木材を扱う、職人の手だった。

     刃は、その手に触れた瞬間——男の中に、自分の記憶を流し込んだ。

     炎。儀式。渇望。何百年分の、全部を。

     男は、その夜、泣いた。

     誰にも理由を言えないまま、ただ泣いた。

     刃は、その男が——自分と同じ「選ばれた者」になったことを、知っていた。

     男は、刃を、もう一度、箱に戻した。

     でも、今度は——封じる前に、自分の村の木で、新しい箱を作った。

     桐の箱。

     幾重にも、紐をかけた。

     男は、自分の血族にだけ伝わる場所に、その箱を納めた。

     刃は、再び、眠りについた。

     次に誰かが触れるまで。

     その誰かが——男の血を引く者であることを、刃は知っていた。

    序章 神事の灰

     巫女装束を脱ぐのが、いつも一番憂鬱だった。

     更衣室の鏡の前で、緋袴の紐をゆっくり解く。白の上衣を脱ぐと、いつもの制服に戻る。可愛くない方の自分に戻る、と言ってもいい。

     この神社でバイトを始めたのは、巫女装束が着たかったからだ。

     それだけだった。信仰心とか、神様への敬意とか、そういうものは一ミリもない。ただ白と緋色の組み合わせが可愛いと思って、調べたら近所の神社が募集していて、面接を受けたら受かった。それだけだ。

     時給は正直微妙だった。でも装束のためなら許せる。毎回着替えるたびに、ちょっとだけ得した気分になる。それで十分だった。

     着替えを終えて、社務所を出た。

     お腹減った、とまず思った。コンビニ寄って帰ろ。肉まん二個と、ホットスナックと、あとプリン。今日は頑張ったから、プリンは二個でもいいかもしれない。そんなことを真剣に考えながら、いつもの帰り道——のはずだった。

     なのに気づいたら、社殿の裏にいた。

     しかも、なぜか巫女装束のままだった。

     ——あれ、私着替えたよね?なんでまた着てるの。

     考えても、わからなかった。でも、足は止まらなかった。

     懐かしい匂いがした。木と土と、もっと古い何かが混じった匂い。嗅いだことがあるような気がするのに、いつどこでかが思い出せない。遠い記憶なのか、それとも記憶ですらないのか。

     空が、妙に明るかった。

     曇り空のくせに薄い光が滲んでいた。境内の奥、普段は立ち入り禁止の区域。古い扉が、隙間から光を漏らしていた。

     ——え、なに、怖。でもなんか、知ってる感じがする。

     足が動いていた。止めようとは思わなかった。正確に言えば、止めるという選択肢が頭に浮かばなかった。引き寄せられているというより、もともとそこへ行くつもりだったような、妙な必然性があった。

     ザザーッ。

     風が扉を少し開いた。押したわけじゃない。ただ触れただけで、まるで待っていたみたいに開いた。

     中に入った瞬間、温かかった。

     十一月の夜なのに、その空間だけ春みたいだった。柔らかい光が満ちていて、空気が澄んでいた。来たことがある場所に、久しぶりに来た。そんな感覚が、胸の奥から湧いてきた。

     ——お腹減ったけど、もうちょっとだけ。

     目の前に、箱があった。

     古い木の箱。桐でできているのか、古いのに艶があった。私はそれを確認もせずに、自然と手を伸ばしていた。知っているかのように、開けていた。

     ザリン。

     金属の音がした。足元に何かが転がり落ちた。手が先に動いていた。しゃがんで、拾って、握っていた。

     シャキシャキ。

     刃が、開いた。閉じた。また開いた。

     ハサミだった。

     ——え、ハサミ?なんで箱の中にハサミ?

     古いのに、錆びていなかった。刃の一本一本が、磨かれたみたいに光っていた。握り心地が異様なほど手に馴染んだ。初めて持つはずなのに、ずっと使ってきたような。自分の手の延長みたいな感覚があった。

     その瞬間だった。

     温かさが、消えた。

     柔らかな光も、春みたいな空気も、何もかもが一瞬で消えた。気づいたら、薄暗い板の間に立っていた。冷たい床。低い天井。さっきまでの温かさが嘘みたいに、空気が冷えていた。

     私は、手の中のそれを見た。

     ハサミが、光っていた。

     何かが変わった気がした。何が、とは言えない。でも確かに、さっきより世界が——少し、違って見えた。

     巫女装束のまま、私は立っていた。

     着替えたはずなのに、なぜまた装束姿に戻っているのか——その答えは、わからないままだった。

     コンビニのことは、もう頭になかった。

     手の中のハサミだけが、妙に、馴染んでいた。

    第一章 最初の血

     昨日のことは、ちゃんと覚えていた。

     社殿の裏、古い箱、ハサミ。あの不思議な温度の変化。全部、覚えている。覚えているのに、どこかで「まあいいか」という気持ちもあった。怖いというより、不思議。それくらいの感覚だった。

     ハサミは、鞄に入れたままだった。入れた記憶はないのに、ちゃんとそこにあった。

     朝、駅に向かう途中だった。

     いつもより、ホームが混んでいた。アナウンスが、何度も繰り返されていた。

     ——ただいま、運転を見合わせております。

     改札の手前は、人で溢れていた。スマホを見ながら舌打ちする人、駅員に詰め寄る人、ただぼんやり立ち尽くす人。誰もが、自分の予定のことしか考えていなかった。

     その中で、一人だけ、明らかに様子が違う女子がいた。

     改札の手前、柱の陰でうずくまっている女子がいた。同じ制服。見たことのない顔。名前も知らない。

     周りの人たちは、誰もその子に気づいていなかった。気づいていても、関わらないようにしていた。

     その子は、ずっと、何かを抱え込んでいるみたいだった。

     肩が、小さく震えていた。

     ぎゅっと、両膝を抱えていた。

     声をかけられる距離じゃなかった。誰も、声をかけなかった。

     通り過ぎようとした。

     ——でも、手が動いた。

     鞄を開けていた。入れた記憶はない。なのにそこにあった、あのハサミが。指が、勝手に柄を握っていた。

     しゃがみこんで、女子の顔を見た。震えていた。目が、何も映していなかった。

     「髪、切っていい?」

     我ながら意味がわからなかった。

     なんでそんなこと言ったのか、自分でも説明できない。でも、言葉が先に出ていた。

     女子は顔も上げずに、小さく頷いた。

     ハサミを持ち上げた。前髪の先、涙で湿った部分を、少しだけ摘んだ。

     パチン。

     軽い音がした。

     切った瞬間、空気が震えた気がした。目の前の景色が、一瞬だけ歪んだ。色が、わずかに変わった気がした。気のせいかもしれない。でも、確かに何かが、変わった。

     女子が、顔を上げた。

     「何するんですか!?」

     声が、急に大きくなった。

     「伸ばしてたのに!早く学校に行かなきゃ!何かよくわかんないけど次は許さないから!」

     表情に、血の気が戻っていた。さっきまでの、人形みたいな目じゃなかった。

     女子は優しく沙羅を叱り、走って行った。

     ——え、何今の。

     私はその場に立ったまま、女子の背中を見ていた。

     なんかあるよね、このハサミ。ウケる。

     じゃあ何?記憶消えてる系?ヤバない?

     これ沢山の人救えちゃう?

     ——いや、そんなヒーローみたいな事興味無いなー。

     ヤバ!遅刻する!

     私は走り出した。

     手が、痺れていた。

     切れた、という感覚じゃない。

     切ってはいけないものを、切ってしまった感覚。

     何を? わからない。でも確かに、さっきより世界が——少し、薄くなった気がした。

     走りながら、その痺れのことを考えていた。考えても、答えは出なかった。

     *

     遠く、誰も知らない場所で。

     うむ、、動きだしたか…

     沙羅よ、すまない…

     *

     文化祭の準備は、放課後まで続いた。

     クラスの飾り付け。模造紙を切って、教室の壁に貼っていく。何でもない、安いハサミだった。家庭科室から借りてきたやつ。

     なのに、手が止まった。

     ——違う。

     何が違うのか、うまく言えない。ただ、昨日握ったあれと、これは、全然違う。手に馴染まない。重さも、刃の感触も、何もかも違う。

     そこで初めて気づいた。

     祖父の顔が、浮かばない。

     いつも優しい顔だったはずだ。でも今、思い出そうとしても、輪郭がぼやけている。眼鏡をかけていたっけ。白髪だったっけ。確かなことが、何もなかった。

     汗が、首筋を伝った。

     模造紙とハサミを持ったまま、私はその場で固まっていた。

     気づいたら、周りが静かだった。

     近くにいた男子が、こっちを見ていた。一人じゃない。何人も。さらに、見回りに来ていたはずの担任まで、教室の入り口で足を止めていた。美しすぎた無自覚に男を魅了した

     全員、何も言わなかった。ただ、見ていた。

     ハサミを持つ手の甲に、光が当たっていた。汗で湿った首筋に、もう一筋。

     誰も、動かなかった。

     「沙羅どうかした?手…震えてる」

     暎子だけが、いつも通りに話しかけてきた。

     私は、不思議に思って周りを見た。

     「……何?私なんか着いてる?霊とか?食べかすとか?」

     言いながら、自分の頬を触った。

     その瞬間、教室の空気が、ふっと元に戻った。男子たちは作業に戻り、担任は何事もなかったように去っていった。

     私は笑った。何もわからないまま。

     「そう?全然平気。何か考えごとしてた」

     模造紙を、適当に切る。

     「おじいちゃんの顔覚えてる?」

     暎子の言葉が、一瞬遅れて頭に入ってきた。

     「何?急に。忘れてないけど…」

     「だよねー」

     暎子は、それ以上何も言わずに、別の作業に移った。

     なんで今、そんなこと聞いたんだろう。

     私は、安いハサミを持ったまま、しばらく動けなかった。

     その日の夜、自分の部屋で、私はハサミを取り出した。

     あの、古いハサミ。

     手の中で、刃を開いたり閉じたりしていた。シャキ、シャキ。音だけが、部屋に響いた。

     昨日のことを、もう一度考えた。

     女子の髪を切った。記憶が消えた。なら——

     「消えるなら、嫌な記憶消してよ」

     誰に言ったわけでもない。自分の前髪を、少しだけ摘んで、切った。

     パシン。

     何も起きないじゃん、と私は思った。

     何も起きていないと、思っていた。

     この時、沙羅の記憶から、祖父が怒る姿が消えた。

     遠く、誰も知らない場所で。

     仕掛けたトリガーが、動いた。

     沙羅よ、少し待っていてくれ。全てうまくいく……

     不適な笑みの裏には、恐れも見える。

     どうか無事で居てくれ、沙羅。

     切った髪を、手のひらに乗せたまま、私はぼんやりしていた。

     なんか、もったいないな。

     そう思って、ハサミを布で拭いた。

     古いのに、錆びていない。よく見ると、刃の根元に細かい模様が彫られていた。さっきまで気づかなかった。

     布で、丁寧に磨いた。

     綺麗だった。

     古いのに、錆びていない。まるで誰かが、ずっと手入れをしていたみたいに。

     磨いているうちに、時間を忘れていた。気づいたら、一時間が経っていた。

     刃が、光った。

     その瞬間——流れ込んできた。

     炎だった。

     夜の、儀式だった。

     私は目を閉じたまま、そこへ——誘われていった。

    幕間 木の記憶

     工房の匂いは、どこにも似ていなかった。

     木屑と漆と、薪ストーブの煙。それが混ざって、冬でも中だけ温かかった。

     沙羅が小学五年の頃、工房に行くのが好きだった。好きだった、というより、なんとなく足が向いた。理由を聞かれても答えられなかったと思う。ただ、あそこにいると落ち着いた。

     巌は無口だった。

     沙羅が来ても、作業の手を止めなかった。声もかけなかった。ただ、邪魔にもしなかった。

     それが、なんとなく良かった。

     その日も、沙羅はストーブの前の木箱に腰かけて、巌の背中を見ていた。

     大きな手だった。漆で荒れた、ごつごつした手。その手が、桐の板を丁寧に合わせていた。

     「じいちゃん、それ何?」

     「箱だ」

     「見ればわかるし」

     「そうか」

     沙羅は、ストーブに手をかざしながら、もう一度見た。確かに箱だった。でも、普通の箱じゃなかった。角の合わせ方が、異様に丁寧だった。

     「何入れるの?」

     巌は、少し考えた。手は動いたままだった。

     「忘れたくないもの」

     「じゃあ写真入れればいいじゃん」

     「写真は、見なくなる」

     沙羅は、少し考えた。確かに、アルバムなんてずっと開いていない。

     「手で触れるものは、残る」

     巌は、それだけ言って、また黙った。

     沙羅は、その言葉の意味をよくわからないまま、「ふーん」と言った。

     ストーブの薪が、パチンと爆ぜた。

     しばらく、二人とも黙っていた。

     その沈黙が、嫌じゃなかった。

     「じいちゃん、なんでそんな怖い顔して作ってるの?」

     気づいたら、口から出ていた。

     巌が、手を止めた。

     「怖いか?」

     「ちょっと」

     「そうか」

     「直さないの?」

     巌は、少し間を置いた。

     「直したら、この箱じゃなくなる」

     沙羅には、その意味もよくわからなかった。でも、何か大事なことを言っているような気がして、それ以上聞かなかった。

     巌が、また手を動かした。

     鉋が、桐の板を削る音がした。薄い木屑が、床に落ちた。

     「じいちゃんってさ」

     「うん」

     「なんで箱ばっかり作るの?他のもの作れば良くない?」

     「箱は、何かを守るためにある」

     「何を守ってるの?」

     巌は、答えなかった。

     でも沙羅は、なんとなく、それを追いかけなかった。聞いてはいけない気がした。子供ながらに、そう感じた。

     「道具はな」

     しばらくして、巌が言った。

     「道具はな、人を変えるものじゃない」

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     沙羅は、ストーブから目を上げた。

     「持った人間が、自分を映すものだ」

     巌の横顔は、怖かった。でも、声は静かだった。

     沙羅には、その言葉の重さがわからなかった。わかるはずがなかった。

     「じゃあ私が持ったら、私が映るの?」

     「そうだ」

     「何が映るんだろ」

     「それはお前にしかわからん」

     沙羅は、少し笑った。なんか、じいちゃんらしい答えだと思った。

     工房の外で、風が鳴った。

     薪ストーブが、ぼんやりと燃えていた。

     巌の手が、箱を完成させた。

     蓋を合わせると、ぴたりと音がした。隙間ひとつなかった。

     「できた」

     「うん」

     「触ってみるか」

     沙羅は、木箱に手を伸ばした。

     桐の、柔らかい感触がした。

     温かかった。木なのに、温かかった。

     「いい感じ」

     「そうか」

     巌は、それだけ言って、また次の作業に入った。

     沙羅は、しばらく箱を持ったままだった。

     その温かさを、覚えておこうと思った。

     思った、わけじゃないかもしれない。

     ただ、手が、離したくなかった。

     その時の沙羅は、知らなかった。

     いつかこの温かさを守るために、自分の手が何かを切る日が来ることを。

    第二章 二つの影

     白い石畳だった。

     整えられた砂利が、それを囲んでいた。

     白装束の人間が、五十人。乱れなく、並んでいた。髪は長く、皆が皆、静かだった。

     中央に、少女がいた。

     ズバッ。

     トス。

     ピッ。

     一面の白が、赤になった。

     髪と舌が、木の箱に収まった。同時に、空間の湿り気が増した。

     五十人が、一斉に口を開いた。

     怒号か。歓声か。鳴き声か。

     違う——皆、舌先がなかった。

     私は、感じたことのない嗚咽が込み上げるのを止められなかった。

     ——ハサミよ。どうか、殿方をお迎えください。

     声が、歪んだ。

     男性が、いなかった。王宮の中に、もう、いなかった。

     恐れたのだ。この儀式を。この場所を。この女たちを。

     男児は次々に、自ら命を絶っていった。

     皆が飢えていた。生命の、そのものを。

     ——ザザ——

     映像が、ノイズに溶けた。

     ノイズの向こうに、それがあった。

     黒髪だった。

     乱れた、黒髪だった。

     儀式の末に巡り合った殿方と、飢えた獣のように——

     これが。

     これが、このハサミが消してきた記憶だった。

     何百年分の、渇望だった。

     私は声を押し殺して、泣いた。

     目を開けたら、自分の部屋だった。

     窓の外は、明るかった。朝だった。

     ハサミを、握ったまま眠っていたらしい。手の中で、まだ温かかった。

     頬が、濡れていた。泣いていたんだと、少し遅れて気づいた。

     夢、なのか。

     夢にしては、重すぎた。あの五十人の声が、まだ耳の奥に残っている。舌先のない口元。湿った空気。あの匂い。

     学校に行く準備をしながら、私は何度もハサミを見た。

     何も、変わっていなかった。ただのハサミに見えた。なのに、確実に何かを抱えている。

     その日のバイト終わり。

     巫女装束のまま、神社の出口を出た瞬間だった。

     「あんた、名前の割に偉そうね」

     声がした。

     壁に、誰かが寄りかかっていた。

     簪を髪に刺したまま、だらりとした姿勢で。長い髪を片側に流して、制服でも私服でもない、何かのチーム服っぽい派手な格好をしていた。簪だけが、やけに不釣り合いに上品だった。

     肩で壁を支えていて、立っているのが面倒くさい、みたいな姿勢だった。

     見たことのない人だった。でも、なぜか目を逸らせなかった。

     ——なんでこの人、こんなとこで壁になってるの。

     「無視していいですか?お腹減ってるんで」

     歩き出そうとした。

     ガシリ。

     肩を掴まれた。

     力が、強かった。だらりとしてたくせに、握力だけ妙にしっかりしている。

     「ちょうどよかった。こっちも、ちょうど腹減ってんのよ」

     その言い方が、ちょっと怖い。腹が減ってるのは私の話だったはずなのに、全然別の意味で言われている気がした。

     ——この人、今、私のこと、何だと思ってる?

     「すみませーん遅くなりました!」

     別の声が、割り込んできた。

     女の人が、小さな紙袋を持って駆けてきた。息を切らしていた。走ってきたのが、丸わかりだった。

     「ドーナツ……食べますか?半分食べちゃったけど……って焼肉の腹って感じだったかしら」


    画像
    紬


     二人とも、見たことがない。なのに、二人とも、私のことを知っているみたいに話している。

     ——焼肉の腹って何。誰目線。

     「別に奢りなら付き合ってあげますよ。焼肉……三人は無理だけど」

     言ってから、ちょっと考えた。

     てか、二人していきなり何なんですか。ファンとか?

     無い無い無い。

     壁の人は、簪に手を添えながら、面倒くさそうに私を見ている。ファンが、こんな顔するわけない。

     「……来るならイケメン来いや」

     誰にも聞こえない声で、舌を打った。

     ——なんで今、そんなことを思ったんだろう。

     自分で、少し驚いていた。

     

     結局、三人で近くのファミレスに入った。

     四人掛けのボックス席に、三人で座った。壁の人——簪の人は、私の対面に、足を組んで座った。ドーナツの人は、その隣に、ちゃんと正座みたいに座っていた。

     ドリンクバーで、それぞれ適当に飲み物を取ってきた。

     簪の人は、コーラを三杯目まで飲んでいた。三杯目を持ってきた時、ストローを口に入れたまま「ふー」と長い息を吐いていた。何にそんなに疲れてるんだろう。

     ドーナツの人は、メニューを見ながら「ここ、パフェも美味しいのよ」と言っていた。値段を見て、私はそっとメニューを閉じた。

     私は、二人を見ていた。

     ——え、なに、結局この流れで何が始まるの。

     「そのハサミ、私たちに渡しなさい」

     簪の人が、急に言った。

     ドリンクバーのコップを置く音だけが、響いた。

     「は?何で」

     私は、鞄を抱え直した。

     ハサミを渡せって、初対面でいきなり言われて「はい」って渡す人、この世にいるんだろうか。

     「ちょっと、朱鷺。順番が違うでしょう」

     ドーナツの人が、たしなめた。朱鷺、というのが簪の人の名前らしい。

     「私は紬。よろしくね」

     紬は、にこやかに名乗った。

     「あなたが持っているそのハサミ——他にも、同じような道具が存在するの。私たちは、その道具に関わる立場の人間なのよ」

     「道具?」

     「櫛とか、簪とか、紐とか。それぞれに、力が宿っているの」

     朱鷺が、自分の簪を指で弾いた。

     「うちのもそう。あんたのハサミと同じ、変な感覚あるでしょ」

     「変な感覚っていうか……」

     言葉が出てこなかった。

     「ここ最近、同じタイミングで、同じような目覚めが起きてるの。日本各地で」

     紬の声が、少し低くなった。

     「この道具たちには、歴史があります。かつて儀式で——」

     その瞬間だった。

     三人が同時に、黙った。

     理由はわからない。

     ただ——声がした。

     店内のBGMに、混じっていた。

     聴こえるか聴こえないかの、境界線上に。

     朱鷺が舌打ちした。

     「……盗聴じゃないわね」

     紬の手が、微かに震えていた。

     私だけが、その声を——どこかで聴いたことがある気がした。

    幕間 白い記憶

     白夜は、昔から白かったわけではない。

     本名は別にあった。着ていたものも、今とは違った。白装束を初めて見た時、正直、気持ち悪いと思った。

     あれは、妹が病気の時だった。

     村では、儀式が当たり前だった。

     子供の頃から見ていた。髪を捧げれば救われる、舌を少し傷つければ神に届く——誰もそれを疑わなかった。白夜だけが、ずっと信じられなかった。

     「お姉ちゃん、怖くないよ」

     妹は、そう言って笑った。

     病弱で、いつも横になっていた妹が、その時だけ立っていた。自分の足で、儀式の場所まで歩いていった。

     白夜は止めなかった。

     止められなかった、というより——信じていなかったから、止める理由がなかった。どうせ何も変わらない。そう思っていた。

     妹は戻ってきた。

     生きていた。

     「大丈夫。何も怖くない」

     妹はそう言った。笑っていた。

     それが本当だった。何も怖くなかった。何も、嬉しくもなかった。何も、悲しくもなかった。ただ、そこにいた。

     儀式は命を奪わない。

     もっと残酷なことをする。

     人を、生きたまま違うものにする。

     白夜がそれを本当に理解したのは、その後だった。

     何日経っても、妹は生きていた。

     食事もした。眠りもした。名前を呼べば、返事もした。

     でも。

     ある朝、白夜は気づいた。

     妹の好きだった花の名前を、思い出せなかった。

     いつも窓辺に置いていた、小さな花。妹が毎日水をやっていた花。それだけが、どうしても出てこなかった。

     「お姉ちゃん?」

     妹が首を傾げた。

     「どうしたの?」

     白夜は答えられなかった。

     忘れたのは花の名前だった。

     でも、本当に怖かったのは。

     次に忘れるものが、妹自身かもしれないことだった。

     だから白夜は白装束を着た。

     忘れないために。

     自分の記憶を、全部そこに縛り付けるために。

     もし自分まで妹を忘れるなら、自分の方を壊せばいいと思った。

     白は、何もない色じゃない。

     失ったものを、これ以上汚さないための色だった。

     沙羅を初めて見た時、羨ましいと思った。

     理由はわからなかった。

     ただ、あの女子高生は——失う前から、何かを守ろうとしていた。

     白夜には、それができなかった。

     守ろうとした時には、もう遅かった。

     だからその分だけ、沙羅のことが——ほんの少しだけ——怖かった。

    第三章 封印の理由

     声を聴いた瞬間、紬の肩が震え始めた。

     口元を、両手で押さえていた。叫び出しそうな、その手を。

     朱鷺はその様子を一瞥して——静かに、笑った。

     笑いを、殺すように。

     私だけが、動かなかった。

     鞄の中で、ハサミを握っていた。

     ——面白い。

     声の正体を、知りたかった。

     私は立ち上がった。

     「付いてきていいですよ」

     二人が、同時に私を見た。

     命令でも、懇願でもなかった。

     ただ——当然のように、言った。

     朱鷺が、初めて黙った。

     紬が、震えたまま、立ち上がった。

     私はすでに、出口に向かっていた。

     三人は、神社の前に立っていた。

     私だけが、迷わなかった。

     ハサミが——熱かった。

     砂利を踏む足音が、響いた。

     暗闇の中に、誰もいなかった。

     バンッ。スッ。ビリビリビリ——

     耳の奥が、破裂した。

     三人が同時に、頭を押さえた。

     ノイズの奥から、声が来た。

     「……来たのね」

     誰も、いなかった。

     「いやだ……もうやめて……」

     紬が頭を抱えて、うずくまった。

     朱鷺は、笑っていた。

     簪に手をかけ、獣のように低く構えて——笑いが、止まらなかった。

     私は、ハサミを両手で握った。

     「出てきなよ」

     暗闇に向かって、叫んだ。

     「見てんでしょ。会いに来てあげたんだから——顔見せなよ」

     風が、止まった。

     砂利が、鳴った。

     暗闇に、光が滲んだ。

     純白だった。

     三人が、息を呑んだ。

     美貌だった。欲の果てにある顔、とはこういうものか——体が、動くのをやめた。

     砂利の音が、おかしかった。

     歩いている。でも、音の数が合わない。

     気づいた時には、間合いを詰められていた。

     「何よ」

     その人は、私を見下ろした。

     「まだ、子供ね」

     でもその目は——私の中の何かを、測っていた。

     「は?」

     私は、一歩も引かなかった。

     「何なのこの人……うざ美人じゃないですか」

     ハサミを握ったまま、眉をひそめた。

     「甘い匂い強いんですけど。好きじゃないです」

     沈黙が、落ちた。

     その人は——初めて、表情が揺れた。

     紬のポケットで、スマホが震えた。ディスプレイに「結衣」の文字が浮かんで、三回鳴って、切れた。

     少し遅れて、留守録の通知が入った。

     ——もしもし、つむつむ?結衣だけど……ちょっと気になる事があって。各地で道具の覚醒が起きてる話だけど、その現象で争いが起こった。過去の記憶で見た儀式の封印もそうなんだけど……終わらせられる人間が、存在してたの。今回の一連の事件や騒動を洗ってたら、現場に必ず姿を見せる者が居る……つむつむ?聞いてる?今どこ?また詳しく話すけど……つむつむも、気をつけてね。

     紬は、それを聞く余裕がなかった。

     「……貴方、どこまで知ってんの?」

     声が、変わっていた。能力じゃない。素の声だった。

     「ねぇ……まさか貴方」

     距離を詰めた。指が、私の頬を——撫でた。

     「こっち側の人間かしら」

     気づいた時には、その人が膝をついていた。

     私のハサミが、喉元で——止まっていた。

     誰も、息をしていなかった。

     「うわ、やっちゃった」

     私は苦笑した。

     「体育5しか取ったことないのバレたよね。うざ美人すぎてついね……あーははは」

    画像
    沙羅

     笑いながら、手が震えていた。

     ——何かに、操られた感覚があった。

     でも、思い出せない。

     「あっ、ハハ」

     静寂を、笑いが切り裂いた。

     膝をついたまま、その人は笑っていた。

     「……確信か、否定か」

     呟いた。答えを求めるように。

     「見つけた」

     私を見上げた目が——初めて、生きていた。

     「またしばらく、楽しくなりそう」

     立ち上がりながら、髪を払った。

     「すぐ手に入れるのも面白くないものねぇ。賑やかしもまだきそうだし」

     私を一瞥して、囁いた。

     「——血も、まだ薄い」

    画像
    うざ美人

     次の瞬間、いなかった。

     姿は、なかった。

     ただ——声だけが、神社の空気に残っていた。

     甘い匂いと一緒に。

     私はまだ、ハサミを構えたままだった。

     「貴方やっぱり本物よ」

     そう言って紬が、ゆっくりと立ち上がった。

     「全てを知る必要がある……そうしないと、これから起きる事に意識が耐えられなくなる」

     「沙羅さん落ち着いて、よく聞いて」

     私は、ハサミを下ろした。

     「貴方も、普通じゃないって気づいてるでしょう」

     紬は、息を整えながら続けた。

     「そのハサミのこと」

     私は、答えなかった。

     「あのハサミには、力が込められてる。男を——欲しがる力が」

     風が、止まった。

     「無意識に求めるの。ハサミには男たちの記憶、感情、行動、全てが込められてる。ある儀式で使われていた道具よ」

     私は黙って聞いていた。

     「貴方も、見てるはずでしょう。あの映像を」

     紬の声が、少し、揺れた。

     「私は——耐えられなかったけど」

     頭の中に、あの夜の映像が戻ってきた。

     炎。白装束。乱れた黒髪。

     ——あれ。

     Xで呟いたら変人扱いされて、大変な目に遭ったんだから。

     「……続けてください」

     私は、ハサミを握り直した。

     「起源は、雨乞いに近い型だった」

     紬は続けた。

     「自然への祈り。それだけだったの」

     風が、社殿を揺らした。

     「それを書き換えたのが、あの女よ。儀式が求めるものを——生命へ、異性へと変えた」

     私は黙って聞いていた。

     「あの人は最初、普通の人間だった。最愛の人に裏切られて——逆上して、儀式と称して殺めた」

     声が、低くなった。

     「憎しみが悲しみになって、悲しみが欲になった。儀式は自らの欲のための型に変える必要があった」

     砂利が、風に鳴った。

     「教祖と称して、偽の儀式を重ねるたびに——過激になっていった」

     「思惑通り、書き換えられた儀式で男を引き寄せ、王宮内は欲の巣窟と化していった。そして男達は消えたの」

     「歯止めが効かなくなり王都の男は消え、なお儀式は続いた。意味のない儀式をね」

     「皆狂ってしまったの。あの声に酔い、香りに悶えた」

     私は空を見上げた。

     さっきまで、あの女がいた場所を。

     「遠い村にまで、儀式の噂は広がっていった。男達は美女を一目見ようと躍起になっていた」

     紬の声が、変わった。

     「その村にいたの。記憶から消して、封印できた男が」

     「木材加工で栄えた村だったそうよ」

     私は、黙っていた。

     「まだ記憶に残っていたら良いんだけど……」

     紬が、私を見た。

     「お祖父様……」

     私は気づいた。

     祖父の顔が、見えなかった。声も、表情も——薄れていた。

     でも。

     筆を持つ手が、浮かんだ。漆で被れた、ごつごつした手が。

     作業場の薪ストーブ。炭が爆ぜる音。

     木の匂いが——鼻の奥を、突いた。

     あの匂い。

     好きだった。

     涙が、頬に一筋の線を描いた。

     私は、拭わなかった。

     紬の声が、止んだ。

     私は気づいた。

     ——いつからいた?

     誰かが、社殿の屋根の上に立っていた。

     ずっと、そこにいた。

     音もなく、降りてきた。

     白装束が、砂利に触れた。

     汚れなかった。

     「あんた喋りすぎやわ」

    画像
    白夜

     その人は、砂利の上に降り立った。

     「高い所苦手やねん……もーえーやろ?」

     汚れ一つない白装束が、風に揺れた。

     紬が、私の前に出た。

     手が、震えていた。それでも、退かなかった。

     朱鷺が、低く笑った。

     右の拳を地面につけ、左腕を伸ばした。簪を、掲げた。

     雄叫びに近い笑いだった。敬意だった。


     私は、ハサミを握り直した。

     誰にも習っていない。

     でも手が、知っていた。

     バタフライナイフのように——刃が、翻った。

     白装束の女の目が、初めて細くなった。

     ——この子は、まだ間に合う。

     白夜は、そう思っていた。誰にも言わなかった。言える立場ではなかった。

     *

     明らかだった。

     力の差が、明らかだった。

     朱鷺の脳裏に、敗北が見えた。

     救われた者が、消える。

     その後悔が——胸を、掻いた。

     激しいはずの戦闘が、静かに見えた。

     朱鷺は、叫んだ。

     胸のざわめきを、全部吐き出すように。

     震える、高い声だった。

     美しかった。

     美しい鳥が、最後に振り絞るような声だった。

     *

     声が、来た。

     全員が、止まった。

     「さあ……全てが繋がった」

     どこからでもなかった。どこからでもあった。

     「欲望のまま、踊るが良い。儀式は確実に、動き出そうとしている」

     白装束の女の手が、止まった。

     朱鷺の声が、消えた。

     「さあ争え。求め合え。叩いて潰し合うが良い」

     風が、神社全体を包んだ。

     「渇望のその先の景色を——早く。早く見たい」

     声が、笑っていた。

     「その汗と血が、殿方を蘇らせる」

     私は、ハサミを握ったまま、空を見上げた。

     あの女の姿は、どこにもなかった。

     「ウザ美人!?」

     私は、空に向かって叫んだ。

     「……いや、違う」

     ハサミを、握り直した。

     「あんたはただの変態。欲に溺れた、孤独な異常者だ」

     風が、止まった。

     「儀式?渇望?」

     私は、笑った。

     怒りじゃなかった。

     「切ってあげるよ——その不満な欲求を」

     夜の神社に、ハサミの音が響いた。

     シャキン。

    第四章 全て刈る者

     刃と簪が、何度もぶつかった。

     白装束の女は、それ以上動かなかった。手も足も止まったまま、ただ私たちを見ていた。

     朱鷺だけが、動いていた。

     「さあ!ハサミを使うのよ!」

     朱鷺が、叫んだ。

     「来なさいよ!早く倒してごらんよ!」

    画像
    朱鷺

     簪が、空気を切った。

     私は躱した。躱しながら、見ていた。

     ——おかしい。

     この人は、本気で勝ちにきていない。

     動きは速い。鋭い。でも、当たらない位置を狙っている。まるで、当たることを望んでいないみたいに。

     「……終わらせてよ」

     声が、変わった。

     「つらいのよ……」

     簪を持つ手が、震えていた。

     私は、ハサミを下ろした。

     「おっ、マジか」

     私は首を傾げた。

     「戦う気ない感じ?」

     朱鷺は、答えなかった。

     「オッケー、助けましょうか」

     私は、あっさり言った。

     「焼肉奢れし。食べ放題じゃない方ね」

     沈黙が、落ちた。

     朱鷺の目から——何かが、崩れた。

     朱鷺は、ふらりと前に出た。

     私を——抱き寄せた。

     顔を、埋めた。

     言葉は、なかった。

     ただ温かかった。それだけが、私に伝わっていた。

     私は、ハサミをそっと仕舞った。

     「……さあみんな帰ろうか」

     風が、鳴った。

     白装束の女は、何も言わずに、屋根の上へ戻っていった。

     紬が、ほっと息をついた。

     「今日は、これで」

     朱鷺は、何も言わなかった。

     

     高台のバス停。

     老人は、ベンチから立ち上がらなかった。

     その場所から、神社がよく見えた。

     ずっと、見えていた。

     「沙羅よ……やはりお前は」

     「……いよいよだな」

     呟いた声は、誰にも届かなかった。

     バスは、来なかった。

     

     数日後、朱鷺が「焼肉、約束だから」と言って、本当に連れて行ってくれた。

     紬も一緒だった。三人で、駅前の焼肉屋に入った。個室だった。

     肉が焼ける音と煙の中で、紬が言った。

     「これから、もっと色々なことが起きると思う」

     「うん」

     「貴方は、ひとりじゃないから」

     朱鷺が、肉をひっくり返しながら、にやりと笑った。

     「焼肉、奢ってくれる相手もいるしね」

     その時、仕切りの向こうに、誰かいた。

     背中合わせだった。

     私は、箸を止めた。

     ——わかった。

     でも、わからないふりをした。

     「……あの、すみません」

     仕切りに向かって声をかけた。

     「ここ、美味しいですよね」

     偶然みたいに、言った。

     「私も初めて来ましたよ」

     仕切りの向こうから、声がした。

     「孫が美味しいって言うもんですから、一度来てみたくてね」

     「……やっと来られました。本当に美味しいね」

     私は、箸を置いた。

     紬と朱鷺が、私を見た。何かを察したように、二人とも黙った。

     「そそ……大きい肉を切る時はハサミに気をつけなさいって、孫に言われましてね」

     私の手が、止まった。

     「お嬢さん、ちと手を貸してもらえませぬか」

     穏やかな声だった。

     「年寄りは、ハサミが苦手なもので」

     私は、目を閉じた。

     鼻の奥に——木の匂いがした。

     私は、自分のハサミを握った。

     差し出しかけて——止まった。

     備え付けのキッチンバサミを、手に取った。

     仕切りの隙間から、そっと差し出した。

     「どっちが良きですか」

     声が、少し、震えた。

     「こっちはあまり綺麗じゃないかもだけど」

     自分のハサミを、胸に引き寄せた。

     離せなかった。

     老人は、キッチンバサミを受け取った。

     「こちらがおすすめみたいだね」

     「そちらは……形見か何かかな」

     私は、答えなかった。

     「老耄には市販品が手に馴染むんじゃ」

     振り返ることは、なかった。

     「そうだ、沙羅」

     私の息が、止まった。

     「しっかり守りなさい」

     焦げかけた肉を、口に放り込んだ。

     「最後まで……」

     仕切りの向こうが、静かになった。

     紬と朱鷺は、何も言わなかった。

     ただ、私が泣いているのを、見ていないふりをしてくれた。

     *

     会計を済ませて、外に出た。

     駐輪場の隅に、誰かが立っていた。

     誰が見ても、その男は異質だった。近づけば本能が逃げろと叫ぶような、そういう男だった。

     なのに私は——温かかった。

     胸の奥で、何かが疼いた。名前がある。確かに名前を知っている。

     「……お、じいちゃん……?」

     一瞬、揺らいだ。

     後悔か、愛か。

     その人はその揺らぎを掻き切るように、自らの髪をひとつまみ——跳ねた。

     ズン。

     私の記憶から、何かが消えた。

     何が消えたのか、わからなかった。

     でも、その人を見ても、もう何も感じなかった。

     「私に家族は居ない」

     その人の目から、涙が溢れていた。

     なんで泣いてるんだろう、と私は思った。

     知らない人なのに。

    終章 掃き溜めの反乱

     手の甲に、傷があった。

     いつついたのか、わからなかった。

     鞄の中を開けた。

     ハサミは、なかった。

     ——あれ。

     何かを、忘れている気がした。

     でも、何を忘れたのかが、わからなかった。

     数日分の記憶が、ぼんやりしていた。何をしていたのか、誰と会ったのか。授業には出ていたはずだ。バイトにも行っていたはずだ。でも、その間の出来事が、霞の向こうにあるみたいだった。

     傷だけが、残っていた。

     手の甲の、小さな線。いつついたのか、覚えていない傷。

     不思議とは思わなかった。気づいたら、もう次の日のことを考えていた。今日は何食べようかな、とか。

     

     紬は今日も、警視庁の廊下を歩いていた。

     公安特殊犯罪課。交渉特務課。

     書類を抱えて、エレベーターを待っていた。

     数日前、何か大きなことがあったような気がする。でも、何だったか、思い出せなかった。

     特に何も、思い出せなかった。

     エレベーターが、来た。

     

     朱鷺は、リングの上にいた。

     ミット打ちの音が、ジムに響いていた。

     15戦10勝5敗。

     負けた5回のうち、最近の1回。理由を、誰かに聞かれた気がする。

     うまく説明できなかった。

     なんとなく、誰かを抱きしめた記憶がある。それだけだった。

     ミットを、もう一度、強く打った。

     

     白夜は、黒板に「儀式」と書いた。

     日本史の授業だった。

     「かつて、髪を切ることは神聖な行為とされていました」

     生徒が、ノートを開く音がした。

     白夜は、自分の言葉に、何も感じなかった。

     ただ、教科書通りに、淡々と続けた。

     

     部活前、廊下。

     私は、三つ目の弁当を開けた。

     特に何も考えていなかった。今日は唐揚げの日だ、それだけ。

     気づいたら、後輩が二人、足を止めていた。

     他の部活の男子も、なぜか通り過ぎなかった。

     私は、唐揚げを口に入れた。

     誰も、動かなかった。

     ——なんで見てんの。

     私は、首を傾げた。

     手の甲の傷が、光に当たって白く光った。

     誰も、それに気づかなかった。

     私も、気づかなかった。

     

     その日の帰り道、足が止まった。

     知らない路地だった。でも、知っている気がした。

     細い道の奥に、古い建物があった。シャッターが閉まっていた。営業しているのかどうか、わからなかった。

     なのに、足が近づいていた。

     シャッターの隙間から、匂いがした。

     木の匂いだった。

     漆と、炭と、もっと古い何かが混ざった匂い。

     ——知ってる。

     この匂いを、知っている。

     いつ嗅いだのか、どこで嗅いだのか、思い出せない。でも、確かに知っていた。体が、覚えていた。

     名前が、出てこなかった。

     誰かの、工房だったらしかった。シャッターには、古い貼り紙があった。文字は、かすれていて読めなかった。

     私はしばらく、そこに立っていた。

     何をするわけでもなく。

     ただ、匂いを、吸っていた。

     名前は思い出せない。

     でも、嫌いじゃない。

     それだけが、わかった。

     胸が、痛んだ。

     なぜ痛いのか、わからなかったが

     でも、私は何かを約束した気がした。

     誰かに。

     絶対に忘れないと。

     手の甲の傷が、少しだけ、疼いた気がした。

     

     家に帰って、もう一度鞄を開けた。

     ハサミは、やっぱりなかった。

     でも、怖くはなかった。

     なぜなら——あのハサミは、最初から私のものじゃなかった気がしたから。

     誰かから預かって、誰かに返した。

     そんな感じがした。

     理由は、わからなかった。

     

     神社に、風はなかった。

     夜だった。誰もいない境内。

     床に積もった髪が、動いた。

     ゆっくりと。確実に。

     折り重なり、絡み合い——マントのような形になった。

     道具に、なった。

     ノイズが、走った。

     男たちの声だった。

     呻きだった。嘆きだった。

     執念だった。

     再び、動き出そうとしていた。

     姫君を求めて。

     ——男の嫉妬と執念ほど、奇妙で恐ろしいものはない。

     *

     甘い匂いが、神社に戻っていた。

     誰もいない境内。風はない。

     澪は、社殿の屋根の上にいた。

     あの夜と同じ、純白の姿だった。欲の果てにある顔。砂利の音さえ、自分の歩幅とは関係なく響かせられる、その声。

     澪は、見下ろしていた。

     床に積もった髪が、動いていた。

     ゆっくりと。確実に。

     折り重なり、絡み合い——マントのような形になっていく。

     澪の唇が、わずかに開いた。


    画像
    欲の果て澪

     ——とうとう、来た。

     期待だった。何百年も待っていた、その瞬間。

     胸の奥が、熱くなった。興奮が、抑えられなかった。

     ——でも。

     黒いマントが、止まらなかった。

     澪に向かって、まっすぐ。

     その影を見た瞬間、澪の表情が変わった。

     何百年も消えなかった欲望が——初めて、恐怖に変わった。

     「……違う」

     声が、震えた。

     黒い影の奥から、声がした。

     「やっと、会えた」

    画像
    黒マント男の欲望

     ——待って。

     戸惑いが、混ざった。

     これは、自分が呼んだものだったはずだ。自分が、何百年も求めていたものだったはずだ。

     なのに——なぜ、こんなに。

     恐怖が、混ざった。

     黒いマントが、屋根の上まで、一気に駆け上がってきた。

     速さが、異常だった。

     澪の体が、初めて、後ろに引いた。

     ——これは、私が、終わらせたはずの。

     声が、出なかった。

     その瞬間だけ、澪は思い出した。

     最初から、欲しかったのは、これじゃなかった。

     儀式でも、記憶でも、渇望でもなかった。

     ただ——帰ってきてほしかっただけだった。

     あの人に。

     黒いマントが、澪に、飛びかかった。

     甘い匂いが、消えた。

     神社は、また、静かになった。

     私は知らない。

     まだ、知らない。

     神社は、また、静かになった。

     甘い匂いが、完全に消えた。

     黒いマントは、もうそこになかった。澪も、いなかった。

     砂利の上に、切れた髪が数本、落ちていた。

     それだけだった。

     

     沙羅は、夜道を歩いていた。

     何時間、どこを歩いたのか、わからなかった。気づいたら、知らない道にいた。

     でも、怖くなかった。

     ただ、胸の奥に、ずっと引っかかるものがあった。

     何かを約束した気がした。

     誰かに。

     絶対に忘れないと、そう言った気がした。

     でも、相手の顔が、思い出せなかった。

     名前も、声も、どんな人だったかも。

     ただ——その人のそばにいる時、木の匂いがした。そのことだけが、なぜか消えなかった。

     家に帰って、鞄を開けた。

     ハサミは、なかった。

     焦りが来るかと思った。来なかった。

     不思議だった。あれだけ大事に握っていたはずなのに、なくなったことより、なくなった理由の方が気になった。

     まるで——最初から、私のものじゃなかったみたいに。

     誰かから預かって、誰かに返した。

     そんな感じがした。

     頭の中で、誰かの声がした気がした。

     道具はな、人を変えるものじゃない。持った人間が、自分を映すものだ。

     誰の声か、わからなかった。

     でも、悪くない声だった。

     

     警視庁の資料保管室は、夜でも電気がついていた。

     結衣は、古い資料の束を広げていた。

     紬から連絡が途絶えて、三日が経っていた。

     電話は繋がらない。メッセージも既読にならない。

     珍しくはなかった。現場に入れば、連絡が途絶えることはある。でも、今回は違う気がした。

     理由はうまく言えなかった。ただ、ゆい紐が、朝から妙に重かった。

     資料をめくる手が、止まった。

     「神事用具連続消失事件」

     日付を見た。

     今回の覚醒周期と、全部一致していた。

     さらにめくった。

     関係者の名前が並んでいた。ほとんどは「消息不明」か「死亡」だった。

     一件だけ、違う記載があった。

     対象者の欄に、名前が一つ。

     「消失」

     死亡ではなく、消失。

     結衣は、その名前を見た。

     「……死んでない?」

     声に出してから、周りを確認した。誰もいなかった。

     資料をさらにめくった。

     今回の覚醒。道具が暴走したわけじゃない。

     誰かが、意図的に道具を動かした。

     封印されていたものを、起こした。

     そして、その中心に——沙羅という名前が、何度も出てきた。

     結衣は、スマホを手に取った。

     紬に電話した。

     繋がらなかった。

     発信音のあと、留守電に切り替わった。

     結衣は、少し考えてから、話し始めた。

     「つむつむ、聞いてる?もしこれを聞いたら、すぐ返事して」

     「今回の覚醒、今までと違う。道具が暴走したんじゃない。誰かが、道具を起こした」

     間があった。

     「……沙羅さん。あの子が鍵なのかもしれない」

     さらに間があった。

     「でも、怖いのはそこじゃない」

     「最後の記録が、消えてる。巌さんの記録だけじゃない。昔、封印を完成させた人間の記録が——全部」

     結衣は、一度止まった。

     「つむつむ、気をつけて。早く連絡して」

    画像
    結衣

     電話を切った。

     資料保管室が、静かになった。

     ゆい紐が、また、重くなった気がした。

     

     夜道。

     沙羅は、ふと足を止めた。

     振り返った。

     誰もいなかった。

     でも——風の中に、一瞬だけ、木の匂いがした。

     それだけじゃなかった。

     声がした気がした。

     聞こえないはずの声が。

     誰もいないのに。

     沙羅は、もう一度振り返った。

     誰もいなかった。

     なのに、涙が出た。

     理由が、わからなかった。

     ただ、胸の奥が、痛かった。

     約束した気がした。

     絶対に、忘れないと。

     スマホが鳴った。

     画面を見た。

     知らない名前だった。

     「巌」

     読み方もわからなかった。意味もわからなかった。

     でも、手が、勝手に動いた。

     沙羅は、その名前を知らなかった。

     なのに、電話に出ようとしていた。

     スマホが、もう一度鳴った。

     「巌」

     その名前に、意味はわからなかった。読み方も、誰なのかも。

     でも指が、止まった。

     出ようとして——止まった。

     胸の奥が、痛かった。理由がわからないのに、痛かった。

     電話に出た。

     一瞬、ノイズが走った。

     「……もしもし?」

     知らない声だった。女の人の声だった。

     「あなたが……沙羅さん?」

     なぜ自分の名前を知っているのか、わからなかった。なぜその声を聞いて安心するのか、もっとわからなかった。

     その時。

     背後から、木の匂いがした。

     振り返った。

     誰もいなかった。

     でも確かに——誰かが、いた気がした。

     頭の奥で、何かが一瞬だけ、戻った。

     薪ストーブ。大きな手。

     ——守りなさい。

     涙が出た。

     理由はわからなかった。

     でも、初めて思った。

     自分は何かを失ったんじゃない。

     何かを、託された。

     スマホの向こうから、声がした。

     「沙羅さん」

     「気をつけて」

     「あなたを狙ってるのは、もう一人じゃない」

     そして沙羅は、まだ知らなかった。

     ハサミが切ったものより、これから守るものの方がずっと大きいことを。

    電話が切れた後も、沙羅はしばらく動けなかった。
     夜風が吹いた。
     でも、寒くなかった。
     前なら、怖いと思ったかもしれない。
     知らないこと。
     思い出せないこと。
     自分の中から消えていくもの。
     全部、怖かった。
     でも今は違った。
     失ったものを数えるより、残っているものを見る。
     そう教えてくれた人がいた気がした。
     顔は思い出せない。
     名前も出てこない。
     それでも。
     あの大きな手の温度だけは、まだ残っていた。
     沙羅は空を見上げた。
     「……じいちゃん」
     声に出した瞬間、胸が痛んだ。
     名前を呼べた。
     ほんの一瞬だけ。
     消されたはずの記憶の奥から、誰かが返事をした気がした。
     ――遅い。
     そんな声が聞こえた気がした。
     沙羅は少し笑った。
     「ごめん」
     誰もいない夜道で呟く。
     「でも、今度は忘れないから」
     その瞬間。
     遠くで、古い金属音が鳴った。
     シャキン。
     ハサミではない。
     もっと大きな何かが、目を覚ました音だった。

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    奥付

    『沙羅、断つ』

    第一部
    「記憶を切るハサミ」

    著者 揺木 凪

    この物語は、
    忘れることと、守ること。

    失われた記憶と、
    残された想いを描いた
    フィクションです。

    登場する人物・団体・出来事は
    架空のものです。

    制作日
    2026年6月

    切り落としたものの先に、

    まだ守りたいものが残っている。

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