
幸せになることへの後ろめたさってある
満開に咲く桜は、自分に正直だ。自分の生き様を愛している。そういった姿がとても眩しい。
幸せになることへの後ろめたさは、私の中に確かにあるように思う。自分が幸せになっていいのか、そんな思いが私の惰性とうまく絡み合いながら私を侵食していく。
誰かの許可がほしいのかもしれない。神のような何か、私の過去も未来も全て知っている何かからの、絶対的で揺るがない赦しがほしいのかもしれない。
だが実のところ、よく分からない。ただ楽していたい、何もしたくないから、この「幸せになることへの後ろめたさ」をつくり出し、言い訳にしているのかもしれない。
人間は、常に自分の幸せを志向するようにできているように思う。だが、この「幸せ」とはいかなる幸せか。何を含んで何を含まないのか。そして、この志向は妨げられうるのか。
楽することも努力することも、私にとっては確かに「幸せ」である。だが、どちらも「幸せ」であるとともに「苦」の要素も幾ばくかはもっているように感じる。私の場合、楽をすることの幸せは、今や苦に変わってしまっている。いや、幸せ自体がそれに変化したというよりも、私の感情の置き場所を譲ったとの表現の方が正しいだろう。私は、数年前に自分に誓った「自分は幸せになってはいけない」との思いを従順に遂行しようとしているのかもしれない。
何年か前に薬を飲み始めてから、自分の幸せを否定する考えはだんだんとその力を弱めていった。
だが、自分が自分の幸せを願っていいのか、まだよく分からない。自分で結論づけるのがとても怖い。
けれども、否定の考えが小さくなった先には、大きくなり始めた肯定の考えがあった。
幸せになりたいと思う。何か努力したいと思う。
だから、始めてみてしまった。何か言葉に起こしたい衝動に駆られて。私も桜のように自分の人生を愛したいんだ。