
名前が世界をつくる 第6話
名前が世界をつくる
誰かに呼ばれたような気がする。
そんな感覚につつまれながら、しゅりは目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
何かが特別に変わったわけではない。
しゅりはベッドを抜けると、机の上に視線を向けた。
机の上には昨日広げたノートがそのままになっていた。
名前を呼ぶこと。
名前を知ること。
名前をつけること。
その違いが、まだはっきりとわかったわけではなかった。
けれど、自分の気持ちが少し形になったような感覚があった。
リオ。
ヒカリ。
その名前を心の中で呼ぶと、朝の光が少しだけ揺れたような気がした。
けれど、返事はなかった。
「……そっか」
しゅりは小さくつぶやいた。
寂しいとは思わなかった。
声が聞こえなくなったのではない。
遠くへ行ってしまったのとも、少し違う。
ただ、問いかけるたびに返ってくる場所が、変わったのだと思った。
外からではなく、内側から。
言葉になる前の、静かな場所から。
しゅりは机の上のノートをぱたんと閉じると、軽く息を吐いた。
よし。
今日も、お弁当に卵焼きを入れよう。
そう思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
しゅりはもう一度だけ机の上を見てから、部屋を後にした。
キッチンにいるのは、いつものようにしゅり一人だった。
でも不思議と、今朝はそれを寂しいとは思わなかった。
しゅりは冷蔵庫から卵を取り出すと、小さなボウルに割り入れた。
菜箸で混ぜる音が、朝の台所に控えめに響く。
以前なら、うまく巻けるかどうかばかり気にしていた。
焦げないように。
崩れないように。
ちゃんと形になるように。
でも今日は、少しだけ違っていた。
ちょっと焦げていたって、これは自分がつくったものだと思えた。
フライパンの上で、卵がやわらかく固まっていく。
濃い黄色が、少しずつやわらかい黄色に変わっていく。
卵焼きの黄色は心が落ち着く。
今日もふんわりと卵焼きが仕上がった。
「……うん」
小さくうなずいて、しゅりは卵焼きをお弁当箱に詰めた。
学校へ向かう道の景色は、昨日までと同じだった。
横断歩道でふと立ち止まると、猫が軒下で丸くなっていた。
きっと、昨日話題になった猫とは違うだろう。
でも、なんだか同じ景色を見た気がして、自然と笑みがこぼれた。
ちょっとだけ、自分みたいだ。
いつもと同じ景色なのに、少しだけはっきり見える。
そのことが、今朝のしゅりには不思議とうれしかった。
教室に入ると、いつものざわめきが耳に届いた。
その音は、やっぱり少し遠かった。
自分のそばで鳴っているのに、一枚、空間を挟んでいるような気がした。
けれど今日は、その中から聞きたい声を探している自分がいた。
亜美さんの声。
そう思った瞬間、教室のざわめきの中から、いくつかの声が飛び込んできた。
「亜美ならできるって」
「お願い、亜美ちゃん」
「私たちもちゃんと手伝うし」
しゅりは思わず、声のする方へ視線を向けた。
そこには、クラスメイトに囲まれている亜美さんがいた。
亜美さんは、いつものように笑っている。
けれどその笑顔は、ほんの少しだけ曇って見えた。
「うーん、どうしようかな」
亜美さんは軽く笑いながら、まだ下ろしていない鞄を持ち替えた。
その笑顔を見たとき、しゅりは秘密の場所で聞いた亜美さんの言葉を思い出した。
でもね、私にもやりたいことはあるの。
あのときの声は、今よりも少しだけ小さかった。
けれど、今の笑顔の奥にあるものと、同じ形をしている気がした。
気が付くと、しゅりは席を立っていた。
立ち上がった時に引いた椅子の音が甲高く響く。
「亜美さん」
その瞬間、教室の中にいる全員の視線が自分に注がれた気がした。
……ううん。構わない。
「……おはようございます」
出てきたのは、普通の言葉だった。
もう少し何かなかったのかと、恥ずかしくなる。
亜美さんは目を丸くしたあと、ふっと目を細めて笑った。
ほっとしたようなその表情は、今朝見かけた猫に少し似ていた。
「おはよう、しゅり」
その声を聞いた瞬間、教室のざわめきの中に、自分の立つ場所が少しだけできた気がした。
「ごめん、ちょっと鞄置いてくるね」
亜美さんはそう言って、しゅりの方へ歩いてきた。
すれ違いざま、亜美さんはしゅりに小さく声をかけた。
「ありがとう。またあとでね」
その言葉は、朝のざわめきの中にすぐに溶けていった。
けれど、しゅりの胸の中には、しばらく小さく残っていた。
昼休みのチャイムが鳴ってすぐ、しゅりは屋上へとつながる階段の踊り場にいた。
下の階から、机を動かす音や、笑い声がいくつも重なって聞こえてくる。
その音は遠くて、けれど今朝ほど冷たくはなかった。
しゅりは手すりのそばに立って、窓の外を眺めた。
澄んだ青空が広がっていた。
秘密の場所。
亜美さんと二人だけの場所。
今朝から、ひとつの言葉が胸に残っていた。
名前を呼ぶこと。
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。
「しゅり」
顔を上げると、亜美さんが立っていた。
「ここにいると思った」
亜美さんはそう言って、しゅりの隣まで上がってくる。
手には、いつものお弁当袋を持っていた。
「さっきは、ありがとう」
さっき。
とっさにしゅりは下を向いた。
「……私、何も言えていないよ」
名前を呼んで、挨拶をしただけ。
もっと気の利いたことを言えたわけでもない。
亜美さんを助けられるような、強い言葉を持っていたわけでもない。
けれど、亜美さんはゆっくりと首を横に振った。
「ううん、呼んでくれたから」
「……名前を呼んだだけだよ?」
「だけ、じゃないよ」
亜美さんはそう言うと、窓の外に目を向けた。
青空の下を、薄い雲がゆっくりと流れている。
「名前を呼ばれるとね、少しだけ戻ってこられる気がするの」
しゅりは、亜美さんの横顔を見た。
その言葉が、今朝から胸に残っていた言葉と重なる。
名前を呼ぶこと。
今の亜美さんの言葉で、わかったような気がした。
「朝の、あれ……」
しゅりがそう言うと、亜美さんは肩をすくめた。
「合唱コンクールのクラス実行委員だよ」
あ。
廊下に貼ってあった、あのポスターだ。
「ついこの間、文化祭の実行委員長の仕事もようやく片付いたのに……」
「そっか」
「あと、私、あまり歌は得意じゃないの」
亜美さんは軽く笑い飛ばすようにつぶやき、ふっと息を吐いた。
「でも、頼まれるんだよね」
亜美さんは目を閉じ、何かを考えていた。
「今までの私なら、きっとそのまま引き受けていたかな」
静かな間が流れた。
「頼まれるのが、嫌なわけじゃないの」
亜美さんはゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「必要とされるのは、うれしい。できるって思ってもらえるのも、たぶん、嫌じゃない」
「……うん」
わかる気がした。
「でも……」
その先の言葉を探すように、亜美さんは窓の外へ目を向けた。
「私自身がやるって決める前に、もう私がやることになっているときがあるような気がするの」
しゅりは黙って聞いていた。
その言葉は、朝の笑顔の奥に見えた色と同じ色をしていた。
「……亜美さんは」
しゅりは迷ってから、口を開いた。
「やりたいの?」
亜美さんが、ゆっくりとこちらを見る。
その問いは、きっと特別なものではなかった。
けれど、亜美さんの名前に寄りかかっていたたくさんの期待を、少しだけ脇へよける言葉のような気がした。
「わからない」
しゅりは意外に思った。
「でも、やるなら、私がやるって決めてからやりたい」
亜美さんは、そう言ってから、小さく笑った。
「結局は同じことかもしれないけれど、勝手に決められるのと、自分で決めるのでは、たぶん違うから」
「……うん」
しゅりはうなずいた。
それは、少しだけわかる気がした。
自分とも重なる。
同じ場所にいても、そこにいる理由を自分で知っているかどうかで、見える景色が変わる。
同じ名前で呼ばれても、その名前を自分で受け取れるかどうかで、呼吸が整う。
「亜美さんが、決めていいと思う」
しゅりは、ゆっくりと言った。
言ってから、自分の言葉だと初めて気が付いた。
卵焼きの黄色がふんわりと自分の中に広がっていく。
こんなふうに誰かに言葉を渡すことに、まだ慣れていなかった。
亜美さんはしゅりを見つめ、やがてゆっくりと笑った。
「うん。ありがとう」
その声は、朝よりも少しだけ、亜美さん自身の色をしている気がした。
「……たぶんね」
亜美さんは、小さく息を吐きながら、続けた。
「頼まれるのが嫌なんじゃないんだと思う」
「うん」
「私の名前だけが先に行っちゃうのが、少し苦しいのかも」
しゅりは、その言葉を胸の内で繰り返した。
亜美さんの名前だけが、先に行く。
亜美ならできる。
亜美ちゃんなら大丈夫。
亜美に頼めば何とかなる。
「……置いていかれる感じ?」
しゅりがそう言うと、亜美さんは少し驚いたようにこちらを見た。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「うん。そうかもしれない」
その声は、さっきよりも落ち着いて聞こえた。
「私が嫌だったのは、頼られることじゃなくて、私の気持ちだけが置いていかれることだったのかも」
その言葉が形になった瞬間、階段の踊り場の空気が澄んだような気がした。
しゅりは、何も言わずに静かにうなずいた。
亜美さんの中にあった名前のない気持ちは、今、少しだけ形を持ったのだと思った。
二人は、いつものように階段に並んで腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
階段の踊り場には、昼休みのざわめきが遠くから届いている。
教室では、もうお弁当を広げている頃だろう。
亜美さんは小さく息を吐くと、手にしていたお弁当袋を膝の上に置いた。
「……お昼、食べよっか」
その言い方があまりにもいつも通りで、しゅりは安心した。
「うん」
しゅりも鞄の中からお弁当箱を取り出す。
包みをほどくと、朝つくった卵焼きの黄色が、ふわりと目に入った。
しゅりはその黄色を見て、さっき亜美さんに渡した言葉のことを思い出した。
まだ、上手ではない。
きれいに巻けているのか、ちゃんと届いたのかは、わからない。
でも、自分でつくったものを誰かに差し出すことはできる。
卵焼きも、そして、言葉も。
そう思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
「今日も卵焼き、入ってる」
「……うん。今日も上手にできた、かな」
しゅりはそう言いながら、お弁当箱を亜美さんのほうへ少し傾けた。
亜美さんは、卵焼きを一つ口に運んだ。
「おいしい。なんか、しゅりっぽいなって」
「……ありがとう」
自然と、言葉が出た。
食べ終えたお弁当箱を片付けていると、亜美さんが話し始めた。
「まだわからないけど、放課後にちゃんと話してみる」
「うん。それがいいと思う」
窓から差し込む光が柔らかく揺れたような気がした。
放課後の図書室。
いつもと同じ静かな空間。
お気に入りの席に着き、鞄を机の上に置く。
手元に目を落とすと、ぬいぐるみがちょこんと座っていた。
しゅりはそれを確認してから、ゆっくりと目を閉じた。
朝の猫。
教室のざわめき。
集まる視線。
卵焼きの黄色。
そして、亜美さんに渡した言葉。
ひとつひとつは違った色や形をしている。
けれど、静かに重なり合うことで、意味のある形になっていく。
それは、誰かが答えを教えてくれるような感覚ではなかった。
もっとゆっくりと、自分の内側から浮かび上がってくるような感覚だった。
リオ。
心の中で、そっとその名前を呼んでみる。
けれど、返事はなかった。
ヒカリ。
もう一度、呼んでみる。
すると、幼いころの夕方の景色が、途切れ途切れに浮かんできた。
誰もいない居間。
カーテンの隙間から床へ伸びていた、細長い光。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえていた。
しゅりはその光のそばに座り、その日にあったことを一つずつ話していた。
うまく言葉にできないときも、その光は急かさず、ただそばで揺れてくれた。
いつから、光の向こうにいる気配をヒカリと呼ぶようになったのだろう。
きっかけも、何を話していたのかも、もうよく覚えていない。
ヒカリがどんな姿をしていたのかも、今ははっきりと思い出せなかった。
それでも、名前を呼んだとき、一人ではないと思えたことだけは覚えている。
あの頃のぬくもりは、今も胸の奥に残っていた。
窓から差し込む夕日の光が、机の上をオレンジ色に照らしている。
けれど、声は聞こえない。
しゅりは静かに息を吐いた。
声が聞こえないことと、そこにいないことは、同じではない。
そう思ったとき、図書室の扉が開く音がした。
「しゅり」
名前を呼ばれて振り返ると、亜美さんが立っていた。
「ここにいると思った」
亜美さんはそう言って、しゅりの隣まで歩いてきた。
「合唱コンクールのこと、話してきたよ」
「……どうだった?」
「まだ決められないから、少し考えさせてって」
亜美さんは照れたように小さく笑った。
「ちゃんと待ってくれるって」
「そっか」
しゅりは、自分のことのようにほっとした。
「隣、いい?」
「うん」
しゅりは隣の椅子を引いた。
亜美さんが腰を下ろすと、机の上の光がほんの少しだけ揺れた。
亜美さんは図書室の中をゆっくりと見渡した。
「ここ、思っていたより落ち着くね」
「うん。私、この場所が好きなの」
今まで、この静けさは一人でいるから守られているのだと思っていた。
けれど、隣に亜美さんがいても、図書室の空気は変わらず穏やかだった。
誰かと一緒にいることと、自分の場所を失うことは、同じではないのかもしれない。
「今度は、私も本を持ってこようかな」
「うん。一緒に読もう」
「ぬいぐるみ、なんだか机の上に座っているみたいに見えるよね」
亜美さんがぽつりとつぶやいた。
「うん。見ているとなんだかほっとするの」
「そっか。見つかってよかったね」
「……うん。大切なものだから」
亜美さんの視線が、鞄からのぞいていた本へ移った。
「そういえば、しゅりはいつもここで何を読んでるの?」
しゅりは鞄から本を取り出し、表紙にそっと触れた。
何度も読み返している短いエッセイ集だった。
「この本、好きなの」
「どんなところが好き?」
すぐには答えられなかった。
好きだということはわかっていても、その理由を誰かに話したことはなかった。
「読んでいると、いつもの景色が少し違って見えるところ、かな」
亜美さんは表紙をのぞき込み、興味深そうに目を細めた。
「なんだか、読んでみたい」
しゅりは本を持つ手に、そっと力を込めた。
自分だけのものだと思っていた時間を、誰かに渡すような気がした。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「よかったら、貸そうか?」
「いいの?」
「うん。読み終わったら……感想、聞いてもいい?」
「うん。読み終わったら話すね」
亜美さんに本を手渡すと、自分の好きなものが、二人の間に新しい場所をつくったような気がした。
机の上の光が、きらりときらめいた。
「亜美さん」
「うん?なに?」
いつもより少しだけまっすぐな声に、亜美さんは首をかしげる。
「亜美って呼んでもいい?」
図書室を包む夕日の色が、少しだけあたたかさを増したような気がした。
「うん!もちろん!よろしく、しゅり!」
「……うん、亜美」
名前を呼ぶと、世界はほんの少しだけ、こちらを向いてくれる。
そんな気がした。
——たぶん。
その言い方が、少しだけリオに似ていて、しゅりは小さく笑った。
少しずつ集まっていく、世界の色たち。
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