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小説 半拍|罪悪感が、なかった。本当に、なかった。(第28話)

    第二十八話 ようやく、ここに

     「今度は、ちゃんと会いましょう」と言ったのは、あわいのほうだった。喫茶店からの帰り道、改札の前で別れた夜のことだ。

     それから三日が経った木曜日の夜、あわいからメッセージが届いた。

    今夜、悠斗くんは恒一さんのところですか。

     今週は恒一の番で、悠斗は昨日から恒一のところに泊まっていた。あわいが何を言いたいのか、その一文でわかった。

     うん、と返すと、すぐに返事が来た。

    会えますか。

     由良はその言葉をしばらく見ていた。理由を考えるより先に、うん、と送っていた。それだけで、心臓が少しだけ速くなっていた。

     会ったのは、会社から少し離れた小さなカフェだった。

     あわいはすでに窓際の席にいた。由良が入ってくると、顔を上げて、ほんの少しだけ目を細めた。

    「来てくれた」

    「うん」

    「ちゃんと」

    「ちゃんと」

     あわいの目元が、その言葉でほどけた。

     コーヒーを頼んで、少しだけ話した。仕事のことでも、これからのことでもなく、他愛のない話を。由良の新しい部屋のこと。悠斗が最近はまっている電車のこと。話しながら、由良はあわいの顔をときどき見た。口元がやわらかく、肩に力が入っていない。いつもより少しだけ、そこにいる顔だった。

     コーヒーカップが空になった頃、あわいが言った。

    「……うちに来ますか」

     由良は少しだけ間を置いてから、頷いた。

     部屋に入ったとき、まだ少しだけ外の冷たさが肌に残っていた。

     あわいが照明をつける。やわらかい灯りが広がって、由良はその光の中に立ったまま、少しだけ動けなかった。前に来たときとは違う。決められないまま来ていたあの夜とも、また越えてしまったあの夜とも。今夜は、自分で選んで歩いてきた。

     あわいが由良のほうを向く。

     見つめ合う時間が、少しだけ長かった。以前なら、どちらかがすぐに動いた。でも今夜は、二人ともその時間を惜しんでいた。

     あわいが先に一歩近づく。

     あわいの手が由良の頬へ伸びてきて、触れた瞬間、由良の体が先に反応していた。同じ手の温度のはずなのに、今夜のそれは体の奥まで届く。あわいの指先が、かすかに震えていた。

    「……あわい」

    「うん」

    「震えてる」

     あわいは否定しなかった。ただ、由良をまっすぐ見た。

    「……ずっと待ってたので」

     その一言が、由良の胸の奥に静かに落ちてくる。

     唇が重なる。

     あわいの唇は前と同じ温度なのに、重なり方が違った。急いでいない。由良の唇の形を確かめるみたいにゆっくりと触れてきて、一度離れ、またすぐに戻ってくる。その繰り返しの中で、由良の呼吸はだんだん浅くなっていく。あわいの手が頬から耳の後ろへ移動して、そこに指先が触れた瞬間、由良の肩から力が抜けていった。急いでいないのに、どこかへ連れていかれるみたいだった。

    「……由良」

     唇の隙間で、あわいが名前を呼ぶ。待っていた時間がそのまま声になったみたいな呼び方だった。

     由良は自分からあわいの肩へ手を伸ばした。触れた瞬間、あわいの体が揺れる。ひどく正直な揺れ方だった。

    「……由良が触れてくる」

    「うん」

    「……うれしい」

     あわいの手が、由良の服のボタンへ伸びてくる。一つずつ、ていねいに外していく。露わになるたびに、あわいは由良の顔を見てから続ける。その目の中に、欲しさと、ようやくという感情と、泣きそうな何かが全部あった。

     由良はあわいの服に手をかけた。自分から外す。あわいの息がそこで一度止まって、それから深く乱れていく。肌に触れると、あわいの体温が手のひらに直接伝わってきて、あわいは由良の手を受け取るみたいに、少しだけ目を閉じた。まつげが伏せられて、また開く。

    「……きれい」

     あわいが低く言う。

     由良は今夜、逃げたくなかった。見られていることが前とは全然違う意味で体の奥に届く。罪悪感がない。ただ、見てほしいという気持ちだけがあった。

    「……あわいも」

     由良がそう言うと、あわいの目元がほんのわずかに赤くなる。

    「……由良」

     声が揺れた。名前を呼ぶだけで、揺れた。

     あわいの唇が首筋に落ちて、ゆっくりと確かめながら鎖骨へ、胸元へと移っていく。胸の先に触れた瞬間、由良の体が揺れた。声が漏れる。あわいは急がなかった。ひとつの場所に時間をかけて、唇で触れて、舌でゆっくりとなぞって、由良の反応を聞きながらもう一度触れた。

    「……そこ」

     由良が声に出す。今夜は、欲しいものを言葉にしたかった。

     あわいが顔を上げる。

    「……そこが、いい?」

    「うん」

     あわいの目元が、ほんの少しだけ赤くなった。

    「……ずっと、聞きたかった」

     少し間を置いてから、続ける。

    「こういう声、聞けると思ってなかった」

     その一言が、由良の体の奥まで落ちた。

     あわいが、もう一度そこへ触れる。丁寧に、時間をかけて。由良の指があわいの髪をつかんだ。声が漏れるたびに、あわいの触れ方が少しだけ変わっていく。由良の声を聞きながら、それに応えながら触れている。

     あわいの手がゆっくりと下へ移動していく。内腿に触れる前に、一度だけ止まった。

    「……由良」

    「うん」

    「今日は、帰らなくていい」

     由良の目が、少しだけ熱くなる。

    「……うん」

    「ゆっくりでいい」

    「うん」

     あわいはそれから、内腿をゆっくりと撫でた。行き先がわかっているのに、焦れったいくらいゆっくりと。由良の体がその手を待っていて、待っているうちにじわりと熱くなっていく。

     下着を脱がせる。空気が肌に触れた瞬間、由良の体がわずかに震えた。でも逃げなかった。

    「……きれい」

     もう一度言う。長く待っていた人がようやく目の前に持てたものを見ている目だった。

    「……見ないで」

    「ずっと見たかったので」

     見られていることが、今夜はただうれしかった。

     あわいの手が内腿をゆっくりと撫でる。体が、その手を追いかけるみたいに揺れた。隠さなくていいとわかっているから、由良の体は素直だった。

    「……あわい」

    「うん」

    「もっと」

     声に出す。今夜は迷わなかった。

     あわいが息を飲んで、それからそこに唇を落とした。やわらかくて、熱くて、じわりと広がる。あわいの舌がゆっくりとなぞるたびに、体の奥から波が広がって、由良の指があわいの髪をつかんだ。声が漏れる。漏れるたびに、あわいの動きが少しだけ変わっていく。

    「……そこ」

    「うん」

     返事が短かった。でもその短さの中に、欲しかったという気持ちが入っていた。

     十分に溶けてきた頃、あわいが顔を上げた。頬が赤く、唇が濡れていて、いつも余裕のある人が今夜だけは余裕を持っていなかった。

    「……由良」

    「うん」

    「触れていい?」

     今夜の確認は、前と違った。止めたい理性からではなく、大事にしたいという気持ちから聞いていた。

    「うん。全部」

     あわいの目元が、その言葉でほどけた。

     指がゆっくりと入ってくる。急がないのに、その感覚だけがひどくはっきりしている。体の内側が収縮して、熱が芯から広がっていく。由良はあわいの肩にしがみついたまま、息をまとめられなかった。

    「大丈夫?」

    「……大丈夫じゃない」

    「うん」

    「でも、もっと欲しい」

     言葉にしてから、自分の声の正直さに少し驚いた。あわいは驚かなかった。ただ、応えた。指が少しずつ動く。前より遅く、前より丁寧に。動くたびに、やわらかい音がする。恥ずかしかった。でも隠したいとは思わなかった。

    「……由良の声、ずっと聞きたかった」

     あわいが低く言う。

     あわいの動きが変わる。体の奥が強く波打って、由良は声を殺せなかった。あわいの名前を呼ぶ。あわいが由良の名前を呼ぶ。暗い部屋に、二人の息だけが混ざっていく。

     自分からあわいを引き寄せて、唇を重ねて、体を傾けた。シーツへ沈んでいく。どこからが一線だったのか、今夜は気にしなかった。気にしなくていい夜だった。

     夜更け、あわいの胸元に額を寄せたまま、由良はしばらく動かなかった。

     あわいの心臓の音が、耳のすぐそこにある。

     罪悪感が、なかった。本当に、なかった。

    「……泣いてる?」

    「泣いてない」

    「……」

    「泣きそうではあるけど」

    「どうして」

    「うれしいから」

     あわいがそこで黙った。少しだけ間を置いてから、由良の髪をそっと撫でる。その手が、今夜は迷わない。

    「……私も」

    「眠れそう?」

    「……うん」

    「よかった」

     あわいはそれだけ言って、由良をもう少しだけ引き寄せた。

     由良はあわいの胸元に顔をうずめたまま、目を閉じる。あわいの体温が肌に伝わってくる。目を閉じると、あわいの心臓の音だけが聞こえる。

     この音を聞きながら眠れる夜が来るとは、思っていなかった。

     由良はゆっくりと息を吐いた。窓の外はまだ暗い。でも、この部屋には朝が来る。由良とあわいに、同じ朝が来る。

     それが、今夜いちばん確かなことだった。

     
     
    まとまっていない気持ちや、言葉にしきれない感覚を、そのまま書いています。 日々は穏やかに過ごしていますが、ときどき自分でもうまく説明できない感情が残ります。 その揺らぎを、エッセイや小説にしています。

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