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Photo bykoishi_syufu

39歳の不妊治療~夢か子供か、その二択だと思っていた~


    プロローグ まだ決められなかった


    今、私は子供が昼寝をしている横で、この記事を書いている。

    ほんの少し前まで私は、子供を持つことに前向きではなかった。
    むしろ、できれば避けたいと思っていた。

    不妊治療をしようと決めたのは、39歳の時。結婚して3年目の春だった。

    付き合いたての頃「子供は二人欲しいね」という話をしていたけれど、いざ不妊治療と言われた時、私は以前ほど子供を強く望まなくなっていた。

    今産めば高齢出産になるし、私には「作家になる」という夢がある。

    母は結婚前に日本舞踊をしていたが、子供の時は子育てに専念し、名取や師範になったのは四十代以降になってからだった。

    だから私は、子供を産んだら夢は後回しにしなければならないものだと思っていた。

    それに、大学卒業後に作った借金を、数年前にようやく返し終えたところだった。仕事と返済に追われ、ようやく自由なお金と時間が手に入った矢先に、出産子育てという大きなハードルを乗り越えようという気力がなかなか湧いてこなかった。

    自然に妊娠していたならその勢いで前に進めたかもしれないが、不妊治療をしてまで子供を望む動機がなかった。

    かたや夫は、「生まれ変わっても今の家族の元に生まれたい」と言うほど、家族に対する愛着があった。

    義両親もとても親切な良い人たちで、孫を望んでいる様子はあるものの、私に子供を産むことを急かしたり、そのことで嫌味を言うようなこともなかった。

    でも、だからこそ、私は「産まない」とはっきり言ってしまうのが申し訳ないような気がしていた。

    その頃、義母はがんを患い、闘病していた。夫には「元気なうちに孫の顔を見せたい」という気持ちがあって、焦っていた。

    出産に対する私の気持ちや状況を話すと、夫はいつも「何とかなる」と言った。それは、私を励ますための言葉だったのかもしれない。ただ、その一言で覆せるほど、私の悩みは軽くなかった。

    夫とは別れたくないけれど、子供を持つ未来がまだ想像できない。

    私は夢をあきらめたくなかった。
    夫は子供を望んでいた。

    そもそも結婚する時「子供を作る」という合意の上で入籍をしていたので、もし「子供を作らない」となれば、離婚を考えなくてはいけないかもしれないという状況だった。

    あの頃、私は「妻側が不妊治療をためらっている人の話」をネット上で探していた。
    けれど、なかなか見つからなかった。

    だから、今、私がその話を書こうと思う。


    失いたくなかった日常


    夫とは職場で出会った。私はもともと男性と打ち解けるのが苦手だったが、夫とは話しやすく、一緒にいて居心地が良かった。

    ドライブやカフェ巡りをしたり、動画を見ているだけで楽しい。「お金をかけなくても幸せでいられる」ということを教えられた。

    それは同棲しても結婚しても、変わらなかった。高級車もブランド物も海外旅行も無い。ただ何気ない日常が楽しかった。

    私は大卒で彼より5歳上ということもあり、経験や知識は自分のほうが上だと思っていた。けれど、困り事を相談すると、彼は私が思いつかない方法で、あっというまに解決してしまう。そのたびに、自分の思い上がりを深く反省した。

    何か問題が起きると、二人で話し合って協力しながら乗り越える。そういうパートナーシップができつつあった。

    ただ、未だに私が言ったことをやっておいてくれないとか、やると言ったことができていないとか、家事が得意というほどでもないし、仕事やプライベートで家を留守にすることも多いので、子供が生まれた後のことを想像すると不安になった。

    妊娠や出産の負担を実際に負うのは私だ。

    だからこそ、夫よりも深刻に考えてしまうのかもしれない。

    私が母親になったら、小説は書けるだろうか。今の収入で子供を養いながら、楽しく暮らしていけるだろうか。

    子供は可愛いと思うし、育ててみたい気持ちもある。でも、その気持ちはただの好奇心で、どこか漠然としている。

    子供に障害があったらどうする?
    夫に何かあったら、私一人でも育てられるのか?

    体力も無くて打たれ弱い、社会的に成功しているわけでもない私に、すべてを受け入れるほどの自信は無い。

    ネット上には、「子供ができたら自由なお金と時間がなくなった」、「夫との関係が悪くなった」、「高齢出産だと子供に障害がある確率が上がる」という不穏な情報があふれている。

    当時の私には、子供を持つことで幸せが増える未来よりも、今ある幸せが失われる未来への不安のほうが大きく見えていた。

    「あきらめる理由」が見つからなかった


    出産をするしないの前に、自分の身体が出産できる状態なのか、まずは確認してもらうために病院に行った。

    検査の結果、子宮筋腫は増えていたし、排卵しづらい体質であることもわかった。

    それでも医師は、「妊娠が不可能な状態ではない」と言った。夫側の精子検査もやったが、異常はない。

    私はどこかで「妊娠は難しいですね」と言われることを期待していたのかもしれない。

    そうすれば、すぐにでも妊活を終えて、夢を叶えることに集中できる。誰も悪くないし、夫を傷つけることもない。今のまま、幸せな結婚生活を継続できる。

    けれど病院が示したのは「可能性はある」という曖昧な答えだった。

    「どちらかに異常があって、妊娠は不可能ということが確定であれば、あきらめるしかないと思っていた」と夫は言った。

    「どちらにも異常がないなら、なおさらあきらめきれない」とも。

    その言葉を聞いても、嬉しいとは思えなかった。

    むしろ、私が探していた「あきらめる理由」が見つからなくなってしまったような気がした。

    考える時間が欲しかった


    子宮の検査結果が出て、子宮頸部中等度異形成ということがわかった。

    これは、子宮頸がんになりかけているということで、高度異形成になると手術が必要であると医師から説明された。中等度くらいでは、悪化する可能性と消失する可能性が半々くらいとのこと。

    私はもともと身体が丈夫だったので、経過を見ることになり、すぐに手術とはならなかった。

    それなのに私は、ほっとした気持ちと同時に、別のことを考えていた。

    「本当にがんになって子宮が無くなったら…」

    そうなれば、子供を産まなくて済むかもしれない…。

    振り返れば、自分でもゾッとするようなことを考えていたのだ。

    私が苦しかったのは、不妊治療そのものではなかった。

    「産む」と決めることも、「産まない」と決めることも、すぐにはできなかったことだ。

    「産んだら夢が叶わなくなるかもしれない」という強い不安があって、それを打ち明けても、夫の「産んで欲しい」という気持ちは微塵も揺るがない。

    加えて「子供を産まない場合は離婚も考える」とはっきり言われた。

    義母の病気のことで焦っていたし、夫も説得に必死になり、悪気はなかったと思う。

    けれど、当時の私には「子供を産むために必要とされているだけなのではないか」と思えて、悲しくなった。

    それでも、普段の夫は相変わらず面白くて優しい人だった。夫と別れたくはなかったので、心の底からは納得できないまま、不妊治療を開始するしかなかった。

    高齢出産は時間との戦いで、「もう少し気持ちの整理がしたい」とは、なかなか言い出せなかった。

    逃げ道がなかった


    妊活を開始してからは、月に一度の排卵日前後に行為をしていた。

    思考が受け入れていないので身体が受けつけないのか、激痛で潤滑油を使っても身体の緊張がとれず、苦痛の日々だった。

    「早く妊活が終わって欲しい」という気持ちが常にあり、心と体は別のことをしていた。

    タイミング法を試しているだけでは、自分の体質ではうまくはいかないだろうとは思っていた。でも、やると決めたからにはやるしかない。

    私は、ずっと夢をあきらめずに生きてきた。だから夫にも「子供が欲しかった」という思いだけは残して欲しくはなかった。

    多少譲歩しても、せめて納得できる方法を一緒に模索しようと思った。けれど、それはかなり私の心身に負担を強いていた。

    どこにも吐き出す場所がなかったので、ネットの出産子育ての動画に「不妊治療をしているけれど、産んでいいか迷っている」と、今の状況をコメントしたことがあった。

    すると「そんな中途半端な気持ちなら治療はやめて、旦那と別れなさい」と返信があり、責められているような気がして、思わずコメントを消してしまった。

    今思うと、私は答えが欲しかったわけではなかったと思う。ただ、誰かに話を聞いて欲しかったのだ。

    産んで夢を後回しにするか、
    産まずに夫と別れるか。

    どちらにしても選びたくない二択しかない状況に消耗していた。

    数か月が過ぎ、検査結果を聞きに行った私は、医師から思いも寄らない言葉を告げられた。

    「子宮頸部高度異形成になりました。早急に手術が必要です」

    少しだけ未来が見えた


    手術は成功し、順調に回復することができた。

    その間、妊活から離れ、入院中と療養時には仕事を休んで読書と執筆三昧だったので、とても充実した日々を過ごした。

    手術をすることで子宮頸管が短くなると、早産の確率が10パーセント程度上がってしまうとのこと。

    高齢出産というだけでリスクが高いのに、さらにリスクが上乗せされて余計に怖くなった。けれど、手術後にちょっとした心境の変化があった。

    その時、私は40歳の誕生日を迎えた。
    人工授精や体外受精でなら、まだ可能性は少しあるという微妙な時期。

    意外なことに手術が成功して思ったのは、「まだ産める可能性があるんだ」だった。

    今回の手術は、私にとって初めての大きな手術だった。ずっと怖くて「絶対にしたくない」と思っていた経験のひとつだったのに、終わってみれば、私はちゃんと乗り越えていた。

    だから、「出産も乗り越えられるかもしれない」と、ちょっとした自信が芽生えていた。

    それに、私は入院や病院通いをしながらでも、読書と執筆だけは手放さなかった。

    だから、子育てしながらでも、書き続けられるかもしれないと思えたのだ。

    出産は痛い、怖いというイメージが強くあったが、今は無痛分娩も主流になってきている。お金は余分にかかるかもしれないが、やれるものならやりたい。

    私は手術をするまで、ずっと時間に追われて不妊治療をしていた。けれど、いったん休んだことで気持ちの整理がついたように思う。

    何も不安がなかったら、夫と子供との生活は大変なことがあっても、きっと幸せだろう。

    家族三人の生活を、おぼろげながら想像することができるようになった。

    その時初めて、未来を怖がるだけでなく、少しだけ楽しみに思えた。

    もう充分じゃないか


    病院で妊活を再開する時、今まで不安に思っていたことを正直に告白することにした。

    私は幼い頃「股関節脱臼で出産の時に腰が悪くなる可能性がある」と言われていたので、そのことについて問題がないかなども確認した。

    今の段階なら次は人工授精だったが、確率が低いことはわかっていたので、一気に体外受精にステップアップすることにした。

    私は結果については淡々と受け止めるようにしていた。こういうのは確率の問題だから、そのたびに一喜一憂してしまうと、モチベーションが続かない。

    病院の長い待ち時間には小説を読み、ネタを考え、執筆をする。不妊治療を人生の中心には置かないようにした。

    最初の1、2回は「ごめんなさい」と言われても「まあ、次があるかな…」と思う余裕があった。けれど、3回目に駄目だったとわかった時は、複雑な気持ちだった。

    最初に感じたのは、「これだけやったのだから、もう充分じゃないか」という達成感。

    助成金の出る3回すべてを消化したのだ。
    丁度よい区切りだ、と晴れ晴れとした気持ちだった。

    子供をあきらめることになるかもしれない。それでも、やるだけのことはやった。

    「これで治療から解放されるんじゃないか」という期待感もあったが、「夫にどう声をかけよう…」という不安な気持ちがまだ残っていた。

    夫が子供を熱望しているのを、私は誰よりも理解している。そんな人に「あきらめよう」と言っても、すぐには納得しないだろう。

    次のステップとして、子宮筋腫を取る手術をすれば、妊娠できる確率が上がるかもしれない、と医師に説明された。

    私は手術には気が進まなかったので、「もうやめます」と言いたかった。

    けれど、夫にその話を隠して「もう打つ手がない」と言えるほど、私は冷酷になりきれなかった。

    見えかけた不妊治療のゴールは、まだ少し遠い先にあった。

    終わりを決める権利


    手術をするかどうかは、だいぶ悩んだ。

    去年も手術をして大変な思いをしたのに、また手術。前回は1日入院、今回は1週間入院なので、身体の負担はまるで違う。

    体外受精も4回目をやるとなると、助成が無いのでお金も倍以上かかる。

    私の年齢も、41だ。

    私は、そんなに負担をかけてまで、妊娠も出産もしたくない。

    今までした治療や採卵、移植の苦痛を、私は何度も思い出した。

    もう、限界だった。

    夫が家族を望む気持ちは痛いほどわかる。
    けれど、私は充分すぎるほど譲歩してきた。

    嫌なことばかりの治療に取り組み、心も身体も疲弊している。もう解放して欲しい。

    子供ができるまで続けて欲しいと泣いて頼まれても、これ以上はできない。

    「離婚しよう」

    私は病院での出来事を話すついでに、夫に別れることを視野に入れるように提案した。

    本来、夫は二人子供を希望していたのに、一人も産めずにつまづいている。

    彼は36歳。私よりは若いのだから、今から婚活すれば産んでくれる人との出会いがあるかもしれない。

    夫は受け身で、私が別れようとしなければ、きっと別れない。このままだと子供が欲しい気持ちをあきらめてしまうかもしれない。

    だから、私が身を引けばいい。

    夫との別れはつらいけれど、それでも子供をあきらめさせるよりはマシだ。

    子供のことを最優先にするなら、最初から5つも年上の私と結婚するべきじゃなかった。

    子供が好きで産みたい女性は、世の中にたくさんいる。私と別れたほうが、夫は幸せになれるのだ。

    夫は私の話をしばらく黙って聞いていたが、ようやく口を開いた。

    「子供ができないのは悲しい。でも、ゆのんがいないのは嫌だ。ゆのんがいなかったら、僕は生きていけないかもしれない」

    その言葉で、「子供を産むための存在ではなく、この人は『私』を必要としている」とはっきり思った。

    私が感じていたのと同じくらい、一緒に過ごすことで日々の楽しさと幸せを感じていてくれていた。

    今まで「産んで欲しい」「産んだら何とかなる」としか言われなかったけれど、子供さえいれば誰との子でもいいのではなく、「私と家族になりたい」という希望をずっと持っていてくれたのだ。

    「手術をすることで、少しでも可能性があるならやってほしい。負担をかけて申し訳ないけど、お金は何とかする。僕にはそれしかできないから」

    私は気が進まなかったが、手術をする予定の総合病院に話を聞きにいった。

    説明を聞きながら、だんだん怖くなってきて「少し考えさせてほしい」と言った。

    「年齢のこともあるので、考えているとどんどん時間が過ぎてしまいますよ?」

    そう医師に言われたが、どうしてもすぐにやるとは言えない。

    黙り込んだ私を、看護師さんが奥の部屋に連れて行ってくれた。話しながら、いつのまにか涙が止まらなくなっていた。

    妊娠したら、子宮を保護するために帝王切開になる。そうしたらまた手術で傷が残る。

    どうして私ばかりこんなに苦しんで傷だらけにならないといけないんだろう。

    子供が欲しくないわけじゃない。

    でも、そのために失うものがあまりにも多いように思えた。

    ずっと心に溜まっていたことを吐き出した後、看護師さんは静かに言った。

    「今まで本当につらかったんだね。つらいのはあなたなんだから、『やるのはここまで』ってあなたが決めていいんだよ。旦那さんとそれを話し合ったほうがいいと思う」

    帰る途中、今まであったことを考えていた。

    私は夫と二人の生活で十分満足だった。

    最初は、子供を産んだら、夢を追うことは後回しに、最悪あきらめなくてはいけないかもしれないと思っていた。

    私が一番恐れていたのは、夢を失うことだった。

    でも今は、夫と協力して子育てをしながらでも、夢を追い続けることはできるかもしれないという気持ちになってきている。

    産んでも産まなくても、私が夢をあきらめることはない。

    ただ、妊活のスタートを決めたのが夫なら、ピリオドは自分が打ってもいいのかもしれない。

    今まで充分頑張ってきた。

    妊娠したら産んで育てるのは自分なのだから、私には終わりを決める権利があるはずだ。

    乗り越えられるかもしれない


    妊娠をいったん脇に置いたとしても、子宮筋腫がたくさんある状態では将来何があるかわからないと思い、手術自体はすることを決めた。

    手術は聞いていた話よりも壮絶で、術後は今まで経験したどんなことよりも苦しかった。

    この先に出産が控えていると思うと、想像するだけで嫌になり「もう絶対に離婚してやる!」と喚き散らしたくなったが、好きな読書をすることで何とか乗り越えた。

    その後順調に回復し、3か月後には子宮が綺麗な状態になったことが確認できた。

    完全に回復した時、やはり前回の手術と同じように、全身に自信がみなぎっていくのを感じた。

    今の私なら、出産も乗り越えられるかもしれない。

    そんな気持ちが、少しだけ芽生え始めていた。

    これで最後


    子供を持つことへの迷いが少しずつ薄れていった頃、病院の再検査で橋本病が見つかった。

    新たに薬を飲みながら体調を整える必要があり、思うようにいかないことは最後まで続いた。

    それでも、以前の私とは少し違っていた。

    夫とは、産後の生活について具体的に話し合い、自分の不安とも向き合った。

    4度目の体外受精は、「これで最後」と決めて臨んだ。

    妊娠するかしないかではなく、どちらの結果になっても受け止めようと思えたのだ。

    体調管理や生活リズムを整え、自分にできることを淡々とこなした。

    そして受精卵は無事に着床し、翌年息子が生まれた。

    気付けば、あれほど想像できなかった三人での暮らしが、当たり前の日常になっていた。

    その息子も、あっという間に1歳になった。

    エピローグ 未来は思ったより優しかった


    今私は、1歳の子供を育てている。

    0歳の時はほとんど寝ていることばかりだった我が子は、寝返りをしハイハイをし、今立ち上がって歩き出そうとしている。

    息子はとても元気で愛嬌のある子で、義姉や姪、義父がよく家に来てくれるようになった。父と母もとても可愛がってくれ、隙あらば面倒を見ようとしたり、何か買ってくれようとしてくれる。

    楽しく暮らしていた夫婦のもとに、新メンバーが加入したという具合で、そのにぎやかさは足し算というより、掛け算になったと思う。

    活発になるにつれて目が離せなくなり、自分の時間はほとんどない。けれど、隙間時間で執筆はできているし、暇な時間が少なくなった分ネガティブなことを考えなくなったと思う。

    日本舞踊とは違い、紙とペンさえあれば、書くことだけはできる。私は少しでも暇になると頭の中でネタを考え、空いた時間に書くということをして、執筆を継続している。

    私は小学生の頃から「自分にしか書けない作品を書く」ということをテーマにしてきた。

    子供を産んだ今は、恋愛小説よりもエッセイや体験談を書くことが増えた。表現の形は変わっても、「自分にしか書けない作品を書く」という軸は変わっていない。

    私が妊娠してから、夫は洗濯や炊事などの家事を、積極的にこなしてくれるようになった。子供が産まれてからも、ミルクやおむつ替えをしてくれたり、離乳食もあげてくれる。

    子供が3ヶ月になる頃には、夫に預けて一人で外出できるようになった。今でも、夜勤から帰ってきて、おふろに入れてから仕事に出かけてくれる。執筆に専念したい時も、子供を見ていてくれるので助かっている。

    夫としては二人目を希望する気持ちもあったのだが、それは私が「やらない」と言って決めさせてもらった。

    いろいろな人に手伝ってもらっても一人目で大変なのに、二人目はとても考えられない。
    持病のこともあるし、体力的にも限界なので、あきらめてもらった。

    今は家族三人、夫婦がそれぞれ譲歩して、ベストな形に収まったような気がしている。

    子宮筋腫の手術が終わった頃、残念ながら義母は他界してしまった。

    義父の落ち込みようは相当なものだったが、その後に私の妊娠がわかり、息子が無事に生まれた時もとても喜んでくれて、面倒を見てくれるようになった。

    このエッセイを書いている途中、風邪を引いてダウンしてしまった時も、義父が息子を半日預かってくれた。私は早めに回復することができ、執筆する時間も確保できた。

    妊娠中、SNSで妊婦や子育て世帯への心無い言動ばかり目にしていた。そのため、私は社会に対して必要以上に身構えていたように思う。

    しかし、実際に子育てを始めてみると、道行く人が笑顔で息子に手を振ってくれたり、店員さんが荷物を運んでくれたり、地域の人が声をかけてくれたりすることが多い。

    子供が1歳になるまで、本当に多くの人に支えられてきた。

    自分一人で成し遂げられたのではなく、間違いなく常に誰かの支えがあった。

    子育てが大変だと思う時、私は自分一人で悩みややるべきことを抱え過ぎてしまっていることに気付くことがある。

    以前は人に頼ることも苦手だったけれど、頼らないとどうにもならないことが多いので、なるべく頼るようにすることでどうにか切り抜けている。

    新婚旅行の時に、山道の途中で突然車が止まってしまったことがあり、レッカー車を待っている時に、バスの運転手さんや前後の車に乗っていた人達が声をかけてくれたり、見知らぬ老夫婦が近くのトイレに案内してくれたりしたことがあった。

    「新婚旅行の時にこういうことが起きるっていうことは、きっとこれからも何かあった時に、人に助けてもらえるって暗示なんだと思うわよ」

    老婦人がそう言ってくれたのを、今でも覚えている。

    今となっては、それが現実になっていることを感慨深く思う。

    息子も1歳、私も母親1年生。

    何度も間違えたり失敗したこともあったが、育てたり育てられたりしながら、少しずつ母親らしくなっていくのかなと思っている。

    母親だからといって、すべてを背負わなくてもいいし、犠牲にならなくていい。なるべく広く、多くの人に頼ることで負担は楽になっていくのだと思う。

    母親という立場になって初めて、子供に対する気持ちや子育ての難しさ、取り巻く環境に対する不安や不満などがよくわかるようになった。

    この経験はこれからコミュニケーションを取る時に役に立っていくだろうと思うし、書く作品にも反映できると思う。

    息子も発達がゆっくりだけれど、私は結婚も妊娠も出産も、平均より遅かった。だから、焦らずに見守ることができるし、誰よりもこの子のことを理解できるんじゃないかと思っている。

    子供を産むことが正解か不正解か。人生の答えは、最初から決まってはいない。

    ただ、その時その時に選んだことを正解にしていこうとする覚悟が、答えを作っていくのではないかと思っている。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    恋愛、結婚、子育て、お金、仕事、生き方。 自分の経験を通して「こういう人生もある」と思えるエッセイを書いています。 HSP気質。考えすぎる人、繊細な人にも届く文章を。 HSP(HSS型HSE)/INFJ(提唱者)

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