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うちのおじいちゃん先生、近所のスマートクリニックに煽られて電カル覚えたらDXの鬼になってて草(11/11)

    終章「紙カルテは、まだある」

    7月になった。

    梅雨が明けた週の、水曜日の午後だった。午後の診察が終わって、田中さんが帰って、村上さんも今日は来ない日で、クリニックの中はわたしとじいちゃんだけだった。

    わたしは受付の片づけをしていた。

    じいちゃんは診察室にいた。

    しばらくして、じいちゃんが診察室から出てきた。

    「美咲」

    「はい」

    「来い」

    診察室に入った。

    じいちゃんが棚の前に立っていた。

    紙カルテの棚だ。

    35年分が並んでいる棚。古いものは色が変わっていて、新しいものはまだ白い。厚いものと薄いものが混在している。

    「これを」

    じいちゃんが棚を指した。

    「整理する」

    「捨てるんですか」

    「捨てない」

    「整理って、どういう」

    「別の棚に移す。診察室に置いておく必要がなくなったから、保管庫に移す。でも捨てない」

    「保管庫」

    「奥の部屋に棚を入れた。昨日、村上に手伝わせた」

    そんな話は聞いていなかった。

    「なんで言ってくれなかったんですか」

    「言う必要がなかった」

    それはそうかもしれない。

    「手伝います」

    「そのつもりで呼んだ」

    紙カルテを棚から出して、箱に詰めて、奥の部屋に運ぶ。単純な作業だったけど、量があった。じいちゃんとわたしで、黙って作業した。

    カルテを一冊ずつ手に取るたびに、名前が目に入った。

    山田さん、鈴木さん、佐々木さん…。私が見たことのないカルテが山ほどあった。

    古いものは、最初のページの日付が30年以上前だった。

    「これ、最初のページの日付、じいちゃんが開業した年ですよ」

    「そうだ」

    「開業してすぐ来た患者さんか」

    「そうだ。今も来ている」

    35年間、通い続けている患者さんがいる。35年分の厚みがわたしの手の中にあった。

    重かった。物理的に重いのもあったけど、そうじゃない重さもあった。時間の重さ、というのが本当にあるなら、こういうものだと思った。

    一時間半かかった。棚が空になった。診察室が、少し広くなった。

    じいちゃんは空になった棚を見た。何か言うかと思ったら、何も言わなかった。わたしが言った。

    「捨てないんですよね」

    「捨てない」

    「ずっと置いておくんですか」

    「置いておく」

    「なんで」

    じいちゃんが棚を見たまま言った。

    「記録は命だ」

    「命」

    「患者さんの35年が入っている。症状が入っている。薬が入っている。わたしが気づいたことが入っている。それを捨てる理由がない」

    「でも今は電子カルテに」

    「文字列は電子カルテに入れられたとしても、全てを入れられるわけではない」

    わたしはそれを聞いて、あの夜のことを思い出した。

    (千鶴子、ちゃんと動いてるぞ)

    形が変わっても、続いているものがある。

    電子カルテになっても、RPAが動いていても、変わらないものがある。

    じいちゃんはずっとそれを言っていた。

    言葉にしたことは、たぶんなかったけど。


    棚の整理が終わって、わたしはお茶を入れた。

    じいちゃんと二人で、診察室の椅子に座って飲んだ。

    空になった棚が、向かいにあった。

    窓の外は夏の夕方で、光が斜めに入ってきていた。

    「じいちゃん」

    「何だ」

    「引退は」

    聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。

    でもじいちゃんは怒らなかった。

    お茶を一口飲んで、少し間を置いた。

    「どこかに行くつもりか」

    「違います。ただ、前に引退するって言ってたから」

    「言ったか」

    「言ってましたよ。長野に引っ越すって」

    「そんな話は忘れた」

    「忘れたんですか」

    「やることがある」

    じいちゃんが窓の外を見た。

    「RPAの改善がまだ途中だ。電子カルテのカスタマイズも終わっていない。見学に来る先生への対応も続いている」

    「それが終わったら」

    「また新しいものが出てくる」

    「出てきたらまた覚えるんですか」

    「当たり前だ」

    72歳が、当たり前だと言った。

    わたしは笑いそうになった。笑っていいのかわからなかったので、お茶を飲んで誤魔化した。

    「美咲」

    「はい」

    「VBAは覚えたか」

    「基本は覚えました」

    「基本だけじゃ足りない」

    「わかってます」

    「RPAのフロー設計も覚えろ」

    「それはまだ」

    「今月中に覚えろ」

    「今月は他にもいろいろあって」

    「今月中だ」

    その勢いに、わたしはつい笑ってしまった。

    電子カルテを入れることになった時から、じいちゃんの周りにいる人間は全員、じいちゃんの速度に引っ張られている。田中さんも、村上さんも、わたしも。

    でも、引っ張られている間に、気づいたら自分も動けるようになっていた。

    田中さんはもう一人でエラーなく電子カルテを操作している。村上さんはVBAを独学で始めて、先月初めて自分でマクロを作ったと報告してきた。わたしはExcelのことなら、転職してきた時よりずっと詳しくなっていた。

    じいちゃんが引っ張るから、周りが動く。

    それはたぶん、医療でも同じだった。

    じいちゃんが診るから、患者さんが来る。じいちゃんがいるから、田中さんが30年いる。じいちゃんがいるから、わたしが転職してきた。

    「先生」

    「何だ」

    「ここ、好きです」

    じいちゃんが振り向いた。

    「クリニックがか」

    「クリニックも、じいちゃんも、田中さんも、村上さんも。ここが好きです」

    じいちゃんはしばらくわたしを見た。

    それから、窓の外を見た。


    翌朝、田中さんが来た。

    「美咲ちゃん、棚、空になってたね」

    「昨日整理しました」

    「捨てた?」

    「捨ててないです。奥に移しました」

    田中さんがほっとした顔をした。田中さんが奥の保管庫を覗いた。

    新しい棚に、35年分が並んでいた。

    古いものは色が変わっている。でも文字は読める。万年筆のインクは褪せない。

    「千鶴子さん、よく見てたよ、先生がカルテ書くの」

    田中さんがつぶやいた。

    「先生が書き終わるたびに、丁寧ねって言ってた」

    「ふふっ。おばあちゃんらしい」

    田中さんが棚に向かって、小さく言った。

    「千鶴子さん、先生、まだまだ続けるみたいだよ。デジタルまで使いこなして、大変なことになってるよ」

    棚は何も答えなかった。

    でもこれからも見続けてくれていると思うと、少し安心した。


    その日の診察が始まった。待合室には山田さんが待っていた。30年選手だ。

    「先生、今日も頼むね」

    受付でわたしに言った。

    「先生は診察室ですよ」

    「わかってる。でもいつも言うんだよ。そうしないと落ち着かなくて」

    山田さんが古い木の椅子に座った。

    へこんだ椅子に、吸い込まれるように座った。

    電子カルテの画面が、受付のモニターに映っていた。RPAが今朝も定刻通りに動いて、定型処理を終わらせていた。棚は空になって、35年分の歴史は保管庫に移っていた。

    でも待合室は、変わっていなかった。

    古い木の椅子も、山の絵も、観葉植物も。

    診察室から、じいちゃんの声が聞こえた。

    「次の方、どうぞ」

    静かな声だった。

    35年間、毎日言ってきた声だった。

    万年筆は今日もじいちゃんの胸ポケットに差してある。電子カルテを使うようになっても、万年筆は手放さなかった。

    使う場面は減った。でも差している。

    それがじいちゃんだった。


    わたしはその夜、スマートフォンを開いた。

    何か書きたい気分だった。

    別にSNSに投稿するつもりはなかった。ただ、この一年のことを、どこかに残しておきたかった。

    考えながら、文字を打った。

    消して、また打った。

    何度か書き直して、最終的にこうなった。

    「うちのおじいちゃん先生、頑固な紙カルテ派だったのに、近所のスマートクリニックに煽られて電カル覚えたらDXの鬼になってて草」

    投稿した。

    お風呂から上がると、いくつかリプライが来ていた。「うちの親父先生と全く同じです」「続きが読みたい」「じいちゃん先生の話もっと教えてください」。

    わたしはスマートフォンを置いた。続きを書く気はなかった。

    続きは、明日も明後日も、このクリニックで起きていくから。書かなくていいと思っていた。



    翌朝、じいちゃんがコーヒーを飲みながら言った。

    「昨日、SNSで何か書いたか」

    「なんで知ってるんですか」

    「村上が教えた」

    村上さんめ。

    「ちょっと書きました」

    「何と書いた」

    「えっと」

    一瞬迷った。

    「じいちゃんがすごいって書きました」

    じいちゃんは何も言わずに新聞を開き、コーヒーを飲んだ。

    それだけだった。でも、コーヒーカップを置く時の音が、いつもより少し軽かった。

    気のせいかもしれない。

    でもわたしは、気のせいじゃないと思っている。

    今日も9時になる。待合室が埋まり始める。

    田中さんが奥から「美咲ちゃん、今日の午後、2件追加で入ったから」と言う。

    「先生には言わなくていいの?」

    「診察中に言うと機嫌悪くなるから」

    「わかりました」

    じいちゃんが診察室から出てきた。

    胸ポケットに万年筆。白衣の下にベスト。白髪まじりの太い眉毛。

    「始めるぞ」

    「はい」

    「美咲、今月中にRPAのフロー設計だ」

    「わかってます」

    「わかってるじゃなく、やれ」

    「やります」

    じいちゃんが診察室に戻っていった。

    わたしはモニターを立ち上げて、今日の予約リストを確認した。

    電子カルテが起動した。RPAが動いている。処方セットが呼び出せる。マクロが走っている。

    そして奥の保管庫には35年分の紙カルテが並んでいる。

    「次の方、どうぞ」

    今日も始まった。(了)

     
     
    医療従事者向けメディアDX担当。一般社団法人JHIH運営。Quora2019/2020トップライター。京大院(薬)卒。薬剤師。元『Newton』編集者。MITTR「Innovators Under 35 Japan」Advisory Board。褒め道3段。

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