
『それでは姉上、行って参ります』~大叔父マサルさんからの便り~
2026年5月。
85歳の母のスマホに電話がかかってきた。
母はその相手としばらく話をして電話を切り、そばに居た私に言った。
「ケイコさんがな、戦争で亡くなった私の叔父の遺骨が出てきてぇ?
DNA鑑定するかどうか連絡が来たとか言うねんけど、そんなんどうしたらええか、よぉわからんわなぁ」
「へー、そんなん今でもしてはるねんな。
おかんの叔父さんって、あの水兵さんの服着て写真に写ってた人のこと?」
「そうや」
今はリフォームを重ねてすっかり新しくなった、母方の実家であるこの家の仏間兼客間としている和室には、いつ頃までだったか、部屋の梁の上に母方の先祖の写真がいくつか、べっ甲色の額縁に入れられて掛けてあった。
奈良のような田舎ではかつてどの家でも必ずと言ってよいほどあった光景だ。
その中に、白い大きな襟の水兵服を着た、すっとしてきれいな顔の青年の小さな写真も、他の大きな写真の片隅に入れられてあった。
私は現在55歳。
大学4年になるかならないかの頃にバブル経済が崩壊。
もともとひどいコミュ障だった私は、一応就活をしてみたものの当然うまくはいかず、早々に就職を諦め、アルバイトなどしながら数年間フラフラしていた。当時でいう「プータロー」だ。
27歳の冬、私なりに思い立ち、生まれ育った母方の実家を出て東京で暮らし始めた。若干の遅咲きだ。
その後の20数年、二人だったり一人だったり、他の多くの人たちと同じように山あり谷ありながらも自由気ままに暮らしていた。
3年前に父が亡くなったことをきっかけにまた私なりに考え、2年ほど前にこの奈良の実家に戻った。東京では必要なかった車の免許も、ひぃひぃ言いながら5か月ほどかかってなんとか取れた。
1年運転しても初心者マークを外す勇気が出ず、半年ほど長めに「初心者」をさせていただいた。
戦争で亡くなったのは私の祖母の弟さん。祖母は、私が9歳のときに69歳で亡くなっている。
祖母のことを思い出すとき、この私の「9」と祖母の「9」とをいつも無意識につなげて密かに納得する。
私が「人の死」を経験したのは祖母のときがはじめてだった。
大好きな祖母が突然亡くなったことはものすごくショックだった。しかしそれとは対照的に、その日、周囲は目まぐるしかった。
いつのまにかうちに集まってきていた近所のおばさんたちの、みんなお揃いのような白い割烹着姿と手際のよい大量の食事の支度の様子や、どこに行ったかよくわからない母の代わりに私に代わる代わるかけてくれる声の不思議なトーン、3月のまだ寒い時期だったうえ雨も降っていたのに、玄関から奥の部屋まで大きく開け放たれた空間、どこから持ってこられたのか、長いテーブルの列に沿って並べられたいくつもの座布団、壁を覆っていた縞々の大きなカーテンのような布、そしてその前で、見たことのないふかふかの布団に横たわり、顔に白い布をかけられていた、私のおばあちゃん。
祖母の家族のことを私はほとんど聞いたことがなかった。無理もないだろう。
母も、自分の家族のことについてはあまり口にしてこなかった。
3人兄姉妹である私たち子どもを育てるので精一杯だったことは容易に想像できるし、母も私もドライな性格なので、そういう類の話はあまり得意ではなかったのかもしれない。
母は、私たち子どもが巣立った後、お友だちと一緒に日帰りバスツアーなどであちらこちらへと遊びに行ったり、氷川きよしくんやいろんな歌手の方々のコンサートに行ったりと、なかなかに楽しんでいたようだ。
ただ、ここ数年は、お友だちも自由に遊びに出られない状態になってしまったり、母自身も腎臓透析を受け始めたりで、ちょっと気の毒な、でもいずれは私も含めて誰にでも訪れる環境を、静かに受け入れているように見える。
そういうタイミングで私は実家に戻った。
私が実家に戻って以降、ドライだが決しておしゃべりが嫌いではない母は、私を相手にいろんな話をしてくれるようになった。多くは昔話になる。
「それ聞くの何回目かな」ということも当然のようにあるなかで不意に、「それどこで仕入れたんだ?」という、ヘタなニュースよりニュースらしい超ローカル時事ネタも飛び出してくるのが興味深い。
そんな母とのおしゃべりのなかで、今回の電話で話題になっている母の叔父さん、つまり、私の祖母の弟さん(大叔父)の話も聞いていた。
「うっすらとしか覚えてないんやけどな、おばあさん(私の祖母)の弟さんが、水兵さんのカッコしてうちに来て、あの玄関のとこでな、
『それでは姉上、行って参ります』、て言うて、行きはったんよ。
昔はみんな、あんなんやったんやなぁ」
終戦直前のことだったと仮定しても、当時の母はまだ4、5才。それでもその場面は80年以上、母の記憶にしっかりと留められていた。
母の幼いころの記憶としてもうひとつ、母の父親との光景がある。
母は、3歳くらいのときに父親を病気で亡くしている。それでも、お父さんの膝の上に自分がちょこんと座っていたイメージだけは、ずっと残っているという。
そのことを語るとき、母はいつも、「ちょこん」のところでちょっとしたジェスチャーをつけて見せるので、私の目にも、見えないはずのイメージが結構な解像度で浮かんでしまう。
仏間兼客間に掛けてあったおじいちゃんの写真と合わさって、私の中でうまい具合に出来上がるのかもしれない。
ケイコさんからの電話の直後は、母も私も、大叔父(かもしれない人)の遺骨のDNA鑑定については特に興味が湧かなかった。むしろ、「よくわからない」「遺骨を引き取ったとしてもどうすればいいんだ?」と、あまり深く考えられないのが正直なところだった。
ただ、この電話であの叔父さんのことを思いがけず耳にした母は、彼女の中の叔父の記憶として唯一残っている、『それでは姉上、行って参ります』の光景を、改めて私に語った。
今度は彼の名前つきで。
私はこのときはじめて、「写真の水兵さん」が「マサル」という名前だったことを知った。
名前がわかったからなのか、マサルさんかもしれない人の遺骨がいま実際におそらく東京あたりで保管されているという事実からなのか、以前も同じ話を聞いていたはずなのに、このときはより生々しく、玄関先でのマサルさんと祖母と幼い母の映像が、私の体の中に入り込んできた。
同時に、なにか止められないものも喉の奥の方から溢れ出そうになった。
「マサルさん、どこで亡くなりはったんやろ」
私が言うと、母がつぶやいた。
「わからんわ」
翌朝。
寝ぼけ眼で2階の部屋から1階のリビングに下りてきた私に母が言った。
「なんか、あれから私も気になってなぁ。
DNAとかお骨とか、そんなんどっちゃでもええねんけど、ちゃんと供養してあげたいなぁ」
母は特に信心深いわけではないが、一定程度の儀礼は尽くしたいと考えている人だ。年代相応の価値観だろう。
おそらく私よりもマサルさんのことが気になり始めた母は、ソワソワとどうにも落ち着かず、以前よりも少し重たくなった足取りでリビングをうろうろしている。
ぶつぶつと独り言を言いながら、改めてケイコさんに電話した。
ケイコさんは母のいとこのお嫁さんで、若い頃はよく二人で顔を合わせては愚痴を言い合ったりしていたそうだ。
残念ながら、ケイコさんは電話に出なかった。
「まだ寝とるかな?」と母は言い、数分待ってから、母の別のいとこであるトオルさんにも電話した。朝の8時頃のことだった。
幸い、トオルさんは電話に出てくれた。
ところが、85歳の母の話の要領がつかみにくいのか、それともトオルさんの受け取る態勢がまだ整っていないのか、傍らで何気なく聞いていた私ももどかしくなるような状態のまま、母は電話を切った。
それでも母はめげずに、今度はナオミさんに電話してみると言う。
ナオミさんは、地元の牧場で刈り取られた羊毛を手で紡いで毛糸にし、その毛糸に草木染で色をつけ、それを手で編んだニット製品を売っている。私の親戚の中ではとてもユニークな人だ。
若い頃に編み物の師範手前までいった母は、数年前までたまに、ナオミさんに頼まれて編んだものを、ナオミさんのお店へ納めに行ったりしていた。
「ナオミならわかってくれるのではないか」という期待があったようだ。
しかし、母より10ほど若いナオミさんにとって、マサルさんのことはもっとわからない。
みんな、突然そんなことを言われてもすぐには考えられないのだろう。前の日の母と私と同じである。
それでも、母と彼女彼らとの一連のやりとりからひとまず私に見えてきたのは、
ケイコさんも別の親族からDNA鑑定のことを聞いただけ
DNA鑑定をするかどうかをたずねられただけであって、マサルさんの遺骨であるとは限らない
マサルさんのことを覚えているのは、もはや私の母のみ
私からケイコさんなりトオルさんなりに電話してみようかとも思ったが、二人ともこの件についての連絡を直接受けたわけではない以上、伝言ゲームとなり埒が明かないだろう。
連絡元に直接問い合わせるのが確実だと考え、「戦争 遺骨 DNA鑑定」で検索してみた。そして、こんな事業が現在も進行中であることを知った。
■厚生労働省が実施する遺骨収集事業
厚生労働省が担う援護行政は、終戦に伴う引揚者対策に始まり、その後、戦傷病者及び戦没者遺族等の援護などの問題に対応しつつ、種々の変遷を経て、今もなお、戦争によって残された問題の解決に取り組んでいます。その一環として先の大戦による戦没者の遺骨収集事業を国の責務として実施しています。
「戦没者遺族等への援護」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/index.html
母と話しながら、私たちとしてはどうしたいか考えた。
DNA鑑定よりも、マサルさんはいつ、どこで、どのように亡くなったかを知っておきたい
遺骨を引き取れない場合はどうなるのか確認したい
他の親族と一緒にでなくても、私たちだけでもマサルさんを供養したい
厚労省の担当連絡先に早速電話をかけてみた。
ワンコールでつながったことに一瞬驚いた。
こちらの状況と要望をひと通り伝えた結果、以下のような回答が得られた。
DNA鑑定は義務ではないので、希望しないのであれば不要
遺骨を引き取らない場合は、東京千鳥ヶ淵にある戦没者墓苑に納めてもらえる
戦没地等は厚労省からの通知に記載されていると思われる
DNA鑑定の件とは別に、軍歴を取り寄せて戦没地等を確認することもできる
戦没者であるマサルさんのフルネームと本籍地がわかれば、今回の通知の内容を先方で確認できるとのことだったので、母から聞いたものを伝えた。
1分ほどの保留音のあと、それまでよりも2段階くらい低くなったトーンの声で、
「お待たせいたしました。ちょっと、そのお名前では通知をお送りした記録が見当たらないのですが・・・」
先方はとても困惑されていた。それでも、マサルさんの戸籍を取ることができれば軍歴開示の申請はできることを教えてくださった。
そこで、まずはマサルさんの戸籍を取ってみると先方に伝え、電話を切った。
母は、1日おきに週3回、近所のクリニックで午前中いっぱい透析を受けている。看護師さんたちや送迎のドライバーさんたちとも、いつもいろんな話をしているらしい。
今回の件も早速クリニックで話したところ、看護師さんにこんなことを言われたそうだ。
「お金送れって言われたら詐欺やから、気ぃつけてね」
なぬ? そんなこと思いもしなかった。
しかし、通知を送った記録がないというのは、もしかしたらそういうことなのか?
いやいや、いくら詐欺グループでもそんなことまで調べるか?
一気に肩透かしを食らったような気持ちになりかけたが、「戦争で亡くなったマサルさん」が存在したことは確かなわけで、親族である私がマサルさんについて個人的に調べること自体は何の問題もないはず。
変な人にお金を振り込んだりしない限り。ね?
市役所のサイトによると、戸籍を請求できる人は以下のとおり。
(1)戸籍に記載されている本人(請求者本人が婚姻などにより除かれている場合でも、本人であることが戸籍で確認できれば請求できる)
(2)配偶者
(3)父母、祖父母、子、孫など直系尊属・卑属
(4)代理人(委任状が必要)
(5)利害関係にあり戸籍を請求するにあたって正当な権利や義務がある人(第三者請求)
私も母も(1)(2)ではないのでダメ。
(3)の「直系」は「縦のつながり」=親子関係でのつながり。マサルさんは私から見ても母から見ても、祖母(母)から「横につながる弟(傍系)」となり、ダメらしい。
(4)は余計に手間がかかる。(5)もよくわからない。
なので、市役所に電話で問い合わせてみた。
今回の事情をひととおり伝えたところ、私の直系尊属である祖母の親=曾祖父の戸籍を取れば、その子どもの一人であるマサルさんについても、結婚などで曾祖父の戸籍から外れていなければ、亡くなった日や戦没地などが記載されているかもしれないという。
「マサルさんはご結婚されていましたか?」とたずねられたが、私と母にはそこまでわからない。
ただ、出征時はまだ若かったはずなので、結婚の可能性は低いのではないだろうか。
そう思うのは、「曾祖父の戸籍にマサルさんのことが最後まで記載されていてほしい」という私の願いゆえかもしれない。
翌日。
早速市役所へ行き、曾祖父の戸籍を出していただくべく、窓口でもひととおり事情を説明し、申請書を出した。
戸籍とひと口に言っても、時代と共にシステムが更新されている。今回のように、昔の人の生まれてから亡くなるまでの情報を確認する場合は、「改製原戸籍」(法改正前の様式での戸籍)というものを引っぱり出してくる必要があるらしい。
かなりの時間待った。待合スペースのベンチの木製の背もたれが背骨に当たりつづけて痛くなってきたので姿勢を変える。
駐車券の打刻時間を見ると、もう1時間以上経っていた。
待つ間、もともとぼーっと考えを巡らせるのが好きな私の頭の中では、マサルさんを起点にいろんな妄想が広がっていった。
「マサルさんは結婚してたのかな。当時は出征が決まったことで慌てて結婚した人も多かったみたいだし、マサルさんも同じような状況だったかも。
もしここで最後までわからなかったら、次は軍歴か。
なんか、ここでわかってしまうのもちょっと寂しい気がしてきた。軍歴を取り寄せる経験って、結構レア。
探偵さんとか、身元調査する人ってこんな気分なんだろな。
いかん、ワクワクするようなことじゃないはずなのに。マサルさんに怒られる」
やっと私の番号が呼ばれた。若干緊張を感じながら受け取りカウンターへ行った。
「大変お待たせいたしました。
マサルさんのお名前も載ってはいたのですが、マサルさんはこの日付でこの方と養子縁組をされたので、曾おじいさまの戸籍ではそこまでの記録しかありませんでした・・・」
養子縁組とは・・・
一瞬がっかりした一方で、「いよいよ軍歴の開示を申請する理由ができた」という、やっぱりマサルさんに怒られそうな好奇心が、私に別の火をつける。
そして、市役所の方にアドバイスいただいたとおり、祖母とマサルさんのつながりがわかる、曾祖父を戸主(現在の戸籍でいう筆頭者)とした戸籍と、祖母と私のつながりがわかる、私の父を筆頭者とした戸籍との2種類を出していただき、市役所を出た。
これで、私とマサルさんとのつながりが公に認められたことになる。
「ちょっとおかん、マサルさん養子縁組してはったってよ」
「ふん。そうや。サカイやろ」
なんと。
母は、マサルさんの養子縁組のことを、亡くなった祖母を通してとっくの昔に知っていた。ただ、マサルさんの姓が変わっていたことを実感できていなかったようだ。
母の中のマサルさんは、あくまでも「お母さんの弟」であって、お母さんの旧姓と同じ姓だと、当然のように思い込んでいたらしい。
そればかりか、縁組先ともある程度の付き合いはあったらしく、そちらの「サカイ」という姓も、なんの淀みもなくスルッと出てきた。
こういうのも母らしいといえば母らしい。
「なんやー、違う苗字で問い合わせたから記録と合わんかったんやん」
よかった。おそらく詐欺ではない。
看護師さん、ご安心ください。
私がリビングで腰を落ち着かせると、母は、マサルさんの養子縁組の経緯について語り始めた。
縁組先の夫婦には長年子どもができず、年齢的にももう無理だろうということになり、7人兄弟姉妹の末っ子だったマサルさんがその夫婦のもとへ行ったそうだ。
さらに、母自身にも似たような話が持ち上がったことがあったという。それは初耳だぞ。
そして何を隠そう私にも。こちらは私が実家に戻る以前にも何度か聞いていた話である。
私は、男・女・女の三人きょうだいの真ん中。
母の姉である叔母夫婦の子は男の子一人。
幼い頃は特に人見知りが激しく扱いが難しかった私(場面緘黙や選択性緘黙というものだったようだ)だが、なぜか叔母の家族にはさほど警戒心を抱いていなかったこともあり、そんな話が出たそうだ。
どこまで真剣に話されていたのかは知り得ないが、私がその話を聞いた頃のドライな母の様子からは、当時としてそこまで珍しい話でもなさそうな雰囲気だったように記憶している。マサルさんの時代であればなおさらだ。
ただ、私や母は「養子に出されそうになった」だけで、実際にそうなったわけではない。
戸籍によると、マサルさんが生まれたのは大正12年、養子縁組がされたのは昭和16年。第2次大戦が始まって間もない頃で、マサルさんは18、9歳。
やがてマサルさんは、白い大きな襟の水兵服を着て、戦地へ赴くことになる。
『それでは姉上、行って参ります』
厚労省サイトによると、軍歴を取り寄せる方法は、戦没者本人が旧陸軍と旧海軍のどちらに所属していたかにより異なるらしい。
「旧陸海軍から引き継がれた資料の写し等の申請について」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000093051.html
マサルさんは、写真の中でも母の記憶の中でも水兵の格好をしていたので海軍のはず。
旧海軍の場合、「旧軍人軍属の個人情報開示申請書」というものに、所定の身元確認書類(本人と申請者の続柄がわかる戸籍謄本等、その他)を添付して、厚生労働省 社会・援護局 援護・業務課 調査資料室に送付する。
申請書の項目の中には、刑罰や病歴等に関する事項が記載されていた場合に開示を希望するかどうかを問うものがあった。
マサルさんの名誉のために、ネガティブな記録には触れないほうがよいのだろうか。悩ましいところだ。
しかし、「何か隠れているかもしれない」と一旦思ってしまうと余計に変な妄想が広がり、そんなことは全くなかったとしても、「ひょっとすると」という不要な疑念が永遠に残ってしまう気がする。
母に確認すると、「よぉわからんわ」との回答だったが、思い切り都合よく解釈させていただき、ネガティブな事項も含めて開示を希望することにした。
もし何かあったとしても、それがマサルさんの姿であって、それによって、私たちがマサルさんをジャッジするものではない。
母と私は、ただ、マサルさんがどのような人生を辿ったのか、という事実を知っておきたい。
そのうえで、ご挨拶をさせていただきたい。
今日、マサルさんの軍歴照会の書類一式を、厚生労働省社会・援護局宛に、近所の簡易郵便局の窓口から送付した。
母が最初にケイコさんの電話を受けてからのこの数日間で、マサルさんの話が母方の親族の間で少しずつ広がっていったようだ。また別の親族から母に連絡がきたらしい。
母は、やっと話が通じるようになってきた、といった様子で、また私に話してくれる。
母を通してあちらこちらから出てきた情報によると、祖母の実家近くのお寺に、マサルさんを含む、先の大戦での戦没者の方々の慰霊碑があるそうだ。
厚労省からの通知も誰かのところにあったようで、そこには戦没地も記載されているらしい。どこか外国の海だという。
母の口から出てきているのは、いまのところそういう解像度の話である。
ひょっとすると、電話口からは、なにかカタカナの文字列が聞こえていたのかもしれないが、いまはまだそこまでにしておこう。
私は好きなおかずを最後に残しておく派だ。
厚労省から私宛に郵便物が届くころには、母はもうマサルさんの軍歴にまでは興味がなくなっているかもしれない。
もともと、戸籍や軍歴を調べてみたいと思ったのは私である。
今度はどのくらい待つことになるのだろう。
あまりに長くなると、私の頭の中でさえ、マサルさんの存在が薄れていってしまうかもしれない。
願わくば、さらなる問題が生じて、別のややこしい手続きが必要になったりしないだろうか。
ダメだ。またマサルさんに怒られる。
あれからさらに何日か経った。厚労省からの郵便物はまだ届かない。
母は、リビングの定位置に着いて、所々癖のある小さな手書き文字で書かれた曾祖父の改製原戸籍のコピーを、たまに引き出しから取り出して興味深そうに眺めている。
「なんて書いてるんか読めんけど、おもろいな」と、軽く笑いながら、古い親族の生年月日や昔の地名などを、ゆっくり声に出して読んでいる。
そして最近の私は、吉野の山の奥の方にある祖母の実家近くのお寺まで母を無事に連れて行けるよう、Googleストリートビューで繰り返しドライブシミュレーションをしている。