
縁を喰うもの 第一部 完 第六章
第一部
第六章
境界はまだ終わっていない
光の道は、祭壇の向こうへ静かに伸びていた。
崩れていた鳥居は本来の朱を取り戻し、風が吹くたび幾つもの鈴が澄んだ音を響かせる。ほんの少し前まで闇に覆われていたとは思えないほど、辺りは穏やかな空気に包まれていた。
それでも、俺の足は動かなかった。
帰れる。
そう分かっているのに、胸の奥のざわめきだけは消えない。
「行かねぇのか。」
ギンが静かに声を掛ける。
俺は光の道から目を離さないまま、小さく首を振った。
「……まだ終わってない気がする。」
シグレは巡礼記を見つめていた。表紙に浮かぶ鈴と鳥居の紋が、淡く光を放っている。
その時だった。
胸元の御守りが小さく震えた。
……チリン。
鈴の音に応えるように、巡礼記がひとりでに開く。
誰も触れていない。
それでも頁は静かにめくられ、最後の白紙だった場所へ黒い文字が浮かび上がっていく。
『境界は癒えず。』
続いて、もう一行。
『傷は閉じても、穢れは残る。』
シグレが静かに息を吐いた。
「そういうことか。」
「何が分かった。」
ギンが問い掛ける。
シグレは祭壇の中央へ視線を向けた。
「宗一と小夜の縁は戻った。鳥居も力を取り戻し始めている。だが、境界そのものはまだ傷付いたままだ。」
俺も祭壇を見る。
石畳の中央に、髪の毛ほど細い亀裂が残っていた。
その奥から、黒い靄がゆっくりと滲み出している。
「まだ終わってねぇってことか。」
ギンが低く呟いた。
その瞬間、地の底から鐘を打つような音が響いた。
ゴォン――。
祭壇全体が震え、鳥居という鳥居の鈴が一斉に鳴り始める。
チリン。
チリン。
チリン。
穏やかな音ではなかった。
まるで、何かを知らせる警鐘だった。
俺は反射的に御守りを握る。
さっきまで温もりを感じていた御守りが、急に冷たくなった。
「来るぞ。」
シグレの声と同時に、祭壇の亀裂から黒い霧が立ち上る。
ゆっくりと。
まるで呼吸をするように。
霧は空へ昇ることなく、その場で渦を巻き始めた。
風向きが変わる。
光を取り戻した鳥居が、小さく軋んだ。
「宗玄は……。」
俺は思わず呟く。
「宗玄はもういないはずだ。」
シグレは静かに首を横へ振る。
「宗玄は原因ではない。」
巡礼記の頁が静かに震えた。
そこへ浮かび上がったのは、たった五文字。
『縁を喰うもの』
俺は、その文字を見つめたまま息を呑む。
その時、黒い霧の奥で何かが動いた。
人影だった。
男とも女ともつかない輪郭。
顔は見えない。
それでも、こちらを見ていることだけは分かった。
ギンが刀へ手を掛ける。
「今までの奴とは違うな。」
シグレも頷く。
「ああ。」
「夜喰い鹿とも違う。」
「境界の番人とも違う。」
巡礼記が再び震える。
今度は文字ではなく、一枚の絵が浮かび上がった。
朱色の鳥居。
青い空。
笑い合う人々。
子どもたちが走り回り、旅人が一礼して鳥居をくぐっていく。
「……昔の安井結ノ宮か。」
ギンが小さく呟く。
その瞬間、絵の中で鈴が揺れた。
……チリン。
風が吹く。
木々が揺れる。
描かれていたはずの人々が歩き始める。
「絵じゃない。」
思わず声が漏れた。
シグレも巡礼記を覗き込み、静かに息を呑む。
「これは記憶だ。」
「巡礼記が、幾百年前の記憶を映している。」
風の匂いが変わる。
土の香り。
草木の匂い。
遠くで薪の燃える香りまで漂ってきた。
俺は一歩踏み出す。
足元の感触が変わる。
冷たい祭壇の石ではない。
陽の温もりを残した石畳だった。
「……俺たちは。」
ギンが辺りを見回す。
「記憶の中へ入ったのか。」
シグレは静かに頷く。
「そうらしい。」
巡礼記の頁へ、新たな文字が浮かぶ。
『見るだけではない。』
『忘れられた記憶を継げ。』
風が吹いた。
頬を撫でる風は暖かく、どこか懐かしい匂いがした。
祭壇に満ちていた黒い靄は跡形もなく消え、目の前には幾百年前の安井結ノ宮が静かに息づいていた。
朱塗りの鳥居は陽を浴びて輝き、参道には笑顔の絶えない人々が行き交っている。
旅人は鳥居の前で一礼し、家族連れは手を合わせ、幼い子どもたちは鈴の音に笑いながら境内を駆け回っていた。
「これが……本来の安井結ノ宮。」
俺は思わず呟いた。
ギンは腕を組み、辺りを見回す。
「争いの気配がねぇ。」
「まるで別の場所だ。」
「ああ。」
シグレも静かに頷く。
「ここには、まだ悲しみが生まれていない。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
一人の青年が鳥居の下へ歩いてくる。
年の頃は二十五、六だろうか。
白い狩衣を身にまとい、首元には小さな鈴が結ばれている。
旅人たちは青年の姿を見ると自然と頭を下げ、青年も一人ひとりへ穏やかな笑顔を返していた。
子どもが駆け寄る。
「お兄ちゃん!」
青年はしゃがみ込み、小さな頭を優しく撫でた。
「今日は元気ですね。」
「うん!」
「お母さんとお参りに来た!」
「それは良かった。」
その笑顔には作った優しさがなかった。
この場所を訪れる人々を、本当に大切に思っていることが伝わってくる。
「……あの人か。」
ギンが小さく呟く。
「ああ。」
俺も目を離せなかった。
青年は鳥居へ向き直ると、静かに一礼した。
その姿には迷いがない。
毎日、当たり前のように続けてきた所作なのだろう。
風が吹く。
鳥居の鈴が澄んだ音を響かせる。
……チリン。
その音に合わせるように、青年は目を閉じた。
「今日も、この場所へ来られたすべての方が、大切な人との縁を結び、また歩き出せますように。」
静かな祈りだった。
だが、その一言に境内の空気まで柔らかくなるような気がした。
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ここは願いを叶える場所ではない。
人が、人を想い続けることを忘れない場所なのだ。
その時だった。
青年がゆっくりと顔を上げる。
そして――。
真っ直ぐこちらを見た。
「……え。」
思わず声が漏れる。
青年は確かに俺たちを見ていた。
「来てくださったのですね。」
穏やかな声だった。
ギンが目を見開く。
「おい……。」
「見えてやがる。」
青年はゆっくり歩み寄る。
参拝客は誰一人、その姿を不思議に思わない。
まるで俺たちだけが、この時間へ招かれた客人であるかのようだった。
青年は俺の目の前で足を止める。
そして静かに微笑む。
「ようこそ、安井結ノ宮へ。」
「私は、この宮を預かる者です。」
俺は戸惑いながら問い掛ける。
「俺たちが見えるのか。」
「はい。」
青年は迷いなく頷いた。
「巡礼記があなた方をここへ導いたのです。」
「ならば、お会いできる日が来ることも知っていました。」
その言葉に、シグレが小さく眉をひそめる。
「私たちを……待っていたのか。」
青年は空を見上げる。
その笑顔が、ほんの少しだけ寂しげに揺れた。
「ええ。」
「幾百年もの間。」
風が止んだ。
境内から、人々の笑い声がふっと消える。
空気が静まり返る。
青年は鳥居へ視線を向けたまま、小さく呟いた。
「ですが……。」
「残された時間は、もう多くありません。」
その一言と同時に。
青く晴れていた空の端が、墨を流したようにゆっくりと黒く染まり始めた。
黒く染まった空を見上げても、人々は誰一人として異変に気付いていなかった。
旅人は笑いながら鳥居をくぐり、親は子どもの手を引き、境内には穏やかな時間が流れ続けている。
「見えていない……。」
俺が呟くと、青年は静かに頷いた。
「災いは、いつも人の目に映らぬところから始まります。」
その声に恐怖はなかった。
何度も、この光景を見てきた者だけが持つ諦めにも似た静けさだった。
青年は鳥居へ歩み寄り、そっと柱へ手を添える。
「この鳥居は、人と人との縁を結ぶ道標です。」
「悲しみを消すことはできません。」
「別れをなくすこともできません。」
「ですが、前を向いて歩き出す力を、人へ返すことはできます。」
風が吹く。
鈴が優しく鳴る。
……チリン。
その澄んだ音に、参拝していた人々は自然と笑みを浮かべる。
俺はその光景を見つめながら、結月と訪れた安井結ノ宮を思い出していた。
あの日も、この鈴の音を聞いた。
願い札を書き、御守りを受け取り、二人で鳥居をくぐった。
胸元の御守りを握ると、微かな温もりが指先へ伝わってくる。
その時だった。
一人の老人が参道をゆっくりと歩いてきた。
旅装束は土埃にまみれ、長い旅を続けてきたことが一目で分かる。
青年はすぐに歩み寄った。
「ようこそ、お帰りなさい。」
老人は目を細め、深く頭を下げる。
「ようやく……帰って来られました。」
その言葉に、青年は穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、お参りください。」
老人はゆっくり鳥居へ向かう。
一歩。
また一歩。
朱色の鳥居をくぐろうとした、その瞬間だった。
風が止む。
鈴の音も止む。
辺りから音という音が消え失せた。
「……?」
老人の足元へ、小さな黒い染みが落ちる。
最初は墨を一滴こぼした程度だった。
だが、その黒は生き物のように石畳を這い、老人の影へ静かに溶け込んでいく。
青年の表情が変わる。
「いけない!」
駆け出した、その刹那。
老人の身体が小さく揺れた。
「……あれ。」
老人は困ったように周囲を見回す。
青年は老人の肩へ手を伸ばす。
「大丈夫ですか。」
老人は青年を見る。
いや――。
見ているはずなのに、その目には何の感情も宿っていなかった。
「失礼ですが……。」
老人は静かに首を傾げる。
「あなたは、どちら様ですかな。」
青年の手が止まる。
その一言だけで、空気が凍り付いた。
ギンが小さく息を呑む。
「まさか……。」
老人は本当に青年を知らない目をしていた。
ついさっきまで笑顔で「帰って来られました」と言葉を交わしていたはずなのに。
その記憶だけが、綺麗に失われていた。
巡礼記が静かに開く。
白紙だった頁へ、黒い文字が浮かび上がる。
『最初に失われるのは、記憶ではない。』
続いて、もう一行。
『その人を想う縁である。』
俺の背筋を冷たいものが走った。
「これが……。」
シグレは巡礼記から目を離さず、小さく呟く。
「縁を喰うもの。」
青年は力なく手を下ろす。
悲しそうに笑いながら、それでも老人へ深く一礼した。
「……どうか、お気を付けて。」
老人は不思議そうな顔のまま一礼を返し、何事もなかったように境内の奥へ歩いていく。
その背中を見送る青年の姿が、あまりにも静かで、あまりにも切なかった。
老人の姿が人混みへ消えても、青年はその場を動かなかった。
鳥居へ添えた手が、小さく震えている。
「……また。」
その声は風に溶けるほど小さかった。
「また、一人。」
俺は青年の隣まで歩み寄る。
「今の人は。」
青年はしばらく答えなかった。
やがて静かに息を吐く。
「あの方は、毎年この宮へ来られていました。」
「旅立つ時も。」
「帰って来られた時も。」
「必ず、この鳥居へ一礼してくださった。」
青年は微笑もうとする。
だが、その笑顔はすぐに崩れた。
「私は、その方のお名前も、ご家族のお顔も知っています。」
「それなのに。」
「私は、あの方の記憶から消えてしまいました。」
俺は何も言えなかった。
慰めの言葉では届かない。
幾百年もの間、同じ悲しみを見続けてきた人の前では、どんな言葉も軽く思えた。
ギンが帽子を深くかぶり直す。
「それでも、お前はここを守り続けたのか。」
青年は頷く。
「守らなければならない約束でしたから。」
「約束?」
「はい。」
青年は鳥居を見上げる。
朱色の柱は夕陽を浴び、美しく輝いている。
「この宮は、願いを叶えるためだけの場所ではありません。」
「人が帰って来られる場所であるために存在しています。」
「帰る場所……。」
俺は小さく繰り返した。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
結月も言っていた。
『帰って来ようね。』
あの日、鳥居をくぐる前に笑っていた結月の姿が脳裏をよぎる。
青年は参道を歩く人々へ視線を向けた。
子どもたちは笑い、夫婦は肩を並べ、旅人は静かに手を合わせている。
「誰かを待つ人がいる。」
「帰りを願う人がいる。」
「だから人は、前を向いて歩けるのです。」
その時だった。
遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。
「おかあさーん!」
幼い男の子が、人混みの中で立ち尽くしている。
辺りを見回し、不安そうに涙を浮かべていた。
青年は迷わず駆け寄る。
「大丈夫。」
優しく膝をつき、子どもの目線に合わせる。
「お母さんとはぐれたのですか。」
男の子は涙を拭きながら頷いた。
「すぐに見つかりますよ。」
青年は微笑み、小さな手を握る。
その瞬間だった。
男の子の足元へ、また黒い染みが落ちる。
ぽたり。
墨を落としたような、小さな黒。
青年の笑顔が消えた。
「……来た。」
低く呟いた、その声と同時に。
さっきまで晴れていた空を、一羽の黒い鳥が音もなく横切った。
その影が、境内をゆっくりと覆っていく。
巡礼記の頁が、風もないのに勢いよくめくれ始めた。
一枚。
また一枚。
そして最後に止まった頁へ、たった一文だけが浮かび上がる。
『悲劇は、繰り返される。』
巡礼記に浮かんだ文字は、墨が滲むようにゆっくりと広がり、やがて静かに消えていった。
『悲劇は、繰り返される。』
「繰り返される……。」
俺はその言葉を呟き、目の前の男の子へ視線を向けた。
男の子は何も知らない。
母親とはぐれ、不安そうに青年の手を握っているだけだった。
青年は男の子の小さな手を包み込むように握り返し、優しく微笑んだ。
「大丈夫です。」
「必ず、お母さんに会えます。」
その声は穏やかだった。
けれど、その瞳の奥には隠しきれない焦りが宿っていた。
黒い染みは少しずつ広がり、男の子の影へ溶け込んでいく。
青年はその様子を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
「また……間に合わないのか。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず前へ踏み出した。
「待っているだけじゃ駄目だ。」
ギンが振り向く。
「レン。」
「これは過去なんだろ。」
「ああ。」
「だったら、本当に何も変えられないのか。」
シグレは巡礼記へ目を落としたまま静かに答えた。
「分からない。」
「だが、お前がここへ呼ばれたことには理由がある。」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
俺は御守りを強く握る。
冷たかったはずの鈴が、わずかに温もりを取り戻していた。
……チリン。
澄んだ音が境内へ響く。
その音に気付いたように、男の子がゆっくりと顔を上げた。
「……鈴。」
涙で濡れた瞳が、小さく揺れる。
「この音、知ってる。」
青年が息を呑む。
「覚えているのですか。」
男の子は首を傾げた。
「分からない。」
「でも、この音を聞くと……。」
幼い手が、自分の胸へそっと触れる。
「帰りたくなる。」
その言葉に、青年は目を閉じた。
「そうです。」
「その気持ちを忘れてはいけません。」
「人は帰る場所を思い出すからこそ、前へ歩けるのです。」
その時だった。
境内の奥から、一人の女性が駆けてくる。
「いた!」
泣きながら男の子を抱き締める。
「良かった……本当に良かった。」
男の子も安心したように母親へしがみつく。
青年は静かに微笑み、その様子を見守っていた。
だが次の瞬間。
母親の視線が青年を通り過ぎる。
まるで、そこに誰もいないかのように。
「さあ、帰ろう。」
男の子の手を引き、鳥居の外へ歩き出す。
男の子だけが一度振り返り、小さく手を振った。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
青年も微笑み返し、静かに手を振る。
けれど母親は最後まで、青年へ一度も目を向けることはなかった。
その姿を見送りながら、青年は寂しそうに笑う。
「これで、いいのです。」
「私を忘れても。」
「大切な人のもとへ帰れるのなら。」
その笑顔があまりにも優しくて、あまりにも切なくて。
俺は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。
その時、境内の空気が不意に冷えた。
青年の表情が変わる。
「……来ます。」
風が止む。
鳥居の鈴が、一斉に鳴り止んだ。
境内を包む静寂の中、参道の奥からゆっくりと、一つの黒い影が歩いてくる。
誰も、その存在に気付かない。
笑い合う人々の間を、影だけが静かに、こちらへ近づいていた。
黒い影は、ゆっくりと参道を歩いていた。
人々の間をすり抜けても、誰一人として振り返らない。
まるで、最初からそこに存在していないかのようだった。
「誰も見えていない……。」
俺が呟くと、青年は静かに頷く。
「あれが見える者は、多くありません。」
「縁が揺らいだ者だけです。」
影は足を止めることなく、真っ直ぐ鳥居へ向かって歩いてくる。
一歩。
また一歩。
その足取りは重くも軽くもない。
ただ、どこか帰る場所を探しているようだった。
不思議と恐怖は感じない。
胸を締め付けられるような、深い寂しさだけが伝わってくる。
「レン。」
シグレが小さく声を掛けた。
「目を逸らすな。」
「ああ。」
俺は影から目を離さなかった。
やがて影は鳥居の前で立ち止まる。
朱色の柱を見上げ、何かを思い出そうとするように、そっと手を伸ばした。
その瞬間。
鳥居の鈴が鳴る。
……チリン。
澄み切った音だった。
影の手が止まる。
黒い霧が小さく揺れた。
「……この音。」
初めて、はっきりと言葉が聞こえた。
「知っている。」
青年は息を呑む。
「思い出せるのですか。」
影は苦しそうに首を押さえる。
「分からない。」
「だが、この音だけは……忘れられない。」
巡礼記が静かに開く。
白紙だった頁へ、一行だけ文字が浮かび上がる。
『記憶は失われても、想いは残る。』
風が吹いた。
鳥居の鈴がもう一度鳴る。
……チリン。
影はゆっくりと鳥居へ触れる。
黒い霧に包まれていた指先が、その瞬間だけ人の手へ戻った。
温かな肌。
震える指先。
ほんの一瞬だった。
だが確かに、人の手だった。
「戻った……。」
ギンが思わず声を漏らす。
青年は静かに微笑む。
「鳥居が覚えているのです。」
「この方のことを。」
その言葉に、影は大きく肩を震わせた。
「鳥居が……私を。」
「忘れて……いない。」
その声には、驚きと安堵が入り混じっていた。
次の瞬間だった。
境内を覆っていた黒い雲が大きく渦を巻き、空の奥から低い唸り声のような音が響く。
ゴォォォ……。
青年の表情が一変する。
「いけない。」
「これは……!」
巡礼記の頁が激しくめくれ始める。
一枚。
また一枚。
そして最後に止まった頁へ、力強く文字が刻まれた。
『まだ終わっていない。』
続いて、ゆっくりと二行目が現れる。
『真の悲劇は、これから始まる。』
その文字が浮かび上がると同時に、境内全体が眩い光に包まれた。
俺は思わず目を閉じる。
そして光が消えた時――。
目の前から、青年の姿が消えていた。
青年の姿は消えていなかった。
いや。
消えたのではない。
景色そのものが変わったのだ。
眩い光がゆっくりと薄れていく。
俺は目を開けた。
そこは、さっきまで立っていた鳥居の前ではなかった。
境内の裏手。
木々に囲まれた細い石畳の先に、小さな社が静かに佇んでいる。
「あそこは……。」
ギンが目を細める。
青年は社の前に立ち、深く頭を下げていた。
その姿には、先ほどまでの穏やかな空気はない。
張り詰めた緊張だけが漂っていた。
シグレが巡礼記へ目を落とす。
頁には短く一文だけ記されている。
『ここより先、誰も知らない。』
青年はゆっくりと社の扉へ手を掛ける。
その手は、小さく震えていた。
「今日だけは……。」
誰へ語り掛けるでもなく、小さく呟く。
「どうか、何事もありませんように。」
扉が静かに開く。
ギィ……。
社の中には無数の木札が納められていた。
一枚一枚が大切に磨かれ、静かに並んでいる。
青年は一本の木札を手に取り、優しく布で拭いた。
「皆さんの想いが、どうか途切れませんように。」
その声には祈りが込められていた。
俺は思わず息を呑む。
この人は毎日、こうして誰かの名前を守り続けてきたのだ。
その時だった。
社の外から、小さな足音が聞こえる。
コツ……
コツ……
青年が振り返る。
そこには、あの男の子が立っていた。
「どうしたんですか。」
青年が微笑むと、男の子は少し照れくさそうに笑った。
「鈴の音が聞こえたから。」
「また来ちゃった。」
青年も笑う。
「そうでしたか。」
「では、一緒に鈴を鳴らしましょう。」
男の子は嬉しそうに頷く。
青年と並んで鈴の前へ立ち、小さな手で紐を握った。
二人は顔を見合わせる。
「せーの。」
……チリン。
澄み切った鈴の音が、社いっぱいに響き渡る。
その音を聞いた瞬間だった。
巡礼記が大きく震えた。
シグレの表情が険しくなる。
「レン。」
「ああ。」
俺も気付いていた。
今鳴った鈴の音は、さっきまでの音とは違う。
どこか悲しみを含んでいる。
まるで、この穏やかな時間がもう長くは続かないことを知っているようだった。
青年は何も気付かないまま、男の子へ優しく語り掛ける。
「約束してください。」
「はい。」
「どんなことがあっても。」
青年は男の子の目を真っ直ぐ見つめる。
「自分の名前を、大切にしてください。」
男の子は不思議そうに首を傾げながらも、小さく頷いた。
「うん!」
その無邪気な返事に、青年は安心したように微笑んだ。
けれど、その笑顔を見た瞬間。
俺の胸は、理由もなく締め付けられた。
この約束こそが。
幾百年の悲劇の始まりになることを。
巡礼記だけが、静かに知っていた。
男の子は嬉しそうに鈴の紐から手を離した。
「また来てもいい?」
青年は穏やかに頷く。
「もちろんです。」
「この宮は、いつでも帰って来られる場所ですから。」
男の子は満面の笑みを浮かべると、小さく手を振りながら石段を駆け下りていった。
「またね!」
「ええ。またお会いしましょう。」
青年も笑顔で手を振り返す。
その姿を見届けながら、俺は胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
「レン。」
ギンが低く声を掛ける。
「あの子の後ろ。」
俺は視線を向ける。
石段を駆け下りる男の子の足元。
夕陽に伸びる影が、一瞬だけ二つに見えた。
目を凝らす。
次の瞬間には、もう一つの影は消えていた。
「見間違いか……。」
そう思った時だった。
シグレが巡礼記を強く握り締める。
「違う。」
その声には、はっきりとした緊張があった。
「もう始まっている。」
巡礼記の頁へ、新しい文字が浮かび上がる。
『縁は、一度に失われるものではない。』
さらに、ゆっくりと文字が続く。
『小さな綻びは、静かに広がる。』
風が止んだ。
境内から聞こえていた笑い声が、不自然なほど遠く感じられる。
青年も、その異変に気付いたようだった。
「……おかしい。」
鳥居へ視線を向ける。
参道を歩いていた人々は変わらず笑っている。
旅人も、家族連れも、何も変わらない。
だが。
鳥居に結ばれた一本のしめ縄だけが、ゆっくりとほどけ始めていた。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
それでも、固く結ばれていた結び目が少しずつ緩んでいく。
青年は息を呑んだ。
「そんな……。」
急いで鳥居へ駆け寄り、しめ縄へ手を伸ばす。
しかし、その指先は届かなかった。
青年の手は、しめ縄をすり抜けてしまったのだ。
「……え。」
青年は自分の手を見つめる。
もう一度、そっと触れようとする。
それでも触れられない。
まるで、自分だけがこの世界から少しずつ切り離されているようだった。
「レン。」
シグレが静かに呟く。
「見ろ。」
俺は青年の足元へ目を向けた。
そこにあるはずの影が――。
少しだけ、薄くなっていた。
その瞬間、青年もようやく気付く。
自分の姿が、この世界から静かに忘れられ始めていることを。
青年は何度も鳥居へ手を伸ばした。
だが、その手は何度触れようとしても朱色の柱をすり抜けてしまう。
「そんな……。」
青年は自分の両手を見つめる。
震えている。
それは恐怖ではなかった。
長い年月を守り続けてきた場所へ、初めて触れられなくなった者の戸惑いだった。
俺は思わず一歩踏み出す。
「何が起きてるんだ。」
シグレは巡礼記から目を離さずに答えた。
「縁が薄れている。」
「人との縁だけではない。」
「この宮との縁までも。」
その言葉に、青年は静かに目を閉じた。
「……始まってしまった。」
苦しそうな声だった。
「私は、守れないのですね。」
ギンが一歩前へ出る。
「まだそう決めるには早ぇ。」
青年は小さく笑った。
「ありがとうございます。」
「ですが、これは私だけの力では止められません。」
風が吹く。
鳥居の鈴は鳴らない。
さっきまで境内に満ちていた温かな空気が、少しずつ遠ざかっていく。
その時だった。
石段を駆け下りたはずの男の子が、突然立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。
青年を見つめる。
そして、不思議そうに首を傾げた。
「あれ……?」
小さな声だった。
青年は優しく笑い返す。
「どうしました。」
男の子は困ったように眉を寄せる。
「ぼく……。」
「さっきまで、お兄ちゃんと話してたよね。」
青年の瞳が揺れる。
男の子は胸へ手を当てる。
「なのに。」
「お兄ちゃんの名前が思い出せない。」
巡礼記が静かに震えた。
頁へ一文だけ浮かび上がる。
『忘却は、名から始まる。』
続いて、もう一行。
『だが、想いまでは奪えない。』
青年は男の子へ歩み寄る。
今度は、その手は届いた。
そっと小さな頭を撫でる。
男の子は安心したように笑った。
「よかった。」
「まだ、触れる。」
青年はその笑顔を見つめ、穏やかに微笑む。
「名前を忘れても、構いません。」
男の子は目を丸くした。
「え?」
「いつか思い出せます。」
「でも。」
青年は胸へ手を当てる。
「誰かを大切に思った気持ちは、決して消えません。」
「だから。」
「その気持ちだけは、大事にしてください。」
男の子はゆっくり頷いた。
「うん!」
その返事を聞いた瞬間だった。
社の奥から、今までで一番澄んだ鈴の音が響く。
……チリン。
その音は優しく、どこか懐かしかった。
青年は静かに空を見上げる。
その表情には悲しみが残っていた。
それでも、その瞳には小さな希望の光が宿り始めていた。
そして俺は、その横顔を見ながら確信する。
この人は最後まで諦めなかった。
だからこそ、幾百年もの時を越えて、俺たちはこの記憶へ導かれたのだ。
鈴の余韻は、いつまでも境内へ響いていた。
……チリン。
青年は静かに目を閉じ、その音へ耳を澄ませる。
「まだ……。」
小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「この宮は、私を見放してはいません。」
その言葉に、シグレが巡礼記を閉じる。
「宮が、お前を覚えている。」
青年は頷いた。
「ええ。」
「人は忘れることがあります。」
「ですが、この場所は違います。」
「ここへ託された願いも。」
「流した涙も。」
「交わした約束も。」
「すべて、この宮は覚えています。」
俺は鳥居を見上げた。
朱色の柱は夕暮れに照らされ、まるで静かに呼吸をしているようだった。
風が吹く。
鳥居の鈴が、もう一度だけ優しく鳴る。
……チリン。
その音に応えるように、巡礼記がゆっくりと開いた。
今度は文字ではない。
白紙だった頁へ、一枚の地図が浮かび上がる。
境内。
鳥居。
社。
そして、今まで描かれていなかった一本の細い道。
「これは……。」
ギンが身を乗り出す。
地図の先には、小さな丸印が描かれていた。
青年の表情が変わる。
「そんな……。」
「まだ残っていたのですか。」
シグレが静かに尋ねる。
「知っている場所なのか。」
青年はしばらく地図を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「あそこは、誰も近付いてはならない場所でした。」
「守り人である私でさえ、一度も足を踏み入れることは許されなかった。」
俺は巡礼記へ視線を落とす。
丸印の横へ、新たな文字が浮かび上がる。
『始まりの社』
その四文字を見た瞬間。
青年の顔から笑みが消えた。
「……そういうことだったのですね。」
その声には驚きよりも、長い年月を経てようやく答えへ辿り着いた者の静かな納得が滲んでいた。
「私たちは、ずっと終わりを探していました。」
青年は俺を真っ直ぐ見つめる。
「ですが、本当に向かうべきだったのは、終わりではなかった。」
「始まり……。」
俺が呟く。
青年は静かに頷いた。
「すべてが始まった場所です。」
その瞬間だった。
境内の奥から、一陣の風が吹き抜ける。
木々がざわめき、鳥居の鈴が一斉に鳴り響く。
チリン。
チリン。
チリン。
巡礼記の頁がひとりでにめくれ、最後に一文だけが静かに浮かび上がった。
『真実は、始まりの社に眠る。』
俺はその文字を見つめながら、胸元の御守りを強く握った。
不思議と迷いはなかった。
この旅は、まだ終わっていない。
本当に辿り着くべき場所が、ようやく姿を現したのだから。
巡礼記に浮かんだ文字は、淡い光を残したまま静かに消えていった。
境内には再び風が戻る。
木々が揺れ、鈴が小さく鳴る。
……チリン。
青年は地図を見つめたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「ようやく、この時が来たのですね。」
その横顔には悲しみではなく、長い年月を待ち続けた者だけが浮かべる穏やかな表情があった。
「行きましょう。」
青年は静かに歩き出す。
巡礼記が示した細い道は、境内の裏山へ続いていた。
人が踏み固めた参道とは違う。
木々に覆われ、ほとんど誰も通った形跡のない小径だった。
「こんな道があったのか。」
ギンが辺りを見回す。
青年は苦笑する。
「守り人でさえ、存在だけしか知りませんでした。」
「許された者だけが見つけられる道です。」
俺たちは青年の後を追う。
歩みを進めるたび、境内の賑わいは遠ざかっていく。
代わりに聞こえてくるのは、木の葉が触れ合う音と、小川のせせらぎだけだった。
しばらく歩くと、青年が足を止める。
その先には、小さな石橋が架かっていた。
幅は人が一人通れるほどしかない。
橋の向こうは深い霧に包まれ、その先を見通すことはできなかった。
「この橋を渡れば、始まりの社です。」
青年はそう言って橋の手前で立ち止まる。
しかし、自ら橋を渡ろうとはしない。
「行かないのか。」
俺が尋ねると、青年は静かに首を横へ振った。
「私は渡れません。」
「どうしてだ。」
青年は少し寂しそうに笑う。
「私は、この時代の人間だからです。」
「ここから先は、未来を生きる者だけが進めます。」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
ギンもシグレも黙ったまま橋を見つめている。
風が吹く。
霧がゆっくりと揺れた。
その奥で、誰かが鈴を鳴らしたような音が聞こえる。
……チリン。
青年は俺を真っ直ぐ見つめる。
「レン。」
異世界へ来てから呼び慣れた、その名だった。
「あなたがここへ来た理由は、この先にあります。」
「私は、もう案内することしかできません。」
俺は胸元の御守りを握る。
温かな鼓動のように、鈴が小さく震えた。
「分かった。」
そう答えると、青年は安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「その言葉を、幾百年待っていました。」
俺は石橋へ一歩足を乗せる。
その瞬間だった。
巡礼記がひとりでに開き、最後の頁へ一文だけが浮かび上がる。
『ここより先、運命は未来へ託される。』
俺は橋の向こうに広がる霧を見つめた。
あの先に、すべての始まりがある。
そして、きっと――。
すべてを終わらせる答えも。
その言葉に応えるように、巡礼記の表紙が淡く輝いた。
橋の向こうから、一陣の風が吹き抜ける。
それは、新しい旅の始まりを告げる風だった。
俺はもう一度、青年の方を振り返った。
青年は鳥居の前へ静かに立ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
その姿は、初めて出会った時と何も変わらない。
まるで、この宮そのものが人の姿を借りて立っているようだった。
「朝倉悠斗。」
静かな声だった。
俺は思わず目を見開く。
その名を、この世界で聞くのは初めてだった。
ギンも驚いたように俺を見る。
「……悠斗?」
シグレも言葉を失っている。
青年はゆっくりと頷いた。
「その名が、あなたの本当の名前。」
「巡礼記は、名を偽りません。」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
異世界では"レン"として生きてきた。
それは、この世界で俺を守るための名前だった。
けれど。
朝倉悠斗という名もまた、結月と共に生きてきた大切な名前だった。
青年は一歩だけ近づき、御守りへ視線を落とす。
「この宮は、名前を奪う場所ではありません。」
「忘れかけた名前を、もう一度心へ結び直す場所です。」
風が吹く。
御守りの鈴が、小さく鳴った。
……チリン。
その音に重なるように、どこか遠くから優しい声が聞こえる。
「朝倉くん。」
結月だった。
姿は見えない。
それでも、その声だけははっきりと分かった。
俺は思わず笑みを浮かべる。
「聞こえた。」
青年も優しく微笑んだ。
「その声を忘れないでください。」
「あなたが帰る場所が、そこにあります。」
俺は力強く頷いた。
「ああ。」
「必ず帰る。」
その言葉を聞いた青年は、安心したように目を細める。
「それで十分です。」
「縁は、帰ろうとする人を決して見放しません。」
巡礼記が静かに閉じる。
表紙に刻まれた鳥居と鈴の紋が淡く輝き、朝日に照らされた境内を柔らかな光が包み込んだ。
鳥居の向こうでは、人々が変わらない笑顔で行き交っている。
子どもたちの笑い声。
旅人の「ありがとう」という声。
鈴の澄んだ音。
そのすべてが、この宮で結ばれた無数の縁だった。
俺は橋の向こうへ向き直る。
まだ旅は終わっていない。
けれど、もう迷いはなかった。
胸元の御守りをそっと握りしめる。
……チリン。
澄み渡る鈴の音は、まるで未来そのものが俺を迎えてくれているようだった。
鈴の音が静かに消えていく。
その余韻だけが、いつまでも胸の奥へ残っていた。
俺は御守りから手を離し、橋の向こうへ一歩踏み出す。
その瞬間だった。
背後から、青年の穏やかな声が聞こえた。
「レン。」
俺は振り返る。
青年は鳥居の前で静かに立っていた。
風が吹くたび白い狩衣の裾が揺れ、その姿は朝日に溶け込むように柔らかく見える。
「どうしました。」
俺が尋ねると、青年は少しだけ照れたように笑った。
「一つ、お礼を言わせてください。」
「お礼?」
「ええ。」
青年はゆっくりと境内を見渡す。
参拝する人々。
楽しそうに走る子どもたち。
鳥居へ手を合わせる旅人。
その光景を愛おしそうに見つめながら、小さく息をついた。
「幾百年もの間、私はずっと思っていました。」
「この宮を守れなかったのではないか、と。」
その声に後悔はあった。
けれど、絶望はもうなかった。
「ですが、あなたが来てくださいました。」
「巡礼記があなたをここへ導いた意味が、ようやく分かりました。」
青年は深く一礼する。
「ありがとうございました。」
俺は首を横に振った。
「礼を言うのは俺の方だ。」
「ここへ来なかったら、知らないままだった。」
「人を想うことが、こんなにも強い力になるなんて。」
青年は静かに微笑む。
「想いは、形が見えません。」
「だからこそ、人は忘れてしまいます。」
「ですが。」
青年は胸へ手を当てた。
「見えないものほど、大切にしなければならないのです。」
その言葉を聞いた瞬間、巡礼記がふわりと浮かび上がった。
誰も触れていない。
それでも表紙がゆっくりと開き、最後の頁が静かに風を受ける。
そこへ、墨文字が一文字ずつ浮かび上がっていく。
『縁は、結ぶものではない。』
少し間を置いて、さらに文字が続く。
『気付くものである。』
俺はその言葉を何度も胸の中で繰り返した。
結月との出会いも。
ギンやシグレとの旅も。
宗一と小夜の願いも。
すべて最初から、そこにあった縁だった。
俺はただ、それに気付いていなかっただけなのかもしれない。
その時。
一陣の風が境内を吹き抜ける。
鳥居の鈴が一斉に鳴り響いた。
……チリン。
……チリン。
……チリン。
青年は空を見上げ、穏やかに笑う。
「いい風です。」
「ええ。」
「これは、別れの風ではありません。」
「新しい旅立ちを祝う風です。」
俺も空を見上げた。
青く澄み渡る空は、さっきまで黒い雲に覆われていたとは思えないほど穏やかだった。
その空の向こうには、きっと結月が待っている。
俺は小さく笑い、胸の中でそっと呟く。
(朝倉くんは、ちゃんと帰るから。)
その想いに応えるように、御守りがもう一度だけ優しく鳴った。
……チリン。
風は、ゆっくりと境内を吹き抜けていった。
鳥居の鈴が優しく鳴り、人々の笑顔が朝日に照らされる。
旅人は願いを胸に歩き出し、子どもたちは楽しそうに笑い合う。
青年は、その光景を穏やかな眼差しで見つめていた。
「これが、私の守りたかった景色です。」
静かな声だった。
けれど、その一言には幾百年もの想いが込められていた。
俺はその景色を胸に焼き付けるように見つめた。
きっと、この場所へ来た意味は忘れない。
結月と交わした約束も。
ギンとシグレと歩いた道も。
宗一と小夜が守り続けた願いも。
そのすべてが、俺の中で一つの「縁」になっていた。
青年は静かに一礼する。
「朝倉悠斗。」
その名を呼ぶ声は、とても優しかった。
「どうか、その名前を誇りに思ってください。」
「あなたを待っている人がいます。」
俺は力強く頷いた。
「ああ。」
「必ず帰る。」
その言葉を聞いた青年は、安心したように微笑んだ。
「それで十分です。」
「人は、帰る場所があるから前へ進めるのです。」
胸元の御守りが、温かく震える。
……チリン。
その音に重なるように、どこか遠くから結月の声が聞こえた。
「朝倉くん。」
思わず笑みがこぼれる。
「もう少しだけ待ってて。」
そう呟くと、巡礼記がゆっくりと閉じた。
最後の頁へ、一文だけ文字が浮かび上がる。
『縁は、決して消えない。』
続いて、もう一行。
『想い続ける人がいる限り。』
柔らかな光が巡礼記を包み込み、表紙に刻まれた鳥居と鈴の紋が静かに輝く。
その輝きはやがて朝日の中へ溶け、境内にはいつもの穏やかな時間が流れ始めた。
青年は鳥居の前に立ち、最後にもう一度だけ深く頭を下げる。
「また、お会いしましょう。」
その言葉に、俺も一礼を返した。
「ありがとう。」
風が吹く。
鳥居の鈴が、祝福するように澄んだ音を響かせる。
……チリン。
俺は前を向き、一歩を踏み出した。
もう迷いはない。
この旅は終わった。
だが、俺が結んだ縁は、これからも続いていく。
その日、安井結ノ宮へ吹いた風は、別れを告げる風ではなかった。
未来へ向かって歩き出す者たちの背中を、そっと押す優しい風だった。