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マダムがしんだ




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    魚に魂はあるか、と彼女は訊いた。
    スクリーンの中の彼女。

    人間のものとは違うけれど魚にも魂はある、と彼は答えた。
    それもやはりスクリーンの中の彼。

    魚に魂があるかどうかはわからない。

    ただ水に魂があるのはわかる。

    水に漂い、身を任せるとき
    水の囁きを耳にすることがあるからだ。


    この果てまで行かないか、果ての果てまで行かないか、と。



    沢木耕太郎
    「天涯」より、”水は囁き 月は眠る"






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    今年の初め
    わたしは僅か数本の短い作品を公開して、しばらく長い凍結期間を設けて
    ここnoteを完全に離れるつもりだった。

    それはさして珍しいことではない。
    これまでにも何度か繰り返してきたことだった。

    ログアウトして、端末からも消して
    外界との細い糸を、いったん断つ。

    情報を遮り、生活の手触りのほうへ戻る。
    そこで浮かび上がるものだけを、あとで掬い上げる。

    ただ、それだけのことだ。

    だから今年の初め
    たまたまその離れようとするタイミングで記事を公開された
    旧知のnoterさんへは、そのコメント欄を利用させてもらって
    このように短く記した。


    またしばらく離れますので
    どうかお元気で。


    けれど、数日も経たないうちに、わたしは戻ってきた。

    回れ右をするようにして。



    その「数日」の間に
    ある旧知の、そして老齢のnoterさんから
    個別に連絡を頂戴したのだ。

    LINEに残された言葉の細部は書かない。
    ただ、そこには、おおよそ、こういうことが記されていた。


    ついに入院することになりました。
    おそらく、もう家には戻れません。
    わたしの人生の晩年に、あなたのような方とnoteで知り合えて本当に幸せでした。面白い記事、素敵な作品の数々を心ゆくまで楽しませて頂きました。
    四年間、どうもありがとうございました。


    彼女は、七十代の半ばだった。

    母と同じくらいの年齢。
    noteを始めて間もない頃、作品を通じて知り合い
    やがて、多くのやりとりを重ねるようになった。

    彼女は、マダム、と呼ばれていた。
    飾りではなく、そう呼ばれていた。

    そして彼女は、わたしのことを
    「キラーさん」と呼んだ。

    あなたの書くものは、老女を虜にするから。
    マダムキラーね、と。

    彼女以外にそのような呼び方で呼ばれたことは一度もない。
    だからそれは彼女固有の
    このわたしに対する最大限の賛辞であったのかも知れない。

    わたしの作品のコメント欄には、今も「キラーさん」で始まる
    彼女からの率直で、真っすぐな感想がいくつか残されている。


    彼女からの唐突な連絡を受けて
    わたしはほとんどなりふり構わずこのnoteの大海原に戻って来た。

    そして彼女の最期となるリクエストに応えるかたちで
    「美術評」を書き始めた。

    彼女はわたしの雑多な作品群の中でも
    とりわけそれを高く評価して下さっていたからだ。


    冬が去って
    水の囁きが、以前とは少し違って聞こえていた。


    そして先ごろ
    春にしては奇妙に肌寒かったあの日




    ぼくのマダムがしんだ。








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    マダムがしんだ







    水 流



    (全23,000字)




    Ⅰ. 水が囁き始める



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    この春
    わたしはnoteを始めて四年目になる。

    四年も経てば、誰とどのように知り合ったのか
    その細かな経緯などほとんど水に溶けてしまう。

    今日現在で、わたしがフォローしている方はおよそ百名。
    改めてその顔ぶれをざっと俯瞰してみても
    そのひとりひとりとの最初の出会いまでは思い出せない。

    それが過ぎ去った歳月の重さなのだろうか。

    しかし不思議なことに
    マダムとの出会いだけは、四年経った今でも水に沈まない。


    水が囁き始める。


    彼女は当時、「makilin」という名のアカウントを使用していた。

    その名前は、もう、ここにはない。
    彼女自身の意思で、きれいに消されてしまい
    いくら求めても、そこには真っ白な空白が広がっているだけだ。

    そしてわたしたちの出会いは
    彼女が四年前に記したある映画評がきっかけだった。

    80年代から90年代にかけて活躍したポーランドの映画監督
    クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール三部作』

    あの、静かな輝きを放ち続ける作品群に対して
    マダム固有とも呼べる、一切の装飾を排した瑞々しい言葉で
    その魅力が余すことなく語られていた。

    そして、やはりその作品のファンでもあったわたしは
    瞬く間にその映画評に引き込まれたのだ。

    そしてこのときわたしが抱いたマダムの第一印象は
    ついに最期まで変わることがなかった。

    真っすぐな眼差し。
    裏表のない率直さ。

    この広大なnoteの海には
    こんなにも健康的な文章を書く人がいるのかと
    新鮮な驚きに打たれたのだ。



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    そしてその最初の出会いには
    もうひとつ印象的な出来事があった。
    だから記憶に深く刻まれていたのかもしれない。

    彼女の映画評のコメント欄で、後に、今日現在に至るまで親しく交流させて頂くことになる、もうひとりのnoterとも巡り合ったのだ。

    名は、森野しゑに。

    あくまで個人的な推察に過ぎないが、彼女もまた
    マダムの言葉に引き寄せられた読者のひとりだったのではないかと思う。

    そして当時、北欧在住の森野さんの作品群は
    わたしにとって一種の「教科書」のような存在だった。

    それは、その執筆領域が驚くほど広いからだ。

    「喪失」を主題とした静かな作品群。
    思春期の息子さんとの日常を綴った軽やかな随筆。
    異国での暮らしと、家族で周辺国を旅した際の旅行記。
    さらには映画や音楽についての、情緒豊かな批評的エッセイ。

    そして、それらに添えられる
    彼女自らが筆をとったデッサンもまた印象的だった。
    アマチュアの域を明らかに超えた筆致が
    作品にもうひとつ別の奥行きを与えているのだ。

    ジャンルに回収されないその自由さ。
    そして、その根底に一貫して流れている確かな表現力。

    マダムを通じて巡り合った森野さん。

    そして、わたしがこのnoteで今後どのように創作を続けていくべきなのか。
    その方向性を最初に指し示してくれたのは、間違いなくこのふたりだった。




    そうした出会いを経て
    わたしたち三人はそれぞれのコメント欄で大いに語り合った。
    そしてこの三人の共通項としては、やはり、「映画」だった。


    パトリス・ルコント(『仕立て屋の恋』、『髪結いの亭主』)
    ——が描く、密やかな情念。

    レオス・カラックス(『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』)
    ——が描く、疾走する孤独。

    アンドレイ・タルコフスキー(『惑星ソラリス』)
    ——が描く、静謐な「水」。

    クシシュトフ・キェシロフスキ(『デカローグ』)
    ——が描く、モーゼの『十戒』、人びとの沈黙。


    今振り返ってみても、その会話はどこか幸福な時間だったように思う。

    もっとも、もちろん
    わたしにこのふたりほどの映画知識があるはずもない。

    たいていは相槌を打つだけだったし
    「十代の頃に観た映画というのは、どうしてこうも人生に残るのでしょうか」などと、半ば決まり文句のように繰り返して
    何とか背伸びをしながら会話についていこうとしていたに過ぎなかった。

    だが、そうした交流を続けるうちに
    わたしはこのnoteという場所に存在する、ルールブックには決して記されないある種の「法則」のようなものに気がつき始めていた。

    それは、自分自身にとっての「鍵」となる人物に巡り合うことができれば
    そこから新しい世界が連鎖するように広がっていくということだ。

    そして、そう意識し始めた頃から、素晴らしい書き手が次々と現れ始めた。
    さらに、それらの人たちの作品から影響を強く受け
    わたしの書くものは少しずつ変わり始めていた。

    主題も。方法論も。
    そして公開頻度までもが。



    そして、この春。
    マダムは、しんだ。

    ひとつの「鍵」を失ってしまった。
    とても大事な、ひとつの「鍵」を。




    水の囁きが、以前とは少しだけ違って聞こえるようになった。







    Ⅱ. 水が歌い始める



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    マダムは率直な人だった。

    その裏表のない健康的な資質に
    当初のわたしは少なからず困惑させられた。

    互いの作品を行き来し、文字での交流が深まり始めたある日
    彼女から直接の連絡が届いた。

    当時、まだ存在さえ知らなかった
    「クリエイターへの問い合わせ」機能を経由した、一通の電子メール。

    それが、すべての始まりだった。

    水が歌い始める。

    今でも鮮明に覚えている。
    その頃のわたしは、仕事の関係でインドネシアの中部ジャワ州にある
    海沿いの小さな街で暮らしていた。

    激しいスコールが連日降り続く季節。

    河川は氾濫し、街中が雨水に沈み
    自治体からは外出制限令が出されていた。

    わたしは事前に買い込んでおいた冷えたビンタン・ビールの王冠を抜き
    空調の効いた高層アパートメントの寝室に籠もっていた。
    孤独な停滞の中で、当地の暮らしをできるだけユーモラスに書き留めようと、画面に向き合っていたまさにその最中だった。

    届いたメールには挨拶もそこそこに
    よければLINEで、とだけ記されていた。

    深い考えもなく応じると
    そこから四年に及ぶ直接のつきあいが幕を開けた。

    開通した途端、マダムからの連絡は怒濤のように押し寄せた。
    最初のメッセージは「テレビ電話でお話ししましょう!」というもので
    わたしは思わず首を傾げた。

    海外に身を置くとよく分かるのだが
    わたしたち日本人は世界的にみても、「個人情報の保護」に
    半ば病的なまでに神経を尖らせる。

    少なくともわたしがヴェトナムやスペイン、そしてインドネシアで出会った現地の人々は、そんな境界線を「どこ吹く風」と笑い飛ばしていたが
    同胞たちは身内に対してさえ堅牢な壁を築く。

    彼女は、その壁を初手から叩き壊してきたのだ。
    一体、どんな人物なのだろう。

    「いやあ、四十代半ばの男の顔を見ながら話しても、退屈させるだけですから」と、 のらりくらりと躱すわたしに
    マダムはそれ以上追及してこなかった。

    だが、それ以降、わたしの画面には
    彼女の日常が容赦なく、濁流のように流れ込んでくることになる。

    夫との冬の散歩道での自撮り。
    遊びに来た孫たちに囲まれた賑やかな集合写真。
    晴天の横浜港で夫と寄り添うツーショット。

    そして、初回からテレビ電話を要求してくるだけあって、画面の中の彼女は
    見事な銀髪と、切れ長の美しい瞳を持つ端麗なひとだった。

    まさに、「マダム」だった。

    しかし、その高雅な容姿とは裏腹に
    運ばれてくる話題はいつも剥き出しの率直さに満ち溢れていた。

    幼馴染の親友との些細な口論。
    どちらがどれほど傷ついたかを立証するため
    延々と転送されてくるスクリーンショット。
    『源氏物語』も、本質的にはこういうものだったのではないか。
    人間関係の機微と怨念を、几帳面に記録した長大な絵巻物。
    夫との諍いもまた、恐ろしく率直な文面で届く。

    ”みてちょうだい”で始まる、毒舌劇。
    ”どう思う?”と一方的に投げかけられる疑問符。

    それらの登場人物をノン・ストップでこき下ろしながらも
    翌日にはすべてを忘れたようにあっけらかんと笑っている。

    そんな、愛すべき率直さを持つ人だった。



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    そしてその迷いのない率直さは、ときにわたし自身にも向けられた。

    わたしは一年の半分ほどをnoteでの「活動期」
    残りを「停滞期」と決めて、この海を自らの意思で出入りしている。

    仕事との両立が難しいこともある。
    だから、交流そのものを目的としてここにいるわけでもない。

    ただ、例外があった。

    自分の作品内で紹介した相手の文章だけは
    どれほど離れていても遡って読みに行く。
    それはもちろん、義務ではない。
    約束でもない。

    この匿名性を主体とした海の中で、作品という実像を介したときにだけ
    奇跡的にシンクロする呼吸——波長の合う書き手というものが
    稀に存在するからだ。

    誰だってそうなのかもしれない。

    元々、興味がある分野の優れた書き手で、そうした相手の作品は、ひとりの読み手として一切のストレスがなく、意識しないまでも、読み進めるうちに自然とコメントがすらすらと浮かび上がってくる。
    そうして浮かび上がった言葉を、そのまま自然体で置くだけでいい。

    だからもちろん、その人数は少ない。

    そして、マダムもそうした少数派のひとりで
    わたしの現在の固定記事内で、以前、彼女を紹介させてもらっていた。

    しかしマダムの場合は一味違っていて、わたしが先行してLINEで復帰を告げると、わたしの不在時に彼女が公開した記事の本数と内容が即座に送られてきて、さぁ早くコメントしなさいな、と猛烈な催促が入ってくるのだ。

    いや、それを言う前にまだあった。
    やはりわたしが不在にしている間に
    月に何度かの割合で直接、催促が入ってきていた。

    老婆って暇なのよ。
    ”飯炊きババア”は常に暇をもてあそんでいるだけだから
    そろそろ何か作品を書いてちょうだい。下書きに何かあるんでしょう?

    端的にこういわれることもあった。

    「福祉政策」と割り切って、早く復帰してちょうだいね。

    やれやれ。
    とんでもない相手と知り合いになってしまったな、と苦笑しつつも
    けれど不思議と、通知音が鳴ることを待っている自分もいた。

    だから復帰後はいつも、なにはともあれ
    「makilin」さんのページへ直行するはめになった。



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    こうしてマダムは、積極的にご自身の生活を
    春夏秋冬、細部にまで至って、わたしに送ってきてくださった。

    ごく稀に、マダムの方から
    「迷惑してない?」と投げかけられることもあった。

    それは迷惑であるどころか
    わたしにとってはもちろん、素朴な嬉しさでもあった。

    マダムの中の、いったいどのような論理に基づいているのかまではわからなかったが、とにかく作品を通じて、このわたしのことを信頼してくださっていたように思えるからだ。

    それも、この不特定多数の、匿名の電子の海で。

    確かにマダムには愚痴っぽい側面は間違いなくあって
    ときに困惑させられることもなくはなかった。
    しかしそれはどこか、人間対人間の温かみを持った交流でもあった。

    そして、そのやり取りは
    おそらく作品そのもの以上に、「書き続ける」という行為の背骨を長いあいだ支えてくれていた。

    良い作品を書くこととは別の、もっとお互いの根源的な場所で。

    人は、誰かに支えられながら書き続けているのかもしれなかった。

    しかし、彼女自身の作品においては
    プライヴェートが明かされることはほとんどなかった。

    彼女の遺した足跡は、大きく分けて二つのジャンルに分類される。

    ひとつはわたしたちが巡り合うことになった「映画評」。
    そしてもうひとつは
    彼女が不定期で連載していた「私の推し芸術家」という美術評のシリーズ。

    そして後者のシリーズに、わたしは長く衝撃を受け続けた。
    数年を経て、ついには自分でも筆をとることになる。

    いま振り返れば、あれは単なる影響ではなかった。


    マダムとわたしの
    暗く深い場所を走る地下水脈が
    静かに合流しはじめていたのだ。






    Ⅲ. 水が満ち始める



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    その当時、インドネシアから休暇で一時帰国したわたしは
    実家のある福岡に滞在していた。

    そこで偶然見かけた駅の構内のポスターで
    福岡市美術館にてアールヌーヴォーの旗手でもある
    アルフォンス・ミュシャの展示会が開催されていることを知った。

    わたしは早速、一眼レフを肩から下げてそこへ向かった。

    十九世紀末の、爛熟期のパリ。
    誰もが一度はその輪郭をみたことがある
    異世界から現実世界へと現出したかのような、美しき女神たち。

    わたしは夢中でシャッターを切り、意気揚々と引き上げて
    その夜、自宅でラップトップを立ち上げて早速一本の美術評を書き始めた。

    これが初めての美術評でもあった。
    いや、そう呼ぶことはできなかった。

    そこにはもちろん、マダムの連載『私の推し芸術家』が念頭にあった。
    書けば喜んで読んで下さるだろうという期待もあった。
    わたしはいわば、私家版の『推し芸術家』を書こうとしていたのだ。

    しかし書きあがったものは暗澹たる内容のものだった。

    これまでにも失敗作は多く抱えているが
    その中でも最も悲惨な内容だった。

    今でも忘れることができない。

    なぜならばそこには、鑑賞者としての「わたし」の作品に対する感想が
    一切書かれていないからだ。
    ただ高画質で撮影したミュシャの作品を並べただけだった。

    それは誰にでも撮れる美しさだった。

    そしてそれを言い換えると、わたしは作品を見ていたのではない。
    “作品を見ている自分”を見せたかっただけだった。


    そしてもちろん、マダムには一切通用しなかった。
    その前後のやりとりで、一時帰国中の、わたしの国内を舞台としたエッセイを楽しみにしているとまで書き送ってくださったマダムからは、その記事に対してだけは何もリアクションがなかった。

    今に至るまで、一切の痕跡さえない。
    マダムはそうした「厳しさ」をもっていた。
    自分が良いと判断しない限りは、同情票でさえ入れない。

    次第に、「踏み外した」というような
    絶望的な思いが水位のように高まってきた。

    水が満ち始める。

    その記事は削除してしまえば
    なおさら自分がみじめになってしまうような気がした。
    だから今でも残している。

    わたしは暗い足取りのままインドネシアへの帰路に就いた。
    長いトランジットのために立ち寄ったシンガポール・チャンギ国際空港のカフェで、何気なく端末を立ち上げたとき、マダムからのメッセージが画面に滑り込んできた。

    異国の空港の、深夜の喧騒の中で読んだあの言葉を
    わたしは今も忘れることができない。

    マダムは、わたしが犯したミュシャの過ちを
    一切名指しすることはなかった。

    しかし、そこには「美術評」に対する
    彼女の冷徹なまでの持論が毅然と刻まれていた。

    『あくまで個人的な意見だけれど』と言い添えられた長文には
    おおよそ、次のようなことが記されていた。

    作品画像を並べ、調べればすぐにでも分かる説明を引用するだけの記事は
    誰にでも書けるということ。

    芸術家の内面や歴史的背景を穿ちもせず
    安易な空想という名の論評に逃げるのは、無価値に等しいということ。

    例外として、親しい友人との旅先で訪れた美術館の記録などは
    その昂揚感と共に、「旅行記」として読める場合があるということ。

    『しかし』。

    その接続詞の先に、彼女はこう続けた。

    『キラーさんのように単独で訪れていながら、ただ表面だけをなぞるような書き方は、それらよりももっともっと、考える余地があるのかもしれない』

    痛烈な、けれど逃れようのない真実だった。

    そして言葉を失うわたしに、マダムは最後の一節で
    呪縛を解くような光を投げかけてみせた。

    『あなたは強い才能を具えている。わたしのアドバイスが役に立つのかは分からないけれど、次の美術評は期待しているわ。もっともっと書いて、わたしに「おかわりちょうだい!」くらい言わせないとダメよ』

    カフェの片隅で頬杖を突いたまま
    わたしは何度も何度もその文面を反芻した。

    突きつけられた己の未熟さと
    それを受け止めてなお「おかわり」を求める彼女の渇望。

    異国の空港の夜で、ひたすら時間が過ぎていくのを待ちながら
    わたしの内側で満ちた水のかたちが、わずかづつだが変わり始めていた。





    Ⅳ. 水が溢れ始める




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    しかしながら、マダムが求めた「次の美術評」を実際に書くまでには
    あの夜から正確に二年の歳月を要した。

    わたしは、マダムの視線を恐れはじめていた。

    いや。
    もはやそれは、マダムひとりの視線ではなかった。

    このnoteの海には、アマチュアという言葉では到底括りきれない書き手たちが、確かに存在していた。

    それぞれが固有の領域を持ち
    深海魚のように潜航している、異形の感性をもつ書き手たち。

    その文章に触れるたび、わたしは自分の内部にある安易さや虚栄心を
    容赦なく引き裂かれる感覚を覚えていた。

    深い海の底には
    こちらを沈めるためだけに存在しているような感性が、間違いなくあった。



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    そしてわたしは、まるで美術評から逃げ回るかのように連載を始めた。

    ひとつはジャカルタ在住の華僑の友人たちとの交流。
    もうひとつは三十代の終りに旅したチューリッヒでの日々。

    どちらも、公開するたびにマダムから長文のコメントが直接届いた。
    物語が佳境に入ると、その頻度は増し
    「おかわりちょうだい!」が繰り返された。

    その並走のように、マダムの『私の推し芸術家』も更新されていった。

    その軽やかな題名とは裏腹に
    わたしは、ほとんど怯えるようにそれを読んでいた。



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    マダムの美術評には、明確な傾向があった。

    取り上げられるのは
    都心にありながら見過ごされがちな、小さな美術館だった。
    大規模な美術館は、意識的に避けられているように見えた。

    以前、理由を尋ねたことがあった。

    人混みが嫌いだから行かない。
    夫との散歩で立ち寄れる場所がいい。

    それだけのことだった。

    そして彼女が書くのは、物故した日本画家に限られていた。

    それも、マダムの眼差しは
    期間限定の大規模展覧会ではなく、常に「常設展」へ向けられていた。

    流行や時流のただ中にあるものではなく
    長い時間を経ても、なお静かにそこへ残り続けている一枚。

    その視線のあり方を
    後にわたし自身も意識的に取り入れていくことになる。
    いわば、彼女から「型」を学び取ろうとしたのだ。

    話題になっている芸術家を追うのではない。
    それが悪いわけではない。

    ただ、あくまで
    その時々の自分の精神へ
    奇妙なほど深く入り込んでくる一枚を選び取るのだ。

    わたしは、ほとんど怯えるような視線で、それらを追っていた。

    一篇は、A4用紙一枚ほどの分量。

    余分な情報は、徹底して削ぎ落とされていた。

    画家の経歴も、時代背景も、必要がない限りはほとんど書かれない。
    残るのは、その日に見た光と、正面から掬い取った感想だけだった。

    その潔さが、かえって像を際立たせていた。

    まさに日本画の「余白」を念頭においたかのような
    実に見事な切り取り方だった。

    とりわけ印象に残っているのは、季節との呼応だった。


    それはすなわち



    春に、速水御舟

    夏に、竹内栖鳳

    秋に、菱田春草

    そして、冬に、東山魁夷。


    まるで季節に合わせた一遍の短歌を詠むかのような鮮やかさだった。

    それはマダムがもつ固有の飾りのない「率直性」で
    対象の核心へと真っすぐ踏み込む書き方だった。

    彼女もまた深海に棲む者だった。


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    今年の冬から春にかけてわたしは多くの美術評を書いた。
    しかしその中で日本画家を取り上げなかったのにはもちろん理由があった。

    マダムのあの美術評を読んでしまったあとでは
    日本画に触れること自体が、どこか畏ろしかった。

    だからわたしが意識して取り上げたのは
    主に戦前の、内省と破滅を抱え込んだ画家たちだった。

    だがそれは裏を返せば、過剰な物語に寄りかかれる分だけ
    それだけ「書きやすい」ということでもある。

    退廃。狂気。夭折。
    そうしたものは、こちらの傷口へと容易に流れ込んでくる。

    しかし、マダムが描いていた日本画の世界は違った。

    そこには静けさがあった。
    説明を拒む余白があった。

    そして、その沈黙の奥には
    こちらの感情だけでは決して侵入できない種類の深度があった。



    いまのわたしでは、まだそこへ降りていくことができなかった。



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    わたしはマダムの美術評を読み終えると、その感想を直接LINEで送った。
    畏怖の念をこめて。

    しかし返ってくるのは

    『やったー!今回はじめてアクセス数が1,000を超えました』や
    『やったー!コングラボードをゲット!』

    などという、まるで少女のようなはしゃぎようでもあった。

    不思議なひとだった。

    あれほど鮮やかな美術評を書きながらも
    決して自分自身に溺れることがなかった。

    そして、その場を和ませるかのような応答を受けるたび
    わたしも次第に覚悟を決めていった。

    いつまでも、美術評から逃げ回っているわけにはいかない。
    わたしはその頃、それを明確に、創作上の大きな課題だと認識していた。

    長い潜航の時を経て、わたしはようやく、マダムが求めた
    「次の美術評」の輪郭を捉え始めていた。

    突破口はあった。

    それは、あの異国の空港での夜に
    マダムが書き送ってくれた長文の激励文にこそあったのだ。

    マダムは、こう書いていた。

    『旅行記としてなら、読めないものがないわけではない』

    わたしはその当時
    チューリッヒを舞台にした長編ノンフィクションを連載していた。
    それは、中学時代の同級生との再会から始まった物語だった。

    わたしは長い旅の途上で、十日ほど彼女の家に滞在させてもらい
    その静かな日々の中で、かつて抱いていた淡い感情を掘り返していた。

    そしてある日、単独でチューリッヒ美術館へ出かけたことがあった。
    そこで観たのは、ヴァン・ゴッホの「狂気」と、ピカソの「孤独」。

    そのとき感じたことを、わたしは撮影した画像のキャプションに短く書き留めていた。その短い断章が、後になって浮かび上がってきた。

    長期連載の後編で、わたしはそこで、ある別の水脈ルートを選んだ。
    つまり、「旅行記」の内部へ、美術評を沈め込んだのだ。

    マダムはこの連載を毎週心待ちにしてくれていた。
    それまでに書いたもののなかでも、とりわけ高く評価してくれていた。
    だからわたしはこう思ったのだ。

    電撃作戦で美術評を仕掛け、マダムを急襲する。

    その稿は、地下へと続く階段を、小さな炎をもって降りていくような
    静謐なイメージで書き始めた。

    最初の呼び水は、ヴァン・ゴッホの『麦畑』。
    そして最終的に、わたしはピカソの『青の時代』の一枚へ降りていった。

    辿り着いた地下室には、すでに他界した祖父が待っていた。
    わたしはそこで「再会」という感覚を通して、ピカソに迫ろうとした。

    死者と同じ場所に立つという感覚で。

    そしてこの稿で覚えているのは
    書き終わったあと、一度も読み返さなかったことだ。

    書き終えたままの深度で、わたしはマダムに迫った。

    公開からしばらくして
    マダムからのコメントは、LINEではなく直接コメント欄に放たれた。

    おそらく彼女には、わたしの美術評に対して
    かつて自分が送ったアドバイスについて思うところがあったのだろう。
    だからそれを、彼女の「やさしさ」と呼んでもいいのかもしれない。

    激賞してくださり、体温を感じさせるコメントを寄せてくださった。


    そして、そのコメントの「断片」は、いまも作品の中に残されている。

    なぜ、「断片」なのか。

    彼女のアカウントは、すでに消失しているからだ。

    いまそこに残されているのは、そのコメントに対して
    わたしが返した『マダム』から始まる返信だけだった。

    正確に、二件。

    まるで、かつてそこに小さな王朝が存在したことを
    瓦礫だけで証明する、古代遺跡のように。









    Ⅴ. 水が狂い始める



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    2024年の暮れ。
    わたしはインドネシアを引き上げ、日本へ本帰国していた。

    亜熱帯の国から、真冬の福岡へ戻ったわたしには
    その年の寒気がひどく異様なものに感じられた。

    母の待つ実家で、久しぶりに温かい家庭料理を味わっているときだった。

    マダムから、一本のメッセージが届いた。

    その文面は、いつもの彼女とは思えないほど静かな気配に満ちていた。
    まるで別人が書いたような呼吸だった。

    それにはおおよそ、このような内容が記されていた。


    唐突で申し訳ないのだけど、これまで使用していた「makilin」のアカウントを消去致しました。
    いよいよ病の症状が表面化してきて、いろいろ考えたのだけど、自分の死後に、ネット上にわたしの書いた粗末な文章が残り続けることが嫌だから。

    キラーさんの固定記事に以前、わたしのことを紹介してくださっていたけれど、アカウントを消したことで、その部分は空白になってしまっています。
    あのときは本当に飛び上がって喜びました。
    せっかくのご厚意を、このようなかたちで裏切ることとなってしまい
    本当に申し訳ありませんでした。


    マダムが、国の指定難病を患っていることは、知り合って間もない頃に聞かされていた。

    そのときは確かに驚いた。

    だが、その病には長い潜伏期間があるとも聞いていた。だからわたしは
    どこかで勝手に、「長くつきあっていくものなのだ」と思い込んでいた。

    そして、あのマダムに限っては、きっと最後まで症状など現れないのだろうという、根拠のない期待さえ抱いていた。

    わたしは驚きを隠さず返信した。

    具体的に、どのような症状が現れ始めているのか。
    すでに入院する段階にまで進行しているのか。

    返ってきたメッセージには、現在の症状と、しばらくは自宅療養で経過を見るつもりだということ。
    そして「makilin」のアカウントは消去したが、新しく“読み専門”のアカウントを作り、すでにわたしをフォローしていることが、短く記されていた。

    それを読んで、わたしは大きく息をついた。

    まだ、すべてが切迫しているわけではない。


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    しかしその夜、久しぶりに実家の湯舟へ身体を沈めながら
    わたしの思考は静かに濁り始めていた。

    このnoteという場所で、たびたび突きつけられる現象のひとつが
    「アカウントの削除」だった。

    以前にも、わたしが強い影響を受けた、深海魚のような書き手がいた。
    光の届かない場所で、異様な熱量を放ち続けていた人だった。

    その人もまた、ある日、唐突に海から消えた。

    もちろん、マダムの決断にも、その人の決断にも
    それぞれ固有の事情と思索がある。
    本来、第三者が軽々しく口を挟むべきことではない。
    尊重されるべき選択なのだろう。

    だが、それでもなお、わたしの中には消えない違和感が残った。

    それは、自らの手で、自らの作品群を殺めてしまう行為にも見えるからだ。

    本当に、消すことができるのか。
    あれほど長い時間をかけて書き続けてきたものを。

    そして「退会」という行為は、この世界において
    単なる機能の停止では終わらない。

    そこには確かに、「もう二度と会えない」という感覚がある。

    現実世界における「死」が持つ質量に酷似したものが
    この電子の海にも静かに存在しているのだ。



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    マダムからその唐突な連絡を受けて、数日後のことだった。

    わたしはオンラインで、クシシュトフ・キェシロフスキの『デカローグ』DVD-BOXを購入した。

    それは、彼が遺した“伝説的”とも称される傑作であり
    一九八〇年代のワルシャワを舞台に放送されたテレビシリーズだった。

    モーゼの『十戒』に着想を得ながら、市井に生きる人々の孤独と選択を描いたその群像劇は、高い評価を受ける。
    やがて彼は、フランス政府からの直接要請を受け、『トリコロール三部作』を生み出していくことになる。

    注文を終えると、すぐにマダムへ連絡を入れた。

    先に観ていただいて構わないこと。
    観終わったあと返送してもらえればいいこと。
    そのために、住所を教えてほしいこと。

    そんな内容だった。

    さらにわたしは、自分で蒐集していた単館系の映画DVDの中から、マダムが好みそうな作品を二十枚ほど選び出し、『デカローグ』と一緒に梱包した。

    これから始まる長い自宅療養を思えば、活字を追うよりも、映像を眺めるほうが余計な体力を使わずに済むだろうという考えがあったからだ。

    郵便局の窓口で、東京都内のマダムの住所を書き終えたあと
    ふと思い立ってその場で一筆箋を同封した。

    そこには手書きで、こう記した。

    先に言っておきますが
    返送時に御礼の意味を込めた菓子折りなどは一切受け取りませんよ!

    その行為を、マダムは驚くほど喜んでくれた。
    そして、およそ病人とは思えない勢いで、怒涛のようなLINEが届き始めた。

    そこには、闘病生活の様子が、いつもの率直さで綴られていた。

    飲み薬があまりにも不味いこと。
    夫の手料理が絶望的に雑であること。
    今日は少しだけ外出して買い物ができたこと。
    東京に雪が降ったこと。

    そして、その日に観た映画の感想と、矢継ぎ早の質問。



    返送時。
    そこには確かに「菓子折り」は入っていなかった。
    しかしその代わりに
    わたしでもその名を知っているような高級シャンパンが
    手書きのお礼状と共に、一本同封されていたのだ…。



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    その頃には、マダムは新しいアカウントを利用し始めていた。

    『マコちゃん』。

    本来は「読み専門」のはずだった。

    だが、おそらく高揚した気持ちのまま、次第に動きが制限される指先で
    彼女は記事まで書き上げてしまったのだろう。

    そこには、『デカローグ』全十話それぞれへの感想と
    わたしへの感謝の言葉が、いつものように率直な筆致で綴られていた。

    けれど、その記事もまた、いまはもう存在しない。
    マダム自身の意思で、きれいに消去されてしまった。

    記事だけではない。

    わずかにいたフォロワーたちも、すべて整理されていた。

    そして最後には、マダムがフォローしている相手は
    このわたしひとりだけになっていた。


    異様に静まり返ったそのアカウントを見つめながら
    わたしは時折、不思議な感覚に襲われる。

    まるで、ひとりの人間が、自分という存在の痕跡を、静かな送り火のように水面へ流していくのを、遠くから見送っているような感覚だった。

    そして

    マダムが、生涯最後に書き残した文章。

    それは、『デカローグ』についての記事の中に静かに置かれた
    わたしへの名指しの感謝の言葉だった。









    Ⅵ. 水が暴れ始める



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    マダムの最晩年に
    こうしてわたしたちを緊密に結びつけたもの。

    それはおそらく、マダムの視野が確実に捉え始めていた「死」が放つ
    ある種の超越的な力だったのかもしれない。

    死の力。

    もう二度と会えなくなる。

    その絶望的な現実が、人と人との距離を焼き払い
    かえって異様なまでに近づけてしまうことがある。

    だが、わたしとマダムの関係は
    そうした観念的な感傷だけで結ばれていたわけではなかった。

    実はわたし自身もまた、病を抱えながら生きているからだ。

    それぞれが、自分自身の内部に巣食うものと戦っている。
    その事実が、わたしたちを地下水脈より深い場所で結びつけていた。

    わたしがいまも抱えている病。
    それは、インドネシアで発症した、精神疾患の代名詞のような病だった。
    わたしは、その病を道連れにするようにして、日本へ帰国したのだ。

    しかし、そのことをマダムに話したことはなかった。

    いや

    マダムだけではない。

    母にも
    友人たちにも

    誰ひとりとして、わたしは口にしていない。

    けれど、おそらく母は気づいている。
    何も訊かないまま、夕餉の食卓で
    ときおりわたしの横顔を静かに見つめているからだ。

    それは「隠している」というより
    わたし自身が、まだどこかで信じ切れていないからだった。

    本当に、おれはその病なのか。

    発症の原因さえ、はっきりとは分からない。

    しかし、その原因の輪郭が曖昧であること自体
    ある意味ではこの病の本質なのかもしれなかった。



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    わたしがインドネシアへ赴任していた四年間。

    その時間は、新型コロナウイルスが世界を覆っていた時期と
    ほとんど完全に重なっている。

    赴任の日。
    何度も利用してきた成田国際空港は、墓所のように静まり返っていた。
    人の気配が消えた巨大空間のなかを、わたしはひとり歩いていた。

    向かった先は、インドネシアの中部ジャワ州。

    業務内容は、高級家具製造の生産および品質管理。
    肩書きは、GM。

    世界中で感染が拡大するなか、新型ウイルスはまず観光業の呼吸を止めた。

    そして、その工場で製造していたのは、日本国内の五つ星ホテルへ納入される調度品だった。

    メインエントランス。
    客室。
    ラウンジ。

    そうした空間へ置かれる家具の大半を、その工場で製造していた。

    当然、ホテル業界が停止すれば、工場もまた崩れ落ちる。
    ホテル側は家具の発注どころではなく
    まず従業員へ給与を支払うために奔走していた。

    工場には、およそ百五十名の現地スタッフがいた。
    だが、受注の止まった製造工場など、巨大な廃墟とほとんど変わらない。

    わたしは、それ以前にもヴェトナムやスペインで
    同様の仕事に携わってきた。

    だが、かの地ではじめて、製造業の「底」を見た。

    日本人社長は帰国し、日本全国を飛び回って営業を続けていた。

    現地に残ったわたしが行っていたのは、次の受注を信じながら
    従業員たちへ工場内の清掃や工作機械の整備を指示することだった。

    そして、わずかに舞い込む受注に対しては
    飢えた獣のような勢いで飛びついた。

    一件でも多く。
    一日でも長く。

    工場を生かすために。

    だが、それでも疑問だけは消えなかった。

    家族や友人から遠く離れ、世界そのものが壊れ始めているその片隅で

    おれは、いったい何をしているのだろう。

    一応の終息を迎えた今だからこそ、こうして静かに往時を振り返ることができる。だが、世界が濁った閉塞感に満たされていたあの頃、その底から先の景色を見通すことなど、到底叶うはずもなかった。

    そしてその穿たれた空洞へ流れ込んできたのが
    当地の天変地異だった。

    巨大火山の噴火。
    海路の寸断。
    群発する巨大地震。

    そして、狂ったように降り続ける雨。
    その雨の降り方は異様だった。

    もともと、わたしは「水」に強い癒やしを感じる人間だった。

    だが、その頃の雨だけは違った。
    恐怖そのものだった。

    止まない豪雨によって、首都ジャカルタは、現実に水没を始めていた。
    地方で降り続けた雨は、蚊を異常発生させデング熱が猛威を振るい始めた。

    そして同業他社の日本人駐在員のひとりは、豪雨の中を車で出かけ、視界の効かない高速道路で、現地人ドライバーと共にガードレールで激突死した。

    そこは世界の果てだった。
    世界の果てでは、雨が間断なく降り続いていた。



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    しかし、そうした現実が、自分自身の精神へ影響を及ぼし始めているとは
    その頃のわたしはまったく気づいていなかった。

    発端は、東京本社からの一本の電話だった。

    これまでの経験上、海外に製造拠点を持つ企業では
    駐在員向けに二十四時間対応のホットラインを設けている場合が多い。

    自社に専門のカウンセラーを常駐させるというより
    外部機関と契約し、主に精神面のサポートを行う仕組みだ。
    つまりそれだけ海外の駐在員とその家族は
    精神面に問題を抱えるケースが多いともいえる。

    その日、会社の法務を担当している年上の女性社員から連絡が入った。

    一度、現地のクリニックを手配するので、ぜひ受診してほしい。

    そんな内容だった。

    それは、わたしが明確な異常を見せていたからではない。
    あくまで定期的なケアの一環だった。

    ただ、その背景には、やはり新型ウイルスによって世界全体が覆われていた、あの重苦しい空気があったはずだ。

    わたしは軽い気持ちで、そのカウンセリングへ向かった。

    通訳もつけず、単独で。

    そしてそこで、自分の発病を知らされることになった。
    診断結果は、わたしの同意を経て、東京本社へも即座に送信された。

    慌てたのは、会社だった。
    無理もない。
    精神疾患を抱えた社員をひとりで海外に置いているのだ。
    ほどなくして、社長と、さらに高齢の会長までもが工場へやって来た。

    そこで、わたしはさらに驚くことになる。

    社長は静かな口調で
    以前から少し様子がおかしいと感じていた、と告げたのだ。

    これはあくまで推測の域をでないが
    だから社長がクリニックを受診するよう社内で働きかけたのだ。

    自覚症状はないのか。

    会長にそう訊かれたとき
    わたしは初めて、自分の内部に起きていた異常を振り返ることになった。

    いや、それを「自覚症状」と呼んでいいのかは、今でも分からない。
    だが、わたしの耳の奥では、常に豪雨が降り続いていた。

    幻聴。

    当初、わたしはそれを異常だとは思っていなかった。
    週末に降り続いた激しい雨音が
    晴れた月曜日にも残響として耳の奥へ残っている。

    ただそれだけのことだと、どこかで誤認していたのだ。

    だが、一度「自分は病に冒されている」と認識してしまうと
    それまで見過ごしていた違和感が、次々と浮かび上がってきた。

    景色の輪郭そのものが変わって見え始めた。
    理由もなく、気分が深く沈み込む。
    肉体と精神が一致しない、拭い難い違和感。
    昨日はYESだったものが、今日にはNOへと反転している。
    浅い眠りと過眠が交互に繰り返される。
    わずかな酒量で、異常なほど深く酔う。
    晴れ渡った空が、色を失って見える。

    そして雨が降り始めると、身体から意思そのものが抜け落ちていく。

    それはつまり

    これまで自分が深く信頼していた「水の力」が
    ある日突然、こちらへ牙を剥いて襲いかかってきたということだった。



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    Ⅶ. 水が叫び始める



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    しかしそれでも、わたしはその診断を信じ切ってはいなかった。
    何の根拠もなく、こんなふうに考えていた。

    所詮、インドネシアの田舎町のクリニックの診断だ。
    そんなもの、いくらでも間違う。

    いや、仮に正しかったとしても、日本へ帰れば治る。
    家族のいる場所へ戻り、日本語の中で眠れば、そのうち元に戻る。

    わたしは、自分の身に何が起こっているのかを
    まるで理解していなかった。

    いや。

    おそらく、今もまだ、完全に理解し切れていない。



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    わたしとマダムが抱え込んでいたものは
    どこか似ていた。

    形は違う。

    だが、それぞれの内部に巣を作り
    長く付き合っていかなければならないという点では
    別々の惑星に生まれ落ちた双生児のようでもあった。

    その片割れを失った今
    わたしの胸に残っているのは、やはり後悔だけだった。

    勇気を出して、自分の病について話しておけばよかった。
    わたしは、その病に冒された自分自身を、どこかで深く恥じていたのだ。

    きっとマダムなら
    あの率直で、容赦のない言葉で
    わたしを笑いながら励まし続けてくれたはずだからだ。

    だが、それももう叶わない。

    わたしはマダムに何も告げないまま
    彼女をこの海の彼方へ見送ってしまった。

    その果てでは、鬼火が
    冷たい燐光が、夜の底で小さく揺らめいているだけだ。

    耳の奥の雨音は、今もまだ、止まない。

    水が、叫び続けているだけだ。



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    Ⅷ. 水が眠り始める



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    この一年。
    つまり、マダムの人生の最期の一年。

    マダムは不治の病魔と懸命に闘いながらも、『マコちゃん』として
    わたしの創作を裏から支え続けてくださった。

    わたしはいつの頃からか、公開日時を「土曜日 AM 七時」に固定していた。

    それには、理由とはいえない理由があった。

    まだ元気だった頃のマダムから、こんな話を聞かされたことがある。
    毎朝四時には目覚め、朝食の支度や家事を済ませる。
    そして七時には、朝刊も隅々まで読み終え
    デスクトップの前でnoteを開いているのだという。

    だから、というわけではなかったのだが
    公開日時を決めるとき、まず最初に「七時」が浮かんだ。

    そして当時も今も、わたしの作品は長文傾向にある。
    できるなら、フォロワーさんたちには休日の朝、珈琲でも飲みながら
    ゆっくり読んでもらいたい。

    そう考えて、土曜日に固定した。

    そして『マコちゃん』は、たぶん間違いなく、わたしの作品が公開されると同時に読み始めてくださっていた。

    彼女は最初の読者として、そこに存在していたのだ。

    そして、わたしはその事実に、深く寄りかかっていた。

    なぜなら『マコちゃん』は、誤字脱字や事実誤認を、誰よりも早く、それも驚くほど鋭く指摘してくださっていたからだ。

    以前、わたしはノンフィクション・エッセイの中で、日本画家の平山郁夫を短く取り上げたことがある。
    それは『無名の天才たちの旅行記|旅に、珈琲か』という作品だった。

    そこでわたしは、「郁夫」を誤って「幸雄」と表記していた。

    誤字脱字は避け切れない。
    長文だとなおさらだった。
    だが、固有名詞を間違えることほど、書き手として恥ずかしいものはない。

    そのときも、マダムは即座にLINEで知らせてくださった。

    また、別の作品では、一度だけ姪たちを書いたことがあった。
    その際、わたしは彼女たちの写真を作中に広く挿入していた。

    もちろん、まだ幼い彼女たちは会うたびに顔立ちも変わっている。
    その程度の認識しか、当時のわたしにはなかった。

    しかしマダムは、ネット上へ肖像写真を掲示する危険性を鋭く指摘し
    載せるならばせめて期間限定公開にした方がいいと助言してくださった。

    わたしは、そのとき初めて
    自分が「書く側」の倫理をどこかで見失っていたことに気づかされた。

    いま振り返れば
    マダムは、ただ感想を書いてくださる読者ではなかったのだ。

    作品そのものを守ろうとしてくださっていたのだ。

    そして、いつも八時頃になると
    マダムからまるでOKサインのような長文コメントが直接届いた。

    その通知音が鳴ることで、ようやく一本が完成する気さえした。

    わたしにとって土曜の朝とは、いつしかそういう時間になっていた。



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    また、マダムは創作案そのものについても
    驚くほど親身に寄り添ってくださった。

    昨夏。
    わたしは久留米にある、画家・青木繁の旧家を訪ねた。
    もちろん、それはいずれ美術評として書くことを前提にしていた。

    古い家屋の匂い。
    柱に残る生活の摩耗。
    蝉の泣き声。
    窓の向こうから差し込む、強烈な真夏の光。

    そこで撮影してきた画像を何枚かマダムへ送ると、後日、ご自宅の書棚にあった青木繁の画集や参考資料を、わざわざわたしに郵送してくださった。

    その頃のわたしは、ぼんやりと
    「久留米三部作」の輪郭を思い描き始めていた。

    青木繁。
    そして坂本繁二郎。

    ここまでは、すでに決まっていた。

    だが、最後のひとりとして考えていた
    「孤高の画家」、高島野十郎に、どこか拭い切れない違和感があった。

    整いすぎている。
    あまりにも、美しく閉じてしまっている。
    そのまま彼を据えてしまうと
    ガラス細工のような三部作になるように思えた。

    その感覚を率直にマダムへ伝えると、返ってきたのは意外な名前だった。

    古賀春江。

    もし夭折した画家たちを三部作として描くのなら、最後に古賀春江のような「異物」を置いた方が、全体に奥行きが生まれると思う。

    わたしは、その一文に何度も頷いた。

    たしかに野十郎では、美しすぎる。
    閉じすぎてしまう。

    「孤高の画家」のまま、彼は時期をみて書いて、離れた場所に置けばいい。

    代わりに、古賀春江を置いた瞬間
    そこに微かな歪みと不穏さが生まれる。

    この三人のあいだには
    冷たい水が流れる、共通の秘密の地下水路のようなものが間違いなくある。
    遡上してそれを追ってみたい。

    わたしは、マダムの意見を素直に受け入れた。
    そしてさらに深く、彼らについて調べ始めた。



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    こうして、昨年のわたしは、ただぼんやりと創作案を模索しながらも
    自分自身が抱え込んでしまった病とどうにか折り合いをつけながら
    静かに毎日を過ごしていた。

    早朝に目覚める。
    近隣のダムまで歩く。

    いまだ現役で働き続けている母が仕事の日には、近くのマーケットまで足を運び、新鮮な肉や野菜を買ってきて、自分で簡単な料理を作った。

    できるだけ、生活を壊さないようにしていた。

    いや

    壊れていないと、自分自身へ言い聞かせていたのかもしれない。



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    夏には、四国へ渡った。
    遍路を歩くためだった。

    それは信仰というより、確認に近かった。

    本当に、おれは病に冒されているのか。

    もし重篤な精神疾患を抱えているのなら
    炎天下の四国を歩き続けることなどできるはずがない。

    そうやって、自分自身へ証明したかったのだ。
    この程度の病で、このおれの人生が狂わされるはずがない、と。

    わたしは、何とか前へ進もうとしていた。

    だが、その一方でマダムの病状は、静かに
    そして加速度的に進行しているように見えた。

    去年のわたしの創作数は、これまでにないほどの「不作の年」だった。
    やはり精神状態というものは
    そのまま創作へ流れ込んでしまうのだろうか。

    公開する作品の数は減り、そして、それに比例するようにフォロワーたちも次々と去っていってしまった。
    そしてマダムからの連絡も、少しずつ減っていった。

    いや

    創作への感想だけではない。
    これまで絶え間なく送られてきていた
    マダムの日常そのものが、静かに減っていったのだ。

    夫との散歩道。
    買い物帰りの夕暮れ。
    毒舌混じりの愚痴。
    ”みてちょうだい”で始まる絵巻物。

    それらが、少しずつ、まるで水位が下がるように、次第に消えていった。



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    秋の、夜明けまで執拗に降り続いていた長い雨が止んだあと
    わたしは久しぶりに筆をとった。

    それまで、ぼんやりと水底に沈め続けていた創作へ
    とにかくまずは形を与えてみることにしたのだ。

    語り手に据えたのは
    夫を原因不明の自殺で失った同郷の中年女性だった。

    モデルにしたのは
    かつてこのnoteの海で出会った、一匹の“深海魚”のような書き手。

    彼女のそのわずか数本の作品群には
    喪失によって生み出され続ける「痛み」が静かに潜航していた。

    そしてわたしは、その痛みに対して
    安易な救済を一切与えない物語を書こうとしていた。

    語り手の女には、煉獄を歩かせることになる。
    残酷なフィクションだった。

    細かなプロットは決めなかった。
    流れに身を任せることにした。

    そして一行目を書き始めた瞬間。

    まるで、長いあいだ閉ざされていた水門の閂が外れたかのように
    言葉が一気に流れ込み始めた。

    気がつけば、三万字に及ぶ長編になっていた。
    それを実質、三日で書き上げたことになる。

    無音の病によって停滞していた精神の奥底で、何かが突然、解放された。
    そんな感覚だけが残った。

    だが。

    公開直前になって、わたしは急激な恐怖に襲われた。
    それまで、わたしが主に書いてきたのはノンフィクションだった。
    そこへ何の前触れもなく、いきなりフィクションを放とうとしている。

    もし、誰にも読まれなかったら。

    もし、書いている最中に燃え上がっていた熱量が
    そのまま反転して、自分自身への絶望へ変わってしまったら。

    だが同時に、こうも思っていた。
    おそらく、いまの精神状態でしか書けないはずだ。

    この停滞と孤独の只中にいるからこそ
    辛うじて掬い上げることができた物語なのだ。

    後にも先にも
    二度と書けない種類の創作なのかもしれなかった。



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    公開直後。

    久しぶりに、マダムから連絡が届いた。
    ただし、それはLINEではなかった。

    コメント欄だった。

    わたしが感じ取っていた底知れぬ恐怖心を
    あるいはマダムは鋭く察知し、汲み取ってくださったのかもしれない。

    わたしは、自らつくりあげた獄に自らを幽閉し
    その鍵を手の届かぬ遠くへ投げ捨てていた。
    マダムは、いわば、その獄から脱獄するための手引きに現れてくれたのだ。

    『棘』のコメント欄に、彼女は正確にこう記していた。




    キラーさん、ご無沙汰しています。

    3万字読み切りました! お爺様にまつわるエピソード他、今までの様々な作品を集大成して新たな物語として 再構築した秀作だと思います👏

    前回の大塚国際美術館は面白可笑しいけど、美術批評としては正直イマイチでしたが これはいけますね(笑)

    この路線で突き進んでください❣
    次回作も期待しています。


    『棘』のコメント欄より引用



    そのコメントを読んだ瞬間、わたしは、声に出して笑った。
    もしかすると、そのとき久しぶりに笑ったのかもしれない。

    いかにもマダムらしい文章だった。

    率直で、容赦がなく
    そして、どこか茶目っ気に満ちている。

    褒めながらも、きっちり毒も混ぜ込んでくる。

    あの人らしい。
    本当に、あの人らしいコメントだった。

    わたしは画面を見つめながら、小さくこう呟いていた。

    はい。すいません。
    次は、マダムが唸るような美術評を書きますからね。

    そしてこのやり取りが

    四年にわたって続いた、マダムとのnote上での、最後の交流になった。






     


    最終章 水がまた囁き始める



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    今年の冬。

    マダムから、すでに入院したとの連絡を受けて
    わたしは慌ててこの海へ戻って来た。

    病状は、すでに末期にまで進行していた。
    日によっては、意識の混濁も激しいという。

    わたしは端的に訊ねた。

    まだnoteへ接続していますか。
    もし作品を公開したら、読むことはできますか。

    数日後に届いた返信は、ところどころ呼吸が途切れていた。

    約束はできないということ。
    そして、もう、お返事を書くことは難しいということ。
    でも、書いて下さるのであれば、夫に朗読させて読みますということ。

    その短い文面を読み終えたあと
    わたしはすぐに下書きの束へと取りかかった。

    昨夏。
    遍路の終着点として訪れた大塚国際美術館以降、そこで偶然出会った無名の人々の言葉に揺さぶられながら、わたしは少しずつ、美術評の下書きを書き溜めていた。

    全部で二十本あまり。

    もっとも、そのすべてが「下書き」と呼べる代物だったわけではない。
    文章になりかけたものもあれば、題名だけのものもあった。
    断片的なプロット。
    挿入予定の画像。
    あるいは、まだ言葉になる前の、かたちにならぬ、水のような手触りだけ。

    しかし、わたしはこのようなひとつの強烈な自己暗示をかけるようにして
    執筆を始めた。




    誰も読んだことがないような美術評を、最後にマダムへ届けよう。





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    わたしがまず着手したのは、それら全体の再編成だった。

    死の床にいるマダムへ向けて、内省や破滅を抱えた画家ばかり並べ立てるのは、あまりにも偏りすぎているように思えたからだ。

    むしろ必要なのは、少しでも呼吸が軽くなるものだった。
    文章そのものも、文量を削り、できるだけ風通しを良くしようと思った。

    急げ。

    そして次に地元の図書館へと走り
    貸出限度まで資料を借りてきてデスクの上に積み上げた。



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    『野獣派』の師弟関係。
    悪いが、絵具のチューブからそのままキャンバスへ叩きつけるような
    獰猛なあなたたちを真正面から描き出せば
    文字数などはいくらあっても足りない。
    だから現代に漫才師として転生し、その魅了を端的に抉り出してほしい。
    (『野獣派』たちの漫才コンテスト)

    ニケとヴィーナス。
    あなたがたの力も借りたい。深夜のルーヴルで井戸端会議を開くんだ。
    月の光を浴びながら。
    最低限の品位さえ保ってもらえれば、あとは自由に話してくれ。
    (『深夜のルーヴル美術館 | ねぇ、ヴィーナス』)

    小磯良平の『清潔さ』は
    手紙形式に落とし込めば最後まで速度を保ったまま書き切れるだろう。
    (『手紙 | 戦わない、たたかい』)

    ドラクロワの絵画に現れる少年は
    あえて振り切った下ネタへ寄せてしまったほうが、かえって生命力が出る。
    (『革命はつらい、でも、思春期はもっとつらい』)

    松井冬子の孤高かつ、あの圧倒的な筆致については
    もはや説明するよりひたすら画像を浴びてもらうほかなかった。
    (『あたしの痛みが、美にかはる刻』)

    そして「久留米三部作」の堅物の三人は
    博多弁の独白にすれば、まだいくらか書きやすいだろう。
    (『美の夭折 / 美の追憶 / 美の奈落』)


    確かに質も重要だった。
    だが、それ以上に速度を重視しなければならなかった。

    そうやってわたしは、死へ向かう人のために
    必死に「生」の側へ寄った。

    いま振り返れば、あれは創作というより
    水中で激しく水を掻く行為に近かったのかもしれない。

    沈んでいく誰かへ向かって、必死に。



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    それらの作品群を、マダムがどこまで読んでくださったのかは
    もうわからなかった。

    ある日を境に、既読がつくことはなくなった。
    しかしそれでも、わたしは書くことをやめなかった。

    もはやそれは、マダムのためだけではなかった。

    深夜になると、胸の奥で何かが暴れ始めた。
    書かなければ、そのまま身体の内側から裂けてしまいそうだった。

    眠りは短く、しかし深くなっていった。

    ネットで画家たちの情報を洗い出し
    資料で裏付けを取り、画像を挿入していく。

    公開画像を使うことも多かったが、必要ならば、いつか自分で撮り直して差し替えればいいと思った。

    公開頻度を崩さなかったことで、生活には一定のリズムが生まれていった。

    「土曜日 AM 七時」。

    それが、創作の起点であり、終点になった。

    作品自体のレイアウトは、すでに遥か以前に完成していた。
    わたしの作品、とりわけ冒頭部分については、かつてマダムから
    「まるで良質な映画のオープニングのようね」
    と評して頂いていた。
    だから、あとはそこへ静かに注ぎ込むだけだった。

    そして病床にいるのなら、おそらく読むのはPCではない。
    スマホか、あるいはタブレットだろう。
    新しい書き方が要求される。

    だからセンテンスは、可能な限り短くした。

    呼吸が途切れないように。

    水の中でも読めるように。



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    その作業に没頭しているあいだだけは
    耳の奥で鳴り続けていた豪雨の音も、ぴたりと止んだ。

    代わりに、取り上げた画家たちの作品から
    肉声が聞こえてくるような錯覚を覚え始めた。

    夢の中にも、彼らは現れた。

    濁流のように激しく、早口でまくしたてる者。
    煙草の煙の向こうで、何も言わずこちらを見つめ続ける者。
    壊れた祈りのように、延々と同じ言葉だけを繰り返す者。

    美の果てに、栄光ではなく破滅をみた者たち。

    しかし、そこで何を話したのかは、目覚めた瞬間に失われていった。
    朝の光が差すころには、彼らの声はいつも水底へ沈んでいた。



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    こうして、わたしとマダムの四年にも及んだ濃密な交流は幕を下ろした。

    四年前、ただ偶然にすれ違っただけのひとつの存在が
    気づかぬうちに、閉じられていた水門の鍵を握っていたのかもしれない。

    そしてその出会いは、わたしの書くものを、その方向性を、質そのものを、
    決定的に変えていったに違いない。

    抗えぬ水流の中で、わたしは何度も流され、何度も書き直しながら
    それでも進むべき水脈を探し続けていたのだろう。

    創作とは、表現とは、自らの殻の中に美しく閉じこもり
    内面をただ一方的に垂れ流すことではない。

    他者という名の激しい水流に身を曝し、削られ、変形させられながら
    なお、まだ見ぬかたちへと変わり続けていくことの謂いいなのだ。

    そして書き手であるならば、その変化を恐れてはならず
    そこから逃げることは、あるいは、許されないのかもしれない。


    変化を拒む表現は、やがて濁り、水底へ沈んでいくのだから。

    画面の向こう、マダムがいた場所には
    いまや真っ白な空白が広がっている。


    いや、それは、「余白」と言いかえるべきなのだろうか。

    わたしは、「makilin」と「マコちゃん」が残していった歪みや
    手厳しいアドバイスのすべてを、自分の文体の中に溶かし込んでいく。

    変わってしまった。
    もう、あの出会いの前のわたしには戻れないのだろう。

    だが、その「余白」の奥から
    かつてスクリーンの中で交わされた、あの言葉が再び聞こえる気がする。


    この果てまで行かないか、果ての果てまで行かないか、と。


    変わり果ててしまったこの指先で
    わたしは新しい下書きのページを開き、最初の文字を打ち込む。





    水が、またわたしに囁き始めている。








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    マダムがしんだ

    (23,000字)

    了






     
     
    第21回「文芸思潮」エッセイ部門 佳作受賞(2026) 『怒りは、どこまで正義たりうるか』 季節を問わず、眠れない夜に、じっくり読んでもらえるようなエッセイを。 もっと言えば、何度も読み返してもらえるような。 仕事と執筆の両立が難しく 不定期に凍結期間を設けています。

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