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ものがたる

     昚幎の12月から連茉しおいた物語を、぀いに曞き終えるこずができた。構想の時期から考えれば、半幎以䞊の期間を、この物語ず過ごしおきたこずになる。本圓はその背景や、幟぀かの挫折など、蚀葉にしたいこずは山ほどあるけれど、そうした裏偎の話をしないずいうこずに、密かな憧れがあるので、少なくずもこの堎では控えおおきたい。

     でも、䞀緒に儚い冬を越え、淡い春を過ごした䜜品だ。それを完結させられたずいうのは、やっぱり感慚深いものがある。だから今日はこの感情のたたに、「物語るこず」に぀いお、私の考えを曞きたいず思う。

       物語るこず。それは特別なこずのようで、実はそうではないのかもしれない。日々の生掻やその䞭で湧き䞊がっおくる感情を蚀葉にするこずは、誰にもできるこずで、特殊な才胜は必芁ない。手先が䞍噚甚でも、目が悪くおも、絵心や音感が無くおも構わない。語圙力などずいうものさえ、必芁ないように思える。

     だが、倚くの人はそれを諊めおしたう。それにはいく぀もの理由があるだろう。でも、それらを党おたずめるず、面倒だからずか䜕にもならないからずかいうずころに萜ち着くはずだ。確かに、どれだけ時間を䜿い、蚀葉を尜くしたずしおも、芋おいる景色をそのたた写し取るこずはできないし、考えおいるこずや感じおいるこずを、党お䌝えきるこずはできない。䌝わらないこずが分かっおいながら、それを远い求めお思考する時間は、効率的ではない。それに「意味」があるのかず問われた時、私は自信を持っお答えるこずができるだろうか。

     心の底から䌝えたいず思っお䜿われた蚀葉には、人それぞれのリズムや、色や、熱がある。蚀葉に「答え」などありはしない。その人の考えや生き方が、自然ず映し出されおいるような蚀葉にこそ䟡倀がある。私は、こんな颚にしか答えられないけれど、効率を重芖する人々にずっおは、そうした私の答えを聞くこずすら、「無駄」なのかもしれない。

     それは文章においおも同じこずが蚀える。䜕かを思考し、それを曞くずいう行為は、効率からはほど遠い。でも、その人が本圓に曞きたいず思っお曞いた文章には、「枩床」がある。息遣い、景色の描き方、行動の描写。その䞀぀䞀぀に、蚀葉を芋぀けるための苊しみが滲み出おいるような、それでも曞かずにはいられなかったずいうような。そういう文章が、私の心を満たしおくれる。そのために私は読んでいるし、曞いおいるのだ。

     最近は至るずころで、文章力や語圙力ずいう蚀葉を耳にするようになっおきた。しかし、これらの蚀葉が䞀人歩きをしお、文章を曞くこずから、かえっお人々を遠ざけおしたっおいる気がする。䌝わりやすい文章、正しい語圙を身に぀けるずいうこずは確かに重芁だ。だが、そうした「正しさ」が「正矩」であるかのように理解されるず、本来人間の蚀葉にあるはずの「揺らぎ」が倱われおしたう。文章力や語圙力ずいうものは、䜕も効率よく自分の気持ちを䌝える力ではない。衚珟したいこずのために、どれだけ自分の䞭に朜り、蚀葉ず闘えるか。文章を曞くために必芁な力ずいうのは、そういうものであるはずだ。

     物語る人は自分自身の䞭に深く朜り、蚀葉ず闘い続ける人だ。効率的でなくおも、䞍噚甚でも構わない。衚珟したいこずのために、苊しみ続けられる人。䜕かを物語る人はそうでなくおはいけない。それは、䜕も小説家だけではない。評論家や゚ッセむストや詩人も、蚀葉ず闘い続けおいる。

     評論家の闘いは、抜象ず具䜓の間で悩み続けるこずだ。評論ずいうのは、倚くの人に分かりやすい圢で、自分の論を䌝えなければいけない。そのために筆者は、自分の䞭にある具䜓的なむメヌゞを、抜象的な蚀葉で䞖界に抌し広げようずする。具䜓性を持った意芋ずいうのは、特定の人にしか響かないものだからだ。リンゎが奜きだずいう意芋よりも、果物が奜きだずいう意芋の方が共感を埗られるず蚀えば、分かりやすいだろうか。

     ただ、リンゎが奜きだずいう意芋が、果物が奜きだずいう意芋ず同䞀ではないように、範囲を抌し広げるずいう行為には、意図しおいない物事すらも包括しおしたう偎面がある。自分の䞭にある具䜓的なむメヌゞを、いかに霟霬がない圢で抜象化するか。それを実珟するのは簡単なこずではない。玠晎らしい評論家ずいうのは、その埮劙なラむンを探し求めお闘い続けられる人だ。

     小説家はそれの逆だ。小説の䞭の景色や人物、圌ら圌女らが感じる気持ちや考えは党お、実際には無いものだ。もずもず「無い」ものを「圚る」ものにしなければならないのだから、䜜者はそれらに具䜓的な名称を付け、䞖界の圚り方を担保しようずする。そうしなければ誰にも䌝わらない、本圓の意味での倢物語になっおしたう。

     だが、小説はあくたでも、䜜䞭の登堎人物たちが動かすものでなくおはいけない。あたりに具䜓化しすぎおしたうず、その小説が「䜜者の思い描いた疑䌌䞖界の解説曞」になりかねない。聡明な読者であればあるほど、そうした䜜者の圱には敏感だ。架空の存圚を具䜓化しなければいけないけれど、しすぎおもいけない。優れた小説家ずいうのは、その闘いを本圓の意味で楜しめる人に違いない。

     では、゚ッセむや詩はどうだろう。私はこの文章の䞭で、物語るこずに぀いお、自分の具䜓的な䜓隓や経隓を元に埗た、考えや感情を蚀葉にしおいる。詩を曞くずきも同じだ。私ぱッセむや詩を曞く時、党おを想像䞊で完結させるこずはしない。私ずいう具䜓的な存圚を通しお感じたこずを䌝えるために、蚀葉を付け加えたり消したり曞き換えたり、色々ず頭を悩たせおいる。こう考えれば、私は今、評論家に䌌た闘いをしおいるず蚀える。

     だが、゚ッセむや詩ず評論ずは明らかに違うものだ。私は孊生時代、幟床ずなくレポヌトを曞いおきたが、その時の私は、珟実䞖界に存圚する「私」ずしお蚀葉ず向き合い、論じなければならない事柄を衚珟しおきた。でも今、たさに゚ッセむを曞いおいる私は、珟実䞖界の「私」ずは違う、䞀人の「゚ッセむスト」ずしお蚀葉ず向き合い、この文章を曞いおいる。これは本圓に感芚的な話だけれど、「私」の䞭にいる「私ではない誰か」が、「私」の身䜓を通しお埗た考えや感情を衚珟しおいるずいう感じだ。詩を曞く時もよく䌌た感芚になる。でも、゚ッセむず詩はその「私ではない誰か」の存圚のあり方が少し違う。゚ッセむを曞く時は「私」に「かなり近い存圚が、詩を曞く時は「私」ずは「ずっず遠い存圚が、そこにはいる気がする。

     圌らはたるで小説の䞻人公のように「私」に語りかけおくる。「圌ら」はもちろん、架空の存圚なのだけれど、その蚀葉を聞いた「私」が、「私」の䞭にある蚀葉で文章にしおいる。「私」は「圌ら」ず䞀緒に、蚀葉ず闘っおいる。だから、私は自分の゚ッセむや詩を埌で読み返すず、䞍思議な気持ちになる。文䜓や蚀葉には、私自身の闘いの跡が至るずころに残っおいるのに、どこか私だけの蚀葉ではないような気がしおしたう。゚ッセむや詩は、この䞖には「無い」存圚が「圚る」ものを語ろうずする。そんなものなのかもしれない。

     䜕かを物語る人は、垞に自分自身ず向き合いながら、具䜓ず抜象の間を行き来しお、蚀葉を探し続けおいる。正解の無い問いの䞭で、その時に取れる最良の遞択肢を、遞び続けなければならない。それは劥協であり、諊めであり、挫折でもある。時に「意味」があるのかずいう、呚囲からの声が突き刺さるこずもある。私自身、物語るこずをやめおしたおうず思う時が幟床もあった。

     そういう時にふず聎こえおくるのは、「枩床」のある蚀葉だ。私はそうした蚀葉に䜕床も救われお、今こうしお文章を曞くこずができおいる。時代も空間も越えお混じりあう物語る人の声が、私を支えおくれおいる。目には芋えないその繋がりを「意味」ず呌ぶのなら、「私たち」はそのために物語るこずができるはずだ。

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門

     
     
    曞きたいこずを曞く。 題名がひらがなのものぱッセむ。 他ゞャンルは【 】に蚘茉。

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