メインコンテンツへスキップ
見出し画像

寄り添う光


    あらすじ


    人手不足の特別養護老人ホームで働く介護福祉士・澪、二十九歳。人に頼ることが苦手な彼女は、利用者一人ひとりに向き合おうとするあまり仕事を抱え込み、心身ともに限界を迎えていた。「もう辞めたい」。その思いを胸に抱えながらも、目の前の利用者を見捨てることはできず、揺れる日々を送っていた。

    そんなある日、看取り期の利用者・陽一が入所する。自らの死期を静かに受け入れながらも、庭や妻との思い出を穏やかに語る陽一。最初は距離のあった二人だったが、わずか二週間という限られた時間の中で、少しずつ心を通わせていく。

    「急がなくていい」「人は一人では生きられない」。

    陽一の何気ない言葉は、忙しさの中で介護の本質を見失いかけていた澪の心を少しずつ変えていく。そして人生の最期、陽一は澪へ「あなたは光だよ」と言葉を残し、静かに旅立つ。

    人の最期に寄り添うことは、その人の命を見送るだけではない。誰かの人生を受け止め、その人らしい時間を守り抜くこと。そして、その出会いは残される者の人生も照らしていく。

    介護の現実、人手不足、看取りという重いテーマを通して、「生きること」と「寄り添うこと」の意味を静かに描く、人と人とのつながり、喪失、そして再生の物語。


    第1章

    第一章 辞めたい


     ナースコールが鳴り響く。

     澪は洗濯物の仕分けをしていた手を止め、廊下へ飛び出した。

    「はい、今行きます」

     返事をした直後、別の部屋からもコール音が鳴る。

     さらに食堂の方から職員を呼ぶ声が聞こえてきた。

    「すみません、ちょっと待ってくださいね」

     そう言いながらも、待たせている利用者が何人いるのか分からなくなっていた。

     朝食介助が終わったばかりだというのに、記録は手つかずのまま。

     入浴介助の準備もしなければならない。

     欠勤者が出た影響で、今日のフロアは職員が一人足りなかった。

     ここ数か月、それが当たり前になっている。

     誰かが休めば、その穴を誰かが埋める。

     そして、その「誰か」になることが多いのは澪だった。

    「澪さん、ごめん。こっち手伝ってもらえる?」

     同僚の声が飛ぶ。

    「はい」

     反射的に返事をする。

     断るという選択肢が頭に浮かばなかった。

     いや、浮かんでも口にはできない。

     みんな苦しい。

     みんな忙しい。

     自分だけが大変なわけではない。

     そう思えば思うほど、助けてほしいと言えなくなる。

     気づけば、昼休憩もまともに取れない日が続いていた。

     利用者の昼食が終わり、ようやく一息つけると思った矢先だった。

    「澪」

     主任が声をかけてきた。

    「はい」

    「少し休め」

    「大丈夫です」

    「顔色が悪いぞ」

    「平気です」

     即答した。

     本当は平気ではない。

     朝から頭痛が続いている。

     肩は重く、足は鉛のようだった。

     それでも休みたいとは言えなかった。

     主任は小さく息を吐いた。

    「無理するな」

    「はい」

     返事だけはした。

     だが、その言葉に従うつもりはなかった。

     従える状況でもなかった。

     人が足りない。

     利用者は待っている。

     自分が休めば、誰かの負担が増える。

     それが分かっているからこそ、休めない。

     介護の仕事を始めた頃は違った。

     利用者と話をする時間が好きだった。

     笑顔を見ると嬉しかった。

     誰かの役に立てていると思えた。

     けれど今はどうだろう。

     コールに追われ、時間に追われ、業務をこなすだけの日々。

     一人ひとりに向き合いたいと思っていても、それができない。

     利用者に申し訳なさを感じながら、次の業務へ走る。

     そんな毎日だった。

     夕方。

     ようやく業務が終わり、職員用の出入口から外へ出た。

     空は薄い茜色に染まっていた。

     秋の風が頬を撫でる。

     澪は大きく息を吐いた。

     疲れた。

     本当に疲れた。

     胸の奥に沈んでいた言葉が、ふと浮かび上がる。

     ――辞めたい。

     その言葉に、自分自身が驚かなかった。

     むしろ自然だった。

     何度も考えてきたことだからだ。

     辞めたら楽になるだろうか。

     朝、目覚ましに怯えなくて済むだろうか。

     誰かのコール音に追われなくて済むだろうか。

     そう思う一方で、利用者たちの顔が浮かぶ。

     食事のたびに「ありがとう」と言ってくれる人。

     家族の話を聞かせてくれる人。

     手を握ってくれる人。

     その顔を思い出すたびに、足が止まる。

     辞めたい。

     でも辞められない。

     その繰り返しだった。

     施設の建物を振り返る。

     窓の向こうには、今日も誰かの日常がある。

     誰かの人生がある。

     そして、その人生の終わりに近い時間を過ごしている人たちがいる。

     澪は目を閉じた。

     明日も仕事だ。

     考えたところで何も変わらない。

     そう自分に言い聞かせる。

     だが胸の奥に残る重さは消えなかった。

     この時の澪はまだ知らない。

     二週間後、自分の人生を変える一人の利用者と出会うことを。

     その人が、自分にこう告げることを。

     ――あなたは光だよ。



    第2章 陽一との出会い


     翌週の月曜日、澪は出勤してすぐ、職員用のロッカーの前でしばらく動けなかった。

     制服に着替え、名札を胸につける。

     それだけのことなのに、体が重かった。

     まだ朝の八時前だというのに、施設の中はすでに慌ただしい空気に包まれている。廊下の向こうから車椅子の音が聞こえ、食堂では朝食を終えた利用者たちの声が重なっていた。

     今日も人が足りない。

     勤務表を見なくても分かる。

     空気で分かる。

     職員の歩く速度、声の張り方、誰も立ち止まらない廊下の気配。そういうものが、今日一日の重さを澪に知らせていた。

    「澪さん、おはようございます」

     背後から声をかけられ、澪は振り返った。

     看護師がカルテを抱えて立っている。いつも落ち着いた声で話す人だった。

    「おはようございます」

    「顔色、大丈夫?」

    「大丈夫です」

     いつものように答えた。

     大丈夫ではない時ほど、そう答える癖がついていた。

     看護師は少しだけ澪を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。

    「今日、新しい入所の方が来るの。看取り期の方」

     その言葉に、澪の背筋が少し伸びた。

    「看取り期……」

    「うん。病気が進行して、在宅が難しくなったみたい。奥様が付き添って来られる予定」

    「分かりました」

    「名前は陽一さん。七十八歳」

     澪は胸の中で、その名前をそっと繰り返した。

     陽一。

     まだ会ったことのない人の名前。

     けれどその名前の向こうには、もう残された時間が少ない一人の人生があった。

     看取りは初めてではない。

     これまでにも何度か、人の最期に立ち会ってきた。

     それでも慣れることはなかった。

     慣れてはいけないものだとも思っていた。

     けれど、慣れないまま続けていくことの苦しさを、澪は少しずつ知り始めていた。

     朝の申し送りが始まる。

     主任がホワイトボードの前に立ち、今日の人員配置と予定を確認していく。

    「今日は入浴が三名追加。午後に新規入所が一名。看取り期の方だから、初日は特に状態確認を丁寧に」

     主任の声は淡々としていた。

     淡々としていなければ、現場は回らない。

     それを澪は知っている。

     誰かの人生の大きな節目であっても、施設の一日は止まらない。食事があり、排泄があり、入浴があり、服薬があり、記録がある。新しい利用者が来る日でさえ、いつもの業務の中に組み込まれていく。

     それが介護の現実だった。

    「澪」

     主任が名前を呼んだ。

    「はい」

    「午後、陽一さんの受け入れを頼めるか」

    「私ですか」

    「お前が一番落ち着いて対応できる」

     その言葉に、澪は一瞬だけ返事が遅れた。

     落ち着いているわけではない。

     ただ、慌てているように見せないだけだ。

     苦しいと言わないだけだ。

     それでも断れなかった。

    「分かりました」

     主任は小さくうなずいた。

    「無理はするな」

     またその言葉だった。

     無理をしないで済むなら、最初からしていない。

     澪はそう思ったが、口には出さなかった。

     午前中は、目の前の業務に追われた。

     トイレ介助、食事介助、薬の確認、シーツ交換、記録。

     ひとつ終えれば、すぐ次が来る。

     利用者の一人が食堂で不安そうに澪を呼んだ。

    「澪さん、今日は何曜日だったかね」

    「月曜日ですよ」

    「月曜日……そうかい。娘は来る日かね」

     その人の娘が来るのは水曜日だった。

     澪は膝を折り、目線を合わせる。

    「今日は月曜日だから、娘さんは水曜日ですね。でも、この前お電話で、楽しみにしてるっておっしゃってましたよ」

    「そうかい。楽しみにしてくれてるのかい」

    「はい」

     利用者の表情が少しだけ緩む。

     その顔を見た瞬間、澪の胸の奥に小さな温かさが灯った。

     こういう瞬間があるから、辞められない。

     そう思う。

     けれど次の瞬間、廊下から別の職員の声が飛んだ。

    「澪さん、こっちお願いできますか」

    「はい、今行きます」

     温かさはすぐに忙しさに押し流された。

     午後二時過ぎ。

     玄関の自動ドアが開いた。

     澪は事務所から連絡を受け、玄関ロビーへ向かった。

     そこには、車椅子に座った男性と、その隣に立つ女性がいた。

     男性は痩せていた。

     頬はこけ、手の甲には血管が浮いている。けれど背筋は思ったよりもまっすぐで、顔つきにはどこか頑固そうな強さが残っていた。

     この人が陽一さん。

     澪はすぐにそう思った。

     隣の女性は妻だろう。荷物の入ったバッグを両手で抱え、不安そうに施設の中を見回していた。

    「本日担当させていただきます、介護福祉士の澪です」

     澪は深く頭を下げた。

     妻が慌てたように頭を下げ返す。

    「妻です。よろしくお願いいたします」

     陽一は澪を見上げた。

     視線が合う。

     その目は弱っている体に似合わず、はっきりとしていた。

    「若いな」

     第一声がそれだった。

     澪は少しだけ驚いたが、すぐに微笑んだ。

    「よく言われます。でも、介護福祉士としては十年近く現場にいます」

    「そうか」

     陽一は短く答えた。

     それきり黙った。

     妻が申し訳なさそうに口を開く。

    「すみません、この人、初めての場所だと少し……」

    「大丈夫です。ゆっくりで構いません」

     澪は陽一の車椅子の横に立った。

    「お部屋へご案内しますね。途中で疲れたら言ってください」

    「疲れとるに決まっとる」

     陽一がぼそりと言った。

     妻が小さく眉をひそめる。

    「あなた」

    「本当のことを言っただけだ」

     その言い方には棘があった。

     けれど澪は、不思議と嫌な感じを受けなかった。

     怒っているというより、何かを失った人の防御のように聞こえた。

    「そうですね。疲れていらっしゃると思います。では、なるべく短い道で行きましょう」

     澪がそう言うと、陽一は少しだけ目を細めた。

     意外そうな顔だった。

     否定されると思っていたのかもしれない。

     慰められると思っていたのかもしれない。

     澪は車椅子を押しながら、廊下をゆっくり進んだ。

     窓から午後の光が差し込んでいる。床に長く伸びた光の帯の上を、車椅子の車輪が静かに通っていく。

    「ここは食堂です。朝と昼と夕食は基本的にこちらで召し上がっていただきます。体調によってはお部屋でも大丈夫です」

    「飯はうまいのか」

    「日によります」

     澪が正直に答えると、陽一が初めて小さく笑った。

    「正直だな」

    「嘘をついても、すぐ分かりますから」

    「それはそうだ」

     妻がその笑顔を見て、少しだけ安心したように息を吐いた。

     澪はその様子を横目で見た。

     妻もまた、限界まで頑張ってきた人の顔をしていた。

     陽一が病気の進行で在宅介護が難しくなり、ここへ来た。

     それは書類で知っていた。

     けれど、書類には載らない疲れがある。

     夜眠れなかった日。

     食事を食べてくれない不安。

     呼吸が苦しそうな時の恐怖。

     もう家では見られないと認める時の罪悪感。

     妻の手元を見ると、バッグの持ち手を握る指に力が入りすぎて白くなっていた。

     部屋に着くと、澪は陽一のベッド周りを説明した。

     ナースコールの位置、トイレまでの動線、荷物の置き場所。

     陽一はほとんど返事をしなかったが、聞いていないわけではなさそうだった。必要なところだけ、短く質問を挟んだ。

    「夜はうるさいのか」

    「日によります。コールが多い日は少し音がします」

    「静かな方がいい」

    「なるべく休めるようにします」

    「なるべく、か」

    「必ず静かですとは言えません。ここには他の方もいらっしゃるので」

     陽一は澪を見た。

    「それも正直だ」

    「すみません」

    「いや。嘘よりいい」

     その言葉に、澪は少しだけ肩の力が抜けた。

     妻が荷物を整理している間、陽一は窓の外を見ていた。

     中庭が見える部屋だった。

     季節の花は少なかったが、手入れされた小さな庭に、細い木が一本立っている。

    「庭が見えるんだな」

    「はい。午前中は少し日が入ります」

    「悪くない」

     陽一の声が、先ほどより柔らかかった。

     澪はその横顔を見た。

     頑固そうで、言葉は少ない。

     でも、ただ扱いづらい人ではない。

     そう感じた。

     そのあと看護師が来て、状態確認を行った。

     血圧、脈拍、酸素の状態。

     陽一は淡々と応じていたが、時折疲れたように目を閉じた。

     妻が心配そうに身を乗り出す。

    「大丈夫? 苦しくない?」

    「いちいち騒ぐな」

     陽一は少し強い口調で言った。

     妻の表情が固まる。

     澪は二人の間に流れる空気を感じた。

     長く一緒に生きてきたからこその遠慮のなさ。

     そして、死が近づいているからこその怖さ。

    「少し休まれますか」

     澪が声をかけると、陽一はうなずいた。

    「そうする」

     妻はまだ何か言いたそうだったが、澪がそっと促した。

    「奥様も少しお茶を飲まれませんか。こちらでお話を伺えます」

     妻は迷った後、小さくうなずいた。

    「お願いします」

     陽一はベッドに横になった。

     澪が布団を整える。

     その時、陽一が低い声で言った。

    「手際がいいな」

    「ありがとうございます」

    「でも、急ぎすぎだ」

     澪の手が止まった。

    「え」

    「急いどる手だ」

     陽一は目を閉じたまま言った。

    「人を急がせる手は嫌いだ」

     その言葉は、澪の胸に思った以上に深く刺さった。

     急いでいた。

     確かに急いでいた。

     次の業務が頭にあった。

     記録も残っている。

     別の利用者のトイレ誘導の時間も近い。

     それでも、今目の前にいる陽一にとっては、この布団を直される時間さえ、自分の時間だった。

    「……すみません」

     澪は手の動きをゆっくりにした。

     布団の端を整え、肩のあたりに隙間ができないようにそっとかけ直す。

    「これでどうですか」

     陽一は目を開けなかった。

    「悪くない」

     それだけだった。

     けれど澪には、少しだけ認めてもらえたように感じた。

     相談室で妻の話を聞いた。

     病気が進み、家での生活が難しくなったこと。

     陽一が最後まで家にいたがったこと。

     それでも、夜中の発作や転倒が増え、妻一人では支えきれなくなったこと。

    「私がもっとしっかりしていれば、家で看られたんじゃないかって思うんです」

     妻は膝の上で手を握りしめていた。

     澪はすぐには答えられなかった。

     大丈夫です、と簡単に言うことはできた。

     奥様は悪くありません、と慰めることもできた。

     けれど、その言葉だけで妻の罪悪感が消えるわけではない。

    「ここに来ることは、諦めることではないと思います」

     澪はゆっくり言った。

    「陽一さんが安全に、少しでも穏やかに過ごすための選択だと思います」

     妻は顔を上げた。

    「穏やかに……」

    「はい」

    「そんな時間、まだ残っているでしょうか」

     澪は言葉を探した。

     残っている、と断言することはできない。

     でも、残っていないとも言いたくなかった。

    「一日でも、一時間でも、その人らしく過ごせる時間を作ることはできます」

     妻の目に涙が浮かんだ。

    「よろしくお願いします」

     その言葉の重さを、澪は受け止めた。

     受け止めてしまった。

     また抱え込むのかもしれない。

     そう思いながらも、頭を下げた。

    「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

     夕方、妻が帰ったあと、澪は陽一の部屋を訪れた。

     陽一は起きていた。

     窓の外を見ている。

    「奥様、帰られました」

    「そうか」

    「また明日、来られるそうです」

    「来なくていいと言ったんだがな」

    「心配なんだと思います」

    「心配するだけ疲れる」

     そう言いながら、陽一の目は少し寂しそうだった。

     澪はベッド横の椅子に腰を下ろした。

     本当はすぐ戻らなければならない。

     記録も残っている。

     けれど、なぜか立ち去れなかった。

    「陽一さんは、ここへ来るのは嫌でしたか」

     聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

     陽一はしばらく黙っていた。

     そして、ゆっくり口を開いた。

    「嫌に決まっとる」

     澪は何も言わなかった。

    「家にいたかった。庭もある。机もある。京子が淹れる茶もある」

    「はい」

    「でも、もう無理なんだろうな」

     その声は静かだった。

     怒りではなく、諦めでもない。

     自分の死期を理解している人の声だった。

    「わしは、自分の体のことくらい分かる」

     陽一は澪を見た。

    「長くはない」

     澪の喉が詰まった。

     看取り期の利用者と向き合う時、避けられない言葉がある。

     死。

     最期。

     残された時間。

     それらを業務の中では冷静に扱う。

     けれど、本人の口から聞くと、重さがまるで違った。

    「……怖くは、ないんですか」

     澪は思わず聞いていた。

     陽一は少し考えた。

    「怖くないと言えば嘘になる」

    「はい」

    「でも、怖いだけでもない」

     陽一は窓の外に目を戻した。

    「人間、いつか死ぬ。問題は、その時に誰がそばにおるかだ」

     その言葉が、澪の中に静かに落ちた。

     誰がそばにいるか。

     介護の仕事は、生活を支える仕事だ。

     食べること、眠ること、排泄すること、清潔を保つこと。

     けれど、それだけではない。

     誰かの最後の時間に、そばにいる仕事でもある。

     澪はそれを分かっていたはずだった。

     分かっていたのに、忙しさの中で見失いかけていた。

    「陽一さん」

    「なんだ」

    「私でよければ、できるだけそばにいます」

     言った瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。

     また抱え込むつもりなのか。

     そう思った。

     けれど陽一は、澪をじっと見たあと、ふっと目元を緩めた。

    「できるだけ、でいい」

    「はい」

    「無理して言う言葉は信用ならん」

     澪は小さく笑った。

    「覚えておきます」

     陽一もほんの少しだけ笑った。

     それは、初めて見せる穏やかな表情だった。

     その表情を見た時、澪は思った。

     この人はきっと、ただ死を待っているだけではない。

     残された時間の中で、自分の人生を最後まで生きようとしている。

     その夜、澪は残業して記録を書いた。

     陽一の入所時の様子。

     身体状態。

     食事量。

     妻の不安。

     本人の言葉。

     書くべきことは多かった。

     けれど最後に、手が止まった。

     記録には残せないことがある。

     急いでいる手は嫌いだ、と言われたこと。

     死を怖いだけではないと言った声。

     できるだけでいい、と受け止めてくれた目。

     それらは正式な記録には書けない。

     けれど、澪の中には確かに残った。

     帰り道、施設を出ると空は暗くなっていた。

     体は疲れていた。

     足も重い。

     肩も痛い。

     辞めたいという気持ちが消えたわけではない。

     明日も人は足りない。

     コールは鳴る。

     業務は終わらない。

     それでも、今日出会った陽一の言葉が、胸のどこかに引っかかっていた。

     問題は、その時に誰がそばにおるかだ。

     澪は夜の空を見上げた。

     陽一との関わりが、自分にとって何になるのか。

     この時の澪にはまだ分からなかった。

     ただ、明日もう一度、あの部屋へ行こうと思った。

     急ぎすぎない手で。

     ひとりの人として、陽一に向き合うために。


    第3章 寄り添う日々


     翌朝、澪は出勤すると真っ先に陽一の部屋へ向かった。

     夜勤者からの申し送りでは、大きな変化はなかったという。

     夜中に一度目を覚ましたが、すぐに眠りについたらしい。

     ドアを軽くノックする。

    「陽一さん、おはようございます」

     窓際のベッドで、陽一がゆっくり顔を上げた。

    「……朝か」

    「よく眠れましたか?」

    「まあな。知らん場所にしちゃ、悪くなかった」

     その返事に、澪は小さく安堵した。

    「それはよかったです」

    「ここは、朝日が入るんだな」

     陽一の視線の先で、薄い朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

    「午前中は気持ちがいいですよ」

    「家の庭にもな、朝になると光が差していた。」

    「お庭があるんですね。」

    「ああ。小さい庭だ。季節ごとに花が咲く。」

    「お花がお好きなんですか?」

    「好きというほどでもない。」

     少し考えてから、陽一は続けた。

    「でも、毎年同じように咲くのを見るのは悪くない。」

     その声には、懐かしい景色を思い浮かべているような温かさがあった。

    「今度、そのお庭の話をもっと聞かせてください。」

     陽一が少し驚いたように澪を見る。

    「そんな話、面白いか。」

    「私は好きですよ。」

    「変わった介護士だな。」

     そう言って、陽一は小さく笑った。

     その時、廊下からコール音が鳴った。

     続けて別の部屋からも鳴る。

     澪は思わず立ち上がった。

    「行ってこい。」

    「すみません。」

    「急がんでいい。」

     その言葉が、不思議と胸に残った。

     急がなくていい。

     この施設では、誰もそんなことを言わない。

     いつも時間に追われている。

     いつも急いでいる。

     それが当たり前になっていた。

     澪は頭を下げ、部屋を後にした。

     だが胸の中には、窓辺の柔らかな光が残っていた。

         ◇

     その日の昼食時。

     陽一は食堂ではなく、部屋で食事を摂ることになった。

     病気の影響で食事量は少なく、疲れやすかった。

     澪はお盆を持って部屋へ入る。

    「お待たせしました。」

    「今日は何だ。」

    「お粥と白身魚の煮つけです。」

    「病人の飯だな。」

    「病人ですから。」

     陽一がくすりと笑う。

     少しだけ、冗談を言うようになった。

     それが嬉しかった。

     澪はベッドの角度を調整し、食事の準備を整える。

    「食べられそうですか?」

    「少しならな。」

     スプーンを持つ手は細く、力が入っていない。

     それでも自分で食べようとする姿に、澪は何も言わず見守った。

     一口。

     また一口。

     食べるということが、こんなにも大変になる。

     介護の仕事をしていても、その現実に慣れることはなかった。

    「うまいか?」

     陽一が尋ねた。

    「私はまだ食べていません。」

    「そうか。」

    「でも、今日は魚の味付けがいいって、朝から評判でしたよ。」

    「お前は食っとらんのに分かるのか。」

    「皆さんが教えてくれますから。」

    「なるほどな。」

     陽一がゆっくりと頷いた。

    「……人の話をちゃんと聞くんだな。」

     その言葉に、澪は少しだけ目を見開く。

    「そうですか?」

    「ああ。」

     それだけ言うと、陽一は再び食事に目を向けた。

     けれど、その何気ない言葉が、澪には少し嬉しかった。

         ◇

     それから数日が過ぎた。

     陽一は少しずつ施設の生活に慣れていった。

     食事の量は増えなかったが、朝になると窓を開けてほしいと言うようになった。

     庭の話もしてくれるようになった。

     若い頃、会社勤めをしていたこと。

     休日には庭の手入れをしていたこと。

     妻の京子と季節の花を見ていたこと。

    「春は何のお花を植えていたんですか?」

    「チューリップだな。」

    「可愛いですね。」

    「京子が好きだったんだ。」

     その時の陽一の表情は、とても穏やかだった。

     その顔を見るたびに、澪は思う。

     この人にも、長い人生がある。

     仕事があって、家庭があって、好きなものがあって。

     そして今、その人生の最後の時間をここで過ごしている。

     介護を始めた頃は、一人ひとりの人生にもっと目を向けていた。

     けれど忙しさに追われるうちに、それが少しずつできなくなっていた。

     今、陽一との時間が、そのことを思い出させてくれていた。

         ◇

     夜勤の日だった。

     消灯後の廊下は静かで、昼間とは別の施設のようだった。

     澪が巡視で陽一の部屋を訪れると、まだ起きていた。

    「眠れませんか?」

    「少しな。」

    「何かお持ちしましょうか。」

    「いや。」

     しばらく沈黙が流れる。

     窓の外には、小さな月が浮かんでいた。

    「澪。」

    「はい。」

    「お前は、ずっとここで働くのか。」

     突然の質問だった。

    「……分かりません。」

     思わず本音が漏れた。

     陽一がゆっくりとこちらを見る。

    「辞めたいと思うこともあります。」

     口にした瞬間、自分でも驚いた。

     利用者にそんなことを言ったことはなかった。

    「そうか。」

     陽一はそれ以上何も聞かなかった。

    「疲れとるんだな。」

     ただ、それだけを言った。

     その一言に、澪の胸が熱くなる。

     誰かに「疲れている」と言われたのは、いつぶりだろう。

     大丈夫と言ってしまう。

     平気だと言ってしまう。

     それが癖になっていた。

    「……そうかもしれません。」

    「人は疲れる。」

     陽一は静かに言った。

    「疲れない人間なんておらん。」

     澪は黙っていた。

    「でもな。」

     陽一が月を見ながら続ける。

    「誰かのために頑張れる人間は、そう多くない。」

     澪は顔を上げた。

    「お前は、誰かのために働いてる。」

    「……。」

    「それは立派なことだ。」

     その言葉を聞いた瞬間、澪の目の奥が熱くなった。

     褒められたかったわけじゃない。

     認めてほしかったわけでもない。

     ただ、ずっと頑張ってきたことを、誰かが見ていてくれたような気がした。

    「ありがとうございます。」

     声が少し震えた。

    「泣くな。」

    「泣いてません。」

    「そうか。」

     陽一が小さく笑った。

     澪もつられて笑う。

     窓の外では、月の光が静かに庭を照らしていた。

         ◇

     部屋を出たあとも、陽一の言葉が胸に残っていた。

     誰かのために頑張れる人間。

     そんなふうに考えたことはなかった。

     毎日をこなすことで精一杯だった。

     辞めたい。

     もう無理だ。

     そう思いながら働いてきた。

     それでも、利用者の笑顔を見ると足を止めてしまう。

     手を差し伸べてしまう。

     その自分を、陽一は見ていたのかもしれない。

     ナースステーションへ戻る途中、窓の外に目を向ける。

     夜の庭に、月の光が落ちていた。

     柔らかな光だった。

     その光を見つめながら、澪は小さく息を吐く。

     辞めたい気持ちは、まだ消えていない。

     明日になれば、また忙しい一日が始まる。

     それでも。

     明日も、陽一の部屋へ行こう。

     庭の話の続きを聞こう。

     そう思う自分がいた。

     そして、その小さな気持ちが、澪自身もまだ気づいていない変化の始まりだった。



    第4章 揺れる心



     陽一が入所して一週間が過ぎた。

     施設の庭では、朝露を含んだ草が光を受けていた。

     その光を眺める余裕もないまま、澪は記録用のタブレットを片手に廊下を走っていた。

    「澪さん! 三〇二号室、トイレ介助お願いします!」

    「はい!」

    「それと、三〇五号室の方、朝食がまだです!」

    「分かりました!」

     返事をしながら、頭の中で順番を組み立てる。

     今日は職員が二人欠勤していた。

     一人は体調不良。

     もう一人は家族の介護。

     珍しいことではない。

     むしろ最近は、それが当たり前になりつつあった。

     人が足りない。

     ずっと足りない。

     誰かが休めば、その分を誰かが背負う。

     そして、その「誰か」になることが多いのは澪だった。

    「澪さん、ごめん! 入浴もお願いできる?」

    「……はい。」

     返事をした瞬間、自分の声が少し掠れていることに気づいた。

     朝から水を飲む時間もない。

     食堂では利用者たちが次々に声をかけてくる。

    「お茶をください。」

    「今日は何曜日だっけ。」

    「娘は来るかしら。」

     一人ひとりに応えたい。

     けれど、足は次の仕事へ急がされる。

    「少し待ってくださいね。」

     その言葉ばかりを繰り返していた。

         ◇

     昼前。

     ようやく陽一の部屋へ行くことができた。

     ドアを開けると、陽一が窓の外を見ていた。

    「おはようございます。」

    「もう昼だぞ。」

     そう言われて、澪は苦笑した。

    「本当ですね。」

    「忙しそうだな。」

    「今日は少し。」

    「少し、か。」

     陽一が小さく笑う。

    「顔に全部書いてある。」

    「そんなにひどいですか?」

    「ひどい。」

     澪は自分の頬に触れた。

     鏡を見る暇もなかった。

    「疲れてますか。」

    「聞かなくても分かる。」

     陽一の声は穏やかだった。

     責めているわけではない。

     ただ事実を言っているだけだった。

    「……少しだけ。」

    「嘘つけ。」

     思わず笑ってしまった。

     陽一と話していると、不思議と肩の力が抜ける。

    「今日は庭を見ていたんですか?」

    「ああ。」

    「何かありました?」

    「鳥が来ていた。」

    「鳥?」

    「小さいのが二羽。」

     陽一の顔が少しだけ柔らかくなる。

    「家の庭にもよく来ていた。」

    「どんな鳥ですか?」

    「分からん。」

    「分からないんですか。」

    「見ていただけだからな。」

     その返事が可笑しくて、澪は声を立てて笑った。

     陽一も少し笑う。

     その時だった。

     ナースコールが鳴った。

     またか。

     そう思った瞬間、自分の心が荒んでいることに気づいた。

    「行ってこい。」

    「すみません。」

    「謝るな。」

     澪は頭を下げて部屋を出た。

     けれど、胸の奥には小さな罪悪感が残った。

     もっと話を聞きたかった。

     もっとここにいたかった。

     そんなことを考える余裕など、本当はないはずなのに。

         ◇

     その日の休憩時間。

     といっても、ようやく十五分だけ座れたという程度だった。

     看護師が紙コップのコーヒーを差し出した。

    「飲む?」

    「ありがとうございます。」

    「今日は特に大変そうね。」

    「大丈夫です。」

    「またそれ。」

     看護師が苦笑する。

    「澪さん、最近ずっとその顔してる。」

    「そんな顔ですか?」

    「頑張りすぎてる顔。」

     澪は黙った。

    「ちゃんと休めてる?」

    「……。」

    「眠れてる?」

    「……。」

    「食べてる?」

    「食べてます。」

    「それだけ返事が早いの、逆に怪しいな。」

     思わず笑ってしまった。

     看護師は少し表情を和らげた。

    「辞めたいって思うこと、ある?」

     その言葉に、澪の手が止まる。

    「……あります。」

     初めて、職場の人に言った。

    「毎日、思います。」

     口にすると、胸が少し苦しくなった。

    「そう。」

     看護師は驚かなかった。

    「でも。」

     澪は続ける。

    「辞めたいのに、利用者さんの顔を見ると辞められなくなるんです。」

     看護師は静かに頷いた。

    「それが介護なんだと思う。」

    「……。」

    「人を好きになっちゃう仕事だから。」

     その言葉に、澪は息を呑んだ。

     人を好きになる仕事。

     そうかもしれない。

     だから、別れがつらい。

     だから、離れられない。

    「澪さん。」

    「はい。」

    「自分を壊してまで続けちゃ駄目だよ。」

     優しい声だった。

     けれど、その優しさが痛かった。

     自分でも分かっている。

     限界が近いことを。

         ◇

     夕方。

     陽一の妻が面会に来ていた。

    「今日は少し顔色がいいですね。」

     妻がそう言うと、陽一が小さく鼻を鳴らした。

    「そうか。」

    「そうですよ。」

     そのやり取りを見て、澪は自然と笑みがこぼれた。

     長い時間を一緒に生きてきた人たちの空気だった。

     言葉が少なくても、ちゃんと伝わっている。

    「澪さん。」

     妻が小さな声で呼ぶ。

    「ありがとうございます。」

    「私、何もしていません。」

    「そんなことありません。」

     妻は窓の外を見る。

    「ここへ来てから、この人、少し穏やかになった気がするんです。」

     澪は思わず陽一を見た。

     陽一は知らん顔をして外を見ていた。

    「……そうなら、よかったです。」

    「あなたが話を聞いてくれているからだと思います。」

     その言葉に、胸が少し熱くなった。

         ◇

     面会が終わり、妻が帰った後だった。

     陽一がぽつりと言った。

    「京子は心配性なんだ。」

    「素敵ですね。」

    「どこが。」

    「ずっと心配してくれる人がいるって。」

     陽一は少しだけ黙った。

    「……そうかもしれんな。」

     しばらくして、静かな声で続けた。

    「ありがたいことだ。」

     その言葉には、長い人生の重みがあった。

    「澪。」

    「はい。」

    「お前には、心配してくれる人はいるか。」

     突然の質問だった。

    「……います。」

     両親の顔が浮かぶ。

     でも最近は、心配をかけたくなくて何も話していない。

    「そうか。」

    「はい。」

    「なら、ちゃんと頼れ。」

     澪は顔を上げた。

    「人は、一人じゃ生きられん。」

     その言葉が胸に落ちる。

     人に頼るのが苦手だった。

     迷惑をかけたくなかった。

     だから、何でも一人で抱え込んできた。

    「……難しいです。」

     正直に答える。

    「難しいな。」

     陽一が頷く。

    「でもな。」

     窓の外に目を向けたまま、静かに言った。

    「頼られる方は、案外うれしいもんだ。」

     澪は何も言えなかった。

     そんなふうに考えたことがなかった。

    「わしも、京子にたくさん頼って生きてきた。」

     陽一が小さく笑う。

    「だから今、こうして隣にいてくれる。」

     夕日が部屋の中へ差し込んでいた。

     オレンジ色の光が、陽一の横顔を照らしている。

    「人は、一人では生きられない。」

     その言葉が、澪の胸の中で静かに繰り返された。

         ◇

     その日の帰り道。

     空は茜色に染まっていた。

     疲れている。

     今日も足は重い。

     辞めたい気持ちは消えていない。

     けれど、少しだけ違っていた。

     陽一の言葉。

     看護師の言葉。

     人を好きになってしまう仕事。

     人は一人では生きられない。

     その言葉たちが、胸の奥に残っていた。

     施設を振り返る。

     窓に明かりが灯っている。

     あの中で、陽一が今日も眠りにつこうとしている。

     明日も会いに行こう。

     そう思った。

     それが仕事だからではなく、一人の人として。

     その小さな変化に、澪自身はまだ気づいていなかった。


    第5章 残された時間



     陽一の呼吸が浅くなり始めたのは、その二日後だった。

     朝の申し送りで、看護師が静かな声で言った。

    「陽一さん、昨日の夜から少し酸素の値が下がっています。食事量もかなり落ちています」

     澪は手元のメモを握りしめた。

    「意識はありますか」

    「あります。ただ、眠っている時間が増えてきました」

     主任がホワイトボードに目を向ける。

    「今日は陽一さんの対応を優先する。澪、時間を見て部屋に入ってくれ」

    「はい」

     返事をしながら、澪は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

     看取り期だと分かっていた。

     陽一自身も、自分の死期を理解していた。

     それでも、実際にその時が近づいていると知らされると、足元が揺れるようだった。

     廊下ではいつものようにコールが鳴っている。

     食堂では朝食の準備が進んでいる。

     利用者の一人が「お茶をください」と声を上げる。

     日常は何も変わらない。

     誰かの最期が近づいていても、施設の朝はいつも通り始まる。

     そのことが、澪には少し残酷に思えた。

         ◇

     陽一の部屋に入ると、カーテンの隙間から淡い光が差していた。

     陽一はベッドに横になっていた。

     目は閉じている。

     頬はさらにこけ、呼吸のたびに胸が小さく上下していた。

    「陽一さん」

     澪が声をかけると、陽一はゆっくり目を開けた。

    「……澪か」

    「はい。おはようございます」

    「もう朝か」

    「はい」

     陽一は窓の方を見ようとした。

     澪はカーテンを少し開ける。

     朝の光が部屋に広がった。

    「庭、見えますか」

    「ああ」

    「今日はよく晴れています」

    「そうか」

     陽一は小さく息を吐いた。

    「家の庭も、こんな朝は明るかった」

     その声はかすれていた。

     けれど、言葉の奥には確かな記憶があった。

    「奥様に連絡しますね」

    「京子か」

    「はい」

    「来るだろうな」

    「来てくださると思います」

     陽一はしばらく黙った。

     そして、ぽつりと言った。

    「あいつには、苦労をかけた」

    「そんなふうには思っていないと思います」

    「思ってなくても、かけたんだ」

     澪は何も言えなかった。

     陽一は自分の終わりを受け入れている。

     だからこそ、残される人のことを考えている。

    「澪」

    「はい」

    「京子が来たら、あまり泣くなと言ってくれ」

    「それは、陽一さんから伝えた方がいいです」

    「言うと怒る」

     その言い方が少しだけ陽一らしくて、澪は小さく笑った。

    「きっと怒りますね」

    「だろう」

     陽一もかすかに笑った。

     その笑顔を見た瞬間、澪の胸に涙が込み上げた。

     泣いてはいけない。

     ここで泣いてしまえば、陽一が困る。

     そう思い、澪は唇を結んだ。

    「水分、少しだけ取れそうですか」

    「少しなら」

     澪は吸い飲みに水を入れ、陽一の口元へ運んだ。

     ほんの一口。

     それだけで、陽一は疲れたように目を閉じた。

     食べること。

     飲むこと。

     息をすること。

     当たり前だったすべてが、少しずつ遠ざかっていく。

     澪は吸い飲みを置き、布団を整えた。

     急がない。

     急がない手で。

     陽一が以前言った言葉を思い出しながら、ゆっくりと肩元を直した。

    「今日は、急いどらんな」

     目を閉じたまま、陽一が言った。

    「はい」

    「それでいい」

     その言葉だけで、澪は胸がいっぱいになった。

         ◇

     午前十時過ぎ、陽一の妻が施設に到着した。

     澪が玄関まで迎えに行くと、妻は小さな紙袋を持っていた。

    「おはようございます」

    「おはようございます。急にお呼びしてすみません」

    「いいえ。昨日から、何となく落ち着かなくて」

     妻はそう言って笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。

    「これ、家の庭の写真なんです」

     紙袋の中から、薄いアルバムを取り出した。

    「陽一さんが、よく庭の話をしてくださいます」

    「そうですか」

     妻の表情が少し和らいだ。

    「あの人、庭のことなんて誰にも話さない人だったのに」

    「きっと、大切な場所なんですね」

    「ええ」

     妻はアルバムを胸に抱いた。

    「あの人が最後に思い出す場所が、家の庭ならいいなって思って」

     澪は胸が熱くなった。

     この人もまた、陽一の残された時間を大切にしようとしている。

     怖くても、悲しくても、向き合おうとしている。

    「お部屋へ行きましょう」

    「はい」

     二人で廊下を歩いた。

     いつもより、少しゆっくり歩いた。

         ◇

     部屋に入ると、陽一は目を閉じていた。

     妻がベッドのそばに座る。

    「陽一さん」

     その声に、陽一が目を開けた。

    「京子か」

    「来たわよ」

    「来なくていいと言ったのに」

    「そんなこと聞くわけないでしょう」

     陽一はかすかに笑った。

    「相変わらずだ」

    「あなたこそ」

     妻はアルバムを開いた。

    「庭の写真、持ってきたの」

     陽一の目がわずかに動く。

    「見える?」

     妻が一枚ずつ写真を見せる。

     春のチューリップ。

     夏の朝顔。

     秋の小さな菊。

     冬の鉢植え。

     そこには、陽一と妻が過ごしてきた時間が写っていた。

     大きな出来事ではない。

     誰かに語られるような特別な人生ではない。

     けれど、確かに二人が生きてきた証だった。

    「このチューリップ、あなたが球根を植えたのよ」

    「曲がって咲いたやつか」

    「そう。あなた、土が悪いって文句言ってた」

    「土のせいだ」

    「違うわよ。あなたが雑だったの」

     妻が涙を浮かべながら笑う。

     陽一も、少しだけ口元を緩めた。

     澪は部屋の隅に立ち、そのやり取りを見守った。

     仕事としてそこにいる。

     けれど、それだけではなかった。

     一組の夫婦の最後の時間に立ち会っている。

     その重みが、静かに胸に積もっていく。

         ◇

     午後になると、陽一は眠っている時間が長くなった。

     妻はベッドのそばを離れようとしなかった。

     澪は時々部屋を訪れ、水分や体位を確認した。

    「澪さん」

     妻が小さな声で呼んだ。

    「はい」

    「私、怖いです」

     その言葉は、驚くほど素直だった。

    「はい」

     澪は否定しなかった。

    「怖くて当然です」

    「家で看たかったんです。最後まで」

    「はい」

    「でも、無理でした。夜中に何度も苦しそうになって、私一人ではどうしていいか分からなくて」

     妻の声が震える。

    「ここに連れてきたこと、よかったんでしょうか」

     澪はすぐには答えなかった。

     正解のない問いだった。

     家で看ることが愛情で、施設に預けることが諦めなのではない。

     でも、そう思えない家族の苦しみを、澪は何度も見てきた。

    「私は、陽一さんがここで穏やかに過ごせるようにしたいと思っています」

     澪はゆっくり言った。

    「奥様が家で頑張ってこられた時間も、ここで過ごす時間も、どちらも陽一さんにとって大切な時間だと思います」

     妻の目から涙がこぼれた。

    「……そう思っていいでしょうか」

    「はい」

     澪は静かに頷いた。

    「思っていいと思います」

     妻は顔を覆い、声を殺して泣いた。

     澪はその隣に座った。

     何かを言うより、そばにいることを選んだ。

     寄り添うとは、答えを出すことではない。

     その人の苦しみを消すことでもない。

     ただ、ひとりにしないこと。

     陽一と過ごす中で、澪は少しずつそう感じ始めていた。

         ◇

     夕方。

     陽一が目を覚ました。

     妻は少し疲れていたため、看護師に促されて休憩室へ向かっていた。

     部屋には澪と陽一だけだった。

    「京子は」

    「少し休まれています」

    「そうか」

    「ずっとそばにいらっしゃいましたよ」

    「無理をする」

     陽一がそう言って、かすかに笑った。

    「陽一さんに似ていますね」

    「わしは無理などしとらん」

    「そうですか」

    「そうだ」

     澪は笑った。

     その会話が、少し前までと同じようで、けれど確実に違っていることを感じていた。

     陽一の声は弱い。

     呼吸も浅い。

     残された時間は、長くない。

    「澪」

    「はい」

    「お前は、まだ辞めたいか」

     突然の言葉に、澪は息を止めた。

     以前、夜勤の時に少しだけ漏らした本音。

     陽一は覚えていた。

    「……分かりません」

     正直に答えた。

    「辞めたい気持ちは、まだあります」

    「ああ」

    「でも、陽一さんと話していると、忘れる時があります」

    「忘れる?」

    「この仕事を嫌いになりきれない理由を、思い出すんです」

     陽一は静かに澪を見ていた。

    「利用者さんの人生に触れること。言葉を聞くこと。誰かの最期の時間に、そばにいられること」

     澪は自分で言いながら、胸が震えていた。

    「つらいです。でも、それだけじゃないんだって」

     陽一は目を細めた。

    「そうか」

    「はい」

    「なら、まだ答えを出さんでいい」

    「え」

    「辞めるか続けるかなんて、大きなことは、疲れ切った時に決めるもんじゃない」

     その言葉は、深く澪の胸に入ってきた。

    「まず寝ろ。食え。誰かに頼れ」

     陽一は少し苦しそうに息を吸った。

    「それから考えろ」

    「……はい」

    「お前はすぐ、一人で決めようとする顔をする」

     澪は思わず笑いそうになった。

    「そんな顔、していますか」

    「している」

    「困りましたね」

    「困ったやつだ」

     陽一の声は弱いのに、どこか温かかった。

     澪はその言葉を大切に胸にしまった。

         ◇

     夜が近づくにつれ、施設は静かになっていった。

     食堂の片づけが終わり、利用者たちはそれぞれの部屋へ戻る。

     廊下の明かりが落とされ、夜勤の時間が始まる。

     澪はその日も残業だった。

     記録を書きながら、何度も陽一の部屋の方へ目を向けた。

     看護師が隣に座る。

    「陽一さん、今夜から明日にかけて注意が必要かもしれない」

     澪は手を止めた。

    「今夜ですか」

    「断定はできない。でも、状態は落ちてきてる」

    「……分かりました」

    「澪さん、大丈夫?」

     大丈夫です。

     いつもの言葉が口に出そうになった。

     けれど、澪はそれを飲み込んだ。

    「大丈夫じゃないかもしれません」

     そう言うと、看護師が少し驚いた顔をした。

     澪自身も驚いていた。

     初めて、そう言えた。

    「でも、そばにいたいです」

     看護師は静かに頷いた。

    「なら、一人で抱えないで。何かあったらすぐ呼んで」

    「はい」

     その返事は、今までの「はい」と少し違っていた。

     助けを借りるための返事だった。

         ◇

     深夜。

     澪は陽一の部屋の前に立った。

     中からは、静かな呼吸音が聞こえる。

     ノックをして、そっと扉を開けた。

     妻はベッドのそばで眠っていた。

     椅子に座ったまま、陽一の手を握っている。

     陽一は目を閉じていた。

     澪は足音を立てないように近づき、布団を整えた。

     その時、陽一が目を開けた。

    「……澪か」

    「起こしてしまいましたか」

    「いや」

     陽一は妻の方を見た。

    「京子、寝たか」

    「はい」

    「よかった」

     その声は、心から安心しているようだった。

    「陽一さん」

    「なんだ」

    「少し、手を握ってもいいですか」

     陽一が澪を見る。

     そして、ゆっくり手を差し出した。

     澪はその手をそっと握った。

     冷たかった。

     けれど、確かに生きている手だった。

    「お前の手は」

     陽一がかすれた声で言った。

    「急がなくなったな」

     澪の目に涙が浮かんだ。

    「陽一さんに教えてもらいましたから」

    「そうか」

     陽一は小さく息を吐いた。

    「なら、よかった」

     部屋の中は静かだった。

     外では夜の風が窓をかすかに揺らしている。

     澪は陽一の手を握ったまま、ただそこにいた。

     何かをするわけではない。

     何かを言うわけでもない。

     ただ、そばにいる。

     その時間が、今の陽一にとって必要なのだと思った。

     そして同時に、澪自身にも必要だった。

     誰かの最期に寄り添うこと。

     それは、ただ見送ることではない。

     その人が最後までその人らしくいられるように、静かに支えること。

     澪はその意味を、陽一の手の冷たさと温もりの中で感じていた。

     残された時間は少ない。

     それでも、まだ時間はある。

     呼吸ひとつ。

     まばたきひとつ。

     手を握るぬくもりひとつ。

     そのすべてが、陽一の生きている時間だった。

     澪は目を閉じ、静かに息を吸った。

     明日が来ることを願いながら。

     けれど、明日が必ず来るとは限らないことも、分かっていた。



    第6章 看取り


     夜明け前の施設は、不思議な静けさに包まれていた。

     昼間の慌ただしさが嘘のように、廊下には足音だけが響いている。

     澪は夜勤者から引き継ぎを受けるため、ナースステーションへ向かった。

     看護師の表情を見た瞬間、胸が締めつけられる。

    「陽一さん……」

     看護師は小さく頷いた。

    「今朝が峠になるかもしれない。」

     その一言で、澪は覚悟を決めた。

     何度経験しても慣れない。

     何人見送っても、同じ朝は一度もなかった。

         ◇

     陽一の部屋には、静かな空気が流れていた。

     京子は一晩中、陽一のそばにいた。

     眠っていたのかどうかも分からない。

     ただ、夫の手を握り続けていた。

    「おはようございます。」

     澪が声をかけると、京子は振り返り、小さく頭を下げた。

    「おはようございます。」

     その声は掠れていた。

    「休めましたか。」

    「少しだけ。」

     本当は眠れていないことが、その表情から伝わってきた。

     澪は陽一へ近づいた。

     呼吸は浅く、ゆっくりだった。

     目を閉じている。

     それでも、澪が手に触れると、わずかに指が動いた。

    「陽一さん。」

     ゆっくりと目が開く。

    「……澪。」

     かすかな声だった。

    「来ました。」

    「ああ。」

     その短い返事だけで十分だった。

     澪はベッドの高さを少し整え、布団を掛け直す。

     急がない。

     最後まで急がない。

     陽一に教えられたことを、今も大切にしていた。

         ◇

     午前中。

     主任が部屋を訪れた。

     静かに様子を見て、京子へ声をかける。

    「必要なことがあれば、何でもおっしゃってください。」

    「ありがとうございます。」

     主任は澪の肩を軽く叩いた。

    「ここは任せる。」

     澪は黙って頷いた。

     主任は何も言わなかった。

     けれど、その一言には信頼が込められていた。

         ◇

     昼近くになると、陽一は目を覚ます時間が少し長くなった。

     京子が耳元で話しかける。

    「今日はいい天気よ。」

     陽一はゆっくり頷く。

    「庭……見えるか。」

    「写真、ここにあるわ。」

     京子はアルバムを開き、ベッドのそばへ置いた。

     チューリップ。

     朝顔。

     菊。

     四季折々の庭。

     陽一はその写真を静かに見つめていた。

    「今年も……咲くな。」

    「ええ。」

    「来年も咲く。」

     京子は涙をこらえながら微笑む。

    「そうね。」

    「お前が……世話をしろ。」

    「任せて。」

     陽一は安心したように目を閉じた。

         ◇

     午後。

     部屋には澪と陽一だけの時間が流れていた。

     京子は看護師に勧められ、少しだけ休憩へ出ていた。

     澪はベッドの横へ椅子を寄せる。

    「陽一さん。」

     陽一がゆっくり目を開ける。

    「なんだ。」

    「お庭、また見に行きたいですね。」

     陽一は小さく笑った。

    「無理だな。」

    「……。」

    「分かっとる。」

     その表情には、不思議なくらい穏やかな笑みが浮かんでいた。

    「怖くないんですか。」

     澪は以前と同じ質問をした。

     陽一は天井を見上げる。

    「怖いさ。」

     少し間を置き、続けた。

    「でも。」

    「はい。」

    「いい人生だった。」

     その言葉には迷いがなかった。

    「京子がおって。」

    「……。」

    「庭があって。」

    「……。」

    「こうして最後に、お前にも会えた。」

     澪の胸が熱くなる。

    「私ですか。」

    「ああ。」

     陽一は澪を見た。

    「お前は、よう頑張った。」

     その一言だけで、涙が込み上げた。

     澪は俯き、唇を噛む。

    「泣くな。」

    「……はい。」

    「笑っとれ。」

     陽一はかすれた声で言う。

    「お前は、笑っとる方がいい。」

     澪は涙を拭い、小さく笑った。

    「これでいいですか。」

    「そうだ。」

     陽一も少しだけ笑った。

         ◇

     夕方。

     京子が戻ってきた。

     陽一は妻の手を握る。

    「京子。」

    「なあに。」

    「ありがとう。」

     京子の肩が震える。

    「何言ってるの。」

    「幸せだった。」

     京子は首を横に振る。

    「私もよ。」

    「そうか。」

     陽一は静かに目を閉じた。

         ◇

     日が沈み始める頃だった。

     部屋には京子、澪、看護師がいた。

     陽一の呼吸はゆっくりになっていく。

     一回。

     また一回。

     その間隔が少しずつ長くなる。

     京子は夫の手を握り続けていた。

     澪も反対の手へそっと触れる。

     陽一が最後にゆっくり目を開けた。

     視線が澪へ向く。

    「澪。」

    「はい。」

     その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

    「ありがとう。」

    「こちらこそ。」

    「……。」

     陽一は少しだけ笑った。

     そして。

    「あなたは……光だよ。」

     部屋の中が静まり返る。

     澪は言葉を失った。

    「陽一さん……。」

    「人を……照らして……。」

     息を吸う。

     ゆっくり吐く。

    「……最後まで……そのままで……。」

     澪は涙を流しながら頷いた。

    「はい。」

    「約束します。」

     陽一は安心したように目を閉じた。

     呼吸はさらに静かになる。

     京子が夫の頬へ触れる。

    「ありがとう。」

     その声が部屋に響いた。

     陽一の胸が、最後に小さく上下する。

     そして。

     静かな時間が訪れた。

     看護師がそっと脈を確認する。

     時計を見る。

     静かに頭を下げた。

    「……ご永眠されました。」

     京子は夫の手を両手で包み込み、何度も名前を呼んだ。

    「陽一さん。」

    「ありがとう。」

    「本当にありがとう。」

     澪は涙を止めることができなかった。

     けれど、不思議だった。

     悲しい。

     それなのに、部屋には穏やかな空気が流れていた。

     苦しみから解放された安堵。

     人生を生き切った静けさ。

     それが、陽一の最後だった。

         ◇

     看取りが終わり、部屋を整え終えた頃には、外は夕暮れに染まっていた。

     澪は一人、中庭へ出た。

     風が優しく吹いている。

     庭の木々が揺れ、その向こうから夕日が差し込んでいた。

     陽一が何度も話してくれた庭。

     毎年花が咲くと言っていた庭。

     その話を思い出しながら、澪は空を見上げた。

     頬にはまだ涙の跡が残っている。

     耳には、あの最後の言葉が何度も響いていた。

     ――あなたは光だよ。

     その言葉の意味を、澪はまだすべて理解できてはいなかった。

     けれど、その一言が、自分の人生を変え始めていることだけは分かっていた。

     夕暮れの光が、静かに澪の背中を照らしていた。



    第7章 寄り添う光



     陽一が亡くなってから、三日が過ぎた。

     施設の日常は、何事もなかったかのように続いていた。

     朝になれば食堂には利用者が集まり、コールは鳴り、職員は廊下を行き交う。食事介助、排泄介助、入浴介助、記録。やるべきことは尽きない。

     誰かが亡くなっても、現場は止まらない。

     そのことを、澪は何度も知ってきた。

     知っていたはずだった。

     それでも、陽一の部屋の前を通るたびに、足が止まりそうになった。

     もうそこに、陽一はいない。

     窓辺のベッドも、整えられた布団も、朝の光が差し込む部屋も、以前と同じように見える。

     けれど、そこにいたはずの人の気配だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。

     澪は廊下の壁に手を添え、小さく息を吸った。

     泣くことは、少しずつ減っていた。

     でも、悲しみが消えたわけではない。

     胸の奥に、静かに沈んでいる。

     仕事中はそれを見ないようにしていた。

     見てしまうと、動けなくなりそうだった。

         ◇

     その日の午前、陽一の妻が施設を訪れた。

     澪は玄関ロビーで迎えた。

    「澪さん。」

     妻は少しやつれていたが、表情は穏やかだった。

    「先日は、本当にありがとうございました。」

     深く頭を下げられ、澪は慌てて首を振る。

    「そんな、私は……。」

    「いいえ。」

     妻は静かに言った。

    「あの人、最期は本当に穏やかでした。」

     その言葉に、澪の胸が震えた。

    「澪さんがそばにいてくださったからだと思います。」

    「……私は、何もできませんでした。」

     思わずそう言ってしまった。

     すると妻は、ゆっくり首を横に振った。

    「そばにいてくれたじゃありませんか。」

     澪は顔を上げる。

    「それが、どれほど大きなことか……家族の私には分かります。」

     妻は小さな紙袋を差し出した。

    「これ、受け取っていただけますか。」

     中には、一枚の写真が入っていた。

     陽一が庭で笑っている写真だった。

     チューリップのそばに立ち、少し照れたような顔をしている。

    「この写真、あの人が一番好きだった庭で撮ったものです。」

    「……いいんですか。」

    「はい。」

     妻は微笑んだ。

    「澪さんにも、持っていてほしくて。」

     澪は両手で写真を受け取った。

     写真の中の陽一は、施設で見せていた頑固な表情とは少し違っていた。

     生きてきた時間に満たされた顔。

     帰る場所があり、愛する人がいて、庭を眺めていた頃の顔。

     この人は、ここへ来る前から、ずっと陽一さんだった。

     当たり前のことを、澪は改めて思った。

    「陽一さん、よくお庭の話をしてくださいました。」

    「そうですか。」

    「はい。」

     澪は写真を見つめた。

    「毎年同じように咲く花を見るのは悪くないって。」

     妻は少し笑った。

    「あの人らしいです。」

     しばらく二人は黙っていた。

     沈黙は重くなかった。

     陽一という人を、二人で少しだけ分け合っているような時間だった。

    「澪さん。」

    「はい。」

    「あの人が最後に言った言葉、覚えていますか。」

     澪はゆっくり頷いた。

    「……あなたは光だよ、って。」

     妻は静かに微笑んだ。

    「あの人、人を褒めるのが下手な人でした。」

    「そうなんですか。」

    「ええ。でも、あれは本心です。」

     澪の目に涙が滲む。

    「だから、どうか忘れないでください。」

     妻はそう言って、もう一度深く頭を下げた。

    「あなたは、あの人の最後の時間を照らしてくれました。」

         ◇

     午後。

     澪はいつものように利用者の食事介助に入った。

     食堂には、昼下がりの柔らかな光が差していた。

    「澪さん、お茶。」

    「はい、今お持ちしますね。」

     湯呑みを手渡す。

     別の利用者が、手元の箸を落とした。

    「大丈夫ですよ。」

     澪はすぐに拾い、新しい箸を用意する。

    「ゆっくりでいいですからね。」

     その言葉を口にした瞬間、陽一の声が心の中でよみがえった。

     急がんでいい。

     急がなくていい。

     澪は手を止めた。

     今まで何度も同じ言葉を利用者に言ってきた。

     けれど、今日のその言葉は、少し違って聞こえた。

     自分自身にも向けているようだった。

     ゆっくりでいい。

     急がなくていい。

     ひとつずつ、目の前の人と向き合えばいい。

     忙しさは変わらない。

     人手不足も、簡単には変わらない。

     今日もやるべきことは山ほどある。

     それでも、自分の手つきまで急がせてはいけない。

     その人の時間まで、奪ってはいけない。

     澪は利用者の前にしゃがみ、目線を合わせた。

    「もう一口、召し上がりますか。」

     利用者は小さく頷いた。

     澪はスプーンをゆっくり口元へ運んだ。

     その人の呼吸に合わせて。

     その人のペースに合わせて。

     それは小さなことだった。

     けれど、その小さなことを大切にすることが、尊厳を守るということなのだと、澪は今なら少しだけ分かる気がした。

         ◇

     勤務の終わり、澪はナースステーションで記録を書いていた。

     看護師が隣に座る。

    「少し、顔が戻ってきたね。」

    「そうですか。」

    「うん。」

     看護師は優しく笑った。

    「陽一さんのこと、まだつらい?」

    「つらいです。」

     澪は正直に答えた。

    「でも、前とは少し違います。」

    「どう違う?」

    「悲しいけど……ちゃんと残っている感じがします。」

     看護師は黙って聞いていた。

    「陽一さんがいなくなったのに、陽一さんの言葉は残っていて。私の手の動かし方とか、声のかけ方とか、そういうところに残っている気がします。」

    「うん。」

    「だから、悲しいだけじゃないんです。」

     看護師が静かに頷く。

    「それは、いい看取りだったんだと思う。」

     その言葉に、澪は目を伏せた。

     いい看取り。

     そんなふうに言っていいのか、まだ分からない。

     でも、陽一は最後に穏やかだった。

     京子も、ありがとうと言ってくれた。

     それだけは確かだった。

    「澪さん。」

    「はい。」

    「一人で抱えなくていいからね。」

     その言葉に、澪は少しだけ笑った。

    「はい。」

     今度は、ちゃんとそう答えられた。

         ◇

     その日の帰り、澪は施設の中庭に立ち寄った。

     陽一の部屋から見えていた庭。

     昼間は利用者たちが散歩をする小さな場所。

     夕方の光が、木々の隙間から差し込んでいた。

     澪はポケットから陽一の写真を取り出した。

     庭で笑う陽一。

     施設では見ることのなかった表情。

     澪は写真を胸の前にそっと抱いた。

    「陽一さん。」

     声に出すと、涙が滲んだ。

    「私、まだ辞めたいって思う日があると思います。」

     風が少し吹いた。

    「きっとこれからも、人手不足は続くし、忙しくて、うまくできなくて、苦しくなる日もあります。」

     澪は空を見上げた。

     夕暮れの光が、ゆっくり薄れていく。

    「でも、私は知ってしまいました。」

     声が震える。

    「この仕事の中に、人の最後の時間を支える光があることを。」

     陽一の言葉が胸の奥で灯る。

     あなたは光だよ。

     その言葉は、澪を励ますためだけの言葉ではなかった。

     陽一が見つけてくれた、澪自身も気づいていなかったもの。

     どんなに疲れていても、利用者を一人の人として見ようとすること。

     尊厳を守ろうとすること。

     急ぎすぎない手で触れること。

     そばにいること。

     それが光なのだとしたら。

    「私、もう少しだけ、ここで頑張ってみます。」

     小さな声だった。

     誰に聞かせるためでもない。

     自分自身に言い聞かせるための言葉だった。

    「一人で抱え込まずに。」

     看護師の言葉を思い出す。

    「頼ることも覚えながら。」

     陽一の言葉を思い出す。

     人は、一人では生きられない。

     澪は写真をそっと見つめた。

    「見ていてください。」

     夕暮れの光が、写真の陽一の顔を照らした。

     まるで、少しだけ笑ったように見えた。

         ◇

     翌朝。

     澪はいつもより少し早く施設へ着いた。

     ロッカーで制服に着替え、名札をつける。

     胸の内側に、小さな痛みはまだ残っていた。

     けれど、その痛みは歩くことを妨げるものではなかった。

     むしろ、自分が何を大切にしたいのかを教えてくれる痛みだった。

     廊下へ出ると、すぐにコール音が鳴った。

     いつもの朝だった。

     忙しい朝。

     人手不足の朝。

     それでも、澪は深く息を吸った。

    「はい、今行きます。」

     声は昨日より少しだけまっすぐだった。

     利用者の部屋へ向かう途中、主任とすれ違う。

    「澪。」

    「はい。」

    「無理はするなよ。」

     澪は立ち止まった。

     以前なら、反射的に「大丈夫です」と答えていた。

     けれど今日は少し違った。

    「はい。」

     そして続けた。

    「でも、無理になりそうな時は、ちゃんと言います。」

     主任が少し驚いた顔をして、それから笑った。

    「それでいい。」

     澪も小さく笑った。

     廊下の先から、利用者の声が聞こえる。

     澪はその声の方へ歩き出した。

     急ぎすぎない足取りで。

     逃げるのではなく、向かうために。

         ◇

     部屋に入ると、利用者が不安そうな顔でベッドに座っていた。

    「どうしました?」

    「なんだか、朝から心細くてね。」

     澪はベッドの横にしゃがんだ。

    「そうでしたか。」

     時計を見れば、次の業務まで時間はない。

     けれど、澪はすぐに立ち上がらなかった。

     利用者の手にそっと触れる。

    「少しだけ、ここにいますね。」

     その人の表情が、少し緩んだ。

    「ありがとう。」

     その言葉を聞いた時、澪の胸に静かな光が灯った。

     それは派手なものではない。

     誰かに見えるものでもない。

     けれど確かに、そこにある。

     人の最期に寄り添う仕事。

     人の不安に触れる仕事。

     人の尊厳を守る仕事。

     その仕事は時に過酷で、報われないと思う日もある。

     それでも、誰かの心細さにそっと手を添えることができるなら。

     その時間に意味はある。

     澪はそう思った。

     窓の外から、朝の光が差し込んでいた。

     その光は、陽一の部屋で見たものとよく似ていた。

     柔らかく、静かで、あたたかい。

     澪は利用者の手を包みながら、そっと微笑んだ。

     もう少し。

     もう少しだけ、この場所で。

     誰かのそばにいるために。

     澪は今日も、寄り添う光として歩き始めた。

     
     
    誰かの心にそっと寄り添う言葉を書いています。 小説『寄り添う光』をはじめ、50代からの暮らし、人間関係、介護、自分を癒す時間をテーマに執筆しています。 読み終えたあと、少しだけ心が軽くなる場所でありますように。 雪が静かに降り積もるように、心に残る言葉を届けたいと思っています。

    あなたへのおすすめ