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チームラボ作品において写真とは何か:鑑賞者と作品の連続性

    はじめに

     2001年に猪子寿之らが設立したチームラボのデジタルアートは、今や世界的な人気を博している。東京・豊洲のチームラボプラネッツは、単独アート・グループとして世界で最も来館者が多い美術館(the most visited museum (single art group) in the world)とギネス世界記録に認定された(Guinness World Records, 2024)。また東京・麻布台の常設展であるチームラボボーダレスは、TIME誌が発表した「World's Greatest Places of 2024」に選出されている(TIME, 2024)。2025年には、京都に新たな常設展チームラボバイオヴォルテックスもオープンした(チームラボ, 2025a)。その人気は国内に留まらず、マカオ、シンガポール、アブダビをはじめ世界各地で展覧会が開催されるほどであり、世界累計来場者数は3500万人以上にもなる(チームラボ, 2025b)。

     私も先日、麻布台で開催されているチームラボボーダレスに足を運んだ。そこは外国人観光客を中心に非常に多くの来場者で賑わっており、思わず感嘆の声を漏らしてしまった人を多く見かけた。そして、私もまたその1人だった。チームラボの作品に深い感動を覚え、今まさにこの文章を執筆しようとしている。

     チームラボはどのような概念のもとに作品を制作しているのだろうか。初期から現在に至るまでの中心的な概念に、「身体がある世界と作品世界との境界がない平面」を意味する「超主観空間」というものがある(チームラボ, 2019, p. 256)。この概念の背景としては、レンズで空間が切り取られると、ディスプレイ面を境界に作品空間と鑑賞者の存在する空間が分断され、本来は自由なはずの視点が固定されて無自覚に身体を失ってしまうという発想がある(詳しくは第一章で扱う)。これはさらに、「ボーダレス」という概念へと派生していく。猪子の経験に根差したこの一連の発想は、西欧的な遠近法に対して従来行われてきた批判と類似しているが、その発想を、東洋的な視覚形式やデジタルテクノロジーと融合させることによって新たな作品に止揚させたことに、チームラボの特徴がある。

     このような概念を背景に持つ作品群を、来場者はどのように観ているのだろうか。来場者の作品の受容の仕方に興味を持った私は、実際に足を運んだ際に鑑賞者の様子を観察していた。そこで注意を引いたのは、鑑賞者のほとんどがスマートフォンをかざし写真を撮ることに終始していることであった。鑑賞者は常にカメラを携えているといっても過言ではない。

     どうして鑑賞者は皆、それほどまでに写真を撮っているのだろうか。この問いの具体的な考察は第二章に譲るとして、ここで興味深いのは、鑑賞者が写真を積極的に撮る行動は、一見したところでは、チームラボの上述の概念と相容れないものに見えるということである。鑑賞者が自由な視点を持って作品と連続することのできるよう意図された作品に対して、鑑賞者が自ら視点を固定し作品をレンズによって分断しているようなものだからだ。

     もっとも、作品空間内で、鑑賞者がカメラに作品を収めようとすることそれ自体は、視点を固定し身体を失うことにはならないと、ひとまずは考えられる。これは、できあがった写真自体は視点を固定するものであるものの、撮影のために空間内を歩き回り構図を決める行為の最中においては、任意の視点を選び取れるという意味で自由であり、動かすことのできる身体も失っていない、ということである。また、猪子が問題としたのは、レンズで切り取られた作品を鑑賞する際に身体を失うことであって、レンズで切り取るという行為自体ではないと言うこともできる。

     では、概念と鑑賞者の行動の相容れなさがどこにあるのかと言えば、それは、結局のところ、鑑賞者が写真を通してチームラボを鑑賞する(言い換えれば、写真に写る作品を鑑賞する)ときにある。すなわち、チームラボの作品群が来場者と作品を連続させるものだとしても、作品群が来場者のレンズによって切り取られ、のちに館外でその写真を通して鑑賞される際には、鑑賞者と作品の関係は当然のように非連続的なものとなってしまうように思える。この鑑賞の形式は、まさに猪子が避けようとした分断に他ならない。

     たしかにこれは仕方のないことではあるかもしれない。世界への働きかけとしての意義をチームラボが持っているとしても、それが体験型の作品である以上、館内においてのみ有効であることは必然に見える。批評家の宇野常寛も、チームラボの作品には「『美術館やギャラリーの外側に出ても、まだアートに接している状態をいかにつくるか』という問題が待ち構えている」と述べている(猪子 & 宇野, 2019, p. 106)。

     だが私は、その問題は部分的には既に乗り越えられていると考える。すなわち、私たちは自身の撮った写真を後に鑑賞する際にも、作品との連続を経験できるのである。チームラボはその作品形式によって、私たちに特有な仕方での写真の撮影を促している(詳しくは第三章で検討を行う)。その仕方によって、写真に写る作品を鑑賞するという、一見すれば明らかに視点が固定され身体も失ったその鑑賞の形式においても、連続の経験が促されている。非連続な写真の鑑賞においても連続性の回路が立ち現れている。チームラボにおける連続性の概念は、館内での鑑賞を超えて、前述の、撮影した写真を館外で鑑賞するという二次的な鑑賞までも射程に収めるものなのである。私は本稿でそのような主張を展開したい。

     本稿で着目するのは、鑑賞者の写真撮影という行動および撮影された写真である。これまで、チームラボに対しては、その人気を裏付けるように多くの批評がなされてきたものの、鑑賞者の撮影する写真にはあまり着目されてこなかった。そうした中で本稿が示したいのは、ボーダレス概念とは相容れないように思える写真を観察することで、概念をさらに拡張していけるということでもある。チームラボの作品を写す写真がどのような機能を担うものなのか、これから考察を進めていきたい。

     具体的には、次のようにして議論を展開していく。まず第一章で、先に述べた「超主観空間」「ボーダレス」を含むチームラボの諸概念と、その概念のもとで制作された作品群を丁寧に見ていく。次に第二章で、鑑賞者はなぜ写真を撮るのか、またその撮影がどのような特徴を持ったものであるかを観察し、写真の特有の形式を確認する。そして最後に第三章で、その鑑賞者の撮影の仕方の傾向によって、どのようにして鑑賞者と写真内の作品が連続しているかを考察していく。


    第一章 チームラボの概念と作品群

    1 超主観空間の概念

     チームラボはどのような概念のもとに作品を制作しているのだろうか。まずは、「超主観空間」と「ボーダレス」という概念を確認したい。この2つは一連のものであり、また初期から現在に至るまでチームラボの多くの作品群に通底した概念となっている。こうしたチームラボの諸概念の背景には、猪子が高校まで住んでいた徳島での次のような経験がある。

    徳島では、テレビの向こう側にある東京は、自分の肉体がある徳島での世界と連続した先にあるようには感じられなかったんですね。テレビの向こう側は境界の向こう側のように感じてしまっていた。一方で、当時、フィルムカメラで好きな景色を記録しようと思って写真を撮ると、現像したものは自分が体験・体感した風景とあまりにも違う。自分が、たとえば森の中で、写真を撮る瞬間に自分が見ていたと思っていた風景と、実際に現像したフィルムの風景があまりにも違う。自分はなにか森の中と一体化して没入しながら歩いて美しいと思っていた風景とまったく違うことに驚きました。よく考えれば当たり前ですよね。視点は動くし、歩きながら空間を把握していたのだから。

    猪子 & 南條, 2019, p. 30

     こうした経験から、猪子は「レンズで世界を切り取ると、レンズで切り取った瞬間に境界が生まれて、自分の肉体がある世界と見えている世界との間が切り離されるのだ」と考え始める(猪子 & 南條, 2019, p. 30)。そしてそれについて、次のように説明している。

    レンズを通して映像を撮ると、表示される面が境界になって、境界の向こうにレンズで切り取った空間が出現しますよね。そして、視点が固定されて無自覚に身体を失ってしまう。本来、人間の視野ってもっと広く、視点とフォーカスは非常に動き回るんですけど、レンズで撮った世界はフォーカスが1点で動かないため、視野が狭くなり、意志を失います。例えばテレビの前にソファがあるのは、もしくは映画館に椅子があるのは、レンズで撮った映像だからです。そういったレンズ越しの世界とは違って、身体と切り取った世界が曖昧に連続し、視点が自由に移動できるため歩きながら見ることができ、フォーカスが無限にあることによって、視野が広がり意志を失わない空間の平面化の論理を模索しはじめたのが、チームラボのスタートなんです。

    猪子 & 隈, 2024, p. 51

     これは、遠近法に対して従来行われてきた批判に類似している。猪子自身はそういった形で説明することはないが、チームラボの概念をそのように分析する論者も多い。たとえば、日本美術史研究者の筒井忠仁は「超主観空間」と対比するものとして伝統的な遠近法に基づく作品を取り上げているほか(筒井, 2024, p. 100)、姫路市立美術館館長の不動美里はチームラボが「西洋のルネサンス期に完成された近代知の成果、人間の視点を固定して視線の先に消失点を設けて世界を捉える透視図法の遠近法を採用しない」と表現している(不動, 2019, p. 127)。

     同じ視点で遠近法を批判したものとしては、二十世紀のロシアの思想家フロレンスキイの『逆遠近法』が挙げられる。彼は遠近法的な思考が「主観的な境界面の隙間から、あたかも盗み見るかのように、瞬時に世界を覗く生命のない不動の思考であり、動きを捉えることができないのに、自分の位置と自分が見た瞬間こそが神的な絶対性を持っていると主張する」と述べているが(Florensky, 1919/1998, pp. 93-94)、猪子もまたその「不動性」や「絶対性」を懐疑的に捉えていた。

     そして、猪子はこの問題に対する活路を日本の古典画に見出して、次のように語る。

     近代以前の日本の絵画は平面的だと言われている。だが本当はそうではなく、その平面は、レンズや西洋絵画のパースペクティブとは違った論理構造によって二次元化された空間だったのではないか。その論理構造で二次元化された絵画平面は、絵画が表す世界と鑑賞者の身体がある世界との間に境界が生まれない平面なのではないか。そして、近代以前の日本を含む東アジアの人々には、世界がその論理構造で見えていたのではないか。

    猪子, 2019, p. 243

     こうして構築された平面化の論理こそが、「超主観空間」に他ならない。それは、先に述べたように「身体がある世界と作品世界との境界がない平面」とまとめられている(チームラボ, 2019, p. 256)。美術館では鑑賞者は一点に立ち止まって鑑賞を行うのに対して、超主観空間に基づいて制作されたチームラボの作品空間では、「走り回りながらでも踊りながらでも作品を観ることができ」るという特徴があるのだ(猪子 & 宇野, 2019, p. 97)。

     この概念はさらに、「ボーダレス」へと繋がる。ボーダレス概念はチームラボのコンセプトとして知られているが、明確に一つの概念として説明はされていない——これについては、美術評論家の建畠晢が指摘するように、「その意味が明確に規定されているわけではないので、我々はさまざまに解釈することができ」る場が提供されていると考えることもできる(建畠 & 不動, 2024, p. 140)。そこでここでは、ボーダレス概念を捉えるために、その主軸をなすと考えられるものとして「Body Immersive」の概念を確認したい。

     ボーダレス概念は、「人と人(Relationships among people)」「作品と作品(Transcending Boundaries)」「人と作品(Body Immersive)」さらには「時間(Time Continuity)」の連続性までをも含む広範なものと考えることができる。すなわち、チームラボにおいては、私たちが作品と連続し、(その作品が他の作品とも連続し)、さらにその作品が他者と連続している、すなわち作品を介して私たちが他者と連続している、といった構造が成り立っている。しかしここでは、紙幅の都合上、本稿の主張に直結するものとして「Body Immersive」のみを取り上げることとしたい。それがどのような概念であり、またそれがどのように作品として昇華されているのかを確認していく。


    2 Body Immersiveとその作品

     「人と作品」が連続するあり方を、チームラボは「Body Immersive」という概念で表現している。これは「身体と作品との境界を曖昧にする」というものであり(チームラボ, 2019, p. 260)、詳しくは次のように説明されている。

    人間の表現は、デジタルテクノロジーによって物質から解放され、表現が実在するための物質との不可逆の結合から自由になり、作品の物理的な境界面は曖昧になり、アートは境界の概念を超越する。人々は身体ごと作品に没入し、身体と作品の境界は曖昧になるだろう。そして、その体験は、自分と世界との間にある境界の認識を揺るがす。他者と共に、身体ごと作品に没入し、作品と一体化することで、私たちと世界との連続的な新しい認識を模索する。

    チームラボ, 2016a

     このBody Immersiveの概念を把握するために、作品を二つ紹介したい。まず、『Bubble Universe: 光の球体結晶、ぷるんぷるんの光、環境が生む光 - ワンストローク』である(図1)。これは麻布台ヒルズの常設展チームラボボーダレスにおいて展示中の作品であり、この常設展の目玉の一つと言える。この作品は、次のように説明されている。

    人が立ち止まると、最も近い球体が強く輝き、球体の光は、それぞれの球体から常に最も近い球体へと連続していく。そして、他者が生んだ光とも交わる。
    ランダムに見える空間上の球体の配置は、どの球体から始めても、常に最も近い球体へと線を引き続けていくことで、一筆書き(unicursal)のように全ての球体を一度ずつ通る一本のつながった光の軌跡となるよう、数学的に導き出されたものである。
    人に呼応した球体の光は、常に最も近い球体へとつながりながら、全ての球体を必ず一度だけ通り、空間全ての球体に伝播する。
    これは、人々の存在によって生まれる連続する光の、連続していることそのものの美しさを模索した作品である。

    チームラボ, 2023

     鑑賞者が立ち止まることによって、球体が輝き、それが連続していく様子が見られる。私たち鑑賞者の存在が作品に影響を与え、かつその影響は一度限りのものとして立ち現れている。その点において私たちは作品と連続している(なお、この『Bubble Universe』は「認知上の彫刻」という概念を背景に制作された作品でもある)。

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    図1:『Bubble Universe: 光の球体結晶、ぷるんぷるんの光、環境が生む光 - ワンストローク』(チームラボ, 2023)

     もう一つ作品を確認したい。『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』という、豊洲のチームラボプラネッツで展示されている作品である(図2)。この作品は次のように説明されている。

    無限に広がる水面に鯉が泳いでいる。人々は水の中に入り歩く。
    鯉は、水の中の人々の存在に影響を受け、また他の鯉の影響を受けながら泳ぐ。そして、鯉は、人々にぶつかると、花となって散っていく。1年を通して、咲いていく花々は季節とともに移り変わっていく。
    人々の存在に影響を受けて泳ぐ鯉の軌跡によって、線が描かれていく。
    作品はコンピュータプログラムによってリアルタイムで描かれ続けている。あらかじめ記録された映像を再生しているわけではない。全体として以前の状態が複製されることなく、鑑賞者のふるまいの影響を受けながら、変容し続ける。今この瞬間の絵は2度と見ることができない。

    チームラボ, 2016b

     私たちが歩き、水面上を動いていると鯉は逃げ、あるいはぶつかって花となる。しかし、立ち止まり静かにしていると、鯉は周りに集まり、線を描き、軌跡のアートを作り上げる。そこにあるだけで美しいのではなく、私たちと連続的となって、美しさが立ち現れているのである。

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    図2:『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』(チームラボ, 2016b)

    第二章 来場者の撮影形式の特徴

     これまで、チームラボの作品群が持つ特徴を確認してきた。ここからは、鑑賞者がチームラボの作品をどのように鑑賞しているのか、その行動について考えていきたい。具体的には、作品を撮影するという行為である。チームラボの館内では皆が写真を撮り続けている。この写真を撮るという行為はどういった特徴を持ち、またどのような意義を持っているのだろうか。本章では、この鑑賞者の行動を分析したい。

    1 なぜ写真を撮るのか

     どうして来場者の多くがそれほど作品を撮影するのだろうか。率直に言えば、周囲の多くの人が撮影しているため、同調的に自らも撮りたくなるというのが実感だろう。SNS上ではチームラボで撮影された写真を多く見かけ、現地でも写真を撮る多くの人たちを見かけていると、当然のように撮影をしようと思ってくる。

     しかしこれはひとまず、チームラボにおける事象というよりは、現代社会の多くの「観光地」で頻繁に確認できる事象の一つとして捉えることができるだろう。私たちは、「〇〇に行った」という証がほしいのである。ボードリヤールを念頭に、哲学者の國分功一郎はグルメブームについて「あるお店が流行しているからという理由で人はそこに赴く。そして一定の時間が経つと、今度は流行している別のお店に赴く。どうしてこのような行動を繰り返すのかと言えば、それは『あのお店に行った』という観念を受け取るためである。」と説明している(國分, 2025, pp. 15-16)。これと同じことがチームラボにおいても起きていると考えることができる。すなわち、来場者は、鑑賞以上に「(今流行りの)チームラボに行った」という観念の受け取りを主たる目的として足を運ぶのであり、その観念を明らかに受け取ったものと明示するためにこそ写真を積極的に撮るのである。

     ただ、そうした大局的な理由に加えて、チームラボで積極的に写真を撮りたくなる背景は他にもあるように感じられる。チームラボの作品がどのようなものであるかを事前にホームページ等を通し把握してから行くと、まず最初に気付くことがある。実際に肉眼で見ると、思ったよりもドットが大きいのである。猪子も解像度をめぐって、「20年前(のディスプレイ――引用者注)はドットが大きくて物質的にドットが見えてしまうので、どうしてもその物質が勝っちゃってた」と述べているが(猪子 & 隈, 2024, p. 52)、実際のところ、プロジェクターを用いて壁に投影した映像は、今でもドットが大きく物質感がある。ところが、カメラをかざした瞬間に事態は一変する。非常に美しい写真として立ち現れてくるのである。

     私たちが投影された映像にドットを認識してしまうのは、画素を隔てる微細な線まで捉えることのできる人間の眼の驚異的な解像能力の結果にほかならない(スクリーンドア効果と呼ばれる)。しかしカメラで撮影する際にはスマートフォンの高度な画像処理技術や、光を蓄積できるカメラの構造によってこのドットは写らなくなる。その結果、私たちは肉眼で見たよりもなめらかな写真を撮ることができる。さらには、チームラボは全体的に暗い室内に作品があるため、光を蓄積できるカメラは肉眼以上の鮮やかさを手にすることまでできるのだ。

     写真を撮ってしまえば、物質感が取り払われ、あたかも幻想的な風景がそこに拡がっていたかのような「事実」が作り出される。私たちがチームラボに望む理想的な体験がカメラをかざすことによって可能になるために、写真を積極的に撮りたいという動機が働くと考えられるだろう。


    2 作品の撮り方の傾向

     ここまで、来場者が写真を撮るという点で広く共通した鑑賞行動をしていることを確認してきた。しかしさらに観察していると、その撮影の仕方にも一つの傾向が見えてくる。自分が鑑賞している姿を同行者に撮影してもらうという形式が非常に多く見られるのである。そしてこの傾向は特に、人と作品が連続した作品(Body Immersive的な作品)において顕著である。

     これが意味することを丁寧に考えていきたい。まず、写真の撮り方には、自身を主題にした場合(自撮り)と、作品を主題にした場合があると考えられる。それぞれに、チームラボ特有の傾向がある。まず、自身を主題にした場合であっても、カメラに目を向けたいわゆる自撮りだけでなく、カメラに目を向けず作品を鑑賞している様子までをも撮影する傾向がある。さらに、作品を主題にした場合であっても、作品だけでなく自身を被写体に含めて撮影する傾向がある。つまり、どちらの場合であっても、作品とそれを鑑賞している自分自身を写す写真までもが撮影される。これがチームラボにおける写真撮影の傾向と言える。

     その様子は、たとえばチームラボの展覧会で撮られた写真を調べてみるとよくわかる。まず、(これは鑑賞者の行動の傾向を示しはしないものの)チームラボのホームページ上にある写真のほとんどは上記の形式をとっている。そして、たとえばInstagramで「#teamlab」と調べて多くの写真を見ているとその傾向が確認できる。なぜこういったことが起こるのだろうか。

     ここで立つ問いは、次の二つである。一つは「なぜ作品を撮影するためにわざわざ自身を被写体に含めるのか」であり、もう一つは「被写体に自分を含めるのになぜ(カメラ目線ではなく)鑑賞している姿を写すのか」である。

     まず、一つ目の問いについて考えよう。これは、人と作品が連続的であること(Body Immersiveであること)の裏返しであると言える。すなわち、作品が人と連続的となるように構成されているために、人が作品と接していなければ作品が作品として完成しないのである。作品だけを写そうとしても、焦点のない均一な写真となってしまうか(実際に撮ってみるとこのことは強く感じられる)、あるいは少なくとも不完全な作品を写した写真にしかならない。人がいることによってはじめて、人の影響を受けて作品は(文字通り)輝くし、作品がその人を焦点とするかたちで成立するのである。しかし、見知らぬ他者を中心におくかたちで写真を撮るのはプライバシーの侵害として躊躇われる。そのために、私たちは自身をその中心に置くことになる(念のため付け加えれば、自撮りであれば定義上もちろんそのようになる)。

     被写体に自身を含めることはよしとしても、わざわざカメラへ目線を向けずに、鑑賞している姿を写すのはどうしてなのだろうか。この問いは、さらに二つに分けることができる。作品を主題として撮る場合と、自身を主題として撮る場合である。

     まず、作品を主題としている場合は比較的明らかである。作品を主題としているからである。カメラへ視線を向けるかたちで写真を撮ってしまえば、それは少なくとも正真正銘の自撮りとなってしまう。作品を撮りたいというモチベーションのもとで、しかし作品単体では魅力を欠くために被写体に自身を写り込ませるのであった。そうであれば、被写体に求められているのは空間に作用する鑑賞者としての存在に他ならないから、カメラに積極的に顔を見せることはかえってその妨げとなる。

     では、そもそも自身を主題として撮る自撮りの場合であってもわざわざカメラへの目線を外した写真が撮られる傾向があるのはどうしてなのだろうか。まず挙げられるのは、チームラボのPRにそもそもそういった形式を持った写真が用いられているということである。チームラボの作品の紹介ページに使われている写真ではどれも、作品を主題にしているために(まさに先に述べたように)、匿名的に顔のあまりよく見えない人を被写体として含んでいる——猪子は「誰か特定の人物を描きたくない」と述べ、感情移入の対象を作品内に作り出さないようにもしている(猪子 & 宇野, 2019, p. 43)。こうした写真を目にしながら訪れる来場者は、その撮り方をスタンダードだと想定し、同じ撮り方を踏襲する傾向にあるだろう。

     あるいは、こうしたチームラボの作品がBody “Immersive”であることも関係しているだろう。没入型の作品の内部にいる自身を撮影してもらう際、カメラに目線を向けるということは、その作品の外部にあるカメラに意識を向けることを意味し、それは没入型の作品の内部にいるという状況に符合しない。没入している自らを撮影できるのがチームラボの魅力であるのに、カメラに目線を向けている自分(カメラのことを考えており没入はしていない自分)を撮る必要はないということだ。もちろん、カメラに目線を向けた自撮りも行われるとは思うが、目線をあえて外した写真を撮影する傾向があるのはそのためではないだろうか。

     さらに言えば、存在が作品に影響を与えている私自身というものを確認したいという思いも背景にあるように思われる。自分が作品に変化を及ぼしていることはまさにその変化を生んでいる自分自身の視点からでは認識しにくい。そこで、没入している自分を同行者に撮影してもらうことで、実際に作品を変化させている自分を見たいのである。自身が鑑賞している姿を第三者的に観たいという思いが、写真の撮影の仕方に傾向をもたらしているのかもしれない。

     複合的な理由が考えられるものの、そうしたことを背景に、私たちは来場者がチームラボで撮影する写真の特有の仕方のひとつを理解することができた。私たちの撮影する写真には、作品と、作品を鑑賞する私たち自身が写されているのである。


    第三章 写真を通した鑑賞における視点の解放

     ここまで、チームラボの作品群を貫く概念と、来場者の作品の撮影の仕方について考察をしてきた。それらをもとに、ここで本稿の初めに掲げた主張の展開に移りたいと思う。チームラボの作品は視点を解放し身体を自由にすることを望む革新的なものだが、来場者の多くはそこでその作品群を写真のなかに収める。私たちは自ら撮影したその写真を通して改めて作品を鑑賞することになる。このとき、一見するとチームラボが意図したような、鑑賞者と作品との連続性や、自由な視点や身体は、望めないように思える。しかし、チームラボで促される特有の写真の形式が、私たちにそれらを可能にさせてくれる。本章ではそのことを論証していきたい。

     従来、作品を写した写真は、その縁によって、「作品/鑑賞者」というかたちで作品と鑑賞者を分断していた。この形式においては、鑑賞者は作品と非連続的で、作品が撮影された際の固定された視点に同化しなければならず、身体を失ってしまうのであった。

     しかし、先に考察した写真撮影の形式を踏まえると、私たちがチームラボの作品の鑑賞後に手にする作品の写真には、作品と共に私も写されているのであった(改めて述べれば、それが自撮りでなくても、作品を写す場合においてすらそうなのである)。すなわち、ここでは、ある鑑賞者をAとし、写真内に写るかつての鑑賞者をA'とすると、写真内には「作品+鑑賞者A’」が写り、それを「鑑賞者A」が鑑賞するという「作品+鑑賞者A’/鑑賞者A」の形式が成立する。

     鑑賞者Aたる私たちはその写真を通して作品を観ようとする。しかしその写真には作品だけではなく、かつてその作品を鑑賞していた自分が写っている。その私=鑑賞者A’は、姿からして、あるいは記憶からして、明らかに私=鑑賞者A自身であると断定されるが、その顔をこちらには見せていない。ここで、顔が写っていないことの意義は大きい。顔は私たちに、多くのものを訴えかける。その表情はそのときの感情を切に伝えてくる。しかし後ろ姿は何も語らない。匿名化された、白紙のキャンバスのようになっている(しかしキャンバスとして現前してもいるのだ)。

     同時に、その鑑賞者A’は、私=鑑賞者Aと同じ方向を向いている。顔をこちらに向けていないということは、そういうことである。私=鑑賞者Aが写真を通して作品を観ようとするその方向と、鑑賞者A’は同じ方向を向いている。同じ方向へ身体を拡張させようとしているのだ。

     この、私であって私としては迫ってこないその存在、私と同じ方向へと身体を拡張しつつあるその存在、すなわち鑑賞者A’に、私=鑑賞者Aは、自らを投影することができる。そしてその鑑賞者A’は、まさに作品と共にあり、作品と触れ合い、影響し合っているのだった。まさにこのような仕方で、すなわち、私が写真に写る私と連続し、その私が作品と連続するという仕方で、私と作品が連続する回路が立ち現れてくるのである。投影したその場所=鑑賞者A’の地点から見える世界を私たちは想像する。作品を単に観るのではなく、作品を観る私を思い出し、その視点に立つ私と同一化し作品を観るということだ。

     自身を投影した私は、一体感のある同一性を感じることができる。なぜならそれは、他者ではなく、たしかにそこにいたと記憶に残る私でもあるからだ。しかし、それは私ではない。私ではないものを私であると同定するとき、引き換えに私は何かを失ってしまう。その失われたものとは、カメラ的な明瞭さであり、対象を分断する明確なレンズの縁なのである。ここで明瞭さは問題にはならない。ここで言う明瞭さはカメラ的な視点におけるそれに他ならないが、私たちの持つ視覚はカメラと同様の形式で明瞭さを捉えていないからだ(私たちが夢を見る時あるいは思い出に浸る時に明瞭さの欠如を認識しないように)。もう一つの失ったもの、明確なレンズの縁は重大な意味を持つ。なぜならそれこそがチームラボが解き放とうとしたものだからだ。私が自らでないその立場に同一化してしまったとき、その跳躍によって、もう明確なレンズの縁を乗り越えてしまったのである。

     私が写真に写る私に同一化して、その地点から観た作品を思い浮かべるとき、この跳躍によって、たしかな身体こそ得られないものの、絶対的な不動の視点は失われる。没入していた感覚を思い起こし、想像と記憶で補いながら、作品世界を鑑賞することができる。その世界では、私は固定されていない自由な視点を持っている。

     改めて整理してみよう。私たちは、チームラボの館内で自身を含むかたちで作品を撮影する。そこで撮影された写真を、私たちは館外で改めて見ることになるだろう。それは、写真を通したひとつの作品鑑賞のあり方に他ならない。そのとき、一見すれば、鑑賞者たる私と、写真に写る作品空間は、写真の縁を境界として連続していない。しかし、その写真には、作品空間だけでなく、作品を鑑賞する私が写っている。そのとき私は、その写真に写り匿名化された私の像に自らを投影することができる。写真に写るその私は、まさに作品と連続している私なのだった。このような仕方で、私は、私の像を介して、作品と連続することができる。さらには、写真に写るその像から観た世界の想像においては、明瞭なレンズの縁から解き放たれ、自由な視点を手にすることができる。チームラボのボーダレスの概念の射程は、館内において鑑賞者と作品が連続することを越え、館外においてその人が写真を通して作品を鑑賞することにすら及ぶものなのである。


    おわりに

     チームラボは、独自の仕方で概念を展開し作品を制作し続けている。しかし、作品が人気を博していることは十分に明らかであるとしても、その概念が実際にどれほどの射程を持っているのか、鑑賞者に対してどのような仕方で作用しているのかについてはそれほど明らかではない。鑑賞者が作品を撮り続けている状況を念頭に置いてしまうと、猪子が背景に持っていた思いは届いていないようにすら感じられる。

     しかし、鑑賞者が写真を撮っているという事実を越えて、その撮り方の傾向までをも踏まえて考察を行うと、別の姿が見えてくる。本稿では、来場者が作品の鑑賞後、館内で撮影した写真を通して館外で作品を鑑賞する際にも、作品と連続でありうることを示そうと試みてきた。

     世界への働きかけを志向するアートであっても、それは作品の鑑賞時にしか明確な力を持たないものも多い。それは仕方のないことではある。しかしその限界を超えるために、多くの仕掛けが試みられてきた。チームラボであれば、チームラボボーダレスにおける『EN TEA HOUSE 幻花亭』がそれに当たるだろう。宇野はこの作品について、「『ボーダレス』は基本的に、境界だらけの外の世界から隔離された建物の中だけで、境界のない世界を実現しているんだけど、丸若さん(「EN TEA」主宰の丸若裕俊氏のこと――引用者注)のお茶があることによって、その体験を自分の体内にほんの少しだけ持ち帰れるんだよ」と述べて、その意義を強調している(猪子 & 宇野, 2019, p. 208)。

     本稿で私が主張したことは、まさにその文脈に連なるものである。来場者の多くがまさに持ち帰る「写真」それこそが、鑑賞の場という限界を超えて、その理念を外へと運び出してくれる装置なのである。これは、チームラボの概念の射程が非常に広範なものであることの結果と言える。チームラボがこれからも新たな概念を展開し、新たな作品を制作し、「すべてが連続している世界、連続していることが美しい世界」を作り出していくのを期待したいと思う(猪子 & 南條, 2019, p. 44)。


    あとがき

     本稿のアイデアはもともと、1年次のSセメスター(春学期)に履修した「美術論」という授業の期末レポートのために練ったものだった。しかしいくつかの事情が重なり(というよりは始めるのが遅かったため)提出が間に合わず、2年次に再履修した際に改めて執筆して提出した。その後、夏休み中に加筆して一度完成させるに至った。しかしもっと良いものを作ろうと、そのあと半年以上もの間、さらに修正を加えようとしていた。だが、締め切りがないためいつまでも終わらず、「今月中に書き上げる」と何度も周りに宣言し、ようやく今日、書き上げるに至った。とはいえ、一度「完成」してしまったものを書き換えるのは難しく、大きな修正はできなかった(夏休み中に友人に読んでもらったものとほとんど変わらないものとなってしまったので、この半年間の思考の一部を付け加えるような気持ちで、この「あとがき」を書いている)。

     長い期間にわたっていたために、本稿を執筆する動機は様々に変化してきた。最初は単位取得のための期末レポートを作るためであったがそのあとは、「論文」と呼べるに値する最初の原稿を作るつもりで執筆を進めた。だが、写真論や現代アート批評の先行研究との接続ができず、論文として固めることができなかった。そのため、形式を緩めて「エッセイ」として書き上げることを決め、noteでの公開を目指すこととした。

     首都圏に住む中高生や大学生にとってチームラボは比較的身近で、足を運んだことがある人も多い。そうした身近なものを題材として、徹底的に考えてみることは面白く、その思考のさなかでこれまで学んできたことが繋がってくることはとても楽しい。そのことを伝えるものとしたいと思いながら、この原稿を書き上げた。

     しかし、こうしてチームラボ批評というかたちをとっていると、チームラボを知る人でないとどうしても伝わりにくいものがある。だから次は、批評を超えて、もっと大きな射程を、普遍的な射程をもつものを作りたいと思う。

     その萌芽は本稿の思考のうちにあった。細かい議論はまたの機会に展開するとして、ここでは、本稿の議論の応用可能性の提示も兼ねて、その展望を述べていきたい。

     チームラボで撮影した写真を観て、そこに作品と連続し作品を鑑賞する自己が写っているために、自らを投影できる、その結果作品と連続することができる、という本稿の主張に対して、その論理には無理があると感じられた読者もいたかもしれない。しかし私にとっては、たしかにそのようにして立ち現れてくると感じさせる連続性があった。

     それは、逆向きに表現するとよりリアリティがある(そして応用可能性もある)。すなわち、世界と連続し自らの身体を拡張しつつある者の後ろ姿を見ると、私は自己の投影が促されてしまう、そしてその結果さらには今ここにある身体もまさに拡張し世界と連続しつつあるような感覚が生じてくるのだ。

     これは私にとって、チームラボで撮影した写真だけが可能にしてくれるものではなく、最もわかりやすいところでは、『ハイキュー!!』の日向翔陽がもたらしてくれるものでもある。彼のまさに跳ばんとする身体が、その後ろ姿が、私の身体を拡張させてくれるように思えるのだ。つまり、本稿で展開してきたような、あるものを媒介しての二者の接続(による連続)は、チームラボに限らず見出せる可能性がある。

     そしてこの議論は、直観的には、メルロ=ポンティの身体図式の議論と強く共鳴するように思える。あるいは逆に、彼の議論をさらに拡張してくれるように思える。そして私は、そのようなかたちでの投影、身体の拡張、世界との連続は、とても「良い」ものに思えてならない。その「良さ」を記述することは今後の課題でもある。

     私は今年度から学部3年生となり、文学部の倫理学専修に進学した。先に述べたように射程を広げたい思いもある。次は、チームラボや『ハイキュー!!』を通して得た直観を導きの糸としながら、メルロ=ポンティのテクストの精緻な読解を展開してみたいと思う。


    参考文献

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    國分, 功一郎. (2025). 手段からの解放:シリーズ哲学講話. 新潮社.

    建畠, 晢, & 不動, 美里. (2024). 今、チームラボを読む—コンセプチュアルな実験を超えて. In 姫路市立美術館(Ed.), チームラボ:無限の連続の中の存在(pp. 137-152). 金木犀舎.

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    チームラボ. (2025a). チームラボ バイオヴォルテックス 京都 - 大成建設. https://www.teamlab.art/jp/e/kyoto/

    チームラボ. (2025b). EXHIBITIONS. https://www.teamlab.art/jp/e/?type=pickup

    チームラボ. (2025年, 3月14日). 時代で一番クオリティの高いものをつくる。チームラボにおける、拡大する組織での「品質基準」の揃え方.note. https://note.team-lab.com/n/nd9f01eb4f9dd

    TIME. (2024). The World's Greatest Places of 2024. https://time.com/collection/worlds-greatest-places-2024/

    筒井, 忠仁. (2024). チームラボの「超主観空間」—東アジアにおける伝統的感性から. In 姫路市立美術館(Ed.), チームラボ:無限の連続の中の存在(pp. 99-109). 金木犀舎.

     
     
    浅野高等学校を卒業後、早稲田大学商学部に一年在籍し、現在東京大学文学部倫理学専修3年。 大学受験のアドバイスを中心に書いています。これからは小論文やエッセイも書いていくつもりです。かなり長めの記事が多めですが、読んでいただけると嬉しいです。 フォロー&いいねよろしくお願いします!

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