
後悔の海を泳ぎ切った私が見つけた景色――『クチナシ』【2万字・恋愛小説】
■あらすじ
北陸の静かなアパートで穏やかな夫・陽一と暮らす幸子。ある梅雨の朝、通勤途中に見かけたクチナシの白い花が、彼女を十数年前の記憶へと誘う。
かつて幸子は、東京で前の夫からの支配と流産や言葉の暴力の深い傷に縛られ、暗い後悔の海を溺れるように生きていた。そんなある雪の夜、不器用な父と訪れた居酒屋で、幸子は雨宮大介という一人の男性と出会う。彼の静かで濃い茶色の瞳が、凍てついた幸子の心をゆっくりと溶かしていく。だが別れ際、彼の瞳が揺れ何かを言いかけた瞬間、二人の静寂は引き裂かれる。
もう戻らない彼の瞳の意味を胸に、傷を抱えながら後悔の海を必死に泳ぎ切った女性が、本当の幸せへ辿り着くまでの再生の物語。
プロローグ 梅雨の朝
甘く濃くまとわりつくような香りの向こう側に、ほのかに酸っぱさが広がる、梅雨の日の朝。
しっとりとした水気を含んだ空気。明るい灰色の雲間から、柔らかな陽の光が透けて見える。雨はまだ降っていない。
「雨、今夜8時過ぎから降るってよ。」
ノートパソコンを開き、天気予報で今日の天気をチェックしながら隣の和室へ向かって陽一が話しかけている。
「夜8時かぁ…どうしようかな。」
右手に玉子色のカーディガン、左手にベージュ色のレインコートを持った幸子が、眉毛を寄せている。しばらく考えてから、レインコートをそっとハンガーにかけ直した。
幸子の勤務は朝8時半から夕方5時までだ。残業もほとんどない。夜8時には帰宅しているはずだ。
身支度を整え、忘れ物がないか確認をする。
交通系カード、財布、鍵、スマートフォン、ハンカチ。 濃い化粧を好まない幸子の持ち物はシンプルだ。日焼け止めと化粧直しを兼ねたコンパクトパウダーと色付きのリップクリームそして櫛。それらの細々とした物を入れたポーチと弁当と水筒。
週に3日、それらを入れた鞄を持ち職場へ向かう。自宅からほど近い、小さな介護施設で介護事務をしている。
一通りの準備が終わり、時計を確認する。家を出る時間まで、まだ15分近くある。お気に入りの湯飲みを戸棚から出してきて、温かい日本茶を入れる。時間があるとはいえ、朝は何かと慌ただしい。手軽にティーパックで淹れる。ほんのりと黄色みがかった緑色。爽やかな香りで気持ちがすっと調うような気がして、幸子は出勤前に日本茶を選ぶことが多い。
夫の陽一は珈琲派だ。
目覚めに一杯、食後に一杯。濃いめに淹れたブラックを好む。珈琲好きとはいえ、豆を煎ったり挽いたり、器具にこだわったりするということはほとんどない。手軽に美味しく飲めるのが一番だと、一回分の豆をセットすれば、あとは自動で好みの濃さに淹れてくれる便利な珈琲マシーンを愛用している。
もう何年使っているのだろう。ボタン一つで好みの濃さに調節できるという機能が便利なのに、ボタンを押しても一回で思うような濃さに淹れられる設定がスムーズに動かなくなっている。何度かボタンをポチポチと押さなくてはいけない。数回押してやっとスタートボタンを押せる。「買い替えないの」と笑いながら幸子は尋ねる。「まだ動くからなぁ。長い付き合いだし。」と、お決まりのセリフが返ってくる。
毎朝、まるでルーティンのようにやり取りをする。こんな会話から一日が始まる。
今日、陽一は自宅で仕事をする日だ。
企業がパソコンシステムを導入するときに、
どんなシステムが良いか計画段階から相談にのる、という仕事をしているらしい。
ITコンサルタントというのだと言っていた。
決められた書式に、文字入力をするのが精一杯の幸子にとって、陽一の仕事は正直なところよく分からない。確かに分かることは、誰かの相談にのっているということだけだ。
困っている人の相談にのるのだから、良い仕事だと思う。物腰が柔らかく、穏やかな陽一にはぴったりな気がする。
実のところ幸子は、仕事の内容は何でも良いと思っている。一部上場企業だとか公務員だとかそんなことよりも、誠実に取り組んで、本人も周囲の人も笑顔でいられるような働き方をしている事が立派だと思っている。
「そろそろ行ってくるね。」
そう軽やかに告げて、家を出る。
「おぉ~、気をつけて~」
のんびりとした声が背中越しに追いかけて来る。陽一もこれから仕事のはずなのだが、こんなにゆったりしていて大丈夫なのだろうか…と思わず笑ってしまう。
重い鉄の扉を閉めて、階段を降りる。
畳敷きのある住まいが良くて、今の部屋に辿り着いた。少し古い2LDKだ。
今風の小綺麗なマンションも検討したが、どこも和室がない。畳とコタツ。寒い北陸でこの要素は外せない。あちこち内見して、最も古いこの部屋が一番しっくりきた。
コツコツと音を立てて、階段を降りる。
ゆっくりと深呼吸をして、路面電車の停車場へ向かう。
通勤途中にハナミズキの街路樹がある。大きく枝を広げたその足元には、背の低い植え込み。陽の光を優しく照り返す艶やかな緑色の葉。その葉の隙間に白いハンカチが落ちている。無造作に丸められた、厚手の上質な絹のように見える。
こんな場所に絹は似つかわしくない。幸子は不思議に思い、植え込みを覗き込んだ。
それは開きかけのクチナシの花だった。
「死人に口無し」
ふと頭の中をよぎる花言葉。
「嫁の口無し」とも言われ、クチナシは日本では縁起の良くない花の一つだ。
湿り気のある風に乗り、かすかに花の香りがしたような気がして、ぼんやりと花を見つめる。
甘い香りに誘われて古い記憶が蘇ってきそうな、そんな感覚にとらわれて植え込みの前で足が止まっている。
幸子の華奢な足は、履きこんで滑らかな革になった黒いパンプスに包まれている。高価ではないが、足の形によく合い履きやすいお気に入りの物だ。傷も目立たず、小まめに手入れをしていることが見て取れる。
紺色の直線的なワンピースの丈は長く、ほっそりとした足首がのぞいている。
身体の横を、車が音を立てて通り過ぎて行く。羽織った玉子色の薄手のカーディガンの裾が、ふわっと風に揺れる。
路面電車のゴトゴトと走る音でハッと我に返った幸子は、小さな弁当箱の入った鞄を肩にかけ直し、小走りで停車場へ向かった。
第一章 日常
乗り込んだ車内は、テスト勉強に励む学生達で一杯だった。毎朝顔を合わせる、ショートカットがよく似合うスーツ姿の女性と目が合い、お互いに軽く会釈をする。
見渡してみたが、空いている席はない。
三駅ほどで降りるので、立ったままでも問題はない。学生達をかき分けて降り口近くの手摺りの傍に立つ。
東の野に 炎の 立つ見えて かへり見すれば
月傾きぬ
「この作者はだーれだ?」
女子中学生だろうか、隣に座る同じセーラー服の子に問いかけている。
こんなの簡単でしょと言わんばかりに、出題した女の子は相手の顔をニコニコと見ている。
「えーっとね…たぶん…うーん…忘れた。」
聞かれた子は古文が苦手なのだろう。
がっくりと肩を落としながら答えている。
「かきピーよ、かきピー!柿本人麻呂!万葉集!テストにでるよって、先生言ってたよー。」
「あぁ~、そうだった、かきピー。思い出した。うん、覚えた!」
か、かきピー。そんな覚え方があるとは。
思わず吹き出しそうになる。
「朝日が昇ってきて、振り返ったら月が沈んでいってる。わー、すげーって歌。なんか、いいよねコレ。」
なんともざっくりとした説明だ。
しかし、意味は合っている。わー、すげーって、きっと大人だと、雄大な景色を見て…なんたら…と訳すとこだろうな。生き生きしていて、良いなぁと幸子は思う。
小難しく言葉を並べるより、感じたことをそのまま口にだせる学生を眩しく感じる。
大らかだったという奈良万葉時代。今の学生の訳を聞いても、オッケーなんて、楽しげに言ってくれそうな気がする。その後もその子達のテスト勉強は続く。
幸子の降りる駅はあっという間にやって来た。もう少しやり取りを聞いていたいなぁ、と思いながら下車をした。
学生の元気な声を聞いたせいだろうか。
気持ちがいつもよりも明るい。
普段より少し大きな声で、おはようございますと言いながら、職場へ入った。
送迎車が次々に玄関口に着く。職員の元気な声に背中を押されて、年配のご婦人方が建物の中へ進む。ガラス張りの事務所内に幸子の姿を見つけて、軽く手を振ってくれる方もいる。
日中楽しく過ごして頂けますように。そんな風に祈りながら、事務員としての一日が始まる。
賑やかな時間が過ぎた。笑い声や歌声が事務所まで届く。昼近くには、時折事務所に出入りする介護職員と施設利用者について軽く情報交換をしたり、尋ねてきた利用者家族と世間話をしたり。パソコン入力以外のコミュニケーションの時間も、幸子は大切にしている。今日は穏やかな日だった。大きなトラブルはなく、数件の電話対応と数日前から取り掛かっていた文章をパソコンに入力して仕事を終えた。
採用面接の時に、利用者介助はできないと、はっきりと伝えてある。幸い、幸子の勤めるこの施設は、事務職と介護職の仕事をしっかりと分けてくれている。施設によっては、事務職員が送迎や生活介助を兼務することを要求される。それは、肉体的にも精神的にもとても負担が大きい。
幸子は介護の資格を持っている。現場仕事は嫌いではないが、あまり丈夫でない幸子には負担が大きい。年々その感覚は大きくなり、再婚を機に無理をすることを止めたのだ。
現場で働いていたときに、事務職員と介護職員の軋轢を何度か目にした。
その時、どちらの言い分も間違ってはいないと感じた。ただ、お互いの事…仕事内容や利用者に対する思いを知らなさすぎるのだ。
コミュニケーションをとり、お互いの思いを知れば、無駄な争いやいがみ合いをしなくて良いのではないかと思いながら、でも手を打つことが出来ずに働いてきた。
事務職をすることに決まったとき、色々な人と話そう、聞こう。そう決めた。
得てして介護職員は元気な人が多い。声は小さめで、派手なことが苦手な幸子はその勢いに押されてしまうこともしばしばである。
しかし、どんな時も静かに微笑み、事務所に座って挨拶をする幸子を、他の職員達は優しく受け入れてくれた。全ての人がそうという訳ではないだろう。けれど、仕事に疲れた職員が、現場の大変さを知る幸子にお喋りをしていくようになった。それはちょっとした愚痴だったり、仕事上の情報交換だったりした。
悪口は言わず、相手を否定もせず、ふんふんと頷きながら聞いている様子に満足するようで、ひとしきり喋ると、じゃあね~と言って事務所をあとにする。そんな人が増えていた。利用者の家族も同様だった。
在宅介護は大変だろうと想像がつく。仕事としてプロの教育を受けていても、どう対応したら良いのか分からないことが毎日起こるのだ。せめてこちらに預けている間は、ゆっくり骨を休めて欲しい。そんな思いが家族に伝わるのだろう。時には涙を流しながら話していく人もいる。
出来ることは限られているけれど。誠実に向き合っていきたいなぁと思いながら、仕事をしている。
昼休み。
持参した小さな弁当箱に詰めてある物は、昨夜の残り物と今朝焼いた玉子焼き。昨年漬けた梅干し。質素だが好きな物ばかり詰め込んでいる。幸子にとってはご馳走だ。もう少し食べたいところだが、満腹になると眠気が襲ってくるので、控えめにしている。
美味しいご飯は人を幸せにするなと、しみじみ感じながら食べ終わる。
午後もいつものように過ぎ、時計の短針が五を少し過ぎた頃。カタン、と椅子を机の下へ押し込んで今日の勤務を終えた。
お先に、と言って仕事場をあとにする。
第二章 押し寄せる荒い波
朝来た道を逆方向へゆっくりと歩く。
空は暗く、空気は重い。遠くの方から雨の香りがする。心地良い疲労感を味わいながら、
朝、手を振ってくれた方の顔を思い出す。夜に何度も目が覚めると話していた。今夜はぐっすりと眠れるといい。
停車場で数分待っていると、電車が到着した。幸子の好む、古いタイプの電車だ。
路面電車の車両は、新しいタイプと旧来タイプの二つが走っている。新しい物はトラムと呼ぶ人が多いように思う。確かに、トラムと片仮名表記するに相応しく、スタイリッシュな感じがする。二両編成で大きい。鮮やかにピカピカと光る美しい外見をしている。動きは滑らかで、乗っていても上下の振動をあまり感じない。車内も綺麗だ。空調も良く効いていて快適に乗車できる。綺麗なのがいいわぁと言う声を時々耳にする。けれど、幸子はゴトゴトと大きな音を立て、軋むように走る電車が好みだ。車内は清潔に掃除されてはいるが、内装は古く所々ペンキが剥げて錆びている。一両で走っている姿は何だか一生懸命で、つい応援したくなる雰囲気だ。クリーム色と、絵の具を絞り出したような青の二色塗装だったり、朱色に近い赤だったり。どこか哀愁漂っている。
好みのタイプの電車が到着して、思わず笑みがこぼれる。
乗り込んだ車内は、朝と打って変わって静かだった。仕事帰りの疲れた様子の大人が数人。頭をもたげて、うつらうつらしている。
空いている席はすぐに見つかった。腰を下ろして、小さくひと息ついた。
窓ガラスに街の景色が映る。黒い屋根瓦が後へと流れてゆく。ポツンと窓ガラスに雨が落ちた。あっ、と思った瞬間、車内でも聞き取れるほどのざぁざぁという雨の音。バチバチと大きな音を立て、雨が天井を走り回っている。雨の雫は流れる川のように、窓を上から下へと落ちて行く。
そんな雫を見て、まるで涙のようだと思った。あの頃は良く泣いたな、と幸子は数年前まで続いた、前の結婚生活を思い出していた。
「絶対安静です。切迫早産です。」
医者の緊迫した声が遠くで聞こえる。
思わず両方の手のひらを下腹部に当てた。
「今から注射をします。飲み薬も毎日飲んで。十日後に再診です。そこで心拍が確認できたら、ひと安心ですが…」
その後の言葉を医者は言い淀む。
「いいですね、とにかく安静に。トイレ以外は布団からできる限り出ないようにね。」
飛び出すように診察室を出てきた幸子。慌ててあとを追いかけてきた看護師が、腕を支えてベンチに座らせてくれた。
妊娠確定から一週間後の今朝。少量の出血があったのだ。
車の運転免許を持たない幸子は、慌ててタクシーを呼んだ。夫は夜勤明けだが、まだ仕事から帰ってきていない。
母子手帳と財布をだけを握りしめてタクシーへ乗り、産婦人科へ飛び込んだ。真っ青な顔色をした女性が飛び込んできて、受付の職員は緊急性を感じたのだろう。詳しく尋ねることもせず、すぐに車椅子を出して待合室へ連れて行ってくれた。
唇が震えて言葉が出てこない。
「さっき、血が…」
小刻みに震える手で、母子手帳を差し出すのがやっとだった。事情を察した看護師が手帳を受け取り、診察室の中へ消える。
すぐに呼ばれ診察となった。
あまりのショックに診察室から転がるように出てきてしまったが、できるだけ歩かない方が良いのだ。これから注射を打たなくてはいけない。付き添いの看護師が、優しく車椅子に乗るように促してくれる。車椅子はゆっくりと進む。幸子の心臓はずっとせわしなく脈を打ち続けている。
一通りの処置が終わり、再びタクシーで家へ戻った。
白っぽい壁。大きな掃き出し窓が、これでもかと全方向にある。全体的に洋風といえば、洋風なのだろう。薄っぺらい感じのする屋根を乗せた一軒家。車が二台止めてある。前の結婚相手、夫の征司が帰宅しているのだ。
玄関の鍵が開いている。
「ただいま。」
消え入りそうな声で、リビングに向かい声をかける。ソファで、大きな身体をゴロリと横たえている。夜勤明けの征司は、いつもこのソファで昼寝をする。
テレビからは、うるさいくらいの音量でCMが流れていた。幸子の声が届いたようだ。頭を軽く上げて声の方を見る。明らかに不機嫌な表情だ。険しい目つきをしている。
帰宅時に幸子が不在にしていることを酷く嫌う。それは分かってはいたが、何時に帰宅するのか分からない征司を待ち続けることが、今日は出来なかった。したくなかったのだ。小さな命を守りたかった。
今朝の出来事と病院での診察結果を告げた。
征司はベッドに寝転んだままだ。ふーん。軽くそう言っただけで、また元の体勢に戻った。手には携帯ゲーム機。寝落ちするまで楽しむのだろう。
心配の言葉も、労りの言葉もなかった。
予想はしていた。妊娠が分かったとき、あまり喜ばなかったのだ。入籍前は、結婚したら何時子供が出来てもいい等と言っていたが。本心ではなかったのかもしれない。身体が強くない幸子は、時々痛み止めを飲んでいた。頭痛が酷くなると、家事ができない。妊娠確定前にも数回飲んでいた。その事があるから、子供の健康が心配なのだと征司は言った。薬の影響は幸子の心配事でもあったので、医者に尋ねてみた。 市販薬でその程度の量ならば、ほとんど心配はいらないという事だった。幸子は安心したのだが、征司は違った。心配だから、今回は子供は諦めた方が良いのではとか、産むつもりなら染色体異常の検査を受けてくれ等と、何度も言ってきた。堕ろすということは全く考えていなかった幸子にとっては、衝撃的な言葉だった。
たとえ、障害のある子が産まれても大切に育てたいと伝えても聞く耳を持たない。
最終的には、染色体異常の検査をしてこいと送り出されてしまった。数日前の事だ。
医者に主人の希望で検査をして欲しい旨を伝えた。現在と違い、二十年以上前は出生前診断は非常に危険度が高かった。検査のために流産することもある。その事は、幸子も知っていた。だから、検査を嫌がったのだ。
医者は幸子の話を聞いて、激怒した。
「出生前診断は、堕胎するのを決めるためにするんじゃない。ハイリスクで産まれる可能性がある子を、充分な体勢で迎え入れるための準備としてするんだ。旦那に言っとけ!」
怒ってはいるが、幸子に向かってではない。会ったことのない夫に対してだ。こんなにもハッキリ言ってくれる事に、驚きと安心感を覚えた。私は間違っていない。
医者は優しい声で最後にこう付け加えた。
「帰ってゆっくり休みなさい。」
切迫早産だと診断を受けた翌朝のこと。
征司が早起きして誰かと電話で話している。休みの日は、いつも昼近くまで起きてこないのに珍しい。
電話を切ると、笑顔で幸子の方を向く。
「今週末、キャンプだぞ。前に、近い内に計画するって話していただろ。佐藤くん夫婦とだよ。」
幸子は征司が何を話しているのか、理解が出来なかった。昨日の事を忘れたのだろうか。混乱しながら口を開く。
「寝てなくちゃ、いけないの。」
「移動中は車の中で寝ていて良いからさぁ。キャンプ場についたら、テントの中で寝てたら良い。なーんにもしなくて良いからさ。楽だぜ。大きな車があって良かったよな。いっつも、車は一台で充分って言うけどさ。軽自動車だけじゃ、こんなキャンプはできないだろ。」 ここぞとばかりに、車二台持ちの正当性を話している。そして、稀に見るご機嫌っぷりだ。
幸子は、目の前が暗くなり征司の声も遠くなっていった。行きたくない。今は行けない。そう言いたくても、喉元で息が詰まる。耳の奥で声が聞こえる。
「理想通りの結婚生活が送れなかったら、離婚だからな。」
結婚して数か月目に言われたこの言葉。
この言葉が、呪いのように幸子を縛る。
幸子の両親は、彼女が学生の頃に離婚している。一時期母親と暮らしたが、あまりにも問題の多い人だった。大人になった幸子はやっとの思いで傍を離れたのだ。父親には結婚するという連絡をしただけで、ずっと会っていない。両親の離婚原因を幸子は未だに知らない。けれど。母親と二人で暮らしてみて、恐らくこの人に原因の多くがあるのだろうと感じた。そんな母親に娘がついて行ってしまい、父はどれほど傷ついただろう。もしかしたら、嫌われているのではないか。
そう考えると、怖くてほとんど連絡できずにいる。
その時の幸子には、征司との家以外、身を寄せる場所がどこにもなかった。行くところも、帰るところも、ない。
週末。お腹に手を当て、何度もごめんねと小さな命に謝りながらキャンプへ行った。
何日たっても出血が止まらない。
診断から十日後。
小さな命は空へ帰って行った。
何も感じない。全ての音が遠く聞こえる。
涙が一粒もでない。全てが、まるで遠い国で起こった出来事のようだ。
指の感覚も、食べ物の味も分からない。
ただ、いつもの義務感で洗濯物を干している。
不意に玄関が開く。夜勤明けの征司が帰宅したのだ。あぁ、もうそんな時間。ぼんやりと征司を見上げる。荒げた声が聞こえる。
「なに、いつも通り家事しちゃってるの。冷たいヤツだな。悲しくないわけ。」
突然、涙が流れ出した。サラサラと流れて止まらない。
征司が幸子の頭をぐっと胸に引き寄せる。
「そうだよ、泣いて良いんだよ。」
違う!と大声で叫びたかった。
この涙は、赤ちゃんのための涙じゃない。こんな事を言う人が、私の夫だなんて。情けなくて涙が出ているのだ。
二、三度頭を振って抵抗してみたが、それ以上力が出なかった。もう、どうでもいい。力なくその場に崩れ落ちた。
幼い頃から身体が弱く、フルタイム勤務が難しかった。
経済的に支えてもらっている。離婚となったら、どうやって暮らしていけば良いのか分からない。
それに、私は社会不適合者らしい。
「社会性も、コミュニケーション能力もない。こんなことでは社会でやっていけない。だから、俺を通して社会を学べ。」
結婚以来、ずっとそう言われ続けていた。
そうなのだろうと、そのうち自分でも思うようになっていた。とにかく目立たないように、征司の機嫌を損ねないようにということだけに力を注いで生きてきた。
車二台を所持したがるだけでなく、征司は色々な物を欲しがった。給料の範囲内でならば、問題はない。それを超えて欲しがる。
何度、お金の使い方を話し合おうとしても無駄だった。聞く耳をもたない。気に入らないと怒鳴る。物を投げつける。恐怖から、お金の事を話題にすることは止めた。
幸子は、働きに出ることにした。
体力的には心配だったが、そうも言っていられない…と、その時は思い込んでいた。
無資格、未経験でも雇ってくれる場所。
それは、人手不足の介護業界だった。
電車がカーブに差し掛かり、ガタンと大きく左右に揺れる。雨音はまだ続いている。窓ガラスには幾筋もの涙が流れ続けている。
第三章 後悔の海
介護業界へ飛び込んで十数年間、短時間のパートタイムがほとんどで細々とだったが、懸命に働いた。
介護経験がなくても、家事ができるならやっていけると思うよ、と言われ採用となった。その採用時の言葉通り、施設での介護は入居者や利用者が快適に生活できるようにサポートしたり、暮らしを支える仕事だった。お茶を淹れたり、洗濯物を畳んだりと、家事と同じような仕事が数多くある。
自転車で通える距離に特別養護老人ホームがあった。入居の他に、短期利用と日帰りのデイサービスがあった。未経験だから、比較的身体の動かせる方が通う、デイサービス部門が良いかなと考えて、履歴書を持参した。が、驚いたことに配属先は、入居者対応の特養と言われる部署だった。今にして思えば、幸子の性格や人柄を考慮しての事だったのだろう。
終の棲家と言われる特別養護老人ホームは、静かに過ごす方が多い。もう、話すことも起き上がる事も出来なくなり、一日中ベッドで過ごすという人も珍しくない。
瞳や瞼の動き、微かな唇の震えを読み取って、ケアをしていく。とても繊細な技術だと、幸子は思う。そんな仕事と対極するかのように、体力勝負の仕事も山ほどあった。
入浴、着替え、食事、排泄…。人手不足もあり、とにかく忙しかった。呼び出しのコールがひっきりなしに鳴っている。
一つ仕事を片付けてもすぐに次の仕事。息つく暇もないとはこの事かと、額の汗をタオルで拭いながら思った。
仕事を始めて、ひと月で独り立ちねと言われて、目が点になったことを思い出す。
一回の出勤が四時間。週に三日の契約の幸子と、同時期に入った正社員候補の女性の独り立ちの日が、なんと同じだという。
正社員候補は一日八時間、週五日出勤している。そんな、バカな…とあたふたしたが、告げられてしまったものは仕方がない。
小さいノートとボールペンをエプロンのポケットに忍ばせて、メモをとり、必死に仕事を覚えた。入居者の名前と顔。部屋の位置。物品の位置。トイレや入浴、食事介助のやり方。車椅子の押し方。
身体がキツかったが、当時はまだ20代後半で若かったからだろう。何とか持ちこたえていた。家から離れ、征司の気配から離れらる時間が出来たことも良かったのも知れない。
小さな命が空へ帰ってしまってから、幸子は自分のことを責めに、責めた。あの時、キャンプへ行かなかったら…。あの時、もっと寝ていれば…と。征司と大喧嘩になっても良いから、行かないと言い通せば良かった。怖いなんて言って、結局我が身かわいさに一つの命を犠牲にしたのだ。酷い人間だ。
仕事がなく家に一人でいる時、涙が溢れて止まらなかった。その涙は、介護の仕事を続けながらも15年近く続いた。頬を流れ落ちた涙が溜まり、身体の周りに海が出来るほどだった。後悔と諦めの混じった、暗い暗い海だった。
幸子の降りる停車場のアナウンスが流れる。降車ボタンを押し、窓の外を見た。
日の暮れた街に、雨はまだ降り続いていた。
第四章 凍てつく福岡で
ガクンと車体が揺れて電車が止まる。
ガクガクと震えながら扉が開いた。
夜八時からの雨という予報を信じて家を出たので、小さな折りたたみ傘を鞄に入れてきた。
道路へそっと足を降ろす。大きな水溜まりを避けて足を置く。
開いた傘は、かろうじて幸子の頭と肩を守っている。
電車の扉が閉まり走り出す。遠ざかって行く光りを見つめながら、道路に一人残された幸子は家へ向かって歩き出した。
百メートルほど歩いただろうか。銀色に光る街灯の下、今朝見つけたクチナシが雨に濡れそぼって咲いている。薄暗い闇が迫る中、白い花がぼうっと浮かび上がっているように見えて、思わず足を止める。
花びらが開き、朝よりよも一回り大きく見えた。強い雨を受けながら、花びらがふるふると震える。水の重さで頭が下がってしまっている。ふとその花の横を見ると、艶やかな緑の葉に埋もれるように、他にも数個のクチナシの花が開きかけている。
弱い風が吹いた。むせ返るような甘い香りが幸子を包む。傘からはみ出した腕先はとうに濡れている。冷たい。じわじわと指先も冷えてくる。幾重にも折り重なった真っ白な花びらは、まるで雪のようだ。
あの夜、福岡の街に降っていたぼたん雪。地面に落ちると儚く消えてしまう雪。あの時の寒さを思い出していた。
介護の仕事を始めて数年経った、十四年前の二月。父が癌の手術を受けた。手術の前に連絡がきた。身内の同意書が必要だったのだ。
それ以来、月に一度様子伺いの電話をするようになった。
入院は完全看護ということで、付き添いは要らないと父にキツく言われていた。当時はまだ、前の夫(征司)と東京の西の端の街に住んでいた。東京に住む幸子にとって、福岡は遠い。交通費がかかる事を嫌い、征司は福岡へ行きたがらなかった。父とは最低限の連絡しかしていなかったが、時々福岡が恋しくなり、里帰りをしたかった。中学時代の友人とはやり取りが続いていたので、会いたいなと思っていた。毎年でなくて良い。二、三年に一度。私だけで良いから里帰りをしたいと希望を伝えても、叶うことはなかった。
ボーナスが入ると、里帰り費用を取り分ける前に征司は引き出して使ってしまう。幸子の僅かな給料は、生活費に消えていた。私がパートタイムとはいえ、二人で働いていて子供もいないのに、貯金が出来ない。自由に使えるお金もない。リップクリームですらドラッグストアのポイントが貯まると、ポイントと交換に手元にくるという具合だった。
そんな暮らしの中での、父の手術。
付き添いは要らないと言われたが、心配だ。入院中よりも、退院直後の数日間の方が手助けが必要だろう。意を決して、どうしても行きたいと征司に伝えると、渋々承知した。外面は良いのだ。手術をしたのに、流石にお見舞いも訪問もなし…というのは具合が悪いと思ったのだろう。三日間。それが幸子に許された時間だった。
お見舞いを包むことは出来なかったが、なんとか飛行機のチケットを買うことが出来た。
母親と福岡を離れ、東京で暮らすようになってから十年以上経っている。
福岡の街は変わっただろうか。家の前の銀杏の木は今も大きいのだろうか。
離陸のアナウンスが流れる。格安航空だからだろうか。ずいぶんと機体がガタガタと揺れる。飛行機ってこんなに揺れたっけと思った時、ふわりと機体が浮かび上がった。ぐんぐんと高度が上がってゆく。 眼下には青い海が広がる。
機内サービスの小さな紙コップに淹れられた、苦すぎる珈琲を飲んで目が冴えた幸子は、窓の外を眺める。次第に雲が出てきて視界が悪くなる。どうやら福岡の天気は悪そうだ。
「ただいま。」
久しぶりに、家の敷居を跨いだ。
「おかえり。」
その言葉だけを交わし、居間へ向かった。
大げさな出迎えも、ドラマチックな涙もない。
ただいま、たったこの一言を言うだけで、いったい何年かかったことだろう。
長かったな。そう思う幸子の頬は、嬉しさでほんのりと赤く染まっていた。
父は一人で荷物をまとめ、退院手続きをとり、帰宅していた。病院へ迎えに行くから、待っていてと何度も伝えたのに。たいしたことないから大丈夫だ。家で待ってるよと言って譲らなかった。
手術のみで化学療法はしない。ごく初期の物でたいしたことないといっても、癌は癌だ。
前立腺癌を内視鏡で切除したと聞いている。
傷も痛むだろうに、気丈というか頑固というか…。
ただいまと久しぶりに開けた玄関は、重い木の扉から軽いアルミの引き戸に変わっていた。硝子がはめ込んであるので、陽が入り廊下まで明るい。
木の扉だった頃、幸子が子供の頃は玄関から廊下にかけて薄暗かった。両親の仲も既に悪かった。そのせいもあってか、玄関から廊下そして居間まで全ての空気が重たかったように思う。それが今は、東側を向いた硝子扉が、陽の光を家に招き入れている。古ぼけた廊下も心なしかツヤがあるようにすら見えてくる。曇り空とはいえ、太陽の光は偉大だ。昔よりも軽やかな空気が家を満たしていた。
外は今にも雪が降り出しそうな、濃い灰色の空だ。海沿いにしては気温も下がっている。今夜は冷え込むだろう。
二人でコタツに入り、昼ご飯を食べた。
幸子が空港で買ってきたサンドイッチと、台所で淹れた薄い紅茶だ。
羽田空港にも福岡空港にも、美味しそうな弁当が山積みで売られていた。珍しいおかずか入っている弁当を買っていこうか…と考え、種類の違う物を二つカゴにいれようとしたが、考え直して冷蔵ケースへ戻した。元気そうに電話口で振る舞っているとはいえ、傷口が痛むだろう。一人で荷物をまとめてタクシーに乗り込み、疲れて食欲がわかないかもしれない。
食べやすく、万が一残しても気の引けないサンドイッチあたりが良いかもしれない。そう思ったのだった。
父の好きな玉子が入ったものと、野菜サンド、少しボリューム感のあるカツサンドを買った。
コタツの上に並べると、うれしそうにサンドイッチに手を伸ばした。最初に手を伸ばしたのは、やはり玉子サンドだった。思わず笑ってしまう。そんな幸子を不思議そうに見ている。
「なんだ?」
「いや…好きな物って、変わらないのねぇと思って。昔から玉子好きだよね。」
父はもぐもぐと口を動かしながら、少し照れたように
「玉子だからな。」
と一言だけ言うと、他のサンドイッチも美味しそうに平らげてしまった。良かった、食欲はあるようだ。
食後はコタツに入ったまま、ゴロンと横になった。やはり傷口が痛むのだろう。動く時に少しだけしかめ面になる。
寝息を立て始めた父に、寝室から持ってきた毛布を掛ける。
ストーブに乗せたヤカンから、シュンシュンと音がして白い湯気が上がっている。
照明を絞り薄暗い部屋の中で、ストーブの火だけが橙色に光っている。
窓から街路樹の銀杏の木が見える。大きく育ちすぎ電線に触れて危険という理由で、先端をバッサリと切り落とされていた。不格好になってしまったが、幹は太くどっしりと根を張っている。冬なので葉が一枚もないが、それは力強く生命力に溢れる姿だった。
1時間ほど眠り、目が覚めたようだ。毛布の下でもぞもぞと身体の位置を変えている。
「夕飯なぁ、夜六時にタカノさんに予約してあるけん。」
唐突に告げられた。
タカノさんとは、父のお気に入りの居酒屋である。魚が美味しいと人気の店らしい。
「えっ。今朝、退院したばかりなのに外食なんて…身体辛いでしょう。」
流石にこれは止めた方が良いだろう。口を開きかけた時
「大丈夫だ。大介にもお礼したいしなぁ。あ、大介にも声かけとんよ。お前も、久しぶりに旨か魚食いたかろう。」
父が大介と呼ぶ雨宮大介とは、父、森上の会社の部下にあたる人だ。この手術をきっかけに連絡を取るようになった父からの電話に、頻繁に登場する。
なんでも、高校球児だったそうで、体力はある、気遣いは出来る、何より頭が切れて仕事が出来る…という。昨年定年を迎え、今は同じ会社の嘱託職員として働く父が、現役の頃から全幅の信頼をおいている右腕だということだ。
そんな人間いるのか…スーパーマンのようではないか…と思わず幸子は思ってしまった。父は情はあるが、少々気難しい。お世辞などは大嫌いな人で、味方は多いが敵も多い…という人だ。職場の上司だったら、ちょっと面倒くさい人ではないのだろうか…と内心思っていた。
そんな雨宮が退院祝いに駆けつけるという。
退院初日に大丈夫なのだろうか…と、心配顔の幸子に向かって、父は言葉を続ける。
「あいつな、俺が入院してから、仕事帰りに毎日病室に顔出してくれたっちゃん。」
毎日。幸子は目を丸くして息を呑んだ。父の職場から病院までは車で30分以上かかる。
一週間、毎日顔を出したというのか。娘の私でさえ、退院した今日駆けつけたというのに。
そこまでしてくれた人が、今夜も行くと返事をくれているとなると、行かないという選択肢はない。
「分かった。タカノさんへはタクシーで行こうね。」
いつも店へは、徒歩と電車で行っていると聞いていた。二駅先と、近いがここは身体優先だ。
「そうだな、そうしよう。五時半に家を出よう。」
時間まであと二時間ほど。コタツに入り時間が来るのを待った。
雨宮とは、どんな人なのだろう。想像してみる。父からの情報を繋ぎあわせると、身体が大きくて、筋肉質で、声が大きく、活力溢れるタイプ…という体育会系男子の姿しか思い浮かばない。私、ちょっと苦手かも。会う前から思うのも失礼な話だが。征司との暮らしと流産という経験から、幸子は軽い男性恐怖症になっていた。夫婦生活は諦めしかなかった。体調が悪いから…と断っても不機嫌になる。怖くて良いなりになるという、夜の時間は苦痛以外の何者でもなかった。外で性欲を満たしてきて欲しい。切実にそう願う日々になっていた。そんなことを思いながら、温かいコタツの温もりに、しばしの休息を得た。
第五章 濃い茶色の瞳
ブレーキの音がした。タクシーが到着したようだ。待たせると悪いから、玄関の外に出てタクシーを待つという父を、身体を冷やすと良くないからタクシーが来たら外へ出たら良いと、何とか説得をして玄関内で待っていた。
カラカラと引き戸を開ける。サァッと氷水のような風が玄関内に吹き込んできた。思わず首をすくめる。振り返ると、父もマフラーをしっかりと巻き付け直している。
外はもう、真っ暗だった。
タクシーに乗り込み行き先を告げる。
バイパス沿いに並ぶ明るい街灯が、どんどん後へ流れて行く。
「今夜は降りそうやね、お客さん。早めに切り上げるのがいいっちゃないかねぇ。」
運転手がそう言い終わった時、窓ガラスに小さな水の粒が張り付いた。まだ雪ではない。
細かい雨が降り出したのだ。
十五分ほどで店に着いた。
タクシーから降りると、先ほどよりも気温が下がっているのが分かるほどだった。吐く息が白く煙る。ありがとう、そう伝えるとタクシーは駅へ向かって走り出した。次の客が待っているのだという。赤いテールランプを見送り、二人で暖簾をくぐった。
「いらっしゃーい」
眩しくて一瞬目を閉じた。温かく湿り気のある空気が身体を包む。揚げ物や、炒め物、ご飯の炊ける香り…美味しそうな香りが幸子の気持ちを明るくする。
「モリさん、すぐに退院できて良かったねぇ。
あれ、娘さん?初めまして。いっぱい食べてってね。」
父はモリさん、と呼ばれているようだ。森上だから、モリさんか。
ニコニコと気持ち良く笑う女将さん。幸子が家で使うような、どこにでも売っていそうなチェック柄のエプロンをしている。
カウンターの向こう側の厨房では、真っ白な白衣と帽子に身を包み、がたいの良い大柄な大将がペコリと会釈をしてくれた。ザ、和食の料理人といった風情だ。
4人も座ればいっぱいのカウンターではなく、背中合わせにある小上がりに通してくれる。他の客はまだいない。一番乗りだった。
テーブルの上には、四人分の箸。取り皿と硝子のコップが置いてある。
通路側を背に幸子が座り、その向かいに父が腰を下ろした。幸子と父の隣がそれぞれ空いている。
あら、食器が四人分…と不思議に思っていると、父がもう一人来るかも知れないのだという。雨宮と同じく、父の部下の女性社員だという。仕事が片付けられたら、行きたいということらしい。どうも、幸子が思うより、父は会社の人に慕われているようだ。
カラカラ、と入り口が開く。大柄な男性ではなく、一人だった。まだ約束の時間には早い。幸子が座布団に座り直して父を見ると、笑顔になっている。驚いて振り返るとそこには、小柄ともいえる男性が立っていた。
身長は父と同じくらい、百六十センチ台半ばといったところだろう。黒いポロシャツとベージュ色の柔らかそうな生地のスラックス、茶色い革靴を履いている。手には黒いナイロンの鞄とスラックスと同系色のコート。鞄は大きさからして、パソコンが入っているのだろう。黒いポロシャツの襟から、薄ら日焼けした首が出ている。首から肩にかけては厚みがある。それほど筋肉質には見えない。緩やかに癖のある黒髪を少し長めに整えていた。
雨宮が靴を揃えて脱ぎ、小上がりに上がる。
「モリさん、退院おめでとうー。予定通り帰ってこられて良かったぁ。」
低めの柔らかい声で父に話しかけた。
笑うとキュッとカーブを描く目をしていて、いかにも楽しげだ。
幸子は、事前に想像していた人とあまりにも違うので、戸惑った。ぼうっと雨宮を眺めていると、こちらに向き直り先に挨拶をされてしまった。
「こんばんは。雨宮大介といいます。いつもモリさん…いや、森上さんにはお世話になっております。本日はご退院おめでとうございます。」
なんて心地の良い、優しい声なのだろう。
初めて会う男性が来るということで、緊張していた心が少しずつ解けていく。
「初めまして。森上の娘の幸子と申します。
毎日お見舞いしてくださったそうで…ありがとうございます。」
ゆっくりとお辞儀をした。幸子の顔が上がると、雨宮は真っ直ぐに幸子を見てニコリと微笑んだ。幸子も自然と笑みがこぼれる。
雨宮は父の隣に座った。幸子の右斜め前だ。さ、食べよう。父の声掛けで食事が始まる。
雨宮によると、同席したいと言っていた女性は、どうしても時間内に仕事が終わらず来られないという。
「僕も手伝ったんですけど、間に合わなくて…。すみません。」
深々と頭を下げる。流石の父も、慌ててそんな彼を止める。
さぁさぁ、と女将さんが料理を次々と運んでくる。お任せメニューにしたようだ。他にも食べたい物があったら頼めよと、父が幸子と雨宮に声を掛ける。
父の、雨宮が仕事終わりで腹が減っているだろうから、少しお腹にたまる物を先に出してくれというリクエストにより、から揚げやポテトサラダ、小さいおむすびが最初に運ばれてくる。続いて地魚の刺身やアラ煮。酢の物、煮物…。久しぶりに口にした玄界灘の海の幸は、どれも新鮮で美味しかった。
いつもなら、二人で酒を酌み交わすそうだが、今夜はソフトドリンクやお茶となった。父はしきりと雨宮に、気にしないで呑めよと言っていたが、雨宮は、今夜は良いんです。
モリさんが呑めるようになったら、また店に行きましょうと、お茶をすすっていた。
父は駆けつけてくれたことが、よほどうれしかったのだろう。アルコールが入らなくもよく喋った。
「大介に言われてから、あんまり早よ行かんごとしとる。」
何のことだろうと幸子が首を傾げていると、雨宮はニコッとした。
「うん、うん、それが良かです。」
全く話しが見えない。
「実はな、少し前に大介に注意されたんよ。俺が出勤するのが早すぎる。一時間も前に偉か人に来られたら、かなわん。若いもんは、もっと早く来なって気ぃ使うやろ。せめて20分前にしてくれって。」
幸子は箸で摘まんでいた刺身を、驚きのあまりポロリと落とした。
そ、そんなことを父に直接言うなんて。こんな気難しそうな上司に…。それを素直に聞いている父にも驚いた。二人ともニコニコとしながら幸子を見ている。もうこれは親子のようだ。その辺の親子よりも仲が良いのではないだろうか。雨宮は幸子より五歳年上だという。その後の二人のやり取りから、毎週のように二人で呑んでいること。雨宮は海が好きで、よく泳いでいて、海仲間がいること。野球の話や最近読んで面白かった本の話で盛り上がることを知れた。仕事の話しもするそうだが、それは出来るだけ職場内で済ませているらしい。「飯と酒はおいしく」これが二人の合い言葉だという。なんと健全な…と二人を見て、微笑ましく思った。それからは幸子も会話に加わり、海のことや高校球児だった時のこと、東京の美味しいお店など、話しが弾んだ。
食事が進み饒舌になった父がほんの少し、下ネタを話題にした。今にして思えば、前立腺全摘という選択をした父は、男の自尊心という物が傷ついたのかもしれない。まだ60才を超えたばかりだった。それを隠したくて、あえて色っぽい話しをしたのだろう。
幸子はその話題になったことを、それほど気にしていなかった。男性のそんな会話は、黙ってやり過ごすに限る。そう思い、食事に集中していた。
「モリさん、ちょっと…。お嬢さんいるのに、そんな話をして。大丈夫ですか。」
雨宮が幸子を気遣い、声を掛けた。
「大丈夫ですよ。もう、お嬢さんなんて歳ではないですし…。」
お嬢さんなんて言われたのは、何時ぶりだろうか。気恥ずかしくなり顔を伏せ、ずいぶんと可愛げのない返事をしてしまう。しまった…と後悔して目を上げると、そこには濃い茶色の瞳が心配そうに覗き込んでいた。一重にしては大きめの目をしている。瞳の奥の落ち着いた深い色が、幸子の心に染みるように広がっていった。
第六章 降るぼたん雪、揺れる瞳
食事をはじめて一時間ほど過ぎると、父がしきりと座布団に座り直すようになった。
相変わらずの笑顔で良く喋っているが、きっと傷口がうずくのだろう。皿に取り分けた刺身も、好物なのにあまり減っていない。そんなことが気になり始めた頃、ちょっとトイレに…と父が席を外した。
小上がりから降り店の突っかけを借りて、隅の方にある衝立の向こう側のトイレに消えた。視線を戻すと、雨宮も心配そうに父の姿を目で追っていた。ほんわかと胸の奥が温かくなる。家族と同じ温度で、父のことを気に掛けてくれている。雨宮と視線があった。
「モリさん、ちょっと…辛そうですね。そろそろお開きにしましょうか。」
「ありがとうございます、その方が良いかも。」
そう答えると、雨宮はゆっくり頷いて口もとで微笑んだ。
しかし…父のことだ。辛そうだから、そろそろお開きにしようなんて言ったら、俺は大丈夫だ、もう少し食べろよ。と言いかねない。
どう声をかけようかと、迷っているうちに父は戻ってきてしまった。
「モリさん、満腹になりました。何だか甘い物食べたいなぁ。頼んで良いですか。幸子さんも、どう。」
と、机の上にメニューを差し出している。
「お、甘い物いいねぇ。酒飲んでないしな。幸子も食べるか。」
メニューには、アイスクリーム各種、ゼリー、あんみつ、お汁粉まである。タカノさんは、居酒屋だけど子連れで来る人も多いのだと以前聞いたことがある。ご飯物のメニューも多いのは、そのためだったのだ。
父はあんみつ、雨宮はバニラアイス、幸子は桃アイスを頼んだ。
甘酸っぱい桃の風味が爽やかだ。温かい店内とご馳走をお腹いっぱい食べたせいで、身体が火照っている。ひんやりとしたアイスクリームが少しだけ熱を冷ましてくれる。
アイスクリームを食べ終わると、自然な形でお開きとなった。
店の前にタクシーを呼ぶつもりでいたが、百メートルほど先の駅に、タクシーがいつもいるという。百メートルなら大丈夫かな。そう判断した幸子は父と駅に向かうことにした。
雨宮は、会社の社宅に住んでいる。ここから徒歩で10分ほどなので、いつも歩いて帰るという。社宅は駅とは反対方向だという事だが、駅まで送るという。疲れているところ申し訳ないからと、幸子がやんわり断ったが、心配なのでと、こっそり耳打ちされた。耳打ちされた右耳がカッと熱くなっている。赤くなっていないだろうか。そんなことを思いながら、会計を済ませた。
「ありがとうございました。お気をつけて。」
大将と女将さんが見送ってくれる。
戸を開けると、痛いほどの冷気がぶつかってきた。思わず立ち止まる。暖簾をかき分け一歩前へ進む。遠くの街灯が暗闇を照らしている。真っ暗な空からは、雪が舞い落ちてきていた。水気の多いぼたん雪だ。ふわふわと、とめどなく降ってくる。
父が数歩前を行き、その後を幸子と雨宮が歩く。空を見上げた。天使の羽が天空から落ちてきているかのようだ。暗闇に浮かぶたくさんの羽。右に左に震えるように揺れながら、ゆっくりと落ちてくる。美しさに思わず出た溜息は、白く煙る。羽は地面に落ちるとすうっと消えてしまう。
シンと静まりかえった繁華街に、三人の足音だけが小さく響く。父に合わせた歩調だったのに、百メートルはあっという間に終わった。
駅前にタクシーの姿はない。降り始めた雪に驚いた人々が、先に乗ってしまったのだろう。 風は冷たく、次第に強くなってくる。術後の父を寒空の下、長いこと待たせるわけにはいかない。電話をかけて、タクシーを呼んだ方が良さそうだ。がらんとした駅前広場を見て、雨宮も同じように考えたようだった。コートのポケットからすっと携帯電話を出すと、指先は迷うことなく番号を押している。二言、三言会話を交わすと電話を切った。携帯電話をポケットに戻しながら言う。
「幸い近くに一台いるから、五分もしたら来るそうですよ。」
幸子を見、次に父の顔を見て、ホッとしたような口ぶりで伝えてくれる。
「ありがとうございます。寒いですし、大丈夫ですから、もう、これで…」
そう伝えると、雨宮は何も言わずにそっと幸子の横に立った。
父は、ちょっと吸ってくると言い残し、駅の階段下の喫煙場所へ行ってしまった。
ぼたん雪は、二人の肩にそっと乗る。次の雪が届く前にすうっと溶けて見えなくなってしまう。
そういえば、雨宮はずいぶんと薄着だった。ポロシャツ一枚にコートを羽織っただけだ。
大丈夫なのかと尋ねると、ポロシャツの上にいつも羽織っているカーディガンを職場に忘れてきたのだと言う。職場内は暖かいから、仕事中は脱いでしまう事が多いのだ、と言った。両方の手を、コートのポケットに入れている。幸子は、そういえば…と思い出し、自分のコートのポケットに入れていた小さな使い捨てカイロを雨宮に渡した。あったかいな、とうれしそうに言う。
暗闇を切り分けるように、強い光がこちらへ向かってくる。タクシーが到着したのだ。ちょうど父も戻ってきた。
先に父が車に乗り込む。やはり傷口が痛むのだろう。ゆっくりと動いている。その動きを背中で感じながら、幸子は雨宮にお礼を伝えた。
二人の視線が触れ合う。雨宮の穏やかな深く濃い茶色の瞳の奥が、激しく揺れている。じっと幸子を見つめるその眼差しは、何か言いたげだった。幸子は瞳の奥を見つめ返した。
雨宮が唇を開きかけた。その時、運転手の声が二人の静寂を破った。
「どちらまで」
幸子の意識は、雪の日の車内に戻された。
家の住所を運転手に伝える。バタン、と大きな音が響き、車は動き出す。
サイドミラーには、いつまでもいつまでも雨宮が映っていた。暗闇に紛れて見えなくなるまで、幸子は一心にその姿を目に焼き付けた。
エピローグ 戻らない瞳と泳ぎ着いた岸で
強いライトを上向きにした車が、猛スピードで幸子の脇を通り抜けて行った。雨に濡れた指先がぐっしょりと濡れている。寒い。濡れた玉子色のカーディガンの前をかき合わせる。ざぁざぁと音を立てて降り続ける、冷たい雨。クチナシの花は雨の重みに耐えている。
三日間の福岡滞在。その後東京へ戻ってからも、幸子は相変わらず、生きているのか死んでいるのか分からないような、重苦しい日々を送っていた。ただ、雨宮の瞳を思い出す時だけ、ほんの少し温かい気持ちになれた。時が過ぎるほどに、思い出す事が増えた。
変わらないように思えた生活に、少しずつ変化が起きていた。真面目に仕事に取り組む幸子を、直属の上司はよく労ってくれた。ちゃんと出来ていると、言葉で評価してくれた。
自信がなくいつも不安で足踏みしていた心が、ほんの僅かずつだが前に進み出したのだ。
そんなある日の午後。珍しく昼間に父からの着信があった。何かしらと、気楽に電話に出た。
「大介が、死んだ。」
何を言っているのか、理解が出来ず聞き返した。父は同じ言葉を繰り返す。
「大介が、死んだんだ。海で。」
世界から音が消えた。真っ白になった頭の中を、同じ言葉がぐるぐると回り続けている。
その後の数日間の記憶が、幸子にはない。
顔を見るのが怖くて、葬儀には参列出来なかった。
あの時。ぼたん雪の降る福岡で。雨宮は何を伝えたかったのだろう。聞いてみたいと、何度思ったことだろう。
もう戻らない雨宮のことを想いながら、幸子は精一杯、泳いだ。
征司と別れ、別の場所で人生をやり直すと決め、この北陸の地に辿り着いたのだ。
見下ろした雪のように白いクチナシから、甘やかな香りがする。
揺れる瞳の意味は、今となってはもう分からない。
「おかえりー」
一つ先の街灯の下から声がする。大きな傘の下には、陽一がいる。
小さな折りたたみ傘だけを持って出勤した幸子を心配して、陽一が迎えに来てくれたのだ。
「ただいま。」
そう言って、大きな傘の下に入り込む。陽一は、幸子よりも頭一つ分背が高い。
突然、強い風が巻き上がった。あっ、と思う間もなく大きな傘は裏返しになり、骨がポキポキと折れた。
「あぁ~…」二人同時に、声にならない声をあげる。六本中、二本が折れてしまったので、傘としての機能はもう果たせなくなってしまった。だらんと、やる気をなくした傘を見て、二人で笑う。
「やっぱり安い傘はダメかぁ…。次は、高級で頑丈なのを買おう。」
陽一はひとり、心に誓っている。
結局、幸子の小さな折りたたみ傘を二人でさして、小走りでアパートへ戻ることになった。パシャパシャと水しぶきをあげながら、歩道を進む。既にずぶ濡れなのだから、水たまりを避けても意味がないのだ。陽一は少しでも幸子に雨が当たらないようにと、傘を思い切り斜めにかざしている。
陽一がアパートの扉を開ける。室内の空気が温かい。
自分は後からで良いからと、先に幸子にシャワーで暖まるように促してくれる。
熱い湯で暖まり、手早く着替えて陽一の元へ向かった。彼もかなり冷えているはずだ。
台所の電気ポットから上がる湯気越しに、陽一が見える。オレンジ色の優しい照明の下で、陽一が微笑む。差し出した白いカップには、熱い紅茶が入っていた。
「ハチミツ入りだよ。」
甘く赤い紅茶。
そういえば。クチナシの西洋の花言葉はこうだった。
「わたしは幸せです。」
完
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