
娘の人生を娘に返すまで
プロローグ
娘の人生は、いつから私のものになっていたのだろう。娘はもう、21才だ。それなのに私は、今でも娘を守ろうとしてしまう。でも、守るとは、どういうことだろう。この1年間、私はその答えを探し続けていた。
娘の人生を娘に返すまで
第1部 恋をした娘、揺れる母
GWが明け、日差しが強くなってきた頃のある晩。仕事から帰ってきた娘が、弾んだ声で言った。
「お母さん、土曜日、梅田に遊びに行ってもいい?」
「いいよ。誰と?」
「職場の人。」
「女の子?」
「ううん。男の子。」
娘は療育手帳を持っている。
言葉で気持ちを伝えるのは得意ではない。特に人の名前など固有名詞を覚えるのは苦手だ。でも、感情はとても豊かで、その嬉しさは表情を見ればすぐにわかる。
職場の男の子に、
「笑顔がかわいいね」 「声がいいね」 「話しやすいね」と言われたらしい。
(口の軽い男だな。)
そう思いながらも、終始にこにこしている娘を見ていたら、それ以上は何も言えなかった。
翌朝から、娘は少しずつ変わり始めた。いつもならヨレヨレのTシャツを選ぶのに、
「土曜日は、かわいい服を着ていく。」
と言う。
口元のニキビを気にして、
「治るかな?」と聞いてくる。
「お腹いっぱい。」と言って、ご飯も半分しか食べない。きっと、お腹ではなく胸がいっぱいなのだろう。
夜になると、12歳の白黒ポメラニアンのポーちゃんを連れて散歩へ出かけた。
帰ってきたポーちゃんは、ぐったりしていた。
「今日はずいぶん歩いたね。」
「歩きたかったから。」
「もしかして、ダイエット?」
「うん😊」
恋をすると、人は変わるという。娘も、ちゃんと恋をして変わっていた。
初めてのデートから帰ってきた娘は、ゲームセンターで彼のプレーを応援したこと、マクドナルドでお昼を食べたこと、そのあとカラオケへ行ったことを、嬉しそうに話してくれた。
そして最後に、小さな声で言った。
「しあわせ💗」
その一言だけで十分だった。
娘は、本当に幸せだったのだと思う。私は、その幸せを応援したかった。でも同時に、小さな不安も芽生え始めていた。
カラオケ代は、娘が全部払ったという。
「半分ずつじゃなかったの?」と聞くと、
「カレシがお金ないって。」と笑う。
私は、お金のことだけはきちんとした方がいいと彼に伝え、後日、半分は返してもらった。
けれど、そのたびに娘は、
「いいの。」
「やさしいもん。」と言う。
そして、私が何か言うたびに、娘は彼に
「ごめんね。」と謝る。
(謝るな。)
心の中で、何度もつぶやいた。
人を好きになることは、とても素敵なことだ。でも、好きになればなるほど、自分より相手を優先してしまう娘が心配だった。
「一緒に暮らしたいね。」
そんな言葉まで聞こえてきた頃、私は応援したい気持ちと、守りたい気持ちの間で揺れていた。
カレシよ。娘は、私の大切な娘です。言葉は少し苦手ですが、一生懸命あなたを好きになっています。だから、どうか大切にしてください。
そう心の中で祈った。
けれど、この恋は長くは続かなかった。
21歳の誕生日の前夜。娘の初恋は終わった。「理由は、LINEがしつこかったから」、だったらしい。
娘はたくさん泣いた。
でも翌日は、手巻き寿司とチョコレートケーキで21歳の誕生日を祝った。
「お誕生日おめでとう!また新しい恋を見つけよう。」と励ました。娘は大好きなシーチキンの手巻き寿司を頬張った。その姿を見て、私は少し安心した。
この恋は終わった。でも、私の中には、一つの宿題が残った。
娘は恋をした。この恋の先にある「対等な関係」を一緒に学んでいかなければならないと思った。
第2部 娘と一緒に、人との距離を学ぶ
失恋から三か月も経たない頃だった。
「元カレが、トモダチだから遊ぼうって言ったから、遊びに行ってくるね!」
娘は、何事もなかったように言った。
(やめておいた方がいいんじゃないかな。)そう思ったけれど、口には出さなかった。
恋も友情も、人との距離も、娘自身が経験しながら覚えていくしかないと思ったからだ。
秋のある晩、仕事から帰ると、家の前に三つの人影があった。
娘と、元カレのTくん。そして、その友達のHくん。二人とも笑顔で「こんばんは」と挨拶してくれた。元カノの母親にも自然に話しかける、その距離感に少し驚いた。
でも、暗闇の中で娘がゲラゲラ笑っている声を聞いたら、「まあ、いいか。」そう思えた。
それから、不思議な付き合いが始まった。
みんなでたこ焼きパーティーをしたり、映画村へ行ったり、ボウリングへ行ったり。
私は少し離れたところから、その三人を見ていた。その頃から、二人の違いが少しずつ見えてきた。
Hくんは、気前がよかった。
入場料も、お昼代も、ためらわずに払ってしまう。娘が困っていると、自然に手を差し伸べる。
一方、Tくんは「お金がない」と言いながら、自分の好きなゲームや推し活にお金を使う。そして、Hくんが払うと分かっている場所には来る。
娘は、その真ん中にいた。
ある日、娘が、
「今日ね、ボウリングもゲームも全部Hくんが払ってくれた。」と言った。
私は
「それはダメだよ。」と答えた。
友達なら、自分の分は自分で払う。払えないなら、払える範囲で遊ぶ。それが対等な関係だと思ったから。
娘は、その日のうちにHくんへ電話をかけた。
「お母さんが返しなさいって言ってるから。」少し照れながら、ちゃんと伝えていた。
それでも、年末には返す約束を後回しにしようとして、私に叱られ泣いたこともあった。
でも翌朝、自分から
「今日、返してくる。」と言った。全部分かったわけではないだろう。それでも、一歩進んだ気がした。
もう一つ、忘れられない出来事がある。
娘は花粉症がひどく、
「今日はしんどいから早く寝るね。」
とTくんに伝えた。
それでも話を続けようとするTくん。娘はTくんと、仲直りして復縁していた。その甘えもあったのかも知れないが、娘がもう一度
「ほんとにしんどい。」と言った途端、電話は切れた。
娘は少し寂しそうに、
「切れちゃった💧」とつぶやいた。
そのあとHくんへ電話すると、
「大丈夫?声もしんどそうだね。」
「今日は早く寝な。」
その一言だけだった。
私は心の中で、
(どちらが娘を大切にしてくれているか、気づいてほしい)と思った。
でも、その言葉は飲み込んだ。
恋は、人から教えてもらうものではない。自分で気づくものだから。
春になる頃、岡山旅行の計画が持ち上がった。
ところが前夜になって、Tくんは
「金がないから行かない。」と言い出した。さらに、「Hも行かない。」と勝手に巻き込んだ。
娘は泣いた。
その夜、娘は私のベッドへ潜り込んできて、泣きながら眠った。
翌日も、Tくんの言葉に娘は何度も涙を流した。
そんな娘を励ましていたのは、またHくんだった。
「○○ちゃんが泣いているより、笑っている方がいいから。」
その一言に、私は救われた。
温かいはちみつレモンを作り、クラッカーにクリームチーズと苺ジャムをのせて娘の部屋へ持っていく。娘は黙って食べ、少しだけ笑った。
人との距離は、近ければいいわけではない。優しければいいわけでもない。
大切なのは、お互いを一人の人として尊重できること。「対等な関係」とは、きっとそういうことなのだ。私は娘に、それを伝えたいと思っていた。
でも同時に、もう一つの問いも心に芽生え始めていた。
私は娘に「対等な関係」を教えようとしているけれど、私は、娘と本当に対等な親子でいられているのだろうかと。
第3部 初めて手を離した8日間
「出ていけ!」言った瞬間、取り消せないと分かった。でも、取り消さなかった。
きっかけは、よくあると言えばよくあることだった。娘はカレシや友達と過ごしたい。私は、少しは家族の時間も考えてほしい。そのズレが、一気に表に出た。
言い合いになり、娘が玄関の置物を蹴った。それが当たって、私は打撲した。
娘はすぐに動いた。
荷物をまとめ、友達に連絡し、迎えを呼んだ。着替え、DVD、Switch、バスケットボール、スーツケース。そして、お兄ちゃんからのバレンタインのお返しでもらったポテトチップス大袋12袋を持っていこうとしたが、かなりかさばったようだった。
玄関で娘が、
「ポテチ、明日取りにくるから置いといて」と言った。
「もう帰ってこなくていい」そう言うと、そのあと少しガサゴソ音がして、ドアが閉まった。そして、ポテチの入っていたダンボールだけが残った。
ベランダの隙間から外を見ると、夜の9時過ぎだというのに、Hくんが自転車で来ていた。荷物を山のように積んで、颯爽と走っていく。初めての家出なのに、段取りがいい。
(この子、ちゃんと生きていく力がある)。怒りと心配の中に、そんな感情が混ざっていた。
翌朝、自分だけのためにフレンチトーストを焼いた。粉糖とメープルシロップをたっぷりかけて、甘いカフェオレを入れた。久しぶりに、甘いものが食べたかった。
電話を切ったあと、なぜか料理を始めた。シチュー、カレー、ミニトマトのピクルス、トマトソース、紫たまねぎの酢漬け。バナナブレッドを焼いて、おからを煮た。気がついたら夕方だった。どうしてこんなに作ったのか、自分でも分からない。そして、娘がいない家を出て、岡山へ向かった。
岡山に着いてLINEを開くと、娘から「通帳がほしい」とメッセージが届いていた。
やっと連絡が取れた父親には「通帳がないと生きていけないから」と言ったという。
胸がザワリとした。娘はこれまで、通帳の出し入れをしたことが一度もない。なのに…。
大阪を出る前、なぜか嫌な予感がして、家にある通帳や現金をすべて持ち出していた。その予感は、当たっていた。
翌朝から電話をかけ続けた。銀行、職業訓練校、支援センター、警察、市役所。「成人なので対応できない」「本人の意思が優先される」「民事には介入できない」。守れると思っていたものが、現行の制度の中では守れない現実を知った。親としての限界を痛感した。その現実が、じわじわと体に染み込んできた。
眠れない夜が続いた。LINEが既読にならない。大阪の家を家探しされたかも知れない恐怖。行方不明届を出すべきか考える。娘を信じたい気持ちと疑う気持ちが交差した。大阪の家が心配だった。娘に会うのも怖い。会わないのも怖い。いつ戻ればいいのか、戻って大丈夫なのか。考えても、答えが出なかった。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。元に戻りたい。喧嘩しながらも、それでも娘と一緒に暮らしたい。ただ、それだけだった。
3日目。娘がバスケに行ったかどうか心配で、責任者の方にメールを送った。返信が来た。
「いつもよりは少しおとなしい気はしたけど、普通にプレーしてたと思います。」
えらいな、と思った。
家を出ていても、決めたことはちゃんとしようとしている。娘のその芯に感心した。
その日、寒かったので、長袖のシャツを買いに出かけた。店の中を歩いていたら、娘のイメージにぴったりのバスタオルが目に入った。思わず、買ってしまった。いつか一人で暮らすことが決まったときに、渡せたらいいなと思った。
「帰りません」というLINEを見ながら、バスタオルをたたんで眺めていた。
4日目、娘から電話があった。声は、元気がなかった。全然、元気がなかった。でも、声が聞けたことが嬉しかった。
話の途中、背後で小さな囁き声がした。確認すると「カレシ」と言う。娘の言葉をなぞるように、タイミングよく入り込んでくる。「ささやきカレシ」だ。船場吉兆の"ささやき女将"を思い出した。でも、その場では問い詰めなかった。今、大事なのはそこではないと思ったから。
Hくんのお父さんとも話せた。
「GWの間はこちらで預かります。GWが終わったら帰しますので」。その言葉に、どれほど救われたか。
5日目、娘から電話があった。今度は声に力があった。
「6日の昼に、荷物を取りに来てほしい。自分は自転車で帰る。」電話をHくんに替わってもらって、
「Hくんがいたから安心してた」と伝えたとき、背後からカレシの声がした。
「みんなだよな」——お前には言っとらーん。心の中で、しっかり突っ込んだ。
翌日、お稲荷さんと具だくさんのお味噌汁を作って、荷物を受け取りに行った。
「みんなで食べてね」と渡すと、みんなの顔がぱっと明るくなった。娘はぶっきらぼうだった。きっと、いろんな気持ちがあるんだろう。でも、それを今、言葉にしなくてもいい。
たぶん、お腹をすかせて帰ってくる。だから、帰ってきたら、温かいごはんを用意しておこう。ひとくちカツと、新玉ねぎのフライでも作ろうかな。それくらいが、ちょうどいい気がした。
娘が帰ってきたのは、19時過ぎだった。しかも、カレシとMちゃんも一緒に。なぜまっすぐ帰ってこないのか、よくわからない。でも、元気そうだった。
揚げたてのひとくちカツを頬張りながら、娘が言った。
「お母さん、まだ怒ってる?」答えなかった。娘はぽつりぽつりと話してくれた。ごはんは2回炊いた。お風呂は毎日銭湯に行った。シャンプーとリンスはHくんの家に置いてきた。また行くと思うから。
聞きながら、不思議な気持ちになった。家を飛び出して行った数日間。娘は、楽しかったらしい。
夜になると、娘は私のベッドに潜り込んできた。二人でお兄ちゃんの結婚式の動画を見た。笑いながら「これ、なつかしいね」と言いながら、そのまま眠った。
家を出たい気持ちと、家にいたい気持ち。娘は今、その両方を抱えている。そして私も、その間で揺れている。「出ていけ」から「ひとくちカツを作って待つ」まで。この8日間で、一番変わったのは、娘ではなかった。
私だった。
第4部 娘の人生を娘に返す日まで
今晩も、娘はカレシや友達とLINE電話をしている。部屋からは、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その声を聞きながら、ふと、あの家出の騒ぎは、一体何だったのだろうと思う。
GWの8日間、私は生きた心地がしなかった。
関係機関へ電話をかけ続け、娘の命と財産と将来を守ろうと必死だった。
でも娘は違った。
GWが終われば仕事へ行くつもりだった。バスケにも行った。支援センターとも連絡を取っていた。家を出ていても、自分で決めていたことは、ちゃんとやろうとしていた。しかも友達と笑いながら過ごしていた。
今なら少し、笑ってしまう。娘は、私が思うよりずっと、生きる力を持っていたのだ。
私が必死に張り巡らせた包囲網など、娘にはほとんど関係なかったのかもしれない。娘は、自分で決め、自分で動いていた。
あの家出は、娘が初めて自分の人生を、自分で選んだ出来事だったのだと思う。
そして同時に、私が娘の人生を娘に返し始めた日だったと思う。娘の家出がなければ、私は娘の人生をずっと握っていたかもしれない。
あれほど私を震え上がらせた「通帳がないと生きていけない」という言葉は、それ以来一度も聞いていない。
給料日には、今まで通り「お金下ろしてきてね」と言うだけだ。
「一人暮らしをしたい」というのも「グループホームで一人暮らしの練習をしてから考えよう」と言ったら、以前職業訓練校で体験したグループホームが大変だったらしく、「グループホームはイヤ」の一言で終わり、その後一切話題にも上がらない。
家出をしたとき、バスケの後、コンビニで変な人に絡まれたとき、過呼吸になったというが、それも全くない。
あの8日間は、何だったのだろう。
娘は、飛び立とうと羽を試していた。私は、その羽ばたきを見守る練習をしていたのかもしれない。
衣装ケースには、あの日買ったバスタオルが、今も入っている。
家出の最中、娘からの「帰りません」というLINEを見て、悲しい気持ちを抱えながら、私は娘に似合いそうなバスタオルを買っていた。いつか一人暮らしを始める日に持たせようと思って。
「もう帰ってこなくていい。」そう言って怒った母親が、その数日後には娘の新しい生活を想像しながら買い物をしていた。
なんとも矛盾している。何をやっているだろうと、笑ってしまう。
でも、あれが本当の私だった。怒っていても、応援したかった。信じていても、心配だった。その二つは、どちらか一つになるものではなかった。
信じることと、心配することは、一緒に存在できるのだと、私はあの8日間で知った。
振り返ると、私自身も若い頃は親に反対され続けた。
大学進学も、美術の道へ進むことも、実家を出ることも、初めての海外に一人でシリアやヨルダンへ旅に出ることも。
「危ない。」「それで食べていけるのか。」何度もそう言われた。それでも私は、自分で決めて歩いた。失敗もした。遠回りもした。
でも、自分で選んだからこそ、その人生を納得して受け入れることができた。
娘もきっと同じだ。きっと転ぶ。失敗もする。傷つく日も来る。でも、それは娘の人生だ。私が代わりに歩くことはできない。
そして、娘の家出をきっかけに、私は自分自身についてもうひとつ驚いたことがある。私が恐れていたのは、娘ではなかった。私が本当に恐れていたのは、この社会だった。
障害のある娘が、この理不尽で、ときに意地悪で残酷で、複雑な社会の中で深く傷つき、立ち上がれなくなること。それが、ずっと恐かったのだ。
だから私は、先回りをしてきた。転ばないように。傷つかないように。失敗しないように。守るとは、そういうことだと思っていた。
でもその守り方は、娘から失敗する権利まで奪っていたのかもしれない。
そんな私に、もうひとつ教えてくれた存在がいる。Hくんだ。
約束を守る。人の役に立ちたいと自然に思う。見返りを求めず、人を気遣う。
私は彼を見ながら、社会は恐い人だけでできているわけではないと思った。こういう人も、この社会にはいる。娘が出会う社会は、残酷さだけではない。そのことを、私はHくんから教えてもらった。
小さな頃は、娘の手を離さないことが私の役目だった。
でも今は違う。少しずつ手を放していく。その代わり、目だけは離さない。
娘が転んだとき、迷ったとき、「お母さん~」と振り返ったとき。そこには、ちゃんといたい。抱きしめて、「大丈夫だよ。」と言える母でいたい。それが、今の私にできる守り方なのだと思う。
「娘の人生を娘に返すまで」
このタイトルの「まで」という言葉を、私は何度も考えた。
最初は、「返すまでに、私は何をしてあげればいいのだろう」と思っていた。
でも今は違う。
娘に人生を返す、その日まで。娘が困ったときに振り返る場所として、生きていたい。手を差し伸べられる母でいたい。そう思うようになった。
手を放す覚悟は、まだ完全にはできていない。バスタオルも、まだ渡せていない。
それでも。
娘が家を飛び出したあの日、「もう帰ってこなくていい」と言った私が、GWが終わって、家出が終わって帰ってくる娘を、ひとくちカツを揚げながら待っていた。
私は、少しずつ手を放していこうと思う。でも、目だけは離さない。それが今の私にできる、娘への愛情だから。
エピローグ
今でも、ときどき娘は私のベッドに潜り込んでくる。
「手、つなごう」そう言って眠る。小さかった頃と何も変わらない。
でも朝になると、娘は自分で仕事へ行き、友達に会い、恋をして、笑って帰ってくる。少しずつ、自分の人生を歩いている。私は、その後ろ姿を見送る。
手は放す。でも、目だけは離さない。
「娘の人生を娘に返すまで」。
この「まで」は、終わりを表す言葉ではなかった。娘が困ったとき、振り返れば帰れる場所であり続けること。
その日まで。
いや、その先も。
私は、娘の母でいる。