幸せの基準(短編小説)
叔母が倒れた、と聞いたとき、最初はうまく意味が入ってこなかった。
ただ、足が勝手に動いた。
仕事中だったけれど、早退して家に向かった。前の日に見た、少し気になっていた様子が頭から離れなかった。
数日前から、足がひどくむくんでいた。疲れだと思いたくて、思いつくことは全部試した。それでも良くならなかった。
胸の奥が落ち着かなくて、結局、病院に連れて行った。
検査のあと、すぐに入院が決まった。
レントゲンの白い影を見せられながら、医師の言葉は遠く感じた。理解はできても、実感だけが遅れていた。
その日は一度家に戻った。
夜、電話が鳴った。
病院からだった。
気づけば母を起こし、車で病院へ向かっていた。
夜の道はやけに静かで、時間の感覚が曖昧だった。
到着して数時間後、叔母は息を引き取った。
あまりにも早かった。
葬儀は静かだった。
人は多く来ていた。みんな口を揃えて、叔母のことを言った。
真面目で、誠実で、よく働く人だった、と。
そのどれもが正しい。
正しいけれど、それだけでは言い尽くせない気がしていた。
祭壇の前に座る。
写真の中の叔母は、いつもの顔で笑っていた。
派手ではない。誇らしげでもない。ただ静かに、そこにいるような笑顔だった。
その顔を見ていると、胸の奥に引っかかっていたものが少しずつ形を持ちはじめる。
——本当に、それでよかったのか。
もっと自分のために生きられたんじゃないか。
そう考える自分がいる一方で、それを考えること自体が間違っている気もした。
叔母の人生を、誰かが勝手に測っていいはずがない。
そう思うと、何も言えなくなる。
家に戻ると、空気はいつも通りだった。
整えられた部屋。
静かな台所。
そこに、何も変わらない時間が残っていた。
引き出しを開けると、封筒がきれいに並んでいた。
大学の費用、生活の記録。
その中に、小さなメモがある。
「今月は少し余裕あり」
そんなはずはない、とすぐに思った。
夜遅くまで働いていた背中を知っている。
余裕なんて、どこにもなかったはずだ。
それでも、その文字は確かにそこにあった。
叔母は理容師だった。
髪はいつも短かった。
耳にかからないくらいの長さが好きで、「こっちの方が楽だから」と笑っていた。
仕事柄、自分で切ることも多かったけれど、なぜか私にも切らせた。
「ちょっとだけでいいから」
そう言って、椅子に座る。
慣れているわけではない。鋏を持つ手はいつも少しだけ緊張していた。
それでも叔母は、何も言わなかった。
終わると鏡を見て、ただ一言、
「うん、いいね」
そう言うだけだった。
倒れる少し前にも、同じように髪を切った。
「もう少し短くして」
それが最後の言葉だった。
切り終えると、指で軽く髪を触って、
「これくらいがいいんだよね」
と、いつものように小さく笑った。
それが最後になるとは思わなかった。
棺の中の叔母は、静かに横たわっていた。
髪は整えられ、いつも通りの長さにされていた。
耳にかからない、あの短さ。
見た瞬間、息が詰まった。
ああ、と思った。
ちゃんと、この人のままだ。
そのことに、少しだけ救われた気がした。
人はよく言っていた。
いい人だった、と。
その言葉に嘘はない。
けれど、その言葉の奥に、何かが置き去りにされている気がした。
幸せだったのかどうか。
それを他人が決めることはできない。
「俺は」
声に出すと、少しだけ震えた。
「幸せだったよ」
静かに言う。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
それでも続ける。
「ずっと、幸せだった」
少し間を置いて、
「……だからさ」
喉が詰まる。
それでも、最後まで言う。
「それで、いいじゃん」
それ以上は、もういらない気がした。
人の幸せを、人が勝手に決めることはできない。
それでも、自分の中にだけは確かに残っているものがある。
この人と過ごした時間の中で、何度も救われていたこと。
それは、揺るがない。
「ありがとう」
小さく、もう一度。
今度は、少しだけはっきりと。
それで終わりにした。