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心を言葉に残すなんて、もう二度としないと決めたのに

    「こんなん、黒歴史にしかならへん」
    自分に言い聞かせるようにつぶやいて、山のように積まれたノートや紙の束を次々とビニール紐で縛っていく。

    5歳のころ、ピアノのクリスマス会でもらったノートに書いた絵日記があった。
    6歳から8歳ごろまでにつくった自作の絵本は、自らの手でナンバリングされていて、20冊近くあった。
    小学校高学年から高校生ぐらいの間に、物語や詩を書き溜めた創作ノートもあった。

    1ページ1ページに、文字のひとつひとつに、その時代を一生懸命に生きていた私の心があった。

    つたなく、とがった、幼い表現を読み返すと、恥ずかしさがこみあげた。それと同時に、自分の書いたものからしか得られないあたたかさや安心感も感じていた。


    これはただの、なつかしさだと思っていた。
    そして、ここに留まっていてはいけないと考えた。

    私はまもなく結婚し、この家を出る。
    夫に見せられないものは、今きっぱり手放すべきだ。
    これからは黒歴史とは無縁の、誰にでも見せられるクリーンな私だけで生きていくんだ。

    後ろ髪ひかれる気持ちをかたい決意で押し返し、私は人生の初期に大切にしていたものたちを、すべて捨てた。

    このとき私は、自分が捨てたものが生命力のよりどころだったなんて、全く気づいていなかった。


    1. 本当は心と向き合いたくなんてなかった

    八方ふさがり

    電話が一斉に鳴る。
    肩にぎゅっと力が入る。
    きっちり1コールで受話器を上げる。
    目の端に、マナーに厳しい先輩の横顔をとらえている。


    そこそこ大きな会社の花形部署に勤める、社会人3年目。
    職場の人たちとも、学生時代からの友人とも、関係は良好。
    社会人1年目のときに結婚した夫とも、仲良く暮らしている。

    仕事終わりに習い事をしたり、休日に友人とランチに出かけたり。綺麗めブラウスに膝丈のスカート。先のとがった6cmヒールのパンプス。見た目にだって手抜かりはない。


    そんな完璧を装う日々の中に、誰にも言えない悩みがあった。

    それは、社会人として当たり前のコミュニケーションーーメールや電話や会議、そのすべてが異常といっていいほど怖いということだった。

    仕事を進めるためには、名前しか知らない人にお願いしたり、質問したりしなければならない。そんな社会人としての日常に、バンジージャンプを求められているような底知れない恐怖を感じていた。

    本当は一刻も早く、ここから逃げ出したい。
    でも転職活動をするほうが、今よりもっと怖い。
    進んでも退いても、怖いものしかない八方ふさがり。

    表向きは、うまくやれているのに。
    私の心さえ変われば。みんなと同じように、普通の仕事を普通の心持ちでできるようになれば、すべては丸く収まるのに。


    そんな願いもむなしく、仕事の責任が増えるにつれて、身体が明確に悲鳴をあげるようになった。それは生まれて初めて体験する、慢性的な体調不良だった。

    しつこく残る肩こりに、PC画面が見られないほどの目の疲れ。
    しょっちゅうやって来る片頭痛。
    歯ぎしりで歯が欠けて、気づいた時にはそこが虫歯になっていたり、日曜日の夕方に余暇を阻むほどの動悸がしたり――。

    当時は日々の不調をうとましく思うばかりだったけれど、私の心のことはいつだって、頭よりも身体のほうがよく知っていた。


    最初の転機

    わらにもすがる思いで、知人に紹介された整体院に通うようになった。

    ふわふわとした癖毛が印象的で物腰も柔らかだけれど、なんだかミステリアスな鍼灸師さんが担当だった。

    彼はいつも丁寧に身体の状態をみてくれたけれど、同じぐらい丁寧に私の体感を質問した。彼の問いはそれまでの人生で考えたこともなかったようなものが多く、私は少しイライラした。プロなのだから身体を見たり触れたりすればいろいろとわかるのだろうし、早く私の不調を取り除いてほしいと思っていた。

    感覚なんて不確実なものをなるべく排除して、思考で全てをコントロールしようとするのが、私のそれまで身につけた生き方だったから。

    とはいえ、人とぶつかることを恐れる私のこと、そんな本音は言えないまま半年ほど経った。渋々ながらも自分の身体に注意を払う習慣がつき、少しずつ体調は上向いていった。


    そのころ、右の肩甲骨まわりの痛みが気になっていた。激痛というほどではないけれど、寝ても覚めてもとれない。整体院でも処置を工夫してくださったけれど、改善はなかなかみられなかった。

    そんなある日、彼は唐突にこう問いかけた。
    「10代のころのトラウマはありますか?」
    変なことを聞く。10年以上前の話をそんな今さら、と思った。

    釈然としない気持ちで電車に乗って帰宅し、遅めの夕飯を食べるころ、彼の問いかけはやっと私の内側に届いたらしい。ずいぶん長い間、封印していた感情たちが、この問いかけに反応して動き出していることに気がついた。

    それは中学時代にずっと感じていた重苦しさだった。
    周囲に強烈な劣等感を感じながらも、自分の心を守るために必死にプライドを保ち続けていた日々。
    自分を好きになることは驕りだと信じ、ひたすら自分を否定した。
    母に対して抱く怒りと悲しみがないまぜになった感情は、時にマグマのようにあふれ出した。
    そんな傷つきやすい心を誰に見せることもできずに、詩を綴った。

    大学生になって、社会人になって、結婚して。
    満ち足りた日々の中で、なかったことにしようとしていた心の欠片だった。

    とっさに目をそらしたくなった。
    もう一度、封印しなおしたかった。
    でも、その気持ちをぐっとこらえて、かつての心に向き合ううちに、これまで考えたこともなかった答えが一筋の光のように現れた。

    あのころ、「私は私のままでいい」と認めてもらいたかったんだ。
    せめて自分だけでも、「私はいつでも私の味方」だって言ってあげればよかったんだ。

    それは生まれて初めて、いたわり受け入れる言葉を自分自身にかけようと思った瞬間だった。

    「私はいつでも私の味方」
    涙がこみあげそうになる衝動を抑えて、この言葉をおまじないのように何度も唱えながら眠りについた。


    翌朝、数か月間ずっと悩んでいた肩甲骨の痛みは、嘘のように消えていた。
    嬉しいような、悔しいような気持ちだった。

    この経験は、私の認識を180度ひっくり返した。
    心の持ちようが身体に与える影響なんて微々たるものだと思っていたけれど、どうやらそうとは言えないらしい。


    なかったことにした夢に向き直る

    「夢ってありますか?」

    痛みが消えた体験から数週間後、鍼灸師の彼は相変わらず感情の読めない口調で、こんな問いをその場に置いた。

    とっさに乾いた笑いを返した。今のつらさから逃げたい、安全な場所に行きたい――それだけを願う日々に、夢をみるなんてナンセンスだと思ったから。


    帰り道、少し軽くなった身体で駅前のロータリーを歩いていると、長い間忘れていた事実を思い出した。

    私の夢は幼いころからずっと、作家になることだった。
    誰にも言ったことはない。人に聞かれたときはいつだって、それらしい答えを別に用意していた。だけど心の奥底で、それ以外の職業に憧れたことはただの一度もなかった。

    成長するにつれて、誰でもがなれる職業ではないと知った。
    だから大学入学を機に、きっぱりあきらめたつもりでいた。
    書きたいものも書けるものもない自分には才能がないのだから、目指しても傷つくだけだと納得させた。


    じゃあ今の私は、どう思っているのだろう。

    ――やっぱりまだ、書きたい気持ちは確かにあった。
    だけどこの夢をなかったことにした日とまったく同じように、書きたいものも書けそうなものも何もないと思った。その空虚さが痛かった。

    今の延長線上を歩むかぎり、私にはこれまで手に入れたいろんな肩書きがある。
    安定した会社、花形の部署、華やかな交友関係――それが真に幸せと感じる自分ならどんなにいいだろうと思った。

    でも、現実の私は、この状況から逃げ出したくてたまらない。
    会社員生活のありふれた日常が怖くて仕方ない。


    この閉塞感を抜け出す道が、文章を書くことの先にあるのだろうか。
    なかったことにした夢をもう一度追いかけてみたら、何かが変わるのだろうか。

    心が変われば、身体も変わる。そう身にしみたあとだったから、もっと元気になりたければ文章を書いてみるしかないと思った。

    思えばこれが、覚悟を決めた瞬間だった。
    傷ついた過去を封印し、わかりやすく綺麗な表層だけの自分で生きようとするのをやめ、自分の内面に向き直ろうと決めたのだった。


    その日から時間の使い方を変えて、読書やブログの執筆に時間をさくようになった。

    現実はすぐには変わらなかった。仕事は相変わらず怖いままだったし、文章も思うようには書けなかった。

    それでも、長い間無視してきた夢に焦点をあわせたことで、心の歯車がほんの少しだけ噛み合いはじめた気がした。


    2. 心に潜る

    電子書籍をつくる

    カーテンを閉めて薄暗くしたリビングで、息子がお昼寝をしている。
    その静けさを破らないようそっと、でも手早く裏紙の束の上にペンを走らせていく。


    息子を授かった頃から、私は焦っていた。
    我が子には、自分の思う道を自分らしく歩んでいってほしいと思う。

    その願いは本当だけれど、今の自分の背中は全く違うものを雄弁に語るに違いない。会社が怖くて、ただ逃げたい。だからといって、やりたいこともない。作家に憧れるといっても、書きたいものがあるわけでもない。そんな心を抱えたまま子どもと接したら、いずれよくない影響を与えるだろうと思った。

    育休で会社から離れている今のうちに、自分の心を何とかしなければ。
    何をすればいいかなんて分からない。でも唯一の突破口があるとすれば、作家になる夢だと思った。そこで息子が1歳になる頃、電子書籍でエッセイ集を発売することに決めた。

    産後の身体は何かが歪んだままのようで、日々の抱っこも相まって腰や背中がいつも痛かった。息子はベッドで寝るのが苦手で、まとまった睡眠を取ってくれず、つきあうこちらもやっぱり常に眠かった。

    それでも細切れの時間をつなぎ合わせて、言葉を集めた。最初はぎこちなかったけれど、やがて自分の中から思いがけない言葉が見つかる瞬間が訪れるようになった。そのたびに、静かな興奮を覚えた。


    私が作品を書くにあたって読者の方に示すと決めた誠意は、自分の心から逃げずに向き合うことだった。
    ドラム缶の中に詰めて暗い海の底に放り出したかのように、二度と思い出したくなかった中学時代のこと。表向きは良好な関係だけれど、思い出すだけで気が重くなる母親のこと。そして仕事上の一般的なコミュニケーションが怖くて仕方ないこと。

    言葉を見つけるたびに、私は私のことをより深く知っていった。その過程で、私の中に確かにあったはずなのに、なかったことにしてきた感情がどれほど多いのか、嫌というほど思い知った。


    電子書籍を発売するという目標を立て、覚悟をもって自分の心と向き合う日々が私にもたらしたものは大きかった。

    それは、私の心の根底に「ただの私は誰にとっても不要な存在だ」という思いが流れ続けているという気づきだった。
    そしてそれが根底にあることで、関わる人みんなが私を厳しく評価しているように感じられ、そのせいで仕事上のありふれたコミュニケーションに恐怖を覚えているということだった。

    「ただの私は不要な存在」なんて、とても孤独で意識するだけで足元が冷たくなるような設定だ。だけど、私はどうしてもそれを捨てることができなかった。

    人生の序章で経験したことをつなぎ合わせると、この設定こそが私にとっての真実で、たとえそれがいかにナンセンスで痛みを伴うものだとしても、勝手に投げ出すことは許されていない気がした。

    この息苦しさとともに、これからも歩んでいくしかないのだろうか。
    どうしようもなく大きな課題をつきつけられたように感じた。


    助けを借りて、さらに奥へ

    「ただの私は不要な存在」という呪縛を解き、仕事が怖くない状態になるには、人と関わってその反証を見つけていくしかない。

    諦めに近い納得を得た私は、育児の合間を縫って、オンラインで対話型の講座を受けたり、セッションを受けたりするようになった。

    緊張に身を固くしながらも、ノートパソコン越しに新たな出逢いを求めた。私にはない言葉や感覚を知っている人を、当てもなく探した。


    その甲斐あって、心強い味方に出逢った。
    彼女は15歳ほど上の女性で、家庭教師を仕事とされている方。ご自身の心にも、そして子どもたちの心にもとてもまっすぐに向き合ってこられた方だった。先生らしくハリのある声は安定感や強さを感じさせる一方、言葉の端々にひとりひとりへの尊重が感じられるところに惹かれた。

    やがて彼女の手引きで、根強い恐怖の感情と向き合うことになった。


    失敗したり不機嫌を向けられたりすると「取り返しのつかないことをしてしまった」と狼狽する。
    相手の顔が曇ると「怒らせたかもしれない」と不安になる。
    不十分な私はここにいさせてもらえない。また居場所を失ってしまう。
    心臓にキンとした痛みを感じる。足元から冷たさが上がってきて、地面に立っている感覚がしなくなる。

    怖くて悲しくて恥ずかしくて、一刻も早く抜け出したい。


    彼女は私の言葉をひとつずつ受け止めて、さまざまな問いを投げかけた。問いの角度を変えたり、ご自身の経験談もまじえながら、私の身体の言葉を待っているようだった。

    そんなこと知る由もない私は思考をうんと巡らせて、「そんなこともう解決済みですよ」とばかりに、平気なフリをした。
    実際は全く解決していない恐怖の感情がそこにあって、彼女はただその1点に響く言葉を待ち続けていたのだと思う。

    そんなやりとりを何度か繰り返すうち、思い出した。この恐怖の原型になった、たった1つの出来事を。


    3歳ごろ、母に怒られてアパートの玄関から閉め出された。
    あたたかく明るい部屋から、あっという間に暗く冷たい外に放り出される。
    重いドアが閉まって、ガチャリと鍵が無情な音を立てる。
    はだしの足にコンクリートの冷たさがじかに伝わり、不安と恐怖で体がいっぱいになる。

    アパートの4階。背後にはどこまでも続く闇。
    母が許してくれなければ、私はこの世に存在するすべを失う。足元の冷たさに、背後の闇に飲み込まれてしまう。


    思い出しこそしたものの、この出来事を自分の中で消化することは難しかった。同じような経験をした人はたくさんいるだろうに、どうして私はこんなに傷つきやすいのだろうと、自分を責めた。思考を忙しくすることで、この痛みをなかったことにしようとした。


    この出来事が恐怖の原型だというのなら、さっさと癒してしまいたい。
    そんな気持ちで、ドアの前で泣きじゃくる3歳の私に、大人になった私から「怖いよね」「大丈夫だよ」などと声をかけてみた。でも、泣き声は大きくなるばかりだった。


    3.ただの私が生きられる世界

    人肌のぬくもり

    「ただの私は不要な存在」――そう信じて生きてきた。

    そんな世界で生き延びるために、今から思えば人にあまり心を開かず、あれこれの方法で武装を試みた。
    誰の目にもわかりやすい肩書きを得ることで「ただの私」ではないことを証明するとか、まわりに同化・同調することで自分を消すとか。

    電子書籍をつくる過程でみつけたのは、そんな生存戦略の数々だった。あらためて言葉にすることで、過去の傷ついた自分を一部ではあれ、いたわって受け入れられたように思う。

    当時の私にそれができたのは、別の世界観の感触を教えてくれた人がすでにいたからだ。


    話は10年ほどさかのぼる。大学の先輩からの紹介で、1人の男性とおつきあいすることになった。生まれて初めての彼氏であり、後の夫だ。

    年上の彼に対して敬語がなかなか抜けず、手をつなぐのも照れてしまうような頃、初めてのクリスマスデートを迎えた。

    海辺の町でイルミネーションを見たり、小さなレストランでディナーをいただいたり。冬の海風は冷たいけれど、きらきらと美しい1日。

    その終わりに駅の改札口まで私を送って、彼はためらいがちにこう聞いた。

    「抱きしめていい?」

    人通りの多い場所だった。そうでなくても、誰かに身を預けることなんて物心ついてから一度もしたことはなかった。でも、私は時間をほとんどあけずにうなずいた。彼との距離を縮めたい気持ちがあった。


    私の体をおおったのは、厚手のダウン越しとは思えないほどのぬくもりだった。それは「この場所に存在していい」と許されるため、いつだって1人で戦い続けてきた私の心の緊張を、ほんの少し緩めた瞬間だった。

    あれこれの武装を解いた何も持っていない私でも、ここにいていいと思ってくれる人がいるのかもしれない――初めてそう感じた。


    彼のぬくもりは、私の知らない世界が存在する可能性があることを教えてくれた。でもまだ、彼と触れ合う瞬間に少し立ち上がっては、あっという間に霧散する、弱々しい光だった。


    まっすぐな笑顔

    ただの私が生きられる世界――その可能性は息子と暮らす日々の中でもう少し現実味を帯びはじめた。


    息子は私に似たのか、とても慎重で、人見知りも場所見知りもびっくりするぐらい強かった。久しぶりに会う祖父母の前では2時間連続で泣き通し、近所の公園ですらベビーカーから降りることを拒絶した。

    でも、夫と私と3人で家にいる時、彼はいつも太陽のように豪快に笑った。目が合うだけで満面の笑みで喜びを表してくれた。まっすぐに私を受け入れていることを伝えてくれる赤ちゃんだった。


    毎日毎日、その瞳と向き合ううちに、「きちんとした母親であらねば」という心の武装が少しずつほどけていった。
    何を持っていても持っていなくても、何ができてもできなくても関係ない。彼のまっすぐな笑顔はそんなところを見ていない。ただ私がここにいることを喜んでくれている。そんな確信が強まっていった。
    そしてやがて、彼と同じ種類のまっすぐさで、その瞳を見つめ返したいと思うようになった。


    彼が2歳になるかならないかのある日。
    お風呂上がりの彼をマットの上に寝かせて、「さぁ、保湿クリームを塗ろう」と駆け寄った。

    ムチムチの体と楽しそうな笑顔がとても愛おしくて、気づけば私も自然と同じ種類の笑みを浮かべていた。すると、彼は急に腕を伸ばして私の首に抱きついた。

    彼からハグをされたのは、それが初めてだった。
    毎日のように抱っこしてきたけれど、薄いヴェールがひとつ取り去られたかのように、彼の存在をこれまでよりうんと近く感じた。
    何者でもない、ただの私のまま、彼と出会い直せた瞬間だった。


    彼は私の心の武装にとても敏感だった。
    何の武装もしない「ただの私」で関わることができているとき、彼は目に見えて楽しそうだった。
    そして最初は居心地の悪かった私も、彼と同じシンプルな心でその場を楽しめるようになっていった。

    小さな息子と遊ぶ時間の中で、ただの私が生きられる世界の実感は少しずつ強まっていった。

    彼のハグは、初めて殻を破った私への称賛だったのかもしれない。


    4. 体感を塗り替える

    赤い靴を贈った日

    「次の4月に異動してもらいます」
    上司の改まった通知に対して、私は軽い調子で「はい」と答えた。
    育休から復帰して数年が経っていた。

    組織編成を変えるべく、1年以上前から調整が重ねられていることは事前に聞かされていた。共に異動になる人のことも知っていた。新たに告げられた情報は、異動先の部署名だけだった。

    たったそれだけなのに、面談を終えた私の心はグラグラと揺れていた。


    私が十分な成果を出せなかったから、この場所に置き続けてもらえないんだ。必要としてもらえないんだ。また捨てられてしまうんだ。

    異動の経緯は知っている。私に対する評価なんて関係ない――そう頭ではわかっているのに、気づけば悲しくなっている。
    「ただの私は不要な存在」――3歳の頃、母親に玄関から閉め出されたあの夜の感覚を、無意識のうちに何度もなぞってしまう。


    この苦しさは、私の中に今も残り続ける3歳の私を救わない限り、手放せない。この感覚をなんとかして変えるしかない。
    ーー覚悟が決まった。


    その夜、お風呂で体を洗いながら、3歳の自分との対話を試みることにした。玄関から閉め出されて泣いているあの子に、大人になった私はどう声をかけるだろう。

    「怖いよね」という共感も、「もう1人じゃないよ」という励ましも、何か違うと思った。言葉はどうしても薄っぺらくて、彼女の抱えている「この世から消えてしまうかもしれない」という心細さを拭い去るには弱すぎた。


    ふと、はだしの足元の心もとなさに気づいた。
    彼女に靴を贈ろう。あの頃の私がきっと好きな赤い靴を。

    3歳の自分に赤い靴を贈って、履いてもらうイメージをした。
    私が「居場所を失うかもしれない」という不安を覚えるときはいつだって、足の裏から不快な感覚がのぼってくる。異動に対して感じていた「居場所を追われる」感覚が、赤い靴のおかげでやわらいだ気がした。


    そのまま、大人になった私が3歳の私の手をとって、夜の街に出かけるイメージをした。 アパートの階段を下りて、ひとりでは決して歩いたことのない道を歩いていく。 夜の闇が恐ろしい場所ではないことを、3歳の私に感じてもらうために。

    夜風が心地よく、外の世界はどこまでも広い。
    お家の外は、怖いところじゃないよ。 家の中の世界でママに守ってもらうことも、家の外の世界を自由に歩くことも、あなたにはできるんだよ。 あなたが選んでいいんだよ。

    そう伝えて、小さな背中を抱きしめる。

    迎えにいくのが遅くなってごめんね。


    恐怖がとけてゆく

    ピコンと音がして、チャットにメッセージが来たことを告げる。
    課長からの質問文に、不機嫌さがにじんでいるように感じられて、身構える。 どうしよう、なんて説明しようと慌て始める思考を少し止めて、3歳の私に赤い靴を贈ったことを思い出す。

    何度か大きく息をつくと、この恐怖がもう輪郭を失っていることに気づく。
    ああ、彼女は責任感が強いから、ちょっと不安になっているだけなんだ。 そうとらえなおすと、淡々と返事を打つことができた。

    そんな調子で、ひとつずつひとつずつ、恐ろしかった仕事上のコミュニケーションのイメージを書き換えていった。

    何十年も私を縛っていた「ただの私は不要な存在」という呪縛には、絶対的な根拠があった。それが、3歳の私が玄関から閉め出された時の恐怖の体感だった。

    電話の呼び出し音。会議の沈黙。無骨な文面――あらゆる場面で以前と同じように恐怖心は出てくる。
    だけど、3歳の彼女に赤い靴を贈り、夜風の中を歩いて、体感を塗り替える過程を経た今、命を奪われるような強烈なリアリティーは、もうどこにもなくなっていた。

    電話もメールも会議も、少しずつ日常の一場面にとけていった。

    かつて夢見た「普通の仕事が、普通の心持ちでできる日」は、意外なほどあっけなくやってきた。
    必要だったのは、血のにじむような努力でも慣れでもなく「ただの私がここに存在していい」と自分に許すことだったのだ。


    5. あの日、私の捨てたもの

    小さな頃からずっと、自分の書いたものを読み返すことが好きだった。
    容姿だって能力だって性格だって、何一つ自分自身のことは好きになれなかったけれど、感情や経験を綴った言葉たちだけは大切にしていた。

    幼少期から書き溜めた日記や創作物は、気づかぬうちに私の心のよりどころになっていた。
    これらにはきっと「ただの私」の生命力が宿っていたから。

    それらを何度も読み返すことは「ただの私」を思い出し、受け入れる行為になっていた。


    一方で、成長するにつれて「ただの私」を排除したいという意思は強まっていった。だって、誰にとっても不要だと固く信じていたのだから。
    社会人1年目のあの日、日記や創作物を捨てたのは、自然なことだった。「ただの私」を思い出す場所なんていらないと私の理性は判断した。
    誤算だったのは、「ただの私」と生命力は切っても切り離せなかったことだ。


    8年にわたる心の旅を経て、35歳の私は「ただの私で生きていい」という許しを赤い靴にこめ、3歳の自分に贈った。
    そうしたら、怖くてたまらなかった仕事がだんだん日常にとけていった。
    前より体調も安定して、毎日が楽しくなった。

    だからもう、「ただの私」で生きるしかないのだと観念している。
    「ただの私」を大切にすることは、持って生まれた身体とそこに生じる感覚を中心に置いて生きること。
    あるべき自分を演じて武装していては、「ただの私」とそこに宿る生命力には繋がれない。そうなれば、恐怖にのまれるばかりになるというのが、私の理性が出した結論。


    心を言葉に残すなんて、もう二度としないと誓ったのに。
    「ただの私」はこの心の旅路を形にしたい、必要な人に届けたいと譲らなかった。

    この衝動は、生命力は、私をどこに連れていくのだろう。




     
     
    心に深く潜っては、言葉を探しています。ただのあなたで生きることのうつくしさが伝わりますように。

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