
『考えすぎだよ』は、なぜこんなにも傷つくのか─その正体は「理解されない絶望」だった
「考えすぎだよ」「もっと気楽にしなよ」
その言葉を言われるたびに、私の心はサーッと冷えていく。 しまった。話す相手を間違えた。
相手はきっと、意地悪で言っているわけではない。 むしろ、私を心配して、良かれと思って言ってくれている。
だからこそ、余計に苦しい。 怒ることもできず、悲しむこともできず、ただわかってもらえないことに絶望する。
「そうか、この苦しさは、この人には一生伝わらないんだ」
そう感じたときの、底知れない絶望感。 あなたにも、身に覚えがあるかもしれない。
🌀「力を抜く方法」がわからないから、苦しい
かつての私も、ずっとそうだった。
25歳で自分の生きづらさに気づき、本を読み漁り、カウンセリングやセラピーに通った。 それでも生きづらさは消えなかった。 子どもが生まれてからは「この子に生きづらさを引き継ぎたくない」と必死になり、心理学や子育てを学ぶ中でモンテッソーリ教育に魅了されて教室を立ち上げた。
でも、がんばればがんばるほど、心はすり減っていった。 子どもが不登校になったとき、私の「正しさ」は音を立てて崩れ去った。
そんなとき、周囲からの「力を抜いて」「もっと気楽に」というアドバイス。
言われなくても、わかっている。 力を抜きたい。気楽に生きたい。 でも、「どうやって力を抜けばいいのか」が分からないから、これほど苦しんでいるのだ。
生きづらさを抱える人にとって、力を抜くことは簡単ではない。 なぜなら、自分をがんじがらめにしている「ちゃんとしなきゃ」は、自分を傷つきやすい世界から守るために、何十年もかけて身につけてきた鎧(よろい)のようなものだから。そして安心して力を抜いた経験が、ほとんどないから。
それを「はい、今すぐ脱いで」と言われても、そう簡単に手放せるわけがない。
「考えすぎ」という言葉は、まるでこれまでの自分の必死な生き方そのものを、「無駄なこと」「間違っていること」と否定されたように感じてしまう。だから、私たちは絶望する。
💡「理解してもらうこと」を手放す
この絶望から抜け出すために、私が気づいたことがある。
それは、「生きづらくない人に、私の世界を理解してもらうことをあきらめる」ということ。
あきらめる、というと冷たく聞こえるかもしれない。 でもこれは、自分を守るために必要な「境界線」だ。
世の中には、驚くほど軽やかに、自然体でありのままに生きられる人がいる。 それはその人の才能であり、素晴らしいこと。 けれど同時に、物事を深く感じ取り、傷つき、考え込んでしまう私たちにも繊細さという価値がある。
あなたが「考えすぎ」と言われて絶望したのは、相手に「私の痛みをわかってほしい」と、心を開いた証拠。 その勇気は素晴らしい。
けれど、届かない相手に、これ以上あなたの貴重なエネルギーを使う必要はない。 あなたが本当に求めているのは、他人の「気楽にね」という同調ではなく、「私はこれだけ一生懸命に考えて生きているんだ」と、自分自身で認めてあげることなのだから。
🍃今日からできる、自分への処方箋
もし今日、誰かに「考えすぎ」「力を抜きなよ」と言われて心が冷たくなったら、次のステップを試してみてほしい。
反論せず、スッと心のシャッターを下ろす 相手を説得しようとしない。「そうだね」とだけ言って、心の境界線を引く。
心の中で、自分にこう声をかける 「私はわかって欲しかったんだね、勇気を出して伝えようとして偉いよ」
伝える相手を選ぶ 相手も自分と同じように生きづらさを抱えていて、この人ならわかってくれると確信が持てない限り、不用意に話をしない。普通に生きてきた大多数の人には、おそらく決してわからないことだから。
「考えすぎる自分」を責めるのを、今日からやめてみよう。 考えすぎてしまうのは、あなたがそれだけ感性が豊かだから。
誰かに分かってもらえなくても大丈夫。 まずはあなたが、あなたの「一番の理解者」になってあげよう。
私たちの生きづらさが、回り回って、誰かの救いになる日が、きっと来る。