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不安の向こうにいた人

    返信が少し遅いだけで、嫌われたかもしれないと思ってしまう。
    恋人の翔太が大阪へ異動し、会えない時間が増えるほど、美咲の不安は大きくなっていく。
    安心できる言葉を探しても、また不安に戻ってしまう日々。
    けれど、投稿の言葉や翔太とのやり取りを通して、美咲は少しずつ、自分の不安の奥にある寂しさや本音に気づき始める。
    これは、不安を消す物語ではなく、
    不安の向こうにいた「自分」と「相手」に出会い直す恋愛小説。

    第一章 返信を待つ夜

    「美咲さんって、いつも楽しそうですよね」

    歓迎会の帰りだった。

    店を出た瞬間、
    夜風が思ったより冷たくて、
    美咲は慌ててコートの襟元を寄せた。

    金曜日の駅前は、
    まだ昼間の熱を残しているみたいに騒がしかった。

    酔った会社員たちの笑い声。
    信号待ちをする人の列。
    遠くから聞こえる救急車のサイレン。

    その音の中で、
    隣を歩いていた翔太が不意にそう言った。

    美咲は、
    一瞬だけ返事に迷った。

    楽しそう。

    そう見えるなら、
    たぶんうまくやれていたのだと思う。

    「そうですか?」

    いつものように笑うと、
    翔太も少し笑った。

    「うん。なんか、いつも機嫌良さそう」

    そんなことないですよ、と返しながら、
    美咲は少しだけ考えた。

    機嫌が良さそう。

    そう見えるのかもしれない。

    人の表情を見るのは、昔から癖だった。
    少し退屈そうな人がいれば気になる。
    輪の中に入れていない人がいれば、放っておけない。
    誰かが黙れば話題を探す。
    場の空気が重くなれば、何か言葉を足す。

    それを努力だと思ったことはなかった。

    むしろ、そうしない方が落ち着かなかった。

    だから自分では、頑張っているつもりもない。

    「でも楽しそうでしたよ」

    翔太はそう言うと、
    それ以上は何も聞いてこなかった。

    そのことに、
    美咲は少しだけ安心した。

    深く聞かれるのは苦手だった。
    けれど、
    まったく興味を持たれないのも少し寂しい。
    そんな矛盾したことを考えている自分に気づいて、
    心の中で苦笑する。

    面倒くさいな、私。

    翔太と付き合い始めたのは、
    それから二か月後だった。

    一緒にいて楽だった。

    無理に距離を縮めようとしない。
    しつこく連絡もしてこない。
    かといって冷たいわけでもない。
    会えば楽しそうに笑うし、
    美咲の話もちゃんと聞いてくれる。

    沈黙が流れても、慌てなくていい。

    そういうところが好きだった。

    付き合って三か月。

    最初の頃の浮かれた気持ちが、
    少しずつ日常の中に馴染み始めた頃だった。

    仕事帰りの電車の中で、
    美咲は翔太にメッセージを送った。

    『今日会議長かったー』

    送信すると、しばらくして既読がついた。

    それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

    でも、返信は来なかった。

    別に急ぎの話じゃない。
    会議の後なら忙しいだろうし、
    返信が遅いことだってある。
    頭ではそう分かっていた。

    それなのに、
    電車を降りても、
    コンビニに寄っても、
    部屋に帰って着替えても、
    気づけばスマホに手が伸びていた。

    まだ来ていない。

    ソファに座ってテレビをつける。
    バラエティ番組では、芸人が大きな声で笑っていた。
    けれど、
    画面の中の笑い声は、
    部屋の中を通り抜けていくだけだった。

    何してるんだろう。

    そう思いながら、
    またスマホを見る。

    忙しいだけかもしれないのに。

    そう言い聞かせても、
    胸の奥に小さな石のような重さが残った。

    夜九時を過ぎた頃、
    通知音が鳴った。

    反射的にスマホへ手を伸ばす。

    翔太だった。

    『ごめん
    会議終わったあと資料作ってた』

    その文章を見た瞬間、
    美咲はようやく息を吐いた。

    ああ、よかった。

    何でもなかった。

    ただ仕事だった。

    冷めたお茶をひと口飲む。
    さっきまで重かった胸の奥が、
    少しずつほどけていく。

    けれど、
    その安心は長く続かなかった。

    翌週も、
    その次の週も、
    同じことが起きた。

    返信が来ない時間がある。

    気にしないようにする。

    でも、気づけばスマホを見ている。

    返信が来る。

    ほっとする。

    そしてまた、次の沈黙が怖くなる。

    画面を伏せても、
    指先だけがスマホの重さを覚えていた。
    返信が来れば息ができる。
    けれどその息は、
    次の沈黙でまたすぐ浅くなる。

    ある夜。
    返信を待ちながら、
    何度目か分からないほどスマホを見つめていた時だった。

    ふと、考えてしまった。

    仕事って、本当かな。

    その瞬間、自分で驚いた。

    翔太は忙しいと言っていた。
    実際に忙しいのも知っている。
    疑うようなことは何もない。

    それなのに、胸の奥から別の声が浮かんでくる。

    本当は返信したくないだけかもしれない。

    少し冷めたのかもしれない。

    私、何かしたかな。

    そう思った時、不意に昔の記憶がよみがえった。

    大学生の頃に付き合っていた彼。

    最初は毎日のように電話をしていた。
    どうでもいい話をして、眠くなるまで笑っていた。

    それが、少しずつ減っていった。

    「最近忙しくて」

    そう言われた時も、美咲は大丈夫だと思っていた。

    でも数週間後、別れ話になった。

    もう好きかどうか分からない。

    そう言われた時の胸の痛みを、今でも時々思い出す。

    もちろん、翔太は違う。

    同じ人じゃない。

    そんなことは分かっている。

    それでも心のどこかで、
    また同じことが起きるかもしれないと思ってしまう自分がいた。

    美咲はスマホを開いた。

    検索窓に文字を打ち込む。

    『彼氏 返信遅い』

    検索結果が並ぶ。

    男性はLINEを連絡手段としか考えていません。

    返信速度と愛情は関係ありません。

    仕事に集中しているだけです。

    記事を読むと、少し胸が落ち着いた。

    そうだよね。

    考えすぎだよね。

    けれど翌日には、また同じ場所に戻っていた。

    別の記事を読む。

    少し落ち着く。

    恋愛系の投稿を見る。

    少し息がしやすくなる。

    でも、時間が経つとまた不安になる。

    美咲はそのたびに、別の言葉を探した。

    大丈夫だと言ってくれる言葉。

    愛されている証拠になる言葉。

    自分が不安にならなくていい理由。

    探している間だけは、少し安心できた。

    でも、その安心はいつも薄くて、すぐに剥がれてしまう。

    そんなある夜。

    いつものようにスマホを眺めていた時だった。

    ひとつの投稿が目に入った。

    返信が遅い。
    ただそれだけなのに、
    頭の中では
    「嫌われたかも」
    まで進んでしまう。
    でも、本当にそうだろうか。

    美咲は指を止めた。

    眉をひそめる。

    いや。

    そういうこともあるでしょ。

    返信が遅いんだから。

    気になるじゃん。

    当たり前じゃん。

    そう思った。

    そう思ったのに。

    スマホを閉じたあとも、
    その言葉だけは妙に頭の中に残り続けていた。

    まるで小さな棘みたいに。

    抜けないまま。


    第二章 一人でいたい、の向こう

    「今週の土曜さ」

    金曜日の夜だった。

    美咲はベッドに寝転びながら、翔太と電話をしていた。
    部屋の明かりは消してある。
    窓の外から街灯の光だけが薄く差し込んでいて、
    天井の端がぼんやりと白く浮かんでいた。

    「うん?」

    「ちょっと一人でゆっくりしたいかも」

    翔太の声は、いつも通りだった。

    冷たくもない。
    怒っているわけでもない。
    何かを責めているわけでもない。
    ただ、今の気分をそのまま伝えているだけ。

    それなのに、美咲の胸の奥が小さく揺れた。

    「そっか」

    自分でも驚くほど自然に返事が出た。

    「ごめんな」

    「ううん、大丈夫」

    大丈夫。

    そう答えた声は、ちゃんと普段通りに聞こえたと思う。

    電話を切る。

    部屋が静かになる。

    エアコンの音だけが、途切れずに聞こえていた。

    美咲はしばらく天井を見上げていた。

    一人でいたい。

    その言葉が、
    部屋の暗がりの中で何度も形を変えて浮かんでは消える。

    別に変なことじゃない。

    疲れている日もある。
    一人になりたい日だってある。
    自分にもそういう日はある。

    頭では分かる。

    本当に分かっている。

    けれど、
    胸の奥だけが、
    置いていかれたみたいにざわついていた。

    私といたくないのかな。

    その考えが浮かんだ瞬間、
    美咲は慌てて打ち消した。

    いや、そんなわけない。

    そう思うそばから、別の考えが出てくる。

    最近ちょっと返信も減った気がする。

    先週も疲れてるって言ってた。

    もしかして。

    そこまで考えて、美咲は起き上がった。

    冷蔵庫から麦茶を取り出す。
    コップに注ぐ。
    ひと口飲む。
    冷たい液体が喉を通っていく。

    少しだけ落ち着いた気がした。

    でも、コップを置いた途端、また同じ場所へ戻っていた。

    美咲はスマホを開いた。

    検索窓に指が伸びる。

    『彼氏 一人でいたい』

    検索結果が並ぶ。

    男性は一人の時間を必要とします。

    その一文を読んで、少し肩の力が抜ける。

    距離を置きたいサインかもしれません。

    次の見出しで、胸がまた固くなる。

    好きでも一人になりたい男性はいます。

    息が少し戻る。

    冷め始めている可能性もあります。

    また画面を握る手に力が入る。

    安心できる言葉と、不安になる言葉。

    画面の中にはどちらも並んでいた。

    美咲はスマホを閉じた。

    けれど、すぐに開いた。

    閉じて、また開く。

    気づけば時計は一時を回っていた。

    ソファにもたれた体が重い。

    「疲れた」

    ぽつりと声に出すと、その言葉だけが部屋の中に落ちた。

    翔太と喧嘩したわけじゃない。

    嫌なことを言われたわけでもない。

    何かが起きたわけでもない。

    ただ、土曜日に一人でいたいと言われただけ。

    それなのに、美咲はひどく疲れていた。

    その時だった。

    ふと、あの投稿を思い出した。

    返信が遅い。
    ただそれだけなのに、
    頭の中では
    「嫌われたかも」
    まで進んでしまう。
    でも、本当にそうだろうか。

    美咲は顔をしかめた。

    いや、今回は違うでしょ。

    だって、一人でいたいって言われたんだから。

    返信が遅いのとは違う。

    そう思った。

    でも。

    言い返すように浮かんだその言葉の奥で、何かが小さく引っかかった。

    翔太は、何て言った?

    一人でいたい。

    それだけ。

    嫌いとは言っていない。

    冷めたとも言っていない。

    別れたいとも言っていない。

    なのに私は。

    そこまで考えて、美咲は止まった。

    胸の奥がざわざわしている。
    心臓が少し速い。
    何かがおかしい気がする。
    でも、何がおかしいのかまでは分からない。

    しばらく、天井を見つめた。

    その時、もう一つ記憶が浮かんだ。

    二年前に付き合っていた彼だった。

    「ちょっと距離置こう」

    そう言われた日のこと。

    大丈夫。

    そう言われた。

    考えすぎだよ。

    そうも言われた。

    でも、その一か月後に別れた。

    だから。

    美咲の中では、
    距離を置きたいも、
    一人になりたいも、
    忙しいも、
    どこかで同じ場所につながっていた。

    もちろん、翔太は違う。

    そう言い聞かせる。

    でも、心の奥では別のことを思っている。

    もし同じだったら。

    その怖さが、どうしても消えなかった。

    静かな部屋の中で、美咲は膝を抱えた。

    なんでこんなに苦しいんだろう。

    翔太が悪いんだろうか。

    私が悪いんだろうか。

    考えても、答えは出ない。

    ただ、一つだけ分かることがあった。

    翔太が一人でいたいと言ったことよりも、
    そのあと何時間も考え続けている自分の方が、ずっと苦しかった。

    その事実だけが、小さな違和感として残った。


    第三章 安心を探す指

    それからしばらくして、美咲はそのアカウントをフォローした。

    好きだからではない。

    むしろ、少し苦手だった。

    投稿を見るたびに、どこか落ち着かない気持ちになる。
    読んだあとに、すぐ頷けるわけでもない。
    むしろ大抵は、少し腹が立つ。

    それなのに、気づくと読んでいた。

    昼休みだった。

    会社近くの公園のベンチに座り、
    コンビニで買ったサンドイッチを膝の上に置いたまま、
    美咲はぼんやりスマホを眺めていた。

    風が少し冷たくなってきていた。

    木の葉の端が、ほんの少し黄色くなっている。

    秋が近づいている。

    タイムラインを流していると、また例のアカウントが出てきた。

    恋愛の情報を見て安心する。
    でも、
    また次の日も探してしまう。
    もし安心できているなら、
    どうして何度も探してしまうんだろう。

    美咲は眉をひそめた。

    いや。

    安心したいからでしょ。

    当たり前じゃん。

    そう思って、親指で画面をスクロールした。

    けれど、
    次の投稿を読んでも、
    サンドイッチをひと口かじっても、
    その言葉だけが頭の片隅に残っていた。

    どうして何度も探してしまうんだろう。

    午後の仕事中。

    パソコンの画面を見ながら、ふと思い出す。

    どうして何度も探してしまうんだろう。

    美咲は小さく頭を振った。

    仕事に集中しよう。

    けれど夕方。

    電車に揺られながら、また思い出す。

    どうして何度も探してしまうんだろう。

    なんだか悔しかった。

    図星を突かれたような気がしたから。

    その夜、翔太からメッセージが届いた。

    『お疲れ』

    たったそれだけ。

    でも嬉しかった。

    画面に表示された文字を見るだけで、
    胸の奥に入っていた力が少し抜ける。

    なのに。

    数分後には、別の考えが浮かんでいた。

    今日は短いな。

    疲れてるのかな。

    それとも。

    そこまで考えて、
    美咲はスマホを置いた。

    まただ。

    最近、そういう瞬間が増えていた。

    また考えてる。

    また意味を探してる。

    また安心したくなってる。

    それに気づく瞬間が増えていた。

    だからといって、すぐにやめられるわけではない。

    気になる。

    答えが欲しい。

    でも考えても、答えは出ない。

    それでも考えてしまう。

    その繰り返しだった。

    週末。

    久しぶりに翔太と会った。

    駅前で待ち合わせをして、ご飯を食べて、映画を観た。
    いつも通り楽しかった。翔太も普通だった。
    笑っていたし、美咲の話も聞いていた。

    やっぱり大丈夫だった。

    帰り道、美咲はそう思った。

    けれど、その夜にはもう別の不安が出ていた。

    次はいつ会えるかな。

    迷惑じゃなかったかな。

    もっと楽しくできたかな。

    そこで、美咲は自分に少し呆れた。

    さっきまで安心してたじゃん。

    なのにもう、次の不安を探している。

    家に帰る。

    バッグを置く。

    コートを脱ぐ。

    ソファに座る。

    部屋は静かだった。

    外を走る車の音が、窓越しに少しだけ聞こえている。

    美咲は膝を抱えた。

    そして初めて、ほんの少しだけ思った。

    私、安心したいだけなんだ。

    深い気づきというほどのものではなかった。

    答えが出たわけでもない。

    ただ、その言葉だけが、ぽつんと胸の中に置かれた。

    返信を待つ時間も。

    検索窓に打ち込む言葉も。

    大丈夫だと言ってくれる記事を、何度も探してしまうことも。

    全部、そのためだったのかもしれない。

    そこまでは分かった。

    でも。

    じゃあなんで、こんなに安心できないんだろう。

    その問いの答えは、まだ見つからなかった。

    夜が更けていく。

    窓の外では、どこかのマンションの灯りが一つずつ消えていく。

    美咲はスマホを開いた。

    また、あのアカウントが流れてきた。

    不安があることと、
    不安をなくしたいことは、
    同じようで少し違う。

    美咲は顔をしかめた。

    「だから何なのよ」

    思わず声が出た。

    部屋の中に、自分の声だけが小さく響く。

    でも、なぜかスクロールできなかった。

    その言葉の意味は、まだ分からない。

    分からないのに、少しだけ気になった。

    スマホの画面は、手の中で静かに光っていた。


    第四章 空のペットボトル

    十月の日曜日だった。

    空はよく晴れていて、窓から入る光が部屋の床を明るく照らしていた。

    映画を観終えたあと、二人は翔太の部屋でのんびりしていた。
    特別な予定はない。
    コンビニで買ったお菓子を食べながら、ソファでだらだらする。

    そんな休日だった。

    美咲は、こういう時間が好きだった。

    どこかへ出かけるのも楽しい。
    けれど、何もしない時間も嫌いではない。
    一緒にいても頑張らなくていい。
    その安心感が、身体の奥をゆるめてくれる気がした。

    「トイレ行ってくる」

    翔太が立ち上がる。

    「うん」

    ドアが閉まる。

    部屋が静かになる。

    美咲は何となく立ち上がった。

    理由はない。

    本当に、何となくだった。

    テーブルの上を見る。

    空になったペットボトル。

    開いたままのお菓子の袋。

    読みかけの雑誌。

    リモコンの横に置かれたティッシュ。

    手が勝手に動いた。

    ペットボトルをまとめる。

    お菓子の袋を折る。

    雑誌を重ねる。

    散らかっていると落ち着かない。
    片付いている方が好きだ。
    だから、別に苦ではない。

    本当にそう思っていた。

    ペットボトルを手に取った時だった。

    なんで私ばっかり。

    頭の中に、小さな声が浮かんだ。

    美咲は動きを止めた。

    え?

    今、何て思った?

    手の中で、空のペットボトルがかすかに音を立てる。

    なんで私ばっかり。

    その言葉が、もう一度浮かんだ。

    いや。

    別に嫌じゃない。

    片付けるのは好きだし。

    綺麗な方が気持ちいいし。

    翔太がだらしないわけでもない。

    今日だって楽しかった。

    そうやってすぐに打ち消そうとしたのに、
    胸の奥に小さな引っ掛かりだけが残った。

    怒っているわけではない。

    責めたいわけでもない。

    でも、なかったことにもできない。

    自分の飲んだペットボトルくらい、
    自分で捨ててもよくない?

    そんな考えが浮かんで、美咲は少し驚いた。

    私、そんなこと思うんだ。

    意外だった。

    今まで考えたこともなかったから。

    いや。

    本当にそうだろうか。

    考えたことがなかったんじゃない。

    気づかないようにしていただけなんじゃないだろうか。

    その時、不意に昔の記憶が浮かんだ。

    二十代の頃に付き合っていた彼。

    部屋へ行くたびに、シンクには洗い物が溜まっていた。

    服は脱ぎっぱなし。

    ゴミもそのまま。

    気づけば、いつも美咲が片付けていた。

    最初は何とも思わなかった。

    綺麗な方が好きだったし、自分がやった方が早かった。

    でもある日、友達に言われたことがある。

    「美咲って尽くすよね」

    その時は笑って流した。

    そうかな。

    別にそんなつもりないけど。

    本当にそう思っていた。

    でも今、その言葉が少し違う響きで戻ってくる。

    尽くしていたんだろうか。

    それとも。

    嫌われたくなかったんだろうか。

    そこまで考えたところで、トイレのドアが開いた。

    「何してるの?」

    翔太が戻ってくる。

    美咲は手に持っていたペットボトルを少し上げた。

    「片付け」

    「ありがと」

    翔太はそう言うと、そのままソファへ戻った。

    それだけだった。

    何も起きない。

    喧嘩にもならない。

    話し合いにもならない。

    翔太は悪びれているわけでもないし、
    美咲を雑に扱ったつもりもないのだろう。

    分かっている。

    分かっているのに、美咲の中には何かが残っていた。

    帰り道。

    駅まで並んで歩く。

    翔太は映画の話をしている。

    美咲も笑いながら返事をする。

    でも頭の片隅では、ずっとあの言葉が残っていた。

    なんで私ばっかり。

    家へ帰る。

    お風呂に入る。

    髪を乾かす。

    ベッドに入る。

    部屋の明かりを消しても、その言葉だけが暗がりの中に残っている。

    その時だった。

    例のアカウントの投稿を思い出した。

    「別にいいよ」と言ったあと、
    なぜかモヤモヤすることがある。
    それは本当に、
    「別にいい」なんだろうか。

    以前見た時は、意味が分からなかった。

    別にいいなら、いいじゃん。

    そう思った。

    でも今は、少しだけ分かる気がした。

    別にいい。

    それは本当だ。

    片付けるのも嫌じゃない。

    翔太を責めたいわけでもない。

    でも、それだけじゃない。

    その奥に、何かがある。

    ただ、それが何なのかはまだ分からない。

    美咲は天井を見上げた。

    静かな部屋。

    時計の針の音だけが聞こえている。

    そして、ぽつりと呟く。

    「私、本当はどうしたかったんだろう」

    答えは出なかった。

    でも、その問いだけは、初めて自分の中から出てきたものだった。


    第五章 寂しさの輪郭

    翔太の異動が決まったのは、秋が深まり始めた頃だった。

    その日は平日の夜で、二人はいつものように電話をしていた。

    「来月から大阪なんだ」

    翔太はそう言った。

    まるで、明日の天気を話すみたいな口調だった。

    美咲は一瞬、言葉を失った。

    「え?」

    思ったより大きな声が出た。

    「そんな反応する?」

    翔太が少し笑う。

    「するでしょ」

    美咲も笑おうとした。

    けれど、うまく笑えなかった。

    大阪。

    新幹線で行ける距離だ。

    会えなくなるわけじゃない。

    遠すぎるわけでもない。

    頭では分かる。

    本当に分かっている。

    それなのに、胸の奥が静かに沈んでいった。

    電話を切ったあとも、その感覚は消えなかった。

    窓の外を見る。

    街の灯りが、ガラス越しにぼんやり滲んでいる。

    会えるよね。

    大丈夫だよね。

    そう思う。

    でも次の瞬間には、別の考えが浮かぶ。

    遠距離って続かないって聞くし。

    忙しくなったら?

    新しい環境で、誰かと出会ったら?

    そこまで考えて、美咲は頭を振った。

    やめよう。

    まだ何も起きていない。

    そう言い聞かせる。

    けれど、考えるのをやめても、胸の重さまでは消えなかった。

    その夜、眠る前にスマホを見ていると、また例のアカウントが流れてきた。

    寂しいって、
    そんなに悪いことだろうか。

    美咲は指を止めた。

    続きを読む。

    寂しいと、
    早く消そうとしてしまう。
    でも、寂しいは
    いなくなってほしい感情なんだろうか。

    そこまで読んで、スマホを伏せた。

    意味が分からない。

    寂しいんだから、消えてほしいに決まってるじゃん。

    そう思う。

    でも、少しだけ引っ掛かった。

    翌日。

    仕事中に、ふと大阪という言葉が頭をよぎる。

    胸の奥が、また少し重くなる。

    寂しい。

    その言葉も浮かんだ。

    美咲は手を止めた。

    今までは、こういう時すぐ不安になっていた気がする。

    大丈夫かな。

    続くかな。

    冷められないかな。

    私だけが好きだったらどうしよう。

    そんなことばかり考えていた。

    でも今、胸の奥にあるものは少し違っていた。

    会いたい。

    その言葉が浮かぶ。

    会いたい。

    ただ、それだけだった。

    翔太と一緒にいたい。

    離れるのが寂しい。

    その気持ちを認めた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

    けれど不思議だった。

    痛いのに、少しだけ楽だった。

    痛みが消えたわけではない。

    不安がなくなったわけでもない。

    ただ、ぼんやり大きかった怖さに、初めて輪郭ができた気がした。

    今までずっと、不安だけを見ていた。

    でも、その奥には別のものがあった。

    会いたい。

    寂しい。

    それだけのこと。

    そう分かったからといって、急に強くなれるわけではない。

    けれど、何かが少し違った。

    自分が何を怖がっているのか。

    自分が本当は何を感じているのか。

    ほんの少しだけ、見えた気がした。

    その夜。

    翔太から電話がかかってきた。

    いつも通りの声。

    いつも通りの会話。

    今日の仕事のこと。

    大阪の引っ越しのこと。

    新しい部屋を探さなきゃいけないこと。

    美咲は相づちを打ちながら、何度か言葉が喉まで出かかった。

    寂しい。

    その一言。

    でも言えない。

    困らせるかもしれない。

    重いと思われるかもしれない。

    面倒だと思われるかもしれない。

    そんな考えが浮かぶたびに、喉の奥がきゅっと狭くなる。

    結局、その日は言わなかった。

    電話を切る。

    部屋が静かになる。

    少し後悔した。

    でも、前とは違うことが一つだけあった。

    以前なら、ただ不安だった。

    でも今は、少しだけ分かっている。

    私は、寂しかったんだな。

    それだけだった。

    それだけなのに、呼吸が少しだけ深くなった。

    窓の外では雨が降っていた。

    細い雨音が、夜の部屋に静かに重なっている。

    美咲はその音を聞きながら目を閉じた。

    寂しい。

    その言葉を追い払わなかったのは、たぶん初めてだった。


    第六章 しんどい、の文字

    大阪へ異動してから、一か月が過ぎていた。

    最初の頃は、毎日のように連絡を取っていた。

    けれど少しずつ、頻度は減っていった。

    減ったというより、以前のようにはいかなくなった、という方が近かった。

    翔太も忙しかった。

    新しい職場。

    新しい人間関係。

    慣れない仕事。

    覚えることも多いのだろう。

    それは分かっている。

    頭ではちゃんと分かっていた。

    金曜日の夜だった。

    美咲はソファに座りながらスマホを見ていた。

    最後のメッセージは昼だった。

    それから返信はない。

    時計は二十二時を回っている。

    以前の美咲なら、もう何度も検索していたと思う。

    彼氏 返信ない。

    遠距離 冷める。

    そんな言葉を、検索窓に打ち込んでいたかもしれない。

    でも今は、少し違った。

    不安にはなる。

    気になる。

    それは変わらない。

    ただ、その不安にのみ込まれる前に、
    ほんの少しだけ間ができるようになっていた。

    また不安になってるな。

    そう気づく時間が、以前より少しだけ早くなっていた。

    その時だった。

    通知が鳴る。

    翔太からだった。

    『ごめん』

    『今日はちょっとしんどい』

    短い文章だった。

    たったそれだけ。

    美咲は画面を見つめた。

    しんどい。

    それだけ?

    少し寂しかった。

    会いたいとか、
    声聞きたいとか、
    そういう言葉はないんだ。

    私だけなのかな。

    そんな気持ちが、胸の奥に浮かぶ。

    でも、美咲はそれをすぐに打ち消さなかった。

    寂しいんだな。

    そう思った。

    少し前なら、
    その寂しさに気づかないまま、
    不安だけが膨らんでいた気がする。

    嫌われたのかもしれない。

    面倒になったのかもしれない。

    もう前ほど好きじゃないのかもしれない。

    そうやって、見えないものを見ようとしていた。

    でも今は、少し違った。

    寂しい。

    その気持ちが、先に見えている。

    だからだろうか。

    以前より少しだけ、立ち止まれた。

    しんどい。

    翔太は、そう言った。

    美咲はその文字を何度も見返した。

    しんどい。

    どんな感じなんだろう。

    ふと、そんなことを考えた。

    慣れない職場。

    知らない人たち。

    覚えることだらけの毎日。

    結果も求められる。

    失敗もできない。

    そう考えているうちに、
    自分の記憶がふいによみがえった。

    社会人になったばかりの頃。

    毎日、家に帰るだけで精一杯だった。

    休日は何もしたくなかった。

    誰とも話したくない日もあった。

    友達からの連絡でさえ、返せない日があった。

    返したくないわけではなかった。

    嫌いになったわけでもなかった。

    ただ、言葉を返す力が残っていなかった。

    胸の奥で、何かが少し動いた。

    あ。

    もしかして。

    翔太もしんどいのかな。

    当たり前のことだった。

    でも、今まで見えていなかったことだった。

    美咲はスマホを置いた。

    静かな部屋。

    窓の外を走る車の音。

    冷めかけたお茶。

    しばらく、そのまま考えた。

    昨日までの自分なら、
    このメッセージを見て、
    私が嫌われたのかもしれないと思っていた。

    でも今は、少し違う景色が見えている。

    翔太にも、翔太の一日がある。

    美咲の知らない時間がある。

    疲れることもある。

    返せない夜もある。

    そのことが、初めて少しだけ現実味を持った。

    翌日の夕方。

    翔太から電話がかかってきた。

    「昨日ごめん」

    少し疲れた声だった。

    「ううん」

    美咲は答えた。

    それから、少し沈黙が流れた。

    以前なら怖かった沈黙。

    何か話さなきゃ。

    機嫌悪いのかな。

    私、何かしたかな。

    そんなことばかり考えていた。

    でも今は違う。

    沈黙の向こうに、
    疲れている翔太がいる気がした。

    ただ、疲れてるんだな。

    そう思った。

    そして、自然に言葉が出た。

    「大変そうだね」

    電話の向こうが静かになる。

    数秒。

    翔太が小さく笑った。

    「まあな」

    その笑い声は、少し力が抜けたように聞こえた。

    「ちょっとキツい」

    翔太はそう言った。

    美咲は、何も言わなかった。

    励ましもしない。

    アドバイスもしない。

    大丈夫だよ、とも言わない。

    ただ聞いていた。

    それで十分な気がした。

    しばらくして電話を切る。

    窓の外は夕暮れだった。

    空がオレンジ色に染まっている。

    美咲はその空を見ながら思う。

    今まで私は、翔太を見ているつもりだった。

    でも本当は、翔太の反応を見ていたのかもしれない。

    返信。

    言葉。

    態度。

    機嫌。

    それを見て、
    安心したり、
    不安になったりしていた。

    でも、
    その向こうには、
    ちゃんと翔太という人がいた。

    疲れることもある。

    しんどいこともある。

    弱音を吐くこともある。

    当たり前のことなのに、今まであまり見えていなかった。

    胸の奥が少しだけ温かくなる。

    それは、安心とは少し違う感覚だった。

    ただ、この人もしんどい時があるんだな。

    そう思えたことが、なぜだか嬉しかった。


    第七章 消したメッセージ

    大阪へ行ってから、二か月が過ぎていた。

    会う回数は減った。

    電話も毎日ではない。

    それでも、関係が悪くなったわけではなかった。

    むしろ以前より、ちゃんと話している気もする。

    翔太が疲れている時は、
    無理に明るくしようとしなくなった。
    沈黙が流れても、
    前ほど慌てなくなった。
    返事が遅い日があっても、
    すぐに
    「嫌われたかもしれない」
    だけで頭がいっぱいになることは少しずつ減っていた。

    それなのに。

    寂しい日はある。

    会いたい日もある。

    そしてそういう日は、
    なぜか仕事で疲れている日に重なる。

    その日もそうだった。

    朝から、うまくいかないことが続いた。

    理不尽な指摘をされて。

    謝る必要のないことで謝って。

    気づけば帰りの電車の中でも、まだそのことを考えていた。

    窓の外には、夜の街が流れていく。

    車内の灯りがガラスに反射して、自分の顔がぼんやり映っていた。

    疲れた顔をしている。

    そう思った瞬間、胸の奥が急に心細くなった。

    部屋へ帰る。

    バッグを置く。

    コートを脱ぐ。

    電気をつける。

    静かな部屋。

    その静けさに包まれた瞬間、ふと思った。

    会いたいな。

    翔太に。

    その気持ちは、思った以上に素直だった。

    以前なら、
    大丈夫かな、
    冷めてないかな、
    私だけかな、
    そんな不安が先に来ていた。

    でも今は違う。

    ただ、会いたかった。

    声が聞きたかった。

    それだけだった。

    美咲はスマホを見る。

    最後のやり取りは昼。

    翔太は、今日は忙しいと言っていた。

    時計を見る。

    二十二時。

    少し期待する。

    もしかしたら、電話が来るかもしれない。

    そんな期待。

    二十三時。

    通知は来ない。

    日付が変わる。

    それでも来ない。

    胸の奥が少しずつ重くなる。

    そして、いつもの考えが顔を出す。

    やっぱり私だけなのかな。

    そこまで考えて、美咲は止まった。

    違う。

    少なくとも今は、それだけじゃない。

    私は。

    会いたかったんだ。

    そのことが、妙にはっきり見えた。

    寂しかった。

    声が聞きたかった。

    ただ、それだけ。

    美咲はソファに座る。

    スマホを握る。

    メッセージ画面を開く。

    指がゆっくり動く。

    『今日ちょっと声聞きたかった』

    そこまで打って、止まった。

    送信ボタンが、妙に遠く見えた。

    重いかな。

    忙しいよね。

    面倒かな。

    そんな考えが、すぐに浮かんでくる。

    その時、昔の記憶がよみがえった。

    二十五歳の頃に付き合っていた彼だった。

    仕事で落ち込んでいた日。

    会いたいと言った。

    その時、彼は笑いながら言った。

    「美咲って、たまに重いよね」

    悪気なんてなかったと思う。

    本当に、軽い冗談だったのだろう。

    けれど、その言葉は残った。

    相手はきっと覚えていない。

    でも、美咲は覚えている。

    その日から、
    寂しいとか、
    会いたいとか、
    助けてとか、
    そういう言葉を飲み込むことが増えた。

    言わなければ、
    重くならない。

    言わなければ、
    困らせない。

    言わなければ、
    嫌われない。

    そうやって、
    自分を納得させてきた。

    美咲は画面を見つめた。

    『今日ちょっと声聞きたかった』

    送ればいいだけなのに。

    たった一言なのに。

    指が動かない。

    しばらく悩んだあと、結局メッセージを消した。

    真っ白な入力欄だけが残る。

    少し後悔した。

    本当は言いたかった。

    でも言えなかった。

    その時だった。

    ふと、以前見たあの投稿の言葉を思い出した。

    言わないことが、
    優しさとは限らない。

    美咲は思わず笑った。

    もう画面を開いているわけでもないのに、
    勝手に頭の中に戻ってくる。

    迷惑をかけたくない。
    困らせたくない。
    だから言わない。
    その優しさは、
    本当に相手のためだろうか。

    そんな言葉だった気がする。

    「うるさい」

    思わず呟く。

    部屋の中に、
    自分の声だけが落ちる。

    でも、少しだけ痛かった。

    本当に翔太のためだったんだろうか。

    それとも。

    怖かっただけなんだろうか。

    その問いが浮かんだ。

    答えは出ない。

    でも、
    今までなら、
    そんなこと考えもしなかった。

    翌日の昼休み。

    翔太からメッセージが届いた。

    『昨日寝落ちしてた』

    『ごめん』

    その文字を見た瞬間、美咲は少し笑った。

    なんだ。

    本当にそれだけだった。

    そして同時に思う。

    もし昨日送っていたら、どうなっていたんだろう。

    『声聞きたかった』

    その一言。

    別に世界は終わらなかったかもしれない。

    重いとも言われなかったかもしれない。

    普通に、少しだけ電話できたかもしれない。

    そんな可能性が、初めて見えた。

    まだ言えない。

    まだ怖い。

    でも。

    怖いから言えない。

    それが少し見えている。

    以前は、言わないのが正しいと思っていた。

    相手のために我慢しているのだと思っていた。

    でも今は、少しだけ違う。

    もしかしたら、それだけじゃなかったのかもしれない。

    窓の外では、秋の雲がゆっくり流れていた。

    美咲はスマホを閉じる。

    そして小さく呟いた。

    「次は言ってみようかな」

    その声は、まだ少しだけ震えていた。


    第八章 聞いてもらえた夜

    十一月の初めだった。

    久しぶりに会える週末。

    美咲は朝から少し落ち着かなかった。

    嬉しい。

    会いたい。

    その気持ちは確かにある。

    でも同じくらい、少しだけ不安もあった。

    大阪へ行ってから、会う回数は減った。

    電話も以前ほどではない。

    関係が悪いわけではない。

    むしろ前より、素直に話せることも増えた。

    それでも、たまに不安になる。

    それは、まだ変わらない。

    新幹線の改札を抜ける。

    人の流れの向こうに、翔太が見えた。

    目が合う。

    自然と笑う。

    翔太も笑う。

    それだけで、胸の奥が少し緩んだ。

    会いたかった。

    本当に。

    その日は、特別なことはしなかった。

    ご飯を食べて。

    散歩して。

    カフェに入って。

    他愛もない話をする。

    そんな時間だった。

    会えば楽しい。

    一緒にいると落ち着く。

    翔太もいつも通り笑っている。

    それなのに夜になっても、
    美咲の中には小さな引っ掛かりが残っていた。

    言いたいことがある。

    でも、言えない。

    ホテルへ戻る。

    窓の外には、
    大阪の夜景が広がっていた。

    遠くのビルの灯りが、
    黒いガラスに小さく滲んでいる。

    翔太はシャワーを浴びている。

    美咲はベッドの端に腰掛けたまま、
    膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。

    言おうかな。

    やめようかな。

    今じゃなくてもいいか。

    でも、また同じことになる気もする。

    胸の奥が少しざわつく。

    シャワーの音が止まる。

    しばらくして、ドアが開いた。

    翔太が髪をタオルで拭きながら出てくる。

    そして、美咲を見る。

    「どうした?」

    美咲は少し笑った。

    そんなに顔に出てたんだ。

    「んー……」

    言葉が出てこない。

    怖い。

    面倒だと思われるかもしれない。

    重いと思われるかもしれない。

    そんなことないよ、
    と軽く流されるかもしれない。

    いろんな考えが、喉のあたりで詰まる。

    でも、最近少しずつ見えてきたことがあった。

    怖いから言わない。

    それと、言いたくないは違う。

    だから。

    美咲は小さく息を吐いた。

    「ちょっと不安だった」

    「ほんとは、もう少し声聞きたかった日があった」

    そこまで言った瞬間、心臓が強く鳴った。

    翔太は、すぐには何も言わなかった。

    部屋のどこかで、エアコンが静かに音を立てている。

    窓の外では、車のライトがゆっくり流れていく。

    数秒。

    その沈黙が、妙に長く感じた。

    やっぱり言わなきゃよかったかな。

    そう思い始めた頃、翔太が小さく息を吐いた。

    「そっか」

    それだけだった。

    たった、それだけ。

    でも、美咲の胸が少し緩んだ。

    「なんか……」

    言葉が、少しずつ出てくる。

    「会う回数減ったし」

    「忙しそうだし」

    「分かってるんだけど」

    「たまに色々考えちゃって」

    言いながら、少し笑った。

    情けないなと思う。

    こんなことを言ってどうするんだろうとも思う。

    でも今は、途中で止めなかった。

    翔太は黙って聞いていた。

    否定もしない。

    説明もしない。

    大丈夫だよ、とすぐに安心させようともしない。

    ただ、美咲の言葉が終わるのを待っていた。

    しばらくして、翔太が言った。

    「……ごめん、俺そういうの、あんまり気づけてなかったかも」

    「それは不安になるよな」

    その瞬間だった。

    美咲は少し驚いた。

    あれ。

    終わり?

    そんなことを思った。

    もっと説明されると思っていた。

    そんなことないよ。

    大丈夫だよ。

    俺は冷めてないよ。

    そういう安心できる言葉が来ると思っていた。

    でも、違った。

    ただ、分かってもらえた。

    それだけだった。

    それだけなのに、不思議なくらい楽だった。

    胸の奥にずっと入っていた力が、ゆっくり抜けていく。

    翔太がベッドの縁に腰を下ろす。

    「俺にできることある?」

    美咲は少し考えた。

    何かしてほしいこと。

    約束してほしいこと。

    毎日連絡してほしいとか、
    もっと会いたいとか、
    そういう言葉を言おうと思えば言えたのかもしれない。

    でも、その時の美咲の中にあったのは、それとは少し違っていた。

    一人で抱えていたものを、
    今、隣で一緒に見てもらえた。

    そんな感じがしていた。

    美咲は首を振った。

    「聞いてもらえただけで十分」

    その言葉は、思ったより自然に出てきた。

    本当にそうだった。

    何かを解決してほしかったわけじゃない。

    正解が欲しかったわけでもない。

    不安を全部消してほしかったわけでもない。

    ただ、自分の中にあるものを、
    なかったことにせずに聞いてもらえた。

    それだけで十分だった。

    「ありがとう」

    そう言うと、翔太は少し笑った。

    「よかった」

    窓の外では、街の灯りが静かに光っていた。

    美咲はその光を眺めながら思う。

    少し前の自分なら、言えなかった。

    不安になることも。

    寂しいことも。

    会いたいことも。

    全部、飲み込んでいた。

    そして一人で苦しくなっていた。

    でも今は。

    まだ怖い。

    今でも怖い。

    それでも、怖いまま言えることもある。

    そのことが、少し嬉しかった。

    翔太が隣に座っている。

    何かが劇的に変わったわけではない。

    明日から不安にならないわけでもない。

    でも、美咲の中で、ほんの少しだけ何かが変わっていた。

    不安は、隠さなければいけないものではないのかもしれない。

    そう思えた夜だった。


    第九章 言っても壊れなかった朝

    翌朝、目が覚めた時、美咲はしばらく天井を見ていた。

    カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。

    知らない部屋の匂い。

    少し硬い枕。

    隣では、翔太がまだ眠っていた。

    昨日の夜のことを思い出す。

    ちょっと不安だった。

    ほんとは、もう少し声聞きたかった日があった。

    自分の声が、もう一度耳の奥で響く。

    言った。

    本当に言った。

    そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ縮んだ。

    言いすぎたかな。

    重かったかな。

    寝る前は、聞いてもらえただけで十分だと思えた。

    本当にそうだった。

    でも朝になると、また別の不安が顔を出す。

    昨日は優しく聞いてくれただけで、
    本当は面倒だったかもしれない。

    困らせたかもしれない。

    次から会うのが重くなるかもしれない。

    そんな考えが、眠気の残る頭の中にゆっくり広がっていく。

    美咲は布団の中で小さく息を吐いた。

    まただ。

    また、終わっていないことを終わったことみたいに考えている。

    そう気づいても、
    不安がすぐに消えるわけではなかった。

    ただ、以前より少しだけ分かっている。

    これは、
    今ここで起きていることというより、
    私の中で起きていることなのかもしれない。

    翔太はまだ何も言っていない。

    まだ何も起きていない。

    それなのに、私はもう先のことを怖がっている。

    隣で、翔太が寝返りを打った。

    美咲は思わず体を固くする。

    翔太が目を開ける。

    少しぼんやりした顔で、美咲を見た。

    「……おはよ」

    いつもと同じ声だった。

    美咲は一瞬、返事が遅れた。

    「おはよう」

    翔太は目をこすりながら起き上がる。

    髪が少し跳ねている。

    その姿があまりに普通で、美咲は拍子抜けした。

    何か言われると思っていた。

    昨日のことについて、
    もう一度話すことになるかもしれないと思っていた。

    気まずくなるかもしれないと思っていた。

    でも翔太は、ベッドの端に座ったまま、眠そうに言った。

    「朝飯どうする?」

    それだけだった。

    美咲は少し笑ってしまった。

    「それ?」

    「え、だめ?」

    「だめじゃないけど」

    翔太はまだ眠そうな顔で、スマホを手に取った。

    「近くに喫茶店あるっぽい」

    画面を見せてくる。

    美咲は、その画面を見た。

    昨日までなら、スマホの画面は少し怖いものだった。

    返信が来るかどうか。

    既読がつくかどうか。

    何文字返ってくるか。

    そこに、安心できる証拠を探していた。

    でも今、目の前の画面には、近くの喫茶店の地図が映っている。

    翔太の指が、店の名前を指している。

    「ここ、よさそうじゃない?」

    「うん」

    美咲は頷いた。

    ただそれだけのことなのに、胸の奥が少し緩んだ。

    言っても、朝は来るんだ。

    そんな変なことを思った。

    不安だと言った。

    声が聞きたかったと言った。

    それでも、
    翔太は隣で眠っていて、
    朝になれば起きて、
    喫茶店を探している。

    世界は終わらなかった。

    関係も壊れなかった。

    もちろん、
    それだけですべてが大丈夫になったわけではない。

    次に何かを言う時は、また怖いと思う。

    言ったあとにも、また不安になると思う。

    でも、美咲の中に、小さな記憶がひとつ増えた。

    言っても、壊れなかった朝。

    それは、
    どんな安心の言葉よりも、
    静かに胸の奥に残った。

    ホテルを出ると、朝の空気は少し冷たかった。

    駅へ向かう道には、
    出勤途中の人たちが足早に歩いている。

    喫茶店の窓際の席に座ると、
    コーヒーの湯気がゆっくり立ち上った。

    翔太はトーストをかじりながら、
    今日の予定を話している。

    美咲は相づちを打ちながら、
    その声を聞いていた。

    特別な言葉はない。

    昨日の続きを話すわけでもない。

    それでもよかった。

    たぶん、こういうことなのだと思った。

    全部を一度に分かり合うことではなく。

    言ったあとも、
    同じように朝を迎えること。

    少し気まずくても、
    隣でコーヒーを飲めること。

    不安があっても、
    そのまま一緒にいられること。

    美咲はカップを両手で包んだ。

    温かさが、指先からゆっくり広がっていく。

    翔太が聞く。

    「熱い?」

    「ううん」

    美咲は首を振る。

    「ちょうどいい」

    そう言ってから、少し笑った。

    本当に、ちょうどよかった。

    熱すぎない。

    冷めてもいない。

    今の自分には、それくらいの温度がちょうどよかった。


    第十章 同じ人間だった

    十一月の終わりだった。

    大阪の街は、すっかり冬の空気になっていた。

    駅を出ると、冷たい風が頬をかすめる。

    美咲はマフラーに顔を埋めながら、
    少し足早に翔太の隣を歩いていた。

    その日は特に予定もなく、
    昼過ぎから二人で街をぶらぶらしていた。

    本屋へ寄ったり。

    雑貨屋を覗いたり。

    途中でカフェに入ったり。

    どれも特別なことではない。

    でも、楽しかった。

    ただ一つだけ。

    朝から少し気になっていることがあった。

    翔太が疲れている。

    話している。

    笑っている。

    いつも通りに見える。

    でも、どこか違う。

    それは言葉では説明しづらい違和感だった。

    笑うまでの間が、ほんの少し長い。

    歩く速度が、いつもより少し遅い。

    話の途中で、ふっと遠くを見ることがある。

    以前の美咲なら、気づかなかったかもしれない。

    気づいたとしても、きっとこう考えていた。

    私、何かしたかな。

    でも今は、少し違った。

    夜。

    コンビニで買い物をした帰り道だった。

    住宅街の静かな道を、二人で並んで歩いている。

    吐く息が白い。

    街灯の光が、アスファルトに薄く影を落としていた。

    しばらく無言だった。

    その沈黙は、不思議と苦しくなかった。

    むしろ、静かなままでいられることが、少し心地よかった。

    そして。

    翔太がぽつりと言った。

    「仕事しんどいわ」

    美咲は思わず顔を上げた。

    翔太は前を向いたまま歩いている。

    独り言みたいな言い方だった。

    弱音を吐くつもりもなかったのかもしれない。

    けれど、その言葉は確かに聞こえた。

    美咲は少し考えた。

    何て言えばいいんだろう。

    励ました方がいい?

    元気づけた方がいい?

    何か役に立つことを言った方がいい?

    そんな考えが、一瞬浮かぶ。

    でも、すぐに消えた。

    ただ。

    「そっか」

    そう言った。

    翔太が少し笑う。

    「うん」

    それだけ。

    少し歩く。

    美咲は隣を歩く翔太の横顔を見た。

    無理に笑わせたいわけじゃない。

    何とかしてあげたいわけでもない。

    ただ、
    そのしんどさがここにあることを、
    なかったことにしたくなかった。

    「それ、きついね」

    そう言うと、翔太は何も言わなかった。

    でも、肩の力が少し抜けたように見えた。

    しばらくして、ぽつりぽつりと話し始める。

    慣れない部署のこと。

    上司とのこと。

    思うように結果が出ないこと。

    期待されていること。

    プレッシャー。

    焦り。

    言葉は途切れ途切れだった。

    まとまっているわけでもない。

    結論があるわけでもない。

    それでも、美咲は聞いていた。

    途中で口を挟まない。

    解決策も言わない。

    大丈夫だよ、とも言わない。

    ただ聞いていた。

    不思議だった。

    以前なら、何かしなきゃと思っていた気がする。

    役に立たなきゃ。

    元気にしなきゃ。

    支えなきゃ。

    相手が黙れば、自分が言葉を足さなければいけないと思っていた。

    でも今は、違った。

    ただ聞いている。

    それでいい気がした。

    しばらく話したあと、翔太が小さく息を吐いた。

    「ごめんな」

    美咲は首を傾げる。

    「何が?」

    「せっかく来てるのに」

    その言葉に、美咲は少し笑った。

    そして自然に言葉が出た。

    「聞いてるだけだよ」

    翔太も少し笑う。

    「ありがと」

    その瞬間、美咲はホテルでの夜を思い出した。

    「ちょっと不安だった」

    そう言った自分。

    「そっか」

    そう返してくれた翔太。

    あの時も、何かが解決したわけではなかった。

    でも、少し楽になった。

    今なら、その理由が少し分かる気がした。

    分かろうとしてくれる人がいる。

    一人で抱えなくていい。

    それだけで、人は少し軽くなる。

    マンションの灯りが見えてきた。

    翔太が空を見上げる。

    「明日からまた仕事か」

    「だね」

    「嫌だな」

    「分かる」

    二人で笑った。

    本当に、どうでもいい会話だった。

    でも、美咲は思う。

    私はずっと、
    翔太は不安にならない人だと思っていた。

    強くて。

    落ち着いていて。

    一人でも平気な人。

    そんなふうに見えていた。

    でも、違った。

    この人も、しんどくなる。

    弱音を吐く。

    不安になる。

    疲れて、返事ができない夜もある。

    私と同じだ。

    同じ人間だ。

    そのことが、なぜだか少し嬉しかった。

    部屋へ戻る途中、冷たい風が吹いた。

    翔太が寒そうに肩をすくめる。

    美咲は思わず笑った。

    完璧じゃない。

    でも、その方がいい気がした。

    支えられているだけじゃない。

    支えなきゃいけないわけでもない。

    ただ、隣にいて、
    聞ける時に聞く。

    言える時に言う。

    そうやって少しずつ、
    二人の間に置けるものが増えていく。

    その感覚が、
    胸の奥に静かに残った。

    初めて、「支え合っている」という言葉が、
    少しだけ分かる気がした。


    第十一章 湯気の向こう

    十二月だった。

    街は少しずつ、年末の空気になっていた。

    駅前にはイルミネーションが灯り、
    買い物袋を提げた人たちが足早に行き交っている。
    冷たい風の中を歩きながら、
    美咲はふと周囲を見回した。

    去年の今頃、自分は何を考えていただろう。

    そんなことを思う。

    改札を抜ける。

    少し先に、翔太が立っていた。

    目が合う。

    自然と笑う。

    翔太も笑う。

    それだけだった。

    でも、嬉しかった。

    美咲は少し不思議に思う。

    昔も、会えた時は嬉しかったはずだ。

    けれどあの頃は、
    嬉しさのすぐ後ろに、
    いつも次の不安が立っていた。

    会えた。

    安心した。

    じゃあ次は、いつ会えるんだろう。

    次もちゃんと会えるんだろうか。

    そんなふうに、
    安心したそばから別の心配を探していた気がする。

    今は少し違う。

    会えた。

    嬉しい。

    まず、それだけがある。

    その感覚が、前より長く続く。

    二人で街を歩いた。

    特に目的はない。

    本屋へ寄る。

    雑貨屋を覗く。

    カフェに入る。

    窓際の席に座ると、
    湯気の立つコーヒーの向こうで、
    冬の光がゆっくり傾いていた。

    しばらく話す。

    仕事のこと。

    最近見た映画のこと。

    帰りの新幹線の時間のこと。

    そして自然に、会話が途切れる。

    沈黙。

    昔なら苦手だった。

    何か話さなきゃ。

    退屈してないかな。

    つまらないと思われてないかな。

    そんなことばかり考えていた。

    けれど今は違う。

    翔太はコーヒーを飲んでいる。

    美咲は窓の外を見ている。

    それだけ。

    でも、落ち着く。

    不思議なくらい。

    しばらくして、翔太が言った。

    「どうした?」

    美咲は笑う。

    「なんでもない」

    本当は、少し思い出していた。

    返信が遅いだけで苦しかった頃。

    会えないだけで不安だった頃。

    恋愛の記事ばかり読んでいた頃。

    ずっと、安心できる言葉を探していた頃。

    でも今は、探していない。

    ただ、ここにいる。

    その違いは、
    自分で思っているより大きい気がした。

    夕方。

    スーパーへ寄る。

    晩ご飯の材料を買う。

    どっちがカゴを持つかで少し揉める。

    何を作るかで悩む。

    「鍋でよくない?」

    「また鍋?」

    「冬だし」

    「まあ、冬だしね」

    そんな、どうでもいい話ばかり。

    でも楽しい。

    部屋へ戻る。

    翔太が野菜を切る。

    美咲が味見をする。

    「薄い?」

    「ちょっと」

    「やっぱり?」

    二人で笑う。

    特別なことは何もない。

    それなのに、美咲は何度も思う。

    幸せだな。

    食事を終える。

    片付けを始める。

    翔太が皿を流しへ運ぶ。

    何も言わずに。

    当たり前みたいに。

    その姿を見て、美咲はふと思い出した。

    あの日のペットボトル。

    なんで私ばっかり。

    そう思った日。

    あの日は、
    あの違和感の意味なんて分からなかった。

    ただ、
    自分の中に小さな声があることだけに驚いた。

    でも今なら、
    少し分かる。

    私は悪かったわけじゃない。

    翔太も悪かったわけじゃない。

    ただ、私にも希望があった。

    私にも本音があった。

    自分で思っているよりずっと、
    ちゃんと望んでいることがあった。

    それが見えていなかっただけだった。

    「どうした?」

    翔太が聞く。

    また同じ言葉。

    美咲は笑った。

    「なんでもない」

    本当に、うまく説明できなかった。

    けれど胸の奥は、静かに温かかった。

    夜。

    ソファに並んで座る。

    テレビはついている。

    でも、二人ともあまり見ていない。

    ただ隣にいる。

    その時間が心地いい。

    美咲は思う。

    昔の私は、不安がなくなれば幸せになれると思っていた。

    不安さえ消えれば。

    寂しくならなければ。

    怖くならなければ。

    そうすれば、ちゃんと恋愛できるのだと思っていた。

    でも、違った。

    今だって不安はある。

    寂しい日もある。

    会いたい日もある。

    時々、昔みたいにいろいろ考えてしまう日もある。

    それでも、前とは違う。

    不安になっても、
    すぐに答えを探しに行かない日がある。

    寂しいと気づくだけで、
    少し息がしやすくなる日がある。

    言えない自分を責める前に、
    怖かったんだなと思える日がある。

    そんな日が、
    少しずつ増えていた。

    翔太が隣で小さくあくびをする。

    美咲は思わず笑った。

    「眠い?」

    「ちょっと」

    「寝れば?」

    「まだ寝ない」

    「子どもみたい」

    「うるさいな」

    二人で笑う。

    本当に何でもない時間だった。

    でも、美咲は思った。

    会うと落ち着く。

    安心させてもらうからではなく。

    不安を消してもらうからでもなく。

    この人といると、
    私は少しずつ、
    自分のままでいられる気がする。

    そう思えたことが、
    静かに嬉しかった。


    最終章 不安の向こうにいた人

    年が明けて、最初の連休だった。

    朝、目を覚ますと、
    部屋はまだ静かだった。

    カーテンの隙間から、
    冬の光が細く差し込んでいる。

    時計を見る。

    まだ七時を少し過ぎたところだった。

    隣では、翔太が眠っている。

    規則正しい寝息。

    少しだけ無防備な寝顔。

    美咲は思わず笑った。

    起こさないように、
    そっとベッドを抜け出す。

    お湯を沸かす。

    コーヒーを淹れる。

    窓の外を見る。

    冬の空は高くて、青かった。

    静かな朝だった。

    特別な日ではない。

    記念日でもない。

    旅行でもない。

    ただの休日。

    でも、美咲はこういう時間が好きだった。

    コーヒーの香りが、部屋にゆっくり広がっていく。

    その時、後ろから声がした。

    「おはよう」

    振り向く。

    翔太が、眠そうな顔で立っている。

    「おはよう」

    自然に笑う。

    翔太も笑う。

    それだけ。

    それだけなのに、嬉しかった。

    二人で朝ご飯を食べる。

    洗濯物を干す。

    スーパーへ行く。

    テレビを見る。

    晩ご飯を作る。

    何も特別ではない。

    けれど、
    その当たり前の時間が、
    静かに愛おしかった。

    夕方。

    買い物帰りの道を、
    二人で並んで歩いていた。

    少し冷たい風。

    オレンジ色の空。

    翔太は、
    今日見た店の話をしている。

    美咲は笑いながら聞いていた。

    そして、ふと、あの投稿を思い出した。

    返信が遅い。
    ただそれだけなのに、
    頭の中では
    「嫌われたかも」
    まで進んでしまう。
    でも、本当にそうだろうか。

    あの時は腹が立った。

    そんなわけないじゃんと思った。

    返信が遅かったら気になる。

    不安になる。

    当たり前じゃないか。

    そう思っていた。

    今でも、その時の自分が間違っていたとは思わない。

    不安になるのは、本当だった。

    怖かったのも、本当だった。

    寂しかったのも、本当だった。

    ただ、今なら少し分かる。

    あの頃の私は、
    翔太を見ているようで、
    嫌われる怖さを見ていた。

    一人になる怖さを見ていた。

    過去の恋愛で傷ついた自分を見ていた。

    寂しさを見ないようにして、
    不安だけを握りしめていた。

    だから、翔太が見えていなかった。

    自分のことも、見えていなかった。

    美咲は空を見上げる。

    冬の夕暮れは、澄んでいるのに少し寂しい。

    でも、その寂しさは嫌ではなかった。

    不安がなくなったわけではない。

    今でも、不安になる日はある。

    寂しい日もある。

    怖い日もある。

    返信が遅ければ、
    少し気になることもある。

    会えない日が続けば、
    胸が重くなることもある。

    それでも、
    もう昔みたいに、
    不安だけが世界の全部になることは少なくなった。

    不安になった時、
    美咲は少しだけ立ち止まるようになった。

    スマホを握りしめたまま、
    すぐに答えを探しに行くのではなく。

    これは何だろう、
    と自分の中をのぞく。

    怖いのかもしれない。

    寂しいのかもしれない。

    本当は、会いたいだけなのかもしれない。

    そう思える日が、少しずつ増えた。

    そして、そのたびに思う。

    画面の向こうにいるのは、
    返信の速さでも、
    言葉の量でも、
    安心させてくれる証拠でもない。

    翔太という、一人の人だ。

    疲れる日もある。

    黙る日もある。

    弱音を吐く日もある。

    それでも、隣にいると笑ってしまう人。

    一緒にいると、少しだけ自分に戻れる人。

    美咲は隣を歩く翔太を見た。

    翔太もこちらを見る。

    目が合う。

    少し笑う。

    何でもない瞬間だった。

    でも、美咲は思う。

    この人と、ずっと一緒にいられたら幸せだな。

    未来のことは分からない。

    何が起きるかも分からない。

    絶対なんてない。

    それでも、今はそう思った。

    交差点の向こうで、信号が青に変わる。

    翔太が先に一歩踏み出した。

    美咲も、その隣を歩き出す。

    「何笑ってるの?」

    翔太が聞く。

    美咲は首を振った。

    「なんでもない」

    そして、少しだけ考える。

    もし、あの頃の自分に会えるなら。

    大丈夫だよ、とすぐには言わない気がした。

    考えすぎだよ、とも言わない。

    ただ、隣に座る。

    画面を握りしめる手のそばに、自分の手を置く。

    しばらく黙って、それから聞く。

    「今、何が不安なんだろうね」

    その問いを胸に浮かべながら、
    美咲は静かに笑った。

    青信号が、ゆっくり点滅し始める。

    翔太が少しだけ歩幅を緩めた。

    美咲も、
    その隣を歩いていく。

    冬の夕暮れの中、
    二人の影が静かに伸びていた。


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