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Z䞖代の喧嘩論発展ト䞊マガゞン『トコヌル』05号 掲茉予定 原皿

    Z䞖代の喧嘩論

    西口優毅
    1999月3月29日 生たれ

    私は喧嘩をする

    「西口さんっお喧嘩するんですか」ず驚かれるこずがある。倚くの人が思い浮かべる喧嘩は怒鳎り合いや蚀い争いなのだろう。しかし、私が蚀う喧嘩はそういうものではない。盞手を蚀い負かしたいわけでも、勝ち負けを決めたいわけでもない。たしおや暎力など論倖である。私にずっお喧嘩ずは「違うず思う」ず感じたこずを飲み蟌たずに䌝えるこずである。盞手が幎䞊であっおも、友人であっおも、恋人であっおも、共に掻動する仲間であっおも倉わらない。関係を壊したくないからず本音を隠すのではなく、関係を倧切にしたいからこそ、自分の考えを率盎に䌝える。
    あるプロゞェクトの進め方をめぐっお、䜕歳も幎䞊の方ず意芋をぶ぀けたこずがある。決しお心地よい時間ではなかった。互いに譲れない思いがあり、蚀葉も鋭くなった。しかし、お互いが盞手を吊定するのではなく、䞀人の人間ずしお誠実に向き合い続けた結果、それたで芋えおいなかった考えや背景を理解できるようになった。意芋をぶ぀け合ったあず、関係は壊れるどころか、以前よりも深くなった。喧嘩を通しお関係が深たる経隓は、䞀床きりではない。䜕床も繰り返しおきた経隓である。私にずっお喧嘩ずは、関係を壊す出来事ではなく、関係を぀くり盎し、より深めおいくための営みなのである。
    なぜ、私はあえお面倒な衝突をするのか。理由は単玔で喧嘩をしない関係性の方が嫌だからだ。䜕も蚀わなくおも衚面䞊は壊れない関係は䞀芋するず平和に芋える。しかし、波颚の立たない平和は本圓に信頌の䞊に成り立っおいるのだろうか。私は成り立っおいるずは思わない。むしろ、䜕も蚀えなくなった関係こそ、氎面䞋で静かに壊れ始めおいるのではないかず感じおいる。本皿は「喧嘩をしよう」ず単玔に勧めるために曞くものではない。そもそも喧嘩ずは䜕なのか。䞖代ずは䜕か。論じるずは䜕か。そしおなぜ私たちZ䞖代は喧嘩自䜓を避けるようになったのか。順を远っお考えおみたい。

    Z䞖代ずは䜕か

    たず「Z䞖代」ずいう蚀葉から始める。Z䞖代ずは1990幎代埌半から2010幎代前半に生たれた䞖代を指すずされる。しかし、Z䞖代ずいう括りは単なる幎霢の区分ではない。瀟䌚孊者のカヌル・マンハむムは、「䞖代」ずは同じ時代を経隓した人々によっお圢成されるものだず論じた。぀たり䞖代ずは、生たれた幎ではなく「いかなる瀟䌚を生きたか」によっお決たる集合的な経隓の単䜍である。私たちの䞖代は、物心぀いたずきからむンタヌネットがあり、スマヌトフォンがあり、SNSがあった。人間関係は教宀だけで完結しない。LINEの既読、Instagramのストヌリヌ、Xぞの投皿。誰かずの関係は24時間続き、䜕気ない䞀蚀もスクリヌンショットで切り取られ、文脈から切り離されたたた拡散し、時には炎䞊する。友人の茪の䞭で発した冗談ひず぀が、翌朝には党く別の意味を持っお広たっおいるこずさえある。垞時接続の瀟䌚で育った私たちは、「間違えないこず」を生存戊略ずしお自然ず孊んできた。空気を読む。嫌われない。敵を぀くらない。炎䞊しない。先に挙げた空気を読む力や嫌われない力は、デゞタル瀟䌚を生きるうえで確かに必芁なのだろう。しかし、匕き換えに私たちが差し出しおきたものがある。本音である。
    私たちZ䞖代が喧嘩を避けるのは、䞊の䞖代からしばしば蚀われるように「打たれ匱いから」でも「傷぀くこずを恐れおいるから」でもない。むしろ、喧嘩の結果が可芖化され、蚘録され、拡散される環境で育ったからこそ、私たちは喧嘩のコストを誰よりも正確に蚈算しおしたうのだ。職堎でも、䞊叞や先茩に本音をぶ぀ければ、「今どきの若者は」ずいう䞀蚀で片づけられ、評䟡やコミュニティ内の立堎に跳ね返っおくるこずを、私たちは経隓的に知っおいる。だから倚くの同䞖代は、喧嘩を避けおいるのではなく、喧嘩をしおも割に合わないず刀断し、静かに関係自䜓から撀退する道を遞んでいる。喧嘩を避ける態床は臆病さの問題ではなく、合理性の問題である。だからこそ、「もっず匷くなれ」ずいう粟神論ではなく、喧嘩ずいう営み自䜓の意味を、もう䞀床組み立お盎すための論ずしお蚘す。

    喧嘩ずは䜕か

    私たちは幌い頃から「喧嘩はよくない」ず繰り返し教えられおきた。仲良くしなさい、譲り合いなさい、人を傷぀けおはいけたせん、ずいう教え自䜓を吊定する぀もりはない。問題は、「人を傷぀けないこず」がい぀のたにか「違いを蚀わないこず」にすり替わっおしたったこずだ。本圓は玍埗しおいない。でも蚀わない。本圓は悲しい。でも笑う。本圓は怒っおいる。でも飲み蟌む。結果ずしお私たちは「喧嘩をしない人」にはなったかもしれない。しかし、代償ずしお「本音で関われる人」にもなれたのだろうか。私は疑問に思う。反論も予想される。喧嘩などしなくおも、優しさず配慮があれば関係は十分に続けられるのではないか、ず。だが私が問題にしおいるのは、優しさ自䜓ではない。優しさが「違いを芋なかったこずにする」ための蚀い蚳になっおいるずき、優しさはもはや優しさではなく、ただの回避に倉わる。
    「喧嘩」自䜓の意味をあらためお問い盎したい。哲孊者ハンナ・アヌレントは、人間を特城づけるものずしお「耇数性」ずいう抂念を提瀺した。人は䞀人ひずり違う。違う人生を歩み、違う経隓をし、違う䟡倀芳を持぀。だからこそ人間は語り合い、政治が生たれ、瀟䌚が圢成される。぀たり「違い」は瀟䌚の欠陥ではなく、瀟䌚が成り立぀ための前提なのである。もし党員が同じなら、察話は必芁ない。違うからこそ人は蚀葉を亀わし、違うからこそ時には衝突する。察立ずは倱敗ではなく、むしろ他者が本圓に他者ずしお立ち珟れた瞬間なのだ。ずころが珟代では、人ず人ずの違いが蚀葉になる前に消されおしたう。「たあいいか」「空気悪くなるし」「どうせ分かっおもらえない」結果ずしお本音は胞の䞭にしたわれる。私たちは察立を避けたのではない。他者ずの出䌚い自䜓を、あらかじめ避けおしたっおいるのである。
    哲孊者マルティン・ブヌバヌは、人間の関係を「我―それ」ず「我―汝」に分けた。「我―それ」ずは盞手を察象ずしお扱う関係である。圹に立぀から付き合う、損をしたくないから合わせる、空気を壊さないために笑う。「我―それ」の関係には人栌ではなく機胜しかない。䞀方「我―汝」ずは、盞手を䞀人の代替䞍可胜な存圚ずしお受け止める関係である。盞手は自分ずは違う。だから理解できないこずもあるし、腹が立぀こずもある。だが向き合おうずする。「我―汝」の関係には必ず摩擊が生たれる。私は向き合うなかで生たれる摩擊こそが喧嘩なのだず思う。喧嘩ずは怒鳎り合うこずではない。違う䞖界を持぀二人が本気で出䌚うこずである。

    論ずは䜕か、喧嘩論ずは䜕か

    喧嘩ずは䜕かを芋た䞊で、ようやく「論」の茪郭も芋えおくる。論ずは、単に自分の感情をぶ぀けるこずではない。自分の感情や考えの理由を蚀葉にしお差し出し、盞手の蚀葉ず照らし合わせる営みである。感情だけがあれば喧嘩は諍いで終わる。しかし論が䌎うずき、喧嘩は単なる衝突ではなく、互いの䞖界の芋え方を曎新し合う察話になる。喧嘩論ずは、摩擊を通じお他者ず出䌚い、論によっお蚀葉にしおいくずいう䞀連の営み自䜓を指す蚀葉だず、私は考えおいる。
    もちろん、私が蚀う喧嘩は暎蚀でも暎力でもなく、人栌を吊定するこずでもない。珟代では「論砎」ずいう蚀葉が流行した。SNSでは勝った方が正しいように芋える。しかし本来の喧嘩は勝敗を決めるものではなく、盞手を負かすためではなく盞手を知るためにある。良い喧嘩には勝者はいない。あるのは「昚日より少し盞手が分かった」ずいう倉化だけである。
    では、良い喧嘩ず悪い喧嘩を分けるものは䜕か。私が倧切にしおいるのは、語っおいる察象が盞手の人栌なのか、目の前の事柄なのか、ずいう点である。「お前はい぀も同じだ」ず過去や人栌に話が飛び火した瞬間、発蚀は喧嘩ではなくただの攻撃に倉わる。もう䞀぀倧切なのは、自分が話す以䞊に盞手の蚀い分を聞こうずしおいるかどうかだ。論砎が目的化した瞬間、人は聞くこずをやめ、次に蚀う反論を頭の䞭で準備し始める。準備に忙しくなった時点で、察話はすでに成立しなくなっおいる。そしお、喧嘩のあずにもう䞀床顔を合わせられるかどうかも、芋過ごせない分かれ目になる。良い喧嘩は関係を切断しない。むしろ、次に䌚うずきの解像床を䞊げる。事柄に぀いお語り、盞手の蚀葉に耳を傟け、たた顔を合わせられる。䞉぀の条件が重なる喧嘩は、関係を壊す暎力ではなく、関係を耕す䜜業になる。逆に、いずれかが厩れた瞬間、蚀葉がどれだけ䞁寧であっおも、発蚀は喧嘩の皮をかぶった別の䜕かに倉質しおしたう。私は良い喧嘩も悪い喧嘩も経隓した。振り返れば、うたくいかなかった喧嘩は決たっお、䞉぀の条件のどれかを自分が螏み倖しおいたずきだった。

    安心しお喧嘩ができる瀟䌚ぞ

    「倚様性」が倧切だず蚀われる時代になった。しかし倚様性ずは「みんな違っお、みんな仲良し」ずいうこずではない。違うからこそぶ぀かり、なお関係を続けようずするずころに、倚様性の本圓の難しさがある。違いを認めるずは、違いを芋お芋ぬふりをするこずではなく、違いに぀いお語り続けるこずだ。違いに぀いお語り続ける営みこそ、喧嘩なのである。
    誰かに本音を䌝えるべきか迷いを抱えおいるなら、䞀぀だけ自分に問うおみおほしい。沈黙を遞ぶ理由は、盞手を思いやっおいるからなのか、たたは自分が傷぀きたくないからなのか。盞手を思いやっおの沈黙であれば、優しさかもしれない。しかし自分を守るための沈黙であれば、ただの回避であり、いずれ関係自䜓を痩せ现らせおいく。喧嘩はしなければならないものではない。けれど、蚀うべきずきに蚀わなかった䞀蚀は、消えおなくなるわけではなく、関係の底に静かに沈殿しおいく。積み重なった沈殿を抱えた関係は、傍目には穏やかに芋えおも、圓人たちのあいだにはもう本音の通う隙間が残っおいない。
    私は喧嘩が奜きなのではない。人が奜きなのだ。盞手に期埅しおいるから本音を䌝える。盞手を信じおいるから「違う」ず蚀う。もし盞手に䜕の期埅もしおいなければ、人は喧嘩すらせず、黙っお離れおいくだけだろう。だから私にずっお本圓に怖いのは喧嘩ではなく、無関心である。䜕も蚀わなくなるこず。䜕も期埅しなくなるこず。静かな諊めの方が、怒鳎り合いよりもよほど関係を壊しおしたう。
    私は今の時代に必芁なのは「喧嘩をしない瀟䌚」ではないず思う。必芁なのは「安心しお喧嘩ができる瀟䌚」である。本音を蚀っおも、すぐに切り捚おられない瀟䌚。違うず蚀っおも、人栌たで吊定されない瀟䌚。察立しおも、もう䞀床話し合える瀟䌚。安心しお喧嘩ができる瀟䌚のなかでこそ、人は他者ず出䌚い、自分自身を曎新しおいくこずができる。喧嘩ずは関係の倱敗ではない。喧嘩ずは違う䞖界を持った人間同士がずもに新しい関係を創り盎そうずする営みである。だから私は今埌も喧嘩をする。人ず本気で関わり続けたいからである。

     
     
    1999幎3月29日 倧阪府 生たれ PaKT孊生代衚 小䞭高生のための倧孊院Coda school事業郚長 発展ト䞊マガゞン『トコヌル』副線集長 同志瀟倧孊倧孊院総合政策科孊研究科博士埌期課皋圚籍 日本゜ヌシャル・むノベヌション孊䌚理事 倧阪産業倧孊経営孊郚非垞勀講垫

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