
母親辞めますか、人間辞めますか。―母性神話に壊される母たち―
先日、ゲノム編集ベビーに罰則を設けるとのニュースを見ました。
率直な感想は、「は?」でした。
現時点で安全面に問題があるから禁じる、ここは理解できますが、倫理がどうこう言っている人たちは、障害児をワンオペで育てる気概があるのでしょうか。
個人的には、デザイナーズベビー、上等だと思っています。
将来的に遺伝子から障害を取り除ける可能性があるのなら、むしろ研究は進めていくべきではないでしょうか。実際に一部患者団体からは、研究推進を望む声もあるそう。
生まれる前からハンデを負わせたい親などいません。誰しも、我が子にはできる限り健康で幸福な一生を送ってほしいと望むものでしょう。
その可能性を高めることに、いったい何の問題があるのか。
容姿や能力に関しても、少子化が深刻な今、親が望むようにデザインできるのであれば、悪くはないと思っています。親が子を愛する確率が上がりますから。
望んだ性別ではなかった、望んだ容姿ではなかった、望んだ性格ではなかった。このようなぼやきはよく耳にします。
もちろん、通常はそれを直接子に伝えることはしないでしょうし、なんだかんだ可愛い我が子でしょう。
でも、子を愛せない親も一定数います。親は必ずしも子を愛さない。
望んだようにデザインして生まれても、望んだように育たなければ、やはり愛さない親もいるとは思います。けれど、そういう親は望まないスペックの子が生まれたら、生まれた瞬間から愛しません。
であれば、まだ自分が望んだようにデザインした子が生まれた方が、「きっと望んだように育つはず」という希望のもと、幼少期だけでも愛する可能性が上がると思います。
親のわがままでしょうか。では、親はわがままではいけないのでしょうか。
まず、私の立場を明示しておきます。
私は発達障害の当事者(ASD+ADHD診断済み)であり、結婚も出産もしないと決めて、そろそろ出産適齢期を過ぎる頃合いです。
毒親をテーマに執筆することが多く、基本的には子の視点で意見を述べています。
しかし今回は、「子どもを持ちたくない女性」としての目線を中心に語ってみたいと思います。
子どもがいないのに母親について語ることは、実際に子育てを経験した母親からは反感を買うかもしれません。しかし、当事者ではないからこそ言えることもあるでしょうし、あくまで「子どもを持ちたくない女性」の目から「このように見えている」という意見となります。
2026年3月、若者の6割が子どもを持ちたくない、というニュースが話題となりました。
現代では子を適切に養育することが重視されており、子育てに関する情報も進化し、「正しい子育て」をする重圧が増していると感じます。
また、金銭的負担も重く、子育てはもはや富裕層にのみ許された娯楽とすら言えそうです。
中でも重いのが、母親の負担。
今の風潮を見ていると、母親は人間を辞めない限り、世間が思い描く「理想の母親」にはなれないのではないでしょうか。
その理由は、母親が接する対象によって、求めている姿が大きく異なるからです。
ひとつは、父親。
父親が望む母親像は、昔ながらの良妻賢母。
いつもにこにこ機嫌が良く、家事や子育ての一切を担い、自分を煩わせることがない。週末の家族サービスでは、ご機嫌で躾の行き届いた我が子と楽しい休日を過ごさせてくれる。
出産後も美しいスタイルを保ち、家の中でも化粧をし女性としての魅力を失わず、夜は積極的にセックスに応じてくれる。
それでいて疲れを見せることもなく、自分と同程度か少し低いくらいの稼ぎを家に入れ、個人的な買い物で散財することはしない倹約家。
ひとつは、会社。
会社が望む母親像は、一人前のタスクをしっかりこなす社員。
急に休んだり早退したりせず、独身の男性社員と同じように責任ある仕事をこなしてくれる。
残業や休日出勤にも快く対応し、転勤も可能。
それでいて、後続に「ワーママのロールモデル」として提示できるよう、家庭も円満であってほしい。
ひとつは、子ども。
子どもが望む母親像は、絶対的な自分の味方。
いつでも傍にいてくれて、甘えさせてくれる安全基地。
怒ったりはせず、優しく、笑顔で、いつも機嫌が良く、たくさん抱きしめて、愛情を言葉でも伝えてくれる。
どんな時でも必ず相手をしてくれて、自分の気持ちをわかってくれて、信頼し見守ってくれる存在。
ひとつは、母親自身。
母親自身が望む母親像は、「母親」という役割に囚われず、名前を持った一個人。
父親が育児に協力的で、両親の適切な手助けもあり、会社は子育てに理解があり、子どもは素直で健康。
友達と遊びに行くこともあり、愚痴を零す相手もおり、ひとりの時間も持てる。
自分の稼いだ金で自由に自分の物を買い、オシャレをし、趣味を楽しみ、感情を殺すことなく喜んだり悲しんだりできる。
この4つの姿を、同時にとることは不可能です。そのためには4人必要です。
しかし、現実には、これらが全て同時に求められています。
故に、どの要求にも答えることができません。
父親の望む姿にはなれません。
まず出産した時点でボロボロなのが当然であり、姿が変わっただの詐欺だの言い出すなら子を望むべきではありません。
子を持った時点で「父親」なので、子育ての面でも戦力になってもらわなければ困ります。
現在は共働きが主流なので、仕事も家事育児も、ふたりで分担することになります。
分担というのは、総量は決まっており、両者の天秤が釣り合うようにしなければなりません。
単純化して表すと、
妻(仕事50:家事50):夫(仕事50:家事50)
とします。これが基本形、独身時代は両者が総量100で動いており、結婚後は足して200とします。出産後は家事に育児も含みます。
この割合を、状況に応じて中身を入れ替えたり、得意を分担したりして
妻(仕事30:家事70):夫(仕事70:家事30)
というような形になることはあると思います。ところが
妻(仕事30:家事100):夫(仕事60:家事0)
となったらどうでしょうか。
見てわかる通り、片方の負担が130%です。明らかにキャパを超えています。
しかし、仕事だけにフォーカスすると、父親が母親の倍働いています。結果、「自分は妻の倍稼いでいるのだから、家事育児は全部妻がやるのが当然」みたいな意見が爆誕します。
これは因果関係が逆で、家事を100押し付けられているから、仕事が30に制限されるのではないでしょうか。
そのくせ父親は仕事が60なので、母親と足しても100にはならず、一家族分賄えていないので、結局稼ぎの総量も少なくて喧嘩になるという。
仕事60で一人前の役割をこなしていると言えるのは、家事を40こなしている場合です。
これは極端な例ですが、0とは言わずとも、家事10くらいしかやらない、なら結構いるんじゃないでしょうか。
100:100があるべき姿ですが、結婚したら家事育児の負担は母親に”上乗せ”していい、少し仕事をセーブすれば母親ならできるはず、という幻想が蔓延しています。
会社の望む姿にもなれません。
子どもという生き物はすぐに体調を崩すものであり、エスパーでもなければ毎回それを予知できるわけもなく、母親の意思でコントロールすることは不可能です。
結果、欠勤や遅刻早退が増え、周囲に協力をお願いすることになり、常に心理的負担を抱えながら働くことになります。
最初は快く引き受けてくれた同僚も、会社に余剰の人員がなく、負担ばかりが増えていくので、次第に冷たくなっていく。
限られた時間の中で最大限のパフォーマンスを出すようにしていても、いつ子のことで予想外の出来事が起こるかわからず、責任ある仕事には手を上げづらい。
余裕のない状態で部下を指導すれば、ついイライラして感情的になることも考えられ、パワハラに厳しいこの時代、昇進も気が引ける。
子の望む姿にもなれません。
これが一番心苦しいでしょうが、妻としての役割と会社員としての役割をこなしながらでは、子が理想とする母親ではいられません。
例えば、朝出かける前、子が「自分で靴をはきたい!」と言ったとします。
当然手間取って、時間がかかって仕方がありません。でも、子はどうしても自分でやりたい。
このあとに予定が一切なく、のんびり子と公園にでも行くつもりであれば、子が自力で靴を履けるまで、何時間でも待ってあげられるでしょう。
しかし現実には、出社の時間が迫っており遅刻するわけにはいかなかったり、保育園の送迎バスがきていて待たせられなかったりするわけです。
そうなると母親も焦ってイライラして、靴を取り上げて無理やり履かせたり、「早くしなさい!」と怒鳴ったりしてしまいます。
自分の意思を尊重されなかった、大好きな母親に怒鳴られた子は、当然傷つきます。信頼されていない、できないと思われている、そしてできない自分はダメな子だから怒られた。
良い子でなければ愛されない。母親の思い通りにしている時だけ褒められ、優しくしてくれる。条件付きの愛情を学習することにより、自己肯定感がガンガン下がる。
母親も怒りたくて怒っているわけではないでしょうが、これが積み重なって、子の人格形成に大きな影響を与えます。
上記で述べた理由から、母親自身が望む姿にもなれません。
昔のような地域での子育てがなくなり、親世代の教育方法に難を感じる世代では、基本的に両親のみが養育に関わります。保育園などに預けたとしても、クレームを防ぐために家庭の教育方針には口を出せないため、教育・躾は家庭に任されます。
この時点で昔よりも負担は増し、更に父親が協力的でなかった場合、母親が一手に負担を引き受けることになります。
また「正しい育児」が一般に語られるようになったことにより、世間が母親に求める要素も増えています。
正しい育児のために、母親に望まれているのは、完璧に感情を制御したマシンです。
故に、人間らしい感情を持っている限り、理想の母親にはなれないのです。
健常児でも育児は大変なことですが、昨今、発達障害者は10人に1人とも言われています。
決して他人事ではなく、「まさかうちの子が」と言える確率でもありません。
発達障害者が増加したのではなく、発達障害という概念が浸透し、診断を受ける者が増えたために増加した、との説が有力です。
また、かつてASDは男性に多いとされていましたが、女性は専業主婦となることが多く、働く場で問題になることがなかったため、顕在化しなかったという説もあります。
その他に、生まれながらの発達障害ではなく、発達性トラウマ、愛着障害によっても、発達障害とよく似た症状が出ます。
現代では共働きが増え、母親から十分な愛情を受けられないがために、愛着障害も増加傾向にあると論じられています。
故に、発達障害も増えているのではないでしょうか。
『発達障害も愛着障害もこじらせない』では「ASDとは、持って生まれたASD特性に、日々の被害的な誤解などのトラウマが無限に累積した結果である」(1)と述べています。トラウマがなければ、ASDは「周囲から愛される癒し系の人になることが多い」とも。
親だって、誰しもトラウマを与えたいなどと思っているわけがない。
それでも、親が「良かれ」と思ってしたこと、親に余裕がないことによって、子のトラウマは累積されていく。
どうしても、親は「普通になってほしい」と思いがちです。何故か、「普通」に矯正した方が、幸せになれると思っている。ですが、発達障害児は、親の望む「普通」にはなれません。
『去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床』では、「子どものためを思って言っているのだから、親の言うことを聞くのは当然だ。なぜうちの子はそれができないのか、などと自分の正しさを確信している」(2)と述べています。
だいたいの親は、「周囲と同じである、普通こそ正しい状態」と思っているのです。
そして普通でないことが悪いことだと思っているから、普通でない我が子を認められず、療育や支援学級を避ける。
療育というのは仮に健常児が受けても良いことであり、支援学級ではひどいいじめが起こりにくいそうです。にも関わらず、「普通の教育を受ける権利がある」「支援学級に入れるほどうちの子はひどくない」と普通学級に入れ、結果起こるべくして起こったいじめにより大きな傷を受ける。
子は親からの「普通であってほしい」プレッシャーを受け続け、普通でなければいけないと思い込み、普通になれない自分に苦しみ、取り返しがつかないほど歪んでいく。
『発達障害も愛着障害もこじらせない』では、不登校についてわかりやすい事例が多く載っています。
不登校児を持ったことのある親なら、誰しも覚えがあるようなことです。
特に注目して欲しいのが、親の態度。
「なんで行けないの!」という叱責や、「今日は行くの? 行かないの?」といった詰問がまずいのは、おそらくわかると思います。わかっていても、怒鳴ってしまう親もいるでしょうが。
しかし、それをぐっと我慢したとして。落胆の溜息、冷たい目、呆れたような表情。
これらを片鱗でも見せれば、子は気づきます。そしてその一瞬で、母親は味方ではなくなり、家は安全基地でなくなり、どこにも居場所がなくなり、孤立します。
これを避けるためには、母親はどれほど内心が荒れ狂っていたとしても決してそれを表に出さず、まるで子が家に居続けるのが当たり前のように振る舞わなければなりません。
たとえ子のことが嫌いになってしまったとしても。子が成人するまで、徹頭徹尾、「愛しているフリ」をし続けなければなりません。
母親がマイナスの感情をそのまま表出することは子にとって暴力です。
母親は子の前では常に、決して悟られることのない仮面を貼りつけていなければなりません。
このあたりが、母親が苦しむ要因でもあります。
養育のための本を読むと、どうすれば「子のためになるか」が書かれていても、どうすれば「母が楽になるか」は、あまり書かれていません。
子を適切に養育することができるようになると、結果母親の負担が減る、気持ちが楽になる、ということはあるでしょうが、そこに辿り着くまで、母親はひたすら我慢です。
そして、この手の本では、だいたい母親が対応することが前提とされています。
父親が全く登場しないわけではないですが、どちらかというと父親が登場するのは性加害者としてなど、トラウマを与える側です。
全体として、子の幸福のためには、母親が正しく機能することが求められています。
一方で、求められる要素が増えたことに反発するように、「母親も一人の人間である」という意見は令和になって強まってきました。
母親だって好きなファッションを楽しむ権利がある、恋愛をする自由がある、子どもとはいえ他人同士、むかつくこともあって当然。時には思い知ることも必要。
SNSでは母親同士が愚痴を吐き合ってガス抜きしている様子も見られます。
個人の自由を尊重する姿勢は時代に沿っており、母親の人権を考慮するなら、この思想こそ広めていくべきです。
しかし、子が健やかに育つという点のみにフォーカスした場合、母親は子の犠牲にならねばなりません。
あえて犠牲と言い切ります。お互いが心地良く、が限りなく不可能に近いからです。
子にとって、母親に嫌われるということは世界の終わりであり、死を意味します。絶対的に弱い立場である子と、支配できる立場である親が対等なわけがありません。
子にむかつくことがあったとしても、それを向ける対象は子であってはならず、愚痴を零す相手は配偶者か信頼できる相手です。
SNSは懐疑的です。ネットに上げた以上、スクショを撮られている可能性は本人が思っているよりも高く、小学生になればスマホを持ち出す現代、成長した子が親のアカウントを特定する可能性は低くありません。
親は怒ってはいけないのか、と言われれば、そうです。叱ることはあっても、怒ってはいけません。「どんな横暴も許せと言うのか」みたいな極端な思考の方には、『去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床』に回答がありますので、そちらを参照してください。こちらは比較的親にも寄り添っている書です。
母親が感情を発露する場所は、別途用意されていなければなりません。しかし、先に述べた通り、現在の子育てはほぼ両親のみに任されており、父親が非協力的な場合、母と子が閉じた空間に取り残されます。空間内にふたりきりなので、母親に限界が訪れた時、ぶつける対象が子しかいない。
今の世の中では、子の健やかな成長と、母親の人権が、両立できません。
どちらかが犠牲になります。
子が犠牲になった場合、親を恨み、自分を見限り、負の連鎖を止めるべく、子を持たない選択をします。
母親が犠牲になった場合、それを見てきた、あるいは成人しその意味を理解した娘は、「ああはなりたくない」と、子を持たない選択をします。
X(旧Twitter)では、自動翻訳が装備されたことにより、世界中の人たちの意見交換がより活発になりました。
そして多くの国で、女性たちは似たような状況におかれ、似たようなことを考えていることがわかります。
少子化についても、日本に限ったことではありません。
また、これは令和になって急に出てきた思想でもありません。
アメリカのベストセラー小説『風と共に去りぬ』に、こんな一文があります。
「しかし、神さまも知っていらっしゃる、もし子どもをもたずにすむものなら、頭のしっかりした女は、だれだって子どもなんかほしいとは思わないだろう」(3)
この小説が刊行されたのは1936年です。この頃から既に、自立を望む女性は、子どもなんか産みたくなかったのです。
この文章の前には、「男の手など借りずとも、女は生きていける」という文章があります。
主人公は非常に魅力的な女性で情熱的な恋愛をしますが、それでも家庭はもちたくないのです。男に頼って生きる気もないのです。恋愛と結婚、出産がイコールでないことの良い例です。そして彼女に多くの女性が憧れました。
この手の記載は、古い小説を読んでも、ちらほら見かけます。つまり、はるか昔から、多くの女性が結婚も出産も望んでなどいなかったのです。
さんざん言われていますが、母性神話などまやかしで、特に自立している女性は子どもなんかほしくないのです。
これを古くは男性に従属させ、家に縛り付けることで、強制的に実行させてきました。
しかし女性が経済的に自立できるようになった令和の時代、「男なんかいらない」と思った女性たちは結婚せずにひとりで生きています。それを苦だとも思っていません。
毒親、親ガチャといった言葉が出てきて、親の失態は簡単にネットに晒されるようになりました。
子が周囲に助けを求めやすくなった反面、親のプレッシャーは計り知れません。
完璧な親でなければ、子を持ったらいけないのか?
子の幸せを絶対条件とするなら、そうです。
逆に言えば、子の幸せを考えなければ、誰でも子を持てます。
生まれたからには自力でどうにかしろ、「親はなくても子は育つ」を前提にするなら、そう気負うことではありません。
しかし加減を間違うと通報一択です。そこまではいかなくとも、子に恨まれる確率は高く、老いてからの報復は覚悟した方が良いでしょう。
よく母親が「産後の恨みは一生」と言いますが、子も同じです。「幼少期の恨みは一生」です。成人後に優しくなろうと、すり寄ってこようと、幼少期の傷が癒えることはありません。一生苦しめられるのです。だから「毒」なのです。
母親の犠牲によって成り立っていたシステムが崩壊しているだけなので、少子化はなるべくしてなった結果であり、このまま緩やかに滅ぶのも人類の結末として相応しいような気がしないでもないですが。
あえて少子化対策などという言葉を使って、どのようになるのが理想かと言うのなら。
母親のケアが最優先なのではないかと思います。
最初の方に述べた母親自身が望む母親像。
全てではないですが、多くの父親は、これに近い状態を叶えてきたのではないでしょうか。
産みの苦しみはなく、家事育児の大半を妻に任せ、会社では自己実現をし、週末は張り切って子と遊び、可愛さだけを享受する。気軽に飲み会の予定を入れ、ストレスを発散し、友達と疎遠になることもなく、家はリラックスできる場所。
つまり、多くの母親は、父親になりたいのです。
少なくとも私が目にする範囲では、母親たちの望みはコレです。
子が可愛く、仕事より子育ての方をメインにしたいと望む人も、24時間理由もわからず泣き続ける我が子と部屋に閉じこもりっぱなしでいたいとは思っていないでしょう。
適度に休息をとりつつ、心身共にゆとりをもって、我が子と接したいのではないでしょうか。
産むことについては、残念ながら現段階では母親が産む以外に方法がありません。
それでも、可能な限り苦痛を避ける方向には進められると思います。現状、女性は痛みを感じないと思われているので。
いずれ医療が進化したら、試験管ベビーを療育ポッドにでも入れて、育つようになったらいいなとは思いますが。
育てることについては、母親が子を愛することに専念できる環境を整えれば、今よりは産みたい女性が増えるのではないかと思います。
家事を含めた、子と直接関わる以外の一切の雑事をパートナーもしくは、代行サービスがこなす。
母親がちょっと息抜きしたい、イライラしてきた、と思ったらすぐに子を預けられる場所がある。
いつでも好きな時に外でガス抜きできるなら、子に直接当たる確率は下がります。
雑事のタスクが減るなら、子を急かすことも減るでしょう。
そしていつでも子の傍にいられるように、働かなくてもいいだけの資金。
働きたい人には、適度に働ける環境。
更に子の環境を考えると、子が自由に叫んで走り回っても気をつかわなくて済む、広い家と公園、あるいは自然のある場所。
子の個性に合わせた、適切な教育を施してくれる家庭教師がいれば尚良し。
贅沢でしょうか。ですが、「羨ましい!」「こんな生活ができるなら、母親になりたい!」と思う人が増えないと、結局産みたい女性は増えません。
人手不足に対し、労働環境の改善と給料が上がらないと働きたい人が増えないという理論はすんなり理解できるのに、何故人口不足に対し、母親に対して待遇の改善と支援金が増加しないと産みたい人が増えないという理論は理解したがらないのか。
母親は父親になりたいと述べましたが、どうにも代用できないのは、母親は子の傍にいなければならないという点です。たまに会いに来るおばさんでは困ります。
異性愛者が、友達ではどうしてもダメで、異性でなければ埋まらない穴があると言うように。
子どもにも、父親ではダメで、母親でなければ埋まらない穴があります。
父親が全ての役割を代行できるのなら、療育の本が、母親にばかりあれほど役割を課す理由がありません。
極論、どうしても、どちらか片一方がボロボロにならなければ育てられない場合、まだ父親がボロボロになっているほうが影響少ないんじゃないでしょうか。
それで子を虐待するようであればもちろんアウトですが、母親がボロボロなのを見ると子は自分を押し殺し、母親のために自我を出さない「良い子」になろうとします。
母親がボロボロになりかけていたら、率先して父親がボロボロになり、妻と子に労ってもらった方が、まだ平和かと思われます。
こども家庭庁が「こどもまんなか」を掲げていますが、そもそも母親が産まなければ子どもは存在しません。
まず目を向けるべき、まんなかにすべきなのは、母親と、母親になろうとしている人々なのではないでしょうか。
それを女のわがままと切り捨てるなら、やはり緩やかに滅びるのが妥当かと思います。
引用出典:
(1)村上 伸治 (2025)『発達障害も愛着障害もこじらせない』日本評論社,p24
(2)田中 茂樹 (2020)『去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床』日本評論社,p56
(3)マーガレット ミッチェル (著)、大久保 康雄・竹内 道之助(訳)(1988)『風とともに去りぬ』河出書房新社,2巻p340