
「気軽な感動」と「重たい感動」
あなたはどっちがほしいですか?
スピッツ新曲「見知らぬ糸」が配信されました。
特に印象的で繰り返し聞きたくなる2番。
泥の涙は隠して
気軽な感動に溺れた
濁りなき望みだけ
美しいと信じたけど
気軽な感動という斬新なワードが心にひっかかっています。
「感動」という、どちらかといえば重みのある言葉に、「気軽な」という真逆の言葉が重なることで、皮肉たっぷりになる。
「泥の涙(自分の中の生々しい痛みや悲しみ)」を見ないふりして、インスタントにアクセスできる優しい物語や、すぐに涙を流してスッキリできるようなエンタメに簡単に逃げ込みます。
YouTubeとかNetflixで時間を溶かすとかね…。
そんな虚無感が「気軽な感動」というたった五文字で表現されています。
じゃあ、逆に「気軽じゃない感動」って一体なんだろう?そんな疑問が湧いてきました。
飼われた魚のように
餌を待つ 平穏なルーティーンから
跳ね上がり 抜け出して
海原をひとり来たのさ 再びめぐり会えるって
安全だけど不自由なルーティンから抜け出し
海原に身を投じた主人公。
「気軽な感動」を手放して、「重たくて特別な感動」を求めることは、過酷な現実や孤独と向き合うことになります。
間違う糸はほどけて また焦がれて
明かされないなら ペテンでも構わない
ありのままになる 少し強くなれる
美しいと信じていた真っ直ぐな望みは叶う保証もなく、むしろ騙されているかもしれないけど
いっそそれでもいい。
そのヒリヒリするような痛みや迷いをすべて引き受けたからこそ、主人公は偽りのない「ありのまま」の自分にたどり着き、「少し強くなれる」と胸を張ることができた。
気軽な感動を楽しみながら、平穏なルーティンで暮らすこともひとつの幸せだと思うし
私はそういうのに憧れもある。
それで我慢できればよかったのかもって。
でも、やっぱり私は水槽を飛び出しちゃうタイプの人間なので、痛い経験だらけ。何やってるんだろう自分は?と思うこともしばしばある。
この曲が歌ってくれてるように「ありのままの自分」でいることの心地よさとか、ナチュラルな強さみたいなのは感じられるようになったし
これが自分だと受け入れられるようになり満足している。
私が言いたいのは、どんな感動でも自分で選んだらそれでいいと思う。
急に雑なまとめですみませんが
とにかくスピッツはすごい。
考えさせられました。
おわり