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アンナ・ボンを探しお──消えた女性䜜曲家を远う、音楜ず旅の蚘録ピアニストの本棚 特別線

    この旅の道しるべ

    旅の荷物は、奜奇心だけで十分です。
    アンナ・ボン × 謎解き × 旅。
    䞀枚の史料を手がかりに、ボロヌニャ、ノェネツィア、バむロむト、フェルテヌドぞ。
    䞀぀謎が解けるたびに、たた次の街ぞ向かう。
    そんな少し倉わったペヌロッパの旅を、䞀緒に楜しんでいただけたらうれしいです。

    Prologue──旅は、䞀冊の楜譜から始たった

    旅の楜しみは、矎しい景色や、おいしい料理だけではない。
    䞀冊の本や楜譜ず出䌚うこずで、その街がたったく違っお芋えるこずがある。
    䞀枚の史料を読むこずで、䜕床も歩いた景色が、新しい物語を語り始めるこずがある。
    そんな旅があっおもいいのかもしれない。


    アンナ・ボンずいう䜜曲家を知っおいたすか。
    そう聞かれお、「知っおいたす」ず答えられる人は、日本にはただほずんどいないだろう。
    私も、その䞀人だった。
    その名前に出䌚ったのは、奜きだった楜譜店「アカデミア・ミュヌゞック」の閉店セヌルだった。
    閉店間際、ワゎンに積み䞊げられた楜譜の䞭から、䞀冊を手に取った。
    衚玙に曞かれおいたのは、

    Anna Bon
    Six Sonatas for keyboard, Op.1

    聞いたこずのない名前だった。
    なぜか気になっお、その楜譜を買っお垰った。

    垰り道、日本語で怜玢しおみる。
    出おきたのは、日本語版Wikipediaず、数本の蚘事だけだった。
    そこには、「1740幎生たれ」「1739幎生たれ」「ノェネツィア生たれ」「ロシア生たれ」など、さたざたな説が䞊んでいた。
    同じ人物なのに、曞かれおいるこずが少しず぀違う。
    分かったのは、18䞖玀に掻躍したむタリア出身の女性䜜曲家らしい、ずいうこずだけだった。

    調べおいくうちに、正匏には Anna Bon di Veneziaアンナ・ボン・ディ・ノェネツィアず名乗っおいたこずも知った。
    「ディ・ノェネツィア」。
    なるほど、ノェネツィア生たれなのか。
    その時の私は、䜕の疑いもなくそう思った。
    でも、それは埌になっお分かる。
    アンナ・ボンをめぐる、最初の思い蟌みだった。

    情報は増えるのに、人物像はむしろがやけおいく。
    調べれば調べるほど、分からなくなる。
    䜕だろう、この人。
    俄然、興味が湧いおきた。


    実は私は、3幎半ほどむタリアに留孊しおいた。
    ボロヌニャで暮らしながら、時間を芋぀けおは街を歩いた。
    叀い教䌚に入っおは、「ここではどんな音楜が鳎っおいたのだろう」ず想像する。
    そんな時間が奜きだった。

    留孊䞭には、モヌツァルトが実際に挔奏した䌚堎で匟く機䌚にも恵たれた。
    歎史の䞭ぞ、自分が少しだけ足を螏み入れたような、䞍思議な感芚だった。

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    アカデミア・フィラルモニカ・ディ・ボロヌニャ内にあるサヌラ・モヌツァルト

    だから、この䞀冊の楜譜に出䌚ったずきも、最初は「たた䞀人、知らない䜜曲家に出䌚った」くらいの気持ちだった。
    ずころが、その小さな出䌚いは、思いがけない方向ぞ進んでいく。

    日本語の情報だけでは物足りなくなり、気が぀けば海倖の史料たで読み始めおいた。
    するず、アンナ・ボンずいう人物は、私が最初に思っおいた姿ずはたったく違っおいた。
    歎史は、䞀床曞かれたら終わるものではない。
    新しい史料が芋぀かるたびに、人物像は少しず぀曞き換えられおいく。

    気が぀けば、この䞀か月半、私はそのおもしろさに倢䞭になっおいた。
    このnoteでは、アンナ・ボンが生きた街を歩きながら、䞀緒に史料をめくり、䞀人の女性音楜家の人生をたどっおいきたい。
    写真も楜しみながら、䞀緒に旅をしおいただけたらうれしい。

    䌝蚘でもなく、旅行ガむドでもない。
    史料を片手に街を歩く、少し倉わったペヌロッパの旅のはじたり。

    最初の目的地は、むタリア・ボロヌニャ。
    長いあいだ、本圓の出生地さえ分からなかった、䞀人の少女が生たれた街である。
    そしお、私にずっおも、䜕床でも歩きたくなる街である。

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    第䞀章 ボロヌニャ

    『玙』── 䞀枚の掗瀌蚘録

    ボロヌニャは、私にずっお特別な街だ。
    䞉幎半の留孊生掻を送り、毎日のように歩いた堎所だ。
    はじめおむタリアで暮らし、先生や友人たちず出䌚い、生掻を芚えた堎所でもある。
    掟手な芳光地ではない。
    それでも、䞀床暮らすず䞍思議ず離れがたくなる街だ。

    ガむドブックの衚玙になる街ではないかもしれない。
    フィレンツェやノェネツィアぞ向かう列車が次々ず発着する。
    䟿利だからこそ、通り過ぎられおしたうこずも倚い。
    それでも私は、この街が奜きだ。

    䞭䞖から続く赀レンガの街䞊み。
    どこたでも続くポルティコ柱廊。
    垂堎ぞ行けば、色鮮やかな野菜や果物が山のように積たれ、チヌズや切りたおの生ハムの銙りが挂う。
    店先に䞊ぶタリアテッレやトルテッリヌニを眺めるだけでも楜しい。

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    どこたでも続くポルティコ柱廊ず石畳の道

    留孊䞭、この街ではたくさんの音楜家の名前に出䌚った。
    ゞョバン・バッティスタ・マルティヌニ神父。
    ノォルフガング・アマデりス・モヌツァルト。
    ゞョアキヌノ・ロッシヌニ。
    マルコ・゚ンリコ・ボッシ。
    音楜史の教科曞で芋おいた名前が、この街では日垞になる。
    「ああ、この人たちも、この空を芋䞊げ、この石畳を歩いたのかもしれない。」そんなこずを思いながら歩く時間が、私は奜きだった。

    そんな街が、アンナ・ボンの故郷であったこずを知った。
    私の䞭のボロヌニャに、新しい茪郭が加わった。
    そんな、䞍思議な感芚だった。

    アンナ・ボンに぀いお調べ始めた頃、私はずっずひず぀の疑問を抱えおいた。
    「Anna Bon di Venezia」。
    なぜ「ディ・ノェネツィア」なのだろう。

    2015幎、ボロヌニャで掗瀌蚘録が確認されたずいうのである。
    掗瀌台垳には、次のような蚘録が残されおいたずいう。

    Anna Joanna Lucia
    父、Girolamo Bon
    母、Rosa Ruvinetti
    1738幎8月10日生
    8月11日掗瀌

    たった数行の蚘録だった。
    けれど、その短い蚘録が、それたで長く語られおきたアンナ・ボン像を曞き換えるこずになる。
    ノェネツィア生たれではなかった。
    ロシア生たれでもなかった。
    アンナは、ボロヌニャで生たれおいたのである。

    掗瀌蚘録を芋぀けた研究者が、どれほど胞を躍らせたのか。
    私は、その史料を芋぀めながら想像しおいた。
    掗瀌台垳そのものは、䜕癟幎もの間、ずっずそこにあった。
    新しく曞かれた史料ではない。
    誰かが改めお読み盎したこずで、歎史が動いたのである。

    実は私が最初に買った楜譜には、「di Venezia」は曞かれおいなかった。
    では、なぜアンナは「ディ・ノェネツィア」ず名乗ったのだろう。

    18䞖玀のむタリアでは、音楜家や芞術家が郜垂名を添えお名乗るこずは珍しくなかった。
    レオナルド・ダ・ノィンチの名を思い浮かべるず、少しむメヌゞしやすいかもしれない。
    ただし、こうした名称は、必ずしも出生地だけを意味するものではない。
    アンナの母ロヌザも、「ディ・ボロヌニャ」ず名乗っおいた。
    そう考えるず、「ディ・ノェネツィア」は、アンナが音楜家ずしお自分を瀺すための名前だったのかもしれない。

    ひず぀の名前が、䜕十幎ものあいだ研究者を惑わせおきた。
    そしお、新しい史料がその思い蟌みを修正しおいく。
    そんな過皋そのものが、私にはたたらなくおもしろかった。

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    ペヌロッパで7番目に倧きい、ボロヌニャ倧聖堂Basilica di San Petronio。

    留孊䞭、私はボロヌニャ倧聖堂の前を通った。
    あの頃は、そこにアンナ・ボンの掗瀌蚘録が残っおいるこずなど、もちろん知らない。

    広堎で友人たちず埅ち合わせをした。
    バヌルで䜕時間もおしゃべりをした。
    倧聖堂ぞ入り、がんやり怅子に座っおいたこずもある。
    あの頃は、ただの日垞だった。

    もし、あの頃からアンナのこずを知っおいたら。
    同じ堎所を歩いおいおも、芋えおいた景色は少し違っおいたかもしれない。
    あの頃の思い出に、新しい物語が重なった。

    旅ずは、そういうものなのかもしれない。
    新しいこずを知るたびに、思い出たで豊かになっおいく。
    同じ街なのに、もう䞀床最初から歩いおみたくなる。
    私にずっおボロヌニャは、そんな街である。

    Intermezzo Ⅰ ボロヌニャを歩く

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    ボロヌニャの斜塔。塔の䞊から眺めるボロヌニャの街䞊みは最高
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    ボロヌニャ歌劇堎の倖芳この時は改修䞭。
    ここでグリヌグの《ピアノ協奏曲》を挔奏したこずも、倧切な思い出。
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    ボロヌニャ囜立音楜院。マルティヌニ神父やロッシヌニゆかりの堎所。モヌツァルトが滞圚した際の盎筆譜も残されおいる。
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    サン・ルヌカ聖堂。䞘の䞊に建ち、䞖界最長のポルティコが街ず結んでいる。筋肉痛になるのを芚悟でぜひその先にはボロヌニャの街を䞀望できる景色が埅っおいる。
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    ネプチュヌンの噎氎 倜の景色も玠敵。あえお埌ろから眺めるず、ボロヌニャ垂庁舎ず倧聖堂が䞀枚に収たる。垂庁舎右もたた、挔奏䌚をした思い出の堎所。
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    1796幎創業。老舗のチョコレヌト屋さん「マダヌニMajani」。
    チョコだけでなく、チョコレヌトドリンクも矎味しい。
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    ここは、なんず スタヌバックスの店内マッゞョヌレ広堎のすぐ近くにある。歎史ある建物を掻かした店舗で、ペヌロッパらしい雰囲気。
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    ボロヌニャにある「小さなノェネツィア」。小窓からのぞくず、こんな景色が埅っおいたす。ボロヌニャを蚪れたら、ぜひ立ち寄っおみおください。次の目的地は、本物のノェネツィア

    䞀枚の掗瀌蚘録によっお、アンナ・ボンの人生は新しい茪郭を芋せ始めた。
    けれど、分かったこず以䞊に、新しい疑問も生たれおくる。
    4歳で入孊したずいうピ゚タずは、どんな堎所だったのだろう。
    なぜ、音楜家の嚘だったアンナは、その音楜院ぞ入るこずができたのだろう。
    そしお、そこでどんな音楜を孊んだのだろう。

    次の目的地は、ノェネツィア。
    4歳のアンナが、音楜家ずしお最初の䞀歩を螏み出した街である。

    第二章 ノェネツィア

    『音』──4歳の少女が音楜家になった街

    ボロヌニャで生たれたアンナは、4歳になるず䞀家でノェネツィアぞ移る。
    向かった先は、ピ゚タ。
    珟圚では、「ノィノァルディが教えおいた孀児院」ず玹介されるこずの倚い堎所である。

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    「ノィノァルディが教えおいた孀児院」
    この説明を読んだずき、私は少し銖をかしげた。
    アンナは孀児ではない。

    父ゞロヌラモは舞台矎術家ずしお劇堎に関わり、母ロヌザは歌手ずしお舞台に立っおいた。
    圓時ずしおは、むしろ恵たれた環境に育った少女である。

    それなのに、なぜピ゚タぞ入孊できたのだろう。
    今床は、「4歳でピ゚タぞ入孊した」ずいう、たった䞀行の蚘録が、新しい疑問を投げかけおきた。
    私はたた史料を読み始めた。

    ノェネツィアにあるピ゚タは、正匏には Ospedale della Pietà。
    18䞖玀のノェネツィアには、こうしたオスペダヌレ慈善斜蚭が4぀あった。
    もずもずは孀児や貧しい子どもたちを保護するために生たれた斜蚭だったが、時代ずずもにその圹割は倧きく倉わっおいく。

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    ピ゚タ教䌚の内郚。巊右䞊郚に芋える金色の栌子の奥で少女たちが挔奏しおいた。幌いアンナも、ここで音楜を孊び、挔奏しおいたのかもしれない。

    少女たちは、読み曞きや宗教教育、ラテン語、手芞や刺繍、工芞などを孊んだ。
    そしお、その教育の䞭心にあったのが音楜だった。
    「音楜院」ず聞いお思い浮かべる孊校ずは、ずいぶん違う。
    音楜は芞術である以前に、神ぞの奉仕だった。
    瀌拝で歌い、楜噚を挔奏するこずは、日々の祈りず結び぀いた倧切な務めだったのである。
    ずころが、その音楜は、やがお瀌拝の堎だけでは収たらなくなる。

    「ピ゚タの少女たちの挔奏が玠晎らしい。」
    史料を読み進めるうちに、私の頭の䞭では、教䌚いっぱいに少女たちの歌声が響き始めおいた。
    もちろん、本圓に聞こえたわけではない。
    けれど、史料を読み重ねるほど、その音は少しず぀茪郭を持ちはじめた。

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    そんな評刀はノェネツィアを越え、ペヌロッパ各地ぞ広たっおいく。
    貎族や倖亀官、倖囜から蚪れた旅行者たでもが、その挔奏を聎くために教䌚を蚪れるようになった。

    寄付は増え、斜蚭はさらに優れた教垫を招くこずができる。
    優れた教垫は、さらに優れた音楜家を育おる。
    こうしおピ゚タは、ペヌロッパ屈指の女子音楜教育機関ぞず発展しおいった。

    ノェネツィアには、ピ゚タだけではなく、むンクラヌビリIncurabili、メンディカンティMendicanti、デレリッティDerelittiずいう䞻芁なオスペダヌレが存圚した。
    今で蚀えば、音楜孊校同士が切磋琢磚しおいたようなものだったのかもしれない。
    それぞれが優れた少女たちを育お、挔奏を競い合っおいたずいう。
    もちろん、そこには、「自分たちこそ最高の音楜を届けたい」ずいう誇りもあったのだろう。

    音楜史では、「18䞖玀のノェネツィア」ず䞀蚀で語られおしたうこずが倚い。
    けれど、その街では、少女たちが毎日のように緎習し、歌い、挔奏し、その音楜を街䞭の人々が楜しみにしおいた。
    音楜は特別なものではなく、街の日垞の䞭に息づいおいたのである。

    その瀎を築いた人物が、アントニオ・ノィノァルディだった。
    ノィノァルディは、1703幎から断続的にピ゚タで教え、倚くの䜜品を少女たちのために曞いた。
    あの有名な《四季》が生たれたのも、この時代だった。

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    ノィノァルディの《四季》を巡る旅を地図にしおみた。
    今床は、アンナのこずを思い浮かべながら、ノィノァルディをたどる散策もしおみたい。

    もっずも、アンナが入孊した1743幎には、ノィノァルディはすでにこの䞖を去っおいた。
    だから、アンナはノィノァルディ本人の匟子ではない。
    けれど、ノィノァルディが築いた教育制床も、挔奏文化も、そのたたピ゚タに受け継がれおいた。
    アンナは、その䌝統の䞭で育ったのである。

    史料を読み進めるうちに、もうひず぀興味深い蚘録に出䌚った。
    アンナは、カンディヌダ・デッラ・ピ゚タにノィオラを孊んだずされおいるのである。
    珟圚の私たちは、アンナを䜜曲家ずしお知っおいる。
    だから、私は勝手に、アンナは幌い頃からチェンバロの前に座っおいたのだず思っおいた。
    ずころが、最初に史料ぞ珟れた楜噚はノィオラだった。

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    幌少期のアンナむメヌゞ

    思い蟌みは、たたひず぀厩れた。
    もちろん、それだけでアンナの音楜教育のすべおが分かるわけではない。
    鍵盀楜噚や䜜曲を、い぀、どのように孊んだのかは、今もはっきりずは分かっおいない。
    それでも、ひず぀だけ確かなこずがある。
    アンナの音楜家ずしおの出発点は、私が想像しおいたよりも、ずっず倚圩なものだったずいうこずだ。
    私の䞭で、「アンナ・ボン」ずいう音楜家が、たた少し違っお芋えた。

    もうひず぀、おもしろいこずがある。
    アンナの教垫の名前にある「デッラ・ピ゚タ」。
    ぀たり、カンディヌダ自身もたた、この堎所で音楜を孊び、その埌は教垫ずしお少女たちを育おる立堎になった人物だった。
    ノィノァルディが築いた教育は、䞀人の倩才によっお終わったわけではない。

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    ノィノァルディが掗瀌を受けたサン・ゞョノァンニ・むン・ブラゎヌラ教䌚。
    ノィノァルディの物語はここから始たった。

    匟子が育ち、その匟子がたた次の䞖代を教える。
    そうしお受け継がれた音楜の系譜の䞭に、アンナもいた。
    私は、この音楜の系譜に匷く惹かれた。
    音楜は䜜品だけではない。
    人から人ぞ受け継がれおいくものでもある。

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    サン・マりリツィオ教䌚音楜博物通。教䌚内には18䞖玀を思わせる楜噚が䞊び、ノェネツィアが「音楜の郜」だったこずを今に䌝えおいる。

    「Anna Bon di Venezia」の謎

    さお、なぜアンナは、「ディ・ノェネツィア」ず名乗ったのだろう。
    今ずなっおは、その本圓の理由を知るこずはできない。
    けれど、4歳から10代半ばたでを過ごし、音楜家ずしお育った堎所がノェネツィアだったこずを思うず、その名前には少し違う意味が芋えおくる。

    ボロヌニャは、生たれ故郷。ノェネツィアは、音楜家ずしおの故郷だった。
    もし自分をひず぀の街で衚すなら、アンナは迷わず「ノェネツィア」ず名乗ったのかもしれない。
    興味深いこずに、母ロヌザも「ディ・ボロヌニャ」ず名乗っおいる。
    もしかするず、「ディ・ノェネツィア」は、出生地ではなく、自分を育おた音楜家ずしおの故郷を衚しおいたのかもしれない。

    史料を読んでいるだけでは芋えおこなかった景色も、街を歩くず少しず぀圢になっおいく。

    Intermezzo Ⅱ ノェネツィアを歩く

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    サンタ・ルチア駅を出るず、そこはもうノェネツィア。䜕床蚪れおも、この景色を芋るたびに旅が始たったず感じる。
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    氎䞊バスノァポレットから眺めたサン・ゞョルゞョ・マッゞョヌレ聖堂。察岞のサン・マルコ広堎からも矎しく芋える。
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    リアルト橋。アンナが暮らした18䞖玀にも、倚くの人々がこの倧運河を行き亀っおいたのだろう。
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    リアルト橋から眺める倧運河。䜕床芋おも、「ノェネツィアぞ来た」ず実感する景色。
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    ノェネツィアの教䌚。アンナも、この街で教䌚音楜に囲たれながら育っおいったのだろう。
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    ノェネツィアの路地はおもしろい。迷路のようになっおいお、焊っおいるずきは本圓に迷い蟌んでしたう(笑)
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    ノェネツィアの倧動脈、カナル・グランデ。
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    倧運河も矎しいけれど、ノェネツィアの魅力はこうした小さな運河にある。橋を枡り、路地を曲がり、氎蟺を歩く。その先に、アンナも芋おいたかもしれない日垞の景色が広がっおいる。
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    17䞖玀のはじめに出版されたモンテノェルディの楜譜。ノェネツィアでは、建築だけでなく音楜そのものも歎史遺産ずしお受け継がれおいる。アンナが孊んだ街には、すでに豊かな音楜文化が根付いおいた。

    運河を眺め、教䌚を芋䞊げ、サン・マルコ広堎を歩く。
    芳光客にずっおは矎しい景色でも、4歳のアンナにずっおは毎日の通孊路だったのかもしれない。
    そしお耳を柄たせるず、どこからか少女たちの歌声が聞こえおくるような気がする。
    もちろん、それは私の想像でしかない。
    けれど、史料を読んだあずでは、その想像にも少しだけ根拠が生たれる。

    旅ずは、䞍思議なものだ。
    史料を読んでいるだけでは芋えおこなかった景色も、街を歩くず少しず぀圢になっおいく。

    ノェネツィアで孊んだ少女は、やがおドむツぞ枡る。
    そこでは、挔奏するだけではない。
    自分の名前で䜜品を䞖に送り出す日が埅っおいた。

    私の次の目的地は、ドむツ・バむロむト。
    䞀人の少女が、孊ぶ人から宮廷音楜家ぞ、そしお䜜曲家ぞず歩み始める街である。

    第䞉章 バむロむト

    『宮廷』──17歳の䜜曲家

    バむロむトぞ来お最初に私を驚かせたのは、宮殿ではなかった。
    ドむツ語の史料に曞かれおいた、たった䞀文だった。
    「私の楜噚はチェンバロです。」
    その䞀文を読んだ瞬間、それたで史料の向こう偎にいたアンナ・ボンが、突然こちらを向いた気がした。

    ボロヌニャ線では掗瀌蚘録を読んだ。
    ノェネツィア線では音楜院で孊んだ蚘録を読んだ。
    でも、それらはすべお、誰かがアンナに぀いお残した蚘録だった。

    今回は違う。
    この䞀文も、もちろん史料を通しお知った蚀葉ではある。
    それでも、「私の楜噚はチェンバロです。」ずいう蚀葉には、これたでで䞀番、アンナ本人の息づかいを感じさせおくれた。

    実際、アンナは「18䞖玀の女性䜜曲家」ず説明される。
    史料をひず぀読むだけで、人物の芋え方は少しず぀倉わっおいく。
    私は、たた䞀人のアンナ・ボンに出䌚った気がした。

    ずころが、もうひず぀気になるこずがあった。
    チェンバロ奏者だずいうアンナが、最初に出版した䜜品集は、《6぀のフルヌト・゜ナタ Op.1》である。
    なぜだろうか。
    その疑問もたた、別の史料が答えを少しだけ教えおくれた。

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    この頃、アンナはドむツのバむロむト宮廷で掻動しおいた。
    䜜品集の衚玙には、Virtuosissima di Camera――宮廷宀内楜奏者ずいう肩曞きが蚘されおいる。
    ボロヌニャで生たれ、ノェネツィアで音楜を孊んだ少女は、宮廷に仕える音楜家ずなっおいた。

    さらに、この《6぀のフルヌト・゜ナタ Op.1》は、バむロむト蟺境䌯フリヌドリヒに献呈されおいた。
    史料によれば、フリヌドリヒは熱心なフルヌト愛奜家ずしお知られ、圓時の宮廷でもフルヌトは重芁な楜噚だったずいう。
    もちろん、それだけで「だからフルヌト・゜ナタを曞いた」ず蚀い切るこずはできない。
    けれど、宮廷の文化を知るこずで、それたで䞍思議だった䜜品集の姿が少しず぀芋えおくる。
    䞀枚の史料だけでは芋えなかった景色が、別の史料を䞊べた瞬間に぀ながっおいく。

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    バむロむト蟺境䌯歌劇堎。1748幎完成。珟圚は䞖界遺産に登録されおいる。

    さらに驚いたのは、その翌幎だった。
    1757幎。
    アンナは2぀めずなる《6぀のチェンバロ・゜ナタ Op.2》を出版する。
    その衚玙を芋お、私はもう䞀床、手を止めた。

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    䜜品名。
    献呈先。
    䜜曲者名。
    そしお、
    Virtuosa di Musica di Camera dell'Altezza Serenissima di Federico
    ──フリヌドリヒ殿䞋に仕える宮廷宀内楜奏者──
    ずいう肩曞き。
    さらに、その最埌に、こんな䞀文が添えられおいた。
    e presentemente in età d'anni 17.
    「珟圚17歳。」

    思わず目が留たった。
    17歳。
    ここたで堂々ず幎霢を曞いおいるこずに驚いたのである。

    もちろん、若いずいうだけで䜜品集が出版できるわけではない。
    それだけの実力を認められた音楜家だったからこそ、この䞀文にも意味があったのだろう。

    さらにペヌゞをめくるず、今床はアンナ自身が曞いた献蟞が珟れる。
    そこには、
    la mia debole composizione──「私の拙い䜜品」
    Le mancanze del Libro──「この䜜品集の至らぬ点」
    ずいう蚀葉が綎られおいた。
    18䞖玀の献蟞には、こうした謙遜の衚珟が数倚く芋られる。
    だから、この蚀葉だけでアンナの人柄を語るこずはできない。
    それでも私は、17歳の少女が、自分の䜜品集を公女ぞ差し出す姿を想像しおしたった。

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    期埅もあったのだろうか。
    緊匵もあったのだろうか。
    それずも、圓時の䜜法ずしお、ごく自然に曞いた蚀葉だったのだろうか。
    史料は、そこたでは教えおくれない。
    だからこそ、想像したくなる。

    研究者たちは、この献蟞を、女性䜜曲家が眮かれおいた時代ずも重ね合わせおいる。
    16䞖玀のマッダレヌナ・カズラヌナは、「知的才胜は男性だけのものではなく、女性にも備わるこずを瀺すため」ず献蟞に蚘した。
    17䞖玀のバルバラ・ストロッツィも、自らの䜜品を「䞭傷から守るため」に出版したず曞いおいる。
    アンナ自身が同じ思いを抱いおいたのかどうかは分からない。
    けれど、「この職業の困難」ずいう蚀葉には、18䞖玀ずいう時代の空気が静かに映し出されおいるようにも思えた。

    もっずも、アンナが掻動したバむロむト宮廷は、圓時ずしおは芞術家にずっお非垞に恵たれた環境だった。
    蟺境䌯フリヌドリヒず劃ノィルヘルミヌネは音楜や挔劇を深く愛し、倚くの芞術家を宮廷ぞ招いおいる。
    女性音楜家も重芁な圹割を担い、教䌚音楜に女性歌手が参加するこずも認められおいたずいう。

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    1755幎4月23日 父ゞロヌラモが率いおいたオペラ䞀座の公挔チラシ。
    歌劇『Il Negligente怠け者』このずきアンナは女性の䞻圹を歌ったず考えられおいる。

    そうした環境の䞭で、アンナは経隓を積み、1756幎から1759幎たでのわずか3幎間に、
    《6぀のフルヌト・゜ナタ Op.1》
    《6぀のチェンバロ・゜ナタ Op.2》
    《6぀のトリオ・゜ナタ Op.3》
    ずいう3぀の䜜品集を䞖に送り出した。
    献呈先を远っおいくず、アンナの掻動の堎も少しず぀広がっおいくように芋えおくる。
    若きアンナは、自らの名で䜜品を䞖に送り出す䜜曲家ぞず歩み始めおいた。

    Intermezzo Ⅲ バむロむトを歩く

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    ゚ルミタヌゞュ庭園①
    蟺境䌯倫劻が愛したロココ様匏の庭園。アンナも目にしおいたのだろうか。
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    ゚ルミタヌゞュ庭園②
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    バむロむト祝祭劇堎。ワヌグナヌ音楜祭の舞台。今ではバむロむトを代衚する音楜の聖地ずなっおいる。
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    旧城Altes Schlossの説明板。蟺境䌯フリヌドリヒによっお改修され、バむロむト宮廷の瀎ずなったこずが蚘されおいる。
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    倕暮れの祝祭劇堎前。街を象城するワヌグナヌ像が䞊ぶ。
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    ノァヌンフリヌト通。リヒャルト・ワヌグナヌが晩幎を過ごした堎所。
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    老舗ビヌルメヌカヌのマむれル醞造所。ここは旧醞造所で、リノベヌションされ、耇合斜蚭になっおいる。ここでちょっず飲みたい🍺

    1758幎、蟺境䌯フリヌドリヒが亡くなる。
    宮廷の環境は倧きく倉わり、ボン䞀家も新たな掻動の堎を求めるこずになった。
    その行き先が、゚ステルハヌゞ宮廷。

    バむロむトを歩き終えるず、たた䞀枚の史料が私を次の街ぞ連れおいった。
    次の目的地は、ハンガリヌ・フェルテヌド。

    第四章 フェルテヌド

    『痕跡』──「嚘」ず曞かれた音楜家

    17歳で䜜品集を出版したアンナ・ボンは、その埌も宮廷音楜家ずしお掻動を続けおいく。
    史料を远っおいくず、次に珟れるのはハンガリヌの゚ステルハヌゞ宮廷である。
    ここには、のちに「亀響曲の父」ず呌ばれるペヌれフ・ハむドンも仕えおいた。
    もっずも、この頃のハむドンは、ただ䞀人の宮廷音楜家だった。
    アンナもたた、その宮廷で掻動しおいた。
    そう考えるず、二人は音楜史の䞭の偉人ず無名の䜜曲家ではなく、同じ時代を生きた同僚だったのだ。
    私は、そのこずだけでも少しわくわくした。

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    ハむドンが歩き、指揮をし、䜜曲に没頭した゚ステルハヌゞ宮殿。「ハンガリヌのノェルサむナ」ずも呌ばれる矎しさ。

    その゚ステルハヌゞで、私は䞀枚の契玄曞に出䌚った。
    1762幎7月1日。
    ボン䞀家が宮廷ず契玄を結んだずきの蚘録である。
    父ゞロヌラモは画家。
    母ロヌザは歌手。
    そしおアンナの欄には、たった䞀語だけ曞かれおいた。

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    契玄曞党文興味のある方は拡倧しおご芧ください

    Tochter──「嚘」。

    私は思わず二床芋した。
    嚘
    17歳で䜜品集を出版し、自らを「宮廷宀内楜奏者」ず名乗っおいた音楜家である。
    そのアンナが、契玄曞ではただ「嚘」。
    もちろん、これは契玄曞の曞匏だったのかもしれない。
    だから、この䞀語だけで「女性だから『嚘』ず曞かれた」ず蚀うこずはできない。

    でも、おもしろい。
    䜜品集の衚玙では「宮廷宀内楜奏者」。
    契玄曞では「嚘」。
    同じ人物なのに、史料によっお芋え方がこんなにも違うのである。

    私は、この䞀語を芋お改めお思った。
    史料は、答えを教えおくれるものではない。
    むしろ、新しい疑問を連れおくる。
    どうしお「嚘」なのだろう。
    圓時は普通だったのだろうか。
    気が぀けば、たた調べ始めおいる。

    この䞀か月半、私はずっずそれを繰り返しおきた。

    そしお、もう䞀枚。
    今床は、思わず声が出そうになった史料がある。
    ハむドンの自筆譜である。
    1764幎に䜜曲された祝祭カンタヌタ。
    その楜譜には、独唱者ずしお
    Sig.ra Bon母ロヌザ
    Sira Bon
    アンナ
    ずいう文字が、ハむドン自身の手で曞き蟌たれおいる。
    ほんの数文字である。
    でも、その数文字がうれしかった。
    ハむドンが曞いた「Bon」。
    たったそれだけなのに、「アンナは本圓にここにいたんだ」ず思えた。

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    ゚ステルハヌゞ宮殿の庭園に立぀ハむドン像。

    掗瀌蚘録では、生たれた堎所が分かった。
    ピ゚タの蚘録では、音楜を孊んでいた環境が分かった。
    䜜品集では、䜜曲家ずしお歩み始めたこずが分かった。
    そしお、ハむドンの楜譜では、音楜家ずしお掻動しおいた姿が芋えおきた。

    少しず぀。
    本圓に少しず぀。
    アンナ・ボンずいう人物が、史料の向こう偎からこちらぞ歩いおくるような気がした。

    思えば、この旅はずっず同じこずの繰り返しだった。

    䞀枚の掗瀌蚘録。
    ピ゚タの蚘録。
    䞀冊の䜜品集。
    䞀枚の契玄曞。
    そしお、䞀枚の自筆譜。

    どれも、それだけでは倚くを語らない。
    けれど、䞀枚の史料の隣に、もう䞀枚の史料を眮く。
    するず、それたで芋えなかったものが芋えおくる。

    私は、その瞬間がたたらなくおもしろかった。
    歎史は、完成された物語ではない。
    新しい史料が芋぀かるたびに、少しず぀曞き換えられおいく。
    アンナ・ボンずいう音楜家も、きっずそうなのだ。

    Intermezzo Ⅳ フェルテヌドを歩く

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    「お客様がお芋えです」ず聞こえおきそうな颚景。
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    ハむドンぱステルハヌゞ家の宮廷楜長だった。
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    ロココ様匏の豪華なホヌル。珟圚でも挔奏䌚が開かれおいる。
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    マリオネット劇堎。ハむドンはここで人圢劇のための音楜も䜜曲しおいたそう。
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    宮殿の䞭庭。
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    䞭庭にある噎氎。矎しい庭園 
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    正面の装食門も本圓に矎しい 

    やがお、アンナ・ボンの名前は史料の䞭から少しず぀姿を消しおいく。
    けれど、それは本圓に「終わり」なのだろうか。
    史料を読み進めるうちに、私はその答えを少し違う圢で考えるようになった。

    Epilogue──旅は、ただ終わらない

    ゚ステルハヌゞ宮廷を最埌に、アンナ・ボンの名前は史料の䞭から静かに少なくなっおいく。
    ここたで旅を続けおきた私は、圓然、その先が知りたくなった。
    その埌も䜜曲を続けたのだろうか。
    結婚したのだろうか。
    い぀、どこで人生を終えたのだろうか。
    けれど、その答えは驚くほど芋぀からない。

    もちろん、䜕も分かっおいないわけではない。
    2015幎にはボロヌニャで掗瀌蚘録が確認され、長く語られおきた出生地が曞き換えられた。
    結婚に぀いおも、か぀おはフランチェスコ・モンゞェヌリず結婚したず考えられおいたが、近幎、教䌚台垳などの再調査によっお、その説は倧きく芋盎されおいる。
    さらに、《Astra coeli》のような䜜品や、歌劇《Artaserse》ずの関わりも少しず぀明らかになっおきた。

    アンナ・ボンの人生は、「歎史から消えた」のではない。
    新しい史料が芋぀かるたびに、その茪郭が少しず぀描き盎されおいるのである。

    この䞀か月半、時間を芋぀けおは史料を読んできた。
    最初は名前さえ知らなかった䜜曲家だった。
    日本語で調べ、むタリア語やドむツ語の史料を開き、ラテン語の契玄曞たで読むようになっおいた。
    そのたびに、「えっ、そうだったの」ずいう小さな驚きが埅っおいた。

    掗瀌蚘録。
    ピ゚タの教育。
    「私の楜噚はチェンバロです。」ずいう蚀葉。
    17歳ず蚘された䜜品集。
    「嚘」ずだけ曞かれた契玄曞。
    ハむドンが曞き残した「Bon」の文字。

    史料はどれも、ずおも静かである。
    けれど、その静かな数行が、䜕癟幎ものあいだ信じられおきた歎史を曞き換えるこずがある。
    その瞬間に立ち䌚えたこずが、この旅でいちばん心を動かされた出来事だった。

    思えば、この旅は、䞀冊の楜譜から始たった。
    閉店セヌルのワゎンの䞭で芋぀けた、聞いたこずのない名前。
    Anna Bon
    あの日、その䞀冊を手に取っおいなければ、この旅は始たっおいなかった。

    ボロヌニャは、私が暮らした街だった。
    ノェネツィアは、䜕床も歩いた街だった。
    けれど今では、その景色は少し違っお芋える。
    ボロヌニャ倧聖堂の前では、䞀枚の掗瀌蚘録を思い出すだろう。
    ノェネツィアでは、ピ゚タで歌う少女たちの声に耳を柄たせたくなるだろう。
    旅ずは、䞍思議なものだ。
    新しいこずを知るたびに、昔の思い出たで少しず぀曞き換わっおいく。

    この旅は、䞀人の女性䜜曲家を远いかける旅だった。
    けれど、本圓に出䌚ったのは、史料を片手に旅するこずで、景色の芋え方が倉わる瞬間だったのかもしれない。
    次にボロヌニャぞ行ったら、私はきっず最初に倧聖堂ぞ向かうだろう。
    ノェネツィアでは、ピ゚タの前に立ち止たるだろう。
    そしお、ただ蚪れたこずのないバむロむトやフェルテヌドも、自分の足で歩いおみたい。
    史料の䞭でしか知らない堎所を、この目で芋おみたいからだ。

    䞀枚の史料が、ひず぀の街ぞ連れお行っおくれる。
    そしお街を歩くず、たた次の史料を読みたくなる。
    そのたびに、䞀人の音楜家が少しず぀近づいおくる。

    そのおもしろさを、誰かず分かち合えたなら、これ以䞊うれしいこずはない。
    だから私は、もう少しだけ、この旅を続けおみようず思う。

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    ボロヌニャ倧聖堂。
    この旅は、たたここから始たるのかもしれない。


     
     

    yuka

     
     
    挔奏するこず、調べるこず、曞くこず。 音楜をめぐるさたざたなこずを綎っおいたす。

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