
親は、どこまで子供を助けるべきなのか。
親になってから、何度も考えることがある。
どこまで助けるべきなのか。
助けることが娘のためなのか。
それとも、助けないことで育つ力を信じるべきなのか。
親の判断ひとつで、子どもの人生の分岐点が変わるかもしれない。
そう思うたびに、親という存在の重さを感じる。
「可愛い子には旅をさせよ」とよく言う。
私もその言葉の意味はよく分かる。
大人になれば自立を求められるし、子どものうちに
「自分でできた」
「自分でやれた」
という経験を積むことは、本当に大きい。
だからこそ、どこまで手を差し伸べるべきなのか、その線引きが難しい。
うちの娘には発達特性がある。
2年生になった今、支援級ではないけれど、支援員の先生をつけてもらっている。
この「先生をつけるかどうか」は、毎年親の判断になる。
年末頃になると、学校から
「来年もつけますか」
と電話がかかってくる。
私はいつも迷う。
つけていた方が娘のためなのか。
つけない方が娘のためなのか。
未だに明確な答えは出ていない。
娘は、学校で特に仲の良い友だち が、いない。
(特に、ではないお友達はいる)
悲しいことに、無視されたり、意地悪をされたこともある。
実際にその場面を見たこともある。
でも娘自身は、それをあまり気にしていない。
(少なくとも、私や放デイでの話を聞く限り)
自分が楽しいこと。
その時話したい子。
その時自分を求めてくれる子。
そういうものを大事にしている。
私は、それ自体は本当に素敵なことだと思っている。
生きていれば、合わない人もいる。
悲しいことも起きる。
だからこそ、楽しいことや心地いい人間関係を大切にできる感覚は、人生においてとても大事だと思う。
その一方で、親の私は考えてしまう。
支援員の先生をつけていることで、目に見えて「特別な支援が必要な子」と周りに伝わってしまっているのではないか。
そのことで、友だちとの距離が生まれているのではないか。
先生がそばにいることで、友だちと深く関わる時間が減っているのではないか。
そんなふうに思ってしまうことがある。
正しいことは、いつも分からない。
娘は今のところ、優しい人たちに囲まれて、優しく育っていると、親バカかもしれないが、私はそう思っている。
人に恵まれることは、本当に人生を左右する。
私はそれが、幸せを決める大きな要素だと思っている。
でも同時に、
障害があるから優しくしてもらえるのか
そういう思いが頭をよぎることもある。
そうではないと信じたいけれど、現実として全く影響がないとは言い切れない。
支援をしてもらわない事は、周りの人の優しさを受け取りづらくなることなのではないか、とも思うことがある。
私は、娘の育つ環境を握っている。
そう思うと、常に正しい判断をしなければいけない というプレッシャーがある。
私自身も発達障害で、社会の中で生きづらさを感じてきたからこそ、過剰に心配してしまっていないか、そんな不安もある。
障害のことを知っている一部の人が、娘に会った人がよく言う。
「障害があるようには見えないね」
その言葉を聞くたびに、なぜか自分の判断が間違っているような気がしてしまう。
病院で診断を受けている。
それは信頼できるもののはずなのに、それでも不安は消えない。
私は何を助けるべきなのだろう。
私はどうするべきなのだろう。
彼女が健やかに、そしていつまでも自分らしく生きていけるために。
親として、今日も答えのない問いを抱えながら考えている。