
【番外編~創作大賞2026に応募してみた】クリムトと、はじめての《接吻》
金色に輝く恋人たち。
花畑には緑、赤、青、紫が広がっています。
恋人たちが一枚の布に包み込まれている様子が、まるで守られているように見えます。
よく見ていると、日本の伝統行事であるお宮参りの「祝い着」を思い出します。
長女が生まれる前、実家のある韓国から母が日本に来てくれました。
母は、生後1ヶ月の孫を抱いた上から祝い着を掛けてもらい、日本の習慣に倣って記念写真を撮りました。
赤ちゃんは、まだ自分だけでは生きていけない存在です。だからこそ、祝い着には、親や家族が赤ちゃんを守ること、そして親子が一体となること、家族のつながりへの願いが込められています。
そう考えると、クリムトの《接吻》の恋人たちもまた、「一人ではなく、お互いに守られながら生きていく」存在として描かれているように見えてきます。
一枚の布に包まれた姿は、母親のおなかの中にいた頃の安心感を思わせます。そのぬくもりが、二人をそっと結びつけているようです。
キスを交わす二人が、あえて同じ布に包まれている理由も、そこにあるのではないでしょうか。
私が名画ファンになった年のことです。
私は、一つ疑問を抱いていました。クリムトの代表作《接吻》の二人は、一体どこに立っているのだろう、と。
ベッドにしては花模様の凸凹が目立ち、布団のようには見えません。かろうじて絶壁の上にいるようにも見えますが、後ろは壁画のようで危険さは全く感じません。
私は美術史家の先生に、同じ質問をしました。すると、「知りません」と言われました。冷ややかな表情にも見えました。
脈略から見れば些細なことを聞いてしまったのだと思いました。申し訳ない気持ちになりました。
でも、私が期待していたのは、答えではなかったのかもしれません。どこからそう思ったのか、先生の問いがほしかっただけでした。
絵を全然見てこなかった、鑑賞レベルの低い私が、ようやく自力で見て質問できるようになった。その変化に一番に気づいたのは、私自身でした。
質問する相手を間違えたのだ、と開き直ることにしました。
自由に意見を交わし、知識を組み替えながら絵を楽しむ。そんなアウトプットできる場所があったら感受性がずっと豊かになる。私が絵を見るプロセスは、いまでも変わっていません。
私には、ちょっとした感想を共有できるアート仲間がいます。
頻度は低いですが、私はB先生と一緒に美術館に出かけます。B先生は美術専門家ではありません。二人の趣向は違うけれど、どれが印象的だったか、なぜ好きかを話し合います。
あるとき、展示室を去る間際に「何が一番よかった?」と聞かれ、私が答えると、「もう一回見に行こう」と言われました。
私の見方を尊重してもらえたようでした。
どんな人に出会うかによって、見える景色は違ってくるのでしょう。
話を戻します。
絵を見るようになって以来、なぜかクリムトの煌びやかな人物画よりも、風景画に目が行きます。
クリムトは200を超える作品を残しましたが、4分の1が風景画でした。オーストリアの北西のアッター湖で過ごしながら描いた作品も、私が好きなものばかりです。
《ひまわりの咲く農家の庭》は、画面いっぱいに花が描かれています。
この絵をちゃんと見てみようと思ったきっかけは、韓国のある動画チャンネルでした。二人の司会者の背後に《ひまわりの咲く農家の庭》が飾られていたのです。そのときは作品名も知りませんでした。
でも、その絵を見た瞬間、「クリムト!」と思わず口にしました。《木の下の薔薇》や《りんごの木》などで見覚えのある風景だったからです。
画面のほとんどを埋め尽くす、花、花、花。
あまりにも平面的なので奥行きを感じないのに、ここに入り込んだら迷子になってしまうほどの密度です。
そして、庭に立って花を見下ろしているのか、それとも見上げているのかさえわからなくなります。
私には、花たちのコーラスが聞こえるようでした。
もしこれが人間の群像画なら、ひまわりのようにすらりと背が高く、スタイリッシュな人が注目を浴びる存在でしょう。
しかし、この絵の主役は、ひまわりでも、それを所有する家の人でもありません。「ハーモニー」 そのものだと感じました。
静かにその場で咲いている花たちは、決してひまわりを引き立てるために存在しているわけではありません。
ただ、生きています。それぞれが自分の色で、そこに咲いているだけです。
農家の人は、それでいいと思っているに違いありません。
神様が、私たち一人ひとりを見つめ、「それでいい」と満足してくださるように。
クリムトと、はじめての《接吻》。その余韻は、今も続いています。
一枚の絵が、一つの問いを残してくれる。それだけで、絵を見る楽しさは十分なのかもしれません。
クリムトは、あなたに何を問いかけていますか。
(表紙は、トリミングあり)