ショートショート「最後に消える嘘」
父は、昔から無口な人だった。
「おかえり」も言わない。
「頑張ったな」も言わない。
僕がテストでいい点を取っても、絵のコンクールで賞をもらっても、父は新聞から目を上げずに言った。
「調子に乗るなよ」
その言葉が、僕はずっと嫌いだった。
母が亡くなった時も、父は泣かなかった。
葬式のあと、親戚たちが帰った静かな家で、僕は父に言った。
「なんで泣かないんだよ」
父は仏壇の前に座ったまま、低い声で言った。
「泣いたって戻ってこない」
その日から、僕は父を冷たい人だと思うようになった。
大人になって家を出て、父とはほとんど連絡を取らなくなった。
年に一度、正月に顔を出すくらい。
そのたびに父は、僕の仕事の話を聞いても、夢の話を聞いても、同じような顔で言った。
「まあ、無理するな」
励ましなのか、諦めなのか分からない。
僕にはいつも、関心がないように聞こえた。
そんな父が倒れたと連絡を受けたのは、冬の終わりだった。
病室の父は、僕の記憶よりずっと小さくなっていた。
白い布団の中で、呼吸だけが静かに上下している。
「来たのか」
父は僕を見て、そう言った。
それだけだった。
僕はベッドの横の椅子に座った。
何を話せばいいのか分からなかった。
何年も向き合ってこなかった親子に、急に会話なんて生まれない。
沈黙が続いた。
その時だった。
父の胸のあたりから、黒い煙のようなものが、ふわりと浮かび上がった。
僕は思わず立ち上がった。
煙はゆっくり天井に向かってのぼり、途中で文字のような形になった。
「仕事が忙しい」
それは、父が昔よく言っていた言葉だった。
僕の運動会に来なかった日。
授業参観に来なかった日。
誕生日に帰ってこなかった日。
父はいつも言った。
「仕事が忙しい」
黒い煙がほどけると、知らない記憶が頭の中に流れ込んできた。
夜の工場。
眠そうな顔で機械の前に立つ父。
ポケットには、僕の入学金の振込用紙。
父は誰もいない更衣室で、古い弁当箱を開けていた。
ご飯と梅干しだけの弁当を見つめながら、小さくつぶやく。
「これで、あいつに好きなことをさせてやれる」
僕は息を止めた。
仕事が忙しい。
それは嘘だった。
本当は、僕のために仕事を増やしていた。
次に、父の肩から黒い煙が浮かんだ。
「もう平気だ」
母が亡くなったあと、父が親戚に言っていた言葉だ。
煙が消えると、また記憶が流れ込んだ。
夜中の台所。
電気もつけずに座る父。
母が使っていた湯のみを両手で包んでいる。
父は声を殺して泣いていた。
僕に聞こえないように。
家の奥で、何度も何度も泣いていた。
「泣いたって戻ってこない」
あの日の言葉は、僕に向けたものではなかった。
父が自分に言い聞かせていた言葉だった。
僕は椅子に座り直した。
喉の奥が熱くなった。
父は何も知らない顔で、天井を見ていた。
自分の体から嘘が消えていることに、気づいていないようだった。
次の煙は、少し大きかった。
「お前の夢なんか無理だ」
僕が放送の仕事をしたいと言った時、父が言った言葉だった。
あの一言で、僕は父に期待するのをやめた。
認めてもらうことも、応援してもらうことも、全部やめたつもりだった。
煙がほどける。
記憶の中の父は、僕が寝たあと、机の上に置かれた企画書のようなものを読んでいた。
僕が若い頃に書いた、拙い台本だった。
父は何度もページをめくっていた。
赤ペンで何かを書くわけでもなく、ただ、ゆっくり読んでいた。
そして、誰に言うでもなくつぶやいた。
「すごいな」
その声は、聞いたことがないくらい優しかった。
でも次の瞬間、父は台本を閉じて、苦しそうに眉を寄せた。
「夢なんか、持たせたら苦しむだけかもしれん」
父は自分が若い頃、夢を諦めた人だった。
だから僕にも、夢を諦めさせようとした。
傷つかないように。
失敗して、自分を嫌いにならないように。
それは優しさではなかったかもしれない。
ただの怖がりだったのかもしれない。
でも、無関心ではなかった。
父は、僕を見ていた。
ずっと。
僕は父の手を見た。
節くれだった、固い手だった。
その手で、何を守ってきたのだろう。
父の呼吸が少し浅くなった。
看護師が様子を見に来て、静かに頭を下げて出ていった。
病室には、また僕と父だけが残された。
最後に、父の胸の奥から、これまでで一番大きな黒い煙が浮かんだ。
重たく、濃い煙だった。
それはゆっくり形になった。
「お前には期待してない」
僕はその文字を見た瞬間、胸が痛くなった。
何度も言われた言葉だった。
進路を決めた時。
仕事で悩んでいた時。
初めてテレビのエンドロールに自分の名前が出た時。
父は画面を見ながら、ぼそっと言った。
「まあ、期待はしてないからな」
あの時、僕は笑って流した。
でも本当は、ずっと刺さっていた。
期待してない。
父にそう言われるたび、僕は自分の人生をひとりで歩いている気がした。
黒い煙が、ゆっくりほどけていく。
父の唇がかすかに動いた。
「……来ていたのか?」
僕は顔を近づけた。
父は目を開けていた。
もうほとんど力のない目だった。
でも、まっすぐ僕を見ていた。
「ずっと」
父は息を吸った。
「楽しみにしてた」
それが、父の最後の言葉だった。
心電図の音が、病室に細く響いた。
僕は父の手を握ったまま、しばらく動けなかった。
泣いたって戻ってこない。
父の言葉が頭に浮かんだ。
でも、僕は泣いた。
戻ってこないから、泣いた。
葬式の日は、よく晴れていた。
親戚たちは口々に言った。
「お父さん、無口だったけど、あんたの話ばかりしてたよ」
「テレビに名前が出た時、録画して何回も見てたよ」
「自慢してたよ。息子はすごいって」
僕はうなずくことしかできなかった。
帰り道、ひとりで歩いていると、胸のあたりが少し熱くなった。
見ると、自分の胸から小さな黒い煙が出ていた。
煙は、夕方の光の中でゆっくり形になった。
「別に、認めてほしかったわけじゃない」
僕は立ち止まった。
それは、僕がずっと自分につき続けていた嘘だった。
父なんてどうでもいい。
認められなくても平気だ。
もう期待していない。
何度もそう思ってきた。
でも違った。
本当は、ずっと待っていた。
父に一度でいいから、言ってほしかった。
頑張ったな。
すごいな。
楽しみにしてるぞ。
黒い煙が、風にほどけて消えていく。
僕は空を見上げた。
父に届くはずもないのに、小さく言った。
「本当は、ずっと褒めてほしかったよ」
風が吹いた。
どこかで、父がいつもの無愛想な顔で、
「調子に乗るなよ」
と言った気がした。
でもその声は、少しだけ笑っているように聞こえた。