
エッセイ「ボロボロのクレヨン―今も思い出す道徳の教科書―」
小学生の頃、あまり使わない道徳の教科書を暇なときに読んでいた。
あれから何十年経った今も印象に残っている話がある。
細かいことは覚えていないけれど、貧しい家に生まれ育った少女が、お母さんに新しいクレヨンを買ってもらって喜んだのも束の間、学校でいじめられる話だった。
心優しい少女は、自分の置かれている環境を恨むでもなく、親に物をねだるでもなく、家族を愛していた。
新しい何かを買ってもらう余裕はなかったはずだが、ある日、お母さんが一生懸命働いたお金で新しいクレヨンを買ってくれた。
嬉しくて嬉しくて、パカッと開けて目に飛び込んできたクレヨンは、さぞ輝いていただろう。
しかし、そのクレヨンが輝いていたのは一瞬であった。
まわりの同級生たちが、新しいクレヨンなんて買ってもらえるわけがない、きっと盗んだものに違いないと責め立てた。
それどころか、少女の新しいクレヨンをバラバラに踏みにじり、ボロボロにしてしまったのだ。
少女は反論する。盗んだものじゃない。お母さんが買ってくれたんだ、と。
言ったところで信じてもらえるはずもなく、誰からも味方をしてもらえず、ボロボロになったクレヨンで働くお母さんの絵を描いた少女。
私は悲しかった。
少女の言うことが信じてもらえなかったことではない、買ってくれたものを盗んだものだと言われたことでもない。
お母さんから少女へ注がれる愛情を踏みにじられたようで、胸が張り裂けそうだった。
大切な人を傷つけられる体験に近かった。
自分が大切な人へ何かをするとき、真心という名の愛がある。
大切な人が自分へ何かをしてくれるときもまた、真心という名の愛があると思う。
私はそれを想像できる人間でありたい。
この話を思い出すたびに、私は綺麗事を願ってしまう。
どうか世界が、やさしくありますように。
七月七日
惟音まい