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一流に囲まれて:ザ・ペニンシュラ東京【旅と仕事と、明日の私 #2】

    時刻は23時。

    閉店後の店内には、
    まだかすかにアロマオイルの香りが残っていた。

    表参道にある本店サロンは、
    昼間とはまるで別の場所のように静かだった。

    間接照明の落ちたレセプション、
    整えられたソファ、
    ガラスの向こうに並ぶスキンケア用品。

    最後のお客様を見送ってから一時間以上経つのに、
    バックヤードの奥だけは
    まだ明かりがついている。

    加奈子はバックヤードのデスクで
    ノートパソコンを開き、
    各店の店長から届いた
    本日の営業報告に目を通していた。

    今日は打ち合わせが多かったので
    いつもよりしっかりメイクをし、
    髪もセットしている。

    白いジャケットを脱いで
    椅子の背もたれにかけ、
    胸元まである長い髪をかきあげ、
    パソコンに向き直る。

    5店舗の売上は、ほぼ予定どおりだった。

    ただ、代官山店だけ
    次回予約率が先週より落ちている。
    表参道店では新人二人の研修が予定より遅れ、
    恵比寿店の店長からは、
    スタッフの一人が産休に入るとの報告があがっていた。

    報告を読む際、数字そのものより、
    加奈子はその奥にいる人を見るように意識している。

    売上が落ちた理由。
    予約が埋まらない時間帯。
    誰かが無理をしていないか。
    店長がひとりで抱え込んでいないか。

    そういうことまで含めて、
    サロンを経営するということだと思っていた。

    高校卒業してすぐに
    美容専門学校に入った加奈子は、
    卒業後、5年間の下積みを経験し、
    25歳のときに表参道に1店舗目をオープンした。

    施術を終えたお客様が、
    鏡の中の自分を見てふっと表情をゆるめる。

    その瞬間が、加奈子は好きだった。

    ひとりひとりの変化に本気で向き合い続けた結果、
    サロンの名前は、
    広告より先に人づてに広がっていった。

    ありがたいことに「結果が出るサロン」として
    芸能人やインフルエンサーの中で話題になり、
    加奈子自身も何度かテレビに出た。

    チャンスはなるべく逃さないように
    来たタイミングで掴んできたつもりだ。

    仲間が増え、紹介で訪れるお客様が増え、
    最初はひとりで店頭に立っていた小さなサロンは、
    いつしか手狭になっていた。

    最初は2台しかなかったベッドは、
    移転後には3倍以上に増えていた。

    そして今、
    その表参道店は5店舗あるサロンの本店として、
    加奈子のいちばん近くにあった。

    本社は別にある。
    けれど、
    加奈子にとって表参道のこの店は、
    今もいちばん大切な原点だった。

    加奈子は報告書を読みながら、
    必要な箇所に短くコメントを残していく。

    そうしていると、
    バックヤードの扉が控えめに二度、叩かれた。
    返事をするよりも先にドアが開き、
    黒い制服に身を包んだスタッフが入って来る。

    「加奈子さん、来てたんですか」

    顔をのぞかせたのは、美菜だった。

    表参道店の店長であり、
    5店舗のなかでも指名数は一番多い。
    加奈子が1号店を開いて間もない頃から
    店を支えてきた、
    美容に対して誰よりも熱心なスタッフだった。

    「来てたの。
    美菜こそ、まだ帰ってなかったんだ」
    「レジ締めと、明日の確認をしてました」

    美菜はバックヤードに入ると、
    加奈子の前にあるパソコンの画面をちらりと見た。

    「また報告、全部読んでるんですか」
    「全部じゃないよ。気になるところだけ」
    「それでも、こんな時間まで」

    美菜は少しだけ眉を下げた。

    「あんまり遅くまで頑張りすぎないでくださいね」

    加奈子は思わず笑った。

    「そっちこそ。
    今日もこのあと新人の子の研修でしょ」
    「はい。でも30分だけです」
    「それでもだよ。あんまり無理しないでね」
    「それ、加奈子さんが言います?」

    美菜は呆れたように肩をすくめた。

    確かに、加奈子はよく働いている。

    集客のためにと始めたSNSでは
    フォロワーが10万人を超え、
    若手女性経営者としても注目されている。

    最近ではサロン経営だけでなく、
    エイジングが気になりはじめる
    30代以上向けにスキンケアブランドも立ち上げた。

    サロン経営や、技術に関する講演依頼も多く、
    全国各地に出張することもある。

    だからこそ、
    加奈子にとって「ひとりになる時間」は
    何よりも大切なものだった。

    「大丈夫、明日明後日は休むから」
    「お誕生日ステイですよね。
    パソコン持って行っちゃダメですよ」
    「え、考える」
    「ダメです。今没収しましょうか?」
    「きゃーやめてやめて、
    今日はもう終わりにするからー!」

    笑いながらパソコンを抱え、
    加奈子は子どもみたいに首を振った。
    ふたりで笑って、お互い仕事に戻る。

    美菜が研修に行ったタイミングで
    加奈子は仕事を終わりにして店を出た。

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    「はあ~美味しい!
    仕事終わりのビールサイコー!」

    青山の隠れ家バー、
    マルメロ401で加奈子はカウンターの端に腰を下ろしていた。

    「今日もお疲れさま。
    いつも遅くまで頑張ってるよね」

    店主の裕子が
    コトッと小鉢を置きながら言った。
    今日は青菜のおひたしだ。
    料理上手の裕子が作るおばんざいが
    加奈子は好きだった。

    「サロンが22時閉店だから、
    終わったあと報告書読んでると
    どうしてもこの時間になっちゃうんですよね」

    深夜の店内には、低い音量のジャズと、
    グラスが触れ合うかすかな音だけが流れている。

    今日はいつもの深夜メンバーが来ていた。
    遅い時間は近所のシェフや、
    遅くまで会食している経営者が多い。

    「えらいよね。毎日ちゃんと見てるんでしょ?」
    「そうですね。ほぼ毎日かな。
    でも最近は毎日確認しなくてもいいかなって思い始めてて、
    少し働き方を変えるつもりでいます」

    言いながら、おばんざいをひとくち。
    優しいおいしさが口いっぱいに広がった。

    「裕子さん~!これ美味しい!
    今日おばんざい3種盛りありますか?」
    「あるよ~。お野菜系になっちゃうけど」
    「食べたいです。お腹すいちゃった」

    今日はランチミーティングで食べたきり、
    そういえばお夕飯を食べるのを忘れていた。
    ひとくち食べたら空腹を思い出したかのように
    身体が食事を求めている。

    「加奈ちゃんはサロン経営してるんだっけ?」

    カウンターの角をはさんで
    隣に座っていた前澤が言った。

    ラーメン屋を50店舗も経営している
    敏腕経営者だが、
    酔うと、白髪の混じった髪を
    くしゃくしゃにかき回しながら飲む。
    その飾らない姿に、
    加奈子は親しみを感じていた。

    「はい。今5店舗やってて」
    「全部直営?」
    「はい、そうです」
    「若いのに、よくやってるなあ」

    前澤は心から感心したように言った。

    「でもさ、夜に報告書を読むのは、今日でやめな」
    「え」
    「夜は判断を鈍らせる。
    疲れてるときほど、
    悪い数字ばかり大きく見えるから」

    加奈子は少しだけ黙った。
    思い当たることが、なかったわけではない。

    「やっぱり、朝型ですかね」
    「そうだね。朝の頭がいちばん動く時間に、
    重要なことだけ見る。
    夜は、緊急の連絡だけ受け取ればいい」
    「でも、店長たちも遅くまで
    頑張ってるって思うとなかなか帰れなくて…」
    「だからこそ、社長が先に終わらせるんだよ」

    前澤は、おひたしをつまみながら続けた。

    「社長が深夜まで働いてる会社は、
    みんなも帰れなくなる。
    加奈ちゃんが休むことは、
    店長たちに休んでいいって教えることでもある」

    それは、加奈子がスタッフに
    いつも言っていることだった。

    無理しないで。
    ひとりで抱え込まないで。

    けれど自分には、
    一度も守らせてこなかった言葉だった。

    前澤さんの言葉を反芻しながら
    ビールをぐいっと飲む。

    そのとき、
    来客を知らせるチャイムが鳴った。

    カウンター越しに裕子が顔を上げる。
    開錠してしばらくすると、
    茶色いウェーブヘアの女性が現れた。

    「わー、舞ちゃん!おつかれ~」
    「加奈ちゃん、おつかれ~!会えて嬉しい」
    「私も!舞ちゃん、こっち座って~!」

    そう言って自分の隣の椅子に促す。
    舞が座ると、裕子がおつまみを置いた。

    「舞ちゃんいらっしゃい。何にする?」
    「んー、白ワインって今日何か開いてますか?」
    「開いてるよ~。
    シャルドネもリースリングもあるよ」
    「じゃあ、シャルドネにします」
    「はーい」

    裕子は冷えた白ワインをグラスに注ぎ、
    舞の前へそっと置いた。
    淡い金色の液体が
    カウンターの灯りを受けてやわらかく光る。

    「舞ちゃんお疲れ~!乾杯!」
    「乾杯~!ほんと疲れた~」

    グラスが、軽い音を立てて触れ合う。
    舞はひと口飲むと、ふうっと長く息を吐いた。

    「はあ~、美味しい」
    「こんな遅いの珍しいね」
    「うん、今日納品日で。
    やっとさっき納品して家飛び出してきたの」

    舞はフリーランスで
    デザインの仕事をしている。
    雑誌や本まわりの紙ものをつくることが多いそうだ。

    「そっか、それはほんとにお疲れさまだね」
    「ありがとう~。明日は泥のように眠るわ」
    「私も明日はゆっくり起きる!
    明日明後日休みなんだ」
    「あ、そういえばSNSにホテルステイって書いてたね」

    裕子のおばんざいをつまんでいた加奈子は手を止める。

    「そうなの。明後日誕生日だからね」
    「36だよね。おめでとう」
    「ありがと。舞ちゃんいつだっけ?」
    「私は11月だよ。確か芽衣ちゃんもだった気がする」

    この店で知り合った加奈子、芽衣子、舞は
    偶然同級生だったのをきっかけに意気投合し、
    LINEグループまで作っている。

    それぞれ働き方は違えど、
    同い年という共通点で
    ときどき3人で約束をして飲んだりもしていた。

    「じゃあ11月はふたりのお祝いしよ!」
    「ありがとー!
    加奈ちゃん明後日は夜までずっと予定あり?」
    「ん-ん、チェックアウトが18時だから、
    そのあとは予定ないよ」
    「え、チャックアウト遅いね」
    「そうなの。なんかお部屋の特別プランで、
    チェックインも朝6時からできるし、
    チェックアウトは22時まで選べるんだよね」

    実は、ペニンシュラ東京の
    スイートルームを予約していた。
    正直高かったけれど、
    1年間頑張ってきた自分へのご褒美だ。

    「じゃあ、チェックアウトしたら飲もうよ。
    芽衣ちゃんも誘って」
    「えー、嬉しい!芽衣ちゃん空いてるかな」

    舞はさっそく芽衣子にLINEをしているようだ。
    加奈子は飲み終わったビールを裕子に渡す。

    「ボトルお願いします」
    「オッケー。ソーダ?」
    「いや、裕子ちゃん、いいよ。
    明後日来れないから今日は俺がおごる」

    前澤がウイスキーを飲みながら言った。
    キープしている響を飲んでいるようだ。

    「え、その響飲んでいいんですか!」
    「もちろん。シャンパンでもいいし」
    「きゃー!前澤さん大好き!」
    「こらこら、調子乗らないの」

    加奈子がふざけて言うと、
    裕子が笑顔でたしなめた。

    「いやいやほんとに。
    裕子ちゃん、シャンパンある?」
    「本当にいいんですか?」
    「いいよ。みんなで飲もう」

    裕子がワインセラーから一本取り出し、
    慣れた手つきで栓を抜く。
    乾いた音が静かな店内に小さく響いた。

    「じゃあ、加奈ちゃんのお誕生日の前祝いに乾杯」

    前澤が言うのに、舞が続いた。

    「そして明日からのペニンシュラステイが
    最高の2日間になることに乾杯~!」
    「ありがとう~!」

    細いグラスが重なり、
    澄んだ音を立てた。

    泡の弾けるシャンパンは冷たくて、
    少しだけ甘かった。

    「わあ~! 広い!」

    部屋に入ると、
    大きな2面の窓が目に飛び込んできた。
    窓の向こうには、
    皇居の深い緑がどこまでも広がっている。

    木々のあいだから堀の水面がのぞき、
    その向こうには、
    霞んだ空に溶けるように
    東京のビル群が並んでいた。

    都心の真ん中にいるはずなのに、
    ここだけ時間の流れが少し違うようだった。

    柔らかなベージュのソファには
    夕焼けのような橙色のクッションが
    いくつも置かれている。
    足元の絨毯には、枝いっぱいに咲いた花の模様。
    じっくり見ると、桜のようだった。

    肩にかけていたバッグをおろし、
    チャックを開ける。

    ぴょんっと、黒い犬が飛び出してきた。

    加奈子の愛犬、ベティだ。
    ベティは、艶のある黒い毛並みをした
    アメリカン・コッカー・スパニエルだった。
    大きく丸い瞳と、短めに整えられた口元。
    風が吹くたび、ゆるく波打つ長い耳が揺れる。

    ベティは知らない部屋に入ると、
    まず慎重に床の匂いを確かめた。
    黒いしっぽを揺らしながら
    ソファのまわりを一周すると、
    やがて加奈子の足元に戻ってくる。

    「すごいねえ。
    今日と明日はずっと一緒にいようね」

    そう言って耳のところをなでてやると、
    ベティは嬉しそうに頭を傾けて
    手に顔を押し付けてきた。

    ペニンシュラ東京。
    東京の一等地にあるこのホテルは、
    皇居と日比谷公園の向かいに建っている。

    香港で長い歴史を持つ
    ホテルブランドらしい華やかさのなかに、
    日本の職人技や美意識が静かに溶け込んでいる。

    目の前には江戸城の面影を残す皇居の森があり、
    その向こうには新しい東京のビル群が続く。
    昔からの東京と、今の東京。
    その境目に立つようなホテルだった。

    ずっと憧れていた、
    5つ星のラグジュアリーホテル。

    この、全面が窓になっているリビングで
    皇居の景色を思う存分堪能してみたかった。

    スイートルーム限定で
    ペットフレンドリープランがあったので、
    今回は愛犬のベティと滞在することにしたのだ。

    ソファの前にはベティ用の
    アメニティが用意されていた。
    ぬいぐるみのおもちゃに、
    比内地鶏のおやつ。
    ペニンシュラオリジナルの帽子まであった。

    「ベストフレンドメニュー」として、
    ペットメニューもあったので
    お夕飯にオーダーしてあげようと思う。

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    スーツケースを開けて
    洋服をクローゼットにかけ、
    下着類は引き出しにしまう。

    ホテルに到着したら
    スーツケースの中身を全部出して、
    それぞれしまうのが加奈子のルーティンだった。

    ベティもくんくんと部屋を探索し、
    リビングに置かれた大きなベッドを見つけると
    くつろぎはじめた。

    そうしていると、部屋のチャイムが鳴る。

    加奈子があけると、
    ワゴンを押したスタッフが入ってきた。

    「橘さま。
    アフタヌーンティーのご用意をさせていただきます。
    ソファーとテーブルどちらになさいますか?」
    「ありがとうございます。
    じゃあ、テーブルでお願いします」
    「かしこまりました」

    お昼ごはんがわりに
    お部屋でアフタヌーンティーをしようと思って
    あらかじめオーダーしていた。

    茶色い大きなテーブルに、
    アフタヌーンティーのスタンドが置かれる。
    ゴールドのスタンドは
    午後の光を従えた小さな王座のようだった。

    最上段には宝石みたいなスイーツが並び、
    中段には彩りのいいセイボリー、
    最下段には香ばしいスコーン。

    食べる前から、
    もう特別な時間が始まっている気がした。

    ノートとペンを持って席に着くと、
    「橘加奈子様」と書かれたメモが目に入った。
    手に取ると、それはホテルからの手紙だった。

    「わあっ、嬉しい~」

    中には誕生日のお祝いが書いてあった。
    特に誕生日ステイとは言っていなかったけれど、
    登録している顧客情報から用意してくれたのだろう。

    その一枚だけで、
    この滞在が大切に扱われていることがわかった。

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    下段から食べるのが
    アフタヌーンティーのマナーだと知りながら、
    加奈子は最上段のスイーツに手を伸ばした。

    つややかなケーキをひとくち口に入れると、
    やわらかな甘みが舌の上でほどけていく。

    (ん~! 甘い! 美味しい~♡)

    スタッフが入れてくれた紅茶を飲むと、
    そのすっきりした香りが甘さを引き立てて、
    思わず頬がゆるんだ。

    (これ、永遠に食べられるかも……)

    窓の外では午後の光を受けた皇居の緑が
    ゆっくりと風に揺れている。

    加奈子はもう一度、
    金色のスタンドを見た。

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    仕事の合間に急いで飲むコーヒーでもなく、
    打ち合わせをしながら食べるランチでもない。

    目の前の甘いものを、
    ただ美味しいと思いながら味わう。

    なんて贅沢な時間だろうか。

    テーブルの脇に置いたノートを開き、
    ペンを手に取る。

    仕事のこと、プライベートのこと、
    これからの未来を考える時間にしようと思っていた。

    明日で、36歳になる。
    あっと言う間に会社も10期目となり、
    まだまだ若いと言われても
    早くに起業したこともあり、
    経営者としては中堅になってきていた。

    スタッフも増え、規模も大きくなり、
    決めることが次々と現れる。

    サロンももっと広げていきたい。
    大きくしたいというより、広げていきたい。

    加奈子が増やしたいのは、
    店舗の数ではないからだ。

    鏡を見るたび、
    自分の肌や身体にため息をついてしまう女性。
    忙しさを理由に、
    自分のことを後回しにしてしまう女性。
    誰かのためには頑張れるのに、
    自分を大切にする方法だけはわからない女性。

    そんな人たちが、
    確かな技術に身を預け、
    少しだけ肩の力を抜く。

    施術を終えて鏡の前に座ったとき、
    「私、まだ変われるかもしれない」と思える。

    加奈子がつくりたいのは、
    ただ体を癒す場所ではない。

    自分を諦めかけた女性が、
    もう一度、自分を好きになるための場所だった。

    そのためには、
    店舗を増やすことも、
    技術を受け継ぐ人を育てることも必要になる。

    加奈子ひとりの手で救える人には、限りがある。

    けれど、
    自分と同じ想いでお客様に
    向き合えるスタッフが増えれば、
    その先にいる女性たちまで、
    少しずつ笑顔にできる。

    だから加奈子は、広げたいと思うのだった。

    最近立ち上げたスキンケアブランドも、
    同じ思いからだった。

    サロンへ来る時間がない女性にも、
    自分を後回しにしないための
    習慣を届けたかった。

    忙しい朝にも、
    疲れ果てて帰った夜にも、
    無理なく手が伸びるもの。

    けれど、ただ手軽なだけでは意味がない。

    肌が変わっていく実感も、
    使うたびに自分を丁寧に扱えているという満足感も、
    どちらも諦めたくなかった。

    年齢を重ねるほど、
    女性は自分のことを後回しにしがちだ。

    仕事があるから。
    家族がいるから。
    時間がないから。

    そう言って、
    自分の肌に触れる時間さえ、
    つい省略してしまう。

    だから加奈子は、
    スキンケアを
    「きれいになるためだけのもの」
    にはしたくなかった。

    忙しい毎日のなかでも、
    自分を大切にすることを
    思い出させてくれるもの。

    鏡を見るたびに、
    「今日の私も悪くない」
    と思える小さなきっかけ。

    サロンを広げることも、
    ブランドを育てることも、
    そのためだった。

    自信のある技術に癒やされ、
    自分をもう一度好きになれる女性を、
    もっと増やしていきたい。

    ノートに向き合って
    未来を構築するたび、加奈子は思う。

    (ああ、時間が足りない)

    やりいたいことはたくさんある。

    仕事を広げていきたい想いもあるし、
    旅行で知らない世界を経験するのも好きだ。

    仕事も、プライベートも、
    どちらも楽しんでいきたい。

    つくづく、自分は欲張りだなと
    ノートを書きながら加奈子は思う。

    スコーンを手に取って、
    クロテッドクリームをたっぷり塗った。

    口に入れると、
    温かい生地とひんやりした
    クロテッドクリームが重なって、
    やさしい甘みがふわりと広がった。

    ふう、と一息つく。

    窓の外を眺めながら、
    昨夜の前澤の言葉が頭の中に流れてきた。

    『社長が深夜まで働いてる会社は、
    みんなも帰れなくなる。
    加奈ちゃんが休むことは、
    店長たちに休んでいいって教えることでもある』

    (いろいろ自分でやりすぎな自覚はある)

    ノートに、
    自分が得意なことを書き出してみた。

    能力が発揮され、
    やればやるほど会社が伸びていきそうなこと。

    逆に、苦手なことも書き出していく。
    どうしても時間がかかってしまって、
    でも、自分がやらなきゃと思っていたもの。

    この10年で、
    組織は大きくなった。

    これまでは加奈子が中心になって
    引っ張ってきたけれど、
    もっとブランディングや
    商品開発に集中したいと感じていた。

    そのためには手放すことも必要だし、
    新たなメンバーも必要だ。

    未来のことを書き出していたノートは、
    いつしか事業計画へと発展していく。

    ときどきアフタヌーンティーに
    手を伸ばしながら
    ノートを書いていた加奈子は、
    ベティがぶるぶると身を震わせる気配に
    ふと顔を上げた。

    昼寝から目覚めた様子のベティが
    気持ちよさそうに伸びをしていた。

    加奈子もノートを書くのをやめ、
    思い切り伸びをする。

    「よし、ベティ行くか!」

    小さなショルダーバッグに
    必要最低限のものだけ入れ、
    キャリーバッグを広げると
    ベティは嬉しそうにバッグに入った。

    ロビーの中央には
    金色の光をまとったシャンデリアが
    まるで空から降り注ぐ花火のように広がっていた。

    赤と橙のあたたかな色彩、
    端正な木格子、
    凛と立つ竹のアート。

    どれも主張があるのに、
    不思議と空間は乱れない。
    長く愛されるホテルだけが持つ
    自信のようなものがそこにあった。

    エントランスをでると、
    白い制服に身を包んだページの女性が
    笑顔で近づいてくる。

    「何かお手伝いできることはございますか?」
    「橘です。16時からMINIクーパー予約してて」
    「かしこまりました。こちらへどうぞ」

    案内されるままについていくと、
    深い緑色の車が見えてきた。

    ボディにはさりげなく
    ザ・ペニンシュラ東京のロゴが施されている。

    「16時からの橘さまです」
    「橘さま、お待ちしておりました」

    ドライバーの男性がドアを開けてくれる。
    車内にはやわらかなベージュのシートが広がっていた。

    スイートルームの特典で
    MINIクーパーでドライブできるとのことだったので、
    ベティとでかけることにしていた。

    ドライバーおすすめの
    コースをめぐるサービスもあるようだが、
    今回は豊洲のドッグランまで行ってもらう。

    「豊洲まで、道路状況にもよりますが20分ほどでございます」

    言いながら、おしぼりを差し出してくれた。
    手厚いサービスに驚きながら受け取ると、
    ドアが締められる。
    ドアポケットにはペットボトルのお水もあった。

    心地の良い座面に身をあずけ、
    隣にいるベティをなでる。

    「楽しみだね、ベティ」

    ベティと出会ったのは、
    サロンを立ち上げて1年ほど経ったころだった。

    そのころの加奈子は昼夜問わず働き、
    睡眠時間は毎日4時間。
    疲れていたけれど
    スタッフ育成に経営にと
    帰宅しても眠れない日が続いていた。

    ある日、
    スタッフへのプレゼントを探すために入った
    表参道の商業ビル。
    その一角にあるペットショップで、
    加奈子とベティは出会った。

    黒い子犬がガラスに額を寄せて眠っていた。
    たくさんいる子犬の中で、
    妙にその子が気になって目が離せなかった。

    けれど、毎日忙しくしていた加奈子は
    今飼っても寂しい思いをさせるだけだと思い、
    後ろ髪ひかれながら立ち去った。

    それでも、
    どうしてもその子のことが気になってしまう。

    特に犬を飼いたいなどと思ってはいなかったのに
    どうしてだろうと思いながら、
    数日後、再度立ち寄った。

    黒くつやつやした毛並み。
    くりっとした飴玉のような瞳。
    ふわりと垂れた長い耳までが、
    たまらなく愛しい。

    それから数日間、
    犬の飼い方について調べ、
    必要なものを用意し、
    ベティを迎え入れることにした。

    「ベティ」

    何度か呼ぶと、子犬は首をかしげて、
    丸い目で加奈子を見つめた。
    それだけで、名前は決まった。

    後になって、
    ベティはエリザベスの愛称で、
    その名前には「誓い」につながる由来があると知った。

    あの日、
    加奈子がこの子を迎えると決めたとき、
    自分にした約束そのものだったのかもしれない。

    どれだけ忙しくても、ちゃんと帰る。
    この子をひとりぼっちにしない。

    それから加奈子は
    スタッフだった美菜を店長にし、
    現場に立つのではなく経営に専念するようになった。

    睡眠時間も取れるようになり、
    タクシー移動ばかりで運動不足だった体も
    ベティと散歩するようになって解消された。

    いつしかベティは、
    加奈子の人生に「帰る場所」を
    つくってくれた存在となった。

    アメリカンコッカ―スパニエルは
    運動量の多い犬種だ。

    だから加奈子は、
    休みの日にはベティを連れて
    ドッグランに行くようにしていた。

    豊洲のドッグランは青々とした芝生がきれいで、
    ベティと思う存分ボール遊びをした。

    日ごろは朝晩の散歩しかできていないので、
    ベティは思いっきり走れて楽しめたようだ。

    帰りの車ではバッグの中でうとうとと眠り、
    部屋に戻ると自らベッドに向かって
    本格的に寝る体制になった。

    「待って、ベティ、寝るならケージで寝て」

    19時からはディナーの予約をしてある。
    ペットを部屋に残す場合は
    ケージに入れるようにと説明されていたので、
    申し訳ないけれど一度起こしてケージにベッドを入れた。

    「ねんねして待っててね。すぐ帰ってくるから」

    ベティは特に気にする様子もなく、
    丸まって寝始めた。
    加奈子は軽くメイクを直し、
    そっと部屋を出る。

    ディナーは最上階のPeterで予約していた。
    窓際の席に案内されると、
    眼下には夜の東京が広がっていた。
    皇居の森はもう暗闇に溶け、
    その向こうでビルの灯りだけが静かに瞬いている。

    本当はゆっくりコースを楽しむのもいいと思った。
    けれど、部屋で待つベティのことが気になって、
    今回はアラカルトにした。

    まずは、みずみずしいサラダを。
    続いて、前菜の盛り合わせを頼んだ。

    せっかくなので、
    ワインはスタッフに相談して選んでもらった。
    前菜にはすっきりとした白を、
    メインの肉料理にはやわらかな渋みのある赤を。

    「んー、おいしい」

    ひとくち食べて、ひとくち飲む。
    コースほど時間をかけなくても、
    今の加奈子には十分すぎるほど満たされる食事だった。

    誰にも急かされない時間が、
    ゆっくりと身体にしみていく。

    ひとりで食べるには少し贅沢な食事だった。
    それでも、
    部屋で待つベティのことを思うと、
    今夜は長居をするより、
    満たされた気持ちのまま帰りたかった。

    「噓でしょ……!」

    部屋に戻ると、
    加奈子は思わず声を上げた。

    ターンダウンされた部屋のテーブルに、
    小さなケーキとシャンパンが置かれていたのだ。

    鮮やかな黄色の皿の上には、
    手のひらに乗るほどの四角いケーキ。
    その上には細いキャンドルが一本だけ立てられ、
    白いチョコレートのプレートには、
    金色の文字で「Happy Birthday!」と書かれている。

    隣には、
    シャンパンが氷の入った
    ボトルクーラーの中で静かに冷えていた。

    「今日だけで、何回お祝いしてもらうの……」

    チェックインの際の手紙だけでも、
    十分すぎるほど嬉しかった。

    それなのに、
    ディナーから戻る頃を見計らったように、
    またこんなふうに気持ちを届けてくれる。

    人を喜ばせる仕事をしている加奈子だからこそ、
    そのすごさがよくわかった。
    相手が求めるより、ほんの少し先まで読む。
    けれど決して、
    相手の時間や気持ちを奪いすぎない。

    加奈子は小さく息を吐いた。
    これはもう、脱帽するしかなかった。

    画像

    「よし、先にお風呂に入ろう」

    せっかくなので
    シャンパンをゆっくり頂きながら
    35歳の最終日を締めくくろうと思った。

    アメニティのボディソープを入れて、
    泡風呂にしてしまおう。

    湯船につかりながらも、
    どうしても仕事のことを考えてしまう。

    (サロンでもバースデーサービス入れるのいいなあ)

    お花と小さなスイーツだけでも
    嬉しいのではないだろうか。

    施術が終わり、ふうっと一息ついたとき、
    バースデープレゼントとして渡す。

    お客様の喜ぶ顔が目に浮かんだ。

    (ホテルステイから学ぶことって多いんだよなあ……)

    加奈子がなるべく
    ハイクラスのホテルに泊まるようにしているのには、
    こういった理由もあった。

    一流のサービスを提供するには、
    一流のサービスを受けなければならない。

    店長クラスのスタッフにも
    これを経験させてあげたくなった。

    ただ泊まるだけではなく、
    誰かに大切に扱われることを
    ちゃんと知ってほしい。

    加奈子は浴槽の縁に置いた
    スマートフォンを手に取り、
    忘れないうちにメモをひとつ残した。

    〈バースデーサービス案/店長ステイ企画〉

    それからスマートフォンを伏せ、
    ゆっくりと肩まで湯に沈めた。

    今夜はもう、これ以上考えない。

    窓の外には、
    静かな東京の灯りが広がっていた。
    明日、36歳になる。


    今回泊まったホテル

    ※掲載されている内容は取材時のものです。
    取材日:2022年5月20日

     
     
    明日、旅に出たくなる物語を。 温泉宿、ホテル、街の小さな宿。 実際に取材した場所を舞台に、都内で働く女性たちが旅先で少し立ち止まり、自分を取り戻していく連作小説を書いていきます。 旅の小話、物語に入りきらなかったレポはインスタグラムからスレッズへ。

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