
世界でいちばん愛おしい、300メートルの余白。
夕闇が街を包み始める午後六時半、昼間の熱を綺麗に流し去った心地よい夜風が、私たちの火照った肌を優しく撫でていく。
買い物袋を片手に下げ、もうすぐ母になる妻の、少し頼りなげで、それでいて偉大な足取りにゆっくりと歩幅を合わせる。
家までのわずか三百メートルという短い距離が、今はまるで、二人のこれまでの軌跡とこれからの未来を繋ぐ、世界で一番愛おしい時間のように感じられてならない。
普段なら、ものの数分で通り過ぎてしまうはずの、見慣れたいつもの帰り道。
けれど、大きくなったお腹をかばうようにゆっくりと歩く彼女の隣にいると、世界の流れがそこだけ心地よく速度を落としたかのような錯覚に陥る。
「今日のご飯、何にしようか」
そんな何気ない会話を交わしながら、一歩一歩を確かめるように進んでいく。
街灯の光に照らされた彼女の横顔を見つめながら、私は、この何でもない三百メートルの中にこそ、人生で最も守るべき確かな幸福が詰まっているのだと確信していた。
これから訪れる新しい生活への期待と、少しの緊張感を抱えながら、私たちは今日も、愛おしい静寂の中を歩いている。